2012年5月25日 (金)

困難な時代

世界は混沌と異常気象に何故悩まされるのだろうか?

色々な説明がなされていますが、聖書をもとに考えるとどうなるでしょうか?

<あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」>(聖書・創世記12:3)
ここに出てくる<あなた>は、アブラム(後のアブラハム)のことです。アブラハムは、イスラエルの祖先です。<わたし>は、聖書の神、即ち、万物を創造し、すべてのものを保持しておられるお方です。人間もこの神によって造られました。

イスラエルは、アブラハムの中にありました。

現代において、多くの国々がイスラエルに敵対しています。
これは、聖書を読んでみると大いに問題です。
そのような態度は、神を敵としてしまうのですから。

<宣告。イスラエルについての【主】のことば。──天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、【主】の御告げ──見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。>(聖書・ゼカリヤ12:1-3)
この箇所の出来事は、キリストの地上再臨の直前だろうと思います。

しかし、<すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける>という箇所で言われている本質は、現在進行形であるように思われます。

神は、カナンの地(現在イスラエルがあるところよりも少し広い地域)をイスラエルに与えると約束されました。

<見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、【主】は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」>(聖書・エレミヤ30:3)

<わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」>(聖書・エレミヤ29:14)

<わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。>(聖書・エゼキエル36:24)

<彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。>(聖書・エゼキエル37:21)

これらは、地球の所有者である主なる神のことばです。(聖書・使徒17:24-26)

主なる神の主権を認めない国々は、詩編83編4節のように叫んでいるのです。

<「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」>と。

多くの国々が神の主権を認めず、強欲をヒューマニズムで隠したり、進化論を振り回して神を追い出し、聖書に価値を置かず、聖書の教えから離れて自分が良いと思う生き方を採用しています。聖書の士師記の最後に<そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。>(11:25)とありますが、現代も<めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。>といえるありようで突き進んでいます。

このような状態では、神の祝福を遠ざけてしまいます。

ここ数年、魚や鳥などの大量死が報告されています。

<イスラエル人よ。【主】のことばを聞け。【主】はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。>(聖書・ホゼア4:1-3)

自然界の動物が悲惨な目にあっているのは、神様が人間に警告を与えているのかもしれません。<真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている>と書いてありますが、これらを改めなければさらにひどいことになるのでしょう。

現状を打破するためには、まことの神を神として認め、その神の前にひれ伏し、聞き従う必要があるのだと思います。

黙示録を見るとそうはならないことを知ります。

<これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。>(聖書・黙示録9:20.21)
神の経綸の中で、今は恵みの時代です(聖書・2コリント6:2)。主イエス・キリストを信じるだけで救われるのです。やがて、恵みの時代は閉じてしまいます。

イエス・キリストを信じれば救われる、ということが(聖書・ローマ3:21-26)に書かれてあります。

<しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。>

2012年5月20日 (日)

歴史を支配される主

・イスラエル王国の建国:紀元前11世紀頃(イスラエル初代の王:サウル)

・北イスラエル王国滅亡:紀元前721年(アッシリアによって滅ぼされる)

・南イスラエル王国滅亡:紀元前586年(バビロンによって滅ぼされる。バビロンへの捕囚)

・カナンの地への帰国許可:紀元前538

・ローマによるエルサレム陥落・神殿破壊:紀元70

 *このような経過をたどった理由は、神に対する不信仰・不従順です。申命記28章参照

・イスラエル建国:1948514

・第一次中東戦争:1948515日(詩篇83編)以下参考

第一次中東戦争の勃発の内容の一部です。(ウィキペディアによる)
イギリス軍がパレスチナを撤退する1948514日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そしてこの日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国は戦争を宣言した(後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも部隊を派遣)。連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。アラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。
アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍である。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーがチェコスロバキアなどから密輸していた小銃などで応戦していた。518日にヨルダン軍がエルサレムを包囲、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏した。
しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていた。そこへの補給をめぐり、ラトルン要塞などで激戦が行われた。結局要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路を設定しエルサレム新市街への補給に成功する。
・・・・・・・・・・・・・ 。

詩編 83
83:1
神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。
83:2
今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。
83:3
彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。
83:4
彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」
83:5
彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。
83:6
それは、エドムの天幕の者たちとイシュマエル人、モアブとハガル人、
83:7
ゲバルとアモン、それにアマレク、ツロの住民といっしょにペリシテもです。
83:8
アッシリヤもまた、彼らにくみし、彼らはロトの子らの腕となりました。
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エドム人:パレスチナ人、ヨルダン人   イシュマエル人:サウジ人   モアブ人:パレスチナ人、ヨルダン人  ハガル人:エジプト人  ゲバル人:ヒズボラ、レバノン人  アモン人:パレスチナ人、ヨルダン人  アマレク人:シナイ地方のアラブ人  ペリシテ人:ハマス  ツロ:ヒズボラ、レバノン  アッシリア:シリア、北イラク  と、あるサイト(原文は英文です)にあったが、どこにあったかは定かではない。
ただ、急に、詩編83編は第一次中東戦争に似ているなと思ったまでであります。
詩編83編の戦いが再度繰り返されるかもしれませんが、ひょっとすると第一次中東戦争の預言であったのかもしれません。

 

・第二次中東戦争:1956

・第三次中東戦争:1967年 六日戦争ともいわれる。

イスラエルとアラブ連合(エジプト・ヨルダン・シリア)の間で戦われた。

6日でエルサレムを奪還し、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン地区を占領。国際的にはその併合は認められていないが、実質的に東エルサレムをイスラエルが支配下に置いた。

・第四次中東戦争:1973年 ヨム・キプール戦争ともいわれる。

 

・エゼキエルはBC597年のバビロンへの捕囚の時に引いて行かれました。ですから、エゼキエル書は今から約2600年前に書かれた書物です。

 

・神様は、エゼキエルに、その当時のエルサレム滅亡の預言、イスラエル周辺諸国へのさばきの預言、そして、驚くことには、現代イスラエル並びに周辺諸国の預言、これから起こる未来の預言を与えられました。エゼキエルは、少なくとも2600年以上の長きにわたる預言を与えられて記したのです。

 

・(イザヤ469.10)に次のようなみことばがあります。<わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。>

 

・エゼキエル36.37章は、イスラエルの回復が預言されています。これは、現代から近未来の出来事です。

 

・エゼキエル38.39章は、近未来に起こる戦争でイスラエル攻撃してくる国々とその状況並びに神の偉大な戦争介入の預言です。この予言は、ハルマゲドンの戦いよりも前の出来事です。この戦争の時にクリスチャンが、まだ地上にいるのか、すでに天に挙げられているのか、私にはわかりません。戦場はイスラエルであり、イスラエルに攻め込んだ国々の民の上には、豪雨・雹・火・硫黄が降り注ぐのです。<(エゼ 38:22)わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。>

 

・本題:(エゼキエル3681524)(エゼキエル362531

 並行箇所:(ゼカリヤ1210)(ローマ112527

 

(エゼキエル368152431)<だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが【主】であることを知ろう。わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、『おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている』と言っている。それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。──神である主の御告げ──わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない。──神である主の御告げ──」><わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。あなたがたは、自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。>

(ゼカリヤ12:10)<わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。>

(ローマ11:25-27)<兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」>

 

神様は、現代において、旧約聖書にしるされているこれらの預言を成就されつつあります。イスラエルについては、まず、国家が形成され、国土と生活が豊かになり、さらにキリスト者が天に挙げられた後にイスラエル人は、霊的にも刷新されていくのです。

この内容に関する預言は、ここに挙げた他に多数あります。

 

☆神様は、人間には想像できないような力をもって、ご計画を実現されていきます。私たちは、現代のイスラエルの建国以来の状態を見ながら神の偉大さを見ているのです。

そしてこの同じ主が私たち信じる一人一人に同じように働いているのです。

この神が、キリスト者に対して<神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。>(ローマ8:28)といわれるのです。

それにもかかわらず、

私たちは、日常生活において、何故?どうして? ということに遭遇します。

イエス様の導きが、私たちにはよくわからないことがあります。約2000年前、イエス様に従ったお弟子さんたちも同じ思いをもったことがあります。その時、イエス様が言われたおことばです。

(ヨハネ137)<イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」>

イエス答へて言ひ給ふ『わが爲すことを汝いまは知らず、後に悟るべし』>(文語訳)

 

(イザヤ55811)<「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。>

2012年5月17日 (木)

危険な小惑星

危険な小惑星、4700個か=直径100メートル超―NASA

2012年5月17日(木)10時7分配信 時事通信

 地球に衝突する危険性がある直径100メートル超の小惑星は4700個程度ある可能性が高いと、米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所(JPL)が17日までに発表した。米赤外線天文衛星「WISE」による観測に基づく過去最高精度の推定で、このうち2~3割しか実際に発見されていない。
 残り7~8割のうち、地球に深刻な被害を及ぼす恐れのある小惑星を全部見つけるには、今後数十年かかるという。
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<私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。>(黙示録6:12.13)
<第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。>(黙示録8:10.11)
などに預言されている隕石になるようなものがあるのですね。

2012年5月11日 (金)

ダマスカスで爆弾テロ

■シリア首都で爆弾テロ、55人死亡372人負傷
(読売新聞 - 05月10日 21:33)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2012043&media_id=20
とうとうシリアの首都ダマスカスで戦いが始まりましたね。

(イザヤ17:1)に<ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。>
という予言がありますが、はたして、今回のシリアの一向に収まらない状況は、イザヤ書の預言のところまで進むのでしょうか。

2012年5月10日 (木)

引力と地震

引力と地震

説得力がいくらかある記事ですね。下記を参照してみてください。

リンク: <a title="5日6日“スーパームーン”は大地震の前触れか - 速報:@niftyニュース" href="http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-000168694/1.htm">5日6日“スーパームーン”は大地震の前触れか - 速報:@niftyニュース</a>.

