« 箴言20:14.16.17.19 ときに見られる悪しき光景とキリスト者の歩み | トップページ | 申命記5:2-5 十戒2(申命記5:1-5) »

2023年1月11日 (水)

マタイ15:32-39 私たちの持っているものを用いてくださるのは主イエス様です

 マタイ1532-39には次のように記されています。
32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。空腹のまま解散させたくはない。途中で動けなくなってしまうから。」
33
 弟子たちは言った。
「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょう。」
34
 イエスが、「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
35
 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、36 七つのパンと魚を取り、感謝してこれを裂き、弟子たちにお渡しになり、弟子たちは群衆に配った。
37
 人々は皆、食べて満腹した。余ったパン切れを集めると、七つの籠いっぱいになった。38 食べた人は、女と子どもを別にして、男が四千人であった。
39
 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方〔ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)北西岸にあった地方の名(聖書辞典)〕へ行かれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は弟子たちに、「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいる・・・。」と語っておられます。
この群衆たちとは、今日の個所の前に出てくる29-31節に出てくる人々なのでしょう。
F.B.Meyer
は、29-39節を一つのかたまりとして扱っています。
そのような捉え方をすると、この群衆は、イエス様一行がガリラヤ湖の近くの山にいたので、病人や体の不自由な人たちを治してもらおうとして集まってきていた人たちであったのでしょう。
 29-31節には次のように書いてありました。
29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行き、それから、山に登って座っておられた。30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、手の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足元に置いたの で、イエスはこれらの人々を癒やされた。31 群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 三日間もイエス様と一緒にいて食べ物を持っていないというのは、このような人たちであったのでしょう。その人数は、“女と子どもを別にして、男が四千人であった。”(38)と記されています。
 イエス様は、これらの群衆を空腹のまま帰らせたくないと思われたのです。
32
節には、“イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。空腹のまま解散させたくはない。途中で動けなくなってしまうから。」”と記されています。

 弟子たちは、以前イエス様が5000人以上の人たちに食物を提供したことを思い出せなかったのかどうかは分かりませんが、その時と同じように、「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょう。」と答えています(33)。

 その後の展開は、イエス様が五千人以上の人たちに食物を与えたときと似たような経過で、マタイ1534-38には、
34 イエスが、「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
35
 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、36 七つのパンと魚を取り、感謝してこれを裂き、弟子たちにお渡しになり、弟子たちは群衆に配った。
37
 人々は皆、食べて満腹した。余ったパン切れを集めると、七つの籠いっぱいになった。38 食べた人は、女と子どもを別にして、男が四千人であった。” と記されています。

 私は、この個所を読んでいて、突然タラントのたとえ(マタイ2514-30)とペテロがコルネリウス(コルネリオ)たちの前で行った説教の中の言葉を思い起こしました(主が示してくださったのでしょう)。
それは、「36 神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。37 あなたがたは、ヨハネが洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事をご存じでしょう。38 つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです。」(使徒10章・聖書協会共同訳)という個所です。

 また、使徒18には、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ25章のタラントのたとえでは、1タラント、2タラント、5タラントを預けられた人が登場します。
1
タラントというのはギリシアで用いた計算用の単位で、6000ドラクメに相当し、1デナリオン(デナリ)はローマの銀貨で1ドラクメと等価でした。1ドラクメ=1デナリは、当時、1日の賃金に相当しました。
そこで、1タラントを預かるということは6000日分の賃金を預かるということになります。
6000
日分の賃金を預かるということは、おそらく当時は日当制(?)であったのだろうと思いますから(私の勝手な想像です)、約20年分の給与となります。5タラントの人は約100年分の給与です。
それだけ与えられているのだから、頑張らなくては、と考えるのが一般的であろうと思います。その場合、相当、自力が入っています。

 神であるお方が、神の在り方を捨てて人となられたのが人としてのイエス様です(ピリピ26.7)。それは人として贖いを成就し(1テモテ25.6)、人として働くところの模範を弟子たちに見せるためでもありました(使徒1038、ヨハネ1412)。
神である御子は無限大タラントの能力を持っておられるのです。
しかし、聖書は、「ナザレのイエスは、神の聖霊と力とに満たされて、すばらしいみわざを行い、また悪霊につかれている人たちをみないやしながら、各地を巡回されました。それは、神様がこの方と共におられたからだということも、きっとご存じでしょう。」(使徒1038・リビングバイブル)という使徒ペテロの言葉を載せています。
 キリスト者はそれぞれ何タラントを預けられたのかは分かりませんが、いずれにしても無限大タラントをお持ちの主なる神様に自分のすべてを捧げるとき、主が大きな働きをしてくださり、捧げた人は主の栄光をほめたたえるという図式になるのだと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたに命じられたこと、あなたの導き、それらさえもあなたに一度お渡しし、あなたの御力によってことを行わせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
<主よささぐる>(聖歌296番、聖歌総合版277番)
1.主よ ささぐる わが身と魂(たま) 愛のみ手に収めたまえ 幸にまが(禍)に我は祈らん 「主よ 御心なし給(たま)え」と
2.雲にかすみ 定かならぬ 我が望みも消したまわず 涙の意味 よく知り給う 主よ 御心なし給えや
3.我行く手は つゆしらねど ただみ旨を頼りにゆかん あまつ家の門(かど)にて言わん 「主は御心なしませり」と
アーメン

« 箴言20:14.16.17.19 ときに見られる悪しき光景とキリスト者の歩み | トップページ | 申命記5:2-5 十戒2(申命記5:1-5) »

日ごとの恵みⅩ」カテゴリの記事

マタイによる福音書」カテゴリの記事

コメント

学びを進める中で、私も今日、同じようなことが浮かびました。学び進めてゆく中で、マタイ25章の聖句を記載してくださっていましたので、吃驚しました。それと同時に与えられている事に動く時である、と言われている様に思いました。やるべき事は、地上での財を増やすことではないですものね。

アーメン。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 箴言20:14.16.17.19 ときに見られる悪しき光景とキリスト者の歩み | トップページ | 申命記5:2-5 十戒2(申命記5:1-5) »

カテゴリー

2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