« 2023年2月 | トップページ | 2023年4月 »

2023年3月

2023年3月31日 (金)

箴言22:2 人を偏り見てはいけない/主に在って生きる

 箴言222には、“富む者と貧しい者が出会う。どちらもみな、造られたのは主である。”(2017)とあります。
フランシスコ会訳は、“富む者と貧しい者が互いに出会うことがある。しかし、両者とも主の造られたものである。”と訳し、
リビングバイブルは、“金持ちも貧しい人も、神の前では同じです。すべての人を主が造ったからです。”と意訳しています。

 この世においては、財産の多寡(たか)によって扱われ方が異なることがあります。
それは初代教会の時代にも教会の中にさえありました。
ヤコブ21-7には次のように記されています。
1 私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません。
〔私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。(2017)〕
2
 あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。
3
 きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元〔直訳「足台の元に(欄外注)」に座るかしていなさい〔あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい(新改訳第三版)〕」と言うなら、4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。”(聖書協会共同訳)とあります。

 世の中は、学歴を重んじます。知的能力が優れているか否かということでしょう。
良い大学を出ていないと、就職試験の時に、それだけで不利です。
それ故、人は、自己評価においても優秀でないと、劣等感を持ったまま生きるということになりかねません。
しかし造り主は神様なのです。
クリスチャンの中にも、「神様、どうして私を優秀に造ってくださらなかったのですか」と不平をいう人がいるかもしれません。
使徒ペテロは、文字を書くことが出来なかったそうです。
聖書を読むことが出来たら、それは本当に感謝なことです。聖書が一冊あれば、神様の御心がわかるのですから。

 運動能力や音楽の能力、その他さまざまな分野の能力に長(た)けた人はうらやましがられることがありますが、能力の多寡(たか:多いことと少ないこと)は、タラントの違いです(マタイ2514-30)。
キリスト者は、主の御前に生きる人です。
主の御前を、与えられた分に応じて歩んでいけばそれで良いのです。

 先ほどのヤコブの手紙の続きの個所には次のように記されています。
:5 私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
6
 ところが、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。富んでいる者たちこそ、あなたがたを虐げ、裁判に引き立てて行くのではありませんか。
7
 また彼らこそ、あなたがたに与えられた尊い名を冒涜(ぼうとく)しているのではありませんか。〔また、あなたがたが仕えるイエス・キリストの尊(たっと)い御名をあざ笑うのも、彼らではありませんか。(リビングバイブル)〕”(ヤコブ2章・聖書協会共同訳)とあります。

 お金を多く持っている人はお金に頼りやすくなるでしょう。
しかし貧しくても主を信じている人は、主に頼り、主の御業を見、主に感謝しながら歩んでいくことが出来るでしょう。

 財産の多寡にかかわらず、また、様々な能力の多寡にかかわらず、全てのことについて主に祈り、主から与えられたものを感謝しつつ、主を賛美しつつ歩んでいく人は幸いであると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
人を偏り見ることなく、いつも主の御前を歩み、全てのことについて主に祈り、主を賛美しながら歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「八福の教え」マタイ53-10
3 「心の貧しい人々〔直訳「霊において貧しい人々」(欄外注)〕は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
4
 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
5
 へりくだった〔別訳「柔和な」(欄外注)〕人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
6
 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
7
 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
8
 心の清い〔「主なる神に対して純粋な」の意でしょう(筆者挿入)〕人々は、幸いである。その人たちは神を見る。
9
 平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
10
 義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。”(聖書協会共同訳)

2023年3月30日 (木)

詩篇64篇 敵の攻撃を受けても主に信頼している人は主が勝利させてくださる/聖なる歩み

 詩篇64篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2
 神よ、嘆きの中にある私の声を聞いてください。敵の脅威から私の命を守ってください。
3
 悪をなす者の群れから、悪事を働く者の騒ぎから私を隠してください。
4
 彼らは舌を剣のように鋭くし、苦い言葉の矢をつがえています。
5
 物陰から罪もない人に射かけようと構え、不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。
6
 彼らは悪の言葉に身を固め、それを数え上げては罠を仕掛け、「誰が見破ることができよう」と言います。
7
 巧妙に不正を謀り、「我らの謀(はかりごと)は完全だ。人には裏側、心には秘めたものがある」と。
8
 だが神は彼らに矢を射かけ、不意に彼らは傷を負う。
9
 彼らは自分の舌のゆえにつまずき、見る人は皆、頭を振るでしょう。
10
 人は皆、恐れて神の働きを告げ知らせ、神の業により悟りを得る。
11
 正しき人は主によって喜び、また主のもとに逃れます。心のまっすぐな人は皆、誇ることができます。〔主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。(新共同訳)〕”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳は1-10節です。)

 ダビデがこの詩において、悪しき「敵」として見ている人たちの特徴を箇条書きにすると次のようになります。
悪をなす者たち(3
心を打ちのめすような言葉を吐いてくる人たち(4
自分たちに害を為そうとしていない人たちに対して、突然背後から攻撃を仕掛けてくる人たち(5
権謀術策にたけた人たち(6.7

 この世にこのような人たちがいることはある意味仕方のないことです。
人は、「罪」(単数形。罪の性質)をもって生まれてくるのですし(ローマ512、詩篇515・新改訳)、この世を支配しているのはサタン(悪魔)だからです(ルカ46、エペソ221ヨハネ519)。

 攻撃は人からだけではありません。特にキリスト者の場合は、サタンの標的にされています。サタンは、直接主なる神様に戦いを挑んでも勝てないので、主なる神様の子どもたちを攻撃するのです。
キリスト者の戦いの相手は、人ではなく、好むと好まざるとにかかわらず、悪魔悪霊が相手です(エペソ611-13)。
人に対しては、罪は憎んでも、人は愛するのです。
主イエス様は、全ての人のために十字架にかかられたのですから(1ヨハネ22)。

 サタンは、攻撃方法を色々と持っています。
悪魔悪霊からの攻撃を減らすには、罪の内を歩まないようにすることです。罪を犯していると、悪魔悪霊は、それを足場にして攻撃を仕掛けてきます。
また、サタンは、罪がなくても罪を犯させようと企(たくら)み実行する者です。
罪のなかったエバとアダムは、敗北し、人としてのイエス様は勝利したのです(創世記3章、マタイ43-10、ルカ43-13)。

 主を信じている者たちに対する悪の攻撃に対して、主なる神様は介入されてきます(8)。
悪しき者たちは、自分の悪のゆえに墓穴を掘る場合もあります(9)。
しかしその前に、すなわち神様の御介入の前に、主に信頼し、主に従う者たちの祈りが先行しているのです(2.3)。

 戦いの結末は、11節に記されているように、“主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。” (新共同訳)というところに落ち着くのです。

 ここまで読んでこられると、異を唱える人もいるでしょう。
多くの殉教者たちがいるではないかと。
主イエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017)と語られ、また、
「義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ510-12・聖書協会共同訳)と語られました。

 新生したキリスト者は、永遠の命を持っています。
主イエス様は次のように語られました。
「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と。
それは、神から霊の誕生をしているからです(ヨハネ33.61ペテロ13)。
 
 霊だけの話ではありません。霊のからだもキリストの現われの時に頂けるのです(コロサイ34、1コリント15521テサロニケ416.17)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
この世にあっては、肉の目において、見えるところでも見えないところでも、悪がはびこっていることを覚えますが、ひとたびあなたに目を向ければ、全てが解消していきますから感謝します。
黙示録2211aの聖句のごとく、この世はますます暗さを増しています。
黙示録2211bに、“正しい者はさらに正しいことを行い、聖なる者はさらに聖なる者となれ。”(聖書協会共同訳)とあるように、主に信頼し、さらには、いつも主の内に在って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「キリスト・イェスをもといとして」(聖歌201番、聖歌総合版160番)
“1.キリスト・イェスをもといとして うちたてられし御教会は 君が血をもて買いたまいし 花嫁たちの集まりなり
3.主の教会は 試み受け 争いに遭い 涙すとも その幻を 主はよみして ついに勝利を与えたまわん”