ただし、主が許されなければ、起こりません。

起こったら大変

富士山直下に長さ30km活断層か
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2011403&media_id=4
この記事に書かれていることが現実に起きたら大変なことですね。
起こらないようにと願うのみです。
アメリカのイエローストーンもどうなるか分からないようだし。

<イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」>(マタイ8:23-27)

この時の弟子たちと同じように「信仰の薄い者たちだ」と言われそうです。

2012年5月 8日 (火)

神はわれらの助け

<さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>(ヘブル4:14‐16)

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。>(詩編46:1-3)

信仰の成人は、<あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>というみことばは、心に浮かばないかもしれません。なぜなら、キリストの御名の中であらゆることについて祈りつつ歩んでいるからです。「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)というみことばが、その人の習い性になっているからです。しかし、救いの信仰を戴いてからしばらくの間は、<私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>というみことばは、励ましになるものです。

イエス様は神様だから私たちの苦しみはわからない、と考える人もいますが、イエス様は、私たち以上に強い誘惑と苦しみを味わった方であると思います。サタンからの誘惑がありました(マタイ4:1-11)。十字架の上では、全人類の罪をその身に負われました。全人類の罪の呪いを一手に引き受けたのです。また、神の子であるにもかかわらず、多くの人から認めてもらえなかったのみならず、ののしられ、罵倒されました。精神的な苦痛、肉体的な苦痛を数々受けてこられたのです。しかし、罪は犯されませんでした。

そのイエス様が、「私は、あなたの避け所だよ。また力だよ。苦しむときの助けだよ。」と言って下さるのですからありがたいことです。

主イエス様、あなたは、私たちのつらさを十二分に分かった上でその祈りを聞いてくださり、私たち一人一人に最善の助けを与えてくださいますから感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2012年5月 7日 (月)

神は何でも知っている

<神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。>(ヘブル4:12.13)

神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり
私たちは、私たち自身のことで気づいていないことがたくさんあります。しかし、神様はそれらのこともみんな知っているのです。
神様との関係が良い時は、何でも知られているからこそ安心していられる。と思えるのではないでしょうか。神のみこころにかなわないことをしているときは神が教えてくださいます。そうしたらそれを改めれば良いのですから。神様に叱られたら、「ごめんなさい」といって改めるしかありません。その結果は、いつも神様との良い関係です。

天のお父様、あなたは、いつも愛を持って導いていて下さいますからありがとうございます。あなたは、私のすべてをご存知です。あなたの御前にのびのびと生かして頂けますことを感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2012年5月 3日 (木)

魂と霊の違い

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。>(ヘブル4:12.13)

・魂と肉体は主イエス様が語られた次のみことばによって違うことが分かります。<からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。>(マタイ10:28)
また、<たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。>(ヤコブ2:26)のみことばから、普通、人間の間で、「あの人は死にました。」と言われるとき、それは、魂が肉体から離れたことを言っているのだと教えられます。

・霊と魂は、<・・・魂と霊の・・分かれ目さえも刺し通し・・>(ヘブル4:12)や<平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。>(1テサロニケ5:23)などのみことばで分かるように違いがあります。

・魂も霊も一人一人固有のものであると思います。
あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。>(申命記11:18)とあるように、魂は、記憶することができます。
<私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。>(詩編62:1)や<苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。>(詩編77:2)などにある表現に触れるとき、魂は、意思を持っていると思えます。
<それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。>(詩編19:9)や<あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。>(1ペテロ1:8)という聖句より魂には、感情があるのが分かります。
<悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。>(箴言21:10)というみことばで分かるように、悪者にも魂があります。即ち、人間には肉体があると共に魂があるのです。

霊についても聖書は多くのことを教えてくれています。
霊と言っても、神の霊、御使いの霊、悪霊の霊、人の霊など、・・色々な種類があります。
・まず、神は霊です。(ヨハネ4:24)
・御使いは霊です。(ヘブル1:14)
・堕落した御使いである悪の霊は霊です。(1サム16:14)(マタイ12:45)
・人の霊も様々ですし、キリストの贖いによって霊を再生させていただく前と後では霊が違います。

人の霊について
・異邦人の王の霊:<ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。>(2歴代誌36:22)
・義人の霊:<あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。>(ヨブ10:12)
・預言者イザヤに与えられた将来についての預言から:<私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。>(イザヤ26:9)
・人の内には霊があります。<いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。>(1コリント2:11)
・再生された人の霊:<肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。>(ヨハネ3:6.7)、また、再生された人の霊は主の霊と一つにされる。<しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。>(1コリント6:17)

主の霊と一つにされた霊から流れ出るものは、御霊の実に現わされる性質を持っています。<御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。>(ガラテヤ5:22.23)また、ヤコブは異なった書き方をしました。<上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。>(ヤコブ3:17)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。>:神のことばは、魂から出てきているのか、霊から出てきているのか判別することができると書かれています。確かに、神のことばを自分自身に照らし合わせた時、それが真実であることがわかります。

2012年5月 1日 (火)

神のことばは生きていて力がある

神のことばは生きていて、力があり、>(ヘブル4:12)
主イエス様と生きた関係を持っている方は、何かしら、神のみことば(聖書のことば)を直接語りかけて頂いた体験を持っていることと思います。私は、振り返ってみると、あの時に、このみことば、この時に、このみことば、というように語りかけられたことを思い出します。というか、忘れられません。

以前にも、証として書きましたが、とても苦手な人がいまして、その人との関わりの中で赦せない気持ち、さらには怒りさえ覚えて、吉田兼好ではありませんが、物言わぬは腹ふくるるわざなり、を通り越して、周囲に害毒を撒き散らしていたことがありました。そのような状態であったとき、突然、御声をかけられました。<お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。>(エペソ4:32)というみことばから、「私は、あなたを赦してあげたんだよ。あなたも赦しなさい。親切な人になりなさい。」と御声をかけられました。その瞬間に、私は変えられたのです。さんざん私を困惑させてきた人に対する憎しみからの解放でした。

あるとき、非常に困難の中に置かれた時がありました。「どうしよう」「どうも出来ない」・・・時間の経過・・・私の心に強くみことばが来ました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)その後、その心配していたことは、目に見える世界の中で、私は、指一本触れないのに、神様は、想像もしなかった人を動かし何の問題もなかったかのように解決してくださいました。

約30年前のこと、牧師から教会の高校生会のスタッフをやってくれないか、と依頼されました。内心、仕事や様々なことで忙しいので、時間を取られたくないと思っていました。その夜、祈りの会がありました。そこで、事情を説明して祈ってもらいました。祈ってもらっている途中、その祈りの言葉ではなく、ダイレクトに「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)と心に語られたのです。私の思いは、あっという間に逆転して、高校生会のスタッフを引きうけることになりました。そのとき、祈ってもらっていた内容は、覚えていないのです。

思い出して書くと、色々ありますが、終了いたします。

2012年4月30日 (月)

神様に対してへりくだっていて素直な人の幸い

<こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。>(ヘブル4:1-11)

・この聖書の箇所を読んでいて思うことの一つは、いつも神様に対して謙遜で素直な人は幸せだなーということです。

・また、相当前に書かれた聖書のみことばを神様は、現在に用いられるということです。<神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。>とありますが、これは、ダビデを通してとあるように、このヘブル人への手紙が書かれた時から約1000年前に書かれたものです。そして、その御ことばは、現代の私たち一人一人にも語られています。神様は、時間を超越しておられる方なので私たちとは異なった感覚をお持ちなのだと思います。神様は、「私はある(現在形)」というお方ですから。

・ここの箇所に引用されている詩編95編を後半と前半を入れ替えて読んでみたいと思います。<7 きょう、もし御声を聞くなら、8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
・・・・・・・・・・・・・・
1 さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。3 【主】は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、【主】の御前に、ひざまずこう。7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。>

・天のお父様。あなたの御前に謙遜で素直であることはとても素晴らしいことです。どうぞ、万軍の主に対して敵対してしまうことなく、いつも、あなたに対して素直でいさせてください。また、神様が与えてくださっておられるみことばで、私に適用できるものは、そのみことばの書かれた時代が相当古かったとしても、その時代の人に語られただけではなく、現代この世にいる私にも語られたものであることを忘れないようにさせてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

2012年4月29日 (日)

みことばを信じることの重要性

<こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。>(ヘブル4:1-3)

・パウロは、(1コリント15:1-4)で次のようにキリストの十字架と復活を語っています。<兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、>

・みことばを聞いたときに、<信仰によって結びつけられ>ることが必要です。信仰によって結びつけられたとき、キリストの十字架と復活は、自分の為であったのだということがわかります。信仰によって結びつけられたとき、キリストを自分の心に迎え入れます。

・福音を聞いても救われない人がいます。信仰によって聞かずに、歴史上あったことなのか、あるいは作り話なのか、あるいは聖書はそんなことが書いてあるのか、あるいは知的に理解しただけでキリストを心に受け入れることをしないというような人は救われません

・みことばを信仰によって結びつけることは、信仰生活において極めて重要です。神様は、滅びからの救いに関する約束のほかに、驚くほど多くの約束を与えてくださいました。その約束を信じた人は、それを得ますし、信じない人は得ることができません。

・天のお父様、聖書の中にキリストによる救いの福音のほかに多くの約束が書かれています。神様が、私たちを祝福したくて与えてくださっておられる数々の約束のみことばを単純に感謝と喜びを持って信じていくことができますよう私をお整えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

2012年4月28日 (土)

安息には入れなかった原因は不信仰

<ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。>(ヘブル3:7-19)

・この聖書の箇所は、出エジプトした民が神様の多くの奇跡を目の当たりにしたにもかかわらず、心の奥深い所では、神様を信じていなかったことを例に挙げて、ヘブル人キリスト者に警告を発しているところですが、私たちにとっても心を引きしめられる内容です。

・<・・御声を聞くならば・・・心をかたくなにしてはならない。>:私たちが、聖書を読んでいるとき、賛美しているとき、メッセージを聞いたり、読んだりしているとき、その他の場合の時もありますが、主は、私たちの心に語ってくれています。心刺された時ほど、心をかたくなにすることなく、心刺されたことを悔い改め、御父と御子イエス・キリストに対する信仰とを堅持する必要があることを教えられます。

・天のお父様、あなたが私の心に何かを示してくださったとき悔い改めることであれば、すぐに悔い改め、いつでもあなたとの隔たりを作ることなく歩ませて頂けますようお願いします。いつも主に信頼し、不信仰に陥ることのないように、反って信頼しずらいようなときであればあるほど、主に信頼して歩むことができますようお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

