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2020年9月 3日 (木)

1サムエル1:21-2:11 乳離れしたサムエルを主に献げ、主に祈るハンナ

 21‐23節には、
“21 夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって上って行こうとした。22 しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。23 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。”(新改訳2017)と記されています。

 エルカナは敬虔な人です。だからと言って自分の信仰を押し付ける人ではありませんでした。ハンナがエルカナに「この子〔サムエル(筆者挿入)〕が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは〔行きません(筆者挿入)〕」と語ったとき、エルカナは「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。」とこたえ、ハンナの思いを受け入れました。エルカナの言葉はそれで終わらず「主がそのおことばを実現してくださるように。」と言ってハンナにくぎを刺すと共に主に祈りました。

 24‐28節には、
“24 その子〔サムエル(筆者挿入)〕が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。25 彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。26 ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。27 この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。28 それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。”(新改訳2017)と記されています。

 24節に「子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り」とあります。
同じ個所を、
新改訳第三版は「雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り 」と訳し、
新共同訳は「三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れて  」と訳し、
口語訳は「三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、 その子を連れて 」と訳しています。

 「子牛」(新改訳2017)、「雄牛」(新改訳第三版、新共同訳、口語訳)と訳された語の原語は「パル」で、bullock (若い雄牛)の意ですが、子牛、雄牛の意にも用いられます。
 次に、「子牛三頭」なのか「三歳の雄牛」なのかについて、
ヘブライ語聖書のマソラ本文は「パル(若い雄牛)三頭」とあり、七十人訳、シリア語訳は「三歳の雄牛」となっているそうです。

 2:11に「エルカナはラマにある自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。」(新改訳2017)と記されていますから、エルカナとハンナは「〔サムエルが(筆者挿入)〕乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。」(1:24・口語訳)のです。そして、エルカナとハンナは、若い牛を屠り、その子をエリのところに連れて行きました(25)。そして、祭司エリにハンナが語った言葉が26‐28節に記されています。
 26‐28節のハンナが語った言葉をリビングバイブルは、
「26 祭司様。私のことを覚えておいででしょうか。かつて、ここで主に祈った女でございます。27 子供を授けてくださいと、おすがりしたのです。主は願いをかなえてくださいました。28 ですから今、この子を生涯、主におささげしたいのです。」と意訳しています。

 祭司エリに26-28節の内容を申し述べた後、二人は主を礼拝しました。
そして、ハンナは主に次のように祈ったのです。

 1サムエル2:1-10には、ハンナの祈りが、
“1 ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。2 主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。3 おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。4 勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。5 満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。6 主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。9 主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」”(新改訳2017)と記されています。

 1節には、“ ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。”とあります。
 獣の「角」は、力と権威の象徴です。「角」と表現する時、それは力や権威を意味しています。
 「私の敵」:ハンナの敵は、ハンナを散々いじめてきたペニンナです。
 「私があなたの救いを喜ぶからです」とは、子どもを授けられたことによってハンナは救われたのです。
 キリスト者は、人を敵とはしません。キリスト者の敵は、主に敵対する霊的存在者です(エペソ6:12)。

 2節には「主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。」とあります。
 ここの「主」は「ヤハウェ」です。ヤハウェはまことの神のお名前であると共に、ヤハウェには、永遠にして自存の意があり、ヤハウェ以外のすべてのものはつくられたものです。
 「聖」とは、他のものと分離されている、の意です。「聖」のヘブライ語は「カードーシュ」です。
 ヤハウェは、永遠にして自存のお方、万物の創造者ですから、「聖」であると表現することがふさわしいお方です。
 「岩」と訳された語のヘブライ語は「ツール」で、崖、断崖、絶壁、岩、神、・・等の意があります。旧約聖書では岩は安全,守護を象徴的に表しています。私の言葉で言えば「私たちの神のようなシェルターはありません。」となります。

 3節には「おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。」とあります。
 主は全知全能の神です。主を知れば、高慢になることは出来ません。主を知った人は、主に対して謙遜になります。

 4節には「勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。」とあります。
 主は、勇士の弓を砕くことが出来ますし、弱い者に力を帯びさせることもできます。主は全能です。

 5節には「満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。」とあります。
 主は、豊かなものを貧しくすることが出来、飢えている者の飢えを解消することが出来、不妊の女に子供を与えることが出来るお方です。主は全能の神ですから。
「不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。」というのは、自分とペニンナのことを言っているのでしょう。ハンナは実際には、サムエルの他、三人の息子と二人の娘を産みました(21)から、ハンナが産んだ子は6人です。

 6節には「主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。」とあります。
このようなことは主には出来ても人には出来ません。人は人を殺すことは出来ますが、その人を再び生かすことは出来ません。

 7節には「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。」とあります。
主にとって、この様な事をすることは容易なことです。

 8節には「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。」とあります。
 この箇所を以前のリビングバイブルは、「貧しい者をちりの中から、そうです、灰の山から引き上げ、まるで王族のように取り扱い、栄光の座につかせてくださいます。この世はすべて神様のものなのですから。この世界を秩序立てたのは神様です。」と意訳しています。

 9節には「主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。」とあります。
主は、主を畏れ敬い、主に信頼する者を守ってくださいます。

 10節には「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」とあります。
主は、これらの事を折々に行われます。

 ハンナは、主(ヤハウェ)が聖であられること、主が全知全能であられること、主がご自身の御意志で人をいかようにすることもお出来になること、主が高慢を嫌われること、主がシェルターとなってくださること、主がご自身の義に基づいて裁きをなさること、主が命の支配者であること等を賛美しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたに愛され、あなたに導かれ、あなたに支えられてこの地上を歩ませて頂くことが出来ますことを感謝します。
地上の生涯を終えた後には、天において、とこしえに、あなたと主イエス様と共に暮らすことが出来ますことを感謝します。
地上においては霊的感覚において主と共にいることが出来ますことを感謝します。
尽きざる感謝と共に我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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学べば学ぶほど、神様を知れば知るほど、父なる神様以外の神様はいない事がわかり、導いてくださった事に感謝します。

ハレルヤ!

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