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2020年6月16日 (火)

マラキ3:2-5 精錬される者と滅ぼされる者/きよい歩みをする者の幸い

 マラキ32-5には、
2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって、義によるささげ物を献げる者となる。4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を喜ばせる。5 「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──”(新改訳2017)と記されています。

 2節冒頭には、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。」とありますから、これはキリストの初臨についてのことではありません。
イエス様の初臨の時には、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」(ヨハネ1246.47・新改訳2017)とイエス様は語られました。
イエス様は、このように話された後、終わりの時の裁きについても次のように話されました。
「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」(ヨハネ1248・新改訳2017)とあります。

 マラキ35には、「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。」とありますが、これは明らかに裁きについて述べている聖句です。
 黙示録の最後の章である2215節には、「犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。」(新改訳2017)と記されています。

 黙示録2215に、「犬ども」とありますが、犬どもとは何でしょうか。
イエス様は、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」(マタイ76・新改訳2017)と語られました。
イエス様が語られた「犬」や「豚」は、ある種の人間を指して言っています。
聖なるもの、例えば、みことばを犬に語っても向き直って、あなたがたをかみ裂くようなことはないでしょう。
「犬」や「豚」とは、御言葉を語ると、むきになって咬みついてくる人、あかしをするとむきになって襲って来るor襲わんばかりに向かってくる人のことを述べているのだと思います。
御言葉に激しく敵対する人は、主なる神に敵対しているのです。

 イエス・キリスト様は、神のことば、と言われたお方です。
黙示録1913には、“その名は「神のことば」と呼ばれていた。”(新改訳2017)と記されています。
ヨハネ1章には、“1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。/14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(新改訳2017)と記されています。
イエス・キリストというお名前は一度も出てきませんが、この箇所の「ことば」が、イエス・キリスト様を指しているのは明白です。

 神のことばを拒否する人は、主イエス・キリストを拒否しているのです。
主を拒否することが、罪の本質です。〔アダムは主なる神のことばを拒否して堕罪したのです(創世記31-12参照)。それは主なる神を拒否し、サタンを受け入れたということでした(当人がそのように思わなかったとしても)。それ故、アダムの子孫であるすべての人に罪{Sin、原罪、罪の性質、(内に住んでいる)罪}が入ったのです(ローマ512720)〕。
ヨハネ169には、「罪とは、わたしを信じないことです。」(リビングバイブル)と書いてある通りです。この真理は、助け主(パラクレイトス)即ち、聖霊(ト・プニューマ・ト・ハギオン)が来ると分かる、と主は言われました(ヨハネ167.81426)。

 2c.3節には、「まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって、義によるささげ物を献げる者となる。」とあります。
 ここには、主の懲らしめによってレビの子らは清められ、主にささげ物を献げる者として、主が整えられるということが述べられています。
キリストの千年王国では、再び、祭壇に献げ物がささげられるようになります。
 
 この預言は、大患難時代のことではないかと思います。
エレミヤ307には、「災いだ、その日は大いなる日、このような日はほかにはない。ヤコブ〔イスラエル(筆者挿入)〕の苦しみの時だ。しかし、ヤコブはここから救い出される。」(新共同訳)と記されています。
また、ゼカリヤ138.9には、「この地〔イスラエルの地(筆者挿入)〕のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え、『彼こそわたしの民』と言い、彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう。」(新共同訳)と記されています。

 精錬されたこのイスラエルの人たちは、皆救われるのです(ローマ1126.27)。
イスラエル人と言ってもキリストを抜きにして救いはありません。
 ゼカリヤ1210-14には、
10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。12 この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。13 レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。14 残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。”(新改訳2017)と記されています。
ここに記されている「嘆く」人たちは、嘆きと共に罪を悔い改め、イェシュア(イエス)をメシア(キリスト)として信じる人達です。

 時系列的には、ゼカリヤ12章のこの箇所は、キリストの地上再臨に伴うイスラエルの地におけるこの嘆きの前に、天における花婿キリストと花嫁{(すなわちエクレシア・天にいるキリスト者の総体}との婚宴が終わった後のことです。大患難時代の前にキリストの花嫁は天に上げられると私は考えています。

 キリスト者は、立場としては、聖なる者とされました。
ヘブル1010には、「・・・イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(新改訳2017)と記されています。
しかし、日々の歩みにおいては、サタンの惑わしや、十字架につけたはず(ガラテヤ524)の肉の働き等によってきよくない歩みをすることがあります。
それゆえかどうかは分かりませんが、使徒ペテロは、“13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。”(1ペテロ1章・新改訳2017)と述べています。

 聖なる歩みは、いつも主と交わり、サタンの策略を見破ってサタンを撃退し、また、十字架につけられたはずの肉による言動が現れそうになるときには、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ524・新改訳2017)という御言葉に立脚し、即ちその御言葉に信仰を働かせ、聖霊に満たされて(聖霊の支配の下に)歩むということが肝要であることを体験上思います。しかし、失敗することもあります。主は、そのためにも1ヨハネ19の「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(新改訳2017)という御言葉を用意してくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたとの間に罪のゆえに壁が出来てしまうようなことがなく、いつも三一の主なる神様との親しい交わりを頂きつつ歩む者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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