2012年4月27日 (金)

私たちは神の家

・キリストは、神の家[教会]を忠実に治められるということです。
・神の家とは、神が住んでくださる建物です。
・神の家であるためには、神のひとり子の御子イエス・キリストを終りまでしっかりと信じていること。というか、信じ続けていることです。
And God said to Moses, "I AM WHO I AM." And He said, "Thus you shall say to the children of Israel, 'I AM has sent me to you.' "【NKJV】(Exo  3:14)で分かるように、AM(現在形)のお方なのです。私たちの信仰も現在形が継続されている状態が健全なのだと思います。

<しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのですもし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。>(ヘブル3:6)

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。>(Ⅰコリ 6:19)
<もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。>(Ⅰコリ 3:17)
<こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。>(エペソ2:19-22)

これらのみことばは、キリストを信じている者たちの総体が神の家であることを証言しているのではないかと思います。勿論、信じている一人一人も神の宮です。

そして、究極は新エルサレムについての次の記述(黙示録21:9-26)です。
<また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。>(黙示録21:9-26)

2012年4月26日 (木)

モーセ以上の存在であるキリスト

1世紀ごろのヘブル人キリスト者にとっては、モーセとキリストとどちらが高い地位にあるのか?などということが問題だったようです。
現代のキリスト者には考えられないことですね。
現代のキリスト者であれば、キリストは、神であり、ひとり子の神が人間の肉体をもって地上に現れてくださった。即ち、キリストは、完全な神であり同時に人ともなられたお方だと信じていることと思います。
一方モーセは、人間であり、神が偉大な預言者として立てられた方です。
キリストは、人間を造られた方です。
それにしても、ヘブル人の中には、モーセとキリストを比較してしまうような人達がいたのですね。そこで、次の聖書の箇所(ヘブル3:1-6)が書かれたのですね。
<そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。>

2012年4月25日 (水)

聖なる兄弟

<そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。>(ヘブル3:1)

解ったような分かっていないようななんとも言えない感じで<聖>をとらえて読み進んでいってしまうことが多いのではないでしょうか。
<聖>の全体を言葉で表しきれるものだろうかと思います。とても私にはできません。そこで、私なりの簡略化した捉え方を記しておこうと思います。

<聖>とは、神[ヤーウエ]に属するもの、神に関係するもの。とおおざっぱにとらえています

ヘブル語の意味から考えると「明るい」「輝く」などの意味があるので、そこから「栄光」「火」などとも関連付けられるとも言われますが。

もう少し細かくも言えますが、そうするときりがなくなり、まとまりがなくなってしまうのです。それは、私が全体を、また、本質をつかみ切れていないからだろうと思います。というか、人間である私にはつかみきれないのではないかと思うのです。何しろ<神に属するもの>ですから。

それはそれとして。<天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち>という表現を見ると身震いするほど感動します。キリストによって贖われたキリスト者たちは、だれでも天の召しに与っている聖なる[神のものとされたor神に属する]兄弟たちなのですが、この自分が、それに該当するということは感動ものです。神[ヤーウエ]が選んで、召して下さって、神のものとされた、というのですから。

私自身の何かによるのではなく、もっとも、私自身の内に、神のものとされる聖に属するものは何もないのですから。

これは、神の一方的な恵みであって、ただ、感謝して、感謝して受けるしかありません。

「ありがとう。天のお父様。」

「イエス様、十字架の贖いを感謝します。」

アーメン

2012年4月24日 (火)

苦しみ、試みを経験された主イエスによる助け

強烈な誘惑を受けた人

さげすまれた人

のけ者にされた人

悲しみを知っている人

病を知っている人

尊ばれなかった人

鞭打ちにされた人

十字架に釘でうちつけられた人

十字架の上で想像を絶する苦しみを味わった人

イザヤ53章を読むだけでもこれだけあります。

ここに書かれている以外にも色々ありました。

それを体験されたのが主イエス様でした。

そのイエス様が私たちの祈りを聞いて下さるのです。

私たちを慰め、励まし、強め、矯正し、導き、Etc.を与えてくださいます。

主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。>(ヘブル2:18)

<彼はさげすまれ人々からのけ者にされ悲しみの人で病を知っていた人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。>(イザヤ53:3-9)

2012年4月22日 (日)

ノアの話から学ぶこと

A.ノアに対する神様の評価

1)(エゼキエル1413.14)・・・義人である。<13 「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、14 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。──神である主の御告げ──>

2)(創世記68.9)・・・全き人である。 <8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。>

3)(ヘブル117)・・・神を恐れかしこみ(敬虔)神の御命令に基づき多くの人たちの嘲笑をしり目に非常に長い年月をかけて箱舟を完成させた人。信仰による義人である。 < 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。>

4)(2ペテロ25)・・・箱舟をつくっている間神の義をのべ伝え続けた。しかし、家族8人以外に信じる者はいなかった。 <また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。>

 

B.ノアの時代、神が地をさばかれた理由

1)(創世記65-711-13)・・・イ)地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていたこと。 ロ)地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていたこと。 

2)(2ペテロ2533-7)・・・不敬虔であったこと。  

*敬虔:神を深く敬い神に仕えること。

#敬虔、不敬虔に対する神の取り扱い

[参照](マラキ3:18-4:2)<3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、[即ち=]神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。4:1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。>**キリスト者に対して神が用意されたものはここに書かれているみことば以上の祝福であり、神の子どもとすることであり、キリストの花嫁とすることでありました。

 

C.ノアの救われた理由

ノアは正しい人[=敬虔な人]であった。(A)を参照。

 

D.キリスト者が救われる理由

・キリスト者は、キリストの義を頂いている。

 キリスト者は、正しさという点において如何でしょうか?自分の行いに頼る人は、救われません。<私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。>(イザヤ64:6)とある通り私たちは、自分では正しい即ち義であると思えるようなことであっても神の目から見ると汚れているのです。私たちのよい行為と思える行為の中に神様の導きがなかったならば、それは無益です。愛のある行為というのもわずかでもみかえりを期待していればそこに肉が働いています。

救われる人の義は、キリストの義です。<あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。>(1コリント1:30)  

*キリストの十字架と復活のみわざ+キリストを信じる信仰

 

E.神の裁きの前に行われたノアの救出とキリスト者の救出

・ノアは箱舟に入ってさばきを免れました。

・終末時のキリスト者は、全世界に及ぶ神のさばきの前に神のご計画に基づく携挙により天に携え挙げられると思われます。

やがて、主イエス様は、花嫁を天のご自身のもとへ引き上げます。次のみことばを見てください。<この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物(人も含む)をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。>(マタイ24:35-39

ノアが救われた後、神のさばきが執行されたのです。

 

<主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。>(1テサロニケ4:16.17
キリスト者は、箱舟を作って箱舟にはいるのではなく、一瞬の内に携え挙げられるのです。一瞬の内に起こるので、世の人は見ることができません。神かくしが起こったか、集団でどこかへ行ってしまったなどと思うかもしれません。しかし、地上に残された人の中にも携挙が起こったのだと解る人たちもいると思います。

 

携挙されるかどうかは、御霊を持っているかいないかということです。(マタイ251-13)の箇所を記します。<1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油[聖霊のたとえ]を用意しておかなかった。4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油[聖霊のたとえ]を入れて持っていた5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。>

キリスト者は、キリストの花嫁です。全世界を覆うさばきの前にキリストは、花嫁[教会]を迎えに来ると思います。それが携挙です。教会は、キリスト者の集合体です。

 

黙示録の第6の封印が開かれたとき、大いなる神のさばきが来たことを多くの人々は感じたようです。(黙示録612-17)には、その時の事を次のように記しています。<12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

 

花嫁は、限りなくキリストに愛されています。花婿は花嫁を限りなく愛しています。ですから、花嫁[教会]を花婿なるキリストのさばきにあわせることはないでしょう。(キリストの為の殉教というのはこのようなこととは意味合いの異なるものです。)

(エペソ522-29)から一部を抜粋しますと<・・・キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた・・・・キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。・・・>

 

これから、より一層困難を極めていくと思われる世の中にあって、私たちキリスト者は、常にキリストとの交わりの中に生き、キリストが迎えに来て下さることを喜びをもって期待しながら、日常生活を過ごしていく必要があるのだと思います。

 

主イエス・キリストを心の内に受け入れている人は、①永遠の命をもっています。②神の子どもとされています。③キリストの花嫁とされています。④キリストとの共同相続人です。

キリスト者に対して、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ434)と花婿なるキリストは言います。

それとともに次の勧めも見落としてはならないと思います。

「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒[キリスト者]はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示録2211

私たちは、敬虔に生きていくことを求められています。

<このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。>(2ペテロ3:11

神を敬い、神を愛し、神に従う人が敬虔な人だと思います。私たちは、<敬虔の為に自分を鍛錬しなさい>(1テモテ4:7)といわれているように、修行中の身であります。

自分をダメにしないためにも(ピリピ3:16)の<それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。>を忘れないように自暴自棄にならないようにしたいものです。

2012年4月21日 (土)

イエス・キリストは罪人を救うために肉体を持たれました

<そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。>(へブル2:14-16)
<そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。>:主は血と肉を持つまでは、神として霊的存在でした。(ヨハネ4:24)に<神は霊です>と書いてある通りです。霊として自由であったにもかかわらず、肉体を持って不自由になって下さいました。

<これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。>:その死によって=まとわれた肉体の死によって。(ローマ8:3)には、<肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。>と書いてあります。

ここまで書いてくると(ピリピ2:6-8)<キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。>を思い浮かべます。また、(エペソ2:1-6)も思い浮かべます。<あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

<主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。>:大分前になりますが、ある人に「やがてはサタンも救われるのでしょう。」と聞かれたことがありました。サタンは救われないのです。サタンはもと大天使でしたが、神に反逆し、かつ、多くの天使を引き連れて悪さをしています。主は、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。アブラハムの子孫には、肉の子孫と信仰による子孫がいます。信仰による子孫とは、私たちキリスト者です。(ガラテヤ3:7)に<ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。>と書いてある通りです。

2012年4月20日 (金)

ありがたいなー

<聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。>(ヘブル2:11-13)

<聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。>:聖とする方=キリスト。聖とされる者達=キリストを信じ受け入れた人達。すべて元は一つです=all have the same Father(TEV)
<主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。>:私たちは主イエス様を信じたので、霊的に新しく生まれさせてくださり、再生された霊に御子の御霊を使わしてくださり、「父よ」「お父さん」と御子と同じように父なる神と親しく交わりを持つことができるようにして下さいました。主イエス様は、私たちを弟、妹として下さったのです。

神様が与えてくださるものは、自分で獲得しようとしても獲得できるものは一つもありません。すべてありがたく頂戴するのみです。∴感謝、感謝、感謝。

<ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。>(ヘブル13:15)

2012年4月18日 (水)

神のなさることはすべて神にふさわしい

<神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。>(ヘブル2:10)

キリストは十字架の上で血を流され死なれました。

これは、父なる神にとってふさわしいものであったというのです。この方法以外には、罪に陥った我々人間を救いだす方法がなかったのです。

キリストは、我々罪人達の為に十字架にかかって血を流し贖罪の死を遂げるということについてゲッセマネの祈りの前は、嬉しくて嬉しくてたまらなかったわけではありませんでした。

それは、ゲッセマネの出来事を見ればわかります。<それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。>(マタイ26:36-45)

しかし、キリストは、この祈りの後変わりました。<信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。>と(ヘブル12:2)にあります。

余談になりますが、聖書翻訳の難しさ、翻訳する人の信仰や信仰体験を考えさせられる箇所がヘブル12:2でもあります。

次に、ヘブル12:2の色々な聖書の翻訳を挙げておきます。

・<信仰の導き手であり完成者であるイエスに目を据えたままで。彼は自らの前に置かれた喜びのゆえに、恥をものともせず、十字架に耐えた。そして神の座の右に着いているのである。>(岩波訳)

<信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。>(新共同訳)

<信仰の手ほどきまた仕上げをなさるイエスを仰ぎ見て走りましょう。彼は、自らの前に置かれたよろこびの代わりに、恥をいとわず十字架を忍び、神のみ座の右におすわりでした。>(前田訳)

<(かの)信仰の創始者また完成者であるイエスを見上げて!彼は自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわず十字架を耐え忍んで、(いまや)神の御座の『右に坐られているのである』。>(塚本訳)

<信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。>(口語訳)

<信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歡喜のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座の右に坐し給へり。>(文語訳)

皆さんは、<ご自分の前に置かれた喜びのゆえに>だと思いますか?それとも、<自分の前にある喜びを捨て、>だと思いますか?

私は、前者の<喜びのゆえに>ではないかと思っています。御父は、辛い思いも喜びに変えることがおできになりますから。また、(エペソ5:25)の<キリストが教会[キリストによって救われた人達の集合体であり、キリストの花嫁である]を愛し、教会のためにご自身をささげられたように>というみことばや他の箇所のみことばにあるようにキリストは、限りない愛を持って教会=花嫁を愛しているのですから。

2012年4月17日 (火)

後の世の統治者はイエス

<神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。>(ヘブル2:5-10)

・後の世[来るべき世]は、イエスが従える[統治する]ことになりました。御使いが統治するのではありません。ということが書いてあるのですね。

当時のヘブル人キリスト者には、このような説明が必要であったのですね。

恐らく異邦人キリスト者は、皆、キリストが統治されることを待ち望んでいるのではないかと思います。主が教えてくださった祈りの中にも「御国が来ますように」という祈りがあります。

今の世の困難さ、理不尽さから解放されて、愛なるイエス様が、義と平和と公平さを持って統治してくださることを期待しています。その時の世界は、様々の事柄において今とは違います。

イザヤは、神様にその時の状態の一部を見せてもらいました。

<見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と【主】は仰せられる。>(イザヤ65:17-25)

このイザヤの幻は、キリスト者に対するものではありません。キリスト者は、キリストの花嫁であり、永遠の命を持っているものであり、子供を産むこともありません。ここの箇所は、これから来る大患難を死なずにくぐり抜け、羊とヤギに分けられるさばき(マタイ25:31-46)を通過し、羊に分類された人達[新しい世界にはいるのにふさわしいと認められた人達]とその子孫のことです。

2012年4月15日 (日)

キリストの福音にしっかりと留まろう

<ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。>(ヘブル2:1-4)
御使いたちを通して語られたみことば[=旧約律法]は、堅く立てられているのですね。旧約律法を守れなければ、処罰の対象になります。守れなければ、罪を犯したことになります。(ローマ6:23)には、<罪から来る報酬は死です。>と書いてあります。そして人間はだれもが死ぬのです。

<こんなにすばらしい救い>:キリストの十字架と復活による救い

キリストは、私たちのすべての罪をその身に負って十字架に着かれ血を流して下さいました。キリストの流された血は、私たちの罪の許しの為、きよめの為でした。(ヘブル9:22)に次のように書いてあります。<それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。>

これが福音です。

これをないがしろにしたら大変ですよ。と書いてあります。

イスラムの神とキリスト教の神は同じ方だというような誤説が、少しずつ幅を利かせていくことでしょう。やがては、世界の宗教は、サタンの手によって統一されていくのです。と黙示録に書いてあります。サタンの手によって統一された宗教は、人を救うことができません。サタンは、人が救われず、自分と一緒に地獄へ落ちていくことを願いかつ行動に移しています。

<ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。>

お互い、キリストの福音にしっかり留まりたいと思います。

2012年4月11日 (水)

ヘブル1章にみる天使

(ヘブル1:6-14)<さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。>

ヘブル1章では、キリストは、旧約の預言者に勝るものであり、また、御使いに勝るものであるという内容になっています。ヘブル人への手紙とあるように、ヘブル人の中には、このようなことがあいまいになっていた人たちが多かったのかもしれません。

<さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」>:長子は主イエス・キリストのことです。天の御父は、御使いたちに主イエス様をお送りになるとき、「神の御使いはみな、彼(キリスト)を拝め。」と命令されたのですね。しかし、神に反逆して罪に落ちた元天使のサタンは、何とイエス様に向かって「もしひれ伏して私を拝むなら・・・」(マタイ4:9)などととんでもないことを言っていますね。そのサタンもやがては、<そして、彼らを惑わした悪魔〔サタン〕は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。>(黙示録20:10)ということになります。

神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」:<風>は、ギリシャ語でプニューマです。プニューマは、風、息、霊などを表現します。御使いは、確かに霊ですね。<御使いはみな、・・・霊であって>(ヘブル1:4)と書いてある通りです。また、御使いは、疾風のように早いですね。また、気持ち良く頬をなでてくれることもあれば、トルネードのような風もありますね。御使いを風にたとえられているのかもしれません。<炎>と言う表現によって何を創造されますか。

御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。>:<救いの相続者>とは、主イエス様を信じて再生(新生)させて頂いた人たち、即ちキリスト者ですね。なんと神様は、御使いをキリスト者を守ったり、助けたりするために使わして下さっておられるのですね。神様をわきに置いて御使いに感謝したくなる人もいるかもしれませんが、感謝は神様にしなければなりません。使徒ヨハネは、黙示録にある啓示を受けた時に、その啓示を示してくれた御使いを拝もうとしました。その時のことは、次のように書いてあります。<これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」>(黙示録22:8.9)と。また、(2列王記6:8-17)も参考になります。

2012年4月10日 (火)

キリストの復活の表現の一つ

「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」

<御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」>(ヘブル1:4-6)

キリストを信じてからしばらくの間は、 「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」という表現を不思議に思いました。

神のみ子は、永遠の昔から神のみ子であるはずだと思ったからです。

「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」と父なる神が言われていますが、これも不思議でした。なんだか、イエス様は、養子みたいだからです。

ヘブル人への手紙のこの箇所は、(詩編2:7)の<「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。>からの引用です。詩編2編をダビデが書いたとすると、ヘブル人への手紙が書かれるまでに約1000年の経過があります。すごいことですね。

そして、この箇所の解説は、(使徒13:33)に次のように書いてあります。<神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。>

このパウロの御霊による解釈によって、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』というみことばは、キリストの復活を言っていることなのだと分かったことです。

神のみ子は、永遠の過去より神です。(永遠の過去という表現は適切ではないと思いますが、人間である私としてはそうなってしまいます。神は、時間空間を超越しておられる方ですから。)

2012年4月 9日 (月)

ロトの救いとソドムとゴモラへのさばき

主キリストが、主の日のさばきを執行する前に、キリストの血によってきよめられた聖徒を天に迎え入れる時の状態が(ルカ17:28.29)に書いてあります。

<イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。>(ルカ17:22-30)

ロトがソドムに住んでいた時代のソドムの状態とロトの苦悩と神様のさばきをペテロは次のように分かりやすく書いています。

<また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。>(2ペテロ2:6-10)

出来事の詳細は、創世記19章をお読みください。

ソドムの人たちの不敬虔、汚れた情欲、不義に神様は、裁きを下しました。

ソドムとゴモラの地は、現在の死海の一部であろうと言われています。

現代においてはどうでしょうか。不敬虔が正常であるかのようであり、汚れた情欲が正当化され、国によっては、法律で守られるような状態になって来ています。さらに、不義は蔓延しています。しかし、このようなことは、1世紀にもあったようです。パウロは(ローマ1:18-32)において次のように書いています。<というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。>

パウロがこのローマ人への手紙1章後半で語っている内容をよく読むと、人間で罪を犯したことのない人はいないということが分かります。そのまとめとして、パウロは(ローマ3:10)で<義人はいない。ひとりもいない。>とのべています。

しかし、自分の内に罪があることを認めた人には、救いも用意されています。それ故、パウロは続けて次のように述べています。(ローマ3:22-24)を見ると、 <イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。>とあります。パウロは、エペソ人への手紙(2:8.9)では、<あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。>という表現をとっています。同じことを言っているのです。

主イエス・キリストを救い主として、主として受け入れることが、来るべき神の裁きから逃れる方法です。ノアのように、ロトのように回避することができます。




2012年4月 7日 (土)

ノアを通して教えられること

<「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。──神である主の御告げ──>(エゼキエル14:13.14)・・・①

<・・・ノアは、【主】の心にかなっていた。・・・ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。>(創世記6:8.9)・・・②