2023年3月29日 (水)

申命記9:25-29 40日の断食の後、さらに40日の断食をしてとりなしの祈りをしたモーセ

 申命記925-29には次のように記されています。
25 私は主の前に四十日四十夜ひれ伏した。ひれ伏したのは、主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。
26
 私は主に執り成して言った。
「主なる神〔原語は「アドナイ ヤハウェ(筆者挿入)」よ、あなたの大いなる業によって贖い出し、力強い手によってエジプトから導き出されたあなたの所有の民を滅ぼさないでください。
27
 あなたの僕であるアブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。この民のかたくなさと悪と罪に御顔を向けないでください。
28
 私たちがあなたに導かれて出て来たあの国の者たちに、『主は約束された地に彼らを導き入れることができず、彼らへの憎しみから荒れ野に連れ出し、死なせてしまった』と言わせないでください。
29
 彼らは、あなたが大いなる力と伸ばした腕によって導き出された、あなたの民、あなたの所有の民です。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 モーセは80歳で主の召しにあずかったのですから、この時の年齢はそれ以上の年齢であったことがわかります。
25
節に、“私は主の前に四十日四十夜ひれ伏した。”とありますが、これは、申命記99-11に記されている四十日四十夜の出来事とは異なります。申命記99-11に記されている四十日四十夜の出来事は、十の言葉(十戒)が記されている石板を頂くことと幕屋建設及び聖具等の造作や大祭司と祭司の服装並びに聖別の仕方等のための教え、その他の事どもを教授されていたのです。それは出エジプト2412-3118に記されています。
そしてモーセは2枚の石板をヤハウェ(主)からいただき、主に急(せ)き立てられて山から下りたのが、出エジプト記32章に記されている金の子牛事件の個所です。

 出エジプトした民は、十戒を基本とする律法を守りますと、ヤハウェ(主)と契約を結んだのです。その時の契約については出エジプト243-8に記されています。
それからモーセは山に登ったのです。モーセが主と相対する前に6日間(出エジプト2415.16)が経過していますから、モーセが民から離れて、50日もたたないうちに金の子牛は完成していたのです。そして、イスラエルの民は金の子牛に対して偶像礼拝をしたのです。

 その時、アロンもその罪に加担したのです。
モーセが不在の間は、アロンがモーセの代わりをすべきであったのですが。

 その時のイスラエルの民の罪について、出エジプト328は、“彼らは早くも私〔ヤハウェ(主){筆者挿入}〕の命じた道からそれて、子牛の鋳像を造り、これにひれ伏し、いけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ』と言っている。」”(聖書協会共同訳)と記しています。

 アロンの行動に対して、ヤハウェ(主)の心境はどのようなものであったのでしょうか。
申命記920に、“アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされた。”と記されています。

 これらのイスラエルの民の罪とアロンの罪に対するヤハウェ(主)の処罰の決定は次のようなものでした。
“主はモーセに言われた。「私はこの民を見た。なんとかたくなな民だろう。私を止めてはならない。私の怒りは彼らに対して燃え、彼らを滅ぼし尽くす。しかし、私はあなた〔モーセ(筆者挿入)〕を大いなる国民とする。」”(出エジプト329.10・聖書協会共同訳)と記されています。

 このヤハウェ(主)の決定に対して、モーセは必死になってとりなしをしたのです。
それが今日の聖書個所の申命記925-29です。並行記事である出エジプト3211-13には次のように記されています。
11 モーセは自分の神、主をなだめて言った。「主よ、なぜあなたの怒りがご自分の民に燃えるのですか。大いなる力と強い手によってあなたがエジプトの地から導き出された民ではありませんか。
12
 どうしてエジプト人に、『あの神は悪意をもって彼らを導き出し、山の上で彼らを殺し、地の面から滅ぼし尽くした』と言わせてよいでしょう。燃える怒りを収め、ご自分の民に下す災いを思い直してください。
13
 あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓い、『私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにこれを受け継がせる』と告げられました。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 このモーセの40日間の断食のとりなしがヤハウェ(主)の御怒りを鎮め、“主は、ご自分の民に下すと告げた災いを思い直された。”(出エジプト3214・聖書協会共同訳)のです。

 ヤハウェ(主)が、モーセに与えられたところの主に対する愛、アロンをはじめイスラエルの民に対する愛と低き心に驚嘆します。

 それ以上の愛をもって、主イエス様は、私たちの為に十字架にかかられました。
そして罪の贖いを成し遂げられ、私たちにもわかるように、十字架上で「テテレスタイ」(「完了した」ヨハネ1930)と語られたのです。
罪の贖いが完了したのです。

 私たちの受けた恵は、それだけではなく、1ペテロ13には、“神〔父なる神(筆者挿入)〕は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ〔新生(筆者挿入)〕、生ける希望を与えてくださいました。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 さらに神は、“神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。”(エペソ26)と記されていることを実現し(霊においては実現しているので私たちはサタンにも勝利できます)、
キリストの現われの時には霊のからだ、すなわち栄光のからだを与えてくださり(コロサイ341テサロニケ416.171コリント1552)、その約7年後には、天において花婿キリストと花嫁教会の婚宴の儀が開かれるのです(黙示録196-9)。
肉のからだを持っている現状においても、新生したキリスト者(ローマ89)は、霊においては霊である主と一つとされているのです(1コリント617、コロサイ127)。
そして魂がきよめられれば、その人を通して聖霊が働かれるのです(ヨハネ738)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
モーセの愛と低き心、主イエス様の愛と低き心、そのような状態には遠く、遠く及ばない者ですが、ローマ123に記されているように、あなたが私に与えてくださった分に応じて、あなたにお仕えしていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月28日 (火)

マタイ19:13-22 純真or単純に主イエス様を信じる者と自分の行いにより頼む者

 マタイ1913-22には次のように記されています。
13 その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14
 しかし、イエスは言われた。
「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
15
 そして、子どもたちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 16 すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
17
 イエスは言われた。
「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
18
 彼が「どの戒めですか」と尋ねると、イエスは言われた。
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19 父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
20
 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
21
 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
22
 青年はこの言葉を聞き、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節には、“すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」”と記されています。
主イエス・キリストを信じる信仰ではなく、自分の行いによって永遠の命を得たいと日夜努力している一人の人(青年)が来ました。

 主イエス様は、この人の質問の「善いこと」(16)という言葉or考え方を掴(つか)み、神の観点から言うと善いことが出来るのは「善い方」すなわち神だけであると答えたのです。
17
節には、“イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。  ・・・。」”と記されています。

 聖書の最初のページの創世記11に記されている「神」という単語は複数形です。
そして、マタイ2819の「父と子と聖霊の名において」の「名」は単数形です。
申命記64には、「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(2017)と記されています。
これらの聖句からわかることは、まことの神は唯一であり3つの位格を持ったお方であるということです。
それ故、17節で、主イエス様が、「よいかたはただひとりだけである。」(口語訳)と答えられた時、「ただひとり」の中には、御子である主イエス様も含まれていたのです。

 イエス様のもとに質問に来た一人の人は、「よいかたはただひとりだけである。」(口語訳)とイエス様がお答えになった御言葉には反応しませんでした。

 この人の心の中には、「行い」によって永遠の命を得たい、という願望しかないのを見てだろうと思いますが、主イエス様は、17節の後半部分で、「命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と答えています。

 「命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」というイエス様のお答えを聞いて、この人は、「どの戒めですか」と尋ねました。

 その質問に対する主イエス様のお答えは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(18.19)とお答えになったのです。

 この人はイエス様のお答えを聞いて、「そういうことはみな守ってきました。」と答えたのです(20)。

 この人の答えは、「そういうことはみな守ってきました。」ということなのですから、なんとりっぱな人なのだろうと、私は感嘆します。

 この人は、さらに「まだ何か欠けているでしょうか。」(20)とイエス様に質問しました。
それに対してイエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(21)と答えられたのです。

