2022年5月29日 (日)

ヤハウェ(主)のご命令に従った故に事態が悪くなる場合もある

 出エジプト37-10には、ヤハウェ(主)がイスラエルの民をファラオから救出し、カナンの地に導き上る、という約束と共に、そのためにモーセを派遣するというモーセへの派遣命令が次のように記されています。
“7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
8
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
9
今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10
今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」2017)とあります。

 モーセは、モーセに対する派遣命令を受けても自分一人ではできない、としり込みをしました。モーセは、ヤハウェ(主)に励まされても一人で行くことができませんでした。
そこでヤハウェ(主)はモーセにモーセの兄アロンを同行させました(出エジプト311-51)。

 モーセとアロンは、主の命令に従い、ファラオに会い、イスラエルをヤハウェ(主)に仕えさせてください、と頼みました。出エジプト51-3には次のように記されています。
“1
その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。
「イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう仰せられます。
『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」
2
ファラオは答えた。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を知らない。イスラエルは去らせない。」
3
彼ら〔モーセとアロン(筆者挿入)〕は言った。
「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)のご命令に従った結果は悲惨なものでした。事態はかえって悪くなったのです。
出エジプト54-14には次のように記されています。
“4
エジプトの王は彼らに言った。
「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」
5
ファラオはまた言った。
「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」
6
その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。
7
「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。8 しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。9 あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」
10
そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。
「ファラオはこう言われる。
『もうおまえたちに藁は与えない。11 おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」
12
そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。
13
監督たちは彼らをせき立てた。
「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」
14
ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。
「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」2017)とあります。

 打ち叩かれたイスラエルの子らのかしらたちは、労働環境の改善のためにファラオに直訴しましたが、ファラオに一蹴されるとともに、過酷な労働環境になった理由がモーセとアロンによるのだということもファラオの言葉から理解しました。
 出エジプト515-19には次のように記されています。
“15
そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。
「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。16 しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」
17
ファラオは言った。
「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。18 今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」
19
イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。2017)とあります。

  打ち叩かれたイスラエルの子らのかしらたちは、労働環境の悪化は、お前たちが原因だ、とモーセとアロンに言いました。出エジプト520.21には次のように記されています。
“20
途方にくれて外へ出ると、モーセとアロンが待っていました。彼らは二人の姿を見ると、21無性に腹が立ち、思いきりののしりました。
「ファラオやエジプト人からこんなひどい仕打ちを受けることになったのも、元はといえばおまえたちのせいだ。まるで、われわれを殺すための口実を与えたようなものだ。
二人とも主のさばきを受けるがいい。」(リビングバイブル)とあります。

 打ち叩かれたイスラエルの子らのかしらたちが、上記のように言うのは普通でしょう。そのように言われたモーセとアロンは、ヤハウェ(主)に文句を言いました。出エジプト522.23には次のように記されています。
“22
モーセも気持ちがおさまりません。主のもとに戻って抗議しました。
「主よ、どうしてご自分の民なのに、こんなひどい取り扱いをなさるのですか。私が来たのは、いったい何のためでしょう。23あなたの命令をファラオに伝えてからというもの、事態はよくなるどころか、ますます悪くなるばかりです。それなのにあなたは、いっこうに救いの手を差し伸べてくださらないではありませんか。」(リビングバイブル)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主の命令に従ったのに事態が悪くなる、聖さを求めたら罪ばかり示される、人の救いを祈っていたらその人の周りで起こってほしくはないようなことが起こる等々、自分の願いや思いとは反対に見える事が起こることは不思議なことではないことが分かります。
ヨブ記1章にみるヨブの場合もそのようでした。
主に従っているのに、不幸と思われることが起きているときには、「なぜ?」という人が多いです。
しかし、主は最善をなさってくださるお方ですから御名を崇めます。
やがて主が与えてくださる祝福を待ち望みつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月28日 (土)

彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った

 マタイ814-17には次のように記されています。
“14
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
15
イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
16
夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。
17
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」2017)とあります。

 マルコの福音書の執筆事情について、伝承によれば、マルコはペテロの通訳であり、ペテロの思い起こすことを正確に書いたと言われる。また別の伝承によれば、多くのローマ人がマルコに対し、ペテロの説教を文書にまとめるように求めた。おそらく後者が執筆のための直接的要因になったと考えられる。と注解付新改訳聖書のマルコの福音書の緒論は述べています。

 ということで、ペテロの姑の病気の癒しの記事の前にあった事柄をマルコの福音書から転記します。
なぜそのようにするかというと、バイブルNaviに、マルコの物語は、4つの福音書のうち、最も年代順に記されている。ほとんどの物語が、それらが実際に起こった順番に配列されている。と記されているからです。

 マルコの福音書は、ペテロの姑の病の癒しの記事の前に何が書いてあるでしょうか。
今日のテーマのマタイ814-17に含まれる記事を、マルコの福音書は、マルコ121-34に次のように記しています。
“21
それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
22
人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
 23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
24
「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
25
イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
26
すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27
人々はみな驚いて、互いに論じ合った。
「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
28
こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。
 29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30
シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
31
イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。
 32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
33
こうして町中の人が戸口に集まって来た。
34
イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。2017)とあります。

 安息日にイエス様がカペナウム〔ヘブライ語は「カペルナフーム」(筆者挿入)〕に行き、礼拝をした後、シモン・ペテロの家に行ったのです。
マルコの福音書には、29節に、一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。と記されています。
イスラエルに行ってわかったことですが、マルコの福音書に、「すぐに」と書いてあるように、カペナウムの会堂とペテロの家は、とても近いのです。カペナウムの会堂からすぐに行ける場所にペテロの家があったのでびっくりしました。

 ペテロの姑の解熱について、ルカの福音書は、著者のルカが医者であった関係もあるのでしょう。もう少し詳しく書いています。ルカ438.39には次のように記されています。
“38
イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。
39
イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。2017)とあります。

 医者のルカによると、ペテロの姑は、高熱で苦しんでいた、ということです。
そして、主イエス様の癒し方は、熱をしかりつける方法であった、ということが分かります。
現代では発熱のメカニズムはもっと詳しく分かっており、かつ発熱の原因は一つではありませんので、私たちとしては、それらの詳しいことは脇に置いておいて、「発熱の原因よ去れ」と主の御名で命じるようにしたら良いのかも知れません。

 イエス様は多くの人の病をいやされましたが、イザヤは、神ヤハウェ(主)からの、イエス様についての預言の御言葉をいくつも頂いています。
イザヤの預言は、このイエス様の御業が行われた約700年前のものです。
イザヤが神ヤハウェ(主)から語るように言われたイエス様についての預言の中の一つにイザヤ53章があります。イザヤ53章には次のように記されています。
“1
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御腕はだれに現れたか。
2
彼は主の前に、ひこばえ〔一たび切り倒した木から、また芽生えるもの(筆者挿入)〕のように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみこころは彼によって成し遂げられる。
11
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。2017)とあります。

 神のひとり子の御子でありながら、天から降り人となられて、贖いを成し遂げられたイエス様についての預言ですが、4節には、まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったと記されています。
この預言箇所は、マタイの福音書だけが取り上げています。
マタイは、ユダヤ人の読者を想定して書いたものだからです。
ユダヤ人は、聖書に慣れ親しんでいましたし、その当時、聖書と言えば旧約聖書のことであったのです。

 さて、イエス様による病の癒しですが、イエス様が、病人の病を負ったのだ、というのです。それも神であるヤハウェ(主)が。
 どういうことなのでしょう。
病も死もアダムの堕罪の結果、すなわち罪を犯した結果、入ってきたものであったからだと思います。
 罪のないところには、病も死もありません。
天から下って来る新エルサレムの中には罪がありません。
黙示録211-4には次のように記されています。
“1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」2017)とあります。

 イエス様の十字架と復活がなければ、このようなことはなかったでしょう。
御父の御愛とイエス様の恵みの御業に大感謝です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が私の、私たちのすべての罪をその身に負って十字架上で裁かれた故に、それを信じる私たちは、私たちのすべての罪が赦されていますことを感謝します。
もしイエス様の御復活がなければ、私たちの罪は赦されても新しい霊の誕生と、やがてもたらされる体の復活はなかったことになります。
ですから、イエス様の十字架とご復活の重要性をこれからも宣べ伝える生涯でありますよう力を与え、伝えるべき人を示し、聖霊によって御業をなさせて頂けますよう助け導いていてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ〔「霊」において(筆者挿入)〕、生ける望みを持たせてくださいました。1ペテロ132017
 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。1ペテロ18.92017
 “20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです
25
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。1ペテロ2章・新改訳第三版)

2022年5月27日 (金)

神のことばを真摯に受け取らない者は知恵を求めても得られない

 箴言1462017訳は次のように訳しています。
嘲(あざけ)る者は知恵を求めても得られない。
悟る者には知識を得るのは易しい。とあります。

 2017が「嘲る者」と訳した箇所を、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、口語訳は、同様に訳し、新共同訳は「不遜であれば」と訳し、リビングバイブルは「人をさげすむ者」と訳しています。
「嘲る」と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーツ」で、「嘲る」と訳されることの多い語ですが、それ以外の意にも用いられます。

 「知恵」と訳されている語のヘブライ語原語は「ホクマー」です。
新共同訳は、146の前半部分を、「不遜であれば知恵を求めても得られない。」と訳しています。
不遜とは、へりくだる気持ちがないことですから、教えられにくい心のありようです。

 神様に対して不遜であれば、神の知恵は得られません。
ヨハネ9章に次のような主イエス様の御言葉があります。
“39
そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40
パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
41
イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」2017)と記されています。

 主に対してへりくだらず、高慢な思いを持っていると、主に、パリサイ人に語られた御言葉のようなことを言われてしまうでしょう。
逆に、へりくだっている人には、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ772017)と、主が言われる通りにしてくださると思います。

 1コリント1章に次のような聖句があります。
“26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。2017)とあります。

 ヨハネ940に登場するパリサイ人は、神の知恵や知識を、一般の人よりも豊かに持っていると考えていたことでしょう。
 また、1コリント127に、「この世の愚かな者を選び」、「この世の弱い者を選ばれました」とありますが、この世の愚かな者や弱い者が皆主イエス様を信じたという状態を見てはいません。逆に、大学の長になった人や、国のトップになった人で敬虔なキリスト者であった、という人も世界を見渡せばいるでしょう。
そのような人は、対神的には、とても謙遜であったのです。
即ち、神様の御言葉は、聖霊によって教えていただかなければ、私には分かりません、というへりくだった態度、私は、霊の目が見えない者でございますという態度であったと思います。
それ故、主に真理を理解することが出来るようにと求めたことでしょう。
そのような人に対しては、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」というイエス様の御言葉が成就するのです。

 一方、この世的に、愚かな者、弱い者、と自他ともに認めている人であっても、神に対しては挑発的であり、不遜、傲慢である人たちも数多くいます。
日本人であれば、「神も仏もあるものか」と言うのです。
仏は神ではないので、対象外ですけれども。

 それらのことを考えると、1コリント127を、しかし神は、私には神の知恵がある(神の知恵を理解している)と思っている者を恥じ入らせるために、この世において、自分は神様の御言葉の分からない愚かな者ですと思っている者を選び、神に対して強いと思っている者を恥じ入らせるために、神に対しては弱い者であると思っている者を選ばれました。と捉えることもできるのではないだろうかと思います。

 日本のように、人間が神様を作ってしまう国の民においては、「あの神はダメだ」と言うことも簡単です。
しかし、神ヤハウェ(主)が、天と地とその中の、見えるもの、見えないもののすべてのものを造られた、と心から信じている人は、対神的に、「私は、ほとんど何もわかっていない者です。」と言うでしょう。

 テレビに出てくる多くの学者は、進化論が当然であるかのように考えています。
その人たちは、対神的には、甚だしい傲慢な態度です。
本当に、神ヤハウェ(主)に対して、大変失礼なことを言っているということもわかっていません。
という私も、主なる神様が私に臨んでくださるまでは、愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。(詩篇1412017)と記されている通りの者でした。
神様からそのように見られているにもかかわらず、私は、自分では、そこそこ愛もあるし真面目だと思っていたのです。
真理である神と私の自己評価との間には甚だしい乖離(かいり)があったのです。

 箴言146の後半部分には、「悟る者には知識を得るのは易しい。」(2017)とあります。
「悟る者」(2017)という箇所を、聖書協会共同訳は「分別ある人」、フランシスコ会訳は「知性のある人」、新共同訳は「聡明」と訳しています。

 箴言910の後半部分を、
2017
は、聖なる方を知ることは悟ることである。と訳し、
フランシスコ会訳は、聖なる方を知ることは悟りである。と訳しています。
なお聖書協会共同訳は、聖なる方を知ることが分別。と訳し、
新共同訳は、聖なる方を知ることは分別の初め。と訳しています。

 箴言146の後半部分は、「聖なる方を知る者には、〔神の(筆者挿入)〕知識を得るのは易しい。」と読み替えることも可能なのかもしれません。
魂の様々な部分が聖(きよ)くされるに従い、神のことばをより正しく読めるようになるのではないだろうかと思います。主は聖なるお方ですから。

 1コリント216の後半部分を
2017
は、・・、私たちはキリストの心を持っています。と訳し、
新共同訳は、・・、私たちには、キリストの心があるのです。と訳し、
口語訳は、・・、わたしたちはキリストの思いを持っている。と訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちはキリストの心を心としているのです。と訳し、
塚本訳は、ただわたし達(主キリストを信ずる者)は、キリストの(霊 を持ち、その)心を持っているのである。{( )内は訳者挿入}と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
残念なことに、聖なるあなたを知らない故に、聖書の御言葉を自分勝手に引用する人もいます。
しかし、私たちキリスト者に対しては、私たちの魂を隅々まできよめてくださり、益々あなたの御言葉を正しく理解することを得させてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月26日 (木)

罪の苦しみからの解放

 詩篇2516-22には次のように記されています。
“16
私に御顔を向け私をあわれんでください。私はひとり苦しんでいます。
17
私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。
18
私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。
19
ご覧ください。私の敵がどんなに多いかを。彼らは不当な憎しみで私を憎んでいます。
20
私のたましいを守り私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けます。
21
誠実で直ぐな心で私が保たれますように。私はあなたを待ち望んでいますから。
22
神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください。2017)とあります。

 16節の「私はひとり苦しんでいます」、17節の「私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。」、18節の「私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。」という箇所を読むと、ダビデのバテ・シェバ事件(ダビデによる姦淫と殺人教唆の罪)を思い浮かべます。
22
節には、「神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください」とありますが、バテ・シェバ事件以後、ダビデは、息子のレイプ事件に対処することもできず、国内にダビデへの憤りや不満を持つ者が徐々に顕在化し、国内に不一致が見られるようになり、やがて息子アブサロムの造反へと繋がったのです。

 美女バテ・シェバの裸を見、人妻のバテ・シェバを召し入れて男女の関係を持ったダビデ。バテ・シェバの妊娠が分かった後の策略と、それがうまくいかなかった後のバテ・シェバの夫ウリヤに対する殺人教唆の罪。バテ・シェバの夫の戦場における無駄死に。それらの罪を心の中に隠し続け、ダビデの苦悩は大いなるものとなりました。
以上の出来事とその余波は、2サムエル11-20章に記されています。

 主は、預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を指摘しました。
ダビデは、主と預言者ナタンの前で、罪を告白しました。

 今日の聖書箇所の一つ前の節には、「私の目はいつも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かう。主が私の足を罠(わな)から引き出してくださるから。」(2017)とあります。
罪を指摘されても、主の御前に留まる人は幸いです。

 ダビデが主に罪を告白し、主に罪を赦された後に書いた詩に、詩篇32篇と51篇があります。
 詩篇321-7には次のように記されています。
“1
幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。
2
幸いなことよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。
3
私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。
4
昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。
5
私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。「私の背きを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。
6
それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かって、あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても、彼のところに届きません。
7
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。2017

 詩篇511-17には次のように記されています。
“1
神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。
私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
2
私の咎を私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめてください。
3
まことに、私は自分の背きを知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4
私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するとき、あなたは正しく、さばくとき、あなたは清くあられます。
5
ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。〔堕罪したアダムの子孫である人間は、原罪、すなわち罪の性質をもって生まれてきます。(筆者挿入)〕
6
確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。
7
ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
8
楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。
9
御顔を私の罪から隠し、私の咎をすべてぬぐい去ってください。
10
神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
11
私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
12
あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
13
私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。
14
神よ、私の救いの神よ、血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います。
15
主よ、私の唇を開いてください。私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。
16
まことに私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。
17
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑(さげす)まれません。2017)とあります。

 ヤハウェ(主)を信じていたダビデは、罪責感に苦しんでいましたが、自分の何かに頼るのではなく、へりくだってヤハウェ(主)の前に出ました。
罪を告白した時、ヤハウェ(主)は赦してくださったのです。

 1ヨハネ19には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)と記しています。

 私たちの罪の赦しのためには、大きな犠牲が払われました。
御父は、愛してやまない御子を私達人類の罪の赦しのために、御子に、一人一人が犯したすべての罪を負わせて、御子イエス・キリストを十字架上で裁かれたのです。
御子は、私たちすべての人の罪を身代わりに負って、その裁きを受けるために肉体をとって地上に生まれてくださいましたが、その罪のあまりにも大きな故に、ゲッセマネで主はかくも悩み、十字架上で私たち一人一人の罪をその身に負い、罪の裁きを受けることによって、その愛を示してくださったのです。
 
 イザヤ53章は、イエス様が地上に降誕される約700年前の預言ですが、ペテロは、おそらくそれを要約して引用し、また御そば近くに仕えていたことの故に、聖霊によって1ペテロ221b-25を次のように記したのでしょう。
“21
・・・。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
罪を示されたときには、すぐに主に告白し、いつも御父と良き関係を保ちつつ地上生涯を送ることができますようお導きください。
主にして救い主であられるイエス様の贖いを御父と主イエス様に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月25日 (水)

神は契約を守るお方

 出エジプト424-26には次のように記されています。
“24
さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに会い、彼を殺そうとされた。
25
そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。
「まことに、あなたは私には血の花婿です。」
26
すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。2017)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、契約を極めて重視するという以上に義なるお方なので契約を履行するお方です。
人が神と契約を結んだ場合、それを人にも求めてきます。

 神ヤハウェ(主)は、アブラハムと割礼の契約を結びました。
創世記17章には次のように記されています。
“1
さて、アブラムが九十九歳のとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに現れ、こう言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
2
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」
3
アブラムはひれ伏した。神は彼にこう告げられた。
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。
あなたは多くの国民の父となる。
5
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」
9
また神はアブラハムに仰せられた。
あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい
11
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる
12
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない
14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017)とあります。

 モーセは、自分の子どもに割礼を施していませんでした。14節にあるように、割礼をしていなければ、イスラエルの民から断ち切られる、というのです。

 神ヤハウェ(主)は、モーセをイスラエルの指導者として立て、イスラエルの民をカナンの地へ導こうとしていました。
しかしそのモーセが、自分の息子に割礼を施していないということは、神様にとって大問題であったのです。
それ故、出エジプト424に、ヤハウェ(主)は、モーセに会い、彼を殺そうとした。と記されているようなことが起きたのだと思います。

 その時、急いで妻のチッポラが火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取ったので、神はモーセを解放したのです。

 イエス様が誕生した時は、旧契約の時代でした。
イエス様は8日目に割礼を受けたのです(ルカ221)。
後にバプテスマのヨハネと呼ばれたヨハネも8日目に割礼を受けました(ルカ159.60)。

 私たちキリスト者は、イエス・キリスト様の贖いが成就した新契約(新約)の時代に生きています。新契約は、旧契約の儀式律法を廃止しました。
何故でしょうか?
旧契約の儀式律法は、キリストの予型、予表であったのです。また、割礼が意味したものとは何であったのでしょうか。
 ローマ229には次のように記されています。
・・・。文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。・・・。2017)とあります。
 コロサイ211-17には次のように記されています。
“11
あなたがたがクリスチャンになった時、キリストはあなたがたを罪に支配された古い性質から解放してくださいました。それは、割礼という肉体の手術によってではなく、心のバプテスマ(洗礼)という霊的な手術によってなされたことです。
12
ですから、古い性質は、キリストと共に死に、共に葬られたのです。そして、キリストを死人の中から復活させた、力ある神のことばを信じたあなたがたは、キリストと共に、新しいいのちへと復活させていただいたのです。13 あなたがたは、以前は罪の中で死んでいましたが、神は、そんなあなたがたをキリストと共に生かしてくださいました。それは、すべての罪を赦し、14 神の定めに違反したことが記されているあなたがたに不利な証書を、塗りつぶしてしまわれたからです。この罪の証書は、キリストの十字架と共に釘づけにされて無効となったのです。
15
こうして神は、罪を犯したあなたがたを責め立てるサタンの力をくじかれました。そして、十字架上でのキリストの勝利を、公然と示されたのです。この十字架によって、罪はすべて取り除かれました。
16
そういうわけですから、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。
17
それらは、キリストが来られる前にだけ有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。(リビングバイブル)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、契約の神であり義なる神ですから、契約を守ります。
新契約に移行してからもそうです。
ですから新約聖書に記されている約束はすべてアーメンなのです。
神は義なるお方、すなわち正しいお方です。それ故、ヨハネは次のように記している箇所があります。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(1ヨハネ192017)とあります。
キリストの贖いが完了しているので、神は、義なる神である故に、新契約を反故にすることができないのです。
神は愛の神だから罪を赦すというだけのものではないのです。
キリストの十字架上の贖いに基づいているのです。
かくして「キリストを信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハネ336)ということが揺らぐことはありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはキリストの贖いの故に、キリスト・イエス様を信じる私たちをお取り扱いくださいますからまことにありがとうございます。
その感謝の思いを私たち一人一人が行動で表していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祈りの内容を誤解されるといけないので次の聖句も記しておきます。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ24・新共同訳)
「預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」(使徒10432017

2022年5月24日 (火)

主の御言葉を頂けばその通りになるという信仰

 マタイ85-13には次のように記されています。
“5
イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
6
「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
7
イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8
しかし、百人隊長は答えた。
「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
9
と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
10
イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
13
それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。2017)とあります。

 本題に入る前に、12節の、「しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」という箇所にいついて述べておこうと思います。
「御国の子ら」は、10節のイスラエル11節のあなたがたで分かるように、神が支配している地上の国イスラエルを指しています。
おそらくこの時にイエス様の話を聞いていたイスラエル人の群衆たちは、イエス様をメシア、神のひとり子、救い主、主であると信じている人はいなかったのだろうと思います。イエス様は一瞬にして人の内側をも読み取りますから、この時、この様に言われたのではないかと思います。

 11節には、“あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。”というイエス様の御言葉があります。
ここに記されているのは、「天の御国」、すなわち「天の神の王国」のことです。

 参考になる箇所が、ルカ1322-30に次のように記されています。
“22
イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
 23 すると、ある人が言った。
「主よ、救われる人は少ないのですか。」
 イエスは人々に言われた。
24
「狭い門から入る〔イエス様を信じる、すなわちイエス様を心にお迎えする(筆者挿入)〕ように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
25
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
26
すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
27
しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち〔イエス様が神のひとり子の御子であられ、主であられ、救い主であられることを信じ従わない者たち(筆者挿入)〕、みな私から離れて行け。』
28
あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
29
人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
30
いいですか、後にいる者〔異邦人で主を信じた人(筆者挿入)〕が先になり、先にいる者〔イスラエル人(筆者挿入)〕が後になるのです。〔ローマ9-11章、ゼカリヤ12章、エゼキエル37章参照(筆者挿入)〕」2017)とあります。

 29節の「神の国」の箇所は、「天の」という語がありませんから、ここではキリストの千年王国のことを言っているのかも知れません。その時になったらわかります。

 さて、今日の本題は、百人隊長の「御言葉信仰」です。
主の御言葉を、単純に素直に信じる者は幸いです。
百人隊長のしもべは癒されました。
主の働きは時間空間を超えるのです。

 12弟子の一人、トマスとイエス様のやり取りがヨハネ20章に次のように記されています。
“24
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25
そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
 26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28
トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
29
イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」2017)とあります。

 トマスは、主の御名によって祈ったわけではありませんでしたが、主は聞いていたのです。そして、ご復活の8日後の主日に弟子たちの集まっていたところに現れ、語られた内容の一部に上記の事柄があったのでしょう。

 私たちの会話も、独り言も、思いも、感情もすべて、主はお見通しです。主に隠せるものは何もありません。主はすべてをご存知ですが、私たちを愛して十字架上で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、その後も愛し続けてくださっておられるのです。そして、とこしえに愛してくださるのです。
ある人は詩を作りました。
「御手の中で、すべては変わる賛美へ、・・・」と。