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。>(ヘブル11:7)・・・③

<また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。>(2ペテロ2:5)・・・④

<まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時〔ノアの時代〕の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。>(2ペテロ3:3-7) *〔 〕内は筆者挿入・・・⑤

<5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」・・・11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。>(創世記6:5-7、11-13)・・・⑥

*神が地を裁かれた理由・・・④ ⑤ ⑥を参照

a.不敬虔:敬虔とは、一般的には、神を敬い神に仕えること。キリスト者としては、キリストがご自身を私たちの為にささげてくださったその愛に答えて、私たちも主イエスに愛の故に自分をささげ、キリストを愛し、キリストに従うこと、であると思います。キリストを愛する者は、同時に父なる神を愛しています。キリストを受け入れた者は、その者の内に恵みによって御子キリストの御霊を与えられています。不敬虔とは、神に敵対し、神を神として崇めず、感謝もしない状態ですし、また、神を無視する状態です。
b.地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていること

c.堕落し、暴虐に満ちていること

などが、神様のさばきの理由としてこれらの箇所で取り上げられています。

*ノアは、神様から箱舟を作るように言われました。ノアの家族が救われるためです。

<14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。18 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。>(創世記6:14-18)・・・⑦

・ノアの救いの根拠:ノアは正しい人であった。①②③④

キリスト者は、正しさという点において如何でしょうか?自分の行いに頼る人は、救われません。<私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。>(イザヤ64:6)とある通りです。

救われる人の義は、キリストの義です。<あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。>(1コリント1:30)

やがて、主イエス様は、花嫁を天のご自身のもとへ引き上げます。次のみことばを見てください。

<この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。>(マタイ24:35-39)

ノアが救われた後、神のさばきが執行されたのです。

<主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。>(1テサロニケ4:16.17)
キリスト者は、箱舟を作って箱舟にはいるのではなく、一瞬の内に携え挙げられるのです。一瞬の内に起こるので、世の人は見ることができません。神かくしが起こったか、集団でどこかへ行ったしまったなどと思うかもしれません。しかし、地上に残された人の中でも解る人達には、携挙が起こったのでと分かるのだと思います。

携挙されるかどうかは、御霊を持っているかいないかということです。

<1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油〔聖霊のたとえ〕を用意しておかなかった。4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油〔聖霊〕を入れて持っていた。5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。>(マタイ25:1-13)  *〔 〕内は筆者挿入
<12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」>(黙示録6:12-17)

父なる神と小羊(主イエス・キリスト)の怒りにあうことなく、愛されている花嫁として、主イエスのもとへと、携え挙げられますように。

花嫁は限りなくキリストに愛されています。<22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。>(エペソ5:22-29)

2012年4月 4日 (水)

イスラエルの近未来(戦争に引き込まれる)

多くの聖書研究者が心にとめている戦争があります。

それは、エゼキエル書38,39章に書かれているゴグ・マゴグ戦争です。

このテーマについては、以前も書きましたが、再度書こうと思います。

それは、主の来臨が近付きつつあると感じるからです。

イスラエルは、聖書預言の時刻表(タイムテーブル)です。

紀元70年にイスラエルはローマに鎮圧され、世界に散らされました。それから約1878年後の1948年5月14日にイスラエルは、神の約束の地に再度建国されたのです。ヘブライ語も復活しました。世界の歴史を見るとき、これは信じがたいことです。神が聖書を通して予め預言されていたようにイスラエルは再建されたのですイスラエルの再建理由は、(エゼキエル36:22)によると、<神の聖なる名の為である>ということであります。

エゼキエル38-39章の戦争は、人間的にはイスラエルが勝てるはずがないと思われるのにイスラエルが勝つのです。それは、主なる神が、<神は聖である>ことをこの戦争によって表わされるからです。イスラエルが勝てたのではなく、イスラエルに攻撃してきた国々を神が裁かれたからではないでしょうか。

この戦争においてイスラエルに攻撃を仕掛けてくる国々のリストが(エゼキエル38;2-6)に書いてあります。<人の子(預言者エゼキエル)よ。メシェクトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。ペルシヤクシュプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。>

Bible ProphecyMan.comによると、ゴグとしてあらわされているのはロシアのリーダー、マゴグ・メシェク・トバルは現代ロシアに属する地域、ペルシャはイラン・イラクの北部地域・アフガニスタン、クシュはエチオピア・スーダン、プテはリビア・チュニジア・アルジェリア・モロッコ、ゴメルは東ドイツ、ベテ・トガルマはトルコ・アルメニア、とのことです。

これらの国々(ロシア・イラン・イラクの一部・アフガニスタン・エチオピア・スーダン・リビア・チュニジア・アルジェリア・モロッコ・東ドイツ・トルコ・アルメニア)やさらに多くの国々の民(この中には、詩編83編に登場するような、イスラエル周辺諸国家が含まれるのかもしれません)が一斉にイスラエルを攻撃したならば、イスラエルは、短期間の内に敗北するでしょう。

しかし、聖書の預言は、そうではありません。神様が介入されて、イスラエルに戦争を仕掛けてきた国々が敗北するとともに、それだけにとどまらず、攻撃してきた国々の国土の上に大きな災害が及ぶのです。それが、エゼキエル38-39章に書いてある預言です。それによって、聖なる神が実在することを人々に知らしめます。

旧約聖書をお持ちでない方の為にエゼキエル38.39章を載せておきます。

<さらに、私に次のような【主】のことばがあった。「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。神である主はこう仰せられる。その日には、あなたの心にさまざまな思いが浮かぶ。あなたは悪巧みを設け、こう言おう。『私は城壁のない町々の国に攻め上り、安心して住んでいる平和な国に侵入しよう。彼らはみな、城壁もかんぬきも門もない所に住んでいる。』あなたは物を分捕り、獲物をかすめ奪い、今は人の住むようになった廃墟や、国々から集められ、その国の中心に住み、家畜と財産を持っている民に向かって、あなたの腕力をふるおうとする。シェバやデダンやタルシシュの商人たち、およびそのすべての若い獅子たちは、あなたに聞こう。『あなたは物を分捕るために来たのか。獲物をかすめ奪うために集団を集め、銀や金を運び去り、家畜や財産を取り、大いに略奪をしようとするのか』と。それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。神である主はこう仰せられる。あなたは、わたしが昔、わたしのしもべ、イスラエルの預言者たちを通して語った当の者ではないか。この預言者たちは、わたしがあなたに彼らを攻めさせると、長年にわたり預言していたのだ。ゴグがイスラエルの地を攻めるその日、──神である主の御告げ──わたしは怒りを燃え上がらせる。わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。海の魚も、空の鳥も、野の獣も、地面をはうすべてのものも、地上のすべての人間も、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、がけは落ち、すべての城壁は地に倒れる。わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる。──神である主の御告げ──彼らは剣で同士打ちをするようになる。わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが【主】であることを知ろう。」「人の子よ。ゴグに向かって預言して言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。わたしはあなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に連れて来る。あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする。あなたは野に倒れる。わたしがこれを語るからだ。──神である主の御告げ──わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ。彼らは、わたしが【主】であることを知ろう。わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが【主】であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。今、それは来、それは成就する。──神である主の御告げ──それは、わたしが語った日である。イスラエルの町々の住民は出て来て、武器、すなわち、盾と大盾、弓と矢、手槍と槍を燃やして焼き、七年間、それらで火を燃やす。彼らは野から木を取り、森からたきぎを集める必要はない。彼らは武器で火を燃やすからだ。彼らは略奪された物を略奪し返し、かすめ奪われた物をかすめ奪う。──神である主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルのうちに、ゴグのために墓場を設ける。それは海の東の旅人の谷である。そこは人が通れなくなる。そこにゴグと、そのすべての群集が埋められ、そこはハモン・ゴグの谷と呼ばれる。イスラエルの家は、その国をきよめるために、七か月かかって彼らを埋める。その国のすべての民が埋め、わたしの栄光が現されるとき、彼らは有名になる。──神である主の御告げ──彼らは、常時、国を巡り歩く者たちを選び出す。彼らは地の面に取り残されているもの、旅人たちを埋めて国をきよめる。彼らは七か月の終わりまで捜す。巡り歩く者たちは国中を巡り歩き、人間の骨を見ると、そのそばに標識を立て、埋める者たちがそれをハモン・ゴグの谷に埋めるようにする。そこの町の名はハモナとも言われる。彼らは国をきよめる。神である主はこう仰せられる。人の子よ。あらゆる種類の鳥と、あらゆる野の獣に言え。集まって来い。わたしがおまえたちのために切り殺した者、イスラエルの山々の上にある多くの切り殺された者に、四方から集まって来い。おまえたちはその肉を食べ、その血を飲め。勇士たちの肉を食べ、国の君主たちの血を飲め。雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛、すべてバシャンの肥えたものをそうせよ。わたしがおまえたちのために切り殺したものの脂肪を飽きるほど食べ、その血を酔うほど飲むがよい。おまえたちはわたしの食卓で、馬や、騎手や、勇士や、すべての戦士に食べ飽きる。──神である主の御告げ──わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現すとき、諸国の民はみな、わたしが行うわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、【主】であることを知ろう。諸国の民は、イスラエルの家が、わたしに不信の罪を犯したために咎を得て捕らえ移されたこと、それから、わたしが彼らにわたしの顔を隠し、彼らを敵の手に渡したので、彼らがみな剣に倒れたことを知ろう。わたしは、彼らの汚れとそむきの罪に応じて彼らを罰し、わたしの顔を彼らに隠した。それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。彼らは、自分たちの地に安心して住み、彼らを脅かす者がいなくなるとき、わたしに逆らった自分たちの恥とすべての不信の罪との責めを負おう。わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、彼らは、わたしが彼らの神、【主】であることを知ろう。わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。──神である主の御告げ──」>

2012年4月 2日 (月)

イスラエルの近未来(短期間の平和)

一時期、イスラエルは平和に暮らせる時が来ます。

エゼキエル書38章に次のように書いてあります。

<さらに、私に次のような主のことばがあった。「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグ〔ロシア〕の地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたし〔神〕は、あなたに立ち向かう。わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。ペルシヤ〔イラン〕とクシュ〔エチオピア〕とプテ〔リビア〕も彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。ゴメル〔トルコ〕と、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民〔イスラエル人〕は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。> 〔 〕は筆者挿入故、眉つばで読んでください。

