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2020年9月23日 (水)

1サムエル15:10-35 サウル、王位から退けられる

 10‐11節には、
“10 主のことばがサムエルに臨んだ。11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。”(2017)とあります。

 11節の「」の箇所を新共同訳と聖書協会共同訳は「サムエルは深く心を痛め」と訳しています。
サウルが主のご命令を守らなかったことに対して、サムエルの心は、怒りや無念さで心が熱くなったのでしょう。「怒り」と訳された語の原語は「ハーラー」で、熱くなる、温かくなる等の意がありますが、怒る、嫉妬する、燃え上がる、熱意、熱情、不快にされる、等の意もあります。

 主とサムエルはサウルに対して不快感を持っていましたが、サウルの心は戦績に満足していたようです。12.13節には次のように記されています。
“12 翌朝、サムエルはサウルに会いに行こうとして早く起きた。すると、サムエルに、「サウルはカルメルに来て、もう自分のために記念碑を立てました。そして向きを変えて進んで行き、ギルガルに下りました」という知らせがあった。13 サムエルはサウルのところに来た。サウルは彼に言った。「あなたが主に祝福されますように。私は主のことばを守りました。」”(2017)とあります。

 サウルはサムエルに「私は主のことばを守りました。」と言っていますが、本当にその様に思っていたのでしょうか、私には分かりません。サウルは、主が「アマレクを聖絶せよ」と語られたことを、「アマレクを打ち破れ」くらいに聞いていたのでしょうか。

 14.15節には、“14 サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」”(新改訳2017)とあります。

 サムエルの質問に対してサウルは、主に対する罪を、すべて兵士のせいにしました。
主は「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。」(3)と命じられていたのですが「兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。」とサウルは言い逃れをしようとしています。
 
 もっともらしい言い逃れをしようとしても、主は心の中をご覧になるお方です。主はサウルを王位から退けました。16-23節に次のように記されています。
“16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に言われたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。18 主はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』19 なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」20 サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。21 兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」”(新改訳2017)とあります。

 サムエルは、サウルに、サウルの王位が取り除かれたことを伝えました。

 17節に「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。」とありますが、牧師や伝道師、教会役員にとっては重いお言葉です。
リーダー的存在の人には責任が伴ってくるからです。サウルのように、それなのに・・・と言われないようにするには、誠実に主のみ前を歩む必要があります。

 22.23節のお言葉も厳しいお言葉です。主のお言葉に従わないことは、即ち偶像礼拝である、ということを述べています。主のお言葉よりも自分の考えを上に置く者は、主より偉くなっているのです。謙遜とは、主に従うことです。
とはいっても人は肉体を持っているので、従うのが難しい場合もあります。その時には、ありのままの状態を主に申し上げ、主に造り変えていただくことや主の大能の力によって強められることが大切であると思います。

 24‐31節には、
“24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです。25 どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が主を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」
26 サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは主のことばを退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。28 サムエルは彼に言った。「主は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれた隣人に与えられました。29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」31 サムエルはサウルについて帰り、サウルは主を礼拝した。”(2017)とあります。

 24.25節の箇所を見ると、サウルは「私は罪を犯しました。・・・どうか今、私の罪を見逃してください。」とサムエルに言っています。
主は罪を見逃しません。罪は見逃してもらうものではなく、主のみ前に悔い改めて主が定められた方法に従って赦してもらうものです。

 25節に「私が主を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」とサウルはサムエルに頼んでいますが、この様に語った動機は、30節に「私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。」ということであったのです。自分の王としての体裁(対面)の方が、主との関係よりも大切なサウルであったのです。サウルは自分の体面を維持するためにサムエルと主を利用しようとしたのです。

 サウルには、主のご命令に従わなかった罪に対して、悲しんでいるところが見えません。
サウルが本心から悔い改めなかった結果、何が起こったのでしょうか?
王位から退けられました(26)。それ以上に良くないことは、主の霊が去って、悪しき霊に支配されたことです。
1サムエル16:14には「・・主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。」(新改訳2017)と記されています。

 32‐35節には、
“32 サムエルは言った。「アマレクの王アガグを、私のところに連れて来なさい。」アガグは、喜び勇んで彼のもとに来た。アガグは「きっと、死の苦しみが去るだろう」と思ったのであった。33 サムエルは言った。「おまえの剣が、女たちから子を奪ったように、おまえの母も、女たちのうちで子を奪われた者となる。」こうしてサムエルは、ギルガルにおいて主の前で、アガグをずたずたに切った。
 34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。35 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。”(2017)とあります。

 サムエルは、主のご命令に従って、サウルがしそこなった聖絶を果たしました。その後、サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行きました。

 34節には「サムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」とあります。

 サウルはサムエルにきつい言葉を語り続けましたが、サウルのことで悲しんだのです。

 また「主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」とあります。
11節にも「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」という主のお言葉があります。
29節の「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」という言葉は、主が語られたとは記されていません。サムエルの思いであろうと思います。
「悔やむ」と訳されている語の原語は「ナーハム」で、ため息をつく、の意です。その他、後悔する、かわいそうに思う、同情する、・・・等々の意にも用いられます。
 主が悔やまれた箇所は、創世記6:6とエレミヤ42:10にも出てきます。
創世記6:6の「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とエレミヤ42:10の「もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。」の聖句です。これらの箇所の「悔やむ」の原語も「ナーハム」です。 

 私たちは、イエス様の言動から御父の思いを推察することもできるのではないかと思います。父と子は一つなのですから(ヨハネ10:30)。
イエス様のお言葉として、マルコ8:12には“イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか。まことに、あなたがたに言います。今の時代には、どんなしるしも与えられません。」”(2017)とあり、「ため息」の語は出てきませんが、ルカ13:34の「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(2017)と記されている個所は、主が嘆息されながら語られたのではないかと思います。
 ため息ではありませんが、ルカ19:41.42には、“41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。 42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。 ・・・。”(2017)という聖句があります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたや主イエス様に余り嘆息させないですむような生き方をすることが出来ますよう助け導いてください。
主のため息とは反対の、主が喜びをもって笑顔で私たちを見てくださるような歩みをすることが出来ますよう助けてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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コメント

15節のサウルの言葉は、ヨシュア記に出てくるアカンを思い出しました。
自分の欲が前に出れば、何も良いことは起きないという事を改めて学びます。
サウルは、主の信仰のテストにも落ちてしまい、王位からも退けられる姿は、なんだかかわいそうな気もします。主に従わないから当たり前の事なのですけれども。
サムエルは、自分の息子を照らし合わせていたのかな?と思いました。
そういえば、一度もサウルが神様にお伺いする場面が出てきていないな?と思いました。
どんな時でも主に信頼を置く…習得、癖がつくまで、中々時間を要しそうですが、少しずつ「こういう時」と意識出来る様に慣れてきている気がします。まだまだですけれども。

“どんな時でも主に信頼を置く…習得、癖がつくまで、中々時間を要しそうですが、少しずつ「こういう時」と意識出来る様に慣れてきている気がします。まだまだですけれども。”→
レッスンの内容はアップしていきますから、天に召される時迄、信頼の訓練です。
それ故、1日1日、一歩一歩です。

そうですね、天に召される時までですね!
一歩一歩ですね!

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