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2021年11月29日 (月)

キリスト者に与えられた恵み9/聖化2

4.良心のきよめ
 ヘブライ(ヘブル)914には次のように記されています。
 新共同訳は、・・、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。と訳し、
 2017は、・・、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、・・、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうかと訳しています。

 ヘブル(ヘブライ)1022を諸日本語訳聖書は次のように記しています。
 口語訳は、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。と訳し、
 新共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって〔別訳「全き信仰をもって」(欄外注)〕、真心から神に〔「神に」は補足(欄外注)〕近づこうではありませんか。と訳し、
 2017は、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。と訳しています。

 ヘブル914より、良心をきよめるのはキリストの血であることが分かります。
ヘブル1022の聖句をギリシア語聖書(TR)で見ると、2017の「血が振りかけられて」という言葉がありませんが、2017の底本にはあるのかor訳者により補足されているのか分かりませんが、ヘブル1019からの文脈やヘブル914の聖句からみて、もし「血が振りかけられて」という語が訳者の補足であったとしてもそれは妥当であり、理解しやすくなっていると思います。

 キリストの血は、良心をきよめるのです。

 良心とは、善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。とデジタル大辞泉に記されています。

 良心をキリストの血によってきよめられた人とそうでない人の大きな違いは何でしょうか?
良心をキリストの血によってきよめられた人は、「キリストを信じないことは罪である」(ヨハネ169)と言うでしょう。
良心をキリストの血によってきよめられた人は、キリストは神でありまた人ともなられたお方、また神の御子であるお方、唯一の救い主であるお方と信じることに何の疑問もないでしょうし、またキリストのことばを正しいことばであると受け入れることができるでしょう。
 それでは、イスラム教の人はどうでしょうか?
イスラム教徒の親の中には、自分の子どもがキリストを信じたらイスラム教の良心に照らして、子どもを殺すということをする人もいます。
これはヤハウェ(主)からすると汚れた良心です。
 共産主義思想100%の人がいたとします。
その人は無神論です。神を信じるというのは邪道であり罪です。
これも汚れた良心でしょう。
 第二次大戦時、思想の問題によって捕らえられたキリスト者たちがいました。
その時の尋問の中に、「天皇とキリストとどちらが偉いか」というものがあったそうです。
「キリストです。」と答えると有罪です。
有罪宣告した人の良心は、汚れた良心です。

 聖書的倫理観を間違っているとする良心は汚れた良心です。
心にキリストの血の注ぎを受けると、良心がきよめられ、聖書に記されていることを正しいと考えることが出来るようになるのです。

 パウロは幾度もキリスト信仰の故に逮捕されました。
パウロは法廷で、「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって〔全くきよい良心をもって(新改訳第三版)〕、神の前に生きてきました。」(使徒2312017)と証言しています。
それに対して大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じたのです(使徒232)。
大祭司アナニヤは、キリストが神の子であり、救い主であるということを信じていないのです。アナニヤは、ユダヤ教の大祭司でありながら、そしてパウロと同じ聖書(当時は今でいう旧約聖書)を持っていながら、キリストの血の注ぎを受けていないために、聖書を正しく読むことが出来ず、キリストが神の子であり、救い主である、と信じることの出来ない穢れた良心を持っていたのです。その点において、大祭司アナニヤは、善を悪としている汚れた良心の持ち主であることを明らかにしています。

 唯一の真の神であり三一の神であるお方が善とすることを善とすることができるためにはキリストの血の注ぎを受けて良心をきよめて頂く必要があるのです。
 良心がキリストの血によってきよめられると、まことの神の御目から見て正しい善悪の判断が出来るようになるのです。そして、神が「善」とすることを正しいこととし、神が「悪」とすることを悪いことと判断することが出来るようになるのです。
 ヒューマニズム的に生きている人は、聖書の中には善いことも書いてあるけれども、受け入れられないことも書いてあると言うでしょう。それはその人の良心がキリストの血によってきよめられていないからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
キリストの血によって良心がきよめられないと、聖書を読んでも、あなたの御命令に従って歩むということができないことは当然のことであることを教えてくださっておられますから感謝します。
パウロの様に「私は今日まで、あくまでもきよい良心にしたがって、神の前に生きてきました。」と言える可能性を与えてくださっておられますことを感謝します。
パウロのように言えるためには、自分自身を聖別し、毎瞬毎瞬聖霊によって歩む必要を覚えます。
常に聖霊に満たされて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

明日に続く

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