<その民〔イスラエル人〕は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。> :<彼らはみな安心して住んでいる>とあります。

また、ダニエル書9章27節に次のように書いてあります。

<彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼(神殿)に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。>

今は、エルサレムにユダヤ教の神殿は立っていませんが、やがて立つことと思われます。神殿を建てるためには、それなりの条約が必要になることでしょう。それを仲介する世界的リーダーが出てくることと思います。包括的平和条約が結ばれてから約3年半の後、反キリストは、すでに建てられている神殿に立って「自分こそ神である」と宣言します。そこから、ユダヤ人に対して特に、ヤ―ウェーの神を信じている人達に激しい迫害を加えますが、それまでの間は、イスラエルは平和になります。

主イエス様は、このことに関連して次のように言われました。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24:15-21)
(1テサロニケ5:3)の平和もこの時期と関連しているのではないかと思います。< 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。>

(1テサロニケ5:3)で言われている平和の時期があるのだと思われます。

*注意:今回の内容は、信じないでください。私が書いたようにはならないかもしれません。

2012年3月31日 (土)

エゼキエルによる現代イスラエルの預言

(エゼキエル37:1-14)

<1 主の御手が私〔預言者エゼキエル〕の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。11 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。12 それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。13 わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。14 わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。──主の御告げ──」>
・<主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。>:ここに出てくる骨はイスラエルのたとえであると11節で説明されています。<主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。>

父なる神様は、多くの預言者たちを遣わし、最後に救い主として御子イエス様を遣わされましたが、イスラエル人の多くは信じなかったばかりか御子イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。イエス様は、十字架におかかりになる少し前に次のように予言して言われました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」(マタイ23:29-38)

イエス様の預言の如く、イスラエルは、AD70年にローマによって滅ぼされ、世界に散らされたのです。エゼキエルの預言によれば、<干からびた骨>の状態になってしまったのです。しかし、時至って、BC6世紀の預言が成就し、1948年5月14日にイスラエルは、独立を宣言するのです。独立を宣言するやいなや周囲の国々から戦争を仕掛けられ、後に独立戦争(第一次中東戦争)といわれるものに引きこまれたのです。しかし、この戦争で領土は拡大したのです。さらに、第二次、第三次、第四次中東戦争が起こりました。その都度、イスラエル領は増えていったのです。

これらの事柄に関連したエゼキエルの預言は、すでに読みましたように次のように書いてありました。<神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。>と。

現代イスラエルに起こったことは、約2500年以上前に聖書に預言されていたのです。

2012年3月30日 (金)

国土と神の主権

(エゼキエル36:1-11

1 人の子よ[預言者エゼキエルのこと]。イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ。主のことばを聞け。2 神である主はこう仰せられる。敵がおまえたちに向かって、『あはは、昔からの高き所がわれわれの所有となった』と言っている。3 それゆえ、預言して言え。神である主はこう仰せられる。実にそのために、おまえたちは、回りの民に荒らされ、踏みつけられ、ほかの国々の所有にされたので、おまえたちは、民の語りぐさとなり、そしりとなった。4 それゆえ、イスラエルの山々よ、神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、また、回りのほかの国々にかすめ奪われ、あざけられて見捨てられた町々に、こう仰せられる。5 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは燃えるねたみをもって、ほかの国々、エドム全土に告げる。彼らは心の底から喜び、思い切りあざけって、わたしの国を自分たちの所有とし、牧場をかすめ奪ったのだ。6 それゆえ、イスラエルの地について預言し、山や丘、谷川や谷に向かって言え。神である主はこう仰せられる。見よ。おまえたちが諸国の民の侮辱を受けているので、わたしはねたみと憤りとをもって告げる。7 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは誓う。おまえたちを取り囲む諸国の民は、必ず自分たちの恥を負わなければならない。8 だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。9 わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。10 わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。11 わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。>

バビロンへの捕囚となったイスラエルの民とイスラエルの土地に対する預言です。この予言は、BC6世紀ごろに成就した預言ですが、さらに、似たことは、19世紀末から20世紀前半に続々とイスラエルの民がイスラエルの地に戻って来たことです。そして、1948514日にイスラエルは、独立宣言をしたのです。

使徒の働き1726でパウロは聖霊に導かれて次のように言っています。<神は、ひとりの人[アダムのこと]からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。>

人間は、「ここは私の土地だ、私の国土だ」と主張し、戦争までしますが、神様は、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩篇24:1)といわれます。

2012年3月28日 (水)

御子は御使いよりも勝るものである

御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。>(ヘブル1:4)

ヘブル人への手紙は、ヘブル人にあてて書かれた手紙です。ですから、初代教会時代のヘブル人がいかなる問題を抱えていたかが分かります。それとともに、ヘブル人に対しては、異邦人からキリスト者になった人達に対してよりも旧約聖書とのかかわりが多く出てきます。それ故、ヘブル人への手紙は、旧約聖書の読み方について大きな示唆を与えてくれます。

(ヘブル1:4)を読むと御使いが御子キリストよりも勝っていると考えていた人たちがいたのではないかと推測されます。

私たち異邦人キリスト者は、初めからキリストは神であり、御使いをも創造した方であるととらえているのではないでしょうか。コロサイ人への手紙(1:15-17)には、<御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。>とあります。

特に<万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、>というみことばの中の<見えないもの>の中に御使いも含まれています。

主イエス様は、究極のへりくだりを示されました。(ピリピ2:6-8)に分かりやすく示されています。即ち<キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。>と。

人間は、謙遜な人、柔和な人を恐れることなく低く見てしまうことがあります。一方、御使いの現れはいつも人間よりも偉大な感じです。ヘブル人にとって律法は偉大なものです。その律法の与えられ方をヘブル人は、どのようにとらえていたのでしょうか。(ガラテヤ3:19)には次のようなみことばがあります。<では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。>

このみことばを見てもヘブル人たちは、御使いを偉大だと思ったことでしょう。
少し脱線しますが、神学に詳しく偉そうに見える牧師よりも謙遜で柔和な牧師を軽く見てしまうことはないでしょうか。もしそのようであったら改めなければなりませんが。

御子は、永遠において神です。しかし、33年半の間、人間の目で見える形で、人ともなられました。そして、鞭打たれ、肉が裂かれ、血を流し、十字架に付けられて死にました。
鞭打たれ、肉が裂かれ、血を流し、十字架に付けられて死ぬ、というような一見した弱さは、御使いには見られません。このようなところにも間違ってとらえてしまう要素があったのでしょうか。私には、想像することができるだけで本当のことは分かりません。

私は、<キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。>とあるキリストにただただ感謝するのみです。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。>(1ペテロ1:22-25)

2012年3月26日 (月)

御父の右の座におられるキリスト

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。>(ヘブル1:3)

御子(イエス・キリスト)は、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
“He・・・sat down at the right hand of the Majesty on high,”(NKJV)

権威の座でもあります。イエス様は、地上を去って御父のもとに行く前に弟子たちに「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)と言われました。

驚くべきことに(エペソ2:4-6)には、<しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。>と記されてあります。

ともに天の所にすわらせてくださいました。>
“and made us sit together in the heavenly places in Christ Jesus,”{NKJV(Eph4:6)}

感謝なことに、私たちは、キリスト・イエスの中で天のところに座らせて頂いています。

私たちが、キリスト・イエスの内にあり続けていたらさぞかしサタンは悔しいでしょうね。

主イエス・キリストの外へ出てしまうと大変です。(1ペテロ5:8)には、<身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。>と書いてあります。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。>(ヨハネ15:4-6)

主イエス・キリストの中にあることの大切さと恵みを幾度も幾度も教えられます。

あなたには、何か、〔神から〕もらったものでないものがあるのですか。>(1コリント4:7)

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。>(ヤコブ1:17)

すべてのことに感謝です。

2012年3月24日 (土)

罪のきよめを成し遂げて

<御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。>(ヘブル1:3)
<罪のきよめを成し遂げて>:罪のきよめは、十字架の上で主イエス様が流してくださった血によります。

人間は、「きよくなりなさい」と言われると、まじめな人は、努力して努力してきよくなろうとします。その結果は、私はきよくなれない。という処に落ち着くのではないでしょうか。私のいっているきよさは、神の基準のきよさです。

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。>(1ペテロ1:15.16)

聖なるものとされなさい>と言われているのに、自力で聖なるものとなろうとしてしまうのです。信仰を持ちたての頃の私は、自力で聖なるものとなろうとしていました。その結果は、疲労困憊でした。

(ヘブル10:10)に<みこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。>とあり、また、(ヘブル9:22)には<すべてのものは血によってきよめられる>とあります。
<みこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。>というみことばにより、キリスト者は、立場として(法的に)聖なる者とされていると私は捉えています。しかし、実際の行いにおいては、聖なる行いをしそこなったということは、多々あります。<あらゆる行いにおいて聖なる者>になっていないことは、自分でもよくわかっています。あらゆる行いにおいて聖なるものにされていくようにしていきたいと思っています。信仰によってイエス・キリストの内にある歩みを継続していく必要を覚えます。

敬虔のために自分を鍛練しなさい。>(1テモテ4:7)

自ら敬虔を修行せよ>(文語訳)

自分のペースで歩んでいきたいと思います。

2012年3月21日 (水)

キリストは万物を保持するお方

<御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。>(ヘブル1:3)
御子キリストは力あるみことばによって万物を保っておられる>:キリストは、万物を創造しただけではなく、その後も万物を保持しておられる、と教えてくれています。それは、力あるみことばによってであると教えてくれます。人間には想像できないことです。全く想像することができないので、科学者と言われる人々は、色々な理論を発表するのですが、年月の流れとともにかつて発表された理論は廃棄され新しい理論に変えられていきます。そして新しい理論も神が造った法則に合致するものでなければまた滅び去ることであろうと私は考えています。この箇所のみことばをそのまま信じることのできる人でなければ、私が今述べたようなことは、バカらしく腹立たしいだけでしょう。ヘブル人への手紙の著者は、4:12でも<神のことばは生きていて力がある>とのべています。

ここで趣を変えて、霊の世界と物理世界、人間世界との関わりをヨブ記から考えてみたいと思います。

先ずはヨブの紹介です。<ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。>(ヨブ1:1-5)

