2024年6月20日 (木)

箴言29:7 主に在る正しい識別力

 箴言297を、
リビングバイブルは“正しい人は貧しい人の権利を認めますが、神を信じない者は気にもかけません。”と意訳し、
 2017は“正しい人は弱い者のためのさばきを知っている。悪しき者はそのような知識をわきまえない。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“正しき者は弱い人の訴えを認めるが、悪しき者はその知識を見極められない。”と訳し、
 新共同訳は“神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。”と訳しています。

 「正しい人」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、公正な、正しい人(義人)、・・等の意があります。

 新共同訳は、神に対して正しい人の意で、「神に従う人」と訳しているのでしょう。
対神的に正しい人は、結局、神の観点から見て、人に対しても正しいと捉えることができます。

 「貧しい人」(リビングバイブル)、「弱い者」(2017)、「弱い人」(聖書協会共同訳)、「弱者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ダル」で、貧乏な人、(精神的にor知的にor肉体的にor社会的に)弱い人、・・・・等の意があります。

 「権利」(リビングバイブル)、「さばき」(2017)、「訴え」(聖書協会共同訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ディーン」で、さばき、訴え、・・・・等の意があります。リビングバイブル訳の「権利」は審判してもらう権利のことではないかと思います。

 「神を信じない者」(リビングバイブル)、「悪しき者」(2017、聖書協会共同訳)、「神に逆らう者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、悪い人、の意です。

 「知識をわきまえない」と訳されている語のヘブライ語原語は、3単語からなっていて「ロー ビーン ダーアツ」で、2017が訳しているような意になります。
「ダーアツ」には、知識の他、情報、学識、学問、・・・等の意もあります。

 「ロー」はnotです。

 「ビーン」は、分ける、分離する、・・・等の意があります。

 今日の聖句は、約3000年前に記された箴言に、人権についての記述があることを覚えます。
しかし、主なる神様は、これよりも前に、モーセ五書において、人権を認めています。
 出エジプト22章には次のように記されています。
20 寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。
21
 いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。
22
 あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。
23
 私の怒りは燃え上がり、あなたがたを剣で殺す。あなたがたの妻は寡婦となり、子どもは孤児となる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記10章には次のように記されています。
17 あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 気を付けなければならないのは、主の主権を度外視して人権を振り回すことです。
主の御教えを度外視して人権を振り回すと、主との関係においては、罪の泥沼にはまることでしょう。 

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
対神的にも、対他的にも、対自的にも、主のみ旨にかなった判断をすることができますように。
また、御霊の導きによって、そのように歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月19日 (水)

フィリピ3:13bー16 到達しているところを基にして前進また前進

 フィリピ313b-16には次のように記されています。
3:13 ・・・。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
15
 だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
16
 いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 13b.14節を
2017
は“13 ・・・。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。”と訳し、
 新共同訳は“13 ・・・。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。”と訳し、
 リビングバイブルは“13 ・・・。ただこの一事に全力を注いでいます。すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、14 ゴールに到達して神の栄冠を得るために、一生懸命努力しているのです。この栄冠を与えようと、神は私たちを天へと召しておられます。それは、キリスト・イエスが成し遂げてくださった救いによるのです。”と意訳しています。

 15aには“だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
この個所を2017は“ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。”と訳し、
 リビングバイブルは“ですから、成熟したクリスチャンであるあなたがたはみな、この点について、私と同じ考え方をするようにと願います。”と意訳しています。

 13.14節は、成熟したクリスチャン(リビングバイブル)、大人であるキリスト者(2017)、完全な者(聖書協会共同訳、新共同訳)、全き人(口語訳)を対象として語られていることが15aよりわかります。
「成熟した」「大人である」「完全な」「全き」と訳されているギリシア語原語は「テレイオス」で、完全な(パーフェクトな)、傷のない(無傷の、欠陥のない)、完璧な、・・・等の意があります。

 横道に少しそれますが、ヨハネ1930を、
新共同訳は“イエスは、このぶどう酒〔「酢」(聖書協会共同訳)〕を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。”と訳し、
 新改訳2017は“イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”と訳し、
 岩波訳は“さて、酢を受けるとイエスは「成し遂げられた」と言った。そして、頭を傾けて、霊を引き渡した〔すなわち「息を引き取った」(欄外注)〕。”と訳しています。

 ヨハネ1930の「完了した」「成し遂げられた」と訳されている語のギリシア語原語は「テテレスタイ」です。
 
「テレイオス」のもとの語は、「テロス」で、有名な「テテレスタイ」の語のもとにもなっている語です。「テテレスタイ」は「テロス」の完了形、受動態、直接法、三人称単数形です。
新改訳は「テテレスタイ」を「完了した」と訳していますが、「テテレスタイ」が「テロス」の完了形、受動態であることを考えると、「成し遂げられた」という訳の方が良いように私は思います。

 話を元に戻します。
フィリピ315の「完全な」(テレイオス)は前述のとおり「テロス」からきている語で、テロスには、終わり、終局、・・等の意があります。

 フィリピ312には“私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
この個所の「完全な」というのは「テレイオオー」ですがそのもとは「テレイオス」です。
ですから、この一連の個所は、ギリシア語単語からだけで意味を確定することが難しいのです。

 さて、わたしたち新生したキリスト者に対して、完全な者として与えられたものとは何でしょうか。
それは、父なる神がキリストにあって与えてくださった「救い」です。
これは完全なものです。
 1コリント130に記されている聖句はそのことを表しています。
“あなたがたがキリスト・イエスに〔キリスト・イエスのうちに(新改訳)。「うちに」のギリシア語原語は「エン」で英単語では「in」(筆者挿入)〕あるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 私たちキリスト者の救いは完璧なものです。
その意を前提として考え、フィリピ313b.14を意訳すると、「完璧な救いをいただいたのですから、神が与えてくださる栄冠を得るために前進、また前進していきましょう。」(私訳)と捉えることもできるのではないかと思います。
 
 ところで、キリスト者に与えられる冠について、聖書は、次のような冠を記しています。
2
テモテ48には“あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。”(2017)と記され、
 ヤコブ112には“試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。”(2017)と記され、
 1ペテロ51-4には“1 私は長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
2
 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。
3
 割り当てられた人々を支配しようとせず、むしろ、群れの模範になりなさい。
4
 そうすれば、大牧者が現れるとき、あなたがたは消えることのない栄冠〔栄光の冠(新改訳)〕を受けることになります。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 私は、主の現れを待ち望んでいるので「義の冠」を与えて頂けるのかな、と思っています。

 聖歌638、聖歌総合版687、新聖歌468に「御国に住まいを」(「やがて天にて」)という賛美があります。その歌詞を下記します。
“1.御国に住まいを備え給(たま)える 主イエスの恵みをほめよ たたえよ
(折り返し)* やがて天にて喜び 楽しまん 君にまみえて 勝ち歌を歌わん
2.浮世のさすらい やがて終えなば 輝く常世の御国に移らん *
3.もろとも勤(いそ)しみ 励(はげ)み戦かえ 栄の主イエスに まみゆる日まで *
4.目標(めあて)に向かいて 馳(は)せ場を走り 輝く冠(かむり)を 御殿(みとの)にて受けん *”とあります。

 上記の歌詞の3節にも関連しますが、フィリピ314.16には、“14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。/16 いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ユダの手紙20節には“愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ”(抜粋・新改訳初版~第三版)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ユダ20節に「愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、」(新改訳初版~第三版)と勧められているように歩ませてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月18日 (火)

詩篇118:19-21 正しい人は主の城門に入れる/天のエルサレム

 詩篇11819-21には次のように記されています。
19 義の城門を開けよ。私は入って、主に感謝しよう。
20
 これこそ主の城門、正しき人はここに入る。
21
 あなたに感謝します。あなたは私に答え、私の救いとなってくださった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1920節を2017は“19 義の門よ。私のために開け。私はそこから入り主に感謝しよう。20 これこそ主の門。正しい者たちはここから入る。”と訳し、
 リビングバイブルは“19 神殿の門よ、開きなさい。私は中に入って、主に感謝します。20 主を信じて従う人が、この門から入って主の前に出るのです。”と訳しています。

 直訳すると、2017訳のようになると思います。
詩聖が記した当時のことを言っているのであれば、リビングバイブル訳のように捉えることができると思います。
今回は地上のことよりも天上に関することを記したいと思います。
私たちは上にあるものを求めているものです(コロサイ31.2

 19-21節を一塊として考え、かつ預言的に考えると、これは意味深いものになると思います。

 この個所に出てくる門は「義の門」(19)であり、「主の門」(20)です。
「天のエルサレム」とも捉えることができるでしょう。

 新生したキリスト者は、すでに天のエルサレムの市民権を持っている天の国籍を持つ者です。
すでに天に帰ったキリスト者は天のエルサレムの門を入って御父や御子並びにすでにそこに住んでいる者たちと暮らしているのでしょう。

 イエス様は十字架にかかられる前日に次のように語られました。
ヨハネ141-3には、
1 「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。2 私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 多くの人は天のエルサレムに入るために必死になって良い行いをしようとします。
しかし、その方法では入れないのです。人は生まれながらに罪の性質を持って生まれてきているので、律法を守ることができないからです。
パウロはガラテヤ4章に地上のエルサレムと天上のエルサレムの対比を比喩を用いて次のように記しています。
21 律法を守らなければ救われない、と考えている皆さん。私のことばに耳を傾けてください。どうして、律法のほんとうの意義を理解しないのですか。
22
アブラハムに二人の子供があって、一人は奴隷である妻から生まれ、もう一人は自由人である妻から生まれたと書いてあります。
23
奴隷である妻の子供の誕生については、取り立てて変わった点はありませんでした。しかし自由人である妻の子供の場合は、まずその誕生に関して、特別な神の約束が先行し、それから生まれたのです。
24.25
このことは、神様が人間を助けるために開かれた二つの道を示しています。
一つは、律法を示して、それを守るようにとお命じになった道です。神様は、シナイ山でこの道をお示しになりました。その時、モーセに「十戒」をお与えになったのです。アラビヤ人はこのシナイ山を、「ハガル山」と呼んでいます。
ここでアブラハムの奴隷である妻ハガルは、戒めに従うことによって神に喜ばれようとする生き方の象徴、ユダヤ人の母なる都エルサレムを表わしています。そして、この生き方に従うユダヤ人は、すべてハガルが産んだ奴隷の子供なのです。
26
しかし、私たち〔新生したキリスト者たち(筆者挿入)〕の母なる都は天にあるエルサレムで、それは律法に属していません。
27
イザヤの次の預言は、このことを言おうとしたのです。
「喜べ、子のいない女よ。喜びの声をあげよ、子を産んだことのない女よ。あなたに多くの子を、女奴隷の子より多くを授けよう。」(イザヤ541
28
愛する皆さん。あなたがたも私も、イサクと同じ、神の約束に基づく子どもです。/
31
愛する皆さん。私たちは、律法に縛られた奴隷の子どもではありません。信仰によって神様に受け入れられる、自由の女の子どもです。”(リビングバイブル)と意訳されています。

 新生したキリスト者は、神の恵みと神が与えてくださった信仰によって救われた者たちです。
エペソ27-9をリビングバイブルは次のように意訳しています。
7 神がキリスト・イエスを通してなしてくださった、すべてのことからも、神の恵みのすばらしさがわかります。私たちは今、その恵みがどんなに豊かであるかを示す見本とされているのです。
8
あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神様からの賜物(贈り物)なのです。
9
救いは、私たちの良い行ないに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。”と記されています。

 天のエルサレムの外観について黙示録21章には次のように記されています。
11 都は神様の栄光に包まれ、宝石のように光り輝き、碧玉のように(水晶のように)透き通っていました。
12
都には、分厚い城壁が高くそびえ、十二人の天使が守る十二の門があり、それぞれに、イスラエルの十二部族の名が記されていました。
13
また、門は東西南北の方角に、三つずつ設けられていました。
14
城壁には十二の土台石があって、それぞれに、小羊の十二使徒の名が書き込まれていました。/
18.19
都は、ガラスのように透き通る純金でできていました。
城壁は碧玉で、さまざまの宝石がちりばめてある、十二の土台石の上に築かれていました。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、20 第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一はヒヤシンス石、第十二は紫水晶です。
21
十二の門は、それぞれ一つの大きな真珠でできていました。大通りは、ガラスのように透き通る純金でした。/
27
・・・。小羊のいのちの書に名前が記されている人々だけが、ここに入ることができるのです。”(リビングバイブル)と意訳されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様の大いなる恵みに感謝します。
天にあるものを思いつつも、地上生活も一つ一つ主に導かれ助けられてあなたのみ旨にかなうように歩み続けていけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月17日 (月)

使徒4:13-22 この世の権力者に聞き従うのではなく神に聞き従う/私の証し

 使徒413-22には次のように記されています。
13 人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。
14
 しかし、足を癒やされた人がそばに立っているのを見ては、何も言い返せなかった。
15
 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、16 言った。
「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。17 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」
18
 そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。
19
 しかし、ペトロとヨハネは答えた。
「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。20 私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
21
 そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。
22
 このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペトロとヨハネは、ユダヤの権力者によって、前日に逮捕され、拘留されていました(使徒43)。
そして、逮捕の翌日にユダヤの権力者たちに尋問されたのです。
その尋問に対する応答は堂々とした、確信をついたものでした。
それは、聖霊がそのようにさせてくださったからでした。

 ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネの堂々とした応答の態度を見、更に、二人が無学な普通の人であることを知って驚いたのです(13)。

 ユダヤの指導者たちは、「イエスの名によって一切話したり、教えたりしないように」とペトロとヨハネをさらに脅迫したのですが効果はありませんでした。

 それどころかペテロとヨハネは「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。20 私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と話したのです。

 二人がしっかりした態度を取り続けることができたのは、二人が復活されたキリストにお会いしたからというだけではなく、聖霊によって強められたからでしょう。

 御聖霊は内住してくださっておられますが、どのようなキリスト者でも聖霊に満たされ続けるということは難しいことです。
パウロも主イエス様から「恐れるな。語り続けよ。」と言われたことがありました。(使徒189

 話は変わりますが、22節には“このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。”と記されています。
歩けないので、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた人は、40年以上も歩けなかったのです。
この人は、主の御力によって歩けるようにして頂けました。
この人は、癒されるとすぐに立って歩いたというだけではなく、飛び跳ねたりもしながら神を賛美していました。(使徒38.9
嬉しくて、感謝と賛美が満ち溢れたのでしょう。

 私が救いにあずかったのは40年以上前ですが、私はその当時、将来の世界情勢を想像し、5年以上も、日々不安の中で生きていました。私は心の平安が欲しくて様々な宗教書をむさぼり読んでいましたが、やがて聖書にいきつき、イエス様に「私を信じればよいのだよ。」と語られ(人は思い込みだと思うでしょうが)、その時、私は「信じればよいのだ。」と思ったのです。そのとたんに、平安が与えられたのです。
イエス様を信じたら救われたのです。
これが私の証しの中心です。
5年以上も求道していたので、求道中の様々な心の思いを語るととても長くなりますが)
この証しは以前にも書いたことがありますので、すでにご存じの方もおられることでしょう。
その時の私の心境は、聖歌560(聖歌総合版584)の2番の歌詞が表してくれています。
「この安きを受けしときに 雨雲は晴れたり」と。

 聖歌560(聖歌総合版584、新聖歌254)の歌詞を下記します。
“1.心にあるこの安きを 奪うもの地になし 試みにて苦しむとも わが安き動かじ
{(折り返し)* 我がものなる主を宿す その喜び 言い難し
主 宣(の)たまえり 「我 などて なれを捨てて去るべき」}
2.この安きを受けしときに 雨雲は晴れたり 悩みあらず 涙もなく 歌声のあるのみ *
3.この安きを持てる 土の器なる我が身も やがてイェスに会わば 変わらん 栄ある姿と *”

 “あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。”(1ペトロ225・新共同訳)
ハレルヤ!

 新生させていただいたキリスト者は、自分の証しをして、「主イエス様を信じれば、救われます」ということを宣言することができます。
救われた後も、主と共に歩んでいれば、様々の分野の証しを加えて頂けるでしょう。
それらも証しすることができます。
私たちの証しを聞いて、聞いた人が信じるかどうかは、聞いた人の自由意思に基づく聞いた人の責任です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
三一の主と共に歩ませていただける恵みを感謝します。
いくら感謝しても感謝しきれませんがありがとうございます。
あなたを賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月16日 (日)

箴言29:5.6 この世の人の声ではなく、主のみ声に従って歩む

 箴言295.6を、
リビングバイブルは“調子のいいお世辞は罠です。悪人はそれに足をとられて転びますが、正しい人は近寄ろうともしないので安全です。”と意訳し、
 2017は“5 隣人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。6 悪人は背きを犯して自分に罠をかける。正しい人は声をあげて喜び歌う。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“5 友人にへつらう者は、自分の足元に網を仕掛ける者。6 悪に捕らわれた者は背きの罠にかかり、正しき者は歓声を上げて喜ぶ。”と訳し、
 新共同訳は“5 友にへつらう者は、彼の一歩一歩に網を仕掛ける者。6 悪を行う者は罪の罠にかかる。神に従う人は喜びの叫びをあげる。”と訳しています。

 「隣人」(2017)、「友人」(聖書協会共同訳)、「友」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「レア」で、パートナー、同僚、仲間、・・等の意があり、兄弟、友人、夫、恋人、愛人、隣人、・・等の意にも訳されます。

 パートナー、同僚、仲間、隣人にへつらうことは良くないことがわかりますし、へつらう人には気を付けたほうが良いことを教えられます。

 「お世辞を言う」(リビングバイブル)、「へつらう」(2017、聖書協会共同訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーラク」で、原義は、なめらかな、の意で、おべっかを使う、おもねる、お世辞を言う、・・・・・等の意でも用います。

 リビングバイブルは「調子のいいお世辞は罠です。」と訳していますが、この文を読むと、お世辞やもうけ話等に乗せられて失敗する人を思い浮かべます。
しかし、そのようなことをする人も自分の罠に捕われるという警告です。

 ヤコブ113-15を思い浮かべます。そこには、
13 誘惑に遭うとき、誰も「神から誘惑されている」と言ってはなりません。・・・。
14
 人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
15
 そして、欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また、2テモテ313の“・・、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。”(新改訳初版~第三版)という聖句も思い起こします。

 日本でも、政府自体が、リスクをあまり話さないで、NISAのようなもうけ話を国民にしています。株が暴落したときは責任を取ってくれないでしょう。

 キリスト者は、政府や経済アナリスト、その他、美味しい話をしている人の話を聞くのではなく、主に信頼して歩むことのできる者、主の導きを得て歩むことの出来る者とされていますから感謝です。

 6節を新共同訳は、“悪を行う者は罪の罠にかかる。神に従う人は喜びの叫びをあげる。”と訳しています。

 リビングバイブルは“悪人はそれに足をとられて転びますが、正しい人は近寄ろうともしないので安全です。”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたに信頼し、あなたの導きに従って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月15日 (土)

フィリピ3:10-13a 復活の体

 フィリピ310-13aには次のように記されています。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12
 私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。
13
 きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 死んだ人の復活について、聖書は、キリスト者以外の復活についても記しています。死んだすべての人は復活するのです。ただし、復活するのが幸いな人と幸いでない人とがいます。
ヨハネ528.29には“28 ・・・。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。29 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。”(聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉が記されています。

 使徒2415でパウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活する」(抜粋・聖書協会共同訳)と述べています。

 正しくない者が復活する時はキリストの千年王国が終了した後のことです。黙示録2011-15に次のように記されている裁きは、全歴史上における最後の裁きです。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 上記の白い御座の裁き(最後の審判)の時には、よみにいた人たちが体をもって復活し、最後の裁きを受けるのです。「よみ」はヘブライ語では「シェオール」ギリシア語では「ハデース」です。
「ゲヘナ」(ギリシア語では「ゲヘンナ」)は、ヘブライ語のヒンノムの谷(火が燃え続けている所)と同じようなところだろうと思います。{マタイ529.301028、マルコ943-48参照}
 黙示録1919.20には、
“また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方〔再臨のキリスト(筆者挿入)〕とその軍勢に戦いを挑むのを見た。しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。”(2017)と記され、大患難時代に聖徒を苦しめ、多くの聖徒を殺したこの二人は、よみ(シェオール、ハデース)に送られることなく、直接ゲヘナに投げ込まれたのです。

 イザヤ書の最後の個所に次のような預言聖句があります。
22 私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように。あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く――主の仰せ。
23
 新月ごと、安息日ごとに、すべての肉なる者は私の前に来てひれ伏す。――主は言われる。
24
 彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。それに付く蛆(うじ)は絶えず、それを焼く火は消えることがない。それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる。”(イザヤ66章・聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者のよみがえりor変容と霊の体について
新生したキリスト者の場合には、キリストの空中再臨時前までに肉体を離れて天に挙げられた魂と、キリストの空中再臨時迄、肉体をもって地上にいるキリスト者では少し主なる神様のお取り扱い方が異なります。そのあたりのことは聖書本文でご理解ください。

 新生したキリスト者のよみがえりについて主イエス様は次のように語られました。
39.40 わたし〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕を遣わされた方〔父なる神(筆者挿入)〕のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。/
44
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。/
54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。”(ヨハネ6章・2017)と記されています。

 新生したキリスト者のよみがえりあるいは変容は何時なのでしょうか。
1コリント1552に“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”(2017)と記され、
 1テサロニケ414-17には、
14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

 新生したキリスト者のいのちは永遠です。
主イエス様は「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(2017)と語られました。

 キリスト者の霊の体について1コリント15章は次のように述べています。
42 ・・・朽ちないもの・・・
43
・・栄光あるもの・・、力あるもの・・・
44
・・・霊の体・・・
48.49
・・・天上の者たちはすべて、天上のその方に等しい・・・/・・・天上の方のかたちをも持つ・・・”(聖書協会共同訳)と記されています。

 コリント信徒への手紙はパウロが書きましたが、使徒ヨハネも1コリント1549の聖句と近似した内容を記しています。
1
ヨハネ32には“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(2017)とあります。

 使徒ヨハネは、上記の聖句の次に、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(2017)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主キリスト・イエス様の空中再臨を待ち望む者として、神の子どもとしてふさわしく整えてください。
永遠の命を与えてくださいましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月14日 (金)

詩篇118:10-18 主は、わが救い、わが旗、わが力/主への信頼

 詩篇11810-18には次のように記されています。
10 国々はこぞって私を包囲したが、主の名によって私は必ず彼らをしのぐ。
11
 私を幾重にも包囲したが、主の名によって必ず彼らをしのぐ。
12
 蜂のように私を包囲し、茨の火のように燃え上がったが、主の名によって必ず彼らをしのぐ。
13
 私は激しく突かれて倒れそうだったが、主が私を助けてくださった。
14
 主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。
15
 歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
「主の右の手は力を振るう。16 主の右の手は高く上がり、主の右の手は力を振るう。」
17
 私は死なずに生き長らえ、主の業を語り伝えよう。
18
 主は私を厳しく懲らしめたが、死に渡すことはなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 10節の「国」と訳されている語のヘブライ語原語は「ゴーイ」で、外国、異邦人、異教徒、人、・・等の意があります。
 10-12節の文末の「しのぐ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ムール」で、原義は、短く切ることで、切り詰める、遮る、等の意ですが、破壊する、打ち壊す、滅ぼす、・・等の意でも用います。
また、この単語は未来形で記されています。

 10-12節を新改訳初版~第三版は次のように記しています。
10 すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
11
彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
12
彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。”とあります。

 10-12節を、詩聖は、極めて厳しい状況に立たされたけれども(殺されそうな状況に置かれているけれども)、ヤハウェ(主)への信頼によって、この状況を打破しよう、ということを記しているのでしょう。

 詩聖が主に信頼したとき、主はどのようにしてくださったのでしょう。
13.18
節には“私は激しく突かれて倒れそうだったが、主が私を助けてくださった。/主は私を厳しく懲らしめたが、死に渡すことはなかった。”と記されています。

 詩聖は、主の御力を体験し、主の御力を賛美し、主の御力を後世に伝えようとしています。13-17節には次のように記されています。
13 私は激しく突かれて倒れそうだったが、主が私を助けてくださった。
14
 主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。
15
 歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
「主の右の手は力を振るう。16 主の右の手は高く上がり、主の右の手は力を振るう。」
17
 私は死なずに生き長らえ、主の業を語り伝えよう。”とあります。

 このようなことは、モーセもヨシュアも士師たちも、ダビデも多少の差はあれ経験してきたことでしょう。
私たちキリスト者も、程度の差はあっても、本質的には似たような経験をすることでしょう。

 主が「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られたのですから。

 また、1コリント1013には“あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。”(2017)と記され、
 1コリント4章には、
8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
9
迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
7
私たちは、この宝を土の器〔肉の体(筆者挿入)〕の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。”(2017)と記されています。

 詩篇118篇を記した詩聖は、窮したときに大切なことは「主への信頼」ですよ、と教えてくれています。

 詩篇375には“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”(2017)と記され、
詩篇3210には“主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。”(抜粋・2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
厳しい状況の中に置かれたときでも常にあなたに信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「われは幼子」(聖歌490 聖歌総合版508
“1.われは幼子(おさなご) われ主にすがらん 小さくあれど 信仰いだきて
(折り返し)*絶えず 主イェスの手に よりすがらん 静けき昼も 風吹く夜も
2.などか おずべき われ主にすがらん 神の御霊の導きあれば *
3.晴れたる朝も われ主にすがらん 嵐の夜は すがり祈りせん *
4.息を引くとき われ主にすがらん よし あめつちは 崩れ去るとも *”

