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2016年3月 6日 (日)

マルコ15:37-41 主イエス様が息を引き取られた時の情景

15:37イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
15:38そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
15:39イエスにむかって立っていた百卒長〔百人隊長(新改訳)〕は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
15:40また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。
15:41彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。”(口語訳)

 この箇所を補うためにヨハネ19:30-37を下記します。
“19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。”(新改訳)
 マルコ15:37-39には、
“イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。”とあります。
「神殿の幕」といってもイスラエル人でない者、或いは旧約聖書を読んだことのない者にとっては、何のことか分かりませんので、まとめて書いてあるヘブル9:1-7を下に転記します。
“9:1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋〔聖所(筆者挿入)〕には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、
9:7 第二の幕屋〔至聖所(筆者挿入)〕には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。”(新改訳)

 キリストの贖いが成就した時、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです。
そして、イエス様を信じる者は、イエス様の血によってはばかることなく、神の臨在の場所へと入ることが出来るようになったのです。
ヘブル人への手紙9:1-7に続いて、9:8-15には、
“9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊〔"霊"(新共同訳)、原語は「霊」であって、聖霊ではありません(筆者挿入)〕によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。”(新改訳)と記されています。

 また、ヘブル4:15.16には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(新改訳)と記されています。
イエス様が贖いを成し遂げられた結果、誰でもイエス様の血の故に、大胆に恵みの御座の前に出ることが出来るようになったことを、上から下まで割かれた神殿の垂れ幕を見ることによって納得させられるのです。また、この時に、旧約から新約へと契約が変更されたのです。

 直接神様のみ前に出ることが出来るようになったというだけではなく、神様は、私たちイエス様を信じる者に対し、聖霊によって、イエス様を信じた者の霊を再生してくださり、その霊の内に主がお住まいくださったのです。キリスト者の霊はまさに至聖所に相当するのです。

 話を元に戻しますが、「イエスにむかって立っていた百卒長〔百人隊長(新改訳)〕は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』。」(マルコ15:39)と記されています。
イエス様が十字架に張り付けられたときの態度、十字架上の態度、十字架上で語られたことば、暗闇が3時間続いたこと、等々を目の当たりにした百人隊長は、「イエス様は神の子であった」、と心に強く感じたのでしょう。

 ヨハネ19:31には、「 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。」とあります。
「その日は備え日であった」とあります。
何の備え日であったのでしょうか。
イエス様が十字架の上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時でした。日没とともに土曜日の安息日が始まるのがユダヤの暦です。その上、この安息日は一年の中でも特別の日で過越しの祭りの第一日目であったのです。
新聖書注解によると
“エルサレム神殿では、過越しの祭りを迎える夕べの礼拝がいつもより早く、午後一時半頃から始まっていた。そして神殿で過越しの子羊がほふられる午後三時頃、まことの過越しの子羊であるイエスが十字架上で息を引き取られたのである。・・・・。安息日が始まる前に、十字架につけられた者たちの死体の埋葬が出来るように、ユダヤ人たちは、「すねを折って」死を早めることをピラトに願い出た。ユダヤの律法によると、死刑にされた者の死体を翌日まで木の上にかけておくことは出来なかったからである(申命記21:22.23)。”とあります。

 コロサイ2:16.17には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(新改訳)とあります。
イエス様が十字架上で過越しの子羊、即ち予型ではなく実体である神の子羊として贖いを成し遂げられた後は、ユダヤの過越しの祭りは必要がなくなったのです。しかし、霊の目が開かれない人達は旧約聖書に示された祭りを続けていきました。イエス様を信じて霊の目を開かれた人たちは、ヘブル9:14に「死んだ行いから離れ」とあるようにユダヤ神殿で過越しの動物を屠ることはやめたでしょう。

 話を元へ戻します。ヨハネ19:32.33を読むと、「それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」と記されています。
また、ヨハネ19:36には、「この事が起こったのは、『彼の骨は一つも砕かれない』という聖書のことばが成就するためであった。」と記されています。
これは、詩篇34:20に記されている「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」(新改訳)という聖書のことばの成就であった、とヨハネは語っているのだと思います。

 ローマの兵士は、イエス様が死んでいるのを見届けた(33)にもかかわらず、「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。」(34)のです。すると、「ただちに血と水が出て来た」(34)のです。
「血と水が流れ出た」ということについてですが、それによってイエスの死をより確かに確認したという見えるところの物質的な意味よりも、霊的な意味に大いなるものがあります。
「イエスの血」は、罪を贖う血です。イエス様の血によって罪は赦され、聖くされるのです。
「水」にはいくつかの解釈がありますが、私は、「生ける水」と捉えます。
イエス様はかつて、“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。”(ヨハネ7:37-39・新改訳)と言われました。

 神様は、アダムを創造し、アダムのあばら骨からエバを造り(創世記2:7)、アダムの妻としました(創世記2:22-24)。
神様は、イエス様の脇腹から流れ出た血と水によって、新創造された(2コリント5:17)キリストの妻である教会を生み出しました(エペソ5:32)。

 人は、自分の行いによって義を得るのではなく、キリストの血によって、罪を赦され、聖とされ、義とされるのです。キリストの血はすでに流されましたが、その血を自分に適用する為には信仰が必要なのです。自分の行いに重きを置いた時には、キリストの血を脇に退けているのです。キリストの血の他に救いはありません。キリストの血だけが救いの根拠です。キリストの血に目を留めることを忘れ、自分の行いに目を留める人は洗礼を受けたといっても救いの確信が揺らぎます。
エペソ2:8.9には、「あなたがたは、恵み〔ここではキリストが十字架上で流された(筆者挿入)〕のゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。」(新改訳)と記されています。
(ヘブル9:22)には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(新改訳)としるされ、
イエス・キリスト様を信じた人に対して、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル10:10・新改訳)、また、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです〔永遠に完全な者となさったからです(新共同訳)〕。」(ヘブル10:14・新改訳)とへブル人への手紙の執筆者は聖霊の導きによって記しました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様が贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
イエス様の血の故に、罪赦され、義とされ、聖とされましたことを感謝します。イエス様は、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と語られましたが、私の内からも流れ出て、あなた様が私のような者をも通しても崇められてまいりますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

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