サタンは、ヨブが神に愛されているのを知り、神に挑戦してきました。悪者のおこがましさが嫌というほど出ています。それでは、サタンと神とのやり取りを見てみましょう。

<ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。>(ヨブ1:6-12)

サタンは、ヨブのいのちと家族と持ち物を守っているのは神であるし、仕事や経済を祝福しているのも神だと言っています。

さて、神は条件付きで、サタンがヨブに攻撃することを許可されました。<主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」>と書いてある通りです。

サタンは、神の許可に基づいていかなる災いをヨブに及ぼしたでしょうか。(ヨブ1:13-19)には<ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」>と書いてあります。

サタンは、人を悪へと導いて平気で人を殺させることができることが次の内容からわかります。<牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。>、<カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。>

サタンは、自然現象と人々が言うようなことを用いて人を殺したり家財に損害を与えたりすることもします。<火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。>、<あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。>

私たちの肉の目で見えない霊の世界で色々なことがあるのですね。

現代の混沌とした世界や人々の思いの中にサタンは、働き続けています。そのサタンの働きに終止符を打つのが、主イエス・キリストの地上再臨です。

2012年3月20日 (火)

御子イエス・キリストは、神の本質の完全な現れ。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。>(ヘブル1:3)

主イエス・キリストは、神の本質の完全な現れだと教えてくれていますが、御子は、元来神であられた方が肉体をまとって人ともなってくださった全き神であられ、全き人となられた方ですから、神の本質の完全な現れであることはよくわかります。(本文では、父なる神の本質を表しているという意味ですが。)

エホバの証人のグループに入っている人達は、三位一体を認めませんが、聖書を単純に信じている人達は、三位一体を認めます。イエス様ご自身が、みことばをもって、当たり前のように教えてくださった箇所があります。(マタイ28:18-20)を見てみます。<イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」特に<父、子、聖霊の御名によって>という箇所は、日本語では分かりませんが、英訳の(TEV)は、Mat 28:19を Go, then, to all peoples everywhere and make them my disciples: baptize them in the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit,と記しています。父・子・聖霊の三位格を単数の御名で受けています。ある人達は、これを単複形といっています。たとえが悪いかもしれませんが、手袋は5本の指があるのに一つの手袋であるというようなものです。やはり、手袋は悪い喩ですね。うまいたとえを思いつきません。

本質とは、デジタル大辞泉によると、<物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。>とあります。

神は、霊であり、唯一であり、三位一体であり、神格を持っており、全地、全能、偏在、予知、聖にして愛と義の方、etc.というわけです。(etc.に含まれる内容も多くあります)

神の本質を思うとき、“baptize them in the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit,”という内容の実質のあまりにも大きい恵みに感謝せざるを得ません。

2012年3月16日 (金)

御子は神の栄光の輝き

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。>(ヘブル1:3)
御子は神の栄光の輝き>:ピリポは「主よ。私たちに父(神)を見せてください。そうすれば満足します。」とイエス様にお願いをしました。それに対して、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」とピリポに答えられました。(ヨハネ14:8-11)
イエス様は、弟子たちと地上におられたとき、視覚的に、ピカピカ輝いていたのではなさそうです。

一方、モーセの時代、<主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。>(出エジプト24:17)とあります。シナイ山で、神とともにいたモーセが地上に降りてきたときの状況を聖書は次のように記しています。<彼(モーセ)は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。>(出エジプト34:29.30)

モーセの時代、神様は、見えるありさまで、ご自身の栄光を少しだけ現わされたように思います。神の栄光のわずかの表れでも人間にとっては驚きです。

新約の時代、主イエス様を見た者は、父なる神様を見たのだとイエス様は言いました。明らかに、視覚的な光り輝く姿ではありません。イエス様は、語った言葉や業を見なさい。と言いました。そのことばや業に神の栄光が表されていたのです。イエス様の品格、天からのみことば、人間にはなしえない力ある御業などのことを言ったのですね。そこに神様の本質の現れの一端があったのだと思います。

やがて、キリストの地上再臨の後、新エルサレムにおいて見ることのできる神の栄光の一端が、次のように書いてあります。<私は、この都(新エルサレム)の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊(キリスト)とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。>(黙示録21:22-24)

私には、御子の神の栄光の輝きの全貌を理解することなどは、とてもできないことです。わずかに垣間見させて頂く者でしかありません。

2012年3月14日 (水)

御子(イエス・キリスト)は万物の相続者であり創造者である

<この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者としまた御子によって世界を造られました。>(ヘブル1:2)
私は聖書に記載されている内容を知る以前は、ありとあらゆるもの(万物)を保有しておられる方(聖書の神)がいるなどという思想を想像することは全くありませんでした。

万物の存在は、自然発生的であったと私は考えていました。というか、学校で教えられたことをそのまま信じていました。刷り込まれていたと言った方が良いでしょうか。

世界が御子イエス・キリストによって造られた、などということは想像だにすることはできませんでした。

現代の学校教育やテレビなどで放映される進化論とは真っ向から対立する内容です。それでも信じますか?と聞かれれば、私は、「聖書に書かれてあることを信じます。」と胸を張って答えます。私は、進化論から聖書がいう神によって創造されたという創造論に至るまで約半年、日々真剣に学んだり考えたりしてきました。そしてあるとき、神が光を与えてくれたのです。

私のような人間を、愚かな人だと考える人の方が圧倒的に多いことは分かります。私もかつては、進化論を信じない人は愚かな人だと思っていましたから。

聖書の言う創造論と、進化論について、私は議論しようとは思いません。人は死ねば分かることだと思っています。死んでから後悔しても遅いですけれど。

今回のテーマは、聖書のみことばを信じるか信じないかということにつきます。ですから、議論することなく、ほかのいくらかの聖書の聖句を併記するにとどめます。

初めに、神が天と地を創造した。>(創世記1:1)

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。>(詩編24:1)
<すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。>(1コリント15:22-28)

<神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。>(ローマ8:14-17)

2012年3月13日 (火)

聖書の語り手は神

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。>(ヘブル1:1.2)

神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました>:旧約時代、神は、多くの預言者を起こされて神の言葉を語らせたことを言っています。

私は、信仰を持ちたての頃、聖書は、約1600年の間に、約40人の人たちによって書かれたものであるという印刷物を読みました。そのような長期間の間に、多くの人たちによって書かれたものであるにもかかわらず統一がとれているということは、人間のわざではないと思ったことを覚えています。私も依頼されて本を出版したことがありますが、その当時出版した本と同じタイトルでまた出して下さいと言われたら、内容が大分変更になると思います。一人の人間が本を出したとしたらそんなものでしょう。

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。>:新約時代は、人となられた神である主イエス・キリストによって語られた。と言っています。福音書では、イエス様ご自身が語っておられるのを知ることができますから、その意味では、確かに主イエス様が語られたと思いますが、書簡の方はパウロやヨハネやペテロなどが書いているではないかと疑問に思う方もいることと思います。ヨハネの黙示録については、<イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。>(ヨハネ1:1)とはっきり書いてあります。その他の箇所についても、<聖書はすべて、神の霊感によるもので、>{(2テモテ3:16)新改訳}<聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、>(新共同訳)とあるように結局は神の霊によることが分かります。聖霊は、キリストのものを受けて伝える霊でもあります。(ヨハネ16:13-15)に<しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたし(イエス・キリスト)の栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。>と書いてある通りです。

今の時代、日本においては、読む気があればいつでも聖書を読める幸いを覚え、感謝したいと思います。

2012年3月11日 (日)

祈り無しに福音は語れない

<私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。>(コロサイ4:4)
パウロなら、他の兄弟姉妹の執り成しの祈りを必要とすることなく、当然語るべき語り方で語れるのではないかと思ってしまいますが、神様の働きに関することはそうはいかないのですね。皆さん、私のためにも祈ってください。
今日は、タッチパネルで入力しましたので、文章が短くなりました。

2012年3月10日 (土)

図りがたい主の御計画

主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。>(コロサイ4:1-4)

主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。>:主人と奴隷の記載は、現代日本では、雇用主と被雇用者、或いは、上司と部下と言ったところでしょうか。

目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。>:私は、このみことばにふれると、出来ていないなーと胸が重くなります。また、パウロのような使徒であっても背後の祈りを必要としていたことを教えられます。

神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。>:みことばを語ることに関しても、主が閉じられていたら前には進めないことを覚えます。パウロは、自由にみことばをのべ伝えたかったのかもしれませんが、主の深いお考えに基づき牢に入れられてました。しかし、牢に入れられていた間に、聖霊の導きによって書かれた、エペソ・ピリピ・コロサイの各手紙は、何と奥深く尊いものであったことでしょうか。2000年近くたった今まで光を放ち続け多くの兄弟姉妹方に豊かな霊的恵みを与え続けています。このようなことを知らなければ、私などは、牢に入れられることは不幸なこと、外で自由にできることは幸いなことと思ってしまいますが、それは浅はかなことであることをこれらのことからも教えられます。使徒ヨハネも、パトモスという島に島流しにあっていたときに主の導きで黙示録を書きました。人の考えと神の考えには隔たりがありますね。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。>(ローマ11:33-36)

2012年3月 9日 (金)

日常生活における対人関係

<妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。>(コロサイ3:18-25)

これは、キリスト者に対する手紙ですから、それを前提に読む必要があるのだと思います。これを未信者の人に当てはめても無理があります。特にゴシック体にしたところは、当てはまらないのですから。

ここの箇所は、読むだけで十分理解できるところですね。

お勧めを戴いている内容は、キリスト者といえどもなかなかできにくいところなのだと思います。妻は夫に従えない。夫は、妻に辛く当ってしまいやすい。子供には、がみがみ言って、子供に恐怖心を抱かせるだけで結果が思わしくない。仕事は、ついつい手抜きをしてしまう等々。

しかし、「主のお言葉ですから」とみことばに従える報酬を主は用意して下さっておられます。感謝。

さらに一歩進んで、主のお勧めのような思い行動をとれるように変えてくださる主により一層感謝。となりたいと思います。

2012年3月 8日 (木)

キリストの花嫁

<妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。>(コロサイ3:18)

「とてもとても従いたくありません。」「夫は妻に従うべきです。」などという声が聞こえてきそうです。「模範的な素晴らしい夫なら従ってもいいですよ。」という妻もいるかもしれません。

多くのキリスト者は、主に従順に従う方だと思います。そのような方々は、夫がどのようであれ、主が従いなさい、と言われるので、主の御旨に照らしつつ夫に従っていく、と答えるかもしれません。

話は変わって、夫婦とは何でしょうか?

