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2023年2月24日 (金)

マタイ17:14-20 悪霊に憑かれた子から悪霊を追い出したイエス様/悪霊追い出しの信仰

 マタイ1714-20の個所の並行記事であるマルコ914-29には次のように記されています。
14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
15
 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
16
 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
17
 群衆の一人が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
18
 霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
19
 イエスはお答えになった。
「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れて来なさい。」
20
 人々はその子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子に痙攣を起こさせた。その子は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
21
 イエスは父親に、「いつからこうなったのか」とお尋ねになった。
父親は言った。「幼い時からです。22 霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。」
23
 イエスは言われた。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」
24
 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」
25
 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものを言わせず、耳も聞こえさせない霊。私の命令だ。この子から出て行け。二度と入って来るな。」
26
 すると、霊は叫び声を上げ、ひどく痙攣を起こさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
27
 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
28
 イエスが家に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
29
 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節には、“一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。”とあります。
「一同」というのは、主イエス様、ペテロ(ペトロ)、ヤコブ、ヨハネの4人です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、山でイエス様の光輝く変容を見、モーセとエリヤを見、御父の声を聞いたのでした。まさしく天国にいるような状態を経験していたのです。

 ところが、下山してみると、そこは、悪霊の支配に困惑している世界でした。
話をすることができず、全身けいれんを発生させる霊に取り憑かれた子供がいたのです。この霊についてマタイ1718には、悪霊と記されています。
悪霊と訳されているギリシア語聖書の原語は「ダイモニオン」です。
マルコ917では、「ダイモニオン」ではなく、「プニューマ アラロス」{口をきけなくする霊(2017)}と記されています。

 このダイモニオンによって、取り憑かれた子供、父親は非常に苦しんでいたことと思いますし、その子から悪霊を追い出すように頼まれたイエス様や3人の弟子たちを除いたところのイエス様の他の弟子たちは、悪霊追い出しを頼まれても、それができずに困っていたのです。

 このところで悪霊を追い出せずにいた弟子たちも、かつては悪霊を追い出していたのです。
マルコ6章には次のように記されています。
7 イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた。その際、汚れた霊を追い出す権能を授け/
12
 十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。13 また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この弟子たちは、宣教旅行に出された時に、悪霊追い出しの権能を授けられていましたから、その時には悪霊を追い出すことができた、と考えることもできますが、マルコ928の「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」という弟子たちの質問個所を読むと、おそらく宣教旅行後も悪霊追い出しをしていたのではないかと思えます。

 マルコ928の「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」という弟子たちの質問に対して、マタイ1720における主イエス様のお答えは、「信仰が薄いからだ」(聖書協会共同訳)とあります。

 マルコ929の方では、“イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われた。”と記されています。
この聖句は、信仰は賜物であることがわかります。
弟子たちは、悪霊を追い出せるという信仰に満たされていたら、悪霊を追い出せたのです。
しかしそのような状態でないときには、その信仰が与えられるように祈る必要があるでしょう。
それゆえ、“イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われた。”のだと思います。

 ローマ123には、“わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。”(新共同訳)と記され、
エペソ28には、“・・あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。”(新共同訳)と、信仰は神の賜物(贈り物)であると記されています。

 1コリント124-11には次のように記されています。
4 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
5
 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6
 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。
7
 一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
 ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、
9
 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、
10
 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています
11
 しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 信仰があるからといって、信仰のみが御業を行うのではなく、信仰に基づいて主が御業を行ってくださるのです。

 マルコ921-24には、子供の父親とイエス様の会話が次のように記されています。
21 イエスは父親に、「いつからこうなったのか」とお尋ねになった。
父親は言った。「幼い時からです。22 霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。」
23
 イエスは言われた。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。
24
 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」”とあります。
父親は、自分に信仰がないことを認めて悔い改めたのです。
イエス様はその父親に応えてくださいました。

 イエス様は、信仰はあるかないかであることを次のように語られました。
“イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」”と教えられました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
救われるためには救いの信仰、病の癒しのためには癒しの信仰、悪霊追い出しのためには悪霊追い出しのための信仰、・・・等々が必要であることを覚えます。
必要な時に必要な信仰を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

自力でなんとかしようと思ってきた事を、主に委ねるという所からであるとも思いました。
私も信仰が薄いので、主に祈り導いていただきたいと思います。

主に委ねるお祈りをしたのに、主にお渡ししないで持ち帰る人が多いのです。
委ねることが出来るようになると素晴らしいですね。

委ねることは中々難しいです。トミーさんが仰る様になれると素晴らしいことだと思います。
〝主にお渡ししないで持ち帰る人〟とは、初めて耳にします!どの様な状態の事でしょうか?
もしよろしければ教えていただけますか?

主に委ねる祈りをしたのに、祈った後に、祈った事柄を、自分の荷物とし、主にお渡ししないで持ち帰ることです。

〝自分の荷物とし〟は、自分でなんとかしようとしている事も当てはまりそうですね…無意識に行っている可能性がある上に、無意識ではなくても以前の癖の様に行っているかもしれません…。意識してみます。
教えてくださり、とても助かりました。
ありがとうございます‼︎

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