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2023年2月16日 (木)

マタイ16:28-17:8 栄光に輝くキリストの変容

 マタイ1628-178の個所の並行記事は、マルコ91-8、ルカ927-36にも記されています。

 キリストの変容を直接目撃した人は、ペテロ(ペトロ)、ヤコブ(使徒の中で最初に殉教した人。使徒121.2)、ヨハネの3人でした。
 マルコの福音書は、キリストの変容の目撃者の一人であるペテロが伝えたことを、マルコが書き記したと言われていますので、マルコ91-8を下記します。
1 また、イエスは言われた。「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
2
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、3 衣は真っ白に輝いた〔彼の衣はみごとに光り輝く白色になった(岩波訳)〕。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった。
4
 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5
 ペトロが口を挟んでイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」
6
 ペトロは、どう言えばよいか分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7
 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け。」
8
 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には、“また、イエスは言われた。「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」”とあります。

 「ここに立っている人々」というのは、弟子たちです(マルコ827、マタイ1613)。
イエス様は、「弟子たちの中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない人たちがいる。」と言われたのです。

 1節のイエス様の御言葉の最初の「よく言っておく」と訳されている語のギリシア語原語は「アーメン」です。
イエス様が言われることは、いつも真実ですが、さらにこの時には、「アーメン」で語り始めたのです。
また1節の「決して死なない者がいる。」の「者」と訳されている語の原語は「ティス」で、複数を表しており、KJVNIVは、some と訳しています。Strong辞書は、(ギ)「ティス」をsome or any person、・・・・等々と訳しています。

 私は、以前この個所について書いたとき、「者」と訳されている語の原語が複数であることを見落としていました。
それゆえ、使徒ヨハネが、黙示録に記した内容を見せられた時が、「神の国が力に溢れて現れるのを見る」というように想像したのです。
しかし、イエス様が語られた御言葉を正しく理解したとしたら、「神の国が力に溢れて現れるのを見る」というのは、マルコ92-7の出来事を指していたのではないだろうか、と今回は思うのです。
注解付新改訳の注は、“イエスの復活の顕現あるいは聖霊降臨による教会の誕生を指す。その前触れが、次のイエスの変貌の出来事に示される。”と述べています。

 使徒ヨハネの場合は、この時だけではなく、黙示録を書かせられた時にも見せていただいたのです。

以前に記したマタイ171-8(口語訳)に関する部分を次に転載しておきます。
“ 1節に、「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」とあります。

「高い山」がどこなのか、私がイスラエル旅行に行った時、ガイドさんは、ヘルモン山かタボル山と言っていましたが、新聖書注解には、「高い山は、伝説ではタボル山とされているが、当時そこには要塞があって、イエスがそこに変貌の為に行かれることは考えられない。したがって、ピリポ・カイザリヤの北にあるヘルモン山という説の方が有利である。」とありますが、私もそう思います。尚、タボル山は標高575m、ヘルモン山は標高2814mです。蛇足ですが、モーセが十戒を授かったシナイ山は2285mです。

2節には、「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日〔太陽(新改訳)〕のように輝き、その衣は光のように白くなった。」とあります。
ヨハネもこの目撃者でした。
ヨハネは光り輝くイエス様を見たのです。
ヨハネは、ヨハネの福音書14に、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(新改訳)と記し、19では、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」とイエス様について記しました。
ヨハネは、変容して光り輝いたイエス様を直接目撃した人でした。
 ヨハネの福音書とヨハネの黙示録の執筆年代については、いくつかの説がありますが、もしも、黙示録の幻の方がヨハネの福音書よりも先であったとしたら、黙示録113-16に記されてあることも体験した後福音書を書いたことになります。
 黙示録113-16には、
1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(新改訳)とあります。

ヨハネは、イエス様を「光」とも書いていますが、それはこれらの光景を見たことも一因ではないかと思うのです。イエス様は霊的な光でもありますが、肉眼的にも光り輝いたのです。
 やがて私たちキリスト者も同じようになるのだろうと思います。
ピリピ321には、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(新改訳)とありますし、
また、ダニエル123には、「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、・・・。」(新改訳)とも記されています。

また、新天新地の聖なる都、新エルサレムについては次のように記されています。
「・・太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示録2122・新改訳)とあり、さらに黙示録225には、「もはや夜がない」とあります。

さて、ペテロとヤコブとヨハネは、これまで見たこともない光景を目にしました。
モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていたのです(3)。
ペテロはびっくり仰天してしまったのでしょう。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋〔幕屋(新改訳)〕を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(4)とトンチンカンなことを話しています。

ペテロが先走ったことを口にしたとき、父なる神様が語られました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに〔彼の言うことを(新改訳)〕聞け。」と。

イエス様の言う事を聞いて事を行っていけばよいのですが、イエス様が命じられる前に先走ってしまうのです。私もそうです。そして失敗するのです。もっとも、イエス様が語られないから何もしないと言って怠惰になっていてはいけませんが。ひょっとすると語られているのに聞けていない場合も数多くあることでしょう。

6.7節に、「弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、『起きなさい、恐れることはない。』」とありますから、弟子たちは御父の声を聞いたとき恐怖に満たされたのでしょうね。
 イエス様に「起きなさい、恐れることはない。」(7)と声をかけられたので、弟子たちは顔をあげることが出来ました。顔をあげてみると、イエス様のほかには、だれも見えなくなっていたのです(8)。”(トミーの聖書理解・20151128日のブログを一部改訂)
・・・・・・・・・・・・・・・
聖歌467番、新聖歌268番の「御国の心地(ここち)す」という歌詞を下記します。
“1.悲しみ尽きざる浮世にありても 日々 主と歩めば御国の心地す
(折り返し)*ハレルヤ! 罪 咎 消されし我が身は いずくにありても御国の心地す
2.かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の中にも建てらる *
3.山にも谷にも小屋にも宮にも 日々 主と住まえば御国の心地す *”

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
たえざる主との交わりの恵みを与えられていることを感謝します。
上記の賛美のように、霊においては、御国を味わいながら歩む日々を送らせてくださいますから感謝します。
あなたの御名を賛美しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

 〝「ここに立っている人々」というのは、弟子たちです(マルコ8:27、マタイ16:13)〟このお話は信仰宣言の時のお話ですか?
イエス様と実際に共に過ごされた使徒たちは、とても素晴らしい経験をされましたよね。私が目撃したら、どうなるのだろう…?と想像してみましたが、神々し過ぎて気絶してしまうのだろうと思いました。
私は、ひたすら祈る日々なだけで全くイエス様が教えてくださっている行いにまで行けません。日々、少しずつですね…。

「ここに立っている人々」というのは、弟子たちです(マルコ8:27、マタイ16:13)〟このお話は信仰宣言の時のお話ですか?

その通りです。

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