2024年6月13日 (木)

使徒4:5-12 聖霊による働き/キリスト以外に救いはない

 使徒45-12には次のように記されています。
5 翌日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
6
 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
7
 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、
「お前たちは何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか」と尋問した。
8
 その時、ペトロは聖霊に満たされて言った。
「民の指導者たち、また長老の方々、9 今日私たちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によって癒やされたかということについてであるならば、10 皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。
この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。
11
 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石』です。
12
 この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 5.6節には“5 翌日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。”(聖書協会共同訳)とあります。
 2017は“5 翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。”と訳しています。
 5節の「議員」(聖書協会共同訳、新共同訳)、「指導者」(岩波訳、フランシスコ会訳、新改訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アルコーン」です。
聖書協会共同訳は8節の「アルコーン」を「議員」ではなく、「指導者」と訳しています。

 ペテロは、かつて上記のユダヤの指導者たちを非常に恐れたのです。
今回は、以前に恐れをなした人々の前で恐れることなく証言し、宣教しました。
以前の場面から見ていきます。
 マタイ2657-75(抜粋)には次のように記されています。
57 人々はイエスを捕らえ、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
58
 ペトロは遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで行き、成り行きを見届けようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
59
 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。/
65
 そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。
「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。66 どう思うか。」
人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
67
 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打って、68 「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言った。
69
 ペトロが外の中庭に座っていると、召し使いの女が一人近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70
 ペトロは皆の前で打ち消して、「何を言っているのか、分からない」と言った。
71
 ペトロが門の方へ行くと、ほかの召し使いの女が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72
 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73
 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる。」
74
 その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
〔塚本訳は解説を加えて“そこでペテロは、「そんな男は知らない。(これが嘘なら、呪われてもよい)」と、幾たびも呪いをかけて誓った。するとすぐ鶏が鳴いた。”と訳しています。(筆者挿入)〕
75
 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 災いに会う前は熱い心を持った強気のペトロでしたが、ひとたび恐怖を覚えるような状態に置かれたペトロは、上記のような弱さを持った人でした。

 しかし今回は、聖霊の力によって、大祭司たちや長老たち及び議員たちの前に立って堂々と証言をし、福音を語っているのです。今度はその内容をリビングバイブル(意訳)で読んでみます。使徒47-12には次のように記されています。
7 ペテロとヨハネは一同〔大祭司や長老、サンヘドリン{最高法院}の議員たち(筆者挿入)〕の前に引き出され、尋問が行われました。
「おまえたちは、何の力で、また、だれの権威で、こんなことをしたのか。」
 8 その時、ペテロは聖霊に満たされ、落ち着きはらって答えました。
「わが国の名誉ある指導者、ならびに長老の方々。9 お尋ねの件は、あの足の悪い男のことで、どのようにして彼が治ったかということでしょうか。
10
そのことなら、あなたがた、いやイスラエルのすべての人たちに、はっきりお話ししたいのです。
この出来事は、あなたがたが十字架につけ、神様が復活させてくださった、あのメシヤ(救い主)、ナザレのイエスの名と力とによるのです。
11
メシヤのイエスは、まさに『建築士たちの捨てた石が、最も重要な土台石になった』(詩篇11822)と聖書にある、その石なのです。
12
この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」”とあります。

 主イエス様は、弟子たちを離れて、天に昇って行かれる前に、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒18抜粋・2017)と語られ、また、それ以前に、「・・、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊〔直訳「父の霊」(筆者挿入)〕です。」(マタイ1018-202017)と語っておられました。

 弟子たちは、御復活されたキリスト・イエス様にお会いした後も、まだ怖がっていたのかもしれません。ヨハネ2026を読むと、弟子たちがいた戸には鍵がかけられていた、と記されています。イエス様が地上におられたときは開放的でした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様は「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(ヨハネ1526)と語られましたが、今日の個所から、そのことを学ばせていただきました。
また、このことは、私たち自身の証しともなることを覚えます。
「キリスト以外に救いはない」ということを覆そうとするキリスト教会の中からの背教が世の終わりに起こりますが、新生したキリスト者は、そのようなことを語る指導者たちは偽物であるということを見分けてそのような人たちから離れることと思います。離れることが大変な人には主が力を与えてあげてください。
キリスト以外には救いがないのですから。
まことの救い主、唯一の救い主、慈しみ深い主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月12日 (水)

箴言29:4 公正と正義によって統治され、繁栄と平和が続く王国

 箴言294を、
聖書協会共同訳は“王は公正によって国を立たせ、貢ぎ物を取り立てる者〔直訳「貢物の人」(欄外注)〕はこれを滅ぼす。”と訳し、
 新共同訳は“王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。”と訳し、
 2017は“正義によって王は国を建てる。重税を取る者は国を壊す。”と訳し、
 リビングバイブルは“正しいことをする王は国をしっかり治め、わいろを要求する王は国を滅ぼします。”と訳しています。

 「公正」(聖書協会共同訳)、「正しい裁き」(新共同訳)、「正義」(2017)、「正しいこと」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ミシュパートゥ」で、裁き、裁く、公正、公平、正しい、正しいこと、神の法、・・等の意があります。

 「立たせ」(聖書協会共同訳)、「安定させる」(新共同訳)、「建てる」(2017)、「治める」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーマドゥ」で、立つ、立たせる、設立する、確立する、定着させる、・・・等の意があります。

 前半部分と後半部分の文の間には接続詞「ヴェ」があり、andにもbut、・・等、という意にも用いられます。

 今日の聖句の前半部分を読むと、これが完全に行われるのは、キリストの千年王国における王の王、主の主であるキリスト・イエス様の統治の時代です。
主は、神の法に基づき、地上を統治なさるのです。
私たちに、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ610)と祈り方を教えてくださいましたが、この祈りは、キリストの千年王国時代に成就するのです。
キリスト者の場合、まずはキリスト者の心の中で、この祈りは成就していきます。

 今の時代でも、主が正しいとするあり方で国を治めたら、その国は祝福されることでしょう。
しかし、「重税を取る者は国を壊す。」、「わいろを要求する王〔「王」と訳されている語のヘブライ語原語は「イーシュ」で「人」です(筆者挿入)〕は国を滅ぼします。」(リビングバイブル)、「貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。」と後半部分にあります。
わいろを取る政治家や役人、わいろを要求する政治家や役人、重税を取る政治家や役人、貢物を要求する政治家や役人が力を持つと、国はどうなるのでしょう。
この聖句は、国が壊される、国が亡びる、と教えています。

 ソロモン王の時代の末期は、おそらく税が重かったのでしょう。その上、ソロモンの子のレハブアムは更に重税を課しました。
その結果、12部族からなるイスラエルは、北イスラエル王国とユダ王国(南イスラエル王国)に分裂したのです。そのいきさつは1列王記121-24に記されています。

 キリスト様が統治する千年王国は、公正と正義によって統治され、繁栄と平和が続く王国です。
イザヤ96.7には次のように記されています。
“・・・。
主権はその〔王の王、主の主であるキリストの(筆者挿入)〕肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの千年王国まで待たずとも、私たちキリスト者の内にはキリスト様が王として座してくださり、助言を与えてくださり、平安を与えてくださり、霊的力を与えてくださり、主が良しとされるすべての善きものを与えてくださいますからありがとうございます。
常に主キリスト様に心の王座にお座りいただき、歩み続けることができますよう、お導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月11日 (火)

フィリピ3:8-11 キリストに似たものとされる

 フィリピ38-11には次のように記されています。
8 そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。
キリストを得、9 キリストの内にいる者と認められるためです。
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実〔キリストを信じる信仰(意訳:筆者挿入)〕に基づいて神から与えられる義があります。
10
 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら〔キリストの死と同じ状態になり(新改訳)〕、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは、
8 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。
それは、キリストを自分のものとするためであり、9 もはや、良い人間になろうとか、律法に従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリストを信じることによって救われ、キリストと結ばれるためです。
神が私たちを正しい者と認めてくださるのは、信仰――ただキリストだけを信じ頼ること――を持っているかどうかで決まるからです。
10
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリストを知ること、キリストを復活させた力を、この身をもって体験すること、そして、キリストと共に苦しみ、また死ぬとはどういうことかを知ることです。
11
死者の中から復活した、生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。”と意訳しています。

 2017は、
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
それは、私がキリストを得て、9 キリストにある者と認められるようになるためです。
私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
10
私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。”と訳しています。

 今日の聖書個所に関連する他の聖書個所を下記します。
ガラテヤ221には“私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。”と記され、
 ヤコブ210には“律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。”と記されています。

 ローマ117には“福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。”(抜粋・新共同訳)と記され、
 ローマ321.22には“律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。”(2017)と記されています。

 1コリント130には“あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(抜粋・新改訳初版~第三版)と記されています。

 ローマ63-11には、
3 ・・・。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
4
 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
5
 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
6
 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
7
 死んだ者は罪から解放されているからです。
8
 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9
 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10
 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。”(聖書協会共同訳)と記され、
 ガラテヤ524には“キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。”(2017)と記され、
 ガラテヤ219.20には“私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1コリント1552.53には“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。”(2017)と記され、
 1テサロニケ413-17には、“13 きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14
 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
15
 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。
16
 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。
すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、
17
 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。
こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 1ヨハネ32には“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたとき〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕に、キリストに似た者になる〔霊の体が与えられる(筆者挿入)〕ことは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(2017)と記されています。

 今日の聖書個所は、聖霊によるお取り扱いが必要な箇所なので、解説は無しにします。祈って、恵みのゆえに与えられる内容が多いからです。
主によって与えられないと頷くことができません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖歌568番の2節に「日々 主イエスと歩み ややに 御姿(みすがた)を映(うつ)し ただ神より来る愛に満たされつつ 心は燃(も)ゆ 心は燃(も)ゆ 御霊の火にて燃(も)ゆ 心は燃(も)ゆ 心は燃(も)ゆ 御霊の火にて燃(も)ゆ」というのがありますが、そのように生かさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月10日 (月)

詩篇118:1-9 主に信頼する者に主は応えてくださるお方/とこしえに主に感謝し主を賛美しよう

 詩篇1181-9には次のように記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
2
さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
3
さあ。アロンの家よ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
4
さあ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。
5
苦しみのうちから、私は主〔「ヤー」。ヤハウェ(主)の短縮形(筆者挿入)〕を呼び求めた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
6
主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。”(新改訳初版~第三版)とあります。

 5節には“苦しみのうちから、私は主〔「ヤー」。ヤハウェ(主)の短縮形(筆者挿入)〕を呼び求めた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私に答えて、私を広い所に置かれた。”とあります。
 この個所をリビングバイブルは“苦しみの中から祈り求めると、主は答えて、救い出してくださいました。”と訳しています。

 似たような聖句は聖書の中にいくつもありますが、その中から少し下記します。
 詩篇5014.15には、
「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(新改訳初版~第三版)と記され、
この聖句を新共同訳は「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから〔ヘブライ語聖書には、接続詞「ヴァヴ」があります(筆者挿入)〕、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。」と訳しています。
 ヤコブ46.7には、
「・・・、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(新改訳初版~第三版)と記されています。

 6節には“主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。”と記されています。
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28・2017)と主イエス様が語られた御言葉を思い浮かべます。
キリスト者の霊と魂は永遠であり、体についても、霊の体が与えられた後は、その霊の体も永遠です。

 「主は、私を助けてくださる私の味方です。ですから、主に身を避ける〔原語からは「主に信頼する」とも訳せます(筆者挿入)〕ことは、人に信頼するよりもよいのです。主に身を避ける〔原語からは「主に信頼する」とも訳せます(筆者挿入)〕ことは、君主たちに信頼するよりもよいのです。」と7-9節に記されています。

 新約聖書では、「主」はイエス様を指して用いられていることがほとんどです。
イエスのヘブライ語は「イェシュア」で、ヤハウェは救う、の意です。
マタイ121には「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(2017)と記されています。
イエス様は「救い主」なのです。
主キリスト・イエス様は、御復活後昇天され、御父の右の座に着座され、天においても地においても一切の権威をもたれました。
そのイエス様が、私たちキリスト者の救い主です。

 詩篇1181-4をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
1 さあ、主に感謝しましょう。主はあわれみ深く、その恵みはいつまでも尽きません。
2
イスラエルの人々よ、口々に、「主の恵みは尽きることがありません」とほめたたえなさい。
3
アロンの家の祭司よ、「主の恵みはいつまでも尽きません」と歌いなさい。
4
主を信じるようになった外国人も、「主の恵みはいつまでも尽きません」と歌いなさい。”と記されています。

 1節は「ヤハウェ(主)に感謝せよ。なぜなら良いお方であり、とこしえに恵み深いお方なのだから。」(私訳)とも訳せると思います。
「良いお方」と訳した語のヘブライ語原語は「トーブ」で、good、good man or woman、good thing、・・・、等の意があり、その他KJVでは、beautifulbestbetterbountifulcheerfulfinegladgraciouslyjoyfulkindlykindnesslovingmerrypleasantpleasurepreciousprosperityreadysweetwealthwelfare(be) well (-favoured)という様にも訳されていると、Mickelsonの辞書にあります。

 「恵み深い」と訳した語のヘブライ語原語は「ヘーセードゥ」で、親切、優しさ、いたわり、慈悲、慈悲深い、恵み、・・・等の意があります。

 主に贖われた者たちは、「知識のみ」としてではなく、自分自身の体験と知識において、主が良いお方であり、慈悲深い、恵み深いお方であることを知っているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
詩篇348に「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。」(口語訳)という聖句がありますが、主を愛し、主により頼み、益々主の恵み深きことを味わい知りながら歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 9日 (日)

使徒4:1-4 ペテロとヨハネが逮捕される/復活を信じないサドカイ派の人たち

 使徒41-4には次のように記されています。
1 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿の主管、サドカイ派の人々が近づいて来た。
2
 二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、3 二人を捕らえて翌日まで留置した。
すでに夕方だったからである。
4
 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、その数は五千人ほどになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節に「サドカイ派」という語が出てきます。
サドカイ派について、聖書辞典は次のように記しています。
“サドカイは ~派 使5:17以外は「サドカイ人」と訳している〔新改訳の場合(筆者挿入)〕。サドカイ人はエルサレムの神殿を中心とする祭司家系に連なる裕福な上流階級であった。
 その起源については、ダビデ、ソロモンの時代に、エブヤタルの失脚に伴って、祭司の指導者として活躍したツァドク(1:38‐39)に由来するという説や、ヘブル語のツァッディーク(義なる者)という形容詞に由来するという説があるが、はっきりしたことは分らない。サドカイ派が歴史上姿を現すのは、アンティオコス・エピファネスの時代(前175―163年)に彼のヘレニズム化に反対して立ち上がったマカベア家(ハスモン家)によって古い祭司系譜が一掃され、マッタティヤの子シモンが大祭司になった時からである。このマカベア家の宗教的、政治的な立場を支持する党派としてサドカイ派が登場し、また、一方では民衆の宗教的指導者として厳密な律法の遵守を説くパリサイ派との間に政治と宗教を巡る主導権争いが、紀元70年のエルサレム陥落まで続くのである。
 さかのぼって前63年にローマがパレスチナを支配するようになり、さらにヘロデ大王が前37年にエルサレムの王位につくと、マカベア家の政治的指導性は失われ、その後大祭司とサドカイ人はローマとヘロデの圧制に苦しむことになる。ヨセフォスによれば、ヘロデの時からエルサレム滅亡まで28人の大祭司が替ったと言う。このことは、大祭司とそれを支持するサドカイ人の力があなどりがたいものであり、ローマが、お気に入りの大祭司によってユダヤを支配しようとしたことをも意味している。
 新約の中では、「サドカイ人」ということばは14回現れるが、いずれも複数形である。5箇所ではパリサイ人と一緒に用いられている。バプテスマのヨハネが、パリサイ人とサドカイ人を同列において「まむしのすえたち」と呼んでいることは興味深い(マタ3:7)。また、イエスの共同の敵として現れる(マタ16:1,6,11‐12)。しかし、パリサイ人と違って、彼らは復活はないと主張していた(マタ22:23,マコ12:18,ルカ20:27,使4:1‐2,23:8)。これらの箇所に加えて、ヨセフォスの証言によれば、彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していたことが明らかである。サドカイ派はパリサイ人と違って「モーセ五書」に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる。しかし同時に、彼らは宗教的指導者であると共に、政治の指導者でもあったので(使4:1,5:17,23:6‐8)、初代教会の主張する復活論に教理的に反対するのみならず、彼らの力が増大すれば、政治的な混乱を招き、自分たちの立場が危うくなることを恐れて、激しく反対したものと考えられる彼らの関心は主として世俗的なことであり、古い形の宗教的教義を固守はしたが、宗教上の問題には真の関心を寄せなかったと言える。”と述べています。

 ペテロとヨハネがキリストの復活をのべ伝えていたので(2)、祭司たち、神殿の主管、サドカイ派の人々が、二人を捕えて留置した(1-3)という理由は、上記の説明からよくわかると思います。

 サドカイ派の人たちの考え方は、
天使などのような見えないものは信じない、
霊も見えないので信じない、
よみがえりは信じない、
死んでしまえばそれで終わりで、死後に神の裁きがあるなどと言うことは信じない、
実在しているのは五感で分かるもののみであり、この世のお金、この世の権力、この世の幸せが大切である、というようなありようであったのではないかと思います。

 現代人の中には、科学的にわかるものでなければ信じない、大切なのはこの世の幸せであるというような考え方をする人が一定数いますが、約2000年前のサドカイ派の人たちと共通しているところがありますね。

 2コリント418には「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(2017)という聖句が記されています。

 主なる神様の働きには大いなるものがあり、この時点で救われている人は、男性だけでも5000人に達したのです(4)。

 このように次々と救われていったのは、皆ユダヤ人でした。最初に、次々と救いにあずかっていったのはユダヤ人です。それは神様の御摂理でしょう。
使徒10章までいかないと異邦人の救いは出てこないのです。
異邦人コルネリウスたちが救われたとき、ユダヤ人たちは、異邦人が救われたということで驚いたのです。
 使徒10章には次のように記されています。
44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同〔コルネリウス及びコルネリウスの親族や親しい友人たちという異邦人たち(筆者挿入)〕の上に聖霊が降った。
45
 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた
46
 異邦人が異言を語り、神を賛美しているのを聞いたからである。
そこで、ペトロは、47 「この人たちが水で洗礼(バプテスマ)を受けるのを、誰が妨げることができますか。私たちと同様に聖霊を受けたのです」と言った。
48
 そして、その人たちに命じて、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けさせた。その後、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在してくれるように願った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主なる神様のご計画は、やがてユダヤ人を離れ、異邦人の救いへと進んで行くのです。
使徒言行録28章には次のように記されています。
23 そこで、彼ら〔ユダヤ人たち(筆者挿入)〕は日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
24
 ある者は話を聞いて納得したが、他の者は信じようとはしなかった
25
 互いの意見が一致しないまま、彼らが立ち去ろうとしたとき、パウロは一言、次のように言った。
「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。
26
 『この民のところへ行って告げなさい。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない。27 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じている。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、立ち帰って私に癒やされることのないためである。』〔26.27節はイザヤ69.10からの引用(筆者挿入)〕
28
 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記3019には「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(2017)と記されています。
モーセの時代から千数百年後、主イエス様は次のように語られました。
33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。/ 35 私〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。36 しかし、前にも言ったように、あなたがたは私を見ているのに、信じない。37 父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る私のもとに来る人を、私は決して追い出さない38 私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。39 私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである40 私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6章・聖書協会共同訳)と語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主キリスト・イエス様を信じさせていただけましたことを感謝します。
あなたの子どもとしてふさわしくお整え下さり、日々主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 8日 (土)

フィリピ3:4-9 キリストを信じキリストに頼ることは人の努力にまさる

 フィリピ34-9には次のように記されています。
4 とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。
5
 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。
7
 しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
8
 そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑(くず)と考えています。キリストを得、9 キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。”(聖書協会共同訳)とあります。

 5節に“私は生まれて八日目に割礼を受け”とあります。
イスラエル人は8日目に割礼を受けたのです(レビ123)。

 また5節に、パウロは、“律法に関してはファリサイ派”であった、とあります。
ファリサイ(パリサイ)派について、聖書辞典から抜粋します。
“特徴。(1)律法主義。パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある。彼らは律法を厳格に解釈し、それをできるだけ忠実に実行しようとした(ヨセフォス『ユダヤ戦記』1:5:2,2:8:14,『自伝』38,『ユダヤ古代誌』17:2:4)。彼らの律法解釈はやがて複雑な体系となり、「父祖の伝承」として口伝を形成するようになる。反対者たちは、これを「律法に垣根を巡らす者」として非難した。彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した(マコ7:3‐4)。彼らは、このような儀式的きよめの律法を守らない者を「地の民」(アム・ハアレツ)と呼んで軽蔑した。新約時代のユダヤ教の中には、エッセネ派やクムラン宗団のような厳格派がほかにも存在したが、主イエスの宣教において最大の敵となったのはこのパリサイ派の律法主義であった(マタ23:25)。
 (2先祖たちの言い伝えを守る。パリサイ派の特徴の第2は、その聖書解釈にある。それは「昔の先祖たちの言い伝えに従う」解釈である(マタ15:2,マコ7:3,5)。パリサイ派は伝統の積み重ねによる解釈を重視した昔からの言い伝えの上に、新しい条件のもとでの解釈が加わるので、それはやがて膨大なものになった。彼らはまた、モーセの律法だけでなく、預言者の書と諸書をも含めた
 3.教理。パリサイ派の教理の要点は次の通りである。
1)神の摂理的支配の絶対性。彼らは、歴史が神の目的に従って統治され導かれていると信じる。
2)復活。パリサイ派は死後の復活と未来の生活を信じる。人はおのおのそのなしたところによって神の報いと罰を受ける。
3)御使い。パリサイ派は複雑な御使い論を教える。
4)終末論。パリサイ派は、自分たちが真のイスラエルであり、御使いによる神の啓示により、神と特別に近い関係を持っていると信じる。確かに、外国人によって支配されている現在の世には、苦難と悲惨があり、神の恵みは完全には現されていないが、やがて運命が転換し、油注がれたメシヤであるダビデの子孫が現れて、地上にダビデ王国の栄光が回復される。彼らが期待するのは地上のパラダイスであり、彼岸的なものではない。敬虔な者は復活して、このメシヤ時代の地上的光栄にあずかる。(5)メシヤ。メシヤは異邦人の支配を打ち破り、エルサレムとイスラエルから異邦人を追放する。そして彼らを追い払った後にイスラエルを回復する。イスラエルの部族は再び集められ、エルサレムは首都となる。神殿礼拝は再開される。異邦人は屈服し、貢を持ってやってくる。そしてイスラエルの神を拝するようになる。
 4.新約時代のパリサイ派。ヨセフォスは、ヘロデ大王の時代に、パリサイ派の数は6千人であったと記している(『ユダヤ古代誌』17:2:4)。ヨセフォスはヘロデの宮廷から直接資料を得ているから、これは正確な数である。それは厳密な意味でこの派に属している者の数であろう。しかし、パリサイ派の帰依者の数を入れると25千人に上るだろうと言われる。そのうち2万人はエルサレムに住んでいた。主イエスの時代、パリサイ派は依然として強い影響力を持っていた。”と記されています。

 6節に「律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。」とありますが、この個所をリビングバイブルは「ユダヤ教の基準からいえば、非難されるところのない者でした。」と意訳しています。

 ユダヤ教は、神ヤハウェ(主)がイスラエル人と契約を結んだ律法に数多くの条項を加えたのです。主イエス様は、そのことを非難しました。それは福音書に記されています。ユダヤ教の法の束縛を受けて喘(あえ)いでいる人たちに、主イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11282017)と語られたのです。この聖句をリビングバイブルは「重い束縛を受けて、疲れはてている人たちよ。さあ、わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげましょう。」と語られ、更に「わたしはやさしく、謙そんな者ですから、負いやすいわたしのくびきを、わたしといっしょに負って、わたしの教えを受けなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。わたしが与えるのは、軽い荷だけだからです。」(マタイ1129.30・リビングバイブル)と語られたのです。

 8節前半部分には“そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。”と記されています。

 パウロは、肉の力で、ユダヤ教の法律を守ろうとしていました。
それは、肉の努力と人の意志でした。
またパウロの血筋はベニヤミンでした。
救われて神の子どもとなった人は“・・、血すじによらず、肉の欲〔ギリシア語原語は「意志」とも訳せます(筆者挿入)〕によらず、また、人の欲〔「意志」とも訳せます(筆者挿入)〕にもよらず、ただ神によって生れたのである。”
(口語訳)、とヨハネ113に記されています。
パウロは、出自(血筋)、肉の意志、人(or魂)の意志、によっては、救われて神の子どもとされることができないことを知ったのでした。

 8.9節をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
8 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな、色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。それは、キリストを自分のものとするためであり、9 もはや、良い人間になろうとか、律法に従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリストを信じることによって救われ、キリストと結ばれるためです。神が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、信仰――ただキリストだけを信じ頼ること――を持っているかどうかで決まるからです。”と記しています。