 22節には、“青年はこの言葉を聞き、悩みつつ〔悲しみながら(2017)〕立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は、ご自身を差し出して贖いを成し遂げたのでした。
ピリピ2章には次のように記されています。
6キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、7かえって自分をむなしくして、僕(しもべ)の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、8死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。”(フランシスコ会訳)とあります。

 一方、単純に、純真に、主イエス様を信じて主イエス様の下に来る子供たちに対して、主イエス様は、「天の国はこのような者たちのものである。」(14)と語られたのです。
この件については、少し前の、マタイ183に次のように記されています。
「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」(2017)とあります。
「向きを変えて」と訳されている語のギリシア語は「ストレフォー」で、ひねって回転する、回転する、向きを変える、逆にする、・・等の意があり、2017の欄外注には、“あるいは「悔い改めて」”とあり、聖書協会共同訳は、「心を入れ替えて」と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
かつての私もそうでしたが、人は、自分の善行によって天国に入ろうとします。
しかし、聖書を読むと、それは無理な話であることがよくわかります。
人は、罪を犯す性質をもって生まれ、教えられなくても罪を犯すことが出来るからです。
善きお方は、三一の主なる神様だけです。
特に贖いを成し遂げてくださったイエス様(救い主)を信じない限り救われないことを覚えます。
イエス様を信じる信仰を与えてくださいましたことを感謝します。
御名を賛美し、感謝して私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月27日 (月)

箴言22:1 主からの恵みと神の子どもとしての品位

 箴言221を、
2017
は“名声は多くの富より望ましく、愛顧を受けることは銀や金にまさる。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“名声は多くの富よりも望ましく、品格は銀や金にまさる。”と訳し、
新共同訳は“名誉は多くの富より望ましく、品位は金銀にまさる。”と訳し、
口語訳は“令名(れいめい)は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。”と訳しています。

「名声」(新改訳)、「名誉」(新共同訳)、「令名」(口語訳)と訳された語の原語は「シェム」で、名、名誉、名声(令名)、尊敬、権威、大家(たいか)、性格、人格、等の意があります。

後半部分の「愛顧」(新改訳)、「品位」(新共同訳)、「恩恵」(口語訳)、「恩寵」(文語訳)と訳された語の原語は「ヘン」で、優しさ、優雅さ、慈悲深さ、親切、恩恵、好意、気品、上品、・・等の意があります。
恩寵、恩恵、恵みという語は、人間に救済をもたらす神の恵みのたまものをいうキリスト教神学の基礎概念です。

この箴言は、神様抜きでも理解しやすい聖句ですが、前半部分と後半部分の冒頭に「主の」を加えるとより一層頷きやすくなります。

「主の御名は多くの富よりも望ましく、主の恩恵は銀や金にまさる。」となるのですから。

本文には、「主の」の語はありませんが、私は、「主の」が隠れている文として、捉えてみたいとも思います。

コロサイ23には「・・キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(新改訳2017)とあり、
 コロサイ29には「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。」(新改訳2017)と記されています。
キリスト者は、父なる神様と主なる御子イエス様から愛顧を受けた存在(寵愛を受けた存在)です(エペソ317-19)。ハレルヤ!

 また、キリスト者個々人にこの聖句を当てはめる場合には、
「神の子どもであり、キリストの花嫁であるという権威は、多くの富よりも望ましく、神の子どもとしての品位は、金銀に勝る。」とも訳せます。
 
 ソロモンが箴言を記した時代は、律法の時代(旧契約の時代)でありました。
私たちは新契約の恵みの時代に生かされています。
なんという幸いでしょう。

 神の子どもとしての品位or気品は、ガラテヤ522.23によれば、「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり」(抜粋・聖書協会共同訳)と記されています。

 神の子どもたちは、自分が財産を持っていない場合でも、御父は想像を絶する資産家なのです。
その上で、ピリピ419には、「・・神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者は、金銀を求めることよりも、常に主に在って歩ませていただくことが大切なのだと思います。

 コロサイ34.5には、「あなたがたのいのちであるキリストが現れる〔キリストの空中再臨時の出来事(筆者挿入)〕と、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(2017)とあり、
 2テモテ31-5には、「このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。その時、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒とくし、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、人をそしり、自制心がなく、粗暴になり、善を好まず、人を裏切り、向こう見ずになり、気が変になり、神よりも快楽を愛し、見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。」(抜粋・聖書協会共同訳)と記され、
 へブル135には、“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの恩寵を感謝します。
あなたの子どもとしてふさわしくお整え下さり、あなたの御名があがめられる歩みをしていく者とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月26日 (日)

詩篇63:4-12 主に思いをはせ、主に信頼し、主を賛美し、主に祈る者に対する主の祝福

 聖書協会共同訳の詩篇634-12には次のように記されています。
4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。
5
 命のあるかぎり、あなたをたたえ、その名によって、手を高く上げよう。
6
 極上の食物にあずかるように私の魂は満ち足り、唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。
7
 私が床であなたを思い起こし、夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら、8 あなたは必ずわが助けとなってくださる。あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。
9
 私の魂はあなたに付き従い、あなたの右の手は私を支えてくださいます。
10
 私の命を根絶やしにしようとうかがう者が地の底へと入り込みますように。
11
 剣に渡され、ジャッカルの餌食となりますように。
12
 王は神によって喜び、神に誓いを立てた者が皆、誇りを持ちますように。偽って語る口は塞がれますように。”とあります。
(口語訳、新改訳は、3-11節になります。)

 詩篇631節(表題)には、“ダビデがユダの荒れ野にいたとき”とあります。
ダビデがユダの荒野にいた時は、サウルの追手から逃れていた時でした。1サムエル2314には、「ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」(新改訳2017)と記されています。

 ダビデが荒野をさまよっていた時は、いつも身の危険を覚えつつ、主を思い浮かべ、主に祈り、主との豊かな交わりを持っていました。大変な時であったからこそ、反(かえ)って主との交わりが深くなったのです。キリスト者も同じだなと思わされます。

 主は、ダビデに、イスラエルの王になる、とサムエルを通して語っておられました。
1
サムエル161.1213には、次のように記されています。
1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」/
12
エッサイは人を遣わして、彼〔ダビデ(筆者挿入)〕を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」
13
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。”(2017)とあります。

 主は、ダビデを、御自身の内において、イスラエルの王としました。
イスラエルにおいて、イスラエルの民がダビデを王とするのは、まだ後のことですが、主が語られたことは必ず成就するのです。それは全能の神、万軍の主であるヤハウェ(主)が成就させるからです。(イザヤ5511)。

 人間的観点では、いつかダビデは、サウルの追手によって殺されるだろう、と思えますが、ヤハウェ(主)の御言葉を思えば、そのようなことは決してないと信じることが出来ます。
ですからダビデが、
4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。
5
 命のあるかぎり、あなたをたたえ、その名によって、手を高く上げよう〔「祈ります」ということ(筆者挿入)〕。
6
 極上の食物にあずかるように私の魂は満ち足り、唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。」
とヤハウェ(主)に祈り、また賛美するのは自然のことです。

 4節の「慈しみ」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヘセド」で、親切、美、善意、愛顧、恵み、善行、慈悲、寛容、哀れみ、情け、等の意があります。
新改訳は「恵み」と訳しています。

 余談になりますが、パウロは、手紙のあいさつ文の中に、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」と書いています。
「恵み」はヘブライ語では「ヘセド」、
「平安」はヘブライ語では「シャローム」です。
「シャローム」には、平安、平和、の意の他、安心な、申し分なく、幸せな、満足な、繁栄、・・等の意もあります。
御父と私たちの主キリスト・イエス様から、ヘセドとシャロームが与えられることは心躍ることです。

