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2023年2月 8日 (水)

マタイ16:24-26 いのちの価値

 マタイ1624-26には次のように記されています。
24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
25
 自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。
26
 たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ1626の前半部分の並行個所をルカ925は、
“人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。”(2017)、
“人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。”(聖書協会共同訳)と記しています。

 マタイ1626の聖句の中の、「自分の命」について、ルカ925は、「自分自身」と記しています。

 さて、話は変わりますが、
1
テサロニケ523には、“平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。”(2017)とあります。
この聖句の中の、「霊、たましい、からだ」と訳されている語のギリシア語原語ですが、
「霊」は「プニューマ」、
「たましい」は「プシュケー」、
「からだ」は「ソーマ」とあります。

 またギリシア語聖書には、「サルクス」という語も出てきます。「サルクス」の原義は、「肉」の意ですが、からだ、とも訳されます。
パウロは、「肉」を、罪深い肉(ローマ83)、肉の思いは死(ローマ86)、肉の思いは神に対して反抗するもの(ローマ87)として用いています。
なおガラテヤ220にも「肉」(サルクス)が出てきます。
 ガラテヤ220
2017
は、“もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているのは、私を愛し、私のために ご自身を献げられた神の子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。”と訳しています。
 また、“私が今、肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているのは”をさらに直訳的に訳すと、「私が今、肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕の中で生きているのは」となります。

 ガラテヤ220の聖句の中には、「今私が肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているいのちは」(2017)とありますが、この「いのち」は、ルカ925の「自分自身」、マタイ1626の「自分の命」ということになるだろうと思います。
マタイ1626の「自分の命」の「いのち」と訳されている語のギリシア語原語は「プシュケー」です。
「プシュケー」は、1テサロニケ523では、「たましい」と訳されている語です。

 パウロが、ガラテヤ220で、「ソーマ」ではなく、「サルクス」を用いていることに感動を覚えます。

 外見上、人間に見える人たちには、救われた魂を持っている人と救われていない魂を持っている人がいます。
救われた魂を持っている人とはどのような人なのでしょうか?
1ペトロ(ペテロ)18.9には次のように記されています。
8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。9 それは、あなたがたが信仰の目標である〔信仰の結果である(2017)〕魂〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕の救いを得ているからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 いよいよ本題に戻ります。
今日の聖書個所は、
24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
25
 自分の命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を救おうと思う者は、それを失い、私のために命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を失う者は、それを得る。
26
 たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を買い戻すことができようか。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 さて、私の想像ですが、イエス様は弟子たち(全員イスラエル人)にヘブライ語で、これらの話をされたと思います。
ギリシア語の「プシュケー」に対応するヘブライ語は「ネフェシュ」です。
旧約聖書を読むと、「ネフェシュ」は、「たましい」だけではなく、「人」、「いのち」、「心」、・・等の意でも使われています。さらにStrong辞書には、body, breath, creature,・・・、等の意もあると記されています。

 今日は断定的なことを書きません。今の私には書けないからです。
もしイエス様が、この聖書個所をヘブライ語で語ったとしたら、そして「いのち」と訳されている語を「ネフェシュ」と自分が聞いたとしたら、どのように理解していたかな、と考えてみてください。

{追記}
ヨハネ316.361ヨハネ12513の聖句に出てくる「永遠の命」の「命」と訳されている語のギリシア語原語は「ゾーエー」です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
もし迫害が起こり、肉体の命を懸けるようなことがあったとしたら、肉体を差し出しても魂を差し出すことのないようにお守りください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「からだ〔ギリシア語原語は「ソーマ」(筆者挿入)〕を殺しても、たましい〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017

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コメント

ペテロの聖句はペテロの手紙1ですね?何時も載せてくださり、ありがとうございます。
〝自分の十字架を負う〟という御言葉を初めて見た(聖書を読んだ訳ではありませんでしたので)時、その文字にハッとさせられた時を思い出しました。暗闇に光が当たった様な感覚でした。言葉を知る事は始まりに過ぎなく、学べば学ぶほど難しさも感じますが、心はイエス様の方に向かわせてもらえていると思えるのは救いです。
私は目に見えるものにばかり目がいってしまっているのだと思いました。箴言29:25ですね。
信仰が弱いと嘆き、内にいるより、外に出ていくことを勧められている様にも感じました。
〝自分を捨てて〟を聖書を学ぶ以前は何でも犠牲にしていたのですが、蔓延防止の為に外出禁止となった時、箴言4:23の聖句と出会いました。何かが私の中で変わりました。まだ模索している感じですが、それは自分を捨ててイエス様についてゆくという一つの段階であると思ったのです。まだまだな感じではありますが、希望を持ち続けて歩み、導いていただく事を願います。

加筆すべき箇所を教えてくださりありがとうございます。

箴言4:23の聖句を、あなたに聖霊様が用いたのですね。
ハレルヤ!

まだまだ、わからない事だらけです。歩けばぶつかるといった感じですが、日々の学びに感謝します。

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