« マルコ16:12.13、ルカ24:13-35 エマオの途上の二人の弟子に現れたイエス様 | トップページ | マルコ16:14 見ずして信じる者は幸いである »

2016年3月14日 (月)

ルカ24:36-43 復活の日の夜の出来事

24:36こう〔これらのことを(新改訳)〕話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
24:37彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
24:38そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。  
24:39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
24:40こう言って、手と足とをお見せになった。〕
24:41彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
24:42彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
24:43イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。”(口語訳)

 ここの箇所は復活の夕方の出来事でした。
「こう〔これらのことを(新改訳)〕話していると」(36)というのは、よみがえられた主がシモン・ペテロに現れたという話(ルカ24:34)や、エマオ村から帰って来た二人の弟子の話(ルカ24:13-32)ですから、この箇所の出来事は主イエス様のご復活の日の夕方の出来事であることが分かります。
なぜ夕方かというと、ヨハネ20:19に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(新改訳)とあるからです。
ということは、イエス様にお会いした二人の弟子は、エマオからものすごい速さでエルサレムに戻ったことになります(ルカ24:29.33)。恐らく走るようにして11kmの道を進んだのでしょう。

 エルサレムに集まっていた弟子たちは、マグダラのマリヤが、よみがえられたイエス様にお会いしたと言っても、エマオ村に住んでいる二人の弟子やペテロの話を聞いても、イエス様が復活されたということを信じ切ることはできませんでした。
 マルコ16:10-13には、
“16:10 マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。
16:11 ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。
16:12 その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現された。
16:13 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。”(新改訳)とありますから。

 ルカ24:36.37を新共同訳は、“こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように〔平安があなたがたにあるように(新改訳)〕」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。”と訳しています。
何しろ弟子たちは、イエス様の復活は信じていないし、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19・新共同訳)にもかかわらず、イエス様が入って来たのですから、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」という状況になっても不思議はありません。

 それに対してイエス様は、ご自身が体を持っていることを証明なさいました。
まずイエス様が言われたおことばは、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」(ルカ24:38・新改訳)というものでした。それに続けて、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39・新改訳)と言われました。ヨハネは、「イエスは、その手とわき腹を彼らに示された。」(ヨハネ20:20・新改訳)と記しています。
イエス様は、釘のあとの手を示し、足を見せ、槍で刺された脇腹を見せ、体を触らせ、大サービスです。

 弟子たちは、大喜びしました(41)が、同時に不思議な感じ、信じられないような気持もありました(41)。
そのような弟子の反応を見たイエス様は、「ここに何か食物があるか」と言われた(41)のです。
弟子たちは、焼いた魚の一きれをさしあげ(42)ました。
イエス様は魚を取って、みんなの前で食べたのです(43)。
これは、体をもって復活したのだよ、という証明でした。
霊のからだは、壁や戸でもすり抜けることが出来、食物を食することも出来る体であったのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちもイエス様の空中再臨の時には、イエス様のご復活の体と同じような体を与えられて天に引き上げられるのですからありがとうございます。霊のからだは衣服をもすり抜け、重力をも超越することの出来る体ですからありがとうございます。
信じることの出来ない人からは、まさに気がくるっていると言われる事柄ですが、疑いなく信じることが出来ますことを感謝します。
神が語り出されたことには不可能はありません。あなたが語られたことは必ず成就しますから御名を崇め賛美します。
感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン 

« マルコ16:12.13、ルカ24:13-35 エマオの途上の二人の弟子に現れたイエス様 | トップページ | マルコ16:14 見ずして信じる者は幸いである »

共観福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« マルコ16:12.13、ルカ24:13-35 エマオの途上の二人の弟子に現れたイエス様 | トップページ | マルコ16:14 見ずして信じる者は幸いである »

カテゴリー

2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