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2022年6月13日 (月)

主イエス様の招きに即座に従ったマタイ

 マタイ99-13には次のように記されています。
“9
イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。
すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
10
イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
11
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、
「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
12
イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」2017)とあります。

 この記事の平行個所がマルコ213-17とルカ527-32に記されています。
ルカ527-32には次のように記されています。
“27
その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。
そして「わたしについて来なさい」と言われた。
28
するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
29
それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。
30
すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。
「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」
31
そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」2017)とあります。

 同じ内容を述べているマタイの福音書とルカの福音書の記事です。両書を読んでわかることは、マタイは、レビであるということです。マルコの福音書は、アルパヨの子レビと記しています(マルコ214)。
12
弟子の氏名一覧の箇所(マタイ10章、マルコ3章、ルカ6章)では、マタイと記されています。

 マタイ913に、“『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。”(2017)とあります。
『 』内は、ホセア66の引用です。
聖書辞典によると、マタイが、マタイの福音書を書いたのはヘブライ語であったということですので、「真実の愛」という箇所について、ホセア66の箇所をヘブライ語聖書で調べると、「ヘセド」(慈悲、慈しみ)となっていました。2017訳のマタイ913の欄外には、あるいは「あわれみ。」と注されています。
マタイ1章を読み、かつマタイの福音書の全文を読むと、いかにもユダヤ人向けに書かれているように思えます(旧約聖書の引用が多いため)。
 聖書辞典には、
マタイがマタイの福音書の著者であるとの初代教会の証言の一つとして、エウセビオスが伝えるパピアスのことば、「マタイはヘブル語で神の語録を集成した。そしてめいめいが、自分の能力に従ってそれらを解釈した」(『教会史』3:39:16)がある。(聖書辞典のマタイの箇所から抜粋)と記されています。
私は、2017が底本にしたギリシア語聖書ではなく、TRを見ていますので、それによると、「真実の愛」の箇所のギリシア語原語は、「エレオス」で、慈悲、慈しみ、親切、・・等の意です。

 マタイ910では、罪びとたちや取税人が大勢食卓に来た理由が書いてありませんが、ルカ529には、レビ(マタイ)は、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。2017)と記されています。

 マタイは、主イエス様に対する感謝と、自分とこれまで関わりのあった人たちへの感謝と証、イエス様を紹介する機会として一席設けたのでしょう。
マタイは素晴らしいことをしたと思いました。
私も洗礼を受けたときに、この様にすることができていたら、自分の証しとイエス様の紹介が一度に出来たことだろうと思います。勿論、集まってくださった方々の中には、怒りに燃える人もいれば、熱心に聞いて下さり自分も信じてみようと思う人もいるでしょうが。
このようなことをすれば、呼ばれた人の中には、もう二度と付き合うことはやめよう、と思う人も起こるであろうということは想定できますが。一方、もっとイエス様のことを聞きたいという人もいることでしょう。

 マタイ911“これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。”とあります。
パリサイ人たちの心の中には、汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ。主の器を運ぶ者たちよ。(イザヤ52112017)のような聖句が刻み込まれていたのかも知れないと思います。汚れたものに触れてはならない。というような意の聖句は聖書の他の箇所にも出て来ます。

 パリサイ人たちは、自分たちを聖く保とうと思っていたのでしょう。
聖書の理解が浅かったのです。
アダムを始祖とする人類の一人一人は、すべての人が罪をもって生まれ、そして人に教えられなくても罪を犯す存在なのです(ローマ512-14、詩篇515)。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ39.10抜粋・新共同訳)と記しました。
ローマの信徒への手紙を書いたパウロもパリサイ人でした。
パウロは、復活後のキリスト・イエス様にお会いし(使徒93-5)、その後罪について深く理解していったのだと思います(ローマ7章)。

 マタイ912.13をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“12
「健康な人には医者はいりません。医者が必要なのは病人です。」とお答えになり、13さらにこう続けました。「聖書に、『わたしが喜ぶのは、いけにえやささげ物ではなく、あなたがたがあわれみ深くなることである』(ホセア66)とあります。このほんとうの意味を、もう一度学んできなさい。わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。」とあります。

 神に立ち返るための第一歩は、イエス・キリスト様を救い主として信じ、イエス様を心にお迎えすることです。
ヨハネ146には、「わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様、
私たちの罪を赦し、罪から解放するために、人の肉を纏い、十字架上で贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
天のお父様も、義と愛のはざまで、心引き裂かれるような思いであったのではないでしょうか。
心からの感謝を献げ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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