 トマスとは逆に、イエス様のお話を聞いて、イエス様の御言葉を単純に素直に聞いて、自分ができると思う最善のことをした人にマリアという人がいました。
マタイ26章には次のように記されています。
“6
さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「何のために、こんな無駄なことをするのか。9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10
イエスはこれを知って彼らに言われた。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」2017)とあります。

 この時の12弟子たちは、これまでに、イエス様から十字架と復活の預言を聞いてはいましたが、信じることも悟ることもできていなかったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御言葉を単純に素直に信じ続ける者であらせてください。
あなたは、あなたの御計画の中にあって、あなたの御言葉を成就なさいますから御名を賛美いたします。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月23日 (月)

不当な世界と、神のことばで心の満たされる人と満たされない人

 箴言132325には次のように記されています。
“23
貧しい者の耕地に、多くの食糧があっても、それは不当に取り去られる。
25
正しい人は食べてその食欲を満たし、悪しき者は腹をすかせる。2017)とあります。

 出エジプトしたイスラエルの民は、神ヤハウェ(主)と契約を結び、神がイスラエルを統治するところの神権国家として出発しました(出エジプト20-248)。
それはイスラエルが初代の王サウルを立てるまで、すなわち預言者であり士師であった神の人サウルの時代まで続きました。この時迄のイスラエルの王はヤハウェ(主)であったのです。その時迄の税金はとても低いものでした。
神が神の代理者である士師を立てていた時代までは、箴言1323に記されているようなことはなかったのです。

 しかし、イスラエルは神ヤハウェ(主)ではなく人間の王を立ててくれとサムエルに要求しました。神ヤハウェ(主)は、サムエルにそれを受け入れるように言いました。その際、王がどの様なことをするかを神ヤハウェ(主)は、サムエルを通して次のように教えました。
 1サムエル811b-18には次のように記されています。
8 ・・。あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
12
また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。
13
また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。
14
あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。
15
あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。
16
あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。
17
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。
18
その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたに答えはしない。」(2017)とあります。

 イスラエルは人間の王を立てたときから、同じ民族の人による搾取が始まったのです。

 この世は、神ヤハウェ(主)による直接統治ではありません。
アダムの堕罪によって、私たちアダムの末裔は、サタン(悪魔)が支配している経済環境の中で生活しています。
どうしてそのように言えるのかというと、1ヨハネ519に次のように記されているからです。
世はくまなく悪しき者のもとに置かれている19節抜粋・岩波訳)
世全体は悪い者の支配下にあること19節抜粋・2017)とあります。
「悪しき者」、「悪い者」と訳されているギリシア語原語は「トー ポネイロー」で、訳されている如き意がありますが、「トー ポネイロー」は、the devil という意に訳されることもあります。

 イエス様が悪魔(サタン)の試みを受けた時のことがルカ41-13に記されていますが、その中の6節に、「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。」(2017)というサタンの言葉あります。
その時、イエス様は、それを否定しませんでした。

 しかし、ヨブ記1章や復活後のイエス様の御言葉(マタイ2818)で分かるように、この世に対するサタンの支配は神ヤハウェ(主)の許可の下にあることが分かります。
世界経済については、サタンの支配をヤハウェ(主)は、認めているようです。
それ故、箴言1323の「貧しい者の耕地に、多くの食糧があっても、それは不当に取り去られる。」という聖句に記されているようなことを世界中で見るのです。
この聖句は、会社勤めをしている人にも当てはまります。個々人が働いた故に生み出されている利益の一定の部分を取り上げられるのです。それは共産主義でも同じです。地位の高い人は相当好き勝手なことをしているようでありますから。国家の搾取も同じです。日本の場合には、所得税、住民税、消費税はだれにでもかかってくるでしょう。一部の税を免れる人もいますが。
キリスト様が、キリストの千年王国を統治なさる時には、サタンの支配ではなく、キリスト様の支配ですから、色々変わることでしょう。

 現代でも、霊的分野においては、キリスト・イエス様を主とした人たちは、サタンの支配ではなく主イエス様の支配の下にありますから感謝です。
1
ヨハネ519に、私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある19節抜粋・2017)と記されているとおりです。

 箴言1325に、“正しい人は食べてその食欲を満たし、悪しき者は腹をすかせる。”とありますが、霊的な意味においては、この聖句は成就しています。
正しい人、すなわち主を畏れ敬い、キリスト・イエス様を主とし、主に従う人は、霊の糧であるみことばのパンを食して満足することができるのです。
しかし、悪しき者、即ち主を蔑ろ(ないがしろ)にし、主に従わない人は、聖書の言葉を読んでも満たされることはなく、まさしく豚に真珠で、御言葉に対して怒ってくる場合もあるのです(マタイ76)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御支配の下に置かれておりますことを感謝します。
あなたは、ピリピ419に約束されているように、私たちの必要を満たしてくださるお方ですから御名をほめたたえます。
日々霊の糧と肉体の糧を与えてくださいますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月22日 (日)

主を畏れ敬い主に信頼する人の幸い

 詩篇2511-15には次のように記されています。
“11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの御名のゆえに私の咎をお赦しください。それは大きいのです。
12
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔「畏れる」(聖書協会共同訳)〕人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。
13
その人のたましいは幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ぐ。
14
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご自分を恐れる〔「畏れる」(聖書協会共同訳)〕者と親しく交わり、その契約を彼らにお知らせになる。
15
私の目はいつも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かう。主が私の足を罠〔直訳「網」(欄外注)〕から引き出してくださるから。2017)とあります。

 11節をリビングバイブルは、「しかし、主よ。
私はなんと数多くの罪を犯していることでしょう。
ああどうか、御名のために私をお赦しください。」と訳しています。

 この様に祈る人に対してヤハウェ(主)は次のように語ってくださることでしょう。
イザヤ5715.16には次のように記されています。
“15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。16 わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊〔ヘブライ「ルーアハ」(筆者挿入)〕が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息〔ヘブライ語原語は「ネシャマー」(筆者挿入)〕が。2017)とあります。

 神に対してへりくだって神に従う人と、神に対してへりくだることなく神に逆らう人の違いを、上記の箇所が含まれている聖句は次のように記しています。
“14
主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
15
高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。
16
わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように。わたしの造った命ある者が。
17
貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け〔神に対して背き続け(筆者挿入)〕、心のままに歩んだ。
18
わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために19 わたしは唇の実り〔聖書協会共同訳は訳者挿入として「賛美」を加え、「唇に賛美の実り」としています(筆者挿入)〕を創造し、与えよう。平和、平和〔平和があるように(聖書協会共同訳)〕、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
 20 神に逆らう者は巻き上がる海のようで、静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。21 神に逆らう者に平和はないと、わたしの神は言われる。(イザヤ57章・新共同訳)とあります。

この箇所をリビングバイブルは次のように訳しています。
“15
永遠を住まいとする高くあげられた聖なる方が語ります。
「わたしは高くて聖なるところに住んでいるが、そこには、心のへりくだった謙遜な人が住む。わたしは謙遜な人を生き返らせ、悔い改めた人に新たな勇気を起こさせる。
16
いつまでもあなたと戦い、怒りをぶつけるわけではない。そんなことをしていたら、私が造った全人類は死に耐えてしまう。
17
わたしは怒って、貪欲な者たちを打った。ところが、彼らは性懲り(しょうこり)もなく罪を犯し続け、思いのままに悪の限りを尽くした。
18
彼らのしわざはこの目で見た。しかし今は、ともかく彼らをいやそう。彼らを導き、慰め、罪を嘆いて告白するように導こう。
19
近くにいる者にも遠くにいる者にも、平安があるように。
わたしは彼らをいやす。20 それでもなお逆らう者は、少しも静まることのない海のようだ。片時も休まず泥を吐き出している。21 そのような者に平安はない。」
こう神は語ります。(イザヤ57章・リビングバイブル)とあります。

 罪からくる報酬は死です(エゼキエル184・ローマ623a)。
赦しの根底には、御父の愛と御子イエス・キリストの贖いがあったことを覚えます(1ヨハネ49.10)。
レビ記の贖罪の規定は、イエス・キリストによる贖罪の予表でした(レビ4.5章)。
しかし罪ある人間には、それらのことを悟ることができません。それらのことを悟ることができたのは、聖霊様が関与してくださったからです。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。
私たちが救われたのは、三一の神様の御愛の故です。

 詩篇2512-15をリビングバイブルは次のように訳しています。
“12
主を恐れる人はどこにいますか。主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えてくださいます。13 その人は神の祝福の中に住み、子孫は地を受け継ぎます。14 神との親密な関係は、主に従う者にしか持つことは出来ません。神はそのような人とだけ、秘密の約束を交わします。15 私の目はいつも助けを求めて、主に向いています。私を救い出せるのは、主おひとりだからです。とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御愛とイエス様の贖いと聖霊様の御教導を感謝します。
それ故、私は尊い御救いに与らせて頂けました。
救われた後も日ごとにそして永遠にお導き下さり、養い、祝福してくださいますから感謝します。
あなたの御名を崇めつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月21日 (土)

最初からモーセが主に従っていたらどうなったのでしょう

 出エジプト41-17には次のように記されています。
“1
モーセは答えた。
「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼に言われた。
「あなたが手に持っているものは何か。」
彼は答えた。「杖です。」
3
すると言われた。
「それを地に投げよ。」
彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。
モーセはそれから身を引いた。
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。
「手を伸ばして、その尾をつかめ。」
彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。
5
「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はまた、彼に言われた。
「手を懐に入れよ。」
彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。
7
また主は言われた。
「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」
そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。
8
「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう〔たとえ最初の奇蹟を信じなくても、二番目の奇蹟は信じるだろう(リビングバイブル訳)〕。
9
もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」
10
モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に言った。
「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼に言われた。
「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ではないか〔「誰が人に口を与えたのか。また、誰が口を利けなくし、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、見えないようにするのか。主なるわたしではないか」(聖書協会共同訳)〕。
12
今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
〔「さあ、ぐずぐず言わず、わたしの言うとおりにしなさい。はっきり話せるように助け、何を話すかも教えよう。」(リビングバイブル訳)〕
13
すると彼は言った。
「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
14
すると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。
「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」2017)とあります。

 ここに記されているお話の前に、モーセは、柴が燃えているのに燃え尽きないという奇跡を見せられ、主の使い{「主の使い」は主であり神である御子(出エジプト32,5.6.7参照)です。神は三位一体であり、ヤハウェ(主)は神の呼称です。}に声をかけられ、モーセに現れたのは、モーセの先祖の神であるヤハウェ(主)であると告げられたのです(31-6)。
 
 続いてモーセは、ヤハウェ(主)から派遣命令を受けました。
その内容は、奴隷としてこき使われ、苦しんでいるイスラエルの民をファラオから解放し、カナンの地に導き上れ、というものでした(37-10)。

 それに対して、モーセは、私には出来ない、と答えます。
モーセの答えに対して、ヤハウェ(主)は、「わたしが、あなたとともにいる。」から、と答えたのです(311.12)。

 ヤハウェ(主)に命令されても、その命令を遂行する自信のないモーセは、更にヤハウェ(主)に食い下がりました(313)。
その結果モーセは、さらなる真理を教えて頂きました。ヤハウェ(主)は、イスラエルの先祖の神であり、永遠に存在しておられるお方である、という真理です(314.15)。

 その上で、再度、モーセに派遣命令を下すとともに、ファラオやエジプト人がヤハウェ(主)に取る態度がどのようなものであるのかということをも含めてモーセに話したのです(315-22)。

 ヤハウェ(主)がそこまでしても、モーセは素直に従えませんでした。
その後のことが出エジプト41-17に記されていたのです。

 モーセは、主の最善に従うことができませんでした。
主を見ないで、即ち主に全面的に信頼するということをしないで、自分を見てしまったからでした。 
主は、常に最善をなさってくださり、最善の御言葉をかけてくださったのに、モーセは、主の最善の方法を選択できず、主の次善の策を受け入れたのです。

 自分自身のことを振り返っても、主の最善をどれだけ選択できただろうかと考えます。次善か、三善か、四善か、・・というのが私の選択の歴史でした。
神である主が言われた通りに常に従うことができたならば、何と幸いなことであっただろうかと思います。
もっとも、歴史を振り返っても、躊躇なく常に最善を選べた人は、誰もいないことは明らかです。何の疑いを持つことなく御言葉通りに歩めた人はいないのですから。

 後に神である主は、モーセをどのように見てくださったでしょうか。
ヘブル11章には次のように記されています。
“24
信仰によって、成人したモーセは、ファラオの娘の子と呼ばれるのを拒みました。
25
モーセは、罪のはかない快楽に 耽るよりは、むしろ神の民とともに虐待されることを選びました。
26
また、メシア〔「油注がれたもの」の意。油は聖霊の象徴。新約の表現は「キリスト」(筆者挿入)〕の辱めを、エジプ トの財宝に勝る富と思いました。彼は、与えられる報いから目を離さなかったからです。
27
信仰によってモーセは、王の怒りを恐れず、エジプトを去りました。彼は、見えない方を見ていたかのようにして、耐え忍んでいたからです。(フランシスコ会訳)とあります。

神である主は、良いところを取り上げて見てくださるお方のようです。
なんと有り難いことでしょう。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたの御旨に従って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月20日 (金)

神の御言葉を土台とした人生とそうではない人生の違い

 マタイ724-29には次のように記されています。
“24
ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
 26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
27
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
 28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29
イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。2017)とあります。

 この箇所を、私は、キリストを信じたキリスト者の歩み、という観点から述べていこうと思います。
 別の譬えとして、パウロは1コリント3章に次のように記しています。
“9
・・・、あなたがたは神の畑、神の建物です。
10
私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
11
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
12
だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
14
だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
15
だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
16
あなたがたは、自分が神の宮〔「神の神殿」(新共同訳)、「神の住まい」(フランシスコ会訳)〕であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。2017)とあります。

 罪の赦し、義とされること、救いとさばき、永遠の命について、神である主は、神の器たちを通して、
「・・・あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ109.102017)と語り、
「・・。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ328・口語訳)と語り、
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3182017)と語り、
「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36・口語訳)と語り、
「預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」(使徒10432017)と語り、
「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ172017)と語っています。

 永遠の救いと永遠の裁きはイエス・キリストを信じるか否かという信仰によって決まります。
それは主イエス様が最後の晩餐の時に、次のように語られた御言葉からも明らかです。
8 その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
9
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」(ヨハネ16章・新共同訳)と記されています。
 ヨハネ169をリビングバイブル旧版は、「・・罪とは、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」と記しています。

 マタイ724-27は、イエス様を信じたキリスト者の霊的勝利と敗北の原則を述べているものと私は捕らえます。
キリスト者にして頂けたからといって、順風満帆ということはありません。
イエス様は、「・・・。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16332017)と語られました。
 敵すなわちサタン(悪魔)とその配下の者たちは、神様の許可が出れば、キリスト者を攻撃してくるのです。
義人ヨブがどの様な目に遭ったのかについては、ヨブ記1章を読めば分かります。
使徒たちは、ヨハネを除いて殉教していきました。
初代教会の最初の殉教者ステパノは、自分に石を投げた人たちを呪うことなく、かえってその人たちのためにとりなしの祈りをしつつ天にあげられました(使徒754-60)。殉教時のステパノは、まるで十字架上の主イエス様のようでした(ルカ2332-34)。  

 マタイ7章には、「24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」とあります。
24
節の、「わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕のこれらのことば」というのは、御父のことばです。
主イエス様は、「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」(ヨハネ14242017)とも語られました。

 「栄の王にます主の」という聖歌があります。
その4節には、「愛もて主に結びつき、御言葉に堅く立ちて、悪魔に向かえば常に勝ち得て余りあり。」とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
義人ヨブは、あなたに反抗してくる悪魔(サタン)の矢面に立たされました。
私たちキリスト者もそのようなことがあります。
しかし、愛もて主に結びつき、御言葉に堅く立ちて、悪魔に向かえば常に勝ち得て余りあり、という通りですからあなたの御名を崇めて感謝します。
あなたの御名をほめたたえつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月19日 (木)

知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れている

 箴言1320aには、知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。2017)と記され、
箴言1316には、すべて賢い人は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。2017)と記されています。

 歴史上、この世の知恵者と呼ばれる人たちは多くいます。
しかし、それらの人々の中には、主の御言葉や、主が使徒や預言者に教えられた御言葉を重要視しない人たちもいます。
その人たちの知恵は、地に属し肉に属しサタン的なのです。
なぜそのように言えるかというと、聖書は真理の書であり、ヤコブ313-15に次のように記されているからです。
“13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
14
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。
15
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。2017)とあります。

 この世の人の中にも、知恵者で、かつ人格者と言われる人はいますが、そのような人であっても、聖書の御言葉に反するようなことを言う人の態度は、真理に逆らう態度です。
「わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ1462017)と語られたイエス様の御言葉、また、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ149・リビングバイブル)と語られたイエス様の御言葉、また「神が天と地を創造された。」(創世記11)という聖句を信じない人は、真理に逆らっているのです。

 このような人は、コロサイ116.17に記されている、・・・、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。2017)という聖句に対して、「アーメン」(本当にその通りです)と言えないでしょう。

 詩篇141には、“愚か者は心の中で「神はいない」と言う。”(2017)と記されています。

 コロサイ23には、“知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。”(新共同訳)と記されています。
そして、コロサイ26には、“・・・あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって(in)歩みなさい。”(2017)と記されています。

 有り難いことですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
知恵のある者、即ちキリスト・イエス様とともに歩む者は知恵を得る、とも読めますから感謝です。
日々主イエス様と歩み続け、必要な知恵を主イエス様から頂きながら歩み続けて行くことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月18日 (水)

恵みとまことに満ちておられる主

 詩篇258-102017は次のように訳しています。
“8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はいつくしみ深く正しくあられます。それゆえ罪人に道をお教えになります。
9
主は貧しい者を正義に歩ませ貧しい者にご自分の道をお教えになります。
10
主〔ヤハウェ(筆者挿入)の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。2017)とあります。

 8節前半部分に、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はいつくしみ深く正しくあられます。”とあります。
「いつくしみ深く」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーブ」で、広い意味で用いられる「良い」(good)という意を持っています。
英訳聖書のKJVNKJVNIVTEV等は、「good」と訳しています。
新共同訳、口語訳、文語訳、聖書協会共同訳は、「恵み深く」と訳し、
フランシスコ会訳は、「憐れみ深く」と訳しています。

 その他、「トーブ」には、美しい、素晴らしい、最高の、豊富な、慈悲深い、親切な、優しい、思いやりのある、・・・等々の意があります。

 ヤハウェ(主)は、慈しみ深い、恵み深い、親切なお方であると共に、「正しい」お方、であると記されています。
「正しい」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーシャル」で、straight(真っすぐな、正しい、正直な、公正な、・・・etc.)の意です。
英語訳聖書のKJV、NKJVNIVは、「upright」(正直な、公正な、正義の、・・・)を用いて訳し、TEVは、「righteous」(正義の、公正な、正しい、・・・)を用いています。

 8節の前半は、「神ヤハウェ(主)は、愛と義の神である」ということを教えてくださっています。
そして、後半部分には、「それゆえ罪人に道をお教えになります。」とあります。
もしヤハウェ(主)が、「義」だけの神であったら、罪びとは直ちに裁かれてしまったかもしれません。
またヤハウェ(主)が、べたべたな愛のみの神であったら、悪いところには目をつぶって何でも赦してしまったかもしれません。
しかしヤハウェ(主)は、義にして愛の神であるので、8節後半部分に記されているように、罪びとに道を教えてくださるのです。

 主イエス様は、恵みとまことに満ちておられた御方であったのです(ヨハネ114)。
ですから御父も聖霊様も恵みとまことに満ちておられるのです。

 9節を2017は、主は貧しい者を正義に歩ませ、貧しい者にご自分の道をお教えになります。と訳しています。
「貧しい者」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーナーヴ」の複数形です。
「アーナーヴ」には、押し下げられた、精神的に沈んだ(落ち込んだ)、意気消沈した、元気のない、鬱状態の、謙虚な、謙遜な、つつましい、低い、柔和な、従順な、貧しい等の意があります。
新改訳、新共同訳は、「アーナーヴ」を「貧しい」と訳し、
口語訳、文語訳、フランシスコ会訳は、「へりくだる」の意で訳し、
聖書協会共同訳は、「苦しむ」の意で訳しています。

 教えられやすい人は、神様に対してへりくだっている人ですね。神様に対してへりくだっている人は御言葉に対してへりくだっています。
口語訳は、「へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。」と訳しています。

 10節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。2017)とあります。
御言葉の通りなのですが、新約の時代にはさらなる恵みがあります。
ヨハネ114には、ことば〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。2017)と記されているお方である主キリスト・イエス様が、キリスト者のうちに住んでおられるのです(コロサイ127)。
御父は、私たちの心に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さった(ガラテヤ46・口語訳、新共同訳)のです。それ故、私たちの内におられる主キリスト・イエス様に従えば、人々に親切に、そして正しく歩むことができるのです。
・・、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤ522.23・フランシスコ会訳)と記されているとおりです。
 なお「霊の結ぶ実」と訳している個所について、新共同訳、聖書協会共同訳も同様に訳し、塚本訳、岩波訳、前田訳は「霊の実」と訳し、新改訳と口語訳は「御霊の実」と訳しています。
主と一つとされた霊(1コリント617)の実は麗しいですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつも主イエス様と共なる歩みをし続けて行くことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月17日 (火)

神のお名前

 出エジプト314.15には次のように記されています。
“14
神はモーセに仰せられた。
「わたしは『わたしはある』という者である。」
また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15
神はさらにモーセに仰せられた。
「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。2017)とあります。

 神様は、モーセに、私の名前は永遠に「ヤハウェ」(主)である、と教えられました。
ヤハウェ(主)のお名前が最初に出てくるのは、創世記24であり、創世記2.3章だけで「神である主」という表現が20回も出て来ます。
「神である主」と訳されている語のヘブライ語原語は2語で、「ヤハウェ(主) エロヒーム{(神)の複数形}」です。まことの神は、三位一体の神なので「エロヒーム」という複数形が使われているのだろうと思います。
 創世記11には次のように記されています。
はじめに神が天と地を創造された。2017)とあります。
この聖句の「神」と訳されている語のヘブライ語原語は「エロヒーム」で複数形ですが、「創造した」と訳されている語のヘブライ語原語は「バーラー」で単数形に対応する形ですから「神はお一人です」ということでしょう。

 申命記64には次のように記されています。
「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(2017)とあります。

 マタイ2819NKJV訳は、「・・・・・・, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,」と訳しています。
父と子と聖霊の名の「名」は単数形で、イエス様は、この箇所で、神は唯一であり三位一体であることを表して語っています。
物質世界の論理を持ち出して、あーだこーだと言っても始まりません。「神は霊です」から(ヨハネ424)。

 余談になりますが、「in the name」のin と訳されている語のギリシア語原語は「エイス」で、「エイス」の第一義的な使われ方は、intoとかtoです。
フランシスコ会訳は、マタイ2819を、「それ故、あなた方は行って、す べての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、」と訳しています。
直訳的には、「父と子と聖霊の名の中へとバプテスマし」というようになると思います。
なんと有り難い恵みでしょうか。

 話を本題に向けます。
「私はある」と日本語で訳されている語のヘブライ語原語は、「ハーヤー」で、存在する、生きている、ある(be)の意です。

 聖書の最後の黙示録18には、神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。・・・2017)とあります。

 「私はある」というのは、神が永遠の存在者であることを表しています。
永遠に存在されるお方、そのお方が、ヤハウェ(主)という神です。
日本には八百万の神という表現がありますが、まことの神は三一の神のみです。
三一の神以外の神と呼ばれるものは、敵(サタン)に属するものです。
パウロは次のように述べています。
「私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」(1コリント1019.202017)と。

 ヤハウェ(主)が、自存にして、永遠の神であるのです。
それ以外のすべてのものは、被造物です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
自存にして永遠の神であるあなたが、私たちのお父様であるというのは、何とすごいことでしょうか。
万物を創造し、万物を保持し、義なる神でありつつも、愛をもって、恵みによって私たちを導いてくださっておられますことを感謝します。
あなたは全能の神であられ、あなたの御旨の良しとするところに関してはお出来にならないことがないお方であることを賛美します。
あなたの御名の中にあって、とこしえに歩ませて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月16日 (月)

天の王国に入れる者と入れない者との違い/健全な歩み

 マタイ721-23には次のように記されています。
21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』”(2017)とあります。

 イエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713.142017)と語られました。
 また、イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。」(ヨハネ1072017)とも語られました。
「まことに、まことに、」と訳されている語のギリシア語原語は、「アーメン、アーメン」です。

 イエス様の羊として、イエス様が御父から与えられた人は、御父に通じる門、すなわちイエス・キリスト様を通って入るのです。
キリストを心にお迎えすることの無い人が、キリスト教の教えを学んで、その教えの何かの知識を得たことによって、すなわち知識によって、至高の神であられる主イエス・キリストの父のもとに行くことは出来ません。

