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2020年10月 1日 (木)

1サムエル21章 サウルから南の方面へ逃げていくダビデ

 1節の前半部分には「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。」(2017)とあります。
ダビデは、サウルのいるベニヤミンのギブアからノブという町まで来ました。ダビデはギブアからエルサレム方面へと逃げていることになります。エルサレムはギブアより南になります。ダビデは自分の故郷の方に向かっているのです。

 1節後半部分には、“アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」”(2017)とあります。
 ギブアとノブはそれほど離れてはいません。祭司アヒメレクは、ダビデがサウルの娘婿であること、ダビデがサウルの命令で戦いに行くこと、またサウルから良く思われていない関係になっているということも知っていたのではないかと思います。

 2.3節には、“2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」”(2017)とあります。
 ダビデの行動を不審そうにor心配そうに聞くアヒメレクに対して、ダビデは2節に記されているような嘘を言ってアヒメレクを安心させようとし、更に、「今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」と食料を要求しました。
ダビデは、食料も武器も持たずに逃げてきたようです。
 話は変わりますが、イエス様が、「大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」(マルコ2:26・新改訳2017)と語られたのはこの時のことであったのではないかと推測します。

 4節には、“祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」”(2017)とあり、
 続く5.6節には、
“5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」
6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。”(2017)とあります。

 祭司アビメレクは聖なるパンをダビデに与えても良いかどうかについて、主にお伺いを立て、主の了承を得て後、ダビデに聖なるパンを与えたのです。1サムエル22:10には「アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」(新改訳2017)と記されていますから。
 
 3-6節に関し、ウェスレアン聖書注解は、
“ダビデは五つのパンか、または、手もとにあるものは何でも、と求めた(3)。そこには、正しくは、幕屋で祭司のみが食することの出来た(レビ24:9)儀式用の聖別されたパン(6、出エジプト35:13など)だけがあった。アヒメレクは、儀式上のきよめに関する問題である(→レビ15:18)がもしその若い者たちが女から遠ざかっているなら(4)、すすんで例外をもうけようとした。マタイ12:3において、イエスは、字句を守ることが他の律法の多くの義務を果たすという律法の精神を犯すときには、律法の字句を無視することを正当化するためにこの出来事を用いておられる。普通の旅(5)はむしろ「世事の任務」である。その言わんとするところは、その任務は、世俗的なものであるけれども、聖なるパンは誤用されたり汚されたりしないであろう。ということである。祭司の疑念は晴らされ、ダビデはその求めた食料を与えられた。”と述べています。

 イエス様は「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。」(マタイ5:18・新改訳2017)と語られると共に、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40・新改訳2017)と語られた中に、律法の字句と律法の精神、とウェスレアン聖書注解が述べている土台があると思います。
キリスト者は御霊に導かれて歩むのです(ローマ8:4、ガラテヤ5:16、25)。

 7節には、“ ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──”(2017)とあります。
 このドエグが、少し後にサウル王に、「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」(1サムエル22:9.10・新改訳2017)と言ったことのゆえに悲惨なことが起こりました。それは1サムエル22章に記されています。 

 8.9節には、“8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」
9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」”(2017)とあります。
 ダビデは、祭司アヒメレクに「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。」と要求し、祭司アヒメレクは、主に伺った上で(1サムエル22:10)ゴリヤテの剣も食料と共にダビデに渡しました。

 10節には、“ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。”(2017)とあり、ダビデは、イスラエルの敵であるペリシテ人の王の一人アキシュの領地であるガテに入り込んでしまったのです。ガテはユダ族の土地の近くでした。

 11-15節には、“11 アキシュの家来たちはアキシュに言った。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。13 ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。15 私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」”(2017)とあります。

続く1サムエル22:1前半には「ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。」(2017)と記されています。

 1サムエル21:1-22:1aの後に読まれた詩であると思われるのが詩篇34篇です。
詩篇34篇の表題は「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」とあります。{聖書辞典によると、“アキシュ (〈ヘ〉akis) 「怒る」という意味.マオクの子でペリシテ人の町ガテの王.詩34篇題目では「アビメレク」.この名は王の個人名というより,エジプトのパロのようにペリシテの王を示す一般的な称号かもしれない。”(抜粋)とあります。}

 詩篇34篇は、
“1 私はあらゆるときに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。
2 私のたましいは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
3 私とともに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をほめよ。一つになって御名をあがめよう。
4 私が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった。
34:5 主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。
34:6 この苦しむ者が呼ぶと主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は聞かれすべての苦難から救ってくださった。
34:7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。
34:8 味わい見つめよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。
34:9 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。
34:10 若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。
34:11 来なさい。子たちよ私に聞きなさい。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることを教えよう。
34:12 いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと日数の多いことを愛する人は。
34:13 あなたの舌に悪口を言わせず唇に欺きを語らせるな。
34:14 悪を離れて善を行い平和を求めそれを追い続けよ。
34:15 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目は正しい人たちの上にあり主の耳は彼らの叫びに傾けられる。
34:16 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御顔は悪をなす者どもに敵対し主は彼らの記憶を地から消し去られる。
34:17 苦しむ者が叫ぶと主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は聞かれそのすべての苦難から救い出してくださる。
34:18 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。
34:19 正しい人には苦しみが多い。しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はそのすべてから救い出してくださる。
34:20 主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない。
34:21 悪は悪しき者を殺し正しい人を憎む者は責めを負う。
34:22 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける人はだれも責めを負わない。”(2017)と記されています。
{私の大好きな詩篇の一つです。これは、アレフ、ベート、ギメル、ダレット、ヘー、・・・と節の冒頭がヘブライ語の22文字で始まるアレフベート(アルファベット)の詩です。ただし、ヴァヴがなくペーが2回あります。}

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
ダビデは「私はあらゆるときにヤハウェをほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。」と歌っています。
あなたは、私たちにエペソ5章で「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(2017)とパウロによって命じられましたが、私たちもダビデのように、私と死の間は一歩しかない、というようなときでさえ、あなたを賛美し、あなたに感謝する者であらせてください。あなたはその様にすることの出来る恵みを与えてくださるお方ですから御名を崇め感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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コメント

祭司アヒメレクは、必ず主にお伺いするという事は、やはり日々行っていないと緊急の対応の時にはできない事ですよね。
日々の積み重ねや、他者に対する思いやる行動などを学ばせていただきました。
主がお選びになられたダビデは、素早く様々なことに対応する所、アブラハムも同じ事をされていた様な?気がしました。身を守る為の演技は必要ですね。

この時のダビデの信仰が、もっと確たる状態であったとしたら、語る言葉が少し異なっていたかもしれません。

そうですね…。
そうなると、サウルからの嫉妬心を燃やさずに、もっと上手な方法があったかもしれないですね。
信仰は、様々な出来事が起こるからこそ、確たる状態へと導いてくださるという事なのかもしれないのですね。
初めからという方は、やはりイエス様のみということですね。

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