 これに関連しますが、民数記622-27には次のように記されています。
22 主はモーセに告げられた。
23
 「アロンとその子らに言いなさい。あなたがたはイスラエルの人々を祝福して、このように言いなさい。
24
 主があなたを祝福〔ヘブライ語は「バーラク」(筆者挿入)〕し、あなたを守られるように。
25
 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵み〔ヘブライ語は「ハーナン」で、「ヘセド」と似た意(筆者挿入)〕を与えられるように。
26
 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和〔ヘブライ語は「シャローム」(筆者挿入)〕を賜るように。
27
 彼らがこうして私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇119124には、“あなたの恵み〔ヘブライ語では「ヘセド」(筆者挿入)〕によって、あなたのしもべを取り扱ってください。”(2017)という祈りがあります。

 ヘセドとシャローム、良い言葉ですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日もあなたと主イエス様からのヘセドによって私をお取り扱いくださり、シャロームを与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月25日 (土)

申命記9:6-24 かたくなな民から学ぶこと/主を愛し、主に信頼し、主に感謝することの大切さ

 申命記96-24には次のように記されています。
6 だからあなたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさい。あなたは、実にかたくなな民なのだ。
7
 あなたの神、主を荒れ野で怒らせたことを思い出し、忘れないようにしなさい。エジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた。
8
 ホレブで、あなたがたは主を怒らせたので、主は憤って、あなたがたを滅ぼそうとされた。
9
 私が山に登り、そこで石の板、すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受け取ったとき、私は山に四十日四十夜とどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。
10
 主は神の指で記された二枚の石の板を私に与えられた。その上には、あの集会の日に、山で火の中から主があなたがたに語られた言葉がすべてそのまま記されていた。
11
 四十日四十夜が終わり、主は私に二枚の石の板、契約の板を与えられた。
12
 その時、主は私に言われた。
「さあ、急いでここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、自分のために鋳像を造っている。」
13
 主はさらに私に言われた。
「私はこの民を見てきたが、なんとかたくなな民だろう。14 私を引き止めるな。彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去り、代わりに、あなたをそれよりも強く、数の多い国民にしよう。」
15
 私が身を翻して山を下りると、山は火で燃えていた。私の両手には二枚の契約の板があった。
16
 そして私が目にしたのは、あなたがたの神、主にあなたがたが罪を犯し、自分たちのために子牛の鋳像を造り、早くも主が命じられた道からそれている姿であった。
17
 私は二枚の板をつかんで、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前で砕いた。
18
 そして、私は以前と同様、四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まず主の前にひれ伏した。すべてあなたがたの犯した罪のゆえであり、主の目に悪とされることを行って、主を怒らせたからである。
19
 私は、あなたがたを滅ぼそうとする主の怒りと憤りを恐れた。しかし主はこの時も、私に耳を傾けてくださった。
20
 アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされたが、その時、私はアロンのために執り成しをした。
21
 それから、あなたがたが造って罪を犯したあの子牛を取って火で焼き、打ち壊し、粉々にして塵にし、その塵を山から流れて来る川に投げ捨てた。
8-21節までの出来事は、出エジプト記32-34章に記されている出来事です。(筆者挿入)〕
22
 タブエラでも、マサでも、キブロト・ハタアワでも、あなたがたは主を怒らせた。
〔タブエラとキブロト・ハタアワの出来事は民数記11章に記されている出来事です。マサでの出来事は、出エジプト記17章です。(筆者挿入)〕
23
 主があなたがたをカデシュ・バルネアから遣わし、「上って行って、私があなたがたに与える地を占領しなさい」と言われたときも、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主に信頼せず、あなたがたはその声に耳を傾けなかった。〔民数記13.14章に記されている出来事です。(筆者挿入)〕
24
 私があなたがたを知った日から、あなたがたは主に逆らい続けてきた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルの民は、「あなたは、実にかたくなな民なのだ」と言われてしまいました(6)。
「頑(かたく)なな」と訳されている語のヘブライ語原語は二語からできていて「カーシェー オーレフ」で、項{オーレフ(うなじ=首の後ろの部分)}の硬い{カーシェー(厳しい、硬い、・・・等の意)}の意です。
イスラエルの民は、ヤハウェ(主)の御命令に対して、首を縦に振らない民、素直でない民、言うことを聞かない民だ、と言われてしまったのです。

 イスラエルの民は、「エジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた。」(7)と言われてしまいました。

 8-21節までの出来事は、出エジプト記32-34章に記されている出来事で、それは金の子牛事件に関連する事柄です。
この出来事は、十戒{(直訳「十の言葉」。出エジプト3428、申命記413104)}の中の、「(1)わたしは、あなたの神、主である。(2)ほかの神々があってはならない。偶像を造ってはならない。それらに仕えてはならない。」という命令を破ったものでした。
この件につき、モーセの兄アロンも大きな罪を犯しました。
この時のアロンに対するヤハウェ(主)の態度は、“アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされた”(20)というものでした。

 22節の、タブエラとキブロト・ハタアワの出来事は民数記11章に記されている出来事で、ヤハウェ(主)が怒った理由は、ヤハウェ(主)に感謝することをせず、ヤハウェ(主)に不平を言い続けていたからです。

 22節の、マサでの出来事は、出エジプト記17章に記されている出来事で、ヤハウェ(主)の約束を信ぜず、低き心をもってヤハウェ(主)に嘆願することをしなかった罪でした。

 23節の出来事は、民数記13.14章に記されている出来事で、23節に記されているとおり、“主があなたがたをカデシュ・バルネアから遣わし、「上って行って、私があなたがたに与える地を占領しなさい」と言われたときも、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主に信頼せず、あなたがたはその声に耳を傾けなかった。」”とあるように、ヤハウェ(主)に対する不信仰の罪でした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
三一の主なる神様を畏れ敬い、主を愛し、主に信頼し、主に感謝しつつ自分の必要を主に嘆願する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月24日 (金)

マタイ19:3-12 離縁と結婚と独身者についての教え

 マタイ19:3-12には次のように記されています。
3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」〔「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」(2017)〕と言った。
4
 イエスはお答えになった。「あなたがたは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
5
 そして、こうも言われた。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。
6
 だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
7
 彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
8
 イエスは言われた。「あなたがたの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
9
 言っておくが、淫らな行い〔原語は「ポルネイア」で売春(筆者挿入)〕のゆえでなく妻を離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫の罪を犯す〔不倫をする(筆者挿入)〕ことになる。」
10
 弟子たちは言った。「人が妻と別れてはならない理由〔直訳「人が妻と一緒にいる理由」(欄外注)〕がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
11
 イエスは言われた。「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
12
 独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 結婚と離縁について、主イエス様は、4-6.9節で、
「・・・。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。・・・。こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。/・・・。淫らな行いのゆえでなく妻を離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫の罪を犯すことになる。」と語られました。

 ファリサイ派の人たちは、イエス様に、「なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」と質問しました(7)。
ファリサイ派の人たちが質問した内容は、申命記241.3の聖句に基づくものであったのでしょう。
 これに対して、主イエス様の興味深いお答えが記されています。
主イエス様は、「あなたがたの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(8)と語られたのです。
ヤハウェ(主)がモーセを用いてイスラエルの民に教えた教えの中には、ヤハウェ(主)の第一の思いからではなく、人の罪故に、少し譲歩している個所もあるということがわかります。
イエス様は、山上の垂訓(マタイ5-7章)で、おそらくヤハウェ(主)の元々のお考えを教えたのではないかと私は想像します。

 次に、「結婚しないほうがましです。」(10)という弟子たちの言葉を受けて、独身者について、主イエス様は次のように教えられました。
11 ・・・。「誰もがこの言葉〔「結婚しないほうがましです。」という言葉(筆者挿入)〕を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
〔「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」(口語訳)〕
12
 独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」”と記されています。