 更に、門から入っても、天におられる御父のところまでは細い道が続いているのです。イエス様は、「その道もなんと細いことでしょう」と語られました。

 この世には、キリスト教の教えと、イエス・キリスト様を心にお迎えすることの違いが分からない人がいます。

 自分の思い込みで救われることは出来ません。
エペソ28に、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(2017)と記されています。
イエス様を信じさせて頂けたこと、即ち、こころに受け入れた人の信仰は、神様からの贈物(賜物、ギフト)なのです。
キリストを信じるということは、心にキリストを受け入れることである、ということに関する聖句を下記します。
しかし、この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を受け入れた人々すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネ1122017)とあり、また、
見よ、わたしは戸〔「心の戸」(筆者挿入)〕の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸〔「心の戸」(筆者挿入)〕を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする〔霊的な交わりの比喩(筆者挿入)〕。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録320.212017)とあります。

 口で、イエス・キリストを「主」と呼ぶのは簡単です。
しかし、救われるためには、聖霊によって、「イエス・キリストは主です。」という必要があります(1コリント123)。
1
コリント123には、・・・聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。2017)と記されています。
特に、極限状態に置かれた時、すなわち、信仰告白の内容によって殺されるか否か、というときには、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」
イエス様は、次のようにも語られました。
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。/ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ1028.32.332017)と。

 まことなる救われ方をした者は、神様が備えてくださった良い行いに歩むようになるのです。
エペソ28-10には次のように記されています。
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(2017)と。

 イエス様を信じたからといって、直ちに、御父の御旨、すなわちキリストの教えに従って完全に歩めるというわけではありません。主の教えの道、細い道を歩んでいくのです。その道は、主を愛し、主に全き信頼を置かなくては歩めるような道ではありません。
それ故、私たちは、その細き道から幾度となくそれてしまうのです。
そうなるであろうということを神様はご存知です。
それ故、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。1ヨハネ192017)という聖句も用意してくださいました。

 パウロは、信仰義認を口が酸っぱくなるほど言っているではないか、と言われる人もいるでしょう。
そのパウロは、「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント1112017)とも語っているのです。

 ヤコブの手紙には次のような聖句が記されています。
“17
・・、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。26からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。(ヤコブ2章・2017)とあります。
このように書いたヤコブは、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。」(ヤコブ322017)とも述べています。
罪を示されたら、それを御父にすぐに告白することが大切です(1ヨハネ19)。

 キリスト無しの、すなわちキリストの内住無しの人は、神や他の人が良いと思ってくれる行いによって自分を認めてもらおうとします。いくら良い行いをしたと思っても救われません。キリスト・イエス様を信じないこと、即ち心に受け入れないことこそが罪だからです(ヨハネ169)。

 キリスト者は、聖なる道を歩んでいくのです。
聖書の最後に置かれ、かつ最後の章である黙示録22章に次のような神様の御言葉があります。
「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。〔キリスト者は「聖徒」です{1コリント12}(筆者挿入)〕」(黙示録22112017)と記されています。
黙示録11には、“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。”(2017)とあります。

 とても自分には無理だと思われた方もいるかもしれません。
ユダの手紙には、・・愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。・・。20節・2017)と記されています。
ほかのキリスト者と比べることなく、主が示してくださるところに従って、自分なりに主を愛し、主に従って行けばよいのです。
イエス様は、「あなたは、私に従いなさい。」(ヨハネ21222017)と語っておられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、私のために十字架にかかってくださいました。
イエス様の御愛に痛み入ります。
御子を愛してやまない御父が、御子を私たちの罪を贖うために、御子を十字架にまで導かれたことの故に、御父に心からの感謝をお献げします。
主を愛し、主に従い、主に喜ばれる歩みをしていくことができますよう、日々御聖霊に満たされて歩ませて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月15日 (日)

御言葉に従う者の幸い

 箴言1313.14には次のように記されています。
“13
みことばを蔑む者は身を滅ぼし、命令を尊ぶ者は報われる。
14
知恵のある者のおしえはいのちの泉。これによって、死の罠から逃れることができる。(新改訳2017)とあります。

 13節の冒頭の「みことば」(新改訳)と訳している箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、「言葉」と訳し、口語訳、文語訳は、「御言葉」と訳しています。
この箇所のヘブライ語原語は、「ダーバール」で、かつ定冠詞もついていないので、直訳すると、「言葉」になります。
この箇所は、ソロモンの箴言ですから、「ダーバール」は、王の言葉の意で述べていたかもしれませんし、神の御言葉の意で述べていたかもしれません。
 
 現代でも、上の立場にある者の言葉、会社の上司の言葉や役所の上司の言葉をさげすんでいたら、その環境において、その実を刈り取ることになるでしょうね。
しかし上司が間違っていることを言っていたら、話は別ですね。

 13.14節を続けて読むと、14節に、「いのちの泉」とありますから、キリスト者としては、13節冒頭の「言葉」は、神の御言葉と捉えることができると思います。
「泉」と訳されている語のヘブライ語原語は「マーコール」で、(動物の)乳房、乳首の意です。そして更に、源(新共同訳はかく訳しています)、泉、核心、流出、・・等の意にも用いられます。

 1ペテロ22には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(新改訳第三版)と記されています。

 上記の箇所をリビングバイブルは、2.3節を一緒にして「すでに主の恵みといつくしみを経験したのですから、乳を求める赤ん坊のように、熱心にみことばを求めなさい。と訳しています。

 13節に、「みことばを蔑む者は身を滅ぼし」とありますが、御言葉をさげすむ者は、神様をさげすんでいるのです。
この世の人は、聖書の御言葉に逆らうようなことを平気で言ったり、行なったり、更には、神の御言葉に反する法律まで作ってしまうという一面もあります。
しかし、「みことばを蔑む者は身を滅ぼ」すのです。
それは、神をさげすんでいるからです。
天国は、神を敬い、神を愛する者たちによって構成され、神が王である国です。

 13節後半には、「命令を尊ぶ者は報われる。」と記されています。
神の命令を尊び、神の御旨を行っていく者は、キリストの裁きの座(2コリント510)において、報いを受け取ることができます。

 14節前半の、「知恵のある者のおしえはいのちの泉。」とありますが、その中の「おしえ」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーラー」で、教えの意ですが、律法とも訳されます。

 2コリント510を新改訳2017は、
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。と訳し、
リビングバイブルは、
なぜなら、やがて私たちはみな、キリストの前でさばきを受けなければならず、全生活がさらけ出されることになるからです。善であれ悪であれ、地上の体でいる時の行ないに応じて、私たちはそれぞれ、ふさわしい報いを受けるのです。と訳しています。

 キリスト者は、既に主イエス様を自分の救い主と信じていますから、滅ぼされることはありません。
ヨハネ336に、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」(2017)と記されているとおりです。
 
 主イエス様を信じれば、すなわち主イエス様を心に受け入れれば、永遠の命を与えられています。
「報い」の与えられかたは、それとは別で、主の御言葉に従って歩んだかどうか、主のご命令に対し、主を愛し、主に忠実であったかどうかが問われます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様の御言葉は御父の御言葉です。
あなたを敬い、あなたを愛し、あなたの御命令に従う歩みをし続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2022年5月14日 (土)

主の恵みによって

 詩篇254-7には次のように記されています。
“4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。
5
あなたの真理に私を導き、教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、思い起こしてください。あなたのあわれみと恵みを。それらは、とこしえからのものです。
7
私の若いころの罪や背きを、思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたのいつくしみのゆえに。2017)とあります。

 4.5節には、
“4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。
5
あなたの真理に私を導き、教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。とあります。

 4節の「主」と訳されている語のヘブライ語原語を英字に直すと、「YHV(W)H」です。即ち、母音記号の付き方によって、ヤハウェorヤーヴェ―orヤーウェ―orエホバーorイェホバと読む可能性がありますが、ユダヤ人は、十戒(直訳すると「十の言葉」)の中に、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エジプト2072017)とあるので、「YHV(W)H」を「アドーナーイ」と読み替えているのです。「アドーナーイ」は、一般に「主」、「(私の)主」、「主人」の意です。学者の中には、「YHW(V)H」を「ヤハウェ」と読む人が多く、岩波訳も「ヤハウェ」としているので、私のブログの表記はそのようにしています。天に帰ったら正しい発音がわかることでしょう。

 4.5節を合わせて読むと、「ヤハウェよ、・・・・あなたこそ、私の救いの神・・」と記されています。
「私の救いの神」のヘブライ語の語順は、私の神、私の救い、という順ですが、「私の救い」というヘブライ語は、「イェシュア」に接尾辞の「イ」がついているのです。イェシュアとは、イエス様のお名前でもあります。

 イエス様は、三位一体の神の第二位格の神であり、神のひとり子であり、私たちのすべての罪をその身に負って十字架上で罪の贖いを成し遂げてくださった御方であり、まさしく私の神であり、私の救い主であり、天地の主です。

 ヤハウェは、神の称号ですから、旧約聖書の中では、御父を指しても使われますし、主イエス様を指しても使われています。

 ゼカリヤ書12章は、イスラエルのついてのヤハウェ(主)のことばですが、その中に、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、・・・」という聖句が10節に記されています。

 4.5節に、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き、教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。」とありましたが、道であり真理であるお方は「イエス・キリスト様」です。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(ヨハネ146.7.102017)と語られました。

 ヘブル11-3には次のように記されています。
“1
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、
2
この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。
神は、この御子を万物の相続者と定め、
また、御子によって世界を創造されました。
3
御子は、神の栄光の反映であり、
〔御子は(筆者挿入)〕神の本質の完全な現れであって、
〔御子は(筆者挿入)〕万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、
〔御子は(筆者挿入)〕人々の罪を清められた後、
〔御子は(筆者挿入)〕天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(新共同訳)とあります。
<〔御子は(筆者挿入)〕の箇所は私の挿入であり、いらない文言ですが、敢えて強調のために入れてみました。>

 詩篇256.7には次のように記されています。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、思い起こしてください。
あなたのあわれみと恵みを。
それらは、とこしえからのものです。
私の若いころの罪や背きを、思い起こさないでください。
あなたの恵みによって、私を覚えていてください。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたのいつくしみのゆえに。とあります。

 既に記しましたが、罪からの救い主は、「イエス・キリスト様」です。

 イザヤ4325には、「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(2017)とあります。
この箇所を新共同訳は、「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」と訳しています。
とはいえ、神の今の経綸においては、罪を犯したときには、すぐに告白することが大切です(マタイ614.151ヨハネ19)。
1
ヨハネ19には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)と記されています。

 ペテロは次のように記しました(正確には口述筆記なのでしょう)。
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。(1ペテロ132017)とあります。
 あたらしく生まれたのは、「霊」です。
イエス様はニコデモに次のように言いました。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。/霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ33.6・新共同訳)と。
 そしてそれ故に、イエス様は、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と言うことができました。
 また、パウロは次のように記しました。
「あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」〔「アッバ」は父の呼称(筆者挿入)〕と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。」(ガラテヤ書46・聖書協会共同訳)と。
また、「主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」(1コリント617・聖書協会共同訳)と。

 キリスト者は、キリストによって、罪を贖われただけではなく、新しい霊の誕生をし、その新生した霊は、主キリスト・イエス様の霊と一つとなったのです。
これは霊における結婚の奥義です。

 A.B.Simpsonは歌いました。
「かくも主は悩み〔恐らくゲッセマネのことでしょう(筆者挿入)〕、かくも愛し〔最高の愛の現れは十字架でしょう(筆者挿入)〕、主の花嫁と我をなしぬ。わが内に主はいます。くすしくもたえなり、わが内にいます主は来るべき王なり。」と。
また歌いました。
「主こそ、来るべき王の王、主の主、わが花婿なれ。我は恋しとう。たたえよ、ただ主を。主は救い主、きよめ主、癒し主、王の王、主の主。」と。

ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「イエスは我が命、また喜び、すべてのすべてぞ、我にとりて、・・・」と賛美します。
ただ、ただ、感謝です。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で。アーメン。

2022年5月13日 (金)

臨在の主/「わたしが、あなたとともにいる。」

 出エジプト37-12には次のように記されています。
“7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
8
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10
今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
11
モーセは神に言った。
「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
12
神は仰せられた。
「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」2017)とあります。

 かつてヤハウェ(主)は、アブラム(後に「アブラハム」と主が改名する)に次のような約束をしました。
創世記1513-21には次のように記されています。
“13
主はアブラムに言われた。
「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15
あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16
そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」
17
日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。

 アブラム(アブラハム)にヤハウェ(主)が与えた御言葉は、モーセが80歳になったときに動き始めたのでした。

 アブラハムへの約束を実現するために、ヤハウェ(主)は、モーセをエジプトの王子として様々な学びをさせ、その後40年間、荒野で牧畜の仕事を通して学びをさせました。
そして、時が満ちて、モーセは、主のしもべとして、イスラエルのリーダーとして、主に用いられる時が来たのです。

 主がモーセを用いるにあたって、主はモーセに神体験をさせました。
モーセの最初の神体験の内容は、出エジプト31-6に次のように記されていました。
“1
モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
2
すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3
モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。
彼は「はい、ここにおります」と答えた。
5
神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。2017)とあります。

 モーセは、ヤハウェ(主)から、「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト310)と言われました。

 モーセは、エジプトが巨大であること、イスラエルの民の人数の多いこと、現在置かれているモーセの境遇(しゅうとイテロの羊飼い)、年齢は80歳、などということを思いめぐらしたことでしょう。人間的には100%無理な話です。

 主を見上げ、主に信頼することなしに、自分だけを見たら、「私にできるわけがない。」と考えるのが自然の流れです。

 しかし、全能の神であられるヤハウェ(主)が、「わたしが、あなたとともにいる。わたしがあなたを遣わすのだ。」(出エジプト3122017)と語られたのです。

 人には出来なくても、人を造られ、万物を造られた神にとっては、不可能はありません。

 私たちキリスト者も、主の器として、恵みによって何かしらの主の御用に与らせていただくわけですが、主が一人一人の分に応じて与えてくださったことを、主にあってしていくならば、可能であることは感謝なことです。キリスト者であれば、少なくとも祈りのご奉仕には与らせていただいています。

 モーセにヤハウェ(主)は、「わたしが、あなたとともにいる。」と語りました。
 私たちキリスト者に対しての恵みは偉大です。
主が私たちの内に住んでくださっておられるのですから。
 1コリント619には、・・あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。2017)と記されています。
 また、1コリント617には、・・主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたからの絶大な恵みを感謝します。
私たちの内に住んでくださっておられる主の導きに従って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月12日 (木)

偽預言者たちの見分け方

 マタイ715-20は次のように記されています。
“15
偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
16
あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17
良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18
良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19
良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20
こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。2017)とあります。

 偽預言者か本物の預言者かは、自分を預言者であると言っている人の言動を見れば、見分けがつくと主イエス様は教えられました。

 また、自分で自分を預言者であると言いながら、一つでも預言がはずれるような預言者は、神ヤハウェ(主)からの預言を語っているのではないのです。その予言者は、悪魔の預言者か、自分の心に浮かんだ事柄を語っているにすぎないのです。

 申命記1820-22にはヤハウェ(主)の御言葉として次のように記されています。
“20
「・・、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名〔新約的には三一のどなたかの名(筆者挿入)〕によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」
21
あなたが心の中で、「私たちは主〔ヤハウェ{ヤハウェは旧約時代の神の呼称}(筆者挿入)〕が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、
22
預言者が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。2017)とあります。

 弟子たちの「世の終わりにはどのようなことが起こるのですか」、という質問に対して答えられたイエス様の話の中に、「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」(マタイ24112017)という御言葉があります。

 偽預言者は、旧約聖書にも登場しますし、使徒たちが地上にいた初代教会の時代にも、偽預言者、偽教師がいたことが、聖書を読むと分かります。

 「預言者」とは、神様の御言葉を預かって語る者、との意です。
「予言者」とは、これから起こることについて語る者、といえると思います。
「預言者」は、未来のこと、即ち神様が教えてくださった内容の「予言」もしますが、過去のこと、教えのことなど、神様が与えられた御言葉を語ります。

 15節に、「偽預言者たちに用心しなさい。」とあります。
神様は、偽預言者が起こらないようにしてくださるというのではなく、私たちイエス様を信じる者たちに、偽預言者を識別することが出来るようにさせようとしておられるのです。
今までにも多くの偽預言者、偽教師が登場していますが、今の時代は特に識別の大切な時です。
なぜなら、主イエス様が、キリスト者を迎えに来てくださる空中再臨の前に大々的な背教が起こるからです(2テサロニケ23)。
私たちキリスト者が、自分はこの御言葉の意味は、「~だと思う」、と言うのは、その人の理解、解釈ですが、一方、預言者は、主の名によって語るのです。新約でいえば、主イエスの名や聖霊を持ち出して語るのです。
現代は、偽預言者が現れて、大々的に、イエス様を信じる者たちを惑わそうとしています。惑わされてしまった人たちもいます。

 偽預言者は、「羊の衣を着て」いるので信仰者は困るのです。時間が経過すると「狼」になるので誰でもわかるのですが、「狼」になる前に分かった方がいいに決まっています。

 現代「羊の身なり」をしてやってきた人は、使徒412の「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(新改訳)と語ったペテロの証言を語りませんが、自分はペテロの権威を受け継いでいると言う場合もあります。更に、イエスもヤハウェもアラーも呼び方が違うだけだからみんな平和に仲よくしよう、というのです。

 キリスト者は、「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。」(ヘブル1214・新改訳2017)と命じられているように、キリスト者は、他の人の信仰が自分とは違っても、平和と聖さを追い求める者です。平和を追い求める者であるからといって、どの宗教の神様も皆同じ、ということを受け入れるわけにはいきません。
何故なら、モーセの十戒(原語は「十の言葉」の意:参照;申命記43)の第一戒には、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト203)とありますから。

 
またイエス様が、律法の専門家から「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」(マタイ2236・新改訳2017)と質問を受けたとき、
イエス様は、「『あなたは心を尽くし、いのち〔申命記65のヘブライ語原語は「ネフェシュ」で、いのち、魂、・・の意(筆者挿入)〕を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者〔聖書(筆者挿入)〕の全体がかかっているのです。」(マタイ2237-40・新改訳2017)と答えられたのです。

 更に、1テモテ25には、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(新改訳2017)と記されています。

 私たちは、「みことばを宣べ伝えなさい。」(2テモテ422017)と命じられていて、みことばに無いこと、みことばで禁止されていることをのべ伝えることは出来ません。

 現代もそして特に7年艱難時代には、宗教界の地位と「羊の身なり」に騙されないようにしなければならないのです(携挙後にもこのブログが残ることを期待して書いています)。
偽預言者の上に君臨しているのは、偽りの父です(ヨハネ844)。サタンさえ光の御使いに変装するのです(2コリント1114)。

 大患難時代の話ですが、「羊の身なり」から「狼」になった時の「狼」の様子が、黙示録174-6に次のように記されています。
4 その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいもの〔偶像(筆者挿入)〕と、自らの淫行〔偶像礼拝(筆者挿入)〕の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。5 その額には、意味の秘められた名、「大バビロン〔バビロンのヘブライ語は「バベル」(筆者挿入)〕、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。6 私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たち〔艱難時代の殉教者(筆者挿入)〕の血に酔っているのを見た。私はこの女を見て、非常に驚いた。」(2017)とあります。

 イエス様は、偽預言者の識別として、実を見ればわかる、と教えてくださいました。

 最後に、パウロがテモテに宛てた手紙の中から2テモテ3章を読みたいと思います。
1 終わりの日には困難な時代がやって来ることを、承知しておきなさい。
2
そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。
3
また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、
4
人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、
5
見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。
6
彼らの中には、家々〔「人々の心」とも言えるでしょう(筆者挿入)〕に入り込み、愚かな女たち〔真理に立脚しない人たち(筆者挿入)〕をたぶらかしている者たちがいます。その女たちは、様々な欲望に引き回されて罪に罪を重ね、
7
いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません。
3:8
たぶらかしている者たちは、ヤンネとヤンブレ〔エジプトの魔術師(注解付き新改訳聖書の注)〕がモーセに逆らったように、真理に逆らっており、知性の腐った、信仰の失格者です。
9
しかし、彼らがこれ以上先に進むことはありません。彼らの愚かさは、あの二人の場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。
10
しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に
11
またアンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。
12
キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
13
しかし、悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。
14
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、
15
また、自分が幼いころから聖書に親しんで来たことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます
16 
聖書はすべて神の霊感による〔直訳「神の息吹による」(欄外注)〕もので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です
17
神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。”(新改訳2017)とあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
終わりの時代、偽預言者に惑わされることなくあなたに従っていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月11日 (水)

肉的プライドと神の愛

 箴言1310を、
 2017
は、高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。
知恵は勧告を聞く者とともにある。と訳し、
 聖書協会共同訳は、人は傲慢に振る舞うと争いを起こす。
勧告を聞く者には知恵がある。と訳し、
 リビングバイブルは、自分に自信がありすぎる人は、なかなか主張を曲げません。
素直に忠告を聞く人は賢くなります。と訳し、
 KJV
は、“Only by pride cometh contention: but with the well advised is wisdom.”と訳し、
 NIV
は、Pride only breeds quarrels, but wisdom is found in those who take advice.”と訳しています。

 「高ぶり」(2017)、「傲慢」(聖書協会共同訳)、「自信がある」(リビングバイブル)、「pride」(KJV,NIV)と訳されている語のヘブライ語原語は「ザードーン」で、原義は、傲慢、の意で、その他、出しゃばって、おこがましく、厚かましく、誇り、自慢、プライド、自尊心、うぬぼれ、尊大、高慢、横柄、等の意に用いられます。

 イエス様は、罪について端的に、「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。
淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ720-232017)と言われました。

 この世の人の中には、「プライドを持て」などと言う人がいます。
しかし、イエス様は、それは悪であると言われたのです。
パウロは、「誇る者は主を誇れ。」(2コリント10172017)と言いました。
この箇所をリビングバイブル旧版は、「誇りたい者は、主のなさったことを誇れ。自分を誇るな」と旧約聖書にあるとおりです。と訳しています。

 エレミヤ923.24には次のように記されています。
“23
──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる──
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。
富ある者は自分の富を誇るな。
24
誇る者は、ただ、これを誇れ。
悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。』」2017)とあります。

 プライドの高い人は、他の人に嫌われますし、何よりも神様が嫌います。
軍隊を動かせる国家元首が、力を誇り、軍事力を用いるようになると悲惨なことが起こります。
神様に対して、高慢になれば、「天に唾を吐く」という状態になります。その唾は自分に帰ってくるのです。

 誇ることができるのは、自ら存在し、永遠に存在し、万物を造り、万物を御旨に従って保っておられる神様だけです。
ところが、地上におられたイエス様は、歴史上、最も謙遜であられたのです。

 イエス様は、神のひとり子です。そのお方が、へりくだって、人の子として生まれ、十字架の死にまでも従ったのです。
 ピリピ2章には次のように記されています。
“6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2017)とあります。

 ピリピ25には、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。」(文語訳)とあります。

 もし人が、だれかに豊かに愛されていなかったとしたら、その人は、自分を保つために、何かのプライドを持たなければ、自分を保つことができないのではないでしょうか。多くの人は、自分の何かしらを誇ることができなければ、いじけてしまうだけです。
しかし、キリスト者は、神様に豊かに、豊かに、豊かに、愛されているという体験をすることができます。神様の愛を豊かに体験すると、肉的プライドはいらなくなるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日もあなたの愛を感じながら歩む一日でありますように。
あなたが愛してくださっておられることを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月10日 (火)

神の敵は恥を見る/主は賛美されるべきお方

 詩篇251-3
 聖書協会共同訳は、
“0
 (アルファベットによる詩)
1
 ダビデの詩。
主よ〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、私の魂はあなたを仰ぎ見る。
2
 わが神よ、私はあなたに信頼する。
私が恥を受けることがないように。
敵が勝ち誇ることがないように。
3
 あなたを待ち望む人も皆、恥を受けることがないように。
訳もなく裏切る者が恥を受けるように。と訳し、
 新改訳2017は、
“<
ダビデによる。>
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたを、わがたましいは仰ぎ求めます。
2
わが神、あなたに、私は信頼いたします。
どうか私が恥を見ないように
敵が私に勝ち誇らないようにしてください。
3
まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。と訳しています。

 聖書協会共同訳は、詩篇25篇を「アルファベットによる詩」と記していますが、正確に言うと、「ほぼアルファベットによる詩」ということになります。日本語に訳してしまうとアルファベットによる詩かどうかが分からなくなりますが。