 救いは、自分や他の何かに頼るのではなく、キリストだけを信じ、キリストに頼ることですよ、とパウロはわかり易く述べたのでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリスト・イエス様を信じさせていただける恵みにあずからせていただけましたことを感謝します。
主イエス様に信頼することが大切であることを教えてくださり、またそのように訓練し続けてくださっておられますことを感謝します。
キリスト・イエス様の内には全てのものがあります。
何しろ神様なのですから。
それだけではなく、人ともなられたので、人のすべての喜怒哀楽を良く知っておられますから感謝します。
また、すでに新生させていただいた霊においてはキリストの霊と一つとされておりますことを感謝します(1コリント617、ローマ89.10、ヨハネ33.6)。
体も贖われて霊の体にしていただけるときを待ち望みつつ、今日も主に従って歩む一日であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 7日 (金)

箴言29:3 慈愛の父

 箴言293を、
新改訳は“知恵を愛する人は、その父を喜ばせ、遊女と交わる者は、財産を滅ぼす。”と訳し、
 新共同訳は“知恵を愛する人は父を喜ばせる。遊女を友とする者は財産を失う。”と訳し、
 リビングバイブルは“知恵のある子は父親を幸せにしますが、悪い女とつき合う者は財産を使い果たして、親に恥をかかせます。”と訳しています。

 直訳的には、新改訳や新共同訳のようになります。
リビングバイブル訳の最後の部分の「親に恥をかかせます」という個所は付け足したのでしょう。

 聖書に記されている知恵にはいろいろな分野の知恵があります。
聖書辞典は知恵について次のように記しています。
“ちえ 知恵 このことばは聖書の中でさまざまな知的、技術的能力や、またそれによって生み出された箴言、訓戒などを表すものとして用いられている。知識、英知、訓戒、悟り等、同義に使われていることばも多い。

1.実際的能力としての知恵。幕屋や神殿を建てる時、ウリの子ベツァルエルやツロのヒラムらが、建材や備品、式服などの設計、作製のために与えられていた技術的能力(出31:3,Ⅰ列7:14)や、ソロモン王に与えられた、民を正しくさばき(Ⅰ列3:28)、治め(Ⅰ列5:7)、外交関係を平和に保つ(Ⅰ列5:12)といった統治能力である。同じくソロモン王について言われていることであるが、箴言を語り、歌を作り、植物、動物に関する知識を得る能力(Ⅰ列4:3234)、商いによって財宝を殖やし、金銀を蓄える能力(エゼ28:45)、また目的を達成するために計画し実行する能力(Ⅱサム20:22)なども含まれる。これらはすべて知恵と呼ばれている。

2.人間的賢さとしての知恵。「知恵のある者……自身の悪知恵」(ヨブ5:13)、「ことばの知恵」(Ⅰコリ1:17)、「この世の知恵」(Ⅰコリ1:20)、「すぐれた知恵」(Ⅰコリ2:1)、「人間の知恵」(Ⅰコリ2:5)などと言い表されている知恵は、「はかりごと」(エレ18:18)を与えたり、「説得力のある知恵のことば」(Ⅰコリ2:4)で語らせたりして、人を賢く見せ、誇らせることができる。しかし、この知恵はどこまでも人間の経験や思考から出たものなので、これによって神を知ることはできない(Ⅰコリ1:21)。ヤコブは、心の中のねたみや敵対心を取り去ることのできない知恵について、「地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(ヤコ3:15)と言っている。

3.霊的な力としての知恵。「この世の知恵」「人間の知恵」に対比されるのは、「霊的な知恵」(コロ1:9)、「上からの知恵」(ヤコ3:17)である。この知恵について聖書は繰り返し、「主を恐れることは、知恵の初め」(詩111:10,箴9:10等)であると告げ、主に対する信仰こそが、知恵の出発点であり、本質であることを教える。そしてエレミヤは、「見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう」(エレ8:9)という主のことばを記し、知恵は、神のみことばを尊び、聞き従うところにこそあることを覚えさせる。さらに主イエスは、「知恵の正しいことは、その行ないが証明します」(マタ11:19)と語り、ヤコブも、「その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい」(ヤコ3:13)と勧める。知恵は、倫理的行為においても実を結ばせる力なのである。使徒パウロは、知恵が、キリストのことばに基づいて、互いに教え、互いに戒める力であることをも教えている(コロ3:16)。結局この「上からの知恵」は、神を恐れ、みことばを尊ぶことによって、生活上のすべてのことについて善悪を判断し、処理していくことができるように、神から与えられる能力であると言えよう。

4.伝え得る知識としての知恵。「私の口は知恵を語り」(詩49:3)、「これは、知恵と訓戒とを学び」(箴1:2)というような用法で明らかなように、客体化された知恵もある。これは、知的能力としての知恵による、学びや思考、経験や反省を経て知り得た知識、作られた箴言、生み出された訓戒などである。そして「知恵のある者」たちによって作られ、まとめられた文書は、今日、知恵文学として知られている。聖書中では、ヨブ記、箴言、伝道者の書がその代表的なものである。外典の「ベン・シラの知恵」「ソロモンの知恵」もよく知られている。

5.人格化された知恵。神はその知恵をもって世界を創造されたのであるが(詩104:24)、この知恵が、箴8章などにおいては擬人化されており、「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた」(8:22)、「神が上のほうに大空を固め、……地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」(8:2830)と知恵自身が語る形になっている。これを新約聖書の「御子は……造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです」(コロ1:1516)や、ヨハネ1:13などと合せ読む時、この擬人化された知恵に、先在の御子イエスを覚えさせられる。また、Ⅰコリ1:24には、「キリストは神の力、神の知恵なのです」とあって、私たちの救いにかかわる神の知恵が、「十字架につけられたキリスト」(Ⅰコリ1:23)において人格化され、この方によって神の永遠の計画が実現されることを知らされる。

以上のように知恵は、人間の経験と反省によって得られる実際生活上の知恵などというものではなく、どういう意味で用いられている場合にも、神と深くかかわっていることが分る。神の知恵は、十字架のキリストにおいて私たちに永遠の救いを備え、人間に与えられた知恵は、神を恐れ、悪を離れる敬虔な生活を指向させるのである。具体的生活にかかわる訓戒や箴言も、この原則の中で与えられ、これを離れる時愚かなものとなる。(佐竹昌美)”と述べています。

 リビングバイブル訳の付け足しの部分に関連して、父なる神様の愛の心を、イエス様のたとえ話から考えてみます。

 リビングバイブル訳では“悪い女〔「悪い女」と訳されている語のヘブライ語原語は「ザーナー」で売春婦、不倫する者、・・等の意(筆者挿入)〕とつき合う者は財産を使い果たして、親に恥をかかせます。”と意訳されていますが、主イエス様は、父なる神様のもとに戻ってくる者を大喜びで迎えるお方が、あなたがたの父ですよ、と教えてくださっておられます。

 ルカ15章に記されている放蕩息子の兄によれば、この弟は、「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子」(30節・2017)というような人でした。

 しかし、放蕩息子の父は、放蕩息子が帰って来た時に、「弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(ルカ15322017)と言われる慈愛に富んだお方であったのです。

 多くの人が、父なる神は厳しい、恐ろしい、と言いますが、そのご性質は主イエス様と同じで、慈しみ深いお方なのです。
まことの神様は、愛なる神様ですが、義なる神様でもありますから、義に基づいたさばきも行われるお方です。

 パウロは次のように記しています。
4 それとも、神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その〔神の(筆者挿入)〕豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。
5
 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えています。”(ローマ2章・聖書協会共同訳)とあります。

 御父の豊かな慈愛を常に実感できる歩みをしたいものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは慈愛に富んでおられるお方です。
それをいつも実感できるあなたとの交わりの内を歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 6日 (木)

詩篇117篇 主に感謝し、主を賛美しながら歩んで行こう

 詩篇117篇には次のように記されています。
1 主を賛美せよ、すべての国よ。主をほめたたえよ、すべての民よ。
2
 その慈しみは私たちに力強く、主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には“主を賛美せよ、すべての国よ。主をほめたたえよ、すべての民よ。”とあります。
全世界のすべての人に対して、神ヤハウェ(主)をほめたたえるように(賛美するように)、と記されています。

 全世界の人が、神ヤハウェ(主)を賛美すべき理由は何なのでしょう。
その理由は、2節に“その慈しみは私たちに力強く、主のまことはとこしえに絶えることがない。”と記されています。

 「慈しみ」と訳されている語のヘブライ語原語は「へ―セード」で、親切、優しさ、慈悲、恵み、慈悲深い優しさ、・・・等の意があります。新改訳は「恵み」と訳しています。

 「まこと」と訳されている語のヘブライ語原語は「エメト」ですが、これは「アーメン」の短縮形である、と辞書に記されています。
「エメト」には「まこと」の他、真実、誠実、真理、確信、正直、忠実、・・・等の意があります。

 ヨハネ114は“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこと〔真理(新共同訳)〕に満ちておられた。”(2017)と主イエス様を紹介しています。

 話を変えますが、この世の最後の世界宣教で語られる福音は、人間が語るのではなく天使が語るのです。
黙示録146.7節には次のように記されています。
6 また私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、7 大声で言った。
神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヤハウェを日本語聖書は「主」と表記しています。
ヤハウェ{英字表記にするとYHWVH}という読み方について:ヘブライ語は子音字に母音記号を付けて読みますので、母音記号の付け方で、ヤハウェ、ヤーウェー、ヤーヴェー、エホバ、・・等と読むことが可能になります。本当はなんとお呼びしたらよいのか、それは天国に行ったら分かることでしょう。/ユダヤ人は、YHWHをここまで書いてきたように呼ぶことは畏れ多いということで、YHWHと記されている個所を「アドナイ」(主)と読み替えています。

 まことの神様のお名前は色々ありますが、聖書の中では、ヤハウェ(主)と記されている個所がとても多いです。

 ヤハウェ(主)という御名前が聖書に最初に登場する箇所は、創世記24
“これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、地と天を造られたときのこと。”(2017)という聖句です。
神ヤハウェ(主)が万物の創造主であることがこの聖句から分かります。

 モーセが、「あなたのお名前は?」という、まことの神様に対する質問に対して、神様が答えた個所が、出エジプト313-15に次のように記されています。
13 モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』 と言うつもりです。
すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」
14
 神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、 私をあなたがたに遣わされたのだと。」
15
 重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私をあなたがたに遣わされました。』これこそ、とこしえに私の名。これこそ、代々に私の呼び名。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節の「私はいる、という者である。」と聖書協会共同訳が訳した個所を、
文語訳は「我は有て在る者なり」と訳し、
口語訳は「わたしは、有って有る者」と訳し、
新改訳は「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と訳し、
新共同訳は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と訳し、
NIV
は“I AM WHO I AM.”と訳し、
リビングバイブルは“「わたしは『わたしはある』(「永遠に生ける神、創造者」の意で、イスラエルの神の名。「主」のもともとの意味)という者である。”と解説を付けて訳しています。

 ここまででわかることは、YHWH(私的には「ヤハウェ」or「ヤーウェー」、その短縮形の呼び名としては「ヤハ」or「ヤー」とお呼びさせていただいています)という御名前によって、ヤハウェ(主)は、永遠にして自存の御方であり、創造者である、ということがわかります。

 全世界の人、聖書を読んだこともない人に対しても、神ヤハウェ(主)が創造者である、と神ヤハウェ(主)は語られます。
すべての人は、神ヤハウェ(主)を個人的には知らなくても、自分の周りを、世界を、宇宙を、・・・を見れば、あるいは熟考すれば、創造者がいることを悟ることができますよ、と聖書は言います。

 ローマ1章には次のように記されています。
19 ・・、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20
 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 悪魔悪霊は、神ヤハウェ(主)に敵対します。
コロサイ28には“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。
 悪魔(サタン)は進化論を導入しました。
{この世の諸々の霊のトップがサタン(悪魔)なのです。1ヨハネ519を参照してください。}
サタンは、人の心(知情意)に思想、考え、感情、・・等を導入できるのです(ヨハネ132参照)。
悪しき霊に知恵を授けられた人たちは、進化論を推し進めています。
進化論は真理ではないので、今でも時々その理論は上書きされています。
進化論を信じる人は、進化論を信じる信仰によって滅びへと向かっているのです。{かつての私はそのような者でしたが、主の憐れみによって救い出されたのです。(エペソ21-10に記されているように)}

 話を今日の聖句に戻します。
全世界のすべての人は、主の創造の御業を賛美することができます。
更に救いにあずかった人は、主が与えてくださっておられる霊的な、たましい的な恵みにも感謝することができます。
私たち人間は、このことも、あの事も、更にあの事も、このことも、とたくさんのことを主に感謝し、主をほめたたえることができるようにされています。

 エペソ519.20には次のように記されています。
「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(2017)とあります。
特にキリスト者は、このことを可能とされている人々です。

 神ヤハウェ(主)に感謝し、神ヤハウェ(主)をほめたたえ、神ヤハウェ(主)に従う、というあり方を拒否する人に対して、神様は、いくたびも忠告しますが、それでも聞く耳を持たない人に対しては、その人の自主性を尊重します。結局その人は、まことの神様であるヤハウェ(主)に従うことを嫌い、自分からこの世の神である悪魔(サタン)の奴隷となることを選んでいるのです。
そのような人はどのようになってしまうのでしょう。
 ローマ118-32には次のように記されています。
18 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19
 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20
 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
21
 なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22
 自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、23 不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24
 そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。
25
 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン。
26
 それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
28
 彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました
29
 あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、30 悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。
32
 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行うばかりか、それを行う者を是認さえしています。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちが、すべてのことについて主に感謝し、主をほめたたえ、主の霊に満たされて、喜びをもって歩み続けていけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 5日 (水)

使徒3:17-26 メシア(キリスト)はイェシュア(イエス)である/悔い改めて立ち返れ/旧約聖書だけで宣教はできる(ユダヤ人のために)

 使徒317-26には次のように記されています。
17 ところで、きょうだいたち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、私には分かっています。
18
 しかし、神は、すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
19
 だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
20
 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために定めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
21
 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなる時まで、天にとどまることになっています。
22
 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、私のような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
23
 この預言者に聞き従わない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
24
 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、この日について告げています。
25
 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。神はアブラハムに、『地上のすべての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』と言われました。
26
 それで、神はご自分の僕を復活させ、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、この方があなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせるためでした。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 17節には“ところで、きょうだいたち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、私には分かっています。”とありますが、この文の中の「あんなことをしてしまった」という内容は、イエス・キリストを殺したということです。
 使徒313-15には、
13 ・・・。あなたがたはこのイエスを引き渡し、 ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15 あなたがたは命の導き手〔「導き手」と訳された語のギリシア語原語は「アルケーゴス」で、チーフリーダー、君、第一人者、・・等の意があります(筆者挿入)、「いのちの君」(口語訳、新改訳)〕を殺してしまいました・・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ペトロ{(ペテロ)ギリシア語では「ペトゥロス」、ヘブライ名は「シメオン」、「シメオン」のギリシア語音写は「シモン」、「ケパ」はアラム語で岩の意}は、群衆に、あなたがたは、神が遣わされた罪なき救い主、すなわち義人である方を殺したのである、と彼らの罪を示しました。

 18節には“しかし、神は、すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。”とあります。

 メシアの苦しみの預言はいくつかありますが、ここではその中の代表的な預言個所の一つであるイザヤ53章の一部を下記します。
6 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを、主は彼に負わせられた。
7
 彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった。
8
 不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9
 彼は暴虐をなさず、口には偽りがなかったのに、その墓は悪人どもと共にされ、富める者と共に葬られた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 後にペトロは、上記の聖書個所を引用して、ペトロの手紙に次のように記しています。
22 「この方は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
25
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。”(1ペトロ2章・聖書協会共同訳)とあります。

 余談になりますが、大患難時代の宣教の中心者たちは、イスラエル人です(黙示録71-8141-3111-6)。現代のイスラエル人たちは、新約聖書を聖書として認めていませんが、イスラエル人が、イェシュア(イエス)がハメシアハ{メシア(キリスト)}であると知ることができるのは旧約聖書(イスラエル人が聖書と呼ぶ書物)の聖句を通してです。
ユダヤ人に伝道しようという人は、旧約聖書を用いて、イェシュアがメシアであるということを示す必要があるのです。
ところがイェシュアがメシアであると、新約聖書に書かれている個所の多くの場所は、旧約聖書からの引用なのです。
ですから新約聖書に記されているそれらの個所をよく知れば、旧約聖書からユダヤ人に宣教することができるのです。福音書、使徒言行録、使徒たちの書いた手紙等には、旧約聖書からの引用が数多く記されています。
私は、ユダヤ人に宣教するように召されてはいませんが、ユダヤ人と知り合いの方が、もしこの文章を読んでくださったら、すでにご存知かもしれませんが、もしそうでなければ、参考にしてみてください。

 話を元に戻します。
ペトロは群衆に罪を示した後、「自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(19)と語りました。

 22.23節のペトロの言葉は、申命記18章からの引用です。
申命記1815.18.19に次のように記されています。
15 あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。/
18
 私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。
19
 彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、主イエス様についての預言です。
モーセは「私のような預言者」と語りましたが、主イエス様は、モーセ以上のお方です。モーセは人でしたが、主イエス様は神が人となられたお方、全き神であられ全き人となられたお方であったのです。モーセは救い主の予表となった人でしたが、救い主ではありません。主イエス様は救い主そのもの、本体であられたのです。

 25.26a節には“25 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。神はアブラハムに、『地上のすべての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』と言われました。26 それで、神はご自分の僕を復活させ、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。”とあります。

 『地上のすべての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』という個所は、創世記2218からの引用でしょう。
創世記2218aには「あなたの子孫〔単数形(筆者挿入)〕によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」(2017)と記されています。

 パウロはこの個所の「子孫」についてさらに解釈を加え次のように述べています。
“約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。”(ガラテヤ3162017)と記されています。

 御子イエス様が、神の御子であり、救い主であると信じないのは罪である、と御聖霊は教えてくださいます(ヨハネ168.9)。
そのように信じていなかった罪を改めて、主なる神に立ち返るように、というメッセージをペトロは語りました。
また、御聖霊は「イエスは主です。」(1コリント123)と確信をもって、かつ自然に語らせてくださるお方です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御子イエス様を神のひとり子の御子、そして私の救い主と信じさせてくださいましたことを感謝します。
更に主イエス様を私の主とさせていただけましたことを感謝します。
今日もあなたに従い、あなたに感謝し、あなたを賛美しながら歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 4日 (火)

フィリピ3:2.3 心の割礼

 フィリピ32.3には次のように記されています。
2 あの犬どもに気をつけなさい。悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者に気をつけなさい。
3
 神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節に“あの犬どもに気をつけなさい。”と記されています。
日本では、犬をペットとして家族の一員として買っている人たちも多くいますが、聖書が書かれた時代の犬は、ペットではありませんでした。

 犬について、聖書辞典には次のように記されています。
“いぬ 犬 〈ヘ〉ケレブ、〈ギ〉キュオーン、キュナリオンの訳語で、聖書の中にしばしば出てくる動物である。〈ヘ〉ケレブの語根である〈ヘ〉カーラブは、打つ音とかたたく音を表し、それが転じて「ほえる」となった。〈ギ〉キュオーン(犬)に対して、〈ギ〉キュナリオンは野生の犬を飼い慣らした家畜犬を指し、「小犬」と訳されている。
 イスラエルの人々は、家の番犬として利用したり(イザ56:10)、野獣や盗人の危険から羊を守るために群の番をさせた(ヨブ30:1)。
 とはいえ、パレスチナ地方では、その昔、家畜犬は一般にあまり普及していなかったようで、犬と言えば野生のものが多かったようである。
 空腹な野生の犬は、夜になると、群をなして野山や市街地をうろつき、捨てられた物や死体を食いあさっていた(14:11,16:4,21:19,23,22:38,Ⅱ9:10,36,59:6,14,エレ15:3)。こうした犬は、「足ることを知らない」(イザ56:11)餓鬼のように、群をなして戦場に集まり、戦死者の死体を食い荒らしたと言われる。
 聖書の中では、不潔な人、汚れた人を指して犬という表現が使われている。人を犬と呼ぶことは、はなはだしい侮辱を意味した(Ⅰサム17:43,Ⅱサム3:8,16:9,マタ15:26,マコ7:27)〔マタイ1526、マルコ727のギリシア語原語は「キュナリオン」(筆者挿入)〕。ユダヤ人たちは、異邦人を犬と呼び、異邦人を汚れた者と見なしていた(マタ15:26,マコ7:27,22:15)。また「聖なるもの」を理解できない人々が犬にたとえられ(マタ7:6)、肉体の割礼だけを誇りながら心に割礼のないユダヤ人(申10:16も、神の前に汚れた「犬」と呼ばれている(ピリ3:2)。「自分の吐いた物」を食べる犬のように、一度捨てた罪に戻っていく人々(箴26:11,Ⅱペテ2:22)、肉欲にふける人々も犬と呼ばれ、軽蔑されている(申23:18)。
 以上に述べた軽蔑の用法に対して、謙遜を意味する用法もある。たとえば、「この死んだ犬のような私」(Ⅱサム9:8)と言う時、それはきわめて謙遜な表現になる。他の例としては、サム24:14,Ⅱ8:13,マタ15:27,マコ7:28がある。”とあります。

 フィリピ32に記されている「犬」のギリシア語原語は「キュオーン」です。
また聖書辞典の解説の中にも記されていたように、今日の個所の「犬」と比喩されている人たちは、「心の割礼」を受けていない悪い働き人です。

 良い働き人と悪い働き人の見分け方について、主イエス様は次のように語られました。
15 「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。
16
 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18
 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19
 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20
 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
21
 「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。
22
 その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。
23
 その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」”(マタイ715-23・聖書協会共同訳)とあります。

 3節には「真の割礼」という訳語がありますが、これは「心の割礼」のことです。
割礼とは、包皮環状切除のことですが、それは心の割礼を期待されてのことであったのでしょう。心の割礼については旧約聖書にも記述があるのです。ここでは先に新約聖書の聖句を取り上げ、その後に旧約聖書の聖句を取り上げます。

コロサイ211には“キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。”(2017)と記され、
 ガラテヤ219524には“19 私はキリストとともに十字架につけられました〔完了形受動態(筆者挿入)〕。/24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです〔アオリスト時制能動態(筆者挿入)〕。”(2017)と記されています。(ローマ61-11には「心の割礼」という語はありませんが参考になります)
 申命記1016には“あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。”(2017)と記され、
 申命記306には“あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。”(2017)と記され、(心の割礼無しに主を愛し主に従うことはできません)
 エレミヤ44926には“4 ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。/26 エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。”(2017)と記され、
 エゼキエル447には“あなたがたは、心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民を連れて来て、わたしの聖所にいさせ、わたしの神殿を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血を献げたが、あなたがたの行った忌み嫌うべきあらゆるわざによって、わたしとの契約を破った。”(2017)と記されています。

 フィリピ32.3を私は次のように捉えます。
「救われるためには割礼を受ける必要があります、と教えている包皮を切り取るという割礼を受けたユダヤ主義者であるあの犬ども、すなわち悪い働き人たちに気をつけなさい。救われた者とは、肉すなわち、割礼や血筋や生まれながらの肉の思いや感情を頼みとしないで、心に割礼を受け、神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとする者orキリスト・イエスを喜ぶ者のことですよ。」と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今の時代も、聖書の聖句を軽く見ている働き人たちが多くいます。
私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりであり、主との豊かな交わりがあれば、主の御言葉に信を置くことは自然なことです。
今日もあなたの御言葉に信頼して歩む一日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 3日 (月)

箴言29:2 主キリスト・イエス様が統治なさる千年王国を早く見てみたいですね

 箴言292を、
2017
は“正しい人が増えると、民は喜び、悪しき者が治めると、民はうめく。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“正しき者が増えれば民は喜び、悪しき者が支配すると民は嘆く。”と訳し、
 新共同訳は“神に従う人が大いになると民は喜び、神に逆らう人が支配すると民は嘆く。”と訳し、
 口語訳は“正しい者が権力を得れば民は喜び、悪しき者が治めるとき、民はうめき苦しむ。”と訳し、
 リビングバイブルは“正しい人が治めると国民は喜び、悪者が権力を握ると嘆きます。”と訳しています。

 「正しい人」(口語訳、新改訳、リビングバイブル)、「正しき者」(聖書協会共同訳)、「神に従う人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、正しい人、の意です。この文では複数形になっています。

 「民は喜び」と訳されている民という語のヘブライ語原語は「アム」という単語ですが、これには定冠詞がついていますからこの個所では、その民orその氏族orその群れorその国、という意になります。

 主なる神様を信じている民(国or群れ)の場合で「正しい人」といえば、新共同訳のように「神に従う人」という訳にするのも頷けます。

 「増える」(新改訳)、「大いになる」(新共同訳)、「権力を得る」(口語訳)、「治める」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーバー」で、増加する、増大する、栄える、繁栄する、権力を持つ、・・という意があります。

 この聖句の前半部分は、「正しい人が増えると、民は喜ぶ」ということですから、まことの神を信じている群れにあっては、「神を愛し、神に従う人が増えると、神を愛し、神に従う人達の群れは喜ぶ」ということになるでしょう。
また、主なる神を愛して従う人たちは、主なる神を愛して主に従い、主の御声を聞いてor主のみ旨に従って=主の御意志に従って、治める人たちが治めてくれれば喜ぶ、ということでしょう。

 後半部分に入ります。
「治める」(口語訳、新改訳)、「支配する」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「権力を握る」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「マーシャル」で、支配する、統治する、決定する、力を得る、・・・等の意があります。

 「悪しき者」(口語訳、2017、聖書協会共同訳)、「悪者」(新改訳初版~第三版、リビングバイブル)、「神に逆らう人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、悪、悪人、不敬虔な人、・・・等の意があります。ここでは単数形です。

