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2023年1月30日 (月)

箴言20:30 きよめていただく方法の一つ

 箴言2030を、
2017
は、“傷つくまで打てば、悪は取り除かれる。腹の底まで打ちたたけば。”と訳し、
口語訳は、“傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。”と訳し、
新共同訳は、“打って傷を与えれば悪をたしなめる。腹の隅々にとどくように打て。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“激しい打ち傷は悪を清め、傷は腹の隅々まで清める。”と訳し、
リビングバイブルは、“懲らしめのむちは、二度と悪いことをしないように教えるためです。”と意訳しています。

 注解付新改訳聖書の注は、この節に関し、“罪の罰として肉体的な苦しみを与えることは、その人を罪の中から救い出し、その心をきよめるのに役立つ。”と注しています。

 罪を犯した人に対して厳しい罰を科すことによって、ある人は表面的には二度とその罪を犯すことがなくなるかもしれませんが、別の人は、いかほどに折檻されたとしてもそれを根にもって復讐してくるかもしれません。

 ソロモンは、神様から知恵をいただきましたが、ソロモンの語ったことのすべてが神様からの知恵であったとは思えません。
ソロモンは、極めて罪深いことも行っています。
 1列王記11章には次のように記されています。
4 ソロモンが年老いたとき、女たちは彼の心を、他の神々へと向けさせた。彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。
5
 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべきものミルコム〔幼児をいけにえにする祭儀がありました(筆者挿入)〕に付き従って行った。
6
 ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった。
7
 その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュ〔ケモシュの前で子供を全焼のいけにえとしてささげたことが碑文に記されており、Ⅱ列3:27のモアブの王の長男を全焼のいけにえとしてささげた記事も同様の慣例を示すものである。(聖書辞典)〕と、アンモン人の憎むべきものモレク〔幼児をいけにえにする祭儀がありました。ミルコムとも言われた。(筆者挿入)〕のために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。
8
 また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 人身御供や霊媒、口寄せに関して神ヤハウェ(主)は、次のように明言していました。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。
2
 「イスラエルの人々に言え。イスラエルの人々であれ、イスラエルにとどまっている寄留者であれ、自分の子どもをモレク神に献げる者は必ず死ななければならない。この地の民はその者を石で打ち殺さなければならない。3 私はその者に顔を向け、民の中から絶つ。自分の子どもをモレク神に献げて、私の聖所を汚し、聖なる名を汚したからである。4 もし自分の子どもをモレク神に献げた者に対して、この地の民があえて目をつぶり、その者を死刑にしないなら、5 私はその者とその家族に顔を向ける。その者だけではなく、その者に倣い、モレク神を慕って淫らなことをするすべての者を、民の中から絶つ。6 霊媒や口寄せのもとに赴き、彼らを慕って淫らなことをする者に、私は顔を向け、彼らを民の中から絶つ。”(レビ記20章・聖書協会共同訳)と記されています。

 人の心について神ヤハウェ(主)は、次のように語られました。
「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(エレミヤ1792017)と記されています。
この聖句を新改訳初版~第三版は、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と訳しています。
これが生まれながらの人の心ですよ、と神ヤハウェ(主)は、語られたのです。

 箴言2030には、“傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。”(口語訳)とありますが、そうはならないことがわかります。

 しかし、イエス・キリスト様の贖いの血潮はむちとは違って心をきよくすることが出来るのです。
1
ヨハネ17には、“もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。”(2017)と記されています。

 イエス様の御救いにあずかったとはいえ、私たちが、光の中を歩もうとすると、あの罪、この罪と、罪を示されます。そのときに示された一つ一つの罪を告白することが大切だということも教えてくれています。
1
ヨハネ19には、“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(2017)と記されています。

 1ヨハネ17の「光の中を」を「御言葉の中を」と解釈し(詩篇119:105参照)、
箴言2030の中の「こらしめのむち」(リビングバイブル)を、実際の鞭ではなく、(罪を示してくれる)「御言葉」に変えてみます。
私たちが御言葉の内を歩み続けるようにすると、救われた後に、次々と罪を示され、まるで心を打ちたたかれているような状態になります。しかしキリストの血が流されているので、示された罪の一つ一つを告白し、主にきよめて頂くと心の底まできよめられていくのです。

 箴言2030を聖書協会共同訳は、“激しい打ち傷は悪を清め、傷は腹の隅々まで清める。”と訳しています。
この個所を、肉体の打ち傷ではなく、神の御言葉によって心の内に在る罪の思いや感情、意思を打たれ、心底回心すればキリストの血によってきよめられる、というように理解すると、わかり易いような気がします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
1
ペトロ(ペテロ)115.16には、“あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてある〔レビ192(筆者挿入)〕からです。”(聖書協会共同訳)と記されていますから、聖なる歩みをしていく者としてお整え下さい。
あなたを愛し続け、あなたに信頼し続ける歩みをしていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

30節を読み、今日の学びは避けたいな…と思いました。それは、人に対する恐れが増してしまっている状態でしたので。過去、懲らしめとして人から追い詰められた事、引き裂かれることをされた事を思い出してしまった事が原因でした。学び終えた後、この思いと私の中にある罪をも主にあずけてゆけばよいのだと思えました。
今までは、私の中にある罪が出てきたら自分で改善しないといけないという努力を幼い頃からし続けてきました。聖書を知らなかったとはいえ、自力な事ですよね…。
日々起こる出来事の中で、ようやく言葉として人に話せたりしました。何て愚かで人として最低な人間なんだろう?と思いましたが、同じ様に感じる人もいたりして、救われます。御聖霊が働いてくださったのだと思いました。
人を恐れると罠にはまるという事も同時に体験しましたので、恐れないで主を信じて歩む事の大切さを感じました。
トミーさんが〝イエス様の御救いにあずかったとはいえ・・〟と書いてくださっていたので、私だけがおかしいのではなく、主に示されているのだとわかり安心しました。ありがとうございます。

良かったですね。
ハレルヤ!

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