 独身の賜物を与えられている人(11節参照)は、天の国のために独身者となれますが、そうでない人が自らの考えだけで独身者になると失敗する場合も多々あります。

 地上の結婚は、永遠における結婚の準備段階なのでしょう。
永遠における結婚は花婿キリストと花嫁エクレシア(教会)の結婚です。

 新生したキリスト者は、新生させていただいた霊においてキリストと結ばれ、キリストと一つの霊とされたものです。これは霊におけるキリストとの結婚です。
1
コリント617には、“主に接合されたものは主と一つの霊となる。”(抜粋・筆者訳)と記されています。

 やがてキリストの現われの時(キリストの空中再臨の時)、すでに天に帰っていた霊と携挙される者には、霊のからだが与えられます(1コリント1552、1テサロニケ416.17、コロサイ341ペテロ113)。そして天に引き上げられた後、花婿キリストと花嫁は結婚の儀を取り行ってもらえるのです(黙示録196-9)。
花嫁とはエクレシア(教会)です(エペソ532)。
教会(エクレシア)とは、天地創造の前から父なる神が、キリストにあって選ばれた者たちで、御父の思慮深い知恵と愛に基づく御計画と、その御計画をすべて実現される御力によって、歴史の中で漸次的に啓示され、そして実行され、キリストにあって一つに集められた御国を受け継ぐ者たちで、キリストの花嫁となる者たちです(エペソ14-11、ローマ828-30、ヤコブ25)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
やがて天において主キリスト・イエス様との婚宴の儀を執(と)り行ってくださいますから感謝します。
地上に在っては、霊に在って主と結ばれておりますことを感謝します。
いつも主を愛し、主に従って歩むことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ただ主を」(聖歌520番、聖歌総合版538番)5
「主こそ来るべき王の王 主の主 我(わ)が花婿なれ 我(われ)は恋しとう たたえよ ただ主を 主は救い主 きよめ主 癒し主 王の王 主の主」

「キリスト・イエスをもといとして」(聖歌201番、聖歌総合版160番)1
「キリスト・イエスをもといとして うちたてられし御(み)教会は 君が血を持て買いたまいし 花嫁たちの集まりなり」
アーメン
ハレルヤ!

2023年3月23日 (木)

箴言21:31 人の備えと神による勝利or救い

 箴言2131を、
口語訳は、“戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。”と訳し、
2017
は、“戦いの日のためには馬が備えられる。しかし、救いは主による。”と訳しています。

 「勝利」(口語訳)、「救い」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「テシューアー」で、どちらの意もあり、また、助け、安全、救済(保護)等の意もあります。

 1列王記426には、“ソロモンは、戦車用の馬のために馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。”(2017)と記され、
1
列王記1028には、“ソロモンが所有していた馬は、エジプトとクエから輸入されたもので、王の商人たちが、代価を払ってクエから手に入れたものであった。”(2017)と記しています。
「クエ」は、キリキア地方の古い名称です。
余談になりますが、パウロはキリキアのタルソの出身です(使徒2139)。

 ソロモン王は、戦いのために、そして戦いが起こらないようにと戦車のための馬を準備したのでしょう。

 申命記1716には、“ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。”(2017)とありました。
しかしその後、イスラエルの民が王を欲しがったとき、ヤハウェ(主)は、サムエルを通して、「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。」(1サムエル8112017)と語られました。

 ソロモンの行為は、主のみ旨にかなっていたのでしょうか。

その他、ソロモンにとって耳の痛いヤハウェ(主)の御言葉が、申命記1717に、“また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。”(2017)と記されています。

 しかし、ソロモンは、妻が700人、側女(そばめ)が300人いたのです。
その結果、ヤハウェ(主)の忠告通りのことが起こりました。
1列王記114-8には次のように記されています。
4 ソロモンが年老いたとき、女たちは彼の心を、他の神々へと向けさせた。彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。
5
 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべきものミルコムに付き従って行った。
6
 ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった。
7
 その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。
8
 また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ソロモンは、罪の刈り取りをすることになりました。
その理由と裁きが続く聖書個所の1列王記119-40に記されています。その中から主だった個所を下記します。
:9 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。主はかつて二度ソロモンに現れ、10 このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。
11
 そこで主はソロモンに言われた。「あなたはこのようなことをして、私が命じた契約と掟を守らなかった。それゆえ私は、必ずあなたの王国を引き裂き、あなたの家臣に分け与える。12 ただ、あなたが生きている間は、あなたの父ダビデに免じてそうしないでおく。私が王国を引き裂くのは、あなたの息子の代である。13 ただし、王国すべてを引き裂くというのではない。わが僕ダビデに免じ、また私が選んだエルサレムに免じて、あなたの息子には一つの部族を与えることにする。」
14
 主はソロモンに敵対する者として、エドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王家の血筋を引く者であった。/
23
 また、神はソロモンに敵対する者として、エルヤダの子レゾンを起こされた。彼は自分の主君、ツォバの王ハダドエゼルから逃げ出した者で、24 ダビデがツォバの人々を殺害したとき、自分のもとに人々を集めて、一群の長となった者である。彼らはダマスコに行ってそこに住み、ダマスコを支配した。25 レゾンは、ソロモンが生きている間中、絶えずイスラエルに敵対し、ハダドと同じように災いをもたらし、イスラエルを憎んだ。彼はまたアラムを支配した。/
26
 ネバトの子ヤロブアムはエフライム人で、ツェレダの出身であった。母はすでに夫を亡くしており、名をツェルアと言った。彼はソロモンに仕えていたが、やがて王に反逆することになった。
27
 ヤロブアムが王に反逆するに至った事情は次のとおりである。ソロモンがミロを築き、父ダビデの町の破損を修理していたとき、28 ソロモンはヤロブアムという有能な若者の働きぶりを見て、その男をヨセフ族に課せられた労役全体の監督に任命した。
29
 あるとき、ヤロブアムがエルサレムから出かけて行ったところ、途中で、シロ人の預言者アヒヤに出会った。アヒヤは新しい上着を身に着けていたが、野には二人のほか誰もいなかった。
30
 アヒヤは身に着けていた新しい上着を手に取り、十二切れに引き裂き、31 ヤロブアムに言った。
「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『私はソロモンの手から王国を引き裂いて、十の部族をあなたに与える。32 ただ、一つの部族だけは、わが僕ダビデに免じ、また私がイスラエルのすべての部族の中から選んだ都エルサレムに免じて、ソロモンのものとする。33 私がこのようにするのは、彼らが私を捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムにひれ伏したからである。また私の道を歩まず、私の目に適う正しいことを行わず、父ダビデと異なり、掟と法を守らなかったからである。34 それにもかかわらず、私はソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。私が選び、私の戒めと掟を守った僕ダビデに免じて、その生涯にわたって彼を君主にとどめ置く。35 私はソロモンの子の手から王権を取り上げ、十部族をあなたに与える。36 ただ彼の子には一つの部族を与える。私の前で、私が名を置くために選んだ都エルサレムで、いつも僕ダビデが灯を保つためである。37 だが、私はあなたを選んだのだから、あなたは自分自身の望みどおりにすべてを治め、イスラエルの王となりなさい。38 私が命じたすべてのことに聞き従い、私の道を歩み、私の目に適う正しいことを行い、僕ダビデが行ったように掟と戒めを守るなら、私はあなたと 共にいて、ダビデのために建てたように、あなたのために揺るぎない家を建てる。そして私はあなたにイスラエルを与える。39 このために、私はダビデの子孫を懲らしめるが、いつまでもというわけではない。』」
40
 ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは直ちにエジプトに逃げた。エジプトの王シシャクのもとに逃げ、ソロモンが死ぬまでエジプトにとどまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「救い{(テシューアー)=安全、救済、保護}は主による」と箴言2131の後半部分にありましたが、ソロモンは、戦いのために馬を準備しても、自身の背信のゆえにヤハウェ(主)の怒りをかい、ヤハウェ(主)から敵対者を起こされたのでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに従うことの大切さを再度教えられます。
イエス様は、「栄華を極めたソロモン」と言われましたが、この世で栄華を極めても背信の罪に陥ったら悲惨であることを覚えます。
霊の戦いにおいても、方法論ではなく、実際に、主が戦ってくださるかどうかにかかっていることを覚えます。
日々、あなたを愛し、あなたに従う歩みをし続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月22日 (水)