 「うめく」(口語訳、2017)、「嘆く」(新改訳初版~第三版、新共同訳、聖書協会共同訳、リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーナハ」で、(悲しみ、不安、疲れ、苦痛、不幸、重圧、・・等で)うめくor嘆くor悲しむ、・・等の意があります。この文の中では未来形になっています。

 この聖句を私は、「神に従う人が大勢になると神に従う民は喜びor神に従う人たちが支配すると神に従う民は喜び、神に逆らう人が支配すると神に従う民は嘆くようになるだろう。」と捉えました。
「アーナハ」が未来形で書かれているので、おそらく、ソロモンが偶像礼拝を許可する以前に書かれたソロモンによる箴言なのだろうと思います。
ソロモンは、晩年になって主に従わず、偶像礼拝を許可し、イスラエルを堕落させたのです(1列王記114-8)。

 キリストの千年王国においては、王の王として主キリスト・イエス様が統治し、そのもとにあって、多くの王たちが地上を治めることになります。
キリストの千年王国の民は、悪魔悪霊のいない、主の公正と愛と祝福に満ちた世界で生活できるのです。

 最後に千年王国の預言の中から一部分を下記します。
19 私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。
20
 そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。
21
 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
22
 彼らが建てて別の人が住むことはなく、彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。
23
 彼らは無駄に労することもなく、産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり、その末裔も彼らと共にいる。
24
 彼らが呼ぶより先に、私は応え、彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。
25
 狼と小羊は共に草を食み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても、これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない。――主は言われる。”(イザヤ書65章・聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御国が来ますように。
御心が天で行われる如く地でも行われますように。
ハレルヤ
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 2日 (日)

詩篇116篇 主の聖徒たちの歩みと言葉、聖徒たちへの主のお取り扱い

 詩篇116篇には次のように記されています。
1.2
節を、聖書協会共同訳は“1 私は主を愛する。主は嘆き祈る私の声を聞き、2 私に耳を傾けてくださる。私は生きるかぎり呼び求めよう。”と訳し、
 2017は“1 私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。2 主が私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求める。”と訳し、
 口語訳は“1 わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。2 主はわたしに耳を傾けられたので、わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。”と訳し、
 リビングバイブルは“1 私は主を愛しています。主が私の祈りを聞いてくださるからです。2 身を乗り出して聞いてくださる主に、私は生きている限り祈り続けます。”と訳しています。

 この個所のヘブライ語聖書の1.2節には、「キー」という単語があり、それは、原因を表す意味を持っています。なぜなら、というのは、~だから、~ので、・・等の意です。
口語訳の文の下線部分に相当します。

 この詩聖は、
「主が祈りを聞いてくださったので、主を愛します」
「主が祈りを聞いてくださるので、主に祈り続けます」
ということを述べているのだと思います。

 私たちキリスト者も色々な理由で主を愛することでしょう。
キリスト者が主を愛する根底には、主が愛してくださったから、というものがあると思います。
 1ヨハネ47-10は次のように記しています。
7 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。
8
 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。
9
 神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。
10
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。”(聖書協会共同訳)とあります。

 話を元に戻します。
詩聖は、どのような祈りを主に申し上げ、主に応(こた)えていただいたのでしょうか。
それは生死に関する事柄でした。詩聖は、死ぬかもしれないという状態から主に助けられたのです。

 3-9節をリビングバイブルは次の様に記しています。
3 私は死に直面し、恐怖にかられ、悲しみのどん底に突き落とされました。
4
 私が「主よ、どうかお救いください」と叫ぶと、
5
 主は実にあわれみ深く、恵みを注いでくださいました。
6
 主は子どものように素直な者を、お見捨てにはなりません。私も、死の一歩手前で救われました。
7
 今、私は安らいでいます。主がすばらしい奇蹟を行なってくださったからです。
8
死の手から私を救い出して、つまずくことも、泣くこともないようにしてくださいました。
9
私は生きることができるのです。主の前で、この地上で生きていくのです。”と述べています。

 詩聖が失意のどん底にあったときの心境と、詩聖が主によって生かされた後の心境と行動とを詩聖は次のように記しています。
10.11 私は失意に沈んでいたころ、「人々は私に『良くなる』と言ってくれるが、それはうそだ」と思い悩んでいました。
12
しかし今では、これほどよくしてくださった主に、どのようにお返しをすればよいのか迷っています。
13
感謝のしるしに、ぶどう酒を供え、主の御名をほめたたえましょう。
14
また、かねてからの約束どおり、人々の目の前でいけにえをささげます。
15
主に愛されている人は、主にとって大切な存在です。主はそのような人々を簡単に死なせたりなさいません。
16
ああ主よ。自由の身としていただいた私は、いつまでもあなたにお仕えします。
17
あなたを拝み、感謝のしるしのいけにえをささげます。
18.19
ここエルサレムの神殿の庭で、すべての人々の前で、誓いどおりのことをみないたします。主をほめたたえましょう。”(10-19節・リビングバイブル)と述べています。

 15節を直訳すると、“主の聖徒たちの死は主の目に尊い。”(新改訳)or“主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。”(新共同訳)と訳せると思います。
また、「主に在る敬虔な人たちの死は主の目に損失が大きい」とも訳せます。このような訳し方をしてみるとリビングバイブル的意訳を理解することができるかもしれません。
「尊い」(新改訳)、「値高い」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーカール」で、そのような意味の他、「犠牲(損失)の大きい」という意もあります。

 「聖徒」(新改訳)、「慈しみ」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーシードゥ」で、それらの意味の他、信心深い、敬虔な、慈悲深い、・・等の意があり、また、そのような「人」、例えば、「敬虔な人」というような意もあります。

 聖徒は主にとって貴い存在です。
新約の聖徒であるキリストの花嫁は、キリストの空中再臨後、キリストから離れることはないのです。
1
テサロニケ417には“・・・こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記され、
ヨハネ143には「・・・。わたし〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕のおる所にあなたがたもおらせるためである。」(口語訳)と記されています。
何という恵みでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの恵みを体験し、あなたの子どもとされた者は、あなたを賛美し続けることでしょう。
御父と御子に限りなく愛されている者として、私たちもあなたからの愛をいただいてあなたを愛し、隣人を愛して歩む歩みを続けていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月 1日 (土)

使徒3:11-16 人を救いに導くための癒しの御業

 使徒311-16には次のように記されています。
11 さて、その男〔主イエス様の御名によって癒された生まれつき足の不自由な男性(筆者挿入)〕がペトロとヨハネに付きまとっていると、
民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ駆け寄って来た。
12
 これを見たペトロは、民衆に言った。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。
13
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。
あなたがたはこのイエスを引き渡し、 ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。
14
 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
15
 あなたがたは命の導き手〔ギリシア語原語は「アルケーゴス ゾーエー」。「ゾーエー」は命、「アルケーゴス」は導く長、キャプテン、王子、君、・・等の意。(筆者挿入)「いのちの君」(口語訳、新改訳)〕を殺してしまいましたが、
神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。
私たちは、そのことの証人です。
16
 そして、このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 現代、癒しの集会や癒しの祈りで、癒された人が起こされたときに、主を100%ほめたたえるのではなく、人をほめたたえてしまう人、すなわち人に栄光を帰してしまうような人たちがいます。
癒しを行われるのは主なる神です。

 主は、このところで、何故癒しを行ったのでしょう。
生まれつき足の利かない人のためもあったでしょうが、それ以上に、キリスト・イエスに関する事実、真理、権威、・・・等を明らかにするため、また主の配下にある弟子たちの語る言葉を確かなものとするためであったのだろうと思います。

 人々の目から見ると、癒しを行ったのはペトロ(ペテロ)です。
もし、悪霊の力によって癒しを行った人であれば、すべての栄光を自分に帰したことでしょう。
しかしペトロは自分に栄光を帰することをせず、主に人々の心を向けさせました。
ペトロは、
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか。
イエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。」(12.16)と語りました。

 ペトロはユダヤ人たちの罪とイエス・キリストの復活について、ユダヤ人たちに次のように語りました。
「あなたがたはこのイエスを引き渡し、 ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方〔イエス(筆者挿入)〕を拒んで、人殺しの男〔バラバ(筆者挿入)〕を赦すように要求したのです。あなたがたは命の導き手〔いのちの君(口語訳、新改訳)〕を殺してしまいましたが、神はこの方〔イエス(筆者挿入)〕を死者の中から復活させてくださいました。」(13-15)と記されています。

 生まれつき足の不自由であった人の癒しをとおし、ペトロは聴衆に罪の悔い改めを迫りキリスト・イエスを信じていのちを得るようにと語り続けていったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
現代でも癒しを求める人は大勢います。
生まれながらの不具合や病に苦しんでいる状況にあったなら、その癒しを求めるのは当たり前のことだろうと思います。
主の御名によって祈って癒されたときには、大いに主をほめたたえ、主を証しする機会、宣教の機会として用いさせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月31日 (金)

フィリピ3:1 主キリスト・イエスにあって喜ぶことの幸い

 フィリピ31を、
新共同訳は“では、わたしの兄弟たち、主において〔主にあって(聖書協会共同訳)〕喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。”と訳し、
 2017は“最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります〔あなたがたの安全のためにもなることです(新改訳初版~第三版)〕。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“それでは、兄弟のみなさん、主に結ばれた者として喜びなさい。また、同じことを書きますが、それはわたしにとって面倒なことではなく、あなた方のためには安全を期することになります。”と訳し、
 岩波訳は“最後に、私の兄弟たちよ、主にあってあなたがたは喜びなさい。同じことをあなたがたに書くことは、私にとっては煩わしいことではなく、〔むしろ(訳者挿入)〕あなたがたを堅固にすることである。”と訳し、
 リビングバイブルは“愛する皆さん。どんなことが起ころうと、主にあって喜びなさい。このように何度も言いますが、それを私はめんどうとは思いませんし、あなたがたも聞かされたほうがいいのです。”と訳しています。

 「主において」(新共同訳)、「主に在って」(聖書協会共同訳、2017、岩波訳、リビングバイブル)、「主に結ばれた」(フランシスコ会訳)と訳されている語のギリシア語原語は2語で、「エン キュリオー(キュリオス)」で、直訳すると「主の中で」となります。

 「主の中で喜びなさい」と言われて、私がすぐに思い浮かべるのは、1コリント130の聖句です。

 1コリント130
新共同訳は“神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”と訳し、
 新改訳初版~第三版は“しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と訳し、
 口語訳は“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのであ る。”と訳しています。

 「キリスト・イエスに結ばれ」(新共同訳)、「キリスト・イエスにある」(聖書協会共同訳、口語訳)、「キリスト・イエスの内にある」(新改訳)と訳されている語のギリシア語原語は「エステ(ある) エン(中に) クリストー イエース」と記されています。
直訳すると、新改訳のように、私たちは、“神によって「キリスト・イエスの内にある」のです。”ということになります。
なんとありがたいことでしょうか。主に感謝し、主を賛美します。

 キリストは、私たちの知恵、私たちの義、私たちの聖、私たちの贖い、となってくださったのです。
それ以外にも色々なものになってくださいました。

 フィリピ31でパウロは、「主にあって喜びなさい。」と語ったのです。
キリスト様が私たちの為に成し遂げてくださったことを思いめぐらすことは何と素晴らしいことでしょうか。

 パウロは、主に在って喜ぶことは、私たちの安全のためにもなることor私たちを堅固にすることでもあるのですよ、と教えてくれたのです。

 「安全」(新改訳、新共同訳、フランシスコ会訳)、「堅固」(岩波訳)と訳されている語のギリシア語原語は「アスファレース」で、安全な、確かな、間違いない、・・等の意があります。

 1テサロニケ516-18には、
16 いつも喜んでいなさい17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて〔ギリシア語原語は「エン クリスト― イエース」(筆者挿入)「キリスト・イエスにあって」(新改訳)〕、神があなたがたに望んでおられることです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主が如何なる恵みを与えてくださったのか、ということを思いめぐらし、ことあるごとに、主に感謝と賛美を捧げる者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月30日 (木)

箴言29:1 主に対して不従順であり続けるとある時に滅ぼされる

 箴言291を、
2017
は“叱責されても、なお、うなじを固くする者は、突然打ち砕かれて、癒やされることがない。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“懲らしめを受けてもなおかたくなな者は、突然打ち砕かれ、癒やされることはない。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“戒められても、なお頑迷な者は、立ちどころに滅ぼされて、救われることはない。”と訳し、
 リビングバイブルは“何度しかられても言うことを聞かない者は、突然倒れて二度と立ち直れません。”と訳しています。

 「叱責される」(2017)、「懲らしめを受ける」(聖書協会共同訳)、「戒められる」(フランシスコ会訳)、「叱られる」(リビングバイブル)、「懲らしめられる」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「トーカーホート」で、日本語訳各聖書の訳のような意味があります。言葉による戒め、叱責もあれば、せっかん、懲罰のような意もあります。

 「うなじを固くする」(2017)と訳されている個所のヘブライ語原語は2語で「カーシャー オーレフ」です。「オーレフ」はうなじ、首筋、・・等の意です。「カーシャー」は密集した、厳しい、固い、難しい、・・等の意があります。
聖書協会共同訳は「かたくなな」、フランシスコ会訳は「頑迷な」、リビングバイブルは「いうことを聞かない」と訳しています。

 「打ち砕かれ」(2017、聖書協会共同訳)、「滅ぼされ」(フランシスコ会訳)、「倒れて二度と」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーバル」で、破裂する、破壊する、滅ぼす、全滅させる、・・・等の意があります。

 「癒す」(2017、聖書協会共同訳)、「救う」(フランシスコ会訳)、「立ち直る」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「マルペー」で、癒す、救済する、矯正する、改善する、救出、救助、・・等の意があります。

 幾度も忠告されたり、懲らしめを受けたりしても、回心することの無い人(悔い改めることの無い人)は、癒されることなくor救済されることなく滅ぼされますよ、という聖句です。

 典型的な人の例として思い起こすのは、出エジプト記に登場するファラオ(パロ)です。
モーセを通してヤハウェ(主)は、ファラオにいくたびも忠告しましたが、ファラオは聞き従うことはなく、やがて長子を失い、最後には自分の命をも失ったのです。出エジプト記5-14章に記されています。

 ヤハウェ(主)がファラオに行(おこな)ったことを見ていた出エジプトしたイスラエル人たちもまたうなじのこわい民でした。それゆえ、出エジプト時に20歳以上の人の中で、約束の地(カナンの地)に入れた人は、主に対して従順なカレブとヨシュアだけであったのです。

 民数記1420-35には次のように記されています。
20 主は言われた。
「あなた〔モーセ(筆者挿入)〕の言葉のとおり、私は赦そう。21 しかし、私は生きている。主の栄光は全地に満ちている。22 私の栄光と、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者は誰一人として、23 私が彼らの先祖に誓った地を見ることはない。私を侮る者は誰一人としてそれを見ることはない。24 しかし、私の僕(しもべ)カレブの心だけは別で、私に従い通したので、私は彼が行って来たあの地に、彼を連れて行く。彼の子孫はそれを所有するであろうが、25 今はアマレク人とカナン人とがあの谷に住んでいるので、明日、あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って、荒れ野に向かって進みなさい。」
 26 主はモーセとアロンに告げられた。
27
 「この悪しき会衆は、いつまで、私に対して不平を言うのか。私は、イスラエルの人々が私に対して言い続ける不平を十分聞いた。28 あなたは彼らに言いなさい。私は生きている――主の仰せ。
私は、あなたがたが私の耳に語った〔民数記141-3を参照(筆者挿入)〕とおり、あなたがたに対して行う。
29
 あなたがたの死体はこの荒れ野に倒れるであろう。私に対して不平を言った者、すなわち、あなたがたのうち二十歳以上で、登録をされ、数えられた者は皆、倒れるであろう。30 あなたがたは、私があなたがたを住まわせると誓った地に入ることはない。
ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。
31
 あなたがたは『幼子たちが奪われる』と言ったが、私は幼子たちを導き入れる。彼らはあなたがたの拒んだその地を知るようになる。
32
 だが、あなたがたは死体となってこの荒れ野に倒れ、
33
 あなたがたの子どもは、あなたがたの死体が荒れ野で朽ち果てるまで、四十年の間、荒れ野で羊飼いとなってあなたがたの背信の罪を負う。
34
 あなたがたがあの地を偵察した四十日という日数に従い、一日を一年として四十年の間、あなたがたは自分の罪を負い、あなたがたは私に反逆することの意味を知るであろう。
 35 主である私が言う。
私に逆らって集まったこの悪い全会衆に対して、私は必ずこのことを行う。彼らはこの荒れ野で絶え果てて、死ぬ。」」”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、主キリスト・イエス様を信じた(心に受け入れた)ので、約束の地(天国)に入れて頂けるのです。
主イエス様は言われました。
1 「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。
2
 私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。
3
 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。”(ヨハネ14章・聖書協会共同訳)とあります。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様を信じることを得させてくださり感謝します。
いつも私たちを愛してくださっておられる主に信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月29日 (水)

詩篇115篇 ただ主の御名に栄光あれ

 詩篇115篇には次のように記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの名にこそ、栄光を与えてください。あなたの慈しみとまことのために。
 2 なぜ国々は言うのか。「彼らの神はどこにいるのか」と。
3
 私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。
〔私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。(新改訳)〕
4
 彼らの偶像は銀と金、人の手が造ったもの。
5
 口があっても語れず、目があっても見えない。
6
 耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅ぐことができない。
7
 手があっても触れず、足があっても歩けない。喉からは声も出せない。
8
 それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる。
 9 イスラエルよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
10
 アロンの家よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
11
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
12
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちを思い起こし、祝福してくださるように。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してくださるように。
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々を祝福してくださるように。小さな人たちも大きな人たちと共に。
14
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを増し加えてくださるように。あなたがたもその子孫も。
15
 あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福されるように。天と地を造られた方に。
16
 天は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもの。地は人の子らに与えられた。
17
 主〔ヤハ(筆者挿入)〕を賛美するのは死者ではなく、沈黙の国に下った人々でもない。
18
 私たちこそ、主〔ヤハ(筆者挿入)〕をたたえよう。今より、とこしえに。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4-8節は、偶像について次のように記しています。
4 彼らの偶像は銀と金、人の手が造ったもの。
5
 口があっても語れず、目があっても見えない。
6
 耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅ぐことができない。
7
 手があっても触れず、足があっても歩けない。喉からは声も出せない。
8
 それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる。”とあります。

 偶像により頼む者も偶像を造る者も虚しいことを教えてくれていますが、新約聖書には、更に次のような教えもあります。
コロサイ35には“ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。”(2017)と記され、
エペソ55には“このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者〔「汚れた」という語のギリシア語原語は「アカサルトス」で、(儀式的or道徳的or性的or霊的に)「汚れた、汚い、不純な」等の意です。(筆者挿入)〕、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。”(2017)と記され、
1
ヨハネ521には“子どもたち、偶像から自分を守りなさい。”(2017)と記されています。
偶像礼拝とは、まことの神以外のものを神とすることです。ですからその中にはまことの神を神としない(まことの神を第一としない)思想、願望、・・・等々も含まれます。

 9-11節には次のように記されています。
9 イスラエルよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
10
 アロンの家よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
11
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。”とあります。

 まことの神であるヤハウェ(主)こそ「助け主」であるので、主に信頼するようにと勧められています。
キリスト者は、何があっても、「イエス様」を呼び求めると思います。

 12-15節には次のように記されています。
12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちを思い起こし、祝福してくださるように。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してくださるように。
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々を祝福してくださるように。小さな人たちも大きな人たちと共に。
14
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを増し加えてくださるように。あなたがたもその子孫も。
15
 あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福されるように。天と地を造られた方に。”とあります。

 新生したキリスト者は、天と地を造られた方から祝福されているのです。
“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(エペソ132017)と記されています。

 16節には“天は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもの。地は人の子らに与えられた。”と記されています。
キリスト者はキリストの使節として地上に遣わされていますが、国籍は天国籍です。(2コリント520、ピリピ320
エペソ26には“神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。”(2017)と記されています。

 17節には“主〔ヤハ(筆者挿入)〕を賛美するのは死者ではなく、沈黙の国に下った人々でもない。”と記されています。
イエス・キリスト様の十字架、復活、昇天、高挙の後、この状態は変化したようです。
フィリピ26-11には次のように記されています。
6 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、
7
 かえって自分を無にして僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者に〔人間と同じように(新改訳)〕なられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9
 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)とあります。
どうしてそのようになったのでしょう。
1
ペテロ319には“霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。”(新共同訳)と記されています。

 私たちキリスト者は主を賛美することが性質的な意味での本分の一つです。{エペソ16.12.14、詩篇10219(新共同訳)、文語訳は18節}
詩篇10218には“來らんとするのちの世のためにこの事をしるさん。新しくつくられたる民はヤハをほめたたふべし”(文語訳)とあり、
新共同訳は“後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”(詩篇10219)と記されています。

 キリスト者は、主の栄光をほめたたえることを喜ぶ者たちです。
詩篇1151.18の次の聖句のように。
1 わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって。
18
わたしたちこそ、主をたたえよう。今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。」(新共同訳)と。

<お祈り>
聖なる天のお父様。
御名があがめられますように。
あなたの御国が来ますように。
天の御国でと同じように、この地上でもあなたの御心が行われますように。
いつも恵みとまことによって私たちを扱ってくださっておられますあなたに、恵みとまことに満ちておられる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月28日 (火)

使徒3:1-10 足の不自由な人が癒される

 使徒31-10には次のように記されています。
1 さて、ペトロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に神殿に上って行った。
2
 すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
3
 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7
 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節には“すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。”(2017)と記されています。

 新共同訳、聖書協会共同訳は「美(うつく)しい門」と訳していますが、口語訳、新改訳、リビングバイブルは「美(うつく)しの門」、フランシスコ会訳は「麗しの門」、岩波訳は「美(うる)わしの門」と訳しています。
この個所の「美しい」と訳されている語のギリシア語原語は「ホーライオス」で、比喩的な意味で、「美しい」の意がある単語です。
「美しの門」などと訳されている日本語訳聖書の個所を、ギリシア語聖書の語順を基に訳しているKJVは“at the gate of the temple which is called Beautiful”と訳しています。
信仰的にはどうでもよいことなのですが、私自身が気になったので記しておきました。

 美しの門について聖書辞典は、
“ヘロデの建設したエルサレム神殿の東側の「異邦人の庭」から、さらに内側の「婦人の庭」に通じている門である。他の門より値打ちのある分厚い金銀とコリントしんちゅうで飾られ、壮麗を極めていたところから「美しの門」と呼ばれたのであろう。ペテロとヨハネによって、生れつき足のきかない男がいやされた場所である(使3:2,10)。”と述べています。

 余談になりますが、新天新地の新エルサレムの美しい門は、12あり、それぞれ大きな一つの真珠でできていると記されています。
黙示録21章には、
11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
12
 都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。/
 16 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオン〔約2220km。東京駅から鹿児島駅までの新幹線の距離は約1326kmです。(筆者挿入)〕あった。長さも幅も高さも同じである。
17
 また、城壁を測ると、百四十四ペキス〔約64.8m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。
22
 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 まさしくBeautifulです。

 話を元に戻します。
宮(神殿)への入り口にあった美しの門の所に、足の不自由な人が毎日運ばれてきて、そこに置いてもらい、物乞いをしていたのです。
ペテロとヨハネが午後三時の祈りのために神殿にやって来たのです。

 足の不自由な人は、ペテロとヨハネに施しを求めました。
その時のやり取りが3-6節に次のように記されています。
3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」”とあります。

 ご聖霊は神ですから御意志を持っておられます。
主イエス様は、御聖霊は御意志を持って働いておられると語られました(ヨハネ38)。
ヨハネ38に「風は〔吹き(訳者挿入)〕たいところに吹き、あなたがたはその音を聞く。」(岩波訳)と主イエス様の御言葉が記されています。この個所の欄外注には“または「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く。」”と記されています。

 私の推測ですが、ペテロはこの時、御聖霊に導かれたのであろうと思います。
そして、主イエス様が最後の晩餐の時に語られた御言葉の一端が成就していったのではないかと思います。
ヨハネ1412-16には次のように記されています。
12 よくよく言っておく。私〔御子キリスト・イエス(筆者挿入)〕を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。
13
 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14
 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」
15
 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔ギリシア語原語は「パラクレートス」で、弁護者、慰め主、支持する者、調停者、提唱する者、等の意があり、その他主イエス様は真理の御霊とも語られました。(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 美しの門に置かれていた足の不自由な人は、油塗られたペテロのことばによって立ち上がり、飛び跳ね、歩くことができるようになったのです。それはペテロの力ではなく主なる神の力と足の不自由な人の信仰の故であったのでしょう。
信仰も賜物です。(1コリント129、エペソ28
 7-10節には次のように記されています。
7 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主のみ声を聞き分け、導きに従ってことを行っていくことの出来る者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
アーメン。

2024年5月27日 (月)

フィリピ2:25-30 エパフロディトの奉仕

 フィリピ225-30には次のように記されています。
25 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。
彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、26 あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
27
 実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛〔別訳「悲しみ」(欄外注)〕を重ねずに済むようにしてくださったのです。
28
 そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。
29
 だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
30
 彼はキリストの業(わざ)のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。〔なぜなら、彼はいのちがけでキリストのために働き、今にも死にそうな目に会ったからです。彼は離れているあなたがたに代わって、私に尽くしてくれたのです。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロはローマの獄中にいました。
エパフロディトは、フィリピ(ピリピ)教会を代表して、獄中のパウロへ贈り物を届けた人です。
エパフロディトは、贈り物をもってパウロの所へ行く途中に何かの病原性微生物に感染してローマで発症したのか、あるいはパウロの所にいる間に重篤な病に罹患したのかは分かりませんが、死を覚悟するような病にかかったのです。(27.30節参照)