イエス様は、(マタイ19:4-6)で「「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」
といっています。

人間の夫婦は、どうやら性的関係を結んだ相手のようですね。

イサクは結婚式を挙げませんでした。しかし、肉体的関係を持って夫婦となりました。勿論、イサクもリベカも主の導きを信じていたように見受けられます。

<しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。>(創世記24:66.67)

どうやら、二人が結ばれて一つになった状態が結婚のようです。

キリスト者は、キリストを信じた時に、霊において、キリストと結ばれます。(1コリント6:17)に<主と交われば、一つ霊となるのです。>とあります。

地上において、キリスト者は、キリストの花嫁です。故に、キリストを愛し、愛をもってキリストに従うのです。

やがて、時至って、キリスト者は、栄光の体を与えられます。その時には、天において盛大なキリストと教会(キリストの花嫁)との結婚式がもたれます。(黙示録19:6-9)

<また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」御使いは私に「小羊(キリスト)の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。>(黙示録19:6-9)

2012年3月 7日 (水)

do all in the name of the Lord Jesus

昨日の続きです。

私の敬愛する一人の兄弟(Br S.)がいます。その兄弟は、「・・・・イエス・キリストの御名の中で祈ります。」と祈ります。

私は、信仰を持ってから、いつも「イエス・キリストの御名によって」or「イエス・キリストの御名を通して」と祈ってきました。あるとき、Br Sの祈りに心を合わせていたとき、兄弟が「・・・イエス・キリストの御名の中で祈ります。」と祈りました。それは私の心の中に留まりました。

さて、

昨日は、言葉においても、行動においても「主イエス・キリストの御名の中で」をテーマに書きましたが、祈りも同じであると思います。

“And whatever you do in word or deed, do all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through Him.”{(NKJV)コロサイ3:17}

使徒ヨハネの残したみことばをみてみます。

<何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。>(1ヨハネ5:14)

“Now this is the confidence that we have in Him, that if we ask anything according to His will, He hears us.”{1ヨハネ5:14(NKJV)}

<あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。>(ヨハネ14:14)

“If you ask anything in My name, I will do it.”{ヨハネ14:14(NKJV)}

<マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」>(ヨハネ11:21.22)

祈りは、イエス・キリストの御名の中で祈ることが重要だと教えられます。

2012年3月 6日 (火)

御心の内を歩む

<あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。>(コロサイ3:17)

“And whatever you do in word or deed, do all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through Him.”(NKJV)

キリスト者が発する言葉、書くことば、キリスト者の行いは、do all in the name of the Lord Jesus(すべてにおいて主イエス・キリストの御名の中で行いなさい)。

と書いてあるのですね。

常に主の内にあっていきることを求められているのですね。それとともに恵みによってその備えをも主はして下さいました。

与えられた恵みを無駄にしないで、主のみこころの内を歩んでいきたいと再度思わせられました。

2012年3月 5日 (月)

みことばリッチ

<キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。>{口語訳(コロサイ3:16)}

“ Let the word of Christ dwell in you richly in all wisdom, teaching and admonishing one another in psalms and hymns and spiritual songs, singing with grace in your hearts to the Lord.”(NKJV)

1節の中に多くのことがかkれていますので、箇条書きにしてみます。

①キリストのことばを私たちの内に豊かに宿らせること。

みことばリッチになりなさい、というのですね。

みことばを暗記して蓄えることも素晴らしいですけれど、主イエス様が折々に語ってくださったみことばをたくさん持っていたら、それはとてもリッチなことだと思います。

お金や物の豊かさrichnessではなく、みことばの豊かさ。

②知恵を尽くして:知恵の性質について(ヤコブ3:13-17) には<あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。>とあります。ここでの知恵を尽くしてというのは、上からの知恵ですね。

③互いに教え:キリスト者同士互いに教えあうということですね。教える人と教えられる人がちょくちょく入れ替わるのです。お互いに主の前に謙遜にされていないと問題を生じそうですね。

④互いに訓戒し:これも③と同じように謙遜にされていることが必須ですね。

<モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。>(民数紀12:3)というみことばを思い浮かべます。

⑤詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

みことばリッチ・・・いいですね。

訓戒してくださる人がいるのもいいですね。自分自身のことは、自分では気づかないことが多々ありますからね。

ただし謙遜でない人には訓戒しない方が良い場合が多いかも。

2012年3月 4日 (日)

平和と感謝

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。>{新改訳(コロサイ3:15)}
“And let the peace of God rule in your hearts, to the which also ye are called in one body;and be ye thankful . ”(KJV)

新改訳・口語訳・新共同訳が「キリストの平和」と翻訳しているところをKJVでは「神の平和」と翻訳しています。詳しく調べてないので確かなことは分かりませんがギリシャ語聖書の底本の違いかもしれません。

<また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。>(新共同訳)

< キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。>(口語訳)

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい>:キリストの平和が私たちの心を支配する、なんと素晴らしいことでしょうか。しかし、支配するようにしなさい、とありますから、自動的にキリストの平和が私たちの心を支配してくれるわけではなさそうです。

キリスト者はすでに「神との平和は持っています」(ローマ5:1)。しかし、この箇所では、私たち(複数形)の心をキリストの平和が支配されるように、ということですから、キリスト者の間にキリストの平和が支配する必要があるのだと思います。<あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。>というみことばからもそのように思います。キリストの御霊による一致がないと難しいことだと思います。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と主イエスさまは言われましたが、キリスト者一人一人が、このキリストの平安を持たないと、真の意味でのキリスト者間の平和は難しいのかなと思います。

主のみこころの内を歩み、主に信頼して主に委ねきった歩みをしているとき、平安が支配することを覚えます。

また、感謝の心を持つ人になりなさい。>“and be ye thankful”このみことばの成就は、自己実現を目指す人にとっては難しいと思われます。主の按配を心から受け入れ、何が起こっても、どのような環境に置かれても主に信頼し、主に委ねていく生き方でないと、すべてに感謝するということはできないことと思われます。

私はこれを書きながら、自分自身がどの程度主に信頼しているだろうか、と考えさせられます。

「主よ。あなたに全き信頼をおいて歩むことができますように。」

2012年3月 3日 (土)

愛は結びの帯として完全

<こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。>(コロサイ3:1-14)

コロサイ書の<愛は結びの帯として完全なものです>という箇所までの勧めを読んでいると、「あなたがたは、」とか「私たちは」などのように複数になっています。

あなたは、私は、という単数ではありません。あなただけ・・・・となりなさい。と言っているのではなく、キリストの体(教会)を構成している一人一人がみな・・・・となりなさい。と言っているように私には思えます。

複数で表しているのは、全員が整えられることによって、キリストの体(教会)が、キリストの体としてふさわしくなるということであろうと思います。

キリストの体は、一人一人のキリスト者の集合でありますから、正に、愛は結びの帯として完全な働きをすることと思います。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。>(1コリント13:4-7)

このコリント書にあるような生き方をしたら、確かにキリストの体は、キリスト者一人一人によってふさわしい統一体となるのでしょうね。

神は愛です(1ヨハネ4:8)とありますが、その神の御霊が、私たち一人一人の内から輝き出ないと実現は難しいように思います。輝き出るためには、立場上の聖のみではく、実質的な聖さの成就が必要になることを覚えます。主は、その備えもして下さいましたから感謝です。

2012年3月 1日 (木)

神の愛と私の愛

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。>(コロサイ3:14)

私がキリストに出会う前は、自分は結構愛があると思っていました。

キリストに出会って、自分の内に愛があると思ったことは、100%間違いであることが分かりました。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。>(ローマ5:6-8)

キリストは、神の敵であった私の為に、私を救うために、死んでくださいました。まさに、敵の為に、敵を愛して死んでくださいました。

< ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。>(ルカ23:32-39)

キリストは、罪人を救うために十字架に付けられる前に、鞭で打たれて肉は裂け、血を流し、さらに十字架に付けられて死にました。

私たちの罪を身代わりに引き受けて私たちを贖うために。

生まれながらの人間の中には、このような愛はありません。しかし、キリストの全き支配にすべてを委ねるとき、同じような愛を表すことができます。私たちは、それをステパノ(使徒6.7章)から始まって、歴代の多くの殉教者たちに見ることができます。

主ご自身が栄光を表されるのだろうと思います。

内なるキリストが輝き出でて、愛の生涯を送りたいと思いますが、振り返って自分を眺めて見ると、大分違うかなという感じです。私などは、理屈は言えても実質は?という状態ですね。
最初の殉教者ステパノの場合

<しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。>(使徒7:55-60)

ステパノも素晴らしい兄弟であったと思いますが、主が栄光を表されたのではないでしょうか。

2012年2月28日 (火)

赦せない思いから赦せる思いへ

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。>(コロサイ3:13)

自分を傷つけた人を「赦しなさい」と言われても赦せるものではありません。

しかし、主イエス様は言われます。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14.15)とか「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18:32-35)
後の話は、マタイ18:21-35までの最後のところです。

人を赦せないで病気ななってしまった人達を知っています。人を赦せないという思いが心の中で強くなってきて、いつも心の中が葛藤していると、色々な病気の引き金になったり、病気にさいなまされることにもなります。

赦せない人の話を聞くと、もっともだなーと思えるようなことも多いです。しかし、神様のことばは永遠不変です。

赦さないでいると神様との関係に支障をきたしてしまいます。

これは、以前にも書いたことですけれども、私にも赦せない人がいました。ある日、道を歩いているとき、イエス様が突然「私は、あなたを赦したんだよ。あなたも赦しなさい。」と優しく諭されました。心とかされ、涙が出ました。

それは、憎しみから解放された時でした。

その時に示された箇所は、今書いているコロサイ書からではなく、エペソ書からでした。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

その後しばらく、このみことばを何度も反芻したことでした。

«主の命令の土台にあるもの

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