詩篇63:1-3 魂の渇き/渇きを潤すお方

 詩篇631-3には次のように記されています。
1 賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。
2
 神よ、あなたこそわが神。私はあなたを探し求めます。魂〔原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕はあなたに渇き、体〔原語「バーサール」(筆者挿入)〕はあなたを慕います。水のない乾ききった荒れ果てた地で。
3
 聖所であなたの力と栄光にまみえるため、私はあなたを仰ぎます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
“ダビデの賛歌。ユダの荒野に潜伏していた時の作
1
ああ神よ、いったいどこにおられるのですか。一滴の水もない、からからの荒れ地で、私は必死になって神を慕い求めています。
2
あなたの聖所へ行って力と栄光を拝したいと、どれほど願っていることでしょう。
”とあります。

 ダビデのからだも、ダビデの魂も、ひからびていました。
水がなくて体は干乾(ひから)び、主の臨在も感じられなかったのだと思います。
ダビデは祈らなかったのではありません。この詩にあるようにユダの荒れ野で祈っているのです。
それ故ダビデは、神の幕屋(聖所)で礼拝したかったのでしょう。
神の幕屋(天幕)のある所には飲み水もあったでしょう。

 話しは変わりますが、
主イエス様の十字架とご復活により新契約(新約)の時代に入りました。
新契約の時代に入ると、礼拝の場所やありようが変わったのです。
それを先取りして主イエス様が教えられた内容は、サマリアの女性に対する次のようなものです。
 ヨハネ421-24には次のように記されています。
21 ・・・、女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝するようになる時が来ようとしている
22
あなたがたはわからないものを礼拝し、われわれは自分にわかっているものを礼拝している。救いはユダヤ人たち〔原語は複数形(筆者挿入)〕から来るからである。
23
本物の礼拝者たちが霊と真理のうちにあって父を礼拝するようになる時が来ようとしている。今がその時だ。事実、父は自分を礼拝する人々としてこのような人々を求めているのである。
24
神は霊である。そして神を礼拝する人々は霊と真理のうちにあって〔直訳しています(筆者挿入)〕礼拝しなければならない」(岩波訳)とあります。

 次に、常時、魂の潤っていることが可能であることをイエス様が教えた個所に、ヨハネ737-39があり、次のように記されています。
37 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川〔原語によると「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
 イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである〔直訳「聖なる霊がまだなかったからである」(筆者挿入)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神は霊であり、故に、三一の主なる神様は、聖なる(きよい)霊です。
「聖なる霊がまだなかったからである」とはどういうことなのでしょう。
推測ですが、キリストが人性において経験した経験を持つ聖い霊なのではないかと思います。
ローマ89には、“もしも神の霊があなたがたのうちに住んでいるのなら、あなたがたは肉のうちにではなく、霊のうちにいる。もしも誰かがキリストの霊をもたないのなら、その人はキリストのものではない。”(岩波訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
旧約(旧契約)の時代とは異なり、新約(新契約)の時代は、いつでもどこでも、というより、常に三一の主の霊が内に住んでくださり、魂を潤してくださいますから感謝します。
常に魂が聖い状態にあって、主の霊が川々のように魂を通過し、他者へと流れ出ていく者でありますよう整え続けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔原語「パラクレートス」(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊〔「真理」も「霊」も定冠詞付き(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18
 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19
 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
20
 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21
 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」
22
 イスカリオテでないほうのユダが、イエスに言った。「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」
23
 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
24
 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。”(ヨハネ14章・聖書協会共同訳)

2023年3月21日 (火)

申命記9:1-6 強敵アナク人に勝利するためには/主の御名による勝利

 申命記91-6には次のように記されています。
1 聞け、イスラエルよ。あなたは今日ヨルダン川を渡って行って、あなたよりも大きく、強い諸国民を追い払おうとしている。町は大きく、城壁は天に届くほどで、2 あなたも知っている、大きくて背の高い民、アナク人の子孫がいる。あなたは、「誰もアナク人の子孫には立ち向かえない」と聞いたことがあるだろう。
 3 しかし今日、あなたの神、主があなたに先立って渡り、焼き尽くす火となり、彼らを滅ぼし、あなたの前に屈服させてくださることを知りなさい。それゆえ、主があなたに語られたとおり、あなたは彼らを速やかに追い払い、滅ぼすことができる。
4
 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、
「私が正しいから、主が私を導いてこの地を所有させてくださった」と考えてはならない。
むしろ、この諸国民が悪かったから、主はあなたの前から彼らを追い払われるのだ。
5
 あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。
この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から 彼らを追い出すのである。
こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。
6
 だからあなたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさい。
あなたは、実にかたくなな民なのだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 アナク人に関する聖書内のいくつかの記述
民数記13章には、“22彼ら〔イスラエルの偵察隊(筆者挿入)〕は上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイがいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられていた。/
32
彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。
「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」”(2017)と記され、
ヨシュア1415には、“ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。これは、アルバがアナク人の中の最も偉大な人物であったことによる。”(2017)とあります。

 モーセから申命記の内容を聞いている人々の、巨人に怯えた親の世代の人たちの話は、民数記13.14章に記されています。

 イスラエルが巨人に勝利できるのは、イスラエルの民が強いからではなく、またイスラエルの民が義人であるからというわけでもなく、カナンの地の住民の罪が満ちたからです(5)。

 余談になりますが、現代も罪が満ちてきて御怒りが下りそうになっているのかもしれません(1テサロニケ110、エゼキエル38章、マタイ243-811.122テモテ31-5、エレミヤ305-7)。

 話しをもとに戻します。
このこと(カナンの地の住民の罪が満ちること)は創世記15章に次のように記されています。
13 主はアブラムに言われた。
「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
14
 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」〔出エジプトの民がカナンの地に入る頃にはアモリ人{カナンの地の民}の悪が神の裁きの対象となる状態に達しているということなのでしょう(筆者挿入)〕/
18
 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまで の、19 カイン人、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(聖書協会共同訳)とあります。
これは申命記95の、“こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。”という個所のことでしょう。
土地に関するアブラハム契約は、イサク、ヤコブにも受け継がれました(創世記247261-32813)。

 イサクは神の約束の子であり、アブラハムから生まれたということで、カナンの地を所有したのです。
キリスト者も約束の子であり(エペソ14、ローマ828-30)、神から生まれた霊を持つ(ヨハネ336、1ヨハネ228-321ペテロ13・新共同訳、口語訳、聖書協会共同訳などを参照)ゆえに、キリストの現われの時には霊のからだも与えられ(コロサイ341テサロニケ416.17)、御国を継ぐのです(マタイ53)。

 モーセの次の時代、ヨシュアとカレブはアナク人を撃破していきました。
ヨシュア1121.22には、“21 同じ頃、ヨシュアは山地、ヘブロン、デビル、アナブなど、すべてのユダの山地およびイスラエルの山地に攻め込み、アナク人を絶ち滅ぼした。ヨシュアは彼らをその町もろとも滅ぼし尽くした。22 そのため、アナク人はイスラエルの人々の地から一人もいなくなった。ただ、ガザ、ガト、アシュドドに残るのみとなった。”(聖書協会共同訳)とあり、
ヨシュア1513.14には、“13 ヨシュアは主の命令に従い、エフネの子カレブに、ユダの一族の中にあるキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナク人の先祖である。14 カレブはそこからアナク人の三つの氏族、すなわち、アナクの子孫であるシェシャイ、アヒマン、タルマイを追い出し、”(聖書協会共同訳)とあります。