 エパフロディトが重病であるということが、どのような方法でフィリピ教会に届いたのかは分かりませんが、エパフロディトが病の床に伏していることをフィリピ教会の信徒たちはとても心配し、祈っていたのでしょう。
また、エパフロディトという人は、フィリピ教会の信徒たちに心配をかけてしまったことを心苦しく思う人でもあったのです。(26節参照)

 現代では、お金の送金は、金融機関から送ればそれですみますし、物品を送るのも郵便局から外国へ送ることもできます。
しかし、この当時は、自ら持っていくか、信頼のおける人に託すしかなかったのでしょう。
信徒たちからの贈り物をフィリピからローマまで届けるのは大変なことです。
もちろん、主に祈りつつ旅をしたことと思いますが、途中で、強盗や山賊にあうかもしれませんし、雨に打たれるかもしれません。
パウロは宣教旅行中に、川の難、盗賊の難、町での難、荒野での難、海上での難、・・等の苦難にあったと記しています。(2コリント1126参照)

 エパフロディトが重病にかかったことについての表現をパウロは、「彼はキリストの業(わざ)のために命を懸け、死にそうになったからです。」(30・聖書協会共同訳)と記しました。
2017
はその箇所を「彼はいのちがけでキリストのために働き、今にも死にそうな目に会ったからです。」と訳しています。

 エパフロディトがフィリピ教会を代表し、贈り物をもってパウロのもとへ行ったことにより、パウロは直接エパフロディトからフィリピ教会の問題を聞くことができました。
それゆえに、問題の対処の方法をパウロはこの手紙に書くことができました。
今日の個所で2章まで終わりますが、ここまでの間にも、
1.教会員は、主キリストにあって一致して、宣教の業に従事すべきです。
2.キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
3.一人一人がキリストのへりくだり(謙り)に倣って謙遜に歩み、他の信徒たちを敬愛するようにしなさい。
4.その他。
のことをパウロは忠告してくれました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロは「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント1112017)と述べていますが、少しでもキリストの香りを放つ者としての歩みをさせて頂けますよう恵みによって整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月26日 (日)

箴言28:28 悪魔(ザ・サタン)に立ち向かえ

 箴言2828を、
リビングバイブルは“正しい人は、悪人が幅をきかせると隠れ、彼らが滅びると戻って来ます。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“悪しき者が立ち上がると人は隠れ、彼らが滅びると正しき者が増える。”と訳し、
フランシスコ会訳は“悪い者が権力をふるうと、人々は身を隠す。彼らが滅びると、正しい人が増える。”と訳し、
 2017は“悪しき者が勢いを増すと、人は身を隠し、彼らが滅びると、正しい人が増える。”と訳し、
 新共同訳は“神に逆らう者が興ると人は身を隠し、彼らが滅びると神に従う人がふえる。”と訳しています。

 「悪しき者」(聖書協会共同訳、2017)、「悪人」(リビングバイブル)、「悪い者」(フランシスコ会訳)、「神に逆らう者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、誤った、不正な、邪悪な、不道徳な、悪い、不敬虔な、不信心な、罪深い、・・・、等の意に使われ、ヘブライ語ではそれに人(者)の意をつけて使いもします。
この個所の単語は複数形です。

 この世のすべての根源はまことの神であるヤハウェ(主)です。
まことの神に対して最も罪深いのは、聖書の三一の神を人間、天使、宇宙を含めた全てのものの創造主とせず、聖なるお方としないことです。
事実、ヤハウェ(主)なる神が、万物を創造されたのですから。
人間は造られたもの、被造物です。
ヤハウェが正しいとすることを正しいと捉え、主が、これが愛である、と言われ、なさることを愛とすることが健全なことですが、それから外れていることは、罪なのです。

 「幅をきかせる」(リビングバイブル)、「立ち上がる」(聖書協会共同訳)、「権力をふるう」(フランシスコ会訳)、「勢いを増す」(2017)、「興る」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「クーム」で、上がる、立ち上がる、増加する、昇る、起こる、等の意があり、留まる、達成する、・・等の意でも使われます。

 「人」(聖書協会共同訳、新共同訳、2017)、「人々」(フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーダーム」(アダム)です。

 文の後半部分に入ります。
「滅びる」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーバド」で、死ぬ、滅びる、等の意があり、この語に接尾辞で「彼ら」を意味する語がついています。
この単語には更に接頭前置詞も付いているので、「悪者たちが滅びると」or「不敬虔な者たちが滅びると」と訳せます。

 「正しい人」(リビングバイブル、フランシスコ会訳、2017)、「正しき者」(聖書協会共同訳)、「神に従う人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、公正な、有徳な、等の意があります。神に対して正しい人は、神に従う人ですから新共同訳は「神に従う人」と訳したのでしょう。
この個所は複数形になっています。

 「戻ってくる」(リビングバイブル)、「増える」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、2017、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーバー」で、増加する、増える、・・等の意があります。

 この聖句を新共同訳は、“神に逆らう者が興ると人は身を隠し、彼らが滅びると神に従う人がふえる。”と訳しました。
アダムが堕罪して以降、人々が神に背を向け、サタンに従ったので、この世の神はサタン(悪魔)となりました。
1
ヨハネ519には“・・。わたしたち〔新生したキリスト者(筆者挿入)〕は神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。”(新共同訳)と記されています。

 ノアの時代もひどいものでした。
創世記6章には次のように記されています。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。/
8
しかし、ノアは主の心にかなっていた。/
11
地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。”(2017)とあります。
ノアはアダムから10代目の人でした。それでもその当時、悪に満ちていた世界であったのです。

 ノアには3人の息子がいました。その中にハムという人がいました。
ハムにクシュという子が生まれました。そしてクシュはニムロデ(ニムロド)を生んだのです。ヘブライ語は「ニムロード」です。
ニムロデの意味は“「私たちは反逆しよう」という意味であると思われる。”と聖書辞典に記されています。
創世記1010-12には“10 彼〔ニムロド(筆者挿入)〕の王国の初めは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアル〔別称「バビロニア」(筆者挿入)〕の地にあった。11 彼はその地からアッシリアに出て、ニネベ、レホボト・イル、カラ、12 そしてレセンを築いた。レセンはニネベとカラとの間にあり、それは大きな町であった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記11章にはバベルの塔の記事があります。
バベルの塔について聖書辞典は次のように述べています。
“古代人がバベル(別名バビロン)に建てた巨大な塔を指す。聖書には、ニムロデがバビロニヤ南部シヌアル平野に建設した町に造られた宗教的な意味を持つ建造物の一つとして描かれ(創11:1‐9.参照創10:10)、今日では神に反抗する人間の傲慢と自己栄化を表徴する固有名詞のように言及されることが少なくない(参照黙14:8,16:19)。バベルという地名は元来アッカド語で「神の門」を意味したが、創世記の著者は「混乱させる」(〈ヘ〉バーラル)という動詞との語呂合せをしている。人々は町と塔の建築を始めたが、人の高慢を見られた神の介入によって言語が混乱し、相互理解が妨げられたので、完成できなかった。
 メソポタミヤにおける考古学的発掘調査により、シュメールの複数の町で、最上階に神殿を築いた巨大な方形の塔が見出された。それらは山を模した人工丘で、おもに日干しれんがとアスファルトを使用して作られており、ジッグラトと呼ばれる。バビロンで見つかった粘土板に楔形文字で記された物語によれば、この地の塔の土台は幅と奥行が約90メートル、高さは神殿自体も含めて100メートルほどあった。ある記録には、アッカド王シャル・カリ・シャルリ(前2250年頃)がバビロンの塔を再建したとある。セナケリブ(前704―681年在位)はその破壊をもくろんだ。エサル・ハドン(前681―669年在位)はジッグラトを修築し始めたが、戦争で中断された。再建を果したのはネブカデネザル2世(前605―562年在位)であったと碑文に記されている。ヘロドトスもその塔を目撃した(前460年頃)。”(抜粋)とあります。

 この世の終わりには、獣(反キリスト)をリーダーとした世界の軍勢が、再臨のキリストに戦いを挑むのです。しかしたちまち返り討ちにあうのです。
その後、主キリスト様が統治する1000年間があります。
その時代に生きている人々は、サタン(悪魔)が解放されるまでは、主に従うのです。
そこは、アダムの堕罪前のエデンの園のようです。

 今日の個所である“神に逆らう者が興ると人は身を隠し、彼らが滅びると神に従う人がふえる。”(新共同訳)という聖句を読んだとき、アダムの堕罪以降とキリストの千年王国に思いが行きました。

 私たちキリスト者は、サタン(悪魔)が支配している時代にあっても、サタンや配下の悪霊たちに勝利できる恵みを与えられています。
悪魔の策略に対抗し、日々主に仕えていきたいものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ヤコブ47には「・・・神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(新改訳初版~第三版)と記されていますから、いつも主を愛し、主に従い、悪魔に立ち向かって勝利しつつ地上生涯を全うさせていただけますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月25日 (土)

詩篇114篇 創造主なる神、力ある神が私たちとともにおられる

 詩篇114篇には次のように記されています。
1 イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき、
2
 ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の治めるところとなった。
2017は後半部分を“イスラエルは神の領地となった。”と訳し、リビングバイブルは“その時、ユダとイスラエルの地は、神様の新しい住まいとなり、王国となったのです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
3
 海は見て、逃げ去り、ヨルダン川は後ずさりした。
4
 山々は雄羊のように、丘は小羊のように跳ね踊った。
5
 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダン川よ、後ずさりするとは。
6
 山々よ、雄羊のように、丘よ、小羊のように跳ね踊るとは。
7
 地よ、主である方の前で身もだえせよ。ヤコブの神の前で。
8
 それは岩を池に、硬い岩を泉に変える方。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1.2節には“1 イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき、2 ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の治めるところとなった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 これは出エジプトしたときのことでしょう。
イスラエルは神ヤハウェと契約を結んだのです。
出エジプト記20章の十の言葉(十戒)から始まって、出エジプト記23章までの律法に対して、イスラエルは神ヤハウェと契約を結んだのです。
そして神ヤハウェがイスラエルを治めることになったのです。

 出エジプト241-11には次のように記されています。
1 また、主はモーセに言われた。「あなたはアロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老たちと共に主のもとに登り、遠くからひれ伏しなさい。
2
 モーセだけは主に近づくことができるが、他の者は近づいてはならない。民はモーセと共に登ってもいけない。」
3
 さて、モーセは戻って来て、主のすべての言葉とすべての法を民に語り聞かせた民は皆声を一つにして、「主が語られた言葉をすべて行います」と答えた
4
 そこで、モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山の麓に祭壇を築き、イスラエルの十二の部族にちなんで十二の石柱を立てた。
5
 さらに、モーセはイスラエルの人々のうちから若者たちを遣わした。彼らは数頭の雄牛を焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして主に献げた。
6
 モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇に打ちかけた。
7
 そして、その契約の書を取り、民に読み聞かせた。すると彼らは、「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」と言った
8
 そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけて言った。「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である。」
9
 さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に登って行って、10 イスラエルの神を仰ぎ見た。その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。
11
 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 3.5節には“3 海は見て、逃げ去り、ヨルダン川は後ずさりした。5 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダン川よ、後ずさりするとは。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 これは葦の海での主の御業とヨルダン川を堰き止めた主の御業です。
エジプト軍がイスラエルの民を追ってきたとき、主が海の水を分けられたので、イスラエルの民は、乾いた地を渡りました。
しかし、イスラエルの民を追ってきたエジプト軍は、主が水を元に戻されたので、その全軍勢が滅びたのです。
この話は出エジプト記14章に記されています。

 また、主がヨルダン川を堰き止められたので、イスラエルの民(おそらく200万人位はいたと思います)が、民は、乾いた地となったヨルダン川を渡ったのです。
この話はヨシュア記3章に記されています。

 4.6節には“4 山々は雄羊のように、丘は小羊のように跳ね踊った。6 山々よ、雄羊のように、丘よ、小羊のように跳ね踊るとは。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 これは主が十の言葉(十戒)をイスラエルに与えられる前に主が起こされたことです。
 出エジプト1916-19には次のように記されています。
16 三日後の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上に臨み、角笛の音が極めて力強く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
17
 モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。
18
 シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた
19
 角笛の音がますます力強くなったとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴で答えられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 8節を2017は“神は岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を水のあふれる泉に。”と訳しています。
 
出エジプト171-6には次のように記されています(これは出エジプトした最初の年のことです)。
1 イスラエル人の全会衆は、主の命(めい)によりシンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲む水がなかった。
2
 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。
モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争うのか。なぜ主を試すのか。」
3
 しかし、民はそこで水を渇望し、モーセに対して不平を述べた。
「私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私や子どもたちや家 畜を渇きで死なせるためだったのですか。」
4
 そこでモーセは主に叫んだ。「私はこの民をどうすればよいのでしょうか。彼らは今にも私を石で打ち殺そうとしています。」
 5 主はモーセに言われた。
「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行きなさい。ナイル川を打ったあなたの杖も手に取って行きなさい。6 私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前でそのとおりに行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 民数記201-11には次のように記されています(出エジプトした40年目、荒野の生活の最後の年です)。
1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。
2
 さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。
3
 民はモーセと言い争った。「私たちの兄弟が主の前で死に絶えたとき、私たちも死に絶えていればよかった。
4
 なぜ、あなたがたはこんな荒れ野に主の会衆を導き入れたのですか。私たちと家畜をここで死なせるためですか。
5
 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、 飲み水さえもありません。」
6
 モーセとアロンは会衆から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。すると、主の栄光が彼らに現れた。
 7 主はモーセに告げられた。
8
 「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」
 9 モーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取り、10 モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」
11
 モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主なる神は、葦の海の水を右と左に分けて乾いた地を出し、ヨルダン川では、イスラエルの民が渡る場所の上流で水を堰き止め、十戒を与えられる前には山を震(ふる)わせ、飲み水のない所では岩から水を出されたお方です。

 主イエス様は、ガリラヤ湖において嵐に見舞われたとき、一声「黙れ。静まれ」と言って、嵐を鎮められました。
 マルコ436-39には次のように記されています。
36 そこで、彼らは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37
 すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。
38
 しかし、イエス自身は、艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神なる主は自然界を支配できるお方です。それ以上に万物を創造なさり保っておられるお方です。(へブル12.3
ガリラヤ湖の嵐を鎮められた主イエス様の御業を見て、弟子たちは、この方はひょっとして神ではないだろうか、と思った可能性があります。
41
節には“弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った”(聖書協会共同訳)と記されていますから。

 1コリント101-5には次のように記されています。
1 きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2 皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼(バプテスマ)を受け、3 皆、同じ霊の食物を食べ、4 皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
5
 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「岩」は比喩的には神を象徴します。
イスラエルの民は受肉前の御子に導かれ、守られてカナンの地に入ったのであろうと私は思います。
この御子が、私たちを愛し、私たちの為に、肉の体をまとい、十字架上で贖いを成し遂げてくださり、御復活後、信じた者の心の中に住んでくださり(コロサイ127)、天においてはとりなしの祈りをしてくださっておられるお方(ローマ834)、キリスト者の総体である教会(エクレシア)の花婿なのです(エペソ531.32)。

<お祈り>
天のお父様。
創造主なる神様をほめたたえます。
その主が常に私たちと共にいてくださいますからありがとうございます。
今日も主に守られて歩ませていただけますことを感謝します。
私たちは、未来のことを知る力がありませんが、永遠の未来までも見通しておられる主が私たちを導き、すべてのことを相働かせて益としてくださいますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月24日 (金)

使徒2:41-47 主に在る基本的な歩み

 使徒241-47には次のように記されています。
41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42
 そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
43
 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業(わざ)としるしが行われていたのである。
44
 信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46
 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 41節の「その日に三千人ほどが仲間に加わった。」という個所の「人」と訳されている語のギリシア語原語は「プスケー」で、たましい、です。キリスト者の肉体は滅びますが魂は新たにされて永遠です。体はキリストの空中再臨の時に霊の体をいただけます。

 43節の「すべての人に恐れが生じた。」という個所の「人」と訳されている語のギリシア語原語は「プスケー」で、たましい、です。

 41節には3000人ほどが救われた、とありますが、これは神であるのに人の肉体をまとわれ、救いを成就してくださった主キリスト・イエス様を信じた人たちですが、同じ3000人でも偶像礼拝のために滅ぼされた人たちもいました。

 出エジプト記32章には次のように記されています。
1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民はアロンのもとに集まって言った。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってく ださい。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」
2
 アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」
3
 すると民は皆、耳にある金の輪を外し、アロンのところに持って来た。
4
 アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。
5
 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言した。
6
 彼らは翌朝早く起き、焼き尽くすいけにえを献げ、会食のいけにえを献げた。民は、座っては食べて飲み、立っては戯れた。/
25
 モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。
26
 そこでモーセは宿営の門のところに立ち、「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」と言った。するとレビ人は皆彼のところに集まった。
27
 そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」
28
 レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。
29
 モーセは言った。「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 創造主であり、救いをもたらしてくださった神であるお方を信じるのか、信じないのか、という選択は、その魂の永遠を決めるのです。
罪とはキリストを信じないことです(ヨハネ169)。
罪とは神ヤハウェ(主)を信じないことです(出エジプト203)。
罪とはまことの神以外のものを神とすることです。
イスラエル王国(北イスラエル)は偶像礼拝のためにアッシリアに捕囚となり(2列王記171-23)、ユダ王国(南イスラエル王国)は偶像礼拝のためにバビロンに捕囚になり(2歴代誌365-20)、捕囚からの帰還後も、主イエス様を拒絶した故に世界に散らされたのです(ルカ1332-35)。

 話を元に戻します。
ペンテコステの日に救われた人たちのありようが42節に“一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
1.使徒たちの教えを守ること・・使徒たちの教えはローマ書以降に詳しく書かれています。
2
.交わりをなし・・・1ヨハネ13には“私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。”(2017)と記されているように、御父及び御子イエス・キリストとの交わりの中で信徒たちが互いに交わりをすることです。
3.パンを裂くこと・・聖餐、愛餐
4.祈りを共にすること
が記されています。

 46節には“毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり”と記しています。
これに関連して、Bible navi は、
“最初のクリスチャンたちはユダヤ人だったが、ユダヤ教を拒絶したわけではない。彼らは、イエスの教えと復活を、旧約聖書の成就であるとみなした。最初ユダヤ人信者たちは、ユダヤ人社会から自分たちを切り離して考えなかった。彼らは礼拝や聖書の学びのために宮や会堂へ行った。しかしイエスへの信仰は、イエスを信じないユダヤ人たちとの摩擦を引き起こした。それで、信じるユダヤ人は、聖餐や祈り、キリストの学びのために、個人の家に集まることを余儀なくされた。1世紀の終わりまでには、ユダヤ人信者たちの多くは、会堂から破門された。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたのみ旨に従った信仰生活を送る私たち一人一人であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月23日 (木)

フィリピ2:19-24 自分自身のことよりもキリスト・イエスのために生きる人

 フィリピ219-24には次のように記されています。
19 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。
20
 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。
21
 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22
 テモテが確かな人物であることは、あなたがたの認めるところです。子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました。
23
 そこで、私は自分のことの見通しがつき次第すぐ、テモテを送りたいと願っています。
24
 私自身も間もなくそちらに行けるものと、主にあって確信しています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、福音宣教のために牢獄に入れられて、自分ではフィリピ教会に赴けないパウロが、親身になってフィリピ教会の兄姉たちを心にかけている弟子のテモテを、フィリピ教会に送ります、ということを述べている個所です。

 テモテは、パウロの第二次伝道旅行の折、パウロに同行してフィリピ(ピリピ)にも行ったのです。そしてフィリピ教会の創設にもかかわった人です(使徒161-411-15)。

 今日のテーマは21節です。21節を、
新共同訳、聖書協会共同訳は“他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“みな、自分のことばかり考えて、イエス・キリストのことは考えていないのです。”と訳し、
 新改訳初版~第三版は“だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。”と訳し、
 新改訳2017は“みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。”と訳し、
 リビングバイブルは“ほかの人はみな、自分の計画に心を奪われ、キリスト・イエスのことなど気にかけていないようです。”と意訳しています。

 新生にあずかった人は、最初は自分が救われたくて主イエス様を信じた人です。
すなわち100%自分のために主イエス様を信じたのです。
その後の信仰生活は人によって異なりますが、初めの内は誰でも自分の何かを満たすための信仰生活ではないでしょうか。
救いの確信を持つことができ、主の恵みの大きさを知り続け、そして、「私は主のもの」と思えるようになっていくのではないかと思います。
自己実現のために生きるために主イエス様を信じている人もいるでしょう。
一方、主の愛に浸されて主のために生きるようになった人もいるでしょう。
主の弟子としてふさわしいのは、すべてにまさって主を愛する人ですよ、と主イエス様は語られました。
 マタイ1037.38には次のように主イエス様の御言葉が記されています。
「私〔を愛する〕以上に父や母を愛する者は、私にふさわしくない。また、私〔を愛する〕以上に 息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。また、自分の十字架をとって私の後に従わない者は、私にふさわしくない。」{〔 〕内は訳者挿入。岩波訳}とあります。

 自分のことは、主イエス様に委ねきって、主イエス様のために生きることのできる恵みを与えられた人は幸いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの愛を益々体験し、あなたを愛する愛を増し加えていただき、自分自身のことは主に委ね、主を愛し、主のみ旨の内を歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「わが友 主イエスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友主イエスは 我を見出し 引き寄せ給(たま)いぬ 愛のいともて
御側(みそば)に侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主は我がもの 我は主のもの
2.わが友主イエスは 罪ある我を 贖い給(たま)えり 命を捨てて
この身と魂(たま)をば 主よ 取り給え すべてはながもの 我がものは無し
3.わが友主イエスは いとも優しく 慰め励まし また守り給(たも)う
悩みも剣も 飢えも裸も 引き裂くあたわじ 主より我が身を”

2024年5月22日 (水)

箴言28:27 貧しい人への援助

 箴言2827を、
リビングバイブルは“貧しい人を助けておけば、いざという時に困りませんが、見て見ぬふりをすると恨まれます。”と訳し、
新共同訳は“貧しい人に与える人は欠乏することがない。目を覆っている者は多くの呪いを受ける。”と訳し、
2017
は“貧しい者に施す者は不足することがなく、目をそらす者は多くののろいを受ける。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。”と訳し、
フランシスコ会訳は“貧しい者に施す者は、何一つ不足することがない。貧しい者から目をそらす者は、多くの呪いを受ける。”と訳しています。

 「助ける」(リビングバイブル)、「与える」(新共同訳)、「施す」(新改訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナータン」で、giveの意です。

 「困る」(リビングバイブル)、「欠乏する」(新共同訳)、「不足する」(新改訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーシュ」で、困窮している、極貧である、欠乏している、・・・等の意があります。

 後半部分には「貧しい者」と訳せる単語はありません。フランシスコ会訳は理解しやすいように「貧しい者から」と加えているのだと思います。
聖句の全体の意味としてはフランシスコ会訳が分かりやすいです。

 箴言1917には“貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”(2017)と記されています。

 困っている人に私たちが遭遇した時、困っている人を助けるのと、見て見ぬふりをするのとでは、私たちに対する神さまの態度がまるで違ったものになりますね。

 しかし、助けてもらう方も、援助してもらうことに味をしめて、怠惰になってしまっては困りものです。助けるほうの人も、1テサロニケ4112テサロニケ36-12の聖句もありますので、そのあたりの塩梅を考慮する必要があります。

 経済的な困窮のみならず、霊的な困窮、霊的な欠乏、という面からも考えてみたいと思います。
霊的に、あるいは精神的に困っている人がいたら、この世的な、心理学的な対応ではなく、御霊に導かれた適切な聖句を、その人に提供することができたら幸いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
それぞれの場面で、主に導きを戴いて、適切に対応することができますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月21日 (火)

詩篇113篇 主はとこしえにほめたたえられるべきお方/主を心にお迎えした者の報いは甚だ大きい

  詩篇113篇には次のように記されています。
1 ハレルヤ。主の僕(しもべ)たちよ、賛美せよ。主の名を賛美せよ。
2
 主の名がたたえられるように。今より、とこしえに。
3
 日の昇る所から日の沈む所まで主の名は賛美される。
4
 主はすべての国を超えて高くいまし、その栄光は天を超える。
5
 私たちの神、主のような方がほかにあろうか。
高きところに座し、6 天にあっても地にあっても、低きに下って御覧になる方。
7
 弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ、8 高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。
9
 子のない女を家に住まわせ、子らを授かり喜ぶ母にしてくださる。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエル人は神の選びの民です。特にその中でも主なる神様を畏れかしこみ主にお従いする者たちを主は祝福されます。
新生したキリスト者は、主を心にお迎えしている者たちです。
ヨハネ112には“この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。”(2017)と記され、
黙示録320には“見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら〔心の扉を開けるなら(筆者挿入)〕、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”(2017)と記されています。
そのような者たちの賛美が、この詩の中に記されています。

 4節には“主はすべての国を超えて高くいまし、その栄光は天を超える。”と記されています。
2017
は“主はすべての国々の上に高くおられ、その栄光は天の上にある。”と訳しています。
「天」と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーマイム」(複数形)で、skyの意味もあれば、heavenheavensの意味もあります。

