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2016年1月26日 (火)

マタイ23:13-15 律法学者、パリサイ人たちへの警告1(自分たち及び他の人々に対し神の国の門を閉ざして入らせないようにしている)

23:13偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(新改訳)〕
23:14{偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人(新改訳)〕。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。}
23:15偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人(新改訳)〕。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。”(口語訳)

 14節は主要な写本には欠けているとのことです。


 ギリシャ語聖書の語順は、新改訳のように、「わざわいだ」から始まります。
13節には、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(新改訳)とあります。
恐らくこの箇所のイエス様の言葉は、「です・ます」調ではなかったことでしょう。
「人々から天の御国をさえぎっている。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせない。」とはどういうことでしょうか。
イエス様は公生涯の初めから、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15・新改訳)と語られました。

 更に時がたち、イエス様は、「神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」(ルカ17:21・新改訳)と語りました。NKJVは、"the kingdom of God is within you."と訳しています。
イエス様による救いを確信しているキリスト者の方は、自分の内にイエス様が住んでくださっておられることを確信していることでしょう。ガラテヤ4:6には、「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(口語訳)と記されています。
キリスト者が救われたのは、イエス・キリスト様を信じたからです。心に受け入れたからです。

 律法学者やパリサイ人たちは、口伝律法を含む彼らの解釈に基づいた律法を行うことによって、自分自身も救われようとし、他の人にも律法を行うように勧めていたのです。その結果、そのようにするすべての人を神の国から遠い者としてしまいました。
神様が与えられた律法は義なるものでありますから善いものなのです。
イエス様は、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:18.19・新改訳)と語られました。

 救われる前のパウロは、熱心なパリサイ人でした。パウロは、「きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人」(新改訳)とピリピ3:5に記し、また、「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」(使徒26:5・新改訳)とアグリッパ王に語っています。
そのパウロが、ローマ3章で語ったことは次の通りでした。それは、
“3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。”(新共同訳)と記されています。

 この箇所は、熱心なパリサイ人であったパウロの証であったと思います。それと同時に、神の前に義とされるのは律法を行うことによるのではなく、罪を赦すための血を流されたイエス・キリスト様を信じる信仰によるという宣教の言葉です。
前述しましたが、神様のおことばに生きることは良いことです。しかし、神様のおことば通りに生きることが出来ないのが人間なのです。それは原罪をもって生まれてきているからです。それ故、教えられなくても罪を犯してしまうのです(ローマ5:12-14)。また律法によって救われるためには律法の全部を行う必要があったのです。一つ破っただけでもだめなのです。ヤコブ2:10には、「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(新共同訳)とあります。
イエス様は、律法は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39・新共同訳)というおことばに基づいていると語られましたが、元来が自己中心的な私たち人間に守れるはずはないのです。守れる唯一の状態は内なる御霊様が完全にその人を支配してくださっておられる時です。その時、その人からイエス・キリスト様が現れるのです。その時、ローマ3:31にあるように「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(新共同訳)というおことばが、行いにおいて成就するのです。

 イエス様を信じて洗礼を受け、キリスト者として歩み出したのに、いつの間にか律法主義に陥ってしまう人がいます。その結果、律法を守れない自分は救われていないのではないだろうかというように、行いによる救いという捉え方になってしまって、救いの確信が揺らいでしまう場合も出てくるのです。そのような人が引っ掛かるおことばが、「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:26.27・新改訳)というイエス様のおことばです。

 救いは徹底して信仰によります。
ヘブル人への手紙10章には、
“10:10 ・・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」”(新改訳)と記されています。

 マタイ23:15には、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」とあります。
新聖書注解によると、
“彼らは熱心に異邦人に伝道したが、それは改宗者を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」ことであった。異邦人で割礼まで受けてユダヤ教徒になった「改宗者」は、生来のユダヤ教徒より熱狂的になり、それだけひどいパリサイ主義の奴隷になってしまったのである。”とあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様の十字架による贖いを信じさせていただけましたことを感謝します。
自分の生まれながらの力をもって全身全霊をもって神様を愛し、また隣人を愛するなどということは私にはとてもできないことです。
しかし、内に住まれる御霊様によって、神様を愛し、隣人を愛する歩みをしていくことが出来ますように。
律法主義に陥ってしまっている兄弟姉妹がおりましたら助けてあげてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

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