 詩篇25篇全体を読むと、ダビデが、主の敵と自分の敵及び自分の罪から自分を、そしてイスラエルを救い出してください、と祈っている詩篇であることが分かります。

 この詩における祈りにおいて、ダビデは、自分の苦悩と求めをヤハウェ(主)に訴える前に、信仰告白をしています。

 ダビデが、この様に祈るであろうということをヤハウェ(主)は知っておられました。
詩篇139篇もダビデの作ですが、詩篇1391-4には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは私を探り、知っておられます。
2
あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。
3
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。
4
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたはそのすべてを知っておられます。2017

 イエス様は、「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ682017)と語られました。
また、イエス様ご自身についても次のように記されています。
イエスは、人のうちに何があるかを知っておられた(ヨハネ225抜粋・2017)とあります。

 NHKで、ヒューマニエンスで、「自由な意思、それは幻想なのか」、というのを放送していました。そこに登場した専門家たちの実験結果は、人が意思決定する前に何か(例えば、潜在意識)が、何を選択するかを決定しているかもしれない、というものでした。
私は、この実験結果を喜びました。
主が私を導いてくださっておられることを何度も体験しているからです。キリスト者ならだれでもそれを感じることができると思います。
ピリピ(フィリピ)213には次のように記されています。
 2017は、神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。と訳し、
 口語訳は、あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。と訳し、
 岩波訳は、というのも〔ギリシア語原文には、理由を表す「ガル」の語があります。(筆者挿入)〕、〔自らの(訳者挿入)〕意にかなったことがらのために、あなたがたのうちにあって〔あなたがたに(筆者挿入)〕働きかけ、願いを起こさせ、働きをなさしめる方は、まさに神だからである。と訳しています。

 自由意思による決定を人がするとき、NHKのヒューマニエンスで語られていたことと、聖書を合わせると、人の意思決定には、神からのもの、悪魔(サタン)やその配下の者からのもの{ヨハネ838,44132}、その人の潜在意識からのもの、等があるのではないかと思いました。

 御父はすべてを読み取ることができるどころか、完璧な予知をすることがお出来になります。それも、存在すらなかったものに対しても。
エペソ(エフェソ)14には次のように記されています。
 2017訳は、すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕にあって私たちを選び、・・・。と訳し、
聖書協会共同訳は、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。・・・。と訳しています。

 救われる以前の私はとても傲慢でしたから、自分の知力と努力に加味して、神が働いて、神を見出した。と思ったものでした。
まさに罪のかたまりでした。
事実は、神が先行されていたのでしょう。

 私、という人間が地上に誕生することを予知なさる神は、アダム以来、私のところに至るまで、誰と誰が結婚をして、誰が生まれ、・・・ということを予知していたことになります。
パウロは次のように主を賛美しました。
「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ1133.362017)と。

 イエス様は、祈るときには、こう祈るのですよと、いわゆる「主の祈り」を教えてくださいました。
前半部分は、神様に関係する事柄です。
普通は、後半部分ばかりを祈りたくなるものです。
しかし、神様は、何でも知っておられるのです。

 神様は信頼されて当然のお方ですので、ダビデはこのとき、「ヤハウェよ、あなたを、わがたましいは仰ぎ求めます。わが神、あなたに、私は信頼いたします。」と祈り始めたのだろうと思います。

 その後に、「どうか私が恥を見ないように、敵が私に勝ち誇らないようにしてください。まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。」と祈っています。

 今までに幾度も書いてきましたが、キリスト者の敵は、人ではなく、悪魔悪霊です。
エペソ612
 2017は、私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。と訳し、
 リビングバイブルは、戦う相手は、血肉を持った人間ではなく、肉体のない者たちです。すなわち、目に見えない世界の支配者たち〔サタンと高位堕天使たち(筆者挿入)〕、〔すなわち(筆者挿入)〕この世を支配する暗闇の大王たち、それに、天にいる無数の悪霊です。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私の知らない私について、すべてをご存知で、愛をもって導いてくださっておられる三一の神様に感謝します。
あなたの御手の中にあって、今日も、また、明日も、更にとこしえまでも歩ませて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月 9日 (月)

モーセに現れた聖なる神ヤハウェは契約の神

 モーセは、エジプトの奴隷下にあるヘブル人の子として生まれましたが、当時のエジプト王の命令により、男児は殺されなければならない運命にありました。しかし、主のご計画は必ず成就するので、主のご計画に基づき、モーセはエジプトの王女の子となり、約40年間エジプトの王子として、もし王となった場合に必要なすべての学問や軍事訓練、その他の学びをさせてもらったのだと思います。その後、主は、モーセを荒野に導き、モーセは、荒野での訓練を40年間させられました。
今日の箇所は、モーセが80歳時のことです。

 出エジプト31-6には次のように記されています。
“1
モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
2
すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3
モーセは思った。
「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。
神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。
彼は「はい、ここにおります」と答えた。
5
神は仰せられた。
「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
6
さらに仰せられた。
「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。とあります。

 主(ヤハウェ)は、モーセに現れました。
モーセに対して、ご自身が聖であることを示し、また、契約の神であることを示しました。
6
節の、「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」というのは、ただ先祖の神であるというだけではなく、契約の神であるということを述べているのだと思います。
 ヤハウェ(主)は、アブラハムと多くの契約を結びました。
 創世記12章には、“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」2017)とあり、
 創世記15章には、
“4
すると見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが彼に臨んだ。
「・・・。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
7
主は彼に言われた。
「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。」
13
主はアブラムに言われた。
「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。15 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあり、
 創世記17章には、
“4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。8 わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」
9
また神はアブラハムに仰せられた。
「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」
15
また神はアブラハムに仰せられた。
「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)とイサクとの契約について、創世記26章に次のように記されています。
“2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイサクに現れて言われた。
「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。3 あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。5 これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)とヤコブの契約については次のように記されています。
 創世記28章には、
“13
そして、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」2017)とあり、
 創世記35章には、
“10
神は彼に仰せられた。
「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」
こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。
11
神はまた、彼に仰せられた。
「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。12 わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」2017)とあります。

 私たちキリスト者に対して、神はどれほどの約束をしておられることでしょう。
私は、数えたことはありませんが、非常にたくさんあります。
そして、神様が約束してくださった御言葉を信じると、それを体験することができるのです。
神様が約束してくださっておられないことを、自分勝手に妄信した場合には、成就する保証はありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが、イエス様を通して、あるいは使徒や聖書を通して約束してくださった約束は、その約束を信じることによって自分のものとさせて頂けますから感謝します。
あなたの約束を素直に単純に信じ続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
神のありとあらゆる約束は、イエス・キリストにおいて「はい」となっているのです。それで、わたしたちがこの方によって「アーメン」と唱えるのは神に対してであり、その栄光のためです。2コリント120・フランシスコ会訳))

2022年5月 8日 (日)

狭い門と細い道

 マタイ713.14には次のように記されています。
“13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”(2017)

 主イエス様は、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ1092017)と語られ、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ1462017)と語られました。
ヨハネ146を口語訳は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と訳しています。

 生まれながらの人{新生(再生=再び生まれること:ヨハネ3.1-8参照)していない人}は、まことの神の主権を認めず、自分自身が自分の主権者ですから、上記の聖句を読むと、怒りを覚える人やその御言葉とその御言葉を信じている人を見下す人や、動揺する人など、様々な反応をする人がいることと思います。

 しかし主イエス様は、
「人は、新たに〔原語は「アノーセン」で、「上から」の意もあります(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(ヨハネ33・聖書協会共同訳)と言われたのです。

 素直にキリスト・イエス様を信じる者(心にお迎えする者)だけが、いのちに至るのです。

 14節に、「その道もなんと細いことでしょう。」とあります。
「細い」と訳された語のギリシア語原語は「スリボー」で、群がること、押し寄せること、の意があり、また、苦しめる、悩ます、狭い、限られた、狭くなる、苦しむこと、耐えること、苦痛、苦難、試練、等の意もあります。

 いのちに至る道は細いのです。
イエス様は、「あなた方は世にあって苦しむ。」(ヨハネ16:33・フランシスコ会訳)と語られたのです。

 これらの御言葉だけでは嫌になってしまいますね。
イエス様が、ヨハネ16:33で語られた御言葉を岩波訳で記すと、「私のうちにあって、あなたがたに平和があるようにと、これらのことをあなたがたに語って来た。世にあって、あなたがたには苦しみがある。しかし、勇気を出せ私は世に対して〔すでに(訳者挿入)〕勝利をおさめたのだ。」とあります。

 常に主の内にあれば、パウロのように、
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ローマ835.37・口語訳)と言えるのです。

 イエス様は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16152017)と語られましたが、「全世界に出て行き、すべての造られた者を救いなさい。」と言われたのではありません。
イエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです2017)と語られたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「それを見いだす者はわずかです」とありますが、主は私を主の門に入らせてくださり、主と共に歩む道を備え、導き続けてくださり感謝いたします。
あなたの御名を崇め、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月 7日 (土)

持っていないように見えて必要なすべてのものを持っている

 箴言1372017は次のように訳しています。
富んでいるふりをして、何も持たない者がいる。
貧しいふりをして、多くの財産を持つ者がいる。と。

 実際にこのような人たちもいますが、今日は私たちキリスト者のことを書こうと思います。

 人は裸で生まれて裸でこの世を去って行きます。
コヘレトの言葉(伝道者の書)には、母の胎内から出てきた時と同じく、彼は裸で来、裸で去っていく。彼は自分の労苦で得たものを、何一つ手に携えて行くことはできない。{(514・フランシスコ会訳)新改訳、口語訳は、515}と記されています。
このことを知らない大人はいないでしょう。

 地上を去るとき、自分の罪を山ほどもって陰府に下るのか、イエス様と一つとされた霊(1コリント617)で天に行くのか、そのどちらかしかないのです。
1
コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記されています。

 パウロは、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」(2コリント6102018)と証ししています。

 それは御父が、また主イエス様が、必要なものを満たしてくださるからです。
 パウロは、エペソ123に次のように記しました。
 2017訳は、教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。と訳し、
 岩波訳は、この教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。と訳しています。

 パウロはキリスト者が、「すべてのものをすべてのものの中に満たす方」、すなわちすべてを満たしてくださるキリスト・イエス様の内にあるのだ、と語っています。
1
コリント130の前半部分には、「・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。」(2017)と記されています。

 またパウロは、ピリピ(フィリピ)419の箇所で次のように述べています。
「わたしの神は、ご自分の豊かさにふさわしく、キリスト・イエスに結ばれているあなた方の必要をすべて、栄光に輝くばかりに満たしてくださいます。」(フランシスコ会訳)、
「私の神は、あなたがたのすべての必要を、自らの富にしたがって、キリスト・イエスにおいて栄光のうちに、満たして下さるであろう。」(岩波訳)、
「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(2017)と、各日本語訳聖書は訳しています。

 A.B.Simpson1843-1919)は、「神の子なるイエス」という詩の中で、「イエスは、我が持てるすべてなれば、乏しきことも弱きもなし。」と記しています。
A.B.Simpuson
は、76年の生涯でした。上記の詩は、おそらく48歳時のものです。

 
ダビデは、詩篇34篇の中に次のように記しています。
「主の聖なる人よ、主を畏れよ。
主を畏れる人は乏しいことがない
若い獅子は獲物がなくて飢えるが
主を尋ね求める人は
いかなる良いものも欠けることがない。」(聖書協会共同訳10.11節)、
「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。
主を恐れる者には乏しいことがないからだ。
若い獅子も乏しくなり飢える。
しかし主を求める者は
良いものに何一つ欠けることがない。」(新改訳20179.10節)

 イエス様は、必要が満たされるための条件を付けられました。マタイ633には次のように記されています。
2017
訳は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と訳し、
リビングバイブルは、「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。」と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「今日まで守られ」の詩の中に、「如何なる折にも、愛なる神は、すべての事をば、良きにしたまわん。」とありますが、あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに従う者たち一人一人に、各々の必要を満たしてくださいますから御名を崇めて感謝します。
今日もあなたに守られ、導かれ、支えられ、あなたの祝福の内を歩ませて頂けますことをありがとうございます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月 6日 (金)

栄光の王の入場/「御国が来ますように」と祈ります

 詩篇247-10には次のように記されています。
“7
門よ、おまえたちの頭(かしら)を上げよ。
永遠の戸よ、上がれ。
栄光の王が入って来られる。
8
栄光の王とはだれか。
強く力ある主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。
戦いに力ある主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。
9
門よ、おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ、上がれ。
栄光の王が入って来られる。
10
栄光の王それはだれか。
万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、この方こそ栄光の王。セラとあります。

 新共同訳のスタディ版の欄外注によると、7-10節は、“ここでの問答は礼拝の一部であり、礼拝者と祭司が契約の箱を神殿に運び入れる入場典礼の時に交互に読んだとされる。契約の箱は神の地上における玉座と見なされた。”とあります。

 神殿の建築と完成はソロモンによります。
詩篇24篇は、表題に「ダビデによる」と記されています。一歩譲って、ソロモンが書いたのにダビデの名前を用いたと考えてみることもできますが、詩篇の中には、表題に「ソロモン・・・」という詩が二つ(詩篇72篇、127篇)あります。ですからソロモンによるものをダビデによる、と記す必要はなかったでしょう。
ダビデの時代には、神殿はなかったのです。

 私もこの箇所が礼拝典礼で使われたのではないかと想像しますが、それだけではなく、栄光のキリストの地上再臨の預言に関するものではないかと考えていつも読んでいます。
再臨のキリスト様は、エルサレム神殿に入場されるのです。
イエス様は、ご復活後40日目(使徒13)に、オリーブ山から弟子たちが見ている中で天に帰られました。弟子たちは、ボーっと見ていたのでしょうか、その時、二人の天使が弟子たちに、イエス様が、また、オリーブ山に戻って来られると告げたのです。その時の状況が使徒19-11に次のように記されています。
9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。
そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
10
イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。
すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。11 そしてこう言った。
「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」”(新改訳2017)とあります。

イエス・キリスト様の昇天の約550年前にゼカリヤ書が記されました。
ゼカリヤに与えられた神様からの預言の中に、キリスト再臨前後の様子がゼカリヤ14章に次のように記されています。
1 見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。
2
「わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民〔マタイ2422によると「選ばれた者たち」{2017}(筆者挿入)〕は都から絶ち滅ぼされない。」
3
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
4
その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。
5
「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が来られる。
すべての聖なる者たちも、主とともに来る。
6
その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
7
これはただ一つの日であり、その日は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。
8
その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。
9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は地のすべてを治める王となられる。その日には、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は唯一となられ、御名も唯一となる。”とあります。
 この箇所だけでもキリストがヤハウェと呼ばれていることからも、エホバの証人達のイエス・キリストに対する解釈は崩れ去ります。

マタイ2430にはイエス様の御言葉として、イエス様が天から降りて来られる時の情景が、「そのとき、人の子〔キリストのこと。ダニエル713.14参照(筆者挿入)〕のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」(2017)と記されています。
 このイエス様の再臨の前に、ハルマゲドン(メギドの丘)に世界各国の軍隊が終結するのです(黙示録1612-16)。そして、エルサレムを取り囲むことでしょう。

黙示録1911-21には、再臨のキリストとその軍隊によって、反キリスト勢力が滅ぼされる状況の預言が次のように記されています。
11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。
それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14
天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15
この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。
「さあ、神の大宴会に集まれ。18 王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」
19
また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印〔「666」{黙示録1316-18}(筆者挿入)〕を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。
21
残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。”(新改訳2017)とあります。

エゼキエルは、キリストの千年王国時代の預言と幻を神様から次のように頂いています。
4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が東向きの門を通って神殿に入って来た。
5
霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。
なんと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が神殿に満ちていた。
6
私のそばに人が立っていたが、私は、神殿の中から声が私に語りかけるのを聞いた。7 その声は私に言われた。
「人の子〔ここではエゼキエルのこと(筆者挿入)〕よ。ここはわたしの玉座のある場所、わたしの足の踏む場所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む場所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。”(エゼキエル434-7・新改訳2017)と記されています。

 エゼキエル434は、今日の箇所の詩篇247-10と関連する預言であると思います。

 ここに記されてある全てのことの前に、キリストの空中再臨によるキリスト者の携挙があります。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
この時代、イスラム過激派やその他の独裁者によって殺された主にある兄弟姉妹達は一体何人に上ることでしょうか。
今は、ロシアによるウクライナ侵攻の悲惨さが日々映像で流されています。
まだ、ロシアが中心となるイラン、トルコ、リビア、スーダン等の連合軍によるイスラエル侵攻のエゼキエル38章の預言も成就していません。
主イエス様の空中再臨が、その前か、その後か分かりませんが、兎に角、主を待ち望みます。
主が来て下さって世界を平定してくださり、平和なキリストの王国がスタートしますように。
その前に、空中再臨があり、その時、私達主を愛するキリスト者を天に引き上げて頂けますことを感謝します。
主の御再臨を待ち望んでいます。
マラナタ!
主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン。

2022年5月 5日 (木)

モーセに対する神の摂理の一端2

 出エジプト210-15には次のように記されています。
“10
その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
11
こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。
12
彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。
13
次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。
14
彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。
15
ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。2017)とあります。

 上記には、出エジプト210-15の範囲しか本文を記していませんが、その文章以前と、以後の40年の一部に関してのモーセに関連する要約を、初代教会の最初の殉教者ステパノは、次のように語ったと、使徒717-29に記されています。
“19
この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。
20
モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、
21
ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。
22
モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。
 23 モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。
24
そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました。
25
モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。
26
翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。
『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』
27
すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら言いました。
『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。28 昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか。』
29
このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。2017)とあります。

 モーセは40歳までに、エジプトの皇太子として受けるべき教育や訓練(中には軍隊の指導者としての訓練も入っていたでしょう)をほとんど受けていたのでした。
モーセがこのような訓練を受けた背後には、神様のご計画と導きと助けがあったのだと思います。エジプト人たちもモーセ自身も気づくことはなかったでしょうが、神ヤハウェは、モーセを、イスラエル人を約束の地へ連れて行くための指導者として、この世的な訓練を先ず受けさせたのだろうと思います。

 モーセは、おそらく鞭で打たれていたイスラエル人を見たのでしょう。そのイスラエル人をモーセは救いたいと思って、エジプト人を殺してしまったのです。
モーセは、エジプト人を殺すにあたって、完全犯罪を試みましたが、見ていた人がいたのです(出エジプト211-14)。

 モーセのエジプト人殺害の報はファラオの耳にも入りました。しかしモーセは、自らエジプトの地を立ち去り、ミディアンの地へ行ったのです。
エジプト側から見ると、モーセは逃げた、ということになるでしょう。
 ヘブル1123-27を読むと、モーセがどの様な心でエジプトでの教育と訓練を受けたのか、どうしてエジプト人を殺害したのか、どうしてエジプトを捨てミディアンの地に行ったのか、という心のありようを理解することができます。
 ヘブル1123-27には次のように記されています。
“23
信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
24
信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
26
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
27
信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。2017)とあります。

 26節に「キリスト」という語が出て来ますが、キリストとは、油注がれた者、油塗られた者、の意で、油は聖霊を象徴しています。キリストは、ヘブライ語でいうと「マーシーアハ」いわゆるメシアのことです。キリストという語を見ると、イエス・キリストをすぐに連想しますし、イエス・キリストとの関連で注解する人も数多くいますが、私は、この箇所を、油寝られた者、即ちメシア、と捉えたいと思います。モーセもイスラエルをエジプトから救う者として立てられたからです。勿論、救われた御方は神ヤハウェですが。

 26節をフランシスコ会訳は、また、メシアの辱めを、エジプ トの財宝に勝る富と思いました。彼は、与えられる報いから目を離さなかったからです。と訳しています。

 モーセは、4080歳の間、神ヤハウェから羊飼いとしての生活の仕方を訓練されたのです。
しかし、年齢は既に80歳になっていました。
 詩篇の中に、モーセの詩が記されていますが、その中に、
私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
そのほとんどは労苦とわざわいです。
瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。(詩篇90102017)というのがあります。

 神はパウロに言いました。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント1292017)と。

モーセは、80歳で明確な召命を受けました。それは出エジプト3章に記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
人は誰でも肉体の誕生時には、ただの人、すなわち生まれながらの人です。まことの神様を信じた後も、すぐに霊の人になるわけではなく、肉の人としての歩みをある程度することでしょう。肉の人から霊の人へと変化を遂げていったとしても、その間、霊の人になってみたり肉の人になってみたりすることです。
やがて霊の人として安定するころには、モーセのように年を重ねているかもしれませんが、若くして安定した霊の人に変えられている人もいます。
一人ひとり異なりますが、私たちは、ただあなたに目を向けて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生まれながらの人(ただの人、自然の人)、肉の人、霊の人、については、新共同訳or聖書協会共同訳orフランシスコ会訳の1コリント210-34を参照してみてください。

2022年5月 4日 (水)

主に良くしてもらっている実感がないと、人に良くしてあげることには無理がある

 マタイ7122017訳は、「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」と訳しています。

 冒頭に、「ですから」という語があります。
「ですから」というのは、その前のマタイ77-11の箇所を受けているのでしょう。そこには次のように記されています。
“7
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8
だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
9
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
11
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。2017)とあります。

 霊の父は、神の子どもたちが、霊の父に求める求めに応じて良いものを与えてくださるのですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。
と続くのでしょう。

 マタイ77-11の平行個所を、ルカの福音書は次のように記していました。
“9
ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10
だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
11
あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
13
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11章・2017)とあります。

 マタイ712の聖句は、「黄金律」とも言われますが、肉の力で、この聖句を守ろうとしたら、自分自身が涸れはてます。
しかし、内におられる聖霊様がわたし自身から流れ出して、私を用いて、そのようにしてくださるなら、自他ともに恵まれるのです。

 イエス様は、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」(マタイ22362017)という質問に対して次のように語られました。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38
これが、重要な第一の戒めです。
39
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22章・2017)と記されています。
 第一が、「神である主」を愛することです。
主なる神様はすべての人を愛していますが、とりわけ、ご自身を愛する者を愛し(箴言8171サムエル230)、ご自身をその人にあらわしなさいます(ヨハネ1421)。
主を愛する人は、主の愛に満たされるので、隣人を主にあって愛することができるのです。
マタイ2240には、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」というイエス様の御言葉が記されていますが、
マタイ712の最後の部分にも、「これが律法と預言者です。」と記されています。
「律法と預言者」とは、聖書全体、ということを述べています。

神様の御旨に従って生きることは、聖い神の霊の内住がなくてはとてもできないものであることが分かります。

 幸いなことにヨハネ737-39aには次のように記されています。
“37
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。(新共同訳)とあります。
〔“霊”と書いてある箇所は、ギリシア語原語では、「霊」に定冠詞がついている記載になっています。新改訳、口語訳は、「御霊」と書いています。〕

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御旨に従って生活するためには、内住の主の霊が働き出でてくださらなくてはとてもできることではないと思います。
常に、あなたの霊に満たされ、あなたの霊が満ち溢れてくださって歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月 3日 (火)

言葉の実を刈り取る

 箴言132.3.5には次のように記されています。
“2
人はその口の実によって良きものを食べるが、裏切り者は不法を貪る。
3
自分の口を見張る者はたましいを守る。唇を大きく開く者には滅びが来る。
5
正しい人は偽りのことばを憎む。悪しき者は悪臭を放ち、恥ずべきふるまいをする。2017)とあります。

 2節の「口」と訳されている語のヘブライ語原語は、元来、「口」の意ですが、「話す言葉」の意でも用いられます。

 「口の実」の「実」と訳されている語のヘブライ語原語は「ペリー」で、果実、結実の意です。

 口先だけの言葉で人をだましてお金を得たら、それは詐欺です。
詐欺師も偽りの言葉によってお金を得て、高級品を買い、美味しいものを食べているかもしれません。

 しかし、5節には、正しい人は偽りのことばを憎む。とあります。
ヘブライ語聖書には、「人」という単語はありません。「人」の文字を補充して訳しているのです。
補充する単語を変えて、「御方」とすると、正しい御方は偽りの言葉を憎む。と訳すことができます。

 箴言616-19には次のように記されています。
“16
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。
17
高ぶる目、偽りの舌、咎なき者の血を流す手、18 邪悪な計画をめぐらす心、悪へと急ぎ走る足、19 まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。2017)とあります。

 当たり前のことですが、「口の実」といっても、嘘いつわりの無い言葉の結実による実でなければなりません。

 この世では、正しいことを言ったために、あるグループや会社や社会などから排除されてしまうこともあります。(1ヨハネ519参照)