 パウロは「第三の天」(2コリント122)という場所を記しています。
2
コリント121-4には次のように記されています。
1 私は誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示とについて語りましょう。
2
 私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです。
3
 私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
4
 その人は楽園〔ギリシア語原語は「パラディソス」(筆者挿入)〕にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節には“7 弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ”と記されています。
アダムの子孫である私たち人間の実体は、弱い人、貧しい人、以下の者です。
キリストの救いにあずかる前の状態は、創造主なる神に反逆して歩み続けていた神の怒りを受けるべき人間であったのです。

 エフェソ(エペソ)21-3には次のように記されています。
1 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
3
 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
1 〔今ではキリストを信じ、キリストの救いにあずかったあなたがたですが(筆者挿入)〕以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。
2
この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。
3
私たちもみな、以前は他の人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然のものでした。”とあります。

 このような私たち人間でしたが、義であると共に愛である主なる神様は、罪を犯し続けて生きてきた私たち人間の罪の結果としての神の御怒りを、神の第二位格の神である御子が、神でありつつ人となることによって、そしてその人において神の御怒りを受けてくださったのです。それが十字架上の死でした。
1
テモテ25.6は“5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。”(2017)と記しています。

 キリストの十字架によって、信じる者の罪は赦されました。
しかし、それで終わりでは、罪を赦されてもそこまでです。
神(父なる神)様は、キリストをよみがえらせたのです。
それによって、キリストを信じる者は、新生させて頂けたのです。
1
ペテロ13には“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。
1
ヨハネ33.5.6には“3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(新共同訳)と記されています。

 驚くべき恵みです。
それだけではありません。詩編1138には“高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。”(聖書協会共同訳)と記されていますが、キリスト者はどのような扱いなのでしょうか。
エペソ26には“キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所〔天の領域(筆者挿入)〕にすわらせてくださいました。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
主イエス様は他の個所で「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ142.3抜粋・2017)と約束してくださったのです。
それもキリストの花嫁としてなのです(黙示録196-9、エペソ531.32)。

 主イエス様は、私たちが地上にいる間も共にいてくださいます。
コロサイ127には“あなたがたのうちにいますキリスト”(抜粋・口語訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちにはとらえきれないほどの恵みを私たちに与えてくださっておられますから限りない感謝をお捧げします。
常に心を主に向けつつこの世の歩みを主に在って歩ませていただけますように。
今日も、主を愛し、主に信頼し、主に従い、主を賛美しながら、歩みたいと願います。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月20日 (月)

使徒2:37-42 ペンテコステの日の出来事/約3000人の人が救われる

 使徒237-41には次のように記されています。
37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言った。
38
 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
39
 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
40
 ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って彼らを励ました。
41
 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42 そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。 ”(聖書協会共同訳)とあります。

 37節には“人々はこれを聞いて大いに心を打たれ”とありますが、何によって心を打たれたのかを振り返ってみます。
ひとつ前の36節には、「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシア〔キリスト(口語訳、新改訳)〕となさったのです。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 もしこのペトロ(ペテロ)のメッセージを聞いている人の中に、ポンテオ・ピラトの裁判の場所で、「十字架につけろ」と叫んでいた人たちがいたとしたらどうでしょう。
あるいは、あのイエスという正しい人が有罪にされそうなのに、自分は反対の意を唱えることができなかった、という人もいたかもしれません。
弟子たちの多くは、自分たちの保身のために雲隠れしたのです。ペトロでさえ、「呪われても良い、私はあの人(イエス)を知らない。」といったのです。少し前にペトロは「あなたは生ける神の子キリストです。」とか「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」とも言ったのです。
ヨハネは十字架の下にいましたが。

 「神は、あなたがたが十字架につけたこのイエスを主とし、またメシア〔キリスト(口語訳、新改訳)〕となさったのです。」というメッセージを主の弟子たちから聞いたら、そこにいた聴衆は恐れおののいてしまうのではないでしょうか。

 私がそこにいたとしたら、顔面蒼白になっていたかも知れません。
ペトロのメッセージを聞いた人たちは、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」とペトロや他の使徒たちに聞いたのです。
このように叫んだ人たちは、聖霊によって心を刺されたのでしょう。
“人々はこれを聞いて大いに心を打たれ”(37)と記されていますから。

 悔い改めも、イエスを主と告白することも、聖霊の助けが必要です。
使徒1118には“人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。”(2017)という聖句が記されていますし、
1
コリント123には“ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。

 五旬節のこの日、弟子たちに聖霊が豊かに下りましたが、ペトロをはじめ弟子たちの話を聞いていた聴衆の人たちにも豊かに御聖霊は働かれたのです。
弟子たちの話を聞いていた人たちにも聖霊が働かれたのは、その人たちが、七週の祭りのために離散諸地方からエルサレムに礼拝に来ていた敬虔な人たちであると主に認められた人が多かったからではないかと推測します。
ペトロのメッセージを聞いて救われた人は3000人ほどもいたのですから(41)。
主なる神様は一人一人の心をご覧になりますから。
ヨハネ38に“風は思いのままに吹きます。”(2017)という主イエス様の御言葉がありますが、「風」と訳されている語のギリシア語原語は「プニューマ」で、「霊」の意もあります。聖なる霊はご自身の意志をもって事を行うお方です。またそれは御父の意志、御子の意志と同じです。

 どうしたら救われるのか?と聞いてきた人たちにペトロが語った内容は38-40節に次のように記されています。
38 そこで、ペトロは彼らに言った。
「悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
39
 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
40
 ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、
「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って彼らを励ました。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
ハレルヤ!
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの大いなる御業を見させていただけて感謝します。
あなたの御意志が天で行われているように、この地でも行われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月19日 (日)

フィリピ2:12-18 導いてきた兄姉たちが聖く歩んでくれたら殉教時にも喜びがある

 フィリピ212-18には次のように記されています。
12 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13
 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
〔神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いができるように助けてくださるのです。(リビングバイブル)〕
14
 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
〔何事においても、不平を言ったり、疑ったりしてはいけません。(リビングバイブル)〕
15
 そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。
 こうして私は、無駄に走ったわけでも、無駄に労苦したわけでもなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
17
 さらに、たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、私が供え物として注がれることになったとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
18
 あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 515日には、フィリピ212-16aの個所を記しました。
今日はその続きですが、今日の個所だけを読む人もいると思いますので、12節から記しています。
前回の個所のポイントは、聖なる者とされ世の光として輝きなさい、という内容でした。

 パウロは、フィリピの信徒たちが、神に従い、神の子どもとして汚れのないきよらかな生活をし、世の人々の間で、いのちのことばを高く掲げ、世の光として輝く歩みをしてくれたら、たとえ自分が殉教するようなことがあっても、喜びつつ殉教することができますよ、と語ったのです。

 またパウロは弟子のテモテに対して、手紙の中で、
「私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。
私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今や、義の冠が私を待っているばかりです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう。」(2テモテ46-8・聖書協会共同訳)と述べています。

 繰り返しになりますが、ピリピ215-18をリビングバイブル訳は次の様に意訳しています。
15.16 だれからも非難されないためです。心の曲がった邪悪な世の中にあって、あなたがたは神の子どもとして、汚れのない、きよらかな生活を送りなさい。世の人々の間で、いのちのことばを高く掲げ、世の光として輝きなさい。そうすれば、キリストが帰って来られた時〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕、私はあなたがたに対する労苦が無駄でなかったことを知り、どんなに喜ぶことでしょう。
17
あなたがたの信仰を供え物として神にささげる時、その上に、たとえ私の血を注がなければならないとしても――あなたがたのために、いのちを捨てなければならないとしても――私はうれしいのです。そして、あなたがた一人一人にも、この喜びを分けてあげたいのです。
18
このことは、当然、あなたがたにとっても喜びなのですから。私があなたがたのためにいのちを捨てる特権を持っていることを、ともに喜んでください。”と記しています。

 パウロがフィリピ信徒に対してこのように思うところがあったのは、パウロがフィリピ教会の設立に用いられたことにも関係しているのでしょう。
そのいきさつは使徒1611-40に記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロの内に働いて、宣教と牧者の御業を成し遂げていかれた主の御名を崇めます。
また私たちの内に働いて、聖い生活を送らせようとして私たち一人一人に応じてお整え下さっておられますことを感謝します。
あなたの御前に立たせていただけるときには、全く聖なる者としてお整え下さり立たせてくださいますからありがとうございます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。”(エペソ14・新共同訳)
“どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。”(1コリント523.24・新共同訳)
“あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。”(フィリピ16・新共同訳)

2024年5月18日 (土)

箴言28:26 主なる神様を除外した人間の知恵ではなく神の知恵に基づいて

 箴言2826を、
リビングバイブルは“自分に頼るのは愚かですが、神の知恵に頼れば安全です。”と訳し、
聖書協会共同訳は“自分の心を信頼する者は愚か。知恵によって歩む人は救われる。”と訳し、
2017
は“自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。”と訳しています。

 「心」と訳されている語のヘブライ語原語は「レブ」で、心臓、心、・・等に訳されますが、比喩的に、知性、感情、意志、等の意でも用いられます。
「自分の心」と訳されている「自分の」は、「レブ(こころ)」の接尾辞で、「彼」という意味の語がついています。

 前半部分は「彼の心に頼るのはor信頼するのは愚かな者」となりますが、日本人の感覚では「自分の考えや感情又は意志を信じるのは愚かな者です。」ということになると思います。
 
 箴言が書かれた旧約時代は、主なる神様を信じていても聖霊が心に住んでくださっておられたわけではないので、神の導きからではない、人の考えや感情等に頼って何かを決定してしまうのは、神様の導きによって決定するよりも劣ることは明らかです。

 後半部分の「安全」(リビングバイブル)、「救われる」(聖書協会共同訳、2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「マーラト」で、平らな、平坦な、なめらかな、逃げる、逃れる、脱出する、回避する、救う、救出する、保存する、保護する、・・等の意があります。

 後半部分は「知恵によって歩む人は平たんです(平らかな歩みです)or安全ですor救われます」という意です。

 リビングバイブルは「神の知恵」と訳していますが、ヘブライ語聖書の文には「神の」という単語はありません。
しかし、この聖句全体を読むと、ここに記されている「知恵」は「神の知恵」であると考えることができると思います。

 ごちゃごちゃとどうでもよさそうなことを書いてきましたが、同じようなことを述べている箴言の他の聖句を下記します。
 「4 あなたは神と人の前に好意と良い成果を得る〔神と人との前に好意と聡明を得よ(新改訳初版~第三版)〕。
5
 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼るな。
6
 どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
7
 自分を知恵ある者などと思わず、主を畏れ、悪から離れよ。〔神を第一とし、神に従わないことは的外れであり、それは良いことではありません。悪や罪をそのように捉えることも可能でしょう。(筆者挿入)〕
8
 それはあなたの体の癒やしとなり、あなたの骨の潤いとなる。」(箴言3章・聖書協会共同訳)と記されています。

 同じ個所をリビングバイブルは、
4.5 神にも人にも喜ばれ、正しい判断力と英知を得たいなら、とことん主に信頼しなさい。決して自分に頼ってはいけません。
6
何をするにも、主を第一にしなさい。主がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。
7.8
自分の知恵を過信してはいけません。むしろ主に信頼して、悪の道から離れなさい。心も体もみずみずしく元気がみなぎります。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛して、主を第一とし、主に従い続ける歩みをして行けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月17日 (金)

詩篇112篇 主を畏れ敬い主に従う者の幸い

 詩篇112篇を、
リビングバイブルは次の様に意訳しています。
1 ハレルヤ。主を信じて従う人は、言い表せないほどの祝福を受けます。心から、神のおことばどおりにする人は幸せです。
2
正しい人は、子どもたちにまで祝福が受け継がれます。その子らは、至る所で尊敬を集めます。
3
正しい人は資産にも恵まれ、善行をたたえられるでしょう。
4
たとえ、暗やみの力に巻き込まれたとしても、すぐに輝くばかりの光に照らされるでしょう。主はあわれみ深く、親切です。
5
公正な取り引きをする人には、万事がうまく運びます。
6
このような人は、事態が思わしくなくなっても、動じたりしません。周囲の人々は、神が彼をいつも目にかけておられるのを見て、深い感銘を受けるのです。
7
彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、不安になることもありません。主に見放されるわけがないと、信じきっているからです。
8
それゆえ、何事も恐れず、冷静に敵の顔を見つめることができるのです。
9
彼は物惜しみしたりせず、貧しい人に気前よく与えます。その善行は、いつまでも忘れられず、人々の尊敬を集めます。
10
これを見たひねくれ者は、怒りに震えますが、歯ぎしりしながら逃げだすしかありません。望みが消え去ったからです。”とあります。

 聖書協会共同訳は次のように訳しています。
1 ハレルヤ。幸いな者、主を畏れ、その戒めを大いに喜ぶ人。
2
 彼の子孫はこの地で勇士となり、正しい人々として祝福される。
3
 その家には富と宝があり、彼の正義はいつまでも続く。
4
 正しい人には闇の中にも光が昇る。恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。
5
 恵みに富み、貸し与える人は良い人。その人は公正に事を行う。
6
 決して揺るがされることなく、正しき人としてとこしえに記憶される。
7
 悪評も恐れず、その心は主に固く信頼している。
8
 その心は堅固で恐れず〔主に堅く信頼して恐れず(筆者挿入)〕、ついに彼は敵を見下すに至る。
9
 貧しい人々には惜しみなく分け与え、その正義はいつまでも続く。彼の角〔「力」の意(筆者挿入)〕は栄光の中、高く上げられる。
10
 悪しき者はそれを見て怒り、歯ぎしりして消え去る。悪しき者らの野望は滅びる。”とあります。

 この個所を読むとレビ記26章と申命記28章の「祝福と呪い」について記されている中の祝福の項目を思い浮かべます。

 申命記28章の祝福される条件とその内容については、1-13節に次のように記されています。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。
5
 あなたの籠もこね鉢も祝福される。
6
 あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。〔「入る」と訳されている語のヘブライ語原語は「ボー」で、to go or comeの意の他abide{留まる、滞在する}の意にも使われますから、どこにいても祝福されるわけです。(筆者挿入)〕
7
 主はあなたに立ち向かう敵をあなたの前で打ち負かされる。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前から七つの道へ逃げて行く。
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。
9
 あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むとき、主はあなたに誓われたとおり、あなたを聖なる民として立てられる。
10
 地のすべての民は、あなたが主の名で呼ばれるのを見て、あなたを恐れる。
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはない。
13
 私が今日守り行うように命じる、あなたの神、主の戒めに聞き従うとき、主はあなたを頭として、尾とすることはない。あなたは常に上にあって、下になることはない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 レビ記26章や申命記28章は神ヤハウェ(主)とイスラエルとの間の契約です。
神ヤハウェ(主)は、イスラエルを、地上における神の国として、立てられました。
キリスト者に対して、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3202017)と記されているように、キリスト者は天の国籍を持つ者であり、第一義的には地上の祝福ではなく、霊的な祝福です。エペソ13には“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されている通りです。

 キリスト者は、地上においては祝福されないのでしょうか。
そのようなことはありません。
主を愛し、主に信頼し、主に従う生活を送ると、益々、主との交わりが豊かになるのです。
それだけではありません。
主の内に全てのものがあるのです。

 主に従う歩みをしても艱難、困難から逃れられるわけではありません。
主は「世にあっては苦難があります。」(ヨハネ16332017)と語られました。
しかし詩篇1127には「彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、不安になることもありません。主に見放されるわけがないと、信じきっているからです。」(リビングバイブル)と記されています。

 新生した人は、主イエス・キリスト様に買い取られた花嫁です。花婿キリストが花嫁{教会(キリスト者の総体)}を迎えに来るのは携挙の時ですが。
花婿キリストは命を懸けて花嫁を買い取ったお方です。花婿キリストは花嫁を見捨てることはありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の御愛に包まれて地上生活を送ることの出来ます幸いを感謝します。
主を愛し、主に従い続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月16日 (木)

使徒2:22-36 ペンテコステの日のペテロの説教2/キリストの十字架と死、復活、高挙

 使徒222-36には次のように記されています。
22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。
神は、この方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。
あなたがた自身がご承知のとおりです。
 23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです。
〔神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。(2017)〕
 24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました
イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
 25 ダビデは、イエスについてこう言っています。
『私は絶えず目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので、私は揺らぐことがない。
26
 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜び躍った〔私の舌は喜びにあふれます(2017)。この個所の「舌」という訳は70人訳ギリシア語聖書からです(筆者挿入)〕。私の肉体もまた希望のうちに安らう。
27
 あなたは私の魂を陰府に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない。
28
 あなたは、命の道を私に示し、御前にいる私を喜びで満たしてくださる。』
 29 きょうだいたち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあると、はっきり言えます。
30
 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人を王座に着かせると、神が堅く誓ってくださったことを知っていました。
31
 そして、キリストの復活について予見して、
『彼は陰府に捨て置かれず、その肉体は朽ち果てなかった』と語りました。
 32 神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。
33
 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
34
 ダビデが天に昇ったわけではありません。彼自身こう言っています。
『主は、私の主に告げられた。「私の右に座れ。35 私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
36
 だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペトロ(ペテロ)が伝道説教に引用した聖書個所の使徒225-28は、詩篇168-11からの引用で、詩篇の方には、
8 私は絶えず目の前に主を置く。主が右におられ、私は揺らぐことがない。
9
 それゆえ、私の心は喜び、心の底から〔ヘブライ語原語は「カーボード」で「栄光」の意(筆者挿入)〕喜び躍り〔ヘブライ語聖書からの直訳では「私の栄光は喜び踊り」(筆者挿入)〕、この身もまた安らかに住まう。
10
 あなたは私の魂を陰府(よみ)に捨て置かず、あなたに忠実な者〔ヘブライ語原語は「ハーシードゥ」で聖なる者とも訳せます(筆者挿入)〕に滅びの穴を見せず、
11
 命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさ〔ヘブライ語原語は「ナーイーム」で、楽しさ、心地よさ、甘さ等の意があります(筆者挿入)〕が永遠にありますように〔楽しみがあなたの右にとこしえにあります(2017)〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 次にペトロ(ペテロ)が伝道説教に引用した聖書個所の使徒234-35の個所は、詩篇1101からの引用で、詩篇の方には、
“主は、私の主に言われた。「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ペトロが説教したこの時、新約聖書はまだありませんでした。
聖書といえば旧約聖書です。
ペトロは、聖書(旧約聖書)からイエスがキリストであることを弁証していったのです。

 ペトロが用いた詩篇の個所はダビデの作ですから主イエス様の時代から約1000年前のものです。
ペトロは詩篇のこの個所から、イエスがキリストであったことを聖霊によって明らかにしました。

 詩篇のこの2ヶ所から、キリストはよみに下ったが、死から復活し、天に昇って御父の右の座に座しておられることを弁証したのです。

 ペトロ(ペテロ)は詩篇16篇と詩篇110篇の一部を基にして語った後、「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒236・聖書協会共同訳)と語ったのです。

 ペトロ(ペテロ)は、最初の伝道説教で、
①聖なる方であるイエス(使徒227)が十字架上で死んだこと(殺されたこと)。
②イエスは死んで肉体は墓に葬られたけれども、魂はよみに行き、しかしよみに居続けたのではなく、その魂は、復活させられたからだと共に天の神(御父)の右の座に着座されたこと。
③(まとめとして)、「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)と述べたのです。

 ペトロは、1ペトロ222-24に、
22 「この方〔キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。”(聖書協会共同訳)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの御復活後の最初の福音宣教は、キリストの十字架上での死とその意味、キリストの復活、キリストが御父の右の座に座しておられること、等の内容でした。
私たちにも大いに参考になることです。
福音を語ったとき、御聖霊が働いてくだされば、私たちから福音を聞いた人は信仰告白をすることができることでしょう。
主の導きに従って、聖霊によって福音を単純に分かりやすく伝えていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(1コリント1232017
“心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。”(1ペトロ315.16a・新共同訳)

2024年5月15日 (水)

フィリピ2:12-16a 聖なる者とされ世の光として輝きなさい

 フィリピ212-16aには次のように記されています。
12 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13
 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14
 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
15
 そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所のポイントは、「とがめられるところのない純真なキリスト者としてすなわち神の子どもとして、置かれている地上世界の中にあって輝き、いのちのことばをしっかり保つ&いのちのことばを与える者となるために罪から救われ続けなさい、すなわち聖い歩みをしなさい、主の霊に従い、主の恵みによって。」ということになるのではないかと思います。

 この個所は、キリストの救いにあずかったばかりの人、自分が救われたのか救われていないのかはっきりしないという人、救われたけれどもほとんど肉の歩みをしている人には、「何を言ってるんだか」とか「そんなの無理」とか「自分もその様になりたいものだ」と思うような個所であると思います。

 救いにあずかったばかりの人は、救いの確信を明確にしてもらうことが大切です。
今日の個所は、肉によって歩んでいる時間よりも霊によって歩んでいる時間の方がズーっと多いという人にとってはよくわかる個所でしょう。

 キリスト者は、立場的には、へブル1010に“イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)と記されているように、キリストの血によって、聖い者とされています。

 しかし実質的には、すべての言動においてキリストの香りを放っているかというとそうではありません。
それ故、ペテロ(ペトロ)は次のように記しています。
“従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。”(1ペテロ114-16・新改訳初版~第三版)〕とあります。

 フィリピ212.13の聖句では、主が、すべての罪に関することから救われたい、すなわち聖くされたいという思いを持たせてくださり、事を実行させてくださる、と記されています。
きよくされていくときには、理不尽と思えるようなところ、肉的には喜べないようなところも通るのです。主イエス・キリスト様以上に理不尽な扱いを受けたお方はいないのです。
14
節には“何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。”と記されています。

 パウロは、ローマ828において“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。”(口語訳)と記しています。
これは肉的に益となるという意味ではありません。
私たちは、様々なところを通されて、キリストに似たもの、神のご性質にあずかる者とされていくのです。

 フィリピ215.16aの聖句は“そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つ〔ギリシア語原語は「エペコー」で、しっかり保つ、の意ですが、与える、の意にも使われます(筆者挿入)〕でしょう〔いのちのことばをしっかり保ちまた与えるでしょう(私訳)〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 聖書の最後の章である黙示録2211にも“・・・・・聖徒はいよいよ聖なるものとされ なさい。”(新改訳初版~第三版)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新共同訳は、エフェソ14.5として“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって 神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。”と訳していますが、その御心に従って、私たちをきよくお整え下さり、主の器として用いようとしてくださっておられますから感謝します。
あなたの導きに従い、あなたのみ旨にかなう者としてお整え下さり、あなたに喜ばれる歩みをしていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月14日 (火)

箴言28:25 驕る者・貪欲な者は他者をも苦しめ、主に信頼する者は豊かになる

 箴言2825を、
リビングバイブルは“欲張りはけんかばかりしますが、主に頼る人は幸せになります。”と訳し、
2017
は“欲の深い人は争いを引き起こす。しかし、主に拠り頼む人は豊かにされる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“驕(おご)る者はいさかいを引き起こすが、主を信頼する人は豊かになる。”と訳しています。

 「欲張りな」(リビングバイブル)、「欲の深い」(2017)、「貪欲な」(新共同訳)、「驕る」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーハーブ」です。
「ラーハーブ」の原義は、広い、広々とした、の意ですが、大きい、高慢な、尊大な、・・等の意でも使われます。
70
人訳(旧約のギリシア語訳)は、「アルレーストス」という語を用いています。これは「貪欲な」の意です。(十戒の十番目に相当するような不当な欲求が)大きい、ということなのかなと思います。

 この聖句の前半部分は、ヘブライ語聖書を基に訳すと、聖書協会共同訳のように「驕(おご)る者はいさかいを引き起こす」となりますし、ギリシア語訳を基に訳すと、2017訳のように「欲の深い人は争いを引き起こす」となります。

 使徒1726には「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。」(2017)と記されています。

 プライドの高い人は、起こさなくてもよい争いを引き起こしますし、欲の深い人も同じです。
特に戦う欲望の強い人、他の人を人とも思わない貪欲な人は困りますね。
 ヤコブ41.2に次のような聖句があります。
1 あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。・・・。”(2017)と記されています。

 人間の間における驕り、高ぶりは困りますが、もっと危険なのは主なる神様に対する高ぶりです。神さまに対して高ぶっている人は、自分が神になっています。しかし、審判の時には、主なる神様が御力を発揮されますから、神様に対しておごり高ぶっている人はひどくみじめなことになります。

 聖書は、主イエス・キリスト様を信じないことは罪である(ヨハネ169)と述べています。主は、御父のひとり子の御子であり、当然のことながら「神」なのです。その神が人の形をも取り、贖いを成し遂げて救い主ともなって下さったのです。

 この世の終わり、すなわち大患難時代の終わりには、主キリストに敵対する人たちがメギドの丘{ハル・メギド(ハルマゲドン)、イズレエルorエスドラエロン}に集合し、その後エルサレムに向かって進み、ユダヤ人たちや、何よりも主キリストに対して戦いを挑むのです(ゼカリヤ122-9、黙示録1911-19)。その結果はどうなるのでしょう。
 黙示録1919-203には次のように記されています。
1919 私は、あの獣〔この時代の世界統治者、the反キリスト(筆者挿入)〕と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方〔王の王、主の主である再臨のキリスト(筆者挿入)〕とその軍勢と戦うために、集まっているのを見た。
20
 しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、偽預言者は、獣の刻印〔666(筆者挿入)〕を受けた者や、獣の像を拝んでいた者を惑わしたのである。獣も偽預言者も、生きたまま硫黄の燃え盛る火の池〔=ゲヘナ(筆者挿入)〕に投げ込まれた。
21
 残りの者たちは馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるまで食べた。
20
1 また私は、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。
2
 この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、3 底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。・・・。”(聖書協会共同訳)とあります。