 アナク人は、ガザ、ガト、アシュドドというようなペリシテの地には残りました。
時代は下り、サウル王の時代、イスラエルの民は、巨人ゴリアト(ゴリアテ)をこわがり、誰もゴリアトと戦おうとはしませんでした。
その中に在って、そこにやって来たダビデ少年のみが、主の御名によって戦ったのです。
 ダビデは巨人ゴリアテに勝利しました。
サウルの前に現れたダビデのことばとイスラエルの民の思いの代表としてのサウル王の言葉は、1サムエル1732.33に、
32 ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、誰も気落ちしてはなりません。あなたの僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
33
 サウルはダビデに言った。「お前が出て行って、あのペリシテ人と戦うことなどできない。お前は少年だし、彼は少年のときからの戦士なのだ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 一方、ダビデの言葉は次のように記されています。対戦者のペリシテ人ゴリアテの言葉をも含めて下記します。
41 ペリシテ人は盾持ちを先に立て、一歩一歩ダビデに近づいて来た。
42
 彼は眼を据えてダビデを見たが、ダビデが容姿端麗で、血色の良い少年だったので侮った。
43
 そのペリシテ人はダビデに言った。「私は犬か。杖を持って私に向かって来るとは。」そして自分の神々によってダビデを呪い、44 ダビデに言った。「さあ掛かって来い。お前の肉を空の鳥、野の獣にくれてやろう。」
45
 ダビデはそのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神〔イスラエルの戦陣の神(2017)〕、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。”(1サムエル1745・聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、人とは戦いませんが、悪魔悪霊とは戦います(エペソ612)。
私たちは、天地の主権者である、主キリスト・イエスの御名によって悪魔悪霊に勝利できるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主イエス様はご復活後、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と語られました。ハレルヤ!
私たちも、主の御名によって悪魔悪霊に勝利させていただけますから感謝します。
あなたの御名を賛美し、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月20日 (月)

マタイ18:21-35 あなたは赦されたのだから赦しなさい

 マタイ1821-35には次のように記されています。
21 その時、ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
22
 イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。
23
 そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。
24
 清算が始まると、一万タラントン〔タラント(2017)〕借金している家来が、王の前に連れて来られた。
25
 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
26
 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。
27
 家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。
28
 ところが、この家来は外に出て、百デナリオン貸している仲間の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29
 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。
30
 しかし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。
31
 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。
32
 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33
 私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34
 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係〔2017は「獄吏」、ギリシア語原語は「バサニステース」で「苦しめる人」の意(筆者挿入)〕に引き渡した。
35
 あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 21.22節には次のように記されています。
21 その時、ペトロがイエスのところに来て言った。主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
22
 イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。」”とあります。

 マタイ1815には、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(新共同訳)というイエス様のおことばがありました。ペテロは、この節を受けて21節の質問をイエス様にしたのだろうと思います。

当時、ユダヤ教のラビたちが教えていた赦しについての教えは、三度まで、ということであったそうです。三度まで赦すのも大変なことですが、ペテロは少し気張って七度まで赦せばよいのでしょうか、と尋ねました。
ところが、イエス様は、「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。」と言われたのです。これは、7×70490回まで赦すということでしょうか。
イエス様が言われたのはそういうことではなく、7は完全数ですから、「兄姉が罪を悔い改めて赦しを求めてきたのならば何回でも赦しなさい」ということを言われたのだろうと思います。

 23-34節の大部分は、イエス様が地上におられたころの例を引き合いに出したものなのでしょう。
しかし恐ろしいことに、23節の冒頭には、「そこで、天の国は」とあるのです。ギリシア語聖書では、天にも、国にも定冠詞がついています。まさしく神の王国です。
23-34
節に記されているイエス様のたとえ話は読めば理解できると思います。
恐ろしいことですね。

 24節には、“清算が始まると、一万タラントン(タラント)借金している家来が、王の前に連れて来られた。”とあります。
1タラントは6000日分の労賃故、10000タラントは6千万日分の労賃で、164,271年分の労賃です。

 おそらく私の場合も、神様から見たら、神様に対して10000タラントの借金に相当する罪を犯したのだろうと思います。口のことば、心の思い、実際の行動、主への不従順等、自分ではそれほどの回数の罪を犯したとは思ってはいなくても、聖なる神様が私を見たらそのような回数に見えるのだろうと思います。
しかし、そのようなすべての罪をイエス・キリスト様は、十字架上で支払ってくださいました。
まさしく、27節の「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。」という個所に相当します。

 私は、全ての負債が帳消しにされたので、主に感謝し、「ハレルヤ!」と叫ぶのです。
しかし、その私が、私に対する兄姉の罪を赦さなかったとしたらどうなるのでしょう。

 その答えの譬え(たとえ)は、28-34節に記されています。
恐ろしい内容ですね。
そして、まとめの35節には、「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」というイエス様の御言葉があるのです。

 このようなイエス様の御言葉はここだけではありません。
主の祈りを教えてくださった直後のイエス様の御言葉は次のように記されています。
「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ614.15・聖書協会共同訳)とあります。

 恐ろしいことです。
この真理を知っていたら、みんな赦してしまうことでしょう。

 心から赦すことが出来るための布石として、神の御前において、自分かどれほどひどい罪人なのか、ということを主に教えていただく必要があるのかもしれません。

 幸いなことに、神様は、イエス・キリスト様が十字架上で流された血の故に、1ヨハネ19を適用すれば、どこまでも赦してくださる方ですから感謝です。イエス様はすべての罪を身代わりに負ってくださいました。
神様は義なるお方ですから、イエス様が流された血の故に、神様に罪を告白すれば、神様が赦すと言われたのですから、神様は必ず赦さなければならないのです(1ペテロ224、1ヨハネ19)。
義であるということは、うそをつかない、ということも含まれるからです。
パウロは、2コリント119で、“神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。”(2017)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたが御子イエス様を私たちの罪の贖いのために地に送ってくださらなければ、私たちの行く場所は、火の池でした(黙示録2015)。
あなたはイエス様を信じた私たちに言われます。
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エペソ432・新共同訳)と。
エペソ432の御言葉のように歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月19日 (日)

箴言21:30 人の知恵と主なる神の知恵

 箴言2130には次のように記されています。
“どんな知恵も英知も、はかりごとも、主の前では無きに等しい。”(2017)とあります。

 私が救われるために、主はこの聖句のように私を導かれました。
以前にもこのブログに記したことのある証ですが、私は、学校で勉強してきた進化論が正しいと思っていました。ところが、同じような学びをしてきた妻が、「創造論もあるのではないの」、と言ったときに、何ということを言うのだ、そのような間違った考え方を正してあげなければ気が済まないとばかり、書店で売られている様々な進化論の本を買ってきては読み漁りました。その期間は6か月位の期間でした。
しかし、様々な本を読めば読むほど、進化論の学説が怪しくなっていきました。
学生時代には、メンデルの法則やパスツールの自然発生学に対する否定的な研究というようなものを知ってはいたのですが、思い出しもしませんでした。

 私は神様に語りかけられたのだと思っているのですが、ある日の朝のこと、私が、庭に咲く朝顔の花を見ていた時、「あなたは、この朝顔を、見たように描くことが出来るか」、と言われたのです。
私は絵が下手なので、とてもできないと思いました。
次に、「この朝顔と同じようなものを布や紙やその他の物を使って作ることが出来るか」と言われました。
私は、不器用なので、とてもできないと思いました。
次に神様は、「あなたに朝顔を形成している原子をあなたに与えたら、あなたは朝顔の種を造ることが出来るか」と言われました。
もちろんできるはずもありません。
その時、私は直感的に、全てのものを造られたお方は神様なのだ、と思えたのです。

 聖書の最初の節は、「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記11・口語訳)という文ですから、私にとっては、最初から聖書を読むことが難しかったのです{それ以外にも聖書を読むにあたっての自分自身の問題(複数形)がありました}。

