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2020年6月20日 (土)

ヨシュア1:1-9 主への信頼と主への服従

 ヨシュア記に入る前に、申命記31章には、
14 それから主はモーセに言われた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、あなたがたは会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。/23 それから主はヌンの子ヨシュアに命じられた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエルの子らを、わたしが彼らに誓った地に導き入れるのだ。わたしが、あなたとともにいる。」”(新改訳2017)と記され、
 また、申命記349には、“ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。・・・。”(新改訳2017)と記されています。

 ヨシュア11には、「主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。」(新改訳2017)とあり、主がヨシュアに告げられた御言葉が29節まで続きます。

 ヨシュア12-9には、
2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海〔地中海(筆者挿入)〕までとなる。5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたとともにおられるのだから。」”(新改訳2017)と記されています。

 モーセが死んだ後、ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川の東側にあるモアブの草原で30日間喪に服しました(申命記345-8)。 

その後、主は、ヨシュアに、「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」(2)と命令を下しました。

 次に主は、ヨシュアに、イスラエルに与える土地の範囲について、「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。」と語られました。
北側は、レバノンと現シリアのユーフラテス川までを、主は、イスラエルに与えると語られました。

 次に主は、ヨシュアにすばらしい約束を与えてくださいました。
5
節には、「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。
 「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。」と主が言われるのですから、ヨシュアは無敵です。
 ヨシュアがかくも強い理由は、常に主が共にいてくださるから、ということでした。
とはいえ、主が御力を発揮してくださる条件というものがあります。
それは、主への信頼と服従です。主に信頼し続けること、主に従い続けること、が大切なのです。

 カナンの地には、イスラエル人たちよりも大きな体の人たちもいました。
以前パランの荒野にいた時、カナンの地に偵察隊を送り出したことがありました。偵察隊が、偵察を終えて帰還した後、その人たちの多くの人は何と言ったでしょうか?
民数記1332.33には、“32 彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」”(新改訳2017)と報告したのです。
偵察隊の大部分の人には、主への信頼の言葉が全くありませんでした。大男を見て心が恐れに支配されたのです。
後に、ダビデと戦ったゴリアテは大男であったと記されています(1サムエル174)。誰のものかは分かりませんが、考古学的にも骨が発掘されていて、今や大男が住んでいたことが証明されています。

 更に主は、ヨシュアが、主の命令を遂行するために大切なことを69節で語られました。

 6節と7節の冒頭には、「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。ただ強くあれ。雄々しくあれ。」とあります。
 生まれつき勇敢な性格を持っていたとしたら、「強くあれ。雄々しくあれ。」と語られることはないのではないかと思います。ヨシュアはすばらしい人でしたが、主に、「強くあれ。雄々しくあれ。」と言われねばならい人でした。しかし、ヨシュアは信仰の人でした。
先に斥候の話をしましたが、あの時遣わされた斥候は12人でした。その中の二人、ヨシュアとカレブのみが、大男を相手にしても、主に在って勝てる、とイスラエルの民に語ったのです。
そのときの言葉が民数記147-9に、「7 ・・・。私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。8 もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。9 ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(新改訳2017)と記されています。

 上記のように語ったヨシュアでしたが、それでも主は、「強くあれ。雄々しくあれ。」と語られたのでした。
いざ戦いに出て行くと、難攻不落と思える城壁に囲まれたエリコの町に遭遇していくのです。それは思いもよらぬことであっただろうと思います。

 どのような環境状況の中にあっても、主に在って、強く、雄々しく、進み行く必要があったのです。簡単なことではありません。逃げ出せば、主に対して不信行の罪を犯すのです。
6
9節の間に、「強くあれ。雄々しくあれ。」という主のことばが3回も出てくるのです。
私がヨシュアの立場に立たされたら、無理です、と答えたであろうと思います。
主に信頼するよりも現実の方が大きく見えてしまうからです。ですから、私の信仰では無理なので、ヨシュアのような用いられ方はしません。
 しかし、それでもその立場に立たされたとしたら、信仰は賜物です(ローマ1231コリント129)から、主に在って、強く、雄々しい状態でいられることが実体化されるように主に祈り求めます。世の中には、主が共にいてくださらないのに、とても勇気のある人もいますが、私は、主が共にいてくださるのに小心者ですから、祈って確信を与えられなければ出て行けそうにもありません。主は信仰の弱い人をもカバーしてくれています。ローマ141には、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(新改訳2017)と記されています。
主は信仰の弱い人も受け入れてくれるのです。
それなら信仰の弱いままでもいいや、というわけにはいきません。
ローマ117には、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(新改訳2017)と信仰から信仰へと進むように、と記されています。

 さて、主が共に働いて下さるために大切なことが、7.8節に、「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」とあります。
一言で言えば律法を守り続けなさい、ということです。
イエス様は、「17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5章・新改訳2017)と語られました。

 私は、律法を守らなければ救われない、と言っているのではありません。救われるためには、イエス・キリスト様を信じること、即ち心にお迎えすることです。
律法の根底は、神を愛し、隣人を愛するということです。それなら簡単という人は、1コリント13章を読んでみてください。

 主は、主と一つ心となっている者に御力を現すことが出来るので、ヨシュアに律法を守りなさい、と語られたのであろうと思います。
 祈りに関して、ヤコブは、「義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」(ヤコブ516・口語訳)と語りました。
 預言者ハナニがユダの王アサに、「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(2歴代誌169・新改訳2017)と語っています。

 主と一つ心になっていくためには、日々、みことばを読み、御言葉によって自分自身が形成させていく必要があります。
主はヨシュアに「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。」と命じられました。

 ダビデは、“1:1 いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、2 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。/6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。”(詩篇1篇・新共同訳)と述べました。

パウロは、「9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。11 神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ19-12・新改訳2017)と、とりなしの祈りをしました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たち一人一人を、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たしてくださいますように。また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長させて頂けますように。神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容な心でいられますよう整えてください。また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげる者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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コメント

信仰の人でも、更に主から念をおされているという事は、これでよしという事はありえないという事を学びます。義人は1人もいないという事を表してくださっていると思いました。
人同士の争いや憎しみ合いやさばき合う事は、本当に不要な事で、どんな時でも主に信頼を置いて歩んでゆく事の大切さを改めて学びます。

アーメン

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