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2013年6月10日 (月)

ローマ6:1-11(2) 聖化

“6:1では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
6:2断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
6:3それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6:6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである
。”(口語訳)

 パウロは、前章20節で、“律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。”と述べました。そうすると、それを曲解して、「それならば大いに罪を犯そう」と言うような人も出てくると思ったのかもしれません。「大いに罪を犯そう」と言うのは誤りで、再生された命によって神に対して生きるべきであると1−4節で強調しています。

4節に、“わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼〔キリスト〕と共に葬られたのである。”とあります。
何が葬られたのでしょうか。

6節に“わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた”とあります。古き人が、キリストと共に十字架の上で死んで葬られたのです。古き人が罪の内を歩むことは自然なことです。古き人は罪人として生まれたのですから。しかし、古き人はキリスト共に十字架につけられたと信仰によって受け取ることができた人は、罪から解放されるのです。そして、一度、それを体験したからといって自動的に継続されるわけではありません。信仰によらず、自動的に義なる言動ができるようにされるのは、黙示録19:8までまたなければなりません。今のこの世にあっては、神がなさってくださったことを、信仰によって受け取り続けていく必要があるのです。さらに、無理やりな信仰ではなく、いとも素直な信仰でそれを受け続けていくためには、常に自分自身を主にささげていなければ難しいと思います。分かりやすく言うと、自分の思いや感情が第一ではなく、常に神が第一となっているということです。一言で言うと、真実な意味で、イエスが主、ということです。

聖い歩みとは、いつでもイエスが主、という歩みです。イエスが主という人は、イエスが命じられたことを守り行います。勿論肉の力ではなく、信仰によって、また聖霊によってです。

罪の根絶、ということをいう人達もいますが、11節で分かるように、罪が根絶されるのではなく、罪に対して死んだ者とされるのです。これは、瞬時的なものでもあり、また、信仰によって継続されていく必要のあるものだと思います。

6節にある<罪の体が滅びて>の<滅ぶ>の原語は、無くなってしまうことを言っているのではなく、無力になるということです。
ですから、キリストを罪の罰からの救い主と信じても、キリストをわきへ追いやって、キリストを使用人にして、自分が常に主人になっている人は、古き人、即ち罪の体は、元気いっぱいで肉に従って生きるただの人のような生き方になるのです。
健全な歩みとは、古き人は、キリストと共に十字架につけられて葬られたことを信仰によって受け取り、再生された霊によって神に対して生きる生き方です。再生された霊の内には、主なる御霊が住んでおられます。その御霊の導きに従った歩みをすべきなのです。
そのように歩むにはどうしたら良いのか、ということはローマ8章に書かれています。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
いつも、主イエス様をまことの主として、信仰によって、御霊によって歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

<参考聖書箇所>
(1コリント3:1−3)
“3:1兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。”
(ガラテヤ5:24.25)
“5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。”
(ルカ9:23)
“それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。”


(黙示録19:8)

“彼女〔キリストの花嫁である教会〕は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。”

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コメント

洗礼の霊的意味の箇所を学ばせていただきましたが、私には無理…。と思いました。沢山罪を提示され続ける日々だし…。と思って、進めていましたら、【一度、それを体験したからといって自動的に継続されるわけではありません。】続けていれば大丈夫である事を実感すると共に、【(ガラテヤ5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
ルカ9:23それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。】忘れてしまっていました。
日々、思い起こせる様、祈りの中に取り入れます。ありがとうございました。

ローマ6章は少し高度なキリスト者生活です。
この箇所は、救いについてではなく、きよき歩みについての箇所です。
次の7章に入るとまたガラッと変わります。
そして、8章に入ると、6章で言われている生き方の法則が少しわかるようになっています。
一歩一歩進んでいってください。

7章は日を改めて、又学び直します。
8章の途中ですが、天の御国に早く行きたい‼️という気持ちになれ、切り替えれた様な気がします。
又、日が開いてしまうのですが、学ばせてください。
よろしくお願い致します。

6-8章はこれから年数を重ねるごとに実体験を伴って深く味わうことが出来ると思います。
何度も読み返す必要のあるところです。

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