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2014年1月 2日 (木)

1ペテロ1:17 公平に裁かれる

1:17あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。(口語訳)

 神様は、すべての人を裁くお方であることが聖書を読むと分かります。
最後の裁きは、白い御座の裁き(黙示録20:11-15)です。それは次のように書いてあります。
“20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者〔偉大な者〕も、小さい者〔卑小な者〕も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”(新改訳)
人間が人間を支配している現在のスタイルの時代の後には、キリストが支配し、1000年間続くキリストの王国があります。白い御座の裁きは、キリストの王国が終了した時に行われます。その後、新天新地を神様は創造されるのです(黙示録21:1-5)。
イザヤ65:17には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(新改訳)とあります。
イザヤ66:22.23には、「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように。あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと主は言われる。
新月ごと、安息日ごとにすべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと主は言われる。」(新共同訳)

 白い御座の裁きとは別に、キリストの王国が始まるにあたって、キリストが栄光の位につかれた時、ハルマゲドンの戦いを経ても、キリストの王国に入れて頂けるか入れて頂けないかの裁きまで生き残っていた人達に対する裁きがあります。それは、マタイ25:31-46に書いてあります。
“25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊〔神によしと認められる行いをした人達〕を自分の右に、山羊〔神によしとはとても認められない行いの内に歩んだ人達〕を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
・・・中略・・・
25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
・・・中略・・・
25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。”
 主イエス様は、ヨハネ12:48で、「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」と語られました。イエス様が山上の垂訓で語られた内容〔マタイ5-7章〕は、行為のみならず、発したことばや、心の思いについての内容まであります。即ち、心の思いの内容にまで立ち至って裁かれる可能性があるのです。だれも自分は正しいなどと言える人はいないことでしょう。

 すべてのまことのキリスト者は、いつ、どこで裁きを受け、罪の故に死んだのでしょうか。
ローマ6:6には、「私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられた。」とあります。それ故、パウロは、ガラテヤ2:20で、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(新共同訳)と言うことが出来ました。
人間は時間と空間に縛られていますが、神様は、時間と空間を超越しています。神様にとっては、キリスト者は既にキリストと共に十字架につけられ、死んだのです。そして、キリストと共によみがえったのです。
 2コリント5:17に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というみことばがあります。
このみことばは、神様が時空間を超越しておられるお方であることが分からないと本当の意味では理解不能ではないかと思います。前述しましたが、人間は時空間の中に生きています。それ故、将来に起こるキリストの空中再臨のときまでは、肉体の部分は新しくはならないのです。神様にとっては、人間における未来を現在そこにあるものとして捕えることが出来ますが、人間の体験は、時系列的なのです。キリスト者は、キリストを信じた時に、霊が、新しく御霊によって生まれました(ヨハネ3:6)。ただ生まれただけではなく、その霊の内に御子の御霊が住んでくださったのです。
ヨハネ3:6には、「御霊によって生まれた者は霊です。」とあります。
1コリント6:17には、「主と交われば、一つ霊となるのです。」とあります。
ガラテヤ4:6には、「御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」とあります。
それ故、父なる神様に親しくお祈りし、お話しできるのです。
即ち、今の世を生きるキリスト者にとって新しい部分は霊なのです。
御子の御霊が宿っている霊に魂も体も従うとき、神の御心に叶う歩みが出来るのです。
内なる霊に従って歩んでいると思っても神の御旨に従っていないならば、それは神以外の霊に従っているか、自分の思いや感情という魂に従っているのです。
古き肉体を持っているキリスト者においては、現在新しくされているのは霊の部分においてなのです。この真理を受け取って体現した者はきよき歩みをすることが出来るのです。
キリストは身代わりとなられたのですが、その時に同時に、キリスト者を自分の内に取り込んでいるのです。
主イエス様は、「あなたの信仰の通りになるように。」とよく言われました。
神様が備えてくださったものを、信仰によって受け取った人だけが、神様が備えてくださったものを受ける恵みにあずかれるのです。それは同時に神様を是認することなのです。神様ご自身を認めて受け入れ、神様の語られたことを「まことにその通りです。」と受け入れることなのです。そして主を賛美することなのです。それを一言でいえば、「アーメン、ハレルヤ」です。
 キリスト者は、キリストと共に裁かれて、キリストと主に復活しました。時間に縛られた言い方をすると、霊においては既に成就していますが、肉体は、キリストの空中再臨の時になります。

 さて、キリスト者に対する裁き、というのがあります。
これは、火の池に送られるさばきではありません。
キリストから与えられたタラントに従い、如何なる歩みをしたか、ということを査定されるさばき、或いは評価と言ったらよいでしょうか、そのようなものです。
裁きには、喜ばしい報酬を受ける場合や、叱責を受ける場合、また、一定期間の懲らしめを受ける場合などがあるのではないかと私は聖書から想像しています。
そのように想像しているいくつかの聖書箇所の一部を下記します。
(マタイ25:14‐30) (ルカ19:12-26) (マタイ24:45‐51) (1コリント3:10‐15)

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
御霊の助けによってあなたの御旨にかなった歩みをさせて頂けますよう助けていて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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