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2014年1月23日 (木)

1ペテロ3:18-22 バプテスマの意味

3:18キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
3:19こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
3:20これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
3:21この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
3:22キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。
(口語訳)

 教会の礼拝式の中に、多くの教会が使徒信条の告白を式次第に入れていることと思います。この聖書箇所は、使徒信条の一部をよく表しています。その部分を下記します。
「・・・・主は、・・・十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座し給えり。・・・・」と。

 キリストは、十字架の上で肉体が死んだ後、霊のあり様でよみに下られ、神に従わずに獄にとらわれている霊達に遭われて、みことばを述べられました。この箇所の解釈は様々ありますが、ある人達は、死んだ後にも救いがあると捉えます。その人達は、死んだ後にも救いのチャンスがあると解釈するのです。その様であれば、ある意味よいのですが、みことばは、そのように語ってはいません。みことばを述べると言っても、みことばには、救いのみことばもあれば、罪定めするみことばもあれば、その他のみことばもあるのです。聖書のある聖句を解釈する時は、聖書の他の箇所との整合性が取れていなければなりません。
ヘブル9:27には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」とありますし、ヨハネ3:18には、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」ともあります。また、ヨハネ3:36には、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」ともあります。
私は以上のように書きましたが、反対意見をお持ちの方々がいることもよく存じています。このことについては、時が経過して、裁きが行われる時になれば、自ずから明らかになりますので、現在討論することもないでしょう。個々人の信仰と解釈に基ずくしかありません。

 神様が大洪水を起こすと明言されてから、長い期間、ノアとその家族8人は、箱舟を造ることによって、また、質問されれば答えることによって、神の裁きと救いについてあかしし続けたと思います。しかし、救われたのは、8人だけでした。皆信じなかったのです。
ノアとその家族は、箱舟に入って、大洪水による水の裁きから救われたのです。箱舟に入って救われる、というのは、贖いを成し遂げられたイエス・キリストを信じて救われるということの予型であったのです。

 21節には、「バプテスマは、あきらかな良心を神に願い求めること。」とあります。
新改訳では、「バプテスマは、正しい良心の神への誓い。」とあります。
岩波訳では、「洗礼は肉の穢れを取り去ることではなく、善い〔状態にある〕内奥の意識が、イエス・キリストの甦りを介して〔なす〕神への誓約である。」とあります。
ローマ6章には、
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」{新共同訳(6:4-11)}とあります。
 バプテスマの説明について、色々な解釈が書かれています。私はどれも正しいと思うのです。ペテロの手紙の方の訳し方は、訳者によって二通りになっていますが、現実にはどちらもあると思います。
 救われたての頃、多くの人は聖書知識もあまりありませんから、「神への誓い」という感じです。
少したつと、「あきらかな良心を神に願い求める」となるのではないでしょうか。
少し脱線しますが、ヘブル9:14には、「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」と、良心がキリストの血によってきよめられる、と書いてあります。
更に、キリストと一つとされるという信仰に立つ時、ローマ人への手紙にあるように、「キリストと共に死に、キリストと共に神に対して生きる」というようになるではないでしょうか。
霊的成長に伴って段々と変わっていくのではないでしょうか。

 「キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられる」(22) とありますが、このキリストが、私たちの為にとりなしていて下さるのです(ローマ8:34)。と同時にキリスト者の霊の中に御霊によって住んでいて下さるのです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
何から何まで備えてくださりありがとうございます。
今日もキリストと共に神に対して生きるものであらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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