 箴言2825の後半部分には「主に信頼する者は豊かになる」と記されています。
新約の時代は、「豊かになる」といっても、第一義的には、経済的なことではありません。
エペソ13に、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。
キリストに信頼する者は、霊的に豊かになるのです。
とはいえ、主のご計画に従って、経済的に豊かにされる人もいることでしょう。
その人は、「分け与える人は惜しまずに分け与え、・・・、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。」(ローマ1282017)という聖句に該当する人でしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたに対してへりくだり、あなたに信頼して歩む生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月13日 (月)

詩篇111篇 主を賛美する民

 詩篇111篇には次のように記されています。
“(アルファベットによる詩)
1
 ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝を献げる。正しい人々の集い、会衆の中で。
2
 主の業(わざ)は偉大。それを喜びとするすべての人が求めるもの。
3
 その働きは威厳と輝き、その正義はいつまでも続く。
4
 主は奇しき業を記念するよう定めた。主は恵みに満ち、憐れみ深い。
5
 ご自分を畏れる人々に糧を与え、とこしえに契約を心に留める。
6
 御業の力をその民に知らせ、国々の受け継いだ地を彼らに与えた。
7
 御手の業はまことと公正。その諭しはすべて真実。
8
 これらは代々とこしえに支えられ、まことと正しさをもって行われる。
9
 主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。その名は聖であり、畏るべきもの。
10
 主を畏れることは知恵の初め、これを行う人は皆、優れた思慮を得る。主の賛美はいつまでも続く〔主の誉れは永遠に立つ(2017)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節を2017は「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり、主の会衆において。」と訳しています。
「直ぐな人」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーシャール」で、この個所はその複数形になっています。「ヤーシャール」には「正しい人」の意もあります。
 主なる神様との関係において、正しい人、すなわち、主なる神様を畏れ敬い、信頼し、従う人達からなる会衆一同が、主を信じ、主を愛し、主に感謝し、主をほめたたえる人たちの中にあって、心を尽くして主に感謝をお捧げするとき、その感謝と喜びは大いなるものとなるでしょう。

 2節を新改訳初版~第三版は「主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。」と訳しています。
宇宙についての学び、生物についての学び、その他さまざまな学びを深くすればするほど創造主であられる主なる神様の御力(能力)、御業、美的感覚、その他様々な能力、そしてその御力によって行われた創造以外の御業にも驚嘆せずにはいられません。
 
 話を変えます。
ヨハネ11章に記されているラザロのことですが、ラザロが死んで4日経った後、主イエス様の一声で、ラザロは直ちに復活しました。4日経ったラザロの体の細胞の一つ一つはどのようになっていたことでしょう。死んで四日経った血液はどのようになっていたことでしょう。
ラザロの姉妹であるマルタはもう臭くなっているでしょう、と語りました。それがイスラエルの地にあっては普通のことであったのです。すなわち、細菌等によって体が腐敗しているということです。
それを考えると驚嘆するしかありません。

 3.4節には“3 その働きは威厳と輝き、その正義はいつまでも続く。4 主は奇しき業を記念するよう定めた。主は恵みに満ち、憐れみ深い。”(聖書協会共同訳)と記されています。
主は、とこしえに義なるお方であると共に、愛なるお方であり、恵みと憐みに満ちておられるお方であると記されていますが、キリスト者であれば、だれでも体験していることでしょう。

 5節前半部分には“ご自分を畏れる人々に糧を与え”と記しています。
主を畏れ敬う人は、主を第一とするでしょう。
主イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの〔必要なもの(筆者挿入)〕はすべて、それに加えて与えられます。」(2017)と言われました。

 5節の後半部分と6節、及び9節の最初の部分には、主は“とこしえに契約を心に留める。御業の力をその民に知らせ、国々の受け継いだ地を彼らに与えた。/主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。”と記されています。
主は、アブラハムとの契約を忘れることなく、イスラエルの民をエジプトから解放し、律法を与え、カナンの地をイスラエルに与えられました。(創世記15章、2813-15、出エジプト224.25201-248、ヨシュア記、他多数)

 7.8節、9節後半部分には“7 御手の業はまことと公正。その諭しはすべて真実。
8
 これらは代々とこしえに支えられ、まことと正しさをもって行われる。/9 ・・。その名は聖であり、畏るべきもの。”と記され、主の本性(御性質)の一部が記されています。

 10節前半部分には“主を畏れることは知恵の初め、これを行う人は皆、優れた思慮を得る。”と記され、人々を諭(さと)しています。

 主を知った人は、1節と10節後半部分に記されているように、とこしえに主を賛美するのです。
新約において、主を知るというのは、主の霊と交わりを持っているということです。
もっと言うと、主と一つ霊とされているもののことです。(1コリント617

 イスラエルはサタンによって{(生まれながらの人間の知れる範囲では)サタンに導かれた人々によって}、いつも悪く言われ、抹殺されようとしてきましたし、いまもなきものにしようとされていますし(詩篇831-4)、大患難時代には獣(反キリスト)がイスラエルを抹殺しようとすると預言されていますが、同時にイスラエルを主が守られると約束されています。{サタンがイスラエルをなきものにしようとする理由は創世記314.15に記されています。(黙示録12章も参照してください)}
イスラエルに対する主の真実を見るとき、聖書に記されている主のイスラエルに対する契約が事実であることを知ることができます。
同じように、キリスト者に対するキリストの血による契約(新契約or新約)もとこしえであり、約束のすべてが成就していきますから、私たちは常に主を賛美することができますし、キリスト者は主を賛美する者として存在している一面もあります{詩篇10219(口語訳、新改訳は18節)、エペソ16.12.14}。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
世の中でどのようなことが起ころうとも、主に信頼しない人たちが何と言おうとも、主のみ旨が聖書に預言されているように実現していきますから御名を崇めて賛美します。
主の空中再臨を待ち望みつつ、今日も主に在って歩む一日であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月12日 (日)

使徒2:14-21 ペンテコステの日のペテロの説教1/ヨエルの預言の成就

 使徒214-21には次のように記されています。
14 そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。
15
 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではありません。
16
 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 17 『神は言われる。終わりの日に、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
18
 その日、男女の奴隷にも、わが霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19
 上では、天に不思議な業を、下では、地にしるしを示す。血と火と立ち上る煙が、それだ。
20
 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
21
 しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。』”(聖書協会共同訳)とあります。

 15節には“今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではありません。”と記されています。
何故、使徒たちは、酒に酔っていると思われたのでしょう。
それは、使徒たちの話している状態を見て、酒に酔っていると思われたのです。

 このときにエルサレムに来ていた人たちは、ユダヤに住んでいた人たちだけではなく、離散しているユダヤ人たちも五旬際のために集まってきていたのです。
離散していたユダヤ人たちがユダヤ以外に住んでいる地域は、使徒29-11より“パルティア(カスピ海南東のペルシヤ帝国の一部分)、メディア(カスピ海西南)、エラム、メソポタミア、カパドキア(小アジアの東部)、ポントス(小アジヤ北東部)、アジア(小アジアの西海岸の地域)、フリギア(小アジヤ中央部)、パンフィリア(小アジヤ中央の南岸)、エジプト、リビアのキレネ側の地方、ローマ、クレタ、アラビア”などであったのです。
使徒たちは、上記の地方の国言葉で福音を語ったものですから、その他の地域の言葉を知らない人々は理解することができず、酒に酔っていると思ったのでしょう。
また、聖霊に満たされて語り、あるいは祈るとき、酒に酔って気持ちがリラックスしたかのような気持ちの良い状態になることがありますが、この人々には、使徒たちがそのように見えたのかもしれません。

 関連した聖句といえるかどうかわかりませんが、エペソ518には“また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。”(2017)と記されています。
この聖句の前半部分を、新共同訳は“酒に酔いしれてはなりません。”と訳していますが、ギリシア語聖書を読むと、「ワインに飲まれてしまわないように」というような感じで書かれているように思えます。
酒のことはどうでもよいのですが、使徒たちの御霊に満たされた状態は、酔っているが如き状態に見えたのでしょう。

 ペトロ(ペテロ)が引用した17-21節の聖句の、ヘブライ語聖書、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、ヨエル31-5の個所になりますが、文語訳、口語訳、新改訳は、ヨエル228-32に記しています。

 聖書協会共同訳のヨエル31-5には次のように記されています。
3:1 その後、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
2
 その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。
3
 私は、天と地にしるしを示す。血と火と煙の柱が、それだ。
4
 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
5
 しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムに、また、主が呼ばれる生き残りの者のうちに、逃れる者がある。”とあります。

 上記の聖句は、キリストの高挙後、すなわち御父の右の座に着座された(マルコ1619、ルカ2269参照)後からキリストの地上再臨(キリストの空中再臨ではありません)までの期間に起こることが預言されています。

 使徒たちは、「神の霊が注がれて、預言する」という預言を体験したのです。

 ヨエル33.4はキリストの空中再臨に伴う携挙後の出来事です。
4
節は黙示録の第6の封印が開かれたときに相当するのだろうと思います。
 黙示録612-17には次のように記されています。
6:12 また、小羊が第六の封印を解いたとき、私が見ていると、大地震が起きた。太陽は毛織の粗布のように暗くなり、月は全体が血のようになって、13 天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようであった。
14
 天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
15
 地上の王、高官、将校、富める者、力ある者、また、すべての奴隷も自由人も洞穴や山の岩間に身を隠した。
16
 そして、山と岩に向かって言った。
「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。
17
 神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨエル35aの「・・、主の名を呼び求める者は皆、救われる。」という御言葉は、キリストの御復活後、誰にでも成就しました。これは、キリストの地上再臨迄続くのでしょう。「主の名」とはキリストご自身のことです。「名」とはそのものを表します。

 余談になりますが、「イェス わがすべて」という賛美があります。
その歌詞は、“喜び 平安 愛 イェスの名前にあり 信仰 恵み 御救い イェスの名前にあり 幸せ 赦し 永遠のいのち 心のすべての希望 イェスの名前にある イェス イェス 今生きている オー オー オー イェス イェス わがすべてです”というものです。
「イェスの名前にある」を「イェスご自身の中にある」とも言いかえることが可能です。この曲を知らない方は、ユーチューブで知ることができます。
以上、「名」というものについての説明でした。

 ヨエル33-5を一塊(ひとかたまり)として捉えると、ヨエル35は、ゼカリヤ12.13章に記されている事柄なのでしょう。次のように記されています。
12:10 私〔12章前半部分より「私」=ヤハウェ(筆者挿入)〕はダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕のことで私を見て、独り子の死を嘆くように 嘆き、初子の死を悼むように悼む。
2017は次のように訳しています。「わたし〔12章前半部分より「わたし」=ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕、〔すなわち(筆者挿入)〕わたし〔12章前半部分より「わたし」=ヤハウェ(筆者挿入)〕を仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(筆者挿入)〕/
12
 この地は氏族ごとにそれぞれ嘆く。ダビデの家の氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。ナタンの家の氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。
13
 レビの家の氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。シムイの氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。
14
 残りの氏族もすべて氏族ごとにそれぞれ嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。
13:1
 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。
2
 その日になると、私は偶像の名をこの地から絶ち滅ぼす――万軍の主の仰せ。/
8
 すべての地はこうなる――主の仰せ。〔ユダヤ人の(筆者挿入)〕三分の二は死に絶え、三分の一〔ヨエル35の「残りの者」すなわち、主を畏れ敬う者(筆者挿入)〕はそこに残される。
9
 私〔「ヤハウェ」のこと(筆者挿入)〕は〔残りの者である、すなわち(筆者挿入)〕三分の一を火の中に入れ〔艱難の中に入れ(筆者挿入)〕、銀を精錬するように精錬し、金を吟味するように吟味する。
彼は私の名を呼び、私は答える。私は「彼はわが民」と言い、彼は「主はわが神」と言う。”(聖書協会共同訳)とあります。
主を畏れ敬い信じる者は救われるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を信じる信仰を与えてくださり感謝します。
未だ救われてはいないところの、私たちが祈っている人たちをも、イエス様を心にお迎えする者となさしめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月11日 (土)

フィリピ2:9-11 天においても地においても、すべての権威が与えられている主

 フィリピ29-11には次のように記されています。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、
11
 すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 9節の「このため」の「この」というのは、その前の6-8節の次の聖句を指しているのでしょう。
6 キリストは、神の形〔身分(新共同訳)。「形」のギリシア語原語は「モルフィー」で、形、形状、姿、・・等の意(筆者挿入)〕でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、
〔キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。(リビングバイブル)〕
7
 かえって自分を無にして、僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者に〔人間と同じように(2017)。「同じ者」と訳されている語のギリシア語原語は「ホモイオーマ」で、形、形状、似たもの、・・等の意(筆者挿入)〕なられました。人間の姿で現れ、
8
 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神のひとり子の御子が、6-8節のようになられたゆえ、“・・神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”(9節・聖書協会共同訳)と記されているように、父なる神がなさったということです。

 日本語訳聖書の数書を見ると、ギリシア語聖書の9節の聖句の中の「カイ」という語を、おそらく「and」の意に捉えて、あえて訳出していません。
「カイ」には「and」の他、「alsotoo」の意、その他の意もあります。KJV訳は「also」を入れて訳しています。
ギリシア語の「カイ」をalsoとして訳出すると、「このため(orそれゆえ)、神は、また、キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と訳すことができます。
「また」と訳す場合は、御子が人となられる前は「神であった」ということをもとにして述べているとも考えられます。
御子は、元来、神の第二位格の神であり続けたのです。
御子は、人の姿を取られても、神の本質を持っておられたお方です。
御子が人の形を持ったとき、御子は、神の権能を封印されておられましたが、ご性質(本質)は神そのものでした(へブル13)。

 堕罪前の人は、神の形(本質)に似せて作られたのです。
創世記126.27には“神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。”(2017)と記されています。
神は霊です(ヨハネ424)から、神と人の外形が似ているというのではありません。ですから、似ているというのは、神のご性質のことであると思います。

 9節の聖句に関しては、主イエス様ご自身が、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と語られました。
マタイ2818の聖句の中の「権威」と訳されている語のギリシア語原語は「エクスシア」で、力、能力、特権、統御、・・・等の意があります。
リビングバイブルはピリピ26を“キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。”と訳していました。

 10.11節には“10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、11 すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 10節の「地下のもの」とは「よみに住んでいる者」という意味だろうと思います。
「天上のもの」とはすでに天で生活している聖徒や神に従っている天使たちでしょう。
「よみに住んでいる者」とは、死んでよみに下った者とよみに閉じ込められた悪霊でしょう。
よみは新天新地が創造される前の、最後の審判の時まで存在する場所です。
最後の審判によってよみは火の池に入れられます。(黙示録2011-15参照)

 フィリピ210.11の聖句は、新天新地が創造される前までの期間において適用される聖句でしょう。
新天新地の後には、御父がすべて上に立たれます。(1コリント1528参照)

 「地下のもの」たちに関しての考察を述べると議論を呼ぶので、ここには書かないことにします。
地上では、「イエス・キリストは主である」と告白しなかった者たちが、どうして地下で、「イエス・キリストは主である」と告白するのでしょう。
後になって分かることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖なる御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天において行われているようにすべての所で行われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月10日 (金)

箴言28:24 神様の前での取り繕いは無用/ヘブライ語の罪の用語

 箴言2824を、
口語訳は“父や母の物を盗んで「これは罪ではない」と言う者は、滅ぼす者の友である。”と訳し、
 新改訳初版~第三版は“自分の父母の物を盗んで、「私は罪を犯していない」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“父母のものをかすめ取り、「これは罪ではない」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間。”と訳し、
 2017は“父母の物をかすめていながら、「背いていない」と言う者は、滅びをもたらす者の仲間。”と訳しています。

 「罪」(口語訳、新改訳初版~第三版、聖書協会共同訳)、「背く」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ペシャ」で、反乱、反抗、違反、犯罪、罪、侵入する、侵害する、等の意があります。

 主に背く者、主の教えに背く者とは、罪を犯す者、すなわち罪人です。

 ヘブライ語の「罪」の用語に関して、聖書辞典は次のように述べています。
“旧約における罪。用語。旧約において罪を表す語は多いが、おもな語は次の4種である。
 a。〈ヘ〉ハーターは「失敗する」(士20:16)、「失っている」(ヨブ5:24)、「つまずく」(箴19:2)などと訳されているように、もともとは「的(目標)、または道をはずす」意味で用いられた一般的な語である。それが聖であり、義である神との関係においては「罪」と訳され(創4:7,10:17)、神が人に定められた道を踏みはずすという意味を表す。またこの語は、強情(出9:34)、神に対する反抗(ヨシ7:11)、神に対する不平(ヨブ1:22)、心の中で神をのろうこと(ヨブ1:5)、不信仰(詩78:32)などと共に用いられている。レビ記において〈ヘ〉ハーターの名詞形ハッタースは「罪のためのいけにえ」(レビ4:1‐5,13‐14)を意味し、それが罪に対する代償行為にまで拡大されている。
 b。〈ヘ〉アーオーンは「曲げる」が原意。「」(創4:13,44:16,20:5,32:2)などと訳され、悪の行為を表す
 c。〈ヘ〉ペシャ背くことで、「そむき」(ヨシ24:19,32:1,107:17)、「そむきの罪」(出23:21,32:5,イザ53:5)と訳される。この語は、罪が神への反逆であることを最も強く表しており、その結果なされる残虐な行為とそれに続く神の容赦のないさばきについてたびたび使われている(イザ1:28,アモ1:3‐13)。
 d。〈ヘ〉シャーガーは「あやまち」「あやまって犯した罪」(レビ4:13,ヨブ6:24,19:4,エゼ45:20)や「迷い出ること」(詩119:10,21.参照エゼ34:6)と訳され、被造物としての人が持つ弱さからくる誤った行為を意味している。これら以外にも罪の類義語は多くあるが、罪を表す語はおしなべて、その状態よりも、むしろ人が思い、ことば、行為などで犯した具体的な罪の事例について語っていると言える。”と記しています。

 詩篇321には“幸いなことよ。その背(そむ)きを赦され罪をおおわれた人は。”(2017)と記されています。
この聖句での「背き」と訳されている語のヘブライ語原語は「ペシャ」で、「罪」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハターアー」です。
ダビデは、罪についてより分かりやすく、ペシャ(神に対するそむき)はハターアー(神の教えを踏み外していること)と同じだよということで、2語を使ったのではないかと推測します。

 今日の箴言の聖句での「罪」は、「ペシャ」です。
余談になりますが、北王国イスラエルも南王国のユダも、神に背き続けた結果、国を滅ぼされ、捕囚となったのでした。

 箴言2824を口語訳は“父や母の物を盗んで「これは罪ではない」と言う者は、滅ぼす者の友である。”と記しています。
私は、この聖句を読んだときに、1ヨハネ18の“もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。”(2017)という聖句を思い起こしました。
私自身が示されている罪、すなわち「的外れ」として、時間の管理が悪い、ということです。主はパウロを通して「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10312017)と語っておられますが、私は、フリーセルというパソコンについているゲームに時間を費やしてしまうことがあります。このゲームは、私の頭のデフラグになるのですが、本当は主に祈ることによって頭のデフラグをすべきであると思います。
1
ヨハネ19の「・・・告白するなら・・・きよめてくださいます」という個所を適用し、今日からは、主に在って改めさせて頂きたいと思います。
時間を無駄に使うと、ルカ19章のミナの譬えを思い起こします。神さまは、しもべ全員に同じものを預けました。
神様は、人に一日24時間という時間を預けてくださったので、それを有効に使わなくてはいけない、と思うのですが、私はいまいちなのです。
「神様、ごめんなさい。」

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたから与えられている時間をあなたの栄光のために用いる者であらせてください。
私の主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 9日 (木)

詩篇110篇 王の王であり大祭司であるメシア/キリストの地上再臨のときの預言

 詩篇1101-7には次のように記されています。
1 ダビデの詩。賛歌。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の主〔アドニ(筆者挿入)〕に言われた。
「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」
2
 あなたの力強い杖を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はシオンから伸ばされる。
「敵のただ中で支配せよ。」
3
 あなたの民は進んで身を献げる。あなたの出陣の日〔直訳「力の日」(欄外注)。「出陣と訳された」ヘブライ語原語は「ハイル」で「力」、NIV訳はbattle(筆者挿入)〕に。聖なる輝きを帯びて、曙の胎の中から若さの露があなたに降りる〔「降りる」は補足(欄外注)〕。
4
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は誓い、悔いることはない。「あなたは、メルキゼデクに連なるとこしえの祭司。」5 わが主はあなたの右に立ち、怒りの日に王たちを打つ。
6
 国々を裁き、屍で満たし、広大な地で頭(かしら)を砕く。
7
 主は途上で川から水を飲む。こうして彼は頭(あたま)を高く上げる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の主〔アドニ(筆者挿入)〕に言われた。
「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は、この個所を用いてファリサイ派の人々に語られたことがありましたし、主イエス様に従っていた弟子のペテロもペンテコステの日にこの聖句を用いて伝道説教をしています。

 マタイ2241-46には、
41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42
 「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」
彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43
 イエスは言われた。「では、どうしてダビデが、霊を受けて〔ギリシア語原語は「エン プニューマ」でKJV訳は「in spirit」。話の内容から、この「霊」は聖霊でしょうから、口語訳、新改訳は「御霊」と訳しています。(筆者挿入)〕、メシアを主と呼んでいるのか。
44
 『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
45
 このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
46
 これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや、あえて質問する者はなかった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また使徒229-36には次のように記されています。
29 きょうだいたち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあると、はっきり言えます。
30
 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人を王座に着かせると、神が堅く誓ってくださったことを知っていました。
31
 そして、キリストの復活について予見して、『彼は陰府に捨て置かれず、その肉体は朽ち果てなかった』〔詩篇1610からの引用(筆者挿入)〕と語りました。
32
 神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。
33
 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
34
 ダビデが天に昇ったわけではありません。彼自身こう言っています。
『主は、私の主に告げられた。「私の右に座れ。35 私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
36
 だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ダビデの預言は、主イエス様の公生涯の約1000年前のことでした。
詩篇110篇を読むと、キリストの地上再臨からキリストの千年王国の始まりの頃までの預言が記されています。
現在、主イエス様が復活されてから約2000年が経とうとしています。
ダビデの預言は、約3000年の時を経て、まもなく、ここに書かれているすべてが成就していくのかもしれません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
2
コリント62には“神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”(2017)と記されていますが、恵みの時代に誕生させてくださり、主イエス様を信じる信仰を与えてくださいましたことを感謝します。
恵みの時代が閉じられると、大患難時代に入っていきます。そして、大患難時代の終わりには、今日の聖書個所の内容のように、主の主、王の王であられるキリスト・イエス様が義に基づいて天から降られ、義を執行なさると教えて頂いていますが、そのような内容は聖書の様々な箇所にも記されていますからありがとうございます。
2
テサロニケ28には“その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。”(2017)と記されています。
主イエス様が、一声発すれば、大患難時代の世界統治者である獣(反キリスト)の軍勢はひとたまりもないことを覚えます。
神のことばには力がありますから御名を賛美します。
私たちの救いに関しても、日常の歩みにしても、主なる神のことばには力がありますから嬉しくなります。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 8日 (水)

使徒2:1-13 聖霊に満たされ、学んだこともない外国語で福音を語った弟子たち

 使徒21-13には次のように記されています。
1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした
 5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、誰もが、自分の故郷〔国(新改訳)〕の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。
7
 人々は驚き怪しんで言った。
「見ろ、話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8 どうして、それぞれが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか。
9
 私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10 フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、11 ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12
 人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13
 しかし、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 以前にも書きましたが、聖霊に満たされるという状態は大きく分けると二つあります。
 一つは、内面的に満たされた状態です。
使徒1352に“弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。”(2017)と記されているような、内面的に喜びが起こり、感謝が沸き上がり、自然に祈るというようなことを行い、内側から御霊による教えがあり(ヨハネ14171ヨハネ227)、生まれながらの自分にはない他者に対する愛を感じ、平安に満たされている、・・・等のようなものです。
 もう一つは、主に在る働きのためのものです。
聖書では霊の賜物として記されています。
この霊の賜物の中には、異言もあります。
御霊の賜物は、霊と魂が御霊に満たされていなくても与えられるものです。
御霊の賜物については聖書のいくつかの個所に記されていますが、ここでは1コリント124-11を参考にします。次のように記されています。
4 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊〔「御霊」(口語訳、新改訳)。ギリシア語原語は「ト
アフトース プニューマ」で、定冠詞付きの同じ霊or定冠詞付きのご自身の霊、の意となっています。直訳すると「同じ霊」or「ご自身の霊」となります(筆者挿入)〕です。
5
 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6
 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。
7
 一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
 ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、9 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
11
 しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 使徒29-11に記されている個所の地域から来た人々or地域出身の人々は、これらの人々の先祖が捕囚や迫害のために各地に散らされたユダヤ人たちの末裔であったのでしょう。
また11節に記されている「改宗者」というのは、ユダヤ教に改宗した異邦人の人々のことです。

 申命記1616には“あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。”(2017)と記されています。
七週の祭りとは五旬祭のことです。
主なる神様の御命令に従い、三大祭りの一つの七週の祭りに主を礼拝するためにエルサレムに来ていた人たちは、この個所に見られる新約の幕開けに遭遇したのです。

