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2013年12月23日 (月)

1ペテロ1:1.2 あいさつ

1:1イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、
1:2すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。

恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 (口語訳)

 キリスト者に対して使徒ペテロは、「離散し寄留している人たち」と言っています。新共同訳では、「離散して仮住まいをしている人たち」と訳出しています。キリスト者はこの世にあっては、その地に何年住もうともキリスト者の国は天の御国ですからこの世においては寄留者・仮住まいの者なのです。地上において主にある者としての生活をしながら、いつでも天に心を向けていることの大切さを覚えます。特に昨今は、世界の国々の状況、気象状況、人々の心のありよう、宗教界の状況等々を聖書の預言に照らしてみると主の御再臨が近いのではないかと思わされる状況になりつつあるように私には思えます。ルカ21章で主イエス様は、世の終わりについての預言をされました。その最後に「しかし、あなたがたは、やがて起ろうとしているこれらすべてのことから逃れ、人の子〔イエス・キリスト〕の前に立つことが出来るように、いつも油断せずに祈っていなさい。」と語られました。キリスト者でも、キリストの空中再臨と携挙等を信じない人もいるようですが、わたしは信じる者ですし、自分も含め愛する者たちの為に祈り続けていきたいです。

 ペテロは、2節でキリスト者と三位一体の神との関係について述べています。
 父なる神は、キリストの救いが提示された時、信じる人が誰であるのかを予知され、選ばれました。そのことに関連する他の書簡のみことばに、「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ1:3‐5)、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:29)などを思い浮かべます。私は、神学によってではなく聖書のみことばのみによって書き進めたいと思います。

 子なる神であるイエス・キリスト様との関係については、「イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために」と書かれています。
十字架の上でイエス・キリストの血が流されキリストの身代わりの死が無ければ、罪の赦しも、罪のきよめもありませんでした。人間はただ絶望したまま神の裁きの前に立つことになったのです。しかし、キリストの血による贖いの故に信じる者は喜びを持って父なる神と御子なるキリストの前に立つことが出来たのです。

 聖霊は、父なる神の予知に従い、キリストが流された血を、キリストを受け入れる人に適用し聖別して下さったのです。聖別のみならず、心の思いや行いにおいても、「わたしたちが光の中を歩んでいるなら、キリスト者同士は互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪より私たちをきよめ続けるのです。」(1ヨハネ1:7)。聖霊は、キリストの血を用いてこのことを行って下さいます。

 2節でペテロは「恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」と挨拶を送りつつ祈っています。キリスト者への手紙ですから、すでに神から恵みと平安を頂いておりますが、今までの状態に加えて「豊かに」と加えています。
キリスト者は、全能にして愛に満ちた父なる神と子なるキリスト様から恵みと平安が与えられるのですから果報者です。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
イエス・キリスト様の救いに与らせて下さり、恵みと平安を与えてくださり、かつ、天に良きものを蓄えて下さっておられますことの故に感謝します。
いつも父なる神様を崇め感謝しつつ、主イエス様に心を向けて歩む者であらせて下さい。
主イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン

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ペテロの手紙Ⅰ」カテゴリの記事

コメント

〝十字架の上でイエス・キリストの血が流されキリストの身代わりの死が無ければ、罪の赦しも、罪のきよめもありませんでした。人間はただ絶望したまま神の裁きの前に立つことになったのです。〟私は、此処を忘れがちです。現代を生きていると、駆け出しな私は、ふと、全てが当たり前的な感じになってきてしまいますので、気をつけたいと思いました。

〝聖別のみならず、心の思いや行いにおいても、「わたしたちが光の中を歩んでいるなら、キリスト者同士は互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪より私たちをきよめ続けるのです〟この様に書いてくださっていて、私は光の中を歩んでいないかもしれません。
この所、教会の方々と他の人達と何ら変わり無く見え(光の中を歩まれている方も沢山いらっしゃいます。見習いたいと思う方も沢山いらっしゃいます)てしまうのです。

〝離散して〟は、宣教活動をしていると捉えて良いのでしょうか?
〝神学〟と〝聖書の御言葉によって〟は、異なるのですね?

まだまだ理解ができていない事、御旨に従えていない事を痛感します。

“離散して〟は、宣教活動をしていると捉えて良いのでしょうか?”

「離散し寄留している人たち」:ここでは、信徒の人たちであろうと思います。宣教活動もしていたかも知れませんが。
“〝神学〟と〝聖書の御言葉によって〟は、異なるのですね?”→
キリスト教神学は、色々あります。
大切なことは、主の御言葉に合っているかどうかですね。

何時も教えてくださり、ありがとうございます。

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