 しかし、対神的に捉えると、人はその口の実によって良きものを食べるという聖句に対して、アーメン、と言うことができます。

 神様の御旨は、聖書に記されていますが、神様の教えや約束に心から同意し、それに対して「アーメン」という時、人はその口の実によって良きものを食べる”or自分のものとすることができるのです。
キリスト者は誰でも「救い」の時に経験しているでしょう。
2
コリント119.20には、“19 ・・・神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。20 神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。2017)とあります。
 リビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“19
・・・この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、「いいえ」の意味で「はい」と言われる方ではありません。20また、どれほどたくさんの神様の約束でも、ことごとく実行し、完成なさいます。それで私たちは、この方がどんなに真実な方か、すべての人に知らせ、その御名をほめたたえるのです。いつも、ことばどおり実行なさいます。とあります。

 キリスト者は、イエス・キリスト様の御功績の恵みにより天にあるすべての霊的祝福を与えられた者なのです(エペソ13)。

 
イエス様は、イエス様に癒しを求めて癒された人達に、「あなたの信仰の通りになるように。」と語っておられる箇所があります。イエス様が癒すことの出来るお方であると告白した人は癒されたのです。

 イエス様が、癒してあげようとしても、「もしできることなら」という言葉をつけて語った人には、「もしできることなら」と言うのか、と言いつつ、その人の信仰を高めてあげて、癒しの御業を行ったこともありました。

 心から、神様の御言葉を信じ、神様の御言葉を発する人は、良きものを食べること、すなわち良きものを与えられることができるのです。
但し、良きもの、について、自分勝手な考え方をしてはならないのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御約束を信じ、それを口にし、あなたに喜ばれる歩みをすることの出来る者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月 2日 (月)

主をたずね求める人

 詩篇243-6には次のように記されています。
“3
だれが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山に登り得るのか。
だれが聖なる御前に立てるのか。
4
手がきよく、心の澄んだ人。そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。
5
その人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。
6
これこそヤコブの一族。
神を求める者たち。
あなたの御顔を慕い求める人々である。2017)とあります。

 キリスト者的に考えると、詩篇22篇は、キリストの贖罪の預言、詩篇23篇は、キリスト者と主との関係の預言、詩篇24篇は、キリストの千年王国時代の預言、と捉えることができると思います。

 また、旧約時代に記されたものですから、その時代の観点から捉えた場合には、詩篇22篇、23篇は、ダビデと主の関係が詠まれ、詩篇24篇は契約の箱がエルサレムに運び入れられる時の預言詩ではないだろうか、とも捉えることができます。

 今日は、キリスト者の立場に立って述べていこうと思います。

 3節を新改訳第三版は、「だれが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」と訳し、
新共同訳は、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」と訳しています。

 現代のエルサレムは、標高約800mであるといわれています。
キリストの千年王国時代のエルサレムは、大患難時代に天変地異が起こり、非常に高くなります。
 イザヤ22,3に次のような預言が記されています。
2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる
国々はこぞって川の流れのように、そこに向かい3 多くの民は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。
主はその道を私たちに示してくださる。
私たちはその道を歩もう」と。
教え はシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 3節に、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」(新共同訳)とありましたが、その答えは、4節に次のように記されています。
手がきよく、心の澄んだ人。そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。2017)とあります。
 
 そして4節に記されているような人は、主から祝福を受け、義であるとされるのです(5)。
そして、この様な人について、
これこそヤコブの一族。
神を求める者たち。
あなたの御顔を慕い求める人々である。6節・2017と記されているのです。

 これを読むと、異邦人である私たち日本人の大多数の者は、偶像崇拝の国に生まれ、まことの神様を知った人でも、まことの神様を信じる前は、一度や二度は、太陽を拝んでみたり、神社に行って願いごとをしたこともあるでしょうから、そのことだけでも、もうアウトです。更に、嘘をつくことなく成長した人もいないと思います。心がきよくて、人の悪口や陰口を一度も言ったことが無いという人もあまりいないことでしょう。少なくとも私などは完全にアウトです。

 キリスト者は、恵みの時代に生まれ、イエス様の十字架と復活の故に、イエス様を信じることによって、罪赦され、義とされました。行いにはよりません(エペソ28,9etc.)。
本当に感謝なことです。
 イエス様を信じた者は、天のシオン、天の聖所におられる神さまの御前に立てるのですから大感謝です。
イエス・キリスト様の血潮は、私達の罪を赦し、きよめてくださいます。
イエス様を信じて救われたので、神の御前における立場はきよいものとされていますが、神様は、私達を実質的にもきよくしようとして日々導いて罪を示し、悔い改めへと導き、神の子の立場にふさわしい者、キリストの花嫁としてふさわしい者として整えてくださっておられます。
しかし、それだけでもキリストの花嫁としては完全ではありません。
天において、光り輝く、きよい麻布の衣を着せて下さるのです。その麻布とは、聖徒達の正しい行いであると、黙示録198に記されています。
ですから、その時には、意識せずとも義なる言動をすることが出来るようにされるのです。ハレルヤ!

 最後に、リビングバイブル旧版のエペソ13-14を下記します。
“3
さて、主イエス・キリストの父なる神を、どのようにほめたたえたらよいでしょう。神様は、天上のあらゆる祝福で、私達を祝福してくださいました。それは、私達がキリスト様の者となっているからです。
4
神様は、この世界をお造りになる前から、私達を、ご自分のものとして選んでくださいました。それは、キリスト様が私達の為にしてくださることに、基づいています。そして、神様は私達を、ご自分の目から見て、何一つ欠点の無い、きよい者にしようとお定めになりました。神様の前に立つ私達は、その愛に包まれているのです。
5
神さまの不変の計画とは、イエス・キリストを遣わし、その死によって、私達を神様の家族の一員として迎えることでした。それが、神様のお考えでした。
6
神様こそ、一切の称賛を受けるべきお方です。神様は、驚くばかりの恵みと愛とを、豊かに注いでくださったのです。それは、私達が、神様の最愛のひとり息子につながる者となったからです。
7
神の子の血を流してまで、私達の罪を帳消しにして下さるほど、神様の愛は大きいのです。この神の子によって、私達は救われました。
8
神様は、豊かな恵みを、あふれるほど注いで下さいました。私達をよく理解し、何が最善であるか、常にご存知だからです。
9
神様は、キリスト様を遣わした隠れた理由を、私達に知らせてくださいました。その計画は、ずっと昔から、神様の愛のうちに決定済みでした。
10
その目的はこうです。すなわち、機が熟せば、私達を、天でも地でも、あらゆる所から集めて、いつまでも、キリスト様のものとして神様のそばで過ごせるようにすることです。
11
そればかりでなく、キリスト様が成し遂げてくださったことのおかげで、私達は、神様への喜ばしいささげものとされています。というのは、神様の主権的な計画の一部として、私達は、神様のものとなるように、最初から選ばれていたのであり、すべては、ずっと昔からの、神様のお考え通りになるからです。
12
なぜ神様は、この様になさったのでしょう。それは、最初にキリスト様を信じた私達に対する、こんなにも素晴らしい恵みを見て、私達が神様をほめたたえるためなのです。
13
キリスト様が成し遂げてくださったことのおかげで、あなたがたも、救いを約束する良い知らせを聞き、キリスト様を信じるようになりました。そして、キリスト様に属する者であるという証印を、聖霊様に押して頂きました。この聖霊様については、ずっと以前から、クリスチャン全部に約束されていたことです。
14
私達のうちに住まわれる聖霊様は、神様が約束のものを全部本当に与えてくださる、という保証です。それで、私達に押された聖霊の証印は、神様がすでに私達を買い上げ、ご自分のもとに引き取って下さることを、保障するのです。これが、栄光の神様をほめたたえるもう一つの理由です。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝します。
あなたは、恵みによって私達を救い、きよめ、あなたの子どもとしてくださいました。
何から何までありがとうございます。
つきせざる感謝を持って主キリスト・イエス様の御名で祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・・・・
A.B.Simpson
の「神の子なるイェス」の2節には、
かくも主は悩み、かくも愛し、主の花嫁と我をなしぬ。わが内に主はいます。くすしくもたえなり、わが内にいます主は、来るべき王なり。とあります。

2022年5月 1日 (日)

モーセに対する神の摂理の一端1

 出エジプト122には、そこでパロはその〔イスラエルの(筆者挿入)〕すべての民に命じて言った、「ヘブルびとに男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」。(口語訳)と記されています。
 続く出エジプト21-11aには次のように記されています。
“1
さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。
2
彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。
3
しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。
4
その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。
5
すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。
6
それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」
7
その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」
8
ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。
9
ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。
10
その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。
11
こうして日がたち、モーセは大人になった。2017)とあります。

 アブラハムに次のような預言的約束(契約)がありました。
“13
主はアブラムに言われた。
「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。/16 そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」2017)と記されています。

 主は、モーセをイスラエルの指導者として立て、イスラエルの民をエジプトから出発させ、カナンの地が見えるところまでモーセを用いました。カナンの地に入るためにヨルダン川を渡ったときの指導者として立てられたのはヨシュアでした。

 ヤコブの家族がエジプトに下ってからヨシュアに導かれてカナンの地に入るまでがおそらく400年であったのでしょう。

 主なる神様は、モーセをイスラエルの指導者として立てるために、不思議なことを行ったのです。神様が、モーセを用いるにあたって最初にしたことは、エジプトの王女の子にさせ、エジプトの皇太子として、教育を受けさせることであったのです。

 おそらく主なる神様は、エジプトの王女にも働いて、エジプトの王女を不妊症にさせました。

 Bible naviは、この王女について次のような推測をしています。
ファラオの娘とは誰だったのか。一説によれば、ハトシェプストが、モーセを川から拾い上げた女性だったという。彼女の夫はトトメス2世(これは、出エジプトの早期説と一致する)。ハトシェプストが子どもを産めないからだだったことは、明らかとなっており、トトメスには、妻以外の女性との間に一人の息子がいて、この息子が王の座を継ぐことになっていた。ハトシェプストは、モーセを神からの贈り物だと思ったのだ。なぜなら、今や彼女に息子ができ、その子が合法的に、王の座を継ぐことになるからだった。

 主なる神様は、モーセの姉ミリアムに知恵を授けました(出エジプト27)。モーセが乳離れするまでの間、モーセの両親によって、モーセは、信仰的に育てられました。モーセは、乳離れしてから、エジプトの王女のもとへと行ったのです。そして王女はモーセを、エジプトの王としてふさわしい者となるように教育したことでしょう。
使徒722には、モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。2017)と記されています。

 モーセがエジプトの王子として教育を受けている期間も、イスラエル人は奴隷としてこき使われ、呻いていました。

 私たちは、目の前の事ばかりを見てしまいやすい者ですが、神様は、過去、現在、未来のすべてをご覧になって、ことを進めて行かれることが分かります。

 少し重複しますが、使徒717-22を下記します。
“17
さて、神がアブラハムになされた約束の時が近づくにしたがい、民はエジプトで大いに数が増え、18 ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こる時まで続きました。
19
この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。
20
モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、21 ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。
22
モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。2017)と記されています。

 モーセは40歳の時にエジプトの王宮を出ましたが、イスラエルの指導者として立てられたのは更に40年後のことでした。その間もイスラエル人たちは奴隷として呻いていたのです。
はたしてイスラエル人の中で、自分たちは主なる神様によって解放されると考えていた人たち、信じていた人たちはいたのでしょうか。

 イエス様は、イエス様に救い(癒し等も含め)を求めてきた人たちに、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と語られました。
「主はいつも最善をなさってくださる」と信じている人は幸いです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、あなたの御計画をお持ちです。
そのご計画は最善です。
如何なる折にも、あなたを愛する者に対して、あなたは最善をなさってくださいますから御名をほめたたえます。
あなたにすべてを委ねて歩ませて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月30日 (土)

神を求める者にor神に求める者に、神は最善のものを与えてくださる

 マタイ77-11に、
“7
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8
だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
9
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
10
魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
11
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。2017)とあります。

 平行記事のルカ119-13節には、
“9
ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10
だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
11
あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
12
卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
13
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」2017)と記されています。

 マタイによる福音書の方は、山上の垂訓の中の主の祈りとは異なる場所に記されていますが、ルカによる福音書の方は、祈りの教えの中に記されています。
異なるところに記載されていても、それを問題視する必要はないと思います。主イエス様は、大切なことを何回も語られたことだろうと思います。
また、筆者のルカは、その当時イエス様のお話を聞いていません。
ルカによる福音書がどの様に書かれたかについては、ルカ11-4に次のように記されています。
“1, 2
私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
3
私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
4
それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。2017)とあります。

 ルカによる福音書の方は、今日の箇所の前に、下記の後に置かれています。
ルカ111-8には次のように記されています。
“1
さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2
そこでイエスは彼らに言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
3
私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。
4
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
私たちを試みにあわせないでください。』」
5
また、イエスはこう言われた。
「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。
『友よ、パンを三つ貸してくれないか。6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』
7
すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。
『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』
8
あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。2017)とあります。

 「求めなさい」は「求め続けなさい」、「捜しなさい」は「捜し続けなさい」、「たたきなさい」は「たたき続けなさい」という動作の継続を示す現在命令形が使われています。
現在継続命令形だからといって、求めたものが与えられても引き続き求め続けるということはしません。当然のことですが、祈って与えられたら、与えられたものを更に求め続けるのではなく、感謝の祈りに変えるのが自然の流れです。

 ルカ1113を読むと、天の父は良いものを与えてくださると記されています。その良いものとは、聖霊であると記されています。
三位一体の神の第三位格である聖霊を与えてくださるのです。
聖霊のギリシア語原語は、「プニューマ(霊)・ハギオン(聖なる)」です。ハギオンは形容詞ですが、名詞形は「ハギオス(聖)」です。
聖霊は、私たちキリスト者を、助け、慰め、励まし、また私たちに真理を啓示し、私たちの祈りを導き、私たちの為にとりなしてもくださるのです。
それ故、「どんなときにも御霊によって〔直訳すると「霊の中で」(筆者挿入)〕祈りなさい。」(エペソ618・新改訳)と勧められていますし、また、ローマ826には、「御霊〔ギリシア語原語は、定冠詞のついた「霊」です(筆者挿入)〕も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊{前述の〔 〕内と同じです(筆者挿入)}ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(新改訳)と記されています。

 使徒ヨハネは、イエス様のおことばとして、
「・・わたし〔イエス(筆者挿入)〕は、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子〔イエス(筆者挿入)〕によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ1413.14・新改訳)と記し、また、「あなたがたがわたし〔イエス(筆者挿入)〕にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ157・新改訳)と記しました。
更にヨハネは、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(1ヨハネ514.15・新改訳)と手紙に記しました。

 イエス様の救いを求めている人に敢えて言いますが、イエス様に「あなたを信じます。私の心に入って私の主となってください。」と求めれば、救いは実現します。イエス様の救いについていえば、「求めなさい。そうすれば与えられます。」というおことばは必ず実現するのです。それは、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを、神様が望んでおられるからです(1テモテ24)。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
祈りについても色々と教えてくださり感謝します。
いつも御霊によってor御霊の中で祈ることが出来ますよう導いてください。
主イエス様の御名でお祈りします。アーメン

2022年4月29日 (金)

御父に従順な人は幸いです

 箴言131には次のように記されています。
“知恵のある子は父の訓戒を聞き、嘲る者は叱責を聞かない。”(2017)とあります。

 このブログを読んでくださっておられる人たちの多くはキリスト者でしょうから、対キリスト者的に述べていきます。
キリスト者の「父」(ヘブライ語原語は「アブ」)には、この地上に誕生させてくれた存在としての父、すなわち肉の父と、神の霊から霊の誕生をさせてくださった霊の父とがいます。霊の父は、万物の根源であられる御父です。
関連聖句を下記します。
 1ペテロ13には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ〔霊のことを言っています(筆者挿入)〕、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。
 ヨハネ33.6には、“3 ・・・人は、新しく〔「新しく」と訳されている語のギリシア語「アノーセン」には「上から」の意もあります(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできません。(2017/6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳)と記されています。
 ヘブル129-11には、・・・私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
11
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。2017)と記されています。
 ヘブル1211を岩波訳は、躾(しつけ)はすべて、その時は喜ばしいことではなく、つらいことに思われるが、後になってみると、 それによって訓練された人々に義に〔基づく(訳者挿入)〕平和の実を結ばせる。と訳しています。

 イエス・キリスト様を信じた人は、神様から義と認められています。これは神のみ前におけるキリスト者としての立場です。
しかし、御父は、ご自身の御性質にあずかる(2ペテロ14)ようにと訓練なさるのです。
これは実質的にキリストのようにされていく、ということです。
1
ペテロ115.16には、“15 ・・、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。2017)と記されています。

 黙示録の最後の章である22章には、11節に、「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(2017)と記されています。
黙示録2211
 新共同訳は、「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」と訳し、
 聖書協会共同訳は、「不正を行う者はさらに不正を行い、汚れた者はさらに汚れた者となれ、正しい者はさらに正しいことを行い、聖なる者はさらに聖なる者となれ。」と訳し、
 岩波訳は、「不義を行なう者は不義を行なうままにさせ、穢れた者は穢れるままにさせておきな さい。しかし、義しい者は正義を行ない続け、聖なる者は聖化され続けさせなさい。」と訳しています。

 これは、御父が、御子キリスト・イエス様に与え、御子が天使を遣わし、天使から使徒ヨハネに語られたことばです(黙示録11)。

 黙示録2211の聖句を知れば、今の世が、どんどん悪くなり、一方、神のみ前に聖なる者であるキリスト者は、実質的にも聖なるものとされていく、となることが分かります。
やがてキリストの空中再臨の時(=キリストの現れの時)に、キリストを待ち望んでいるキリスト者(ヘブル928)は霊の体を与えられ、天に引き上げられるのです(1コリント15521テサロニケ416.17)。
 関連聖句を下記します。
 コロサイ34には、あなた方の命であるキリストが 現れるとき、あなた方もキリストとともに栄光に輝いて現れるのです。(フランシスコ会訳)と記され、
 1コリント1552には、終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。2017)と記され、
 1テサロニケ416.17には、・・、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記され、
 ヘブル928には、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに従い、平安を頂き、日々主と共に歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月28日 (木)

地と地に生きるすべてのものは主のものである

 詩篇241.2を、
2017
訳は、
“1
地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもの。
2
主が海に地の基を据え川の上にそれを堅く立てられたからだ。と訳しています。

 2節の「川」と訳されている語のヘブライ語は「ナーハロット」で、「ナーハール」の複数形です。
「ナーハール」は、(絶え間ない流体の)流れ、川、洪水、大水等の意があります。また、“the Flood”というと「ノアの大洪水」のことです。
原文は、「ナーハール」の複数形の「ナーハロット」が使われています。

 新改訳第三版は、2017が、「川」と訳した箇所を、「もろもろの川」と訳しています。
日本語訳聖書の中で、「川」と訳しているのは、文語訳、口語訳、新改訳です。
また、「ナーハール」は、特に、ナイル川や、ユーフラテス川を指す場合もあるということです(Strong辞書)。

 聖書協会共同訳は、1.2節を、
“1
 ダビデの詩。賛歌。地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。
2
 主が大海の上に地の基を築き、大河の上に世界を〔「世界を」は補足(欄外注)〕据えたから。と訳しています。

 同じ個所を、
新共同訳は、
“1
【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。
2
主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。と訳し、
フランシスコ会訳は、
“1
ダビデの詩。地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。2主がそれを海の上に据え、潮の流れの上に築いたから。と訳しています。

 申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。2017)と記されています。

 詩篇242の冒頭のヘブライ語原語は、「キー」という語で、その意は、因果関係を示す、原因を表す単語が据えられています。ですから、2節は、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの。」の理由です。

 聖書を信じているキリスト者(キリスト者が聖書を信じていることは当然のことですが)は、詩篇241.2に記されている聖句に、「アーメン」と言えるでしょう。
しかし、キリスト者でも苦難が長く続いたときなどには、このことを忘れてしますことがあります。
義人と言われたヨブもひどい苦難の連続の中で、そのことに思い至らかったときがあります。その時神様は、ヨブに、ヨブ38.39章に記されている内容を語られました。かなり長いので、その中から前半部分を下記します。
“38:1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は嵐の中からヨブに答えられた。
2
知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
5
あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
6
その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
7
明けの星々〔「明けの星」(口語訳)、「夜明けの星」(新共同訳)〕がともに喜び歌い、神の子たち〔御使いたち(リビングバイブル)〕がみな喜び叫んだときに。
8
海が噴き出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたのか。
9
そのとき、わたしは雲をその衣とし、暗黒をその産衣とした。
10
わたしは、これを区切って境を定め、かんぬきと戸を設けて、11 言った。
「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。おまえの高ぶる波はここでとどまれ」と。
12
あなたは生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してあるべき場所を指し示して、13 これに地の縁をつかませ、悪しき者をそこから振り落としたことがあるか。
14
地は押印された粘土のように姿を変え、そこにあるものは王服のように彩られる。
15
その光は悪しき者から退けられ、振り上げられた腕は折られる。
16
あなたは海の源まで行ったことがあるか。深淵の奥底を歩き回ったことがあるか。
17
死の門があなたに現れたことがあるか。死の陰の門を見たことがあるか。
18
地の広さを見極めたことがあるか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。2017)とあります。

 私たち人間は、自分を主としてしまいやすいものです。しかし、主なるお方はまことの神様です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をあがめます。
あなたは天地万物の創造者ですから、御名を崇めて賛美します。
あなたは万物の主です。
私たちが、何時もそのことを忘れることがありませんように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月27日 (水)

苦しみにあった時に、誰に、あるいはどなたに助けを求めるのか

 人が苦しみにあったとき、
人、あるいは組織(国や団体等)に助けを求める人、
まことの神ではない神と言われているもの{悪しき霊(1コリント1020)}に助けを求める人、
まことの神である三一の神に助けを求める人、
人には頼らず自分だけで解決しようとする人、
等の人たちがいるのではないでしょうか。

 の中には、解決に成功する人、より人間的に大きくなる人、自暴自棄になって他者に迷惑をかける人、絶望し最後には死する人、・・・、と様々な人々がいると思います。

 聖書が勧めているのは③のまことの神様に助けを求めることです。
エジプトで生活していたイスラエルの民は、苦難の日々が続いたとき、まことの神に助けを求めました。

 ヤコブ(イスラエル)の子であるヨセフがエジプトの宰相の時には、イスラエル人は優遇されていました。しかし、ヨセフは死に、ヨセフを取り立てたエジプトの王も死んで、ヨセフのことを知らない王がエジプトに君臨したのです。新しい王が王位に就くまでに、イスラエル人は非常に多くなっていました(出エジプト11-7)。

 
エジプトの王位に就いた新王の政策の中には、戦争になったときにイスラエル人が敵側について新王のエジプトを攻撃するかもしれないという仮定に基づき、そのような事態からエジプトを守るために、イスラエル人が増えないようイスラエル人を奴隷として苦しい労働につかせるという方法がありました。しかし逆にイスラエル人の人口は増加したのでした(出エジプト18-14)。

 エジプトの王は、イスラエルの人口増加を抑えるために、過重な労働に加え、イスラエル人に対して、男子が生まれた場合には殺さなければならない、という命令をくだしたのです(出エジプト115-22)。この命令は何年も解除されることはありませんでした。
イスラエル人は、その苦しみの継続の中で、泣き叫んだのでした(出エジプト223)。
イスラエル人は、泣き叫んでも、まことの神に祈った、と聖書には記されていません。

 神が、イスラエル人の泣き叫びを心にとめたのは、神が、アブラハムと結んだ契約、イサクと結んだ契約、ヤコブと結んだ契約の故でした(出エジプト223-25)。

 神がアブラハムと結んだ契約の一つが創世記1513-16に次のように記されています。
“13
主はアブラム〔後に主によって「アブラハム」と改名(筆者挿入)〕に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
14
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15
あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16
そして、四代目の者たちがここ〔カナンの地(筆者挿入)〕に帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」2017)とあります。

 神がイサクと結んだ契約は、創世記262-6に次のように記されています。
“2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。3 あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。4 そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。5 これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」6 こうしてイサクはゲラルに住んでいた2017)とあります。

 神がヤコブと結んだ契約は、創世記2813-15に次のように記されています。
“13
そして、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が・・・、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」2017)とあります。

 ここからは、苦しみとキリスト者の関係に移ります。
私たちには、聖書が与えられ、その中には、神の約束が数多く記されています。
私たちに、神様は、絶えず祈りなさい、と命じられました。
必要以上に苦しみを抱え続けなくてもよいのです。
苦しければ、すぐにそのことを主に訴えることができるのです。

 詩篇5015には、「苦難の日には、私に呼びかけよ。私はあなたを助け出し、あなたは私を崇めるであろう。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 主は、祈った通りに苦難から解放してくださる場合もあれば、祈った通りではない方法で苦難から解放してくださる場合もあります。

 祈った通りではないかたちで、苦しみからの解放を与えられたパウロの例が、2コリント129に次のように記されています。
“8
・・・、私は三度、主に願いました。9しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。・・・。2017)とあります。
これがパウロに対する最善の方法であったのです。
同じようなことは、多くのキリスト者も経験しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
絶えず祈ることをしても良い特権を与えられておりますことを感謝します。
それどころか、「絶えず祈りなさい」と、あなたは言われます。
呼吸をしているように、いつもあなたとの交わりを絶やすことなく歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月26日 (火)