 11.12節には“・・・「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。”と記されています。

 この個所に関連して<Bible navi>は次の様に適用注解を記しています。
“群衆は、何か超自然的なことが起こっていることを認め、説明を求めた。ペテロは前に進み出て、神についての真理を説明した〔このことは使徒214-3638-40に記されています(筆者挿入)〕。このことは私たちの人生においても模範であるべきである。人々に、私たちの内にキリストがおられることがわかるような生き方をすることが期待されている。もし私たちが輝き(マタイ514、ピリピ215)、「塩気」があるなら(マタイ513)、他の人の注意を引き付けるだろう。彼らはその理由を知りたいと願う。そのとき私たちは、「うちにある希望」(1ペテロ315)を説明することができる。あなたには、「いったい、これはどうしたことか」と言わせるような、他の人と異なる特徴が表れているだろうか。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
Bible navi>のお勧めにあるように、キリストの香りを放つ者としてお整え下さり、また、イエス様を救い主として求める人を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 7日 (火)

フィリピ2:5-8 愛に基づくキリストのへりくだり/いけにえの本体であるキリスト

 フィリピ25-8には次のように記されています。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
6
 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、
7
 かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8
 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 文語訳は5節を“汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。”と訳しました。
汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。ということですが、今日の個所は、特にキリストの愛に基づく謙遜の姿が記されています。

 6節に「神の形」(聖書協会共同訳)とあります。新改訳は「神の御姿」、口語訳は「神のかたち」、新共同訳は「神の身分」と訳しています。
6
節前半部分のギリシア語聖書を読むと「キリストは、神の本質の中に存在している」と捉えることができると思います。
「存在している」というギリシア原語は「フパルコー」という語ですが、これは現在形で書かれていますから、ギリシア語としては、存在し続けているという意も持っています。どうしても時間の概念の中で捉えてしまう私のような者の解釈で表現すると、過去も現在も未来もすなわち永遠に存在し続けている、ということになるのだと思います。神の御子は永遠の御方です。

 6節を口語訳は“キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、”と訳しています。
リビングバイブルは“キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。”と意訳しています。

 とはいえ主イエス様が人となられたときも、神性すなわち神のご性質(本質)を捨てたのではありません。
へブル13には“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、・・。”(2017)と記されています。
キリストは、神であり、罪なき人となられたのです。罪なき人であられたからこそ罪人の罪を身代わりに負うことができたのです。イエス様は、マリアの卵子とは何の関係もなく、聖霊によって肉体を持ったのです(マタイ120)。
神の御力を思い起こしてみると、創造の6日目には、人だけではなく多くの生物を創造なさいました。
 創世記1章には次のように記されています。
24 神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
25
 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
26
 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」/
31
 神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節を2017は“ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、”と訳し、
口語訳は“かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、”と訳しています。

 神は霊です(ヨハネ424)から土で造られた人間の罪を身代わりに負うことはできません。
人の罪は、肉において処罰するのです。
ローマ83には“肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。”(ローマ832017)と記されています。

 また、申命記2123には“その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。”(2017)と記され、
ガラテヤ313は“キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。”(2017)と記しています。

 キリストは私たち罪人を贖うために肉の体を持つ必要があったのです。
フィリピ28には“へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また1テモテ25.6には“神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスですキリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。”(2017)と記されています。

 血を流すことなしには罪の赦しもきよめもありません。
へブル922には“律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。”(2017)と記されています。

 主イエス様が肉の体を持たなかったら、イエス様の流された血による赦し&きよめは無かったのです。

 8節には“へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)と記されています。
御父への従順は、御父への愛に基づくものであったでしょう。
また、私達への愛の故にも主イエス様は十字架にかかられたのです。

 ローマ5章には次のように記されています。
6 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました
7
 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
8
 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました
9
 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10
 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11
 それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日のフィリピ信徒への手紙の個所とローマ5章のこの個所には、レビ記1章の本体である御父への全焼のいけにえとしてのキリスト、レビ記4章にの本体である私たちの罪のためのいけにえとしてのキリスト、レビ記3章の本体である和解のいけにえとしてのキリストが記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様、大いなる感謝をお捧げします。
イエス様を示してくださり、またその他の真理をも教えてくださる聖霊様、ありがとうございます。
三一の主なる神様が、それぞれの役割に応じた御業をもって関与してくださっておられますことを心より感謝申し上げます。
三一の主なる神様の御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 6日 (月)

箴言28:23 愛をもって真理を語る

 箴言2823
聖書協会共同訳は“人を懲らしめる者は、後に舌の滑らかな者にまさる恵みを見る。”と訳し、
 2017は“人を叱責する者は、後になって、舌でへつらう者よりも恵みを得る。”と訳し、
 口語訳は“人を戒める者は舌をもってへつらう者よりも、大いなる感謝をうける。”と訳し、
 リビングバイブルは“最後に感謝されるのは、お世辞ではなく率直な忠告です。”と訳しています。

 この聖句の「人」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーダーム」です。
アダムは土(ヘブライ語原語は「アダーマ」)から造られました(創世記27319)。

 「叱責する」(2017)、「懲らしめる」(聖書協会共同訳)、「戒める」(口語訳)、「忠告する」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーカフ」で、正す、修正する、が原義ですが、各聖書の訳のような意味もあります。

「舌の滑らかな者」(聖書協会共同訳)、「舌でへつらう者」(2017)、「お世辞」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は2語で「ハーラク ラーショーン」です。
「ラーショーン」には、舌、言葉、言語、発言、・・等の意があります。
「ハーラク」には、なめらかな、口先のうまい、お世辞を言う、おべっかを使う、おだてる、・・・等の意があります。

 「後に」(聖書協会共同訳)、「後になって」(2017)、「最後に」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アハル」です。

 「恵みを見る」(聖書協会共同訳)、「恵みを受ける」(2017)、「感謝を受ける」(口語訳)、「感謝される」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は2語で「ヘーン マーツァー」です。
「ヘーン」は、恵み、愛顧、恩寵、親切、・・・・等の意があります。
「マーツァー」は、(前から)来ること、が原義ですが、現れる、発見する、見つけ出す、・・・・等の意があります。

 リビングバイブルは“最後に感謝されるのは、お世辞ではなく率直な忠告です。”と意訳していますが、「最後に」と訳されている語のヘブライ語原語の原義は「後に」という意ですから、「後に感謝されるのは、お世辞ではなく率直な忠告です。」と捉えてみます。

 「後に」とあることより、忠告すること、訓戒すること、叱責すること等は、「最初は感謝されない」ということでしょう。
叱責したために、叱責した人が、悪口を言われたり、恨まれたりする場合もあるということが隠れている聖句だと思います。

 ヘブライ語聖書の最初の2語は「ヤーカフ アーダーム」ですから、土から造られた第一の人を正すこと、すなわち、罪をもって生まれてきた罪人に福音を語ること、とも捉えることが可能でしょう。
福音を語ったために、悪く言われることは日常茶飯事のことでしょう。
しかし、福音を聞いた人が、救われた後には、感謝してくるのです。

 「土から造られた第一の人」という表現は、1コリント15章に、
45 聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダム〔復活のキリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となりました。
46
 つまり、霊のものではなく、自然のものが最初にあり、それから霊のものがあるのです。
47
 最初の人〔第一の人(口語訳、新改訳)。アダム(筆者挿入)〕は地に属し、土からできた者ですが、第二の人〔復活のキリスト(筆者挿入)〕は天に属する方です。〔新生した人の霊は天に属するものです。ヨハネ33の「新しく」と訳されている語のギリシア語原語は「アノーセン」で第一義的には「上から」の意です(筆者挿入)〕
48
 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。
49
 私たちは、土からできた人のかたちを持っていたように、天上の方のかたちをも持つようになります。”(聖書協会共同訳)と記されていることに基づくものです。

 福音宣教で、嫌な目にあった人に対して、主イエス様は、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ510-122017)と語られました。

 人に戒めを与えるときには、相手の人に愛が感じられるようであることが大切だと聖書は教えてくれています。
エペソ415には「愛をもって真理を語り」(2017)と記されています。
この個所のギリシア語聖書を直訳的に訳しているNIVには“speaking the truth in love”とあります。
福音を語るときも、何かの忠告をするときも、愛の心に満たされてから語ることが出来たらと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
何をするにも主から流れてくる愛の思いをもって事を行うこと及びお話しをすることができますよう祝福してください。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 5日 (日)

詩篇109:21-31 他者からの呪いを祝福に変えてくださる主/主なる神様の神性に訴えた祈り

 詩篇10921-31には次のように記されています。
21 しかし、主よ、わが主よ。御名のために私に関わり、あなたの恵みと慈しみのゆえに私を助け出してください。
22
 私は苦しみ、貧しく、胸の奥で心は刺し貫かれています。
23
 夕方の影が伸びていくように、私は去り行き、ばったのように払い落とされます。
24
 膝は断食のためによろめき、体は脂肪を失って痩せ衰えました。
25
 しかも私は、彼らのそしりの的です。私を見ては、彼らは頭を振ります。
26
 わが神、主よ、私を助けてください。あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください。
27
 それがあなたの手によることを人々は知るでしょう。主よ、あなたがそうなされたのだと。
28
 彼らが呪っても、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆して恥をかき、あなたの僕は喜びます。
29
 私を訴える者らが辱めを衣とし、恥を上着としてまといますように。
30
 私はこの口で、大いに主に感謝し、多くの人の中で、主を賛美します。
31
 まことに、主は貧しい人の右に立ち、その命を死に定める者たちから救ってくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇109篇は表題に「ダビデの賛歌」とあります。
預言者サムエルは、神ヤハウェ(主)に、サウルの後の王になる者に油を注ぐように命じられ、ダビデに油を注ぎました(1サムエル161.12.13参照)。

 ダビデが主からの油を注がれた後、ヤハウェ(主)の霊はサウル王から離れ、サウルは悪しき(原語は「ラーアー」)霊に苛(さいな)まされることとなりました(1サムエル1614参照)。

 それからしばらくたって、サウルは、ダビデを亡き者にしようと、ダビデの命をたびたび狙うようになったのです。その経緯は、1サムエル18-27章に記されています。

 ダビデはサウル王の息子のヨナタンとは親友でした。
ある日、ダビデはヨナタンに次のように語ったことがありました。1サムエル201-3には次のように記されています。
 “1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」
2
ヨナタンは彼に言った。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」
3
ダビデはなおも誓って言った。「父上〔サウル(筆者挿入)〕は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」”(2017)とあります。

 上記の3節の個所をリビングバイブルは「そうは言われますが、あなたが知らないだけです。お父上は、私たちが親友だということも、よく知っておられます。だから、『ダビデを殺すことは、ヨナタンには黙っておこう。悲しませるといけないから』と思っておられるに違いありません。主とあなたのいのちにかけて誓いますが、ほんとうに、私は死と背中合わせなのです。」と意訳しています。

 ダビデは幾度もサウル王から命を狙われました。その時の心情やあるときの体の状態が詩篇109篇に何ヵ節も記されています。
 詩篇10922-25には次のように記されています。
「私は苦しみ、貧しく、胸の奥で心は刺し貫かれています。夕方の影が伸びていくように、私は去り行き、ばったのように払い落とされます。膝は断食のためによろめき、体は脂肪を失って痩せ衰えました。しかも私は、彼らのそしりの的です。私を見ては、彼らは頭を振ります。」とあります。

 ダビデは、サムエルに油を注がれたときは少年でした(1サムエル1742参照)。
サウルが死んだのは、ダビデが30の時でした(1サムエル313-52サムエル54参照)。
主は、ダビデが少年の時から30歳までの間、ダビデを訓練したのです。

 今日の聖書個所によると、ダビデは、自分の何かに頼らないで、神ヤハウェ(主)の御性質に基礎をおいて、救いの嘆願をしています。
21
節には「・・、主よ、わが主よ。御名のために私に関わり、あなたの恵みと慈しみのゆえに私を助け出してください。」(聖書協会共同訳)とあり、
26
節には「わが神、主よ、私を助けてください。あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください。」(聖書協会共同訳)とあり、
31
節には「主が貧しい人の右に立ち、死を宣告する者たちから彼を救われるからです。」(2017)と記されています。

 前述しましたが、ダビデは幾度も殺されそうになりました。
28
節のダビデの言葉は自身の体験から出てきた主のお取り扱いとダビデの喜びであったのでしょう。
「彼らが呪っても、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆して恥をかき、あなたの僕は喜びます。」(聖書協会共同訳)と述べています。

 ダビデは、詩篇23篇では次の様に歌いました。
「主は私の羊飼い。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」(抜粋・2017)と。

 新生させていただいたキリスト者も神の子どもであるゆえに様々な訓練を受けます。それは神の子どもとしてふさわしく整えられるためでもあるのでしょう(へブル1210.11)。
いかなるところを通されるようなことがあっても、私たちは上にある祝福を覚えることができます。そして主を賛美するのです。

 エペソ13-14には次のように記されています。
3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって 神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。
これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
10
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
11
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
12
それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
13
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
14
この聖霊は、わたしたちが 御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。”(新共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも三一の主なる神様との交わりを戴きつつ、どのようなところを通らされている時にも、あなたに感謝し、あなたを賛美しつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 4日 (土)

使徒2:1-4 五旬節(ペンテコステ)の日の聖霊降臨

 使徒21-4には次のように記されています。
1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。
3
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4
 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節に「五旬節」とありますが、五旬節の日に行わること、行われたことは出エジプト以来、聖書に様々な記述がありますので、それをまとめている聖書辞典より学びたいと思います。聖書辞典には次のように記されています。
 “五旬節とは50日目の祭日という意味で、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われた(レビ23:15以下)ことから生れたギリシヤ語訳のペンテーコンタ・ヘーメラスの訳語である。ペンテコステとも言う。五旬節、すなわち7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれていた(出34:22,16:10)。立ち穂に鎌が入れられて始まった大麦の収穫の終りを意味し(申16:9、いよいよ小麦の収穫となるのである(出34:22)。それゆえ「刈り入れの祭り」(出23:16)、「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれている。この祭は3大祭の一つとして(申16:16)、ソロモンの時代にも守られていたようである(8:13)。その日にはいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれて、イスラエル人のすべての男子は主の前に出ることが義務づけられた(レビ23:21,16:16)。新しい小麦粉にパン種を入れて焼いた2つのパンが、和解のいけにえと共に祭司によって主に向かって揺り動かされた(レビ23:17‐20)。敬虔なイスラエル人はこの日を喜びの日として(申16:11)、穀物収穫の恵みに対する感謝と主に対する恐れ(畏れを表現した(エレ5:24)。ささげられる罪のためのいけにえと和解のいけにえは、贖われた人々の感謝と恐れ(畏れ)を表すものであったが、さらに神の契約の民として、エジプトから解放されたことを記念する祭でもあった(申16:12)。いけにえをささげる根底には、罪の除去と神との和解の概念があるのである。後に五旬節はシナイにおける律法の賦与を記念するものと考えられるようになった。サドカイ派の人々は過越の後の第1日曜から50日目に祝いをなし、それをエルサレムの神殿が破壊されるまで守り続けた。しかしパリサイ派の人々はレビ23:15の安息日を種を入れないパンの祭と解釈し、それが紀元70年以降ユダヤ教では一般的となった。それで今日ユダヤ人の暦では五旬節はいろいろな曜日に当るようになっている。新約聖書では五旬節に関して3つの言及がある。(1)使2:1.キリストの復活と昇天の後、五旬節の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっており、天からのしるしを受けた。聖霊が下り、新しいいのち、力、そして恵みがもたらされた。それゆえ五旬節は聖霊降臨日とも呼ばれる。(2)使20:16.パウロは五旬節の日にはエルサレムにいたいと、旅路を急いだ(紀元56―57年頃)。(3コリ16:8.パウロは五旬節までエペソに滞在するつもりでいた(紀元54―55年頃)。伝道のための扉が開かれていたからである。”とあります。{下線部分と( )内は筆者の挿入です。}

 ルカ2449には、「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(2017)と主イエス様に命じられていました。
弟子たちは、主の命令に従い、おもに祈りを中心とした集まりをしていたようです。
 使徒112-15には次のように記されています。
12 それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
13
 彼らは都〔エルサレム(筆者挿入)〕に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。
14
 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。
15
 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていた・・・。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節には“すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。”(聖書協会共同訳)とあります。
「霊が」と訳されている語のギリシア語原語は2語で「ト プニューマ」で、定冠詞付きの「霊」とも「その霊」とも訳せます。

「聖霊」と訳されている語のギリシア語原語は2語で「プニューマ(霊) ハギオス(神聖な、聖なる)」です。

 五旬節の日(ペンテコステの日)に弟子たちは、上から下ってきた聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出したのです。

 ヨハネ2019-22には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ2022に記されている聖霊は、新生したキリスト者ならば誰にでも与えられています。
 すべての聖徒に与えられる約束の聖霊について、ヨハネ1415-17は主イエス様の御言葉を次の様に記しています。
「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔「助け主」(新改訳)。ギリシア語原語は「パラクレートス」で慰め主、の意もあります(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を 知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(聖書協会共同訳)と記されている働きをする意味での聖霊だろうと思います。

 聖霊は新生した者を神の子どもとしてふさわしく整えてくださる働きもします。
ガラテヤ522.23には“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。”(2017)と記されています。

 五旬節に天から降ってきた聖霊はキリストを証しする霊でした。
ヨハネ1526には「わたしが父のもとから遣わす助け主〔ギリシア語原語は「パラクレートス」(筆者挿入)〕、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(2017)と記されています。

 このように書いてくると御霊はたくさんいるのかな、と思う人もいる人がいるかもしれませんが、御霊は唯一です。
 1コリント12章には次のように記されています。
4 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊〔ギリシア語聖書は「(定冠詞付きの)霊」、口語訳、新改訳は「御霊」(筆者挿入)〕です。
5
 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6
 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。
7
 一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
 ある人には、霊〔ギリシア語聖書は「(定冠詞付きの)霊」、口語訳、新改訳は「御霊」(筆者挿入)〕によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて〔よって(2017)〕知識の言葉が与えられ、9 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
11
 しかし、これらすべてのことは同じ一つの霊〔「御霊」(口語訳、新改訳)〕の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
4-11
節に出てくる「霊」はギリシア語原語の直訳では「霊」ですが、すべて新生した人の霊ではなく聖霊を指しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主なる神様のみ旨に従い、与えられた分に応じ、御聖霊によって、主がよしとする時までご奉仕を続けさせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 3日 (金)

フィリピ2:1-5 キリストの心を心とせよ

 フィリピ21-5には次のように記されています。
1 そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3
 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
4
 めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5
 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
1 あなたがたには、クリスチャンとして互いに励まし合う気持ちがありますか。
私を助けたいと思うほどの愛がありますか。
あなたがたは同じ御霊を共にいただいており、主にあって互いが兄弟であるということの、ほんとうの意味がわかっているでしょうか。
やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか。
2
もしそうなら、互いに愛し合い、心からうちとけ合い、思いと目的とを一つにして共に働き、私を心から喜ばせてください。
3
自己中心であったり、見栄を張ったりしてはいけません。
謙そんになって、他の人を自分よりもすぐれた者と考えなさい。
4
自分のことばかりにとらわれるのではなく、他の人のことにも目を向けなさい。
5
私たちに対するキリスト・イエスの態度を、見ならいなさい。”と記されています。

 5節を、
聖書協会共同訳は“互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。”と訳し、
 リビングバイブルは“私たちに対するキリスト・イエスの態度を、見ならいなさい。”と訳し、
 2017は“キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。”と訳し、
 文語訳は“汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。”と訳しています。

 1-5節の個所について、Bible navi は次の様にいくつかに分けて適用注解しています。
“〔1-5節全般について(筆者挿入)〕多くの人は、クリスチャンでさえ、他の人に良い印象を与えたり自分を喜ばせたりするためだけに生きている。しかし自己中心は不和をもたらす。それゆえパウロはピリピ人たちに、互いに愛し合い、心を合わせ、志を一つにするよう求めて、霊的な一致を強調した。他の人たちの問題に、まるで自分の問題であるかのように気づかって共に取り組むとき、他の人たちを最優先するというキリストの模範を明かに示し、一致を経験するのだ。神の家族における結びつきにひずみを与えるほどに、良い印象を与えることや自分の必要を満たすことに関心を持たないようにしよう。

3節の個所について(筆者挿入)〕心からへりくだることは教会を築き上げる。謙虚であるには、自分についてのバランスのとれた見方を必要とする(ローマ123)。それは自分を抑えつけるべきであるという意味ではない。神の前では私たちは罪人であり、神の恵みによってのみ救われたのだが、私たちは救われているので、神の御国において大いに価値があるのだ。私たちは自己中心を捨て、敬意と礼儀正しさをもって他の人たちに接するべきだ。他の人の利益を自分の利益より重要だと考えることは、私たちをキリストと結びつける。キリストは謙遜さの信実な模範であった。

4節の個所について(筆者挿入)〕ピリピは国際都市だった。いろいろな素性や社会的階級出身の人々がいたので、教会の構成は非常に多様性を反映していた。使徒16章は、この教会の多様な構成を私たちに示している。教会員の間の非常に異なった背景のために、一致を維持することは困難だったに違いない。教会における分裂の証拠はないが、その一致は守られなければならなかった(3242)。パウロは、意見の相違を引き起こすかもしれないどんな自己中心や偏見や妬みにも用心するよう励ましている。他の人たちに心からの関心を示すことは、信者の間での一致を維持することを積極的に一歩前進させるものなのだ。

5節の個所について(筆者挿入)〕イエス・キリストは謙遜であり、神に従い人々に仕えるために喜んでご自分の権利を譲った。私たちはキリストのように、自責の念や恐れからではなく、神や他の人への愛によって仕えるしもべの態度を持つべきだ。自分の態度を選ぶことができることを忘れずにいよう。仕えられることを求める人生を選ぶこともできるし、他の人たちに仕える機会を探すこともできる。キリストのしもべとしての態度についてはマルコ1045を参照。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの心を心とし、神を愛し、隣人を愛し、何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって他の人の優れたところを学ばせていただく者であらせてください。
そのためにも霊のみならず魂もキリストの霊に満たされ続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 2日 (木)

箴言28:22 お金に頼るのではなく主に頼る人の幸い

 箴言2822
聖書協会共同訳は“悪に捕らわれた者は財産のためにあくせくするが、やって来るのが欠乏だとは知らない。”と訳し、
 リビングバイブルは“金持ちになろうとあせる者は、かえって貧乏になります。”と訳し、
 2017は“貪欲な人〔直訳「目つきの悪い人」(欄外注)〕は財産を得ようと焦り、欠乏が自分に来るのを知らない。”と訳しています。

 「悪に捕われた者」(聖書協会共同訳)、「貪欲な人」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は3語からなっていて「イーシュ(人) ラー(悪い) アイン(目)」で、直訳すると、2017訳の欄外注の“直訳「目つきの悪い人」”の意になります。

 「財産」(聖書協会共同訳、2017)、「金持ち」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ホーン」で財産、富、豊富さ、・・・の意があります。

 「あくせくする」(聖書協会共同訳)、「焦り」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「バーハル」で震える、身震いする、揺れる、というのが原義で、速める、急ぐ、焦る、性急、軽率、・・・等の意もあります。

 「欠乏」(聖書協会共同訳、2017)、「貧乏」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「へセル」という語で欠乏、貧困、窮乏、極貧、・・等の意があります。

 目つきが悪くなるほどにお金を得よう、富を得よう、それもできるだけ手早く、と考え行動する人は、主なる神様に目を向けず、主なる神様に信頼することなく、この世で、あるいは次の世で、欠乏、極貧、苦しみが待っているのです。

 マタイ624には「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。

 主イエス様は、主なる神様を畏れ敬わない金持ちの話をしています。二つの例を下記します。
 ①“16 そこで、イエスはたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作だった。
17
 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、19 自分の魂にこう言ってやるのだ。
「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』
20
 しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』21 自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」”(ルカ12章・聖書協会共同訳)

 ②“19 「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。/
22
 やがて、・・・。金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら・・・。/目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24
 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
25
 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。”(ルカ16章・聖書協会共同訳)

 ②の金持ちは、よみに行き、苦しんでいます。
よみの悪い部分に行った魂は、生き返って裁きを受けるのです(ヨハネ528.29、黙示録2011-15)。

 ヨブが災いにあったとき、ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1212017)と言いました。

 この世で莫大な富を築き上げた人も死ぬときに富を持ってはいけません。
ソロモンは「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。」{コヘレト(伝道者の書)221・新共同訳}とソロモンは言いました。

 主イエス様の御復活後に、主イエス様を信じて死んだ人は、死んだら直ちに天国に行きますが、主イエス様の御復活以前は、神様を畏れ敬って生活した人もよみに行きました。その当時のよみには、アブラハムの懐といわれるよみの中の良い部分と、主を畏れ敬う生活をしないで死んだ人が行くよみとがありました{よみの悪い方はいくつかの場所があったのだろうと思います(イザヤ149-11.15、エゼキエル2619-203116-183217-32)}。

 よみの悪い方の場所に行かされた人は、キリストの千年王国後の白い御座の裁き(最後の審判)で最終的な裁きを受けるのです(黙示録2011-15)。

 主を第一とし、主に信頼して歩む人は幸いです。
この世における必要を主は満たしてくださいます(マタイ619-34、ピリピ419、へブル135)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつもあなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従う歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

«詩篇109:6-20 神様が義を執行なさることを求める祈り/救いのためのとりなしの祈り

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