聖なるものを与えてはいけない人

 マタイ76には次のような聖句があります。
聖なるもの〔原語は単数形(筆者挿入)〕を犬〔原語は複数形(筆者挿入)〕に与えてはいけません。また、真珠〔原語は複数形(筆者挿入)〕を豚〔原語は複数形(筆者挿入)〕の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。2017)とあります。

 犬や豚を譬えにひいてイエス様は語られましたが、愛犬家や豚をペットとして飼っておられる方は、なんてひどいことを言うの、と思われるかもしれません。
我が家でも、数十年間、犬をペットとして飼っています。愛情の交流は素晴らしいものがあり良いものです。しかし野生の犬はそうはいかない場合が多いと思います。不注意に接すれば噛みつかれることもあるでしょう。
「犬」と訳されている語のギリシア原語は「キュオーン」で、野生の犬、猟犬等の意があります。ペット犬や家畜犬は<ギ>「キュナリオン」というようです。我が家のキュナリオンは食前の祈りの数分間、多くの場合は座って祈りを聞いているが如きにしています(飼い主馬鹿なのか、その犬のためにも祈るので、主がその犬に何かを与えてくださっておられるのかは分かりませんが)。
「キュオーン」をStrong辞書は、doghound と訳しています。それらを英和辞書で調べると、卑劣なやつ、不誠実なやつ、女性を虐待するひどい男、低いうなり声を出す種類の犬を指す等の意も記されています。

 「聖なるもの」と訳されている語のギリシア原語は「ハギオス」(聖)で、ここでは「ハギオン」という形容詞で書かれているのです。「もの」という訳は、おそらくその後の前に定冠詞がついているからでしょう。形容詞に続く名詞がないので、「物」なのか「お方」(例えば、「イエス様」)なのかは分かりません。福音とは、イエス様を提供することです。「イエス様が救い主ですよ」とお伝えした時に、低いうなり声をあげ、咬みついてくるような人には、あげずに置きなさい、と教えてくれています。

 また「聖なるもの」(聖なるお方即ち主なる神様のもの)と捉えた場合には、聖餐のパンと葡萄酒orブドウ液などを指すかもしれません。聖餐のパンと葡萄酒orブドウ液を与える対象は、イエス様を主と信じている人です。そうでない人に対して与えたとしたら、「・・ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」(1コリント1127・新共同訳)というおことばが生きてくるでしょう。

 「豚に真珠」という表現は、一般的にもよく用いられることわざですが、聖書からとられたのでしょう。普通、豚に真珠とは、値打ちがわからない者には、どんなに価値のあるものを与えても意味がなく、むだであることのたとえとして用いられています。

 マタイ71.2でイエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(新改訳)と語ってこられました。

 マタイ76の犬や豚に喩えられる人の箇所を合わせて読むと、裁くことの理解として、神様と同じ位置に立って罪定めすることはいけないけれども、正しく判断することは必要なことであると教えてくれているように思います。

 神様は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望まれています(1テモテ24)から、誰にでも福音を提供することは必要なことですが、福音を提供したときに、唸り声をあげて噛みついてくるような人に対しては、その後も福音を提供し続けるかどうかをよく検討する必要があることを教えてくれているように思います。
マタイ1014には、「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」(新共同訳)というおことばもありますから。
しかし、噛みついてくる人の中には、一定の期間が過ぎ、様々な経験を経た後に考え方を変えて噛みつかなくなっている人もいるでしょう。
その時々で、柔軟な対応が必要だと思います。

 パウロは、イエス様から、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒189.102017)と言われたこともあれば、
パウロが信徒たちに、「私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。」(コロサイ432017)と祈祷依頼をしたこともあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
人の状態を見極める洞察力と適切に対応する能力とが必要であることを覚えます。
そのような状態に立たされたときにもあなたが教え導いてくださいますように。
また、イエス様をお伝えする対象をあなたが与えてくださいますように。
主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン

2022年4月25日 (月)

箴言12章にみる悪しき者のまとめ

 1ヨハネ32.3に、“2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。・・・。3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。2017)とあります。
3
節をリビングバイブルは、このことをほんとうに信じる人はみな、自分の身を、いつもきよく保とうと心がけます。キリストはきよい方だからです。と意訳しています。

 真実にキリスト者として歩んでいる人は、キリストの空中再臨を待ち望み、キリストの教えに従って、自分の身を、いつもきよく保とうと心がけます。
それ故に、悪しき者の思考形態や行動がどのようなものかが分からなくなっている人も多いのではないでしょうか。

 そこで、箴言12章が教えてくれる「悪しき者」の思考や行動、またそれに伴う主のお取り扱いをいくつか記してみたいと思います。
主の御取り扱いは、この世での場合もあれば、その人が死んだ後である場合もありますが、よく観察するとその両方です。一見すると、この世では成功を収めて人生を閉じていくように見える人もいますが、そのような人は、主から放任されて(ローマ124a,28a)、罪に罪を重ね(ローマ124b-25a,26-27,28b-32/a,b2017の文章を基に付けています)、死後の裁きの時には、より重い判決を受けることになることでしょう。

 2bには、“悪を企む者は不義に定められる。”(2017)とあります。
聖書協会共同訳は、悪だくみをする者は悪しき者とされる。と訳し、
新改訳第三版は、悪をたくらむ者は罰を受ける。と訳し、
口語訳は、悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる。と訳し、
新共同訳は、悪だくみをする者は罪ありとされる。と訳しています。
原語を調べると上記のいずれのようにも訳すことができることが分かります。

 3aには、“人は悪で身を堅く立てることはできない。”(2017)と訳し、
新共同訳は、神に逆らえば、固く立つことはできない。と訳しています。
神に逆らうことは、人の悪の根幹です。その人は神の御前に心安く立つことは出来ません。

 5bには、“悪しき者の助言は欺瞞。”(2017)とあります。
新改訳第三版は、悪者の指導には欺きがある。と訳し、
新共同訳は、神に逆らう者の指図は、裏切り。と訳し、
口語訳は、悪しき者の計ることは偽りである。と訳し、
リビングバイブルは、悪人はうそと偽りでこり固まっています。と訳しています。
原語を調べると上記のいずれのようにも訳すことができることが分かります。

 6aには、“悪しき者のことばは血に飢え、”(2017)とあります。
聖書協会共同訳は、悪しき者の言葉は人の血を流そうとうかがう。と訳し、
新共同訳は、神に逆らう者の言葉は待ち伏せて流血を犯す。と訳しています。
「言葉」と訳されている語のヘブライ語原語は「ダーバール」で、原義は、言葉、ですが、行為、活動、・・・・・・等々の意もあります。
口では、正しいかのような言葉を発しても、行為、行動を見ると明らかになる場合が多々あると思います。イエス様は、その人の実を見なさい、と語られました。

 7aには、“悪しき者は打ち倒されて、いなくなる。”(2017)とあります。
この聖句のようなことは、地上においては、ノアの時代に、このことが起こりました。
また、キリストの地上再臨と、それに続く羊グループと山羊グループとを分ける裁きの時にもおこります(黙示録1911-21、マタイ2531-46)。更にキリストの千年王国時代の最後にも起こります(黙示録207-10)。また、今の宇宙が崩壊した後に最後の審判が行われます(黙示録2011-15)。
その後に、新天新地を神様が創造なさるのです。
キリスト者は、御父及び御子と共に聖なる都である新エルサレムにとこしえに住むのです。

 10bには、“悪しき者は、そのあわれみさえ残忍である。”とあります。
新共同訳は、神に逆らう者は同情すら残酷だ。と訳し、
リビングバイブルは、しかし神を恐れない人は、うわべは親切そうでも思いやりがありません。と訳しています。
命だけは助けてやる、などと言って、厳しい強制労働や屈辱的な性奴隷の仕事が待っている場合もあります。

 12aには、“悪しき者は悪人たちの分捕り物を欲しがる”(2017)とあります。
聖書協会共同訳は、悪しき者は邪悪な利益を欲しがる。と訳し、
リビングバイブルは、曲がった者は仲間の分け前まで欲しがりと訳しています。

 20aには、“悪を企む者の心には欺きがあり”(2017)とあります。
聖書協会共同訳は、悪を耕す者の心には欺きがある。と訳し、
フランシスコ会訳は、悪を企む者の心には苦みがある。と訳し、
リビングバイブルは、悪いことをたくらむ者は、人をだますことで頭がいっぱいです。と訳しています。

 21bには、“悪者はわざわいで満たされる。”(2017)とあります。
新共同訳は、神に逆らう者は災いで満たされる。と訳し、
リビングバイブルは、悪者には苦しみがつきまといます。と訳しています。
神に従わない者も、良心が機能している間は、地上において「苦しみがつきまといます」ということがあるでしょうが、良心が麻痺してしまった悪しき者の中には、邪悪なことをことさら喜びとしている者もいるのではないでしょうか。
しかし悪者は、最後の審判の時には、火の池に放り込まれるのです(黙示録2011-15)から、この聖句は成就します。

 22aには、“偽りの唇は主に忌み嫌われ”(2017)とあります。
新共同訳は、うそをつく唇を主はいとわれる。と訳しています。

 26bには、“悪者の道は彼らを迷わせる。”(2017)とあります。
新共同訳は、神に逆らう者の道は人を迷わす。と訳し、
聖書協会共同訳は、悪しき者の道は人を惑わす。と訳し、
口語訳は、悪しき者は自ら道に迷う。と訳しています。

 イエス様は悪魔(サタン)について「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ844・新共同訳)と語られました。
更に使徒ヨハネは次のような聖句を記しています。
「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」(1ヨハネ5192017)とあります。
私たちキリスト者も第一の誕生の時には、悪魔(サタン)の支配下ににあったのです。
しかし、第二の誕生(霊において)の時に、神の子どもとして新生(再生)したのです。

 エペソ2章には次のように記されています。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔{サタン}(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊〔サタンの支配下にある悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神の怒り(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。
4
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背き〔神に対する背き(筆者挿入)〕の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ〔肉体が霊体によみがえらされるのはキリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕、ともに天上に座らせてくださいました。〔神は、このことを必ずなさるので、完了したものとして、見ておられます。ローマ831の最後の部分も同じことが言えると思います。但し、新生し、主と一つとされた霊にあってはある意味成就しています。(筆者挿入)〕
7
それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
8
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物〔ギフト(筆者挿入)〕です。9 行い〔人が良いと思える善行(筆者挿入)〕によるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。2017)とあります。

 箴言12章の最後は、悪しき人ではなく、義人でしめられています。
28
節には、正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない。2017)とあります。
リビングバイブルは、神を信じる人はいのちの道を歩いているので、死を恐れることがありません。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたのお恵みを感謝します。
あなたを愛し、あなたに従って歩み続けることができますようお導きください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月24日 (日)

恵みによる生活

 詩篇235.6を、
 2017
訳は、
“5
私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
6
まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の家に住まいます。と訳し、
 新共同訳は、
“5
わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。
6
命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。と訳し、
 聖書協会共同訳は、
“5
 私を苦しめる者の前で、あなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ、私の杯を満たされる。
6
 命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう、日の続くかぎり。と訳しています。

 5節について、Bible navi は、古代の近東文化では、食事の際に人に香油を注ぐことが習慣であった。主人は、どんな犠牲を払っても客を守るべきだとされていた。と述べています。

 5節の、「私の敵をよそに」(2017)、「私を苦しめる者の前で」(聖書協会共同訳)、「わたしを苦しめる者を前にしても」(新共同訳)という箇所の「敵」、「苦しめる者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァーラル」で、原義は、激しい腹痛、けいれん、・・等の意で、敵、極度の不安、苦悩、・・・・等々の意もあります。

 5節の、「杯」と訳されている語のヘブライ語原語は「コース」で、カップ、杯、・・等の意があります。

 5節の、“わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。”(新共同訳)という聖句を、キリスト者として、霊的に解釈させていただくと、「わたしを苦しめる者」、すなわち悪魔(サタン)、悪霊、貧困、重い病気、・・等を前にしても、主は霊的食卓を整えてくださる、すなわち、神のことばを備えてくださる。神のことばは霊の食物です。そして、私の頭に聖霊を注ぎ、私の杯、すなわち、私の入れ物{(私という本体は霊であり、入れ物は体です)2ペテロ1142テモテ26b}を溢れさせてくださる。
と、捉えることもできるのではないでしょうか。

 大変な時ほど、主は、聖霊を満たしてくださる、というような経験をした兄姉は多いのではないかと思います。

 6節には、“まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の家に住まいます。”(2017)とあります。

 「私のいのちの日の限り」と訳されている箇所は、「私の命の日のすべて」とも訳せます。
キリスト者の霊の命は永遠です。
イエス様が、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と語られたように。

 ですから、キリスト者は永遠に主の恵みと慈しみを受けるのです。

 6節後半部分には、私はいつまでも、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の家に住まいます。”とあります。
地上にあって、私たちキリスト者は、主キリスト・イエス様の内にあります。
1
コリント130に、・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。・・・。2017)と記されているように。
そして、天に召された後には、御父の家に住むのです。
ヨハネ142.3に、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(2017)とイエス様が言われたように。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
何が起ころうとも、あなたの恵みと慈しみの中に生かされ、とこしえにあなたと共におられる幸いを感謝します。
三一の神の御名をほめたたえ、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月23日 (土)

ヨセフが兄たちを罪責感から解放する/イエス・キリストの贖いによる完全な赦し

 創世記5015-21には次のように記されています。
“15
ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。
16
そこで、彼らはヨセフに言い送った。
「あなたの父は死ぬ前に命じられました。17 『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」
ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
18
彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。
「ご覧ください。私たちはあなたの奴隷です。」
19
ヨセフは言った。
「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。20 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」
このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。2017)とあります。

 ヨセフの兄たちは、罪責感を持ち続け、ヨセフの復讐を恐れていたことが分かります。
それは、ヨセフの兄たちがエジプトに下った時に、スパイという濡れ衣を着せられてヨセフに牢に入れられたということも関係したでしょう。
 創世記42章には次のように記されていました。
“6
ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
7
ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
8
ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
9
かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
10
彼らは言った。「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。
11
私たちはみな、一人の人の子です。私たちは正直者です。しもべどもは回し者などではございません。」
12
ヨセフは彼らに言った。「いや、おまえたちは、この国の隙をうかがいにやって来たのだ。」
13
彼らは言った。「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」14 ヨセフは彼らに言った。「私が、おまえたちは回し者〔スパイ(筆者挿入)〕だと言ったのは、そのことだ〔お前たちは回し者だと私が言ったとおりだ(聖書協会共同訳)〕。
〔ヨセフを殺そうとし、殺しはしなかったものの、ヨセフを奴隷として売り飛ばした兄たちは、正直者ではない、というヨセフの見解でしょう{創世記37章参照}(筆者挿入)〕
15
次のことで、おまえたちを試そう。ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちの末の弟がここに来ないかぎり、おまえたちは決してここから出ることはできない。
16
おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。もし誠実でなかったら、ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちは間違いなく回し者だ。」
17
こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた。
18
ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから。
19
もし、おまえたちが正直者なら、おまえたちの兄弟の一人を監獄に監禁したままにせよ。自分たちは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。
20
そして、末の弟を私のところに連れて来るがよい。そうすれば、おまえたちのことばが本当だということが分かり、おまえたちが死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。
21
彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」
22
ルベンが言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのに、おまえたちは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けているのだ。」2017)とあります。

 ヨセフは、既に兄たちに次のように語っていました。
創世記45章には次のように記されています。
“3
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
4
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
5
私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました
6
というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。
7
神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです
8
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
9
どうか、急いで父上のところに上って行き、言ってください。『息子のヨセフがこう言いました。「神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。
10
ゴシェンの地に住んで、私の近くにいてください。父上も、子と孫、羊と牛、また父上に属するすべてのものも。
11
飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう」と。』
12
さあ、あなたがたも、弟のベニヤミンも、自分の目でしっかり見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
13
あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉と、あなたがたが見た一切のことを父上に告げ、急いで父上をここに連れて来てください。」
14
彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
15
彼〔ヨセフ(筆者挿入)〕はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った2017)とあります。

 ヨセフは兄たちをすでに赦していたのです。
しかしヨセフの兄たちは、罪責感を持ち続け、復讐を恐れていたのです。
創世記5015に、ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。とありますから。

 ここからはキリスト者の話に移ります。
主に罪を告白し、救い主イエス様を信じて救われても、罪責感から解放されない人たちがいます。あるいはおりにふれて罪責にさいなまされる人たちがいます。
意訳ですが、リビングバイブルには、次のような聖句が記されています。
“14
神の定めに違反したことが記されているあなたがたに不利な証書を、塗りつぶしてしまわれたからです。この罪の証書は、キリストの十字架と共に釘づけにされて無効となったのです。15 こうして神は、罪を犯したあなたがたを責め立てるサタンの力をくじかれました。そして、十字架上でのキリストの勝利を、公然と示されたのです。この十字架によって、罪はすべて取り除かれました。(コロサイ2章)

 コロサイ214.15に書かれていることを予表している箇所がレビ記16章にあります。
全部を読むべきですが、重要な箇所だけを抜粋して下記します。
“5
彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。/
7
雄やぎ二匹を取り、それを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前、会見の天幕の入り口に立たせ、8 雄やぎ二匹のためにアロンがくじを引く。一つのくじは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のため、一つのくじはアザゼルのためである。
9
アロンは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のためのくじに当たった雄やぎを連れて来て、それを罪のきよめのささげ物とする。
10
アザゼルのためのくじに当たった雄やぎは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に生きたままで立たせる。これは、それの上で宥めを行い、荒野のアザゼルのもとへ追いやるためである。
21
アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる
22
雄やぎは彼らのすべての咎を負って、不毛の地へ行く。その人は雄やぎを荒野に追いやる。
23
アロンは会見の天幕に戻り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱いで、そこに残しておき、24 聖なる所でからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のささげ物と民の全焼のささげ物を献げ、自分のため、民のために宥めを行う
25
罪のきよめのささげ物の脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にする。
26
アザゼルの雄やぎを追いやった者は衣服を洗い、からだに水を浴びる。その後で、宿営に入ることができる。
27
罪のきよめのささげ物の雄牛と、罪のきよめのささげ物の雄やぎで、その血が宥めのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に運び出し、皮と肉と汚物を火で焼く。
28
これを焼く者は自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。その後で、宿営に入ることができる。2017)とあります。

 2匹の雄やぎが用意され、1匹は、罪のためのいけにえとして、もう1匹は、罪を負って荒野に放たれ、消えていなくなったのです。
これは旧約の絵ですが、イザヤは、“わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない”(イザヤ43252017)というヤハウェ(主)の御言葉を記しています。

 レビ記16章の2匹の雄やぎの実体であるイエス・キリスト様は、一人で両方のことを成就したのです。
主の御救いを信じる者は罪責感からも救われるのです。
主ご自身が、「わたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(2017)と語られているのですから。
それは、イエス・キリスト様の十字架上の贖いがあったからです。

 ヨハネ168.9には次のように記されています。
8 その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(2017)とあります。
ここの「信じる」は現在形です。
「私を信じる」と訳されているギリシア語聖書の箇所を直訳すると、私の中へと信じる(believe into me)となります。
「私」という存在は、常に、現在、現在、現在に存在しているのです。
イエス様を信じ、信じ続けている私、
イエス様の御言葉を信じ、信じ続けている私、
イエス様の御功績を信じ、信じ続けている私、
常に、イエス様の中に入り込んでイエス様と共にある私、とも言えると思います。
イエス・キリスト信仰とはその実体をいうのではないかと思います。
ヘブル111KJV訳は、・・faith is the substance・・・・・。と訳されています。
1
コリント130には、・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります〔・・you are in Christ JesusNKJV)。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
常にあなたにあってあなたを信じ続ける歩みをさせていただきたく願いますので、そのように祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月22日 (金)

さばいてはいけません

 マタイ71-5の聖句について、
 2017
には次のように記されています。
“1
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
2
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
3
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁(はり)には、なぜ気がつかないのですか。〔「梁」と訳されている語のギリシア原語は「ドコス」で、木の枝、梁等の意があります(筆者挿入)〕
4
兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
5
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。とあります。

 リビングバイブル訳には次のように記されています。
“1
人のあら探しをしてはいけません。自分もそうされないためです。
2
なぜなら、あなたがたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです。
3
自分の目に大きなごみを入れたままで、どうして人の目にある、ちいさなちりを気にするのですか。
4
大きなごみが目をふさいで、自分がよく見えないというのに、どうして、『目にごみが入っている。取ってあげよう』などと言うのですか。
5
偽善者よ。まず自分の目から大きなごみを取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、人を助けることができます。と意訳してあります。

 1節の「さばく」、「あらさがしする」と訳されている語のギリシア原語は「クリノー」で、原義は、分ける、区別する、識別する等で、非難する、糾弾する、とがめる、罪or落ち度があることを示す、裁く、罰する、懲らしめる、・・・等の意にも用います。

 私たち人間は、キリストの御救いにあずかっただけではなく、神様の御性質にあずからせていただかなければ、誰でもこの「人を裁く」、「人のあら捜しをする」という罪を犯すのだろうと思いますし、イエス様に教えて頂かなければ、主が嫌われることをしていても良いことだと思って行ってしまう場合さえあると思います。

 聖書は、やみくもに「裁いてはいけない」と言っているのではありません。
1コリント61-3には、
“6:1
あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
6:2
それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
6:3
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。(口語訳)と記されています。

 ウェスレアン聖書注解は、人のあらさがしをする精神は、真の宗教の否定である。これは、パリサイ人の最悪の欠点の一つであった。したがってイエスは、その弟子たちに、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(1)と警告された。これを使いなれた意味の表現になおすと「批判的になるな。さもないとあなたが批判される」ということになる。もっと自由に訳せば「他人を非難するな。さもないとあなた自身が非難される」となる。と記しています。

 裁くのではなく、忠告するときにも、忠告者が上に立ってしまうのではなく、「愛をもって真理を語り」とエペソ415にあるように、愛に満たされて忠告できるように整えられないと、また、そのような言い回しが出来るようにならないと、トラブルを発生してしまうことが多いのではないかと思います。

 他人の内に、「ちり」を発見したとき、そのことの故に、悲しみ、同情と憐れみの思いをもって心底から助けてあげたいという思いを持ち、愛に満たされ、時間をかけてそこから脱出させてあげる人もいます。

 ガラテヤ61.2には、“1 兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人〔この箇所の「霊」の原語は複数形なので、御霊に導かれている霊の人、の意ではないかと思います(筆者挿入)〕であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。2017)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私は、自分の罪にも気づかず、人に忠告してしまうことがあります。
今までどれほど多くの人を傷つけてきたことでしょうか。
お赦しください。
私に傷つけられたままの人がおりましたら、回復させてくださり、祝福してあげてください。
愛に満たされ、その愛が相手に届くような表現をすることもできるようになって真理を語ることが出来るようにさせていただけますように。
まずは、私の口のことば、心の思いをきよめてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“19:12
だれが自分のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。
19:13
あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。
19:14
私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19篇・新改訳2017

2022年4月21日 (木)

正しい人の根は揺るがない

 箴言12:1-3には次のように記されています。
“1 訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者は間抜け者。
2 善人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。
3 人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。”(2017)とあります。

 1節の「訓戒」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ムーサール」で、原義は、「懲らしめ」で、叱責、小言、忠告、教訓、戒め、命令、指示、教育、規律、訓練、鍛錬、・・・等の意にも用いられます。

 1節の前半部分を、
新共同訳と聖書協会共同訳は、諭しを愛する人は知識を愛する。と訳し、
フランシスコ会訳は、教えを愛する人は知識を愛すると訳し、
口語訳は、戒めを愛する人は知識を愛すると訳しています。

 リビングバイブル訳は、人の言うことを聞く気がある人は、知識を得ることができます。と訳しています。

 ソロモンがリビングバイブル訳のような思いをもって書いたのかどうかは分かりませんが、聖書に記載されていることを鑑みると、神様からの、教え、訓戒、諭し、等と考えるのが妥当ではないかと私は思います。
KJV
訳は、命令、指示の意で訳し、NIV訳は、規律、訓練、法規の意で訳しています。
確かに、神様からのご命令や、指示、法規、規律、訓練等を聖書から学ぶと、神様がどの様なお方であるのか、という観点からの神知識を増やすことになると思います。

 1節後半部分を2017は、叱責を憎む者は間抜け者。と訳しています。
「叱責」と訳された語のヘブライ語原語は、「トーカハト」という語で、懲らしめ、せっかん、矯正、叱責、小言、等の意に用いられます。
「トーカハト」を新改訳は「叱責」、新共同訳・聖書協会共同訳・口語訳・フランシスコ会訳は、「懲らしめ」と訳しています。
「間抜け者」と訳されている語のヘブライ語原語は、「バーアル」で、焚きつける、(人が理性を欠いて)獣のような、野蛮な、愚かである、馬鹿げている、・・等の意に用いられます。
「バーアル」を、新改訳は「間抜け者」、新共同訳は「愚かだ」、聖書協会共同訳は「愚かしい」、フランシスコ会訳は「ばか者である」、文語訳は「畜(けもの)のごとし」と訳しています。

 現代人の中には、聖書の教えは古い、という人たちもいますが、主の教えを蔑(ないがし)ろにする者を、主は、けものの如し、とご覧になっているようです。

 2節には、“善人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただき、悪を企む者は不義に定められる。”とあります。
「恵み」と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーツォーン」で、喜び、親切な行為、利益、・・等の意があります。

 前半部分を、新共同訳は、善人は主に喜び迎えられると訳し、聖書協会共同訳は善良な人は主に喜ばれる。と訳しています。

 リビングバイブル訳は、神様は正しい人を祝福し、悪人を罰します。と訳しています。

 日本の多くの人は、善良な人、正しい人というときに、対人的な観点からのみで考えるのではないかと思います。
しかし、天地万物を造られた創造者であられる神様は、対神的に正しくないと、正しい人とは決して言いません。
テレビの番組を見ていても、創造主を度外視して、人は、この様に進化してきた、等と当たり前のように言います。
よく考えてみると、それは、創造主であられる神様をひどく馬鹿にした話であり、甚だしく無礼なことです。
キリスト・イエス様を様々な宗教の教祖や神々と同列に置いたり、低くみたりすることも甚だしく無礼なことです。

 2節の後半には、「悪人を罰します」(リビングバイブル訳)とあります。
創造主であられるまことの神を、神として崇めない人、救い主・主としてイエス様を信じない人は、すべて罰せられるのですから、その人たちは、対人的に人々から善人と言われていたとしても、神様の御目には悪人なのです。

 世の裁き主は、エンマ大王ではなくキリスト・イエス様です。
ヨハネ522.27には、「22 ・・父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。27 ・・父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。」(2017)とあり、
この箇所をリビングバイブル訳は、「22父は、罪のさばきをいっさい子に任せておられます。27 ・・全人類の罪をさばく権威も下さいました。それもみな、子がメシヤ(救い主)だからです。」と記しています。
主イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことば〔御子の言葉は御父から聞いた言葉です(筆者挿入)〕を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5242017)とも言われました。

 イエス様の弟子の中には、御父の声を聴いた人達もいました。
マタイ171-6には次のように記されています。
“1
それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2
すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3
そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4
そこでペテロがイエスに言った。
「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6
弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。2017)とあります。

 3節には、人は悪で身を堅く立てることはできない。正しい人の根は揺るがない。”(2017)とあります。

 主を信じて、正しい人(義人)とされた人であっても、主に信頼し続けて歩まないと揺らいでしますことがあります。しかし、揺らぐのは木の幹や枝や葉のようなものであって、主キリスト・イエス様という土台に根を張った人の根は揺らぎません。主に根を張った人は、主の教えに従う人です。
 イエス様は、山上の説教の最後の部分で次のように語られました。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ724-27・新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがあなたにあって正しく歩むことが出来るようにと、御言葉を与えてくださっておられますことを感謝します。
あなたに信頼して、御言葉に従って歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月20日 (水)

死に怯えないどころか天を待ち望むことの出来るキリスト者

 詩篇234を、
 新改訳2017は、たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。と訳し、
 フランシスコ会訳は、わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、あなたがともにおられるから。
あなたの杖、あなたの牧杖こそ、わたしを安心させる。と訳し、
 新共同訳は、死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。と訳し、
 リビングバイブル訳は、たとえ、死の暗い谷間を通ることがあっても、私は恐れません。主がすぐそばにいて、私の行く道をいつも守ってくださるからです。と意訳しています。

 「あなたのむちとあなたの杖」(新改訳)、「あなたの鞭、あなたの杖」(新共同訳)、「あなたの鞭と杖」(聖書協会共同訳)、「あなたのむちと、あなたのつえ」(口語訳)等の訳に対して、
フランシスコ会訳は、「あなたの杖、あなたの牧杖」と訳しています。

 この箇所のヘブライ語聖書は、「シェベトハー ヴェミシェネットハー」とあります。
二つの単語の最後の「ハー」は、接尾辞としてつけられた「あなたの」の意です。
「ヴェ」は、接続詞で、and の意です。
「シェベト」は、木の枝を切り離したもの、の意で、杖、こん棒、王笏、・・等の意に使われます。
「ミシェネット」は、ミシェネンという語の女性名詞で、ミシェネンは、サポート即ち支える、支援する、扶養する等の意であり、更に、プロテクター即ち防御物の意にも使われます。

 話を変えますが、ダビデは、サウルに次のように語っています。
「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。」(1サムエル1734-36抜粋・2017)と記されています。
ダビデが、この時に用いたのは、「シェベト」即ちこん棒でしょう。
「シェベト」は、敵に対するものです。

 「ミシェネット」をフランシスコ会訳は、「牧杖」と訳しています。
羊飼いが描かれている絵に、棒の先がクエスチョンマーク(?)の下の・が無いような形のものを見たことがある人もいるでしょう。牧杖というのは、先端がそのように湾曲している杖のようです。こちらは、こん棒よりも長いです。先の湾曲しているところを、おそらく子羊の首に当てて危険な場所から引っ張り出すためではないかと思います。私は当時の羊飼いを見たわけではないので、想像して書いているだけですが。

 ダビデは、「それが私の慰めです。」or「わたしを安心させる。」と続く箇所で言っているわけですから。
羊飼いの言葉や合図のみでは羊飼いに従わない羊にたいしては、羊飼いは、牧杖の真っ直ぐな方で、おしりをたたくこともあったでしょうが。それは、自分勝手な道に行ってしまうのを矯正するためですから、羊としては、やはり安心できます。

 キリスト者にあてはめて考えてみます。
フランシスコ会訳には、わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、あなたがともにおられるから。
あなたの杖、あなたの牧杖こそ、わたしを安心させる。とあります。

 イエス様の杖(王笏)は天地の主権者の王笏です。
キリスト者の敵は、悪魔の軍勢です。
ヤコブ47には、「・・、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(2017)と記され、
「栄の王にます主の」という聖歌の歌詞の中に、「愛もて主に結びつき、御言葉に堅く立ちて、悪魔に向かえば常に、勝ち得て余りあり」というものがあります。
キリスト・イエス様は、「天においても地においても、すべての権威が与えられている」お方です(マタイ28182017)。

 死の影の谷を歩む時でさえ、主イエス様が共におられるので、恐れなくてよいのです。
私は、イエス様を信じさせて頂ける以前にも、死の影を通ったことがあり、イエス様を信じさせて頂いた後にも死の影を通りました。
しかし、主の摂理により、未だ地上に置かれています。
実は、今も日々死の影を通っています。
しかし、そのことはとても安らげることです。
主に命を預けるしかないのですから。
これは地上の肉体の命のことを言っています。

 霊の命については、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)という主の御言葉が私の上に成就していますから。
あとは霊の体を与えられる時を待つのみです。
霊の体は美しく、かつ原爆や水爆も霊の体には何の影響をも与えることが出来ず、病気にもなりません。
主の現れの時、すなわち主の空中再臨の時にそれが起こります。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちは、キリスト・イエス様の羊です。
私たち羊は、御父が主イエス様に与えた羊です。
主イエス様は、天地の主ですが、御父はだれにもまさって偉大です。
主の羊とされておりますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・
<お祈りの参考箇所>
ヨハネ102-4.14、ヨハネ177、ヨハネ1029(文語訳、塚本訳、新改訳初版~第三版、前田訳)

2022年4月19日 (火)

ヨセフをはじめ、ヤコブ一家にみる主の摂理

 ヨセフは、ヨセフにもたらされたすべての出来事の中に主の摂理を見ることができるようになっていました。
{摂理とは,万物の創造者である神の間断なき主権的活動のことであって,神は造られたすべてのものに対するいつくしみのゆえに(詩篇1459)、全被造物を保持し(ヘブル13)、すべての出来事,状況,人間と御使いの行動を統治,支配し(参照:創世記455-8)、自然界、道徳界、精神界のすべてのことを御自身の目的達成のために導きかつ用いられること(エペソ1912)を意味する。(聖書辞典)}

 創世記451-8には次のように記されています。
“1
ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。
ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
2
ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
3
ヨセフは兄弟たちに言った。
「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」
兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
4
ヨセフは兄弟たちに言った。
「どうか私に近寄ってください。」
彼らが近寄ると、ヨセフは言った。
「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。5 私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました
6
というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。7 神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです8 ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました2017)とあります。

 ヨセフは、ヤハウェ(主)から夢を見させられ(創世記376-11)、異母兄弟たちに殺されそうになり(創世記3718-20)、かろうじて殺されることなくエジプトに奴隷として売られ(創世記3721-28,36)、更には冤罪により監獄に入れられ(創世記397-20)たのです。
その監獄に、献酌官長と料理官長が入れられてきました。そして、この二人もおそらくヤハウェ(主)からの夢を見たのでしょう。ヨセフはその夢を解き明かしました(創世記40章)。それから二年の後、ファラオがヤハウェ(主)からの夢を見ましたが、誰もその意味を解き明かすことの出来る人はいませんでした。その時、献酌官長は、ヨセフが自分と料理官長の夢を解き明かしたことを思い出したのです。それで、献酌官長は、ファラオにヨセフの話をしました。その結果、ヨセフは監獄を出され、その夢の解き明かしをすることになり、夢の解き明かしと共に対処法迄をファラオに述べたのです。それに感服したファラオは、ヨセフを宰相にしました。

 ヤハウェ(主)は、人が犯す罪をも見通し、ご自身のご計画を遂行させていかれたことをヨセフは悟ったのです。
ヤハウェ(主)なる神は罪を犯さないお方です。しかし、人が犯す罪を敢えて事前にすべて抑え込むわけではなく、それをも用いてより良きことを為されるのです。

 「如何なる折にも、愛なる神は、すべての事をば、善きにし給(たま)わん。」と笹尾牧師は聖歌に残しましたが、まさしく、ローマ828に、神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・・。(口語訳)とパウロが述べたことを、三千数百年前のヨセフは体験していたのです。

 ヨセフが見た夢(創世記375-9)には興味深い点があります。
創世記375-9には次のように記されています。
“5
さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6
ヨセフは彼らに言った。
「私が見たこの夢について聞いてください。7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
8
兄たちは彼に言った。
「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」
彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
9
再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。
彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。2017)とあります。
 おそらく最初の夢は、「麦の束」であって、地のものです。肉は地に属します(ヤコブ315)。
次の夢は、天のものであり、地に属していません。
最初の夢の時の出来事は、創世記423-6の出来事で成就しています。
創世記426には、“ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼〔ヨセフ(筆者挿入)〕を伏し拝んだ。”(2017)と記されています。

 その後、ヨセフの兄弟たちは、悔い改めるのです。
創世記4221には、彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」2017)と記されています。
 更に、ユダの次の言葉は、主に変えられているユダを見ます。
「ですから、どうか今、このしもべ〔ユダ(筆者挿入)〕を、あの子〔ベニヤミン(筆者挿入)〕の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(創世記44332017)と記されています。

 主のみ前に悔い改めた魂は、天のものとされているのです。
ヤコブ(イスラエル)はヤボクの渡しのところでそれを体験しました(創世記3224-32)。

 私たちキリスト者も、一人一人が、主の摂理のもと、導かれてきたことを思い浮かべることができるのではないでしょうか。

<お祈り>
常に最善のことをなさってくださる天のお父様、あなたの御名をあがめて賛美します。
わたし自身を振り返っても、大いなる主の恵みを覚えます。
あなたの御手に自分自身を委ねて浮世の旅路を歩める幸いを感謝します。
イエス様の現れの時を待ち望みつつ、三一の神様に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月18日 (月)

主に仕え、主に信頼する人の幸い

 マタイ624-34には次のように記されています。
“24
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
25
ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのち〔原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕のことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだ〔原語は「ソーマ」でbody(筆者挿入)〕のことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
26
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28
なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30
今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
32
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。2017)とあります。

 24節には、「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」とあります。

 「富」(2017)と訳されている語を岩波訳と前田訳は「マモン」と記しています。Strong辞書によると、強欲、貪欲の意もあるとのことです。
ギリシア語では「マムモン(マンモン)」となります。マンモンを中世では、悪魔と見なしていたようです。実際、悪魔(サタン)は、人を強欲、貪欲の思いに引き込んだり、富を得たいという思いを持っている人につけ込んで、その思いを増強させます。

 この箇所で大切なのは、誰をor何を、「主」としているのか?ということです。
「主人」と訳されている語のギリシア原語は「キュリオス」で、その意味は、(権力における)最高位の、の意で、神、主、主人等の意にも用いられます。主イエスという「主」のギリシア語は「キュリオス」です。

 現代は、お金で様々な必要な物を得ていきます。ですからお金は必要です。しかし、お金を主人として入る人は、イエス様を主とすることは出来ません。

 その逆に、まことの神を第一とし、神の約束に信頼している人は、神がその人に必要な物を与えてくださるのです。
天にあるものも地にあるものも一切は神の所有物なのですから。
申命記1014には、天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。2017)と記されています。
神の子どもは、御父から必要な物を頂けば良いのです。
自分が必要なものだと思っているのに、それを御父がくださらないときには、本当に必要なのかどうか、また、自分が主なる神を第一としているかどうかを考えてみたら良いのではないかと思います。

 何しろイエス様ご自身が、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と断言されているのですから。
「神の国」と訳されている語のギリシア語の箇所を直訳すると、「神の王国」or「神の支配」の意になります。
「義」と訳されている語のギリシア語原語は「ディカイオスネー」で、公平、公正、高潔、正義、・・等の意があります。
幸いなことにキリスト者は、神の御性質にあずかる者になるのです(2ペテロ14)。

 27節には、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」とあります。
「いのち」と訳されている語のギリシア原語は「ヘーリカ」で、(年齢や身長における)成熟、完成、・・等の意があります。
日本語訳聖書によっては、「いのち」の箇所を「身長」の意で訳しているものもあります。
「少しでも」と訳されている語のギリシア原語を直訳すると「1ペーキュス」なので、約45cmということになります。文語訳は、「身の長(たけ)一尺」と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつもあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたの御旨の内を歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月17日 (日)

命の木の実を食べる人は永遠の命を持つ

 ハレルヤ!
  イースター
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。”(1ペテロ1:3.4・2017)


 箴言1130には、“正しい人の結ぶ実はいのちの木。知恵のある者は人の心をとらえる。”(2017)と記されています。

 前半部分をヘブライ語聖書は、“ペリー(果実、果物) ツァディーク(正しい) エッツ(木) ハイ(生きている、いのちの)”と記しています。
「ツァディーク」を正しい人と訳していますが、Strong辞書は、正しい(人)としています。
それ故、敢えて、ここでは、「正しい御方の結ぶ実はいのちの木」と訳させてもらいます。

 後半部分をヘブライ語聖書は、ラカー(取る、捕える) ネフェシュ(魂、人、心、生き物) ハーカーム(賢い、思慮深い)とあります。
「ラカー」には接頭接続詞の「ヴェ」(=and、他)がついています。
また「ハーカーム」は、賢い(人)、知恵のある(人)の意があります。
( )内をお方に変えますと、「知恵のあるお方は人の心or魂を捕らえる。」と訳せます。

 地上に現れた人で、罪を犯さなかった人はイエス様だけでした。
イエス様は、イエス様を信じる人、すなわちイエス様を心に受け入れる人には、永遠のいのちを与えたのです。
「イエスは我が命」という聖歌があります。
その冒頭の歌詞は、「イエスはわが命、また喜び。すべてのすべてぞ、我にとりて・・・」とありますが、まさしくイエス様は命そのものであり、使徒ヨハネは、イエス様について「永遠のいのち」&「いのちの言葉」と表現しています(1ヨハネ11.22017)。

 ヨハネ521には、「父〔父なる神(筆者挿入)〕が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(2017)とあり、
 ヨハネ524には、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(2017)とあり、
 ヨハネ640には、「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(2017)とあり、
 ヨハネ654には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者〔すなわち「イエス様ご自身を受け入れる者」(筆者挿入)〕は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(2017)とあり、
 ヨハネ663には、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(聖書協会共同訳)とあり、
 1コリント1545には、聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダム〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となりました。(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様が結んだ実は、十字架と復活をとおして人に永遠のいのちを与える実であったのです。
「そして知恵のあるお方は人の心or魂を捕らえる。」とありますが、イエス様は次から次へと滅びゆく魂を捕えたのです。

 アンデレに対しては、自分のところに来させたのです(ヨハネ135-41)。
ペテロに対しては、アンデレとは異なる方法で捕らえました(ヨハネ141.42)。
ピリポに対しては、「私に従って来なさい」と言われました(ヨハネ143)。
ナタナエルに対しては、上記の三人とはまた異なる方法で捕らえました(ヨハネ145-51)。
サマリアの女に対しては、「生ける水」、及びこの女性の素性を言い当てる、という話から、捕えました(ヨハネ47-29)。
ザアカイに対しては、ザアカイの心を捕らえる方法で捕らえました(ルカ191-10)。

そして私に対しては、私に対する方法で救ってくださいました。
イエス・キリスト様を信じれば救われるのですが、救いへと導こうとしている人を救いに至らせる過程は様々で、その人その人に応じてイエス様は対処されたのです。
一人一人のキリスト者の証しは、イエス様が一人一人をどのように導き、救いへと至らせたかの証しでもあると思います。

<お祈り>
天のお父様。  
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、一瞬にして、相手の人の求めや必要を、見出すことが出来ました。そして、そのことに焦点を当てつつイエス様ご自身を提供していきました。
私たちは、イエス様と同じようにはいきませんが、イエス様の行い方を参考にさせていただいて、イエス様を伝えて行くことができますように。
願わくは、内におられるイエス様が、私たちの内から輝き出てくださり、私たちそれぞれに与えられた伝道対象者の方に、その方にあった方法で、イエス様を提供させて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月16日 (土)

主は神の子どもを養い、魂を生き生きとさせ、神の子どもとしてふさわしい者へと整えてくださるお方

 詩篇231-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。2017)とあります。

 主を羊飼いに喩え、主の民、主の者(新約的にはキリスト者)を羊に喩えています。
羊が、甚だしく自分勝手で、羊飼いに従わずに、好きな所へ行っていたら、1-3節の御言葉は、その羊の上に成就しません。

 主に従わずに、私は欠乏している、この詩篇23篇は間違っている、とは言えないのです。
この詩に出てくる羊は、主に従っている羊なので、主が導く緑の牧場、いこいのみぎわに行き、幸いを享受することができているのです。

 ダビデは詩篇23篇では上記のような内容を記していますが、ダビデが姦淫と殺人教唆の罪を犯したときには、ダビデは、憩う(いこう)ことが出来ませんでした。
その時の状態をダビデは次のように語っています。
3 私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。4 昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききったからです。」(詩篇32篇・2017)と。

 3節の、「骨は疲れきり」という表現を、現代的な言い方に変えると、「体の芯から疲れ切り」or「体がだるくてたまらない」ということになります。
ダビデの場合は、強い肉体を持っていましたから、これは罪の故にメンタルから来るものによってこの様になったのです。
「骨」と訳されているヘブライ語原語は「エツェム」で、本義は「骨」ですが、体とも訳されます。

 主は、3節にあるように、私たちを、義の道に導かれるお方です。
ですから、私たちのたましいを生き生きとさせるために、罪を取り除こうとするのです。

 ダビデは、罪を告白したら疲れ、だるさから解放されたのです。
ダビデは、詩篇325に次のように記しています。
私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きを主に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。2017)とあります。

 私たちキリスト者にも次のような約束が与えられています。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ192017)と記されています。

 この聖句が有効なのは、既にイエス・キリスト様の十字架と復活があったからです。
ペテロは、1ペテロ2章に次のように記しています。
“22
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
23
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
24
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
25
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。(新共同訳)とあります。

 魂が聖くされる、すなわち主の御旨の内を歩むことができれば、キリスト者の最低限の保証は、魂、霊の分野においてですが、「主〔ヤハウェ。新約では「キリスト・イエス」(筆者挿入)〕は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。」ということになるでしょう。

 エペソ13に、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されているのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主は、私たちを常に愛してくださり、愛をもって義の道に導こうとされていますからありがとうございます。
主の愛に応えて、いつも主を愛し、主に従うことを主は喜ばれると共に、主は、私たちの必要を、そして必要以上の恵みを与えてくださいますから、御名をあがめて感謝します。
大いなる感謝をもって、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月15日 (金)

愛する者を救うために自分を差し出すユダ/救い主としてのイエス・キリストの一つの予型

 ヤコブ(イスラエル)の11番目の息子ヨセフが17歳で兄たちによって、イシュマエル人の隊商に売られ、イシュマエル人はヨセフをエジプトに奴隷として売られ、ヨセフは侍従長に買い取られました。しかし、ある時、冤罪によって牢に入れられました。しかしヨセフは、30歳でファラオの夢を解き、その夢に基づいた対策を述べ、エジプトの宰相とされました。ヨセフは常に主と共に歩み、主は、ヨセフを環境状況をも用いながら、ヨセフを導き祝福し続けていきました。
主がファラオに夢を見せ、主がヨセフにその夢の意味を教えたとおりのことが起こりました。
ヨセフが宰相となってから7年間、エジプトの地は大豊作でした。
その間にヨセフは、穀物倉庫にたくさんの穀物を保管しました。
そして、ファラオの夢の如く、7年に及ぶ大凶作が起こったのです。

 カナンの地に住んでいたヤコブの家族もその凶作に巻き込まれていました。
ヤコブの家族も穀物に困窮しました。そこでヤコブは、ベニヤミンを除く息子たちをエジプトへ穀物を飼うために遣わしました。

 エジプトに遣わされたヤコブの息子たちは、宰相ヨセフ{エジプト名としてファラオよりツァフェナテ・パネアハorツァフェナト・パネアと名づけられた(創世記4145)}の前に出ました。その時のことが創世記42章に次のように記されています。
“6
ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
7
ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
8
ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
9
かつて彼らについて見た夢〔創世記375-7参照(筆者挿入)〕を思い出して、ヨセフは言った。
「おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
10
彼らは言った。
「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。11 私たちはみな、一人の人の子です。私たちは正直者です。しもべどもは回し者などではございません。」
12
ヨセフは彼らに言った。
「いや、おまえたちは、この国の隙をうかがいにやって来たのだ。」
13
彼らは言った。
「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」
14
ヨセフは彼らに言った。「私が、おまえたちは回し者だと言ったのは、そのことだ。15 次のことで、おまえたちを試そう。ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちの末の弟がここに来ないかぎり、おまえたちは決してここから出ることはできない。16 おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。もし誠実でなかったら、ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちは間違いなく回し者だ。」
17
こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた。
18
ヨセフは三日目に彼らに言った。
「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから。19 もし、おまえたちが正直者なら、おまえたちの兄弟の一人を監獄に監禁したままにせよ。自分たちは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。20 そして、末の弟を私のところに連れて来るがよい。そうすれば、おまえたちのことばが本当だということが分かり、おまえたちが死ぬことはない。」
そこで彼らはそのようにした。2017)とあります。

 時がたち、ヤコブ家にはエジプトから買った食料が尽きてしまいました。
そこでヤコブは、息子たちに再度エジプトに食料を買いに行くように要求しました。その時のやり取りが創世記43章に次のように記されています。
“1
さて、その地の飢饉は激しかった。
2
彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。
「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」
3
すると、ユダが父に言った。
「あの方は私たちを厳しく戒めて、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言いました。4 もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう。
5
しかし、もし彼を行かせてくださらないなら、私たちは下って行きません。あの方は私たちに、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言ったのですから。」
6
イスラエルは言った。
「なぜ、おまえたちは、自分たちにもう一人の弟がいるとその方に言って、私を苦しめるようなことをしたのか。」
7
彼らは言った。
「あの方が私たちや家族のことについて、『おまえたちの父はまだ生きているのか。おまえたちには弟がいるのか』としきりに尋ねるので、問われるままに言ってしまったのです。『おまえたちの弟を連れて来い』と言われるとは、どうして私たちに分かったでしょうか。」
8
ユダは父イスラエルに言った。
「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。9 私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです。」
11
父イスラエルは彼らに言った。
「それなら、こうしなさい。この地の名産を袋に入れ、それを贈り物として、その方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、ピスタチオとアーモンド、12 また二倍の銀を持って行きなさい。おまえたちの袋の口に返されていた銀も、持って行って返しなさい。おそらく、あれは間違いだったのだろう。13 そして、弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。14 全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」
15
そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。2017)とあります。

 ヤコブの息子たちは末子のベニヤミンを連れてヨセフ(エジプトでの名前:ツァフェナテ・パネアハorツァフェナト・パネア)の前に立ちました。
その時のヨセフとヨセフの兄弟たちの様子、及びその後の会食の様子が、創世記43章に次のように記されています。
“15
・・・。そして〔ヨセフの兄弟たちは(筆者挿入)〕、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。
16
ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。
「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」
17
その人は、ヨセフが言ったとおりに、一同をヨセフの家に連れて行った。
18
一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。
「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」
19
彼らはヨセフの家を管理するその人に近づいて、家の入り口のところで話しかけた。
20
「ご主人様、最初のとき、私たちは食糧を買いに下って参りました。21 ところが、宿泊所に着いて、袋を開けると、なんと、私たちの一人ひとりの銀がそのまま自分の袋の口にあったのです。それで、私たちはそれを返しに持って参りました。22 また、食糧を買うために、別の銀も持って参りました。だれが私たちの銀を袋の中に入れたのかは、私たちには分かりません。」
23
彼は答えた。
「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」
それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
24
その人は一同をヨセフの家に連れて行き、水を与え、彼らは足を洗った。また彼は、彼らのろばに餌を与えた。
25
兄弟たちは、ヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。自分たちがそこで食事をすることになっていると聞いたからである。
26
ヨセフが家に帰って来たとき、彼らはその家まで携えて来た贈り物を彼に差し出し、地に伏して彼を拝した〔創世記375-7参照(筆者挿入)〕。
27
ヨセフは彼らの安否を尋ねた。
「以前に話していた、おまえたちの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
28
彼らは答えた。
「あなた様のしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」
そして、彼らはひざまずいて彼を拝した。
29
ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。
「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ〔「ベニー」(筆者挿入)〕、神がおまえを恵まれるように。」
30
ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。
31
やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、
「食事を出せ」と命じた。
32
それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。
33
彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。
34
また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。2017)とあります。

 さて、会食も済み、食料を受け取り、代金を支払い、カナンの地に戻ろうとしたヤコブの子どもたち一行の上に何が起きたのでしょうか?
 創世記44章には次のように記されています。
“1
ヨセフは家を管理する者に命じた。
「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。2 それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」
彼はヨセフのことばどおりにした。
3
明け方、一行はろばとともに送り出された。
4
彼らが町を出て、まだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家を管理する者に言った。
「さあ、あの者たちの後を追え。追いついたら、『なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。5 これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ』と彼らに言うのだ。」
6
彼は追いついて、このことばを彼らに告げた。2017)とあります。

 結局、冤罪によって、ヤコブの子どもたちは、ヨセフのもとへと連れて行かれました。
その時のユダの嘆願が創世記44章に次のように記されています。
“18
すると、ユダが彼〔エジプトの宰相であるヨセフ(筆者挿入)〕に近づいて言った。
「ご主人様。どうか、しもべが申し上げることに、耳をお貸しください。どうか、しもべを激しくお怒りにならないでください。あなた様はファラオのようなお方です。
19
あなた様は、以前しもべどもに、おまえたちに父や弟がいるかとお尋ねになりました。
20
それで私たちは、『私たちには、年老いた父と、年寄り子の末の弟がおります。彼の兄は死に、その母の子としては彼だけが残されましたので、父は彼を愛しています』と申し上げました。
21
するとあなた様は、『彼を私のところに連れて来い。私はこの目で彼を見たい』とおっしゃいました。
22
そのとき私たちは、『その子は父親と離れることはできません。離れたら父親は死ぬでしょう』とあなた様に申し上げました。
23
しかし、あなた様が、『末の弟が一緒に下って来なければ、二度と私の顔を見てはならない』とおっしゃったので、24 私たちは、あなた様のしもべである私の父のもとに帰ったとき、父にあなた様のおことばを伝えました。
25
そして父が、『また行って、われわれのために少し食糧を買って来てくれ』と言ったので、26 私たちは、『下って行くことはできません。もし末の弟が私たちと一緒なら、下って行きます。というのは、末の弟と一緒でなければ、あの方のお顔を見ることはできないからです』と答えました。
27
すると、あなた様のしもべ、私の父がこう申しました。『おまえたちもよく知っているように、私の妻〔ラケル{ヤコブが愛した妻}(筆者挿入)〕は二人の子〔ヨセフとベニヤミン(筆者挿入)〕を産んだ。28 一人は私のところから出て行ったきりで、きっと獣にかみ裂かれてしまったのだ、と私は言った。今に至るまで、私は彼を見ていない。29 おまえたちがこの子まで私から奪って、この子にわざわいが降りかかるなら、おまえたちは白髪頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになる。』
30
私が今、あなた様のしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちと一緒にいなかったら、父のいのちはあの子のいのちに結ばれていますから、31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。
しもべどもは、あなた様のしもべである白髪頭の父を、悲しみながらよみに下らせることになります。32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
33
ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。34 あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」2017)とあります。

 ユダは愛する者の代わりに奴隷となることを申し出たのです。
神のひとり子の御子は、愛する御父と愛する人々のために自ら十字架にかかられたのです。御子がまだ肉体をとられる以前のことをも知ることができる聖句を下記します。その聖句はヘブル(ヘブライ)105-7ですが、ここでは3-10節を下記します。
 “3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
4
雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。
5
ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。
「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」〔ヘブル105-7は、詩篇406-8の預言の成就(新改訳、口語訳)、新共同訳・聖書協会共同訳等は詩篇:407-9(筆者挿入)〕
8
以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは愛するひとり子のみ子を、私たちを贖うために差し出してくださいました。
そのことによって、あなたが如何程に私たちを愛してくださっておられるかが分かります。
御子は、御父を愛し、私たちを愛して十字架上で贖いを成し遂げてくださいました。
ありがとうございます。
今やイエス・キリスト様の血によって、私たちはあなたのものとして聖別されておりますことを感謝します。
御父と御子を愛し、御父の子どもとして従順に歩み、また御子に愛されている者として、御子を愛する故に御子に従うという歩みをさせてください。また、それを継続させてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月14日 (木)

主により頼まず自分の富により頼む者は不幸ですが、主により頼む者は主に祝福されます。

 箴言1128には次のように記されています。
自分の富に拠り頼む者は倒れ、正しい人は若葉のように芽を出す。2017)とあります。

 28節前半部分には、自分の富に拠り頼む者は倒れる、とあります。
平和時においては、ある意味、特に、富は力です。
しかし、戦争や国家財政の破綻に伴う様々な法律改正、武力に基づく国家体制の変換、世界的な飢饉、治療法のない疫病や致死性の疾患、巨大地震、津波、・・・等、更に決定的なのは、キリストの空中再臨時と地上再臨時には、主により頼まないで、自分の富により頼んでいる者は厳しい状況に置かれるのです。更に最後の審判の時には、富により頼んで主により頼まなかった者は、罪に定められ、火の池に送られます(黙示録2011-15)。

 富があることは、悪いことではありません。その富の管理を任されているのですから。
しかし、何に信頼するか、というところが重要なのです。
富を持っていても、一瞬にしてすべてを失う場合もあります。
富(お金のみならず、土地や家や家財、その他換金すれば価値のある物)を持っていても、それらには一切信頼することなく、主なる神様のみに信頼することが大切なのです。

 イエス様は、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。/だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ621.242017)と語られました。

 1テモテ617には、この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(新共同訳)と記されています。

 またパウロは次のように証ししました。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」(2コリント6102017)と。
パウロが、「すべてのものを持っています。」と述べたのは、パウロの内にキリストが住んでくださっておられたからです。
復活の主キリスト・イエス様は、人を生かす霊となられたお方です。
1
コリント1545には、「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダム〔復活されたキリスト・イエス(筆者挿入)〕は命を与える霊となったのです。(新共同訳)と記されています。

 イエス様を信じた人は、新生させて頂けました。
1
ペテロ13には、“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 キリスト・イエス様を心にお迎えした人は、永遠の命を得たのです。
使徒ヨハネは次のように記しています。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのち〔「キリスト・イエス」のこと(筆者挿入)〕を、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです1ヨハネ11-32017)とあります。

 パウロは次のように記しています。
・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。1コリント617・聖書協会共同訳)
主キリスト・イエス様は、回心し、キリストを受け入れた者、すなわち新生させてもらった霊の内に入ってくださったのです。
パウロの祝祷の中に、「主があなたの霊とともにいてくださいますように。・・・。」(2テモテ4222017)というものがあります。

 永遠の命を得た者は、病や死を恐れる必要がなくなりました。
イエス様は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ1125.262017)と語られました。
この御言葉を、確信をもって信じることの出来る人は幸いです。
素晴らしい恵みを賜ったのです。

 この世の富は、何時どうなるか分かりませんが、イエス様を信じている人は大丈夫です。
「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4192017)と記されています。

 テサロニケ信徒への手紙に登場する無名の信徒たちは、キリストを信じた故に大変な苦難を味わったようです。おそらく財産も没収されたことでしょう。
 1テサロニケ1章には、
“2
わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4
神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5
わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6
そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。(新共同訳)とあり、
 2テサロニケ1章には次のように記されています。
“3
兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
4
それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。(新共同訳)とあります。

 テサロニケの信徒たちは、ありとあらゆる迫害と苦難の中においても、信仰、愛、希望に生きていたのです(1テサロニケ13)。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主キリスト・イエス様を信じさせて頂けたことを感謝します。
とこしえに主と共におらせて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月13日 (水)

主は私を飼うお方1

 詩篇231には、
“ダビデの詩。
主はわたしの牧者。わたしには乏しいことがない。”(フランシスコ会訳)と記されています。
 2017訳は、主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。と訳し、「私の羊飼い」の箇所について、「私の牧者」。直訳「私を飼う方と欄外注に記しています。
「主」のヘブライ語原語は「ヤハウェ」です。「ヤハウェ」は神の称号です(キリスト教辞典)。ユダヤ人は、神のお名前を直接呼ぶことを恐れた(出エジプト207)ので、「ヤハウェ」と記されている箇所を「アドーナーイ」と読み替えています。「アドーナーイ」とは、「わたしの主」の意です。

 
ダビデは、「わたしはある」(出エジプト314)と言われたお方「ヤハウェ(主)」、すなわち、永遠にして自存のお方こそ「私自身の牧者です」「私を飼うお方です」と語ることが出来ました。

 出エジプト313-15には次のように記されています。
“13
モーセは神〔原語は「エロヒーム」(筆者挿入)〕に言った。
「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14
神はモーセに仰せられた。
「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15
神はさらにモーセに仰せられた。
「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。2017)とあります。

 文語訳では、「主」は「エホバ」と表記しています。
ヘブライ語は子音字で出来ています。
母音記号のつけ方で、「主」(英字にすると“YHVWH”)は、イェホバ=エホバ、とも読めますし、ヤーウェ、ヤーヴェー、ヤハヴェ、ヤハウェとも読めます。
多くの学者が「主」を「ヤハウェ」ではないだろうか、と言うとのことなので、私はそれに倣っているだけです。天に帰ったらどのようにお呼びするのか分かるでしょう。
15
節の中に、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた」とありますが、神であられる主がそのように語られた時、「主」{YHWVH}をどのように発音されたのでしょうね。モーセは、呼び方を聞き、当時のイスラエル人はモーセから主の名を聞いたのです。しかし、時の経過とともにわからなくなったのです。

 「羊飼い」or「牧者」と訳されているヘブライ語原語は「ラーアー」で、どちらの意もあります。

 イエス様は、
11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
27
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
28
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
29
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10章・2017)と語られました。

 イエスは主です。
新約聖書はギリシア語で記されているので、「主」は「キュリオス」です。
イエス様が「主」であることをイエス様が認めています。
ルカ111-2bには、さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ〔主は「キュリオス」(筆者挿入)〕。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。2017)とあります。

 詩篇23篇に戻ります。
ダビデは、
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の羊飼い〔直訳「私を飼うお方」(筆者挿入)〕。私は乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。」(2017)と歌いました。

 2節を見ると、主は飲食を満たしてくださるお方であることが分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは羊のために命を捨てたお方です。
それほどまでに愛してくださっておられますことをありがとうございます。
まして、地上での生活も天上での生活もあなたは保証してくださいますから感謝します。
御父と御子の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月12日 (火)

囚人から宰相にされた人ヨセフ/地からよみがえり御父の右の座につかれた主キリスト・イエス様

 ヨセフが奴隷とされた年齢は17歳(創世記372)、監獄から出された年齢は30歳(創世記4146)でした。
ヨセフが、料理官長と献酌官長の夢を解き明かしたのは28歳の時でした(創世記405-411)。
ヨセフの奴隷時代は13年、その内監獄に何年か入れられていましたが、主はヨセフと共におられました(創世記392.323)。
主がヨセフと共にいてくださったのは、ヨセフが主に在る歩みをしたからであろうと思います(創世記522参照)。

 創世記4013-15には、ヨセフの言葉が次のように記されていました。
“13
三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。
14
あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
15
実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」2017)とありました。

 しかし献酌官長はヨセフに頼まれたことを忘れてしまいました(思い出すのにふさわしい時が来るまで、主が忘れさせたのだろうと思います)。
ヨセフによる料理官長と献酌官長夢の解き明かしから2年後、今度はファラオが夢を見ました。創世記411-7には次のように記されています。
“1
それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。
2
すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。
3
するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。
4
そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。
5
彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。
6
すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。
7
そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を呑み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。2017)とあります。

 ファラオは、自分が見た夢に落ち着くことができなくなり、国中の呪法師たちや知恵者たちを呼び集めて答えを探ろうとしましたが解決しませんでした。彼らの中の全員が、ファラオの夢の解き明かしをすることができなかったのを献酌官長が知ったときに、献酌官長はヨハネを思い出したのです。
 創世記418-13には次のように記されています。
“8
朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
9
そのとき、献酌官長がファラオに告げた。
「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。10 かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。11 私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。12 そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」2017)とあります。

 主の時が来て、ファラオの夢の解き明かしのために、ヨハネは地下牢から連れ出され、ファラオの前に立つことになりました。30歳の時でした。
 創世記4114-16には次のように記されています。
“14
ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。
人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。
ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
15
ファラオはヨセフに言った。
「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」
16
ヨセフはファラオに答えた。
「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」2017)とあります。

 
ヨセフの答えを聞いたファラオは、ヨセフに、夢の内容と、夢の解き明かしの出来た者がいなかったことを話しました。
 創世記4117-24には次のように記されています。
“17
それで、ファラオはヨセフに話した。
「夢の中で、見ると、私はナイル川の岸に立っていた。
18
すると、ナイル川から、肉づきの良い、つやつやした雌牛が七頭上がって来て、葦の中で草をはんでいた。
19
すると、その後を追って、弱々しい、とても醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、上がって来た。私は、このように醜い牛をエジプト全土でまだ見たことがない。20 そして、この痩せた醜い雌牛が、先の肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。21 ところが、彼らを腹に入れても、腹に入ったのが分からないほど、その姿は初めと同じように醜かった。そのとき、私は目が覚めた。
22
また、夢の中で私は見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの穂が出て来た。
23
すると、その後を追って、貧弱で、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。24 そして、そのしなびた穂が、あの七つの良い穂を呑み込んでしまった。そこで私は呪法師たちに話したが、だれも私に説明できる者はいなかった。」2017)とあります。

 ヨセフは、夢の解き明かしと共に、これからファラオが為すべき政策についてを語りました。創世記4125-36には次のように記されています。
“25
ヨセフはファラオに言った。
「ファラオの夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです。(神からの夢)
26
七頭の立派な雌牛は七年のことで、七つの立派な穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。
27
その後から上がって来た七頭の痩せた醜い雌牛は七年のことで、痩せ細り東風に焼けた七つの穂も同様です。それは飢饉の七年です。
28
これは、私がファラオに申し上げたとおり、神が、なさろうとしていることをファラオに示されたのです。(神は、神が気候の支配者であることを示しています)
29
今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れようとしています。
30
その後、七年間の飢饉が起こり、エジプトの地で豊作のことはすべて忘れられます。飢饉が地を荒れ果てさせ、31 この地の豊作は、後に来る飢饉のため、跡も分からなくなります。その飢饉が非常に激しいからです。
32
夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。
33
ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。
34
ファラオは、国中に監督官を任命するよう、行動を起こされますように。豊作の七年間に、エジプトの地の収穫の五分の一を徴収なさるためです。
35
彼らに、これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ、ファラオの権威のもとに、町々に穀物を蓄えさせるのです。彼らは保管し、36 その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。そうすれば、この地は飢饉で滅びることがないでしょう。」2017)とあります。

 監獄に入れられていたヨセフが宰相とされた時のことが、創世記4137-46に次のように記されています。
“37
このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
38
そこで、ファラオは家臣たちに言った。
「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
39
ファラオはヨセフに言った。
「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。40 おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41
ファラオはさらにヨセフに言った。
「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
42
そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
43
そして、自分の第二の車に彼を乗せた。
人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。
こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
44
ファラオはヨセフに言った。
「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」
45
ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。
46
エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。
ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った。2017)とあります。

 ヨセフを通して、主は、主と共に歩む者の幸い、環境や処遇に左右されないところの主と共なる者の歩みを見せてくださいました(創世記37.39-41章)。
それだけではなく、ユダに売られ、イスラエルの民に見捨てられ、鞭打たれ、十字架上で殺され、三日目に復活し、その後高挙され、天地の主権者に任命された主イエス・キリスト様のある程度の予型であるように思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日々主と共に歩む歩みをし続けていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月11日 (月)

祈りについて8/試み

 マタイ613について日本語訳諸聖書は次のように訳しています。
元訳(明治14年版)は、我儕(われら)を試探(こころみ)に遇せず惡より拯出(すくいいだ)し給へ國と權(ちから)と榮(さかえ)は窮(かぎ)りなく爾(なんじ)の有(もの)なればなりアメンと訳し、
口語訳は、わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。と訳し、
塚本訳は、わたしたちを試みにあわせないで、悪から守ってください。と訳し、
新改訳(1970年版)は、私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕と訳し、
前田訳は、われらを試みにあわせず、悪者からお守りください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。と訳し、
岩波訳は、そして、私たちを試みに遭わせず、私たちを悪からお救い下さいと訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちを誘惑に陥らないよう導き、悪からお救いくださいと訳し、
2017
訳は、私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。と訳しています。

 「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」の祈りの聖句は後代の写本からのもである、と記されています。

 岩波訳は、冒頭に「そして」の語が入っていますが、TRギリシア語聖書には、「カイ」(そして、また、・・・等の接続詞)が入っています。

 「試みにあわせないで」という訳の箇所を、フランシスコ会訳は、「誘惑に陥らないよう導き」と訳しています。原語の意味には、試みor誘惑の、内へと運び入れずor導き入れず、等の意があります。

 後半部分の中には、「悪しき者からお救いください」、「悪からお救いください」、「悪者からお守りください」等の訳があります。
「悪しき者」、「悪」と訳されている語のギリシア語原語は「ポネーロス」で、有害な、悪、悪しき者、悪魔、悪霊、罪びとたち、・・・等の意があります。

 「お救いください」と訳されている語のギリシア語原語は「アルラ ルーオーマイ」で、「アルラ」は、否定の意(no)やそして、しかし、・・等々の意があります。
「ルーオーマイ」は、突進する、引く、引き寄せる、引き付ける、配達する、引き渡す、救い出す、救う・・・等の意があります。

 私たちはイエス様から、「私たちを試みor誘惑にあわせないで、悪{and悪魔、悪霊、悪しき人たち(含:不敬虔な者たち)}からお救いくださいorお守りください。」と祈るようにと教えられています。

 話は変わりますが、イエス様は、40日間の断食を終えて空腹であった時、悪魔(サタン)の誘惑を受けられたのです。このときは、イエス様が誘惑に会うようにと御霊が導いたのです。マタイ4章には次のように記されています。
“1
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。
悪魔に試みられるためである。
2
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
3
すると試みる者がきて言った、
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4
イエスは答えて言われた、
「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
5
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて6 言った、
「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
7
イエスは彼に言われた、
「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
8
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて9 言った、
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
10
するとイエスは彼に言われた、
「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
11
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(口語訳)とあります。
イエス様は、御霊の剣すなわち神のことば(エペソ617)でサタンを撃退しました。
「神のことば」の「ことば」は「レーマ」が使われていますから、その時に、御霊が与えてくださった「神のことば」です。

 マタイ1019.20には、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(新共同訳)というイエス様の御言葉があります。

 主が、私たちに、試みを許された場合の対処方法も上記のように教えられています。

 後代の写本には、「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」というものもある、と言われている箇所の、「だから」というギリシア語原語の「ホティ」には、それは、というのは、何故なら、だから、・・等の意があります。この「ホティ」は、ギリシア語聖書では、この上記の文の最初に出て来ます。そこを強調して訳すと、「私たちを試みor誘惑にあわせないで、悪{and悪魔、悪霊、悪しき人たち(含:不敬虔な者たち)}からお救いくださいorお守りください。というのはor何故なら、国と力と栄は、とこしえにあなたのものなのですから。アーメン。」という感じになると思います。

 「国」と訳されている語のギリシア語原語は「バシレイア」で、王国の領土、国王の支配、の意です。
主なる神様の領土は、見える世界、見えない世界のすべてです。
申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。2017)と記されています。
「バシレイア」(国)には、支配、統治、の意もあります。

 「力」と訳されている語のギリシア語原語は「ドゥナミス」で、力、能力、豊かさ、・・等の意があります。

 「栄」と訳されている語のギリシア語原語は「ドクサ」で、重い、荘厳、栄光、威厳、光栄、等の意があります。

 主キリスト・イエス様は、天地の主権者です(マタイ2818)。
そして御父は、更に偉大なお方です(ヨハネ1428)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちを誘惑や試みにあわせず、悪しき者からお守りください。
もし、そのように祈っていても、あなたが、悪しき者の誘惑や攻撃を許可される場合には、イエス様のように御霊の剣、すなわち、その時々に与えられる御言葉によって勝利させて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月10日 (日)

箴言11:24.25にみる豊かになる人とは

 箴言1124.25を日本語のいくつかの聖書は次のように訳しています。
2017
訳は、“24 気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。
25
おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。2017)と訳し、

聖書協会共同訳は、“24惜しまず与えても富の増す人があり、物惜しみをしても乏しくなる者もある。
25
 祝福する魂は肥え、他者を潤す人は自分も潤う。と訳し、

フランシスコ会訳は、“24人に金をばらまいても富を増す人もいる、必要以上に節約しても貧しくなる人もいる。
25
寛大な人は満たされる。人を潤す者は自分も潤される。と訳し、

口語訳は、“24 施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。
25
物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。と訳し、

新共同訳は、“24 散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。
25
気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。と訳しています。

 24節の、「気前よく施して」(2017)、「惜しまず与え」(聖書協会共同訳)、「人に金をばらまいて」(フランシスコ会訳)、「施し散らして」(口語訳)、「散らして」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「イェシュ・パーザル」で、「パーザル」には、散らす、ばらまく、まき散らす、の意があります。「イェシュ」は、突き出る、外側に立つ、存在する、その他、be動詞、have動詞のような意、・・等もあります。

 24節の「正当な支払いを惜しんで」(2017)、「物惜しみをして」(聖書協会共同訳)、「必要以上に節約して」(フランシスコ会訳)、「与えるべきものを惜しんで」(口語訳)、「締めすぎて」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーサク ヨーシェル」で、「ハーサク」は、抑える、控える、嫌がる、許さない、「ヨーシェル」は、正当な、適切な、等の意があります。

 24節の聖句を読んだのち、新約聖書に思いをはせると、
「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ57・口語訳)、
「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ69・口語訳)、
「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(2コリント96-8・口語訳)等の聖句を思い浮かべます。

 25節の、「おおらかな人」(2017)、「祝福する魂」(聖書協会共同訳)、「寛大な人」(フランシスコ会訳)、「物惜しみしない者」(口語訳)、「気前のよい人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ ベラーカー」で、「ネフェシュ」は、生き物、人、魂、・・・等の意があります。「ベラーカー」は、祝福、感謝の祈り、祝祷、贈り物として進呈する、・・・等の意があります。

 私個人としては、“24惜しまず与えても富の増す人があり、物惜しみをしても乏しくなる者もある。祝福する魂は肥え、他者を潤す人は自分も潤う。(聖書協会共同訳)という訳が気に入っています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と語られたと、パウロが言っていますが、私たちは、あなたから与えられた賜物を周りの必要としている人に与えていくことができますから感謝します。
もっていないものではなく、自分に与えられている何かを、周りの人の祝福のために与えて行くことならば何かできますから嬉しく思います。
最低限、他者のために祈り、感謝することは出来ますし、場合によっては施しをすること、知恵を提供すること、体力のある人は体力を提供することもできます。
誰でも何かを提供することが出来るようにしてくださっておられますから感謝します。
あなたの御旨に従って今日も歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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