 しかし、一応神による創造ということを認めることが出来たので、聖書を読むことが多少出来るようになっていったのです。

 私は、やがてこの世界は、食料やエネルギーなどの争奪戦によって、戦争等によって滅びる可能性があると考えていましたから、様々な預言書にも触れていました。
その中に、ノストラダムスの書籍もありました。ノストラダムスは、固有名詞をも使って預言している個所もありました。それも一つではありません。固有名詞が出てくる預言が当たるとなると、見えない世界に何か実在する者がいるのではないだろうか、と思えます。
またノストラダムスの書籍の中には、ノストラダムスの手紙の入った本も売っていました。ノストラダムスの手紙の中には、この世の終わりはイエスが言っているようになる、と記されていたのです。

 それから、私は、聖書の預言にとりかかりました。
聖書の注解書を買い込み、福音書の終末預言や黙示録、ダニエル書やエゼキエル書などを読んでいきました。
聖書の預言を通して、私は、聖書はすごい書物であると実感したのです。

 しかし、救いは分かりません(このことは救われた後に分かったことです)。
イエス・キリストによる救いがわかる迄にはまだ時間がかかりました。

 イエス・キリストによる救いがわかったのは、教会に二回目に行った時のことです。
余談になりますが、私は、日曜日はある運動をするグループに入っており、また、日曜日に講演の講師をすることもありましたから教会に行くためには、両方を中止する必要があったのです。
しかし、妻の強い勧めもあり、最初に教会に行ったのはクリスマス礼拝の時でした。
そして、次の礼拝の時に救われたのです。その次第は、牧師が、「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ109)という個所を読んだとき、「私を信じればよいのだよ。」という声が心に響きました。
私は、イエスを信じました。
心に平安が来たのです。
それまでに、仏教の入門書のような本や新興宗教の本などを読んだこともありました。
色々試しましたが、継続する平安を得たことはありませんでした。
イエス・キリストを信じた時の平安は、その他のものが与える平安とは異なるものでした。

 その時を境にわたしの宗教遍歴も止んだのです。

 聖書には次のように記されています。
18 十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。
19
 それは、こう書いてあるからです。
「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを退ける。」
20
 知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21
 世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
22
 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23 私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
 26 きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。
27
 ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。
28
 また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。29 それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
30
 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
31
 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。”(1コリント1章・聖書協会共同訳)とあります。

 私が救われた時の心境が聖歌560番(聖歌総合版584番)の「心にあるこの安きを」の中に記されています。

 また特に1コリント130の“その神によってこそ、あなたがたはキリスト・イエスのうちに在る者なのである。そのキリストは、私たちにとって、神からの知恵、すなわち「義と聖と贖いと」になられたのである。”(岩波訳)という聖句は、人間が考え出せるようなものではありません。
同じ個所を新改訳第三版は、“しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
誰一人、あなたの聖い霊が、「イエスがキリストである」ということを教えてくださらなくては、救われることが出来ないことを覚えます。
憐れんでくださり、御救いにあずからせてくださいましたことを感謝します。
あなたは、一人一人に応じて、色々な過程を経させて、あなたを求める一人一人にイエス・キリストによる救いに導かれます。
ハレルヤ
感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月18日 (土)

詩篇62篇 いかなる困難の中にあっても主にのみ信頼する者は幸いです

 詩篇62篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
2
 私の魂はただ神に向かって沈黙する。私の救いは神から。
3
 神こそわが大岩、わが救い、わが砦。私は決して揺らぐことがない。
4
 いつまでお前たちは人に襲いかかり、一団となって殺すのか〔殺そうとしている(2017)〕。倒される壁、崩される石垣のように。
5
 彼らは人をその地位から引きずり下ろそうと謀り、偽りを喜び、口で祝福し、腹の底では呪う。〔セラ
6
 私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。私の希望は神から。
7
 神こそわが大岩、わが救い、わが砦。私は揺らぐことはない。
8
 神にこそ、私の救いと栄光はある。わが力なる大岩、逃れ場は神のもとに。
9
 民よ、どのような時にも神に信頼せよ。御前に心を注ぎ出せ。神は我らの逃れ場。〔セラ
10
 人間の子は息のようなもの。人の子は欺き。秤にかければ共に息よりも軽い。
11
 暴力に頼るな。略奪に空しい望みを置くな。富が増えても、心を奪われるな。
12
 一つのことを神は語り、二つのことを私は聞いた。力は神のもとにある、と。
〔神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のものであることを。(2017)〕
13
 わが主よ、慈しみはあなたのもとにあり、あなたは、一人一人にその業に応じて報いをお与えになります。”(聖書協会共同訳)とあります。

 聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳は、上記の節の通りですが、新改訳、口語訳は、上記の1節を表題としていますので、最後の節が12節となっています。

 4.5節の個所をリビングバイブルは纏めて次のように意訳しています。
“ところが、いったいどうしたことでしょう。私の王座が揺らぐと、人々はいっせいに非難をあびせかけてくるのです。王位から追い落とそうと、策略を練り、必死になって根も葉もないうわさを流します。面と向かっては、いかにもにこやかに振る舞うのに、心の中ではのろっているのです。”(リビングバイブルは3.4節)とあります。

 この詩はダビデの何時の時を指しているのでしょうか。
すぐに思い浮かぶのは、息子アブシャロムがダビデに反逆し、ダビデの重臣であるアヒトフェルも反ダビデに回り、イスラエルの民の中にもアブシャロムに従う民が大勢現われた時、それは2サムエル15章に記されていますが、一連の経緯と結果は、2サムエル13-19章を読むとわかります。
また、その後には、2サムエル20章に記されているシェバの反逆もあります。

 ダビデに起きたことを離れ、現代社会や、過去の歴史を思いめぐらしても、このようなことが多く起こっていること、また、王ではなくても、このような事例は、少人数の集まりや様々な組織や子供たちのグループの中でも起こっている事柄です。

 このような時、ダビデはどうしたのでしょうか。
ひたすら主なる神様のみによりすがったのです。
そのようなときのダビデの心境は次のようなものでした。
リビングバイブルは次のように意訳しています(節は聖書協会共同訳とは1節ずつずれています)。
1 私は黙って、神からの救いを待ちます。救うことができるのは神だけですから。
2
神こそ私の岩、私を救うお方、そして私のとりでです。ですから私は、困難にぶつかるときでも、おじけづくことはありません。/
5
しかし、私はじっと黙って、神の救いを待ちます。救うことができるのは神だけだからです。
6
確かに、神だけが私の岩、私を救うお方、そして私のとりでなのです。ですから、困難に会っても、顔をこわばらせなくてよいのです。
7
私が守られるのも、名声を獲得するのも、神のお心ひとつです。神は私の隠れ家、敵の手の届かない岩です。”とあります。

 神である主に信頼しきって歩むことこそ勝利への道です。
そのことをわからせてくださるために、主は、主以外によってはどうすることもできない試練を与えてくださることがあります。その試練は恵みです。ジタバタせずに主に信頼することです。実際、それしかないのです。
実際、主の内に在るキリスト者はすでに勝利者なのです。
地上では必要な肉体が使い物にならなくなったときでさえ、天の住まいを用意してくださっておられるのです。

 イエスのヘブライ語は「イェシュア」で、「神は救う」の意です。「イェシュア」は救い主なのです。新生したキリスト者の霊は主の霊と結ばれて一つとなっているのです(1コリント617)。これこそ霊における結婚の奥義です(エペソ532参照)。
誰よりも愛してくださっておられるお方、それは三位一体の神である霊の父、花婿であるイェシュア、聖霊です。

 三一の主なる神を信頼しなければ、三一の主なる神に失礼です。
ダビデは言います。
「同胞よ。いつでも神への信頼を失わず、心にある願いを洗いざらい申し上げなさい。神はきっと助けてくださいます。」(8・リビングバイブル)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
何があっても、どのような状態に置かれても、肉体の命がとられる時にも、ただただ主に信頼する歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世には良き友も」(聖歌519番、聖歌総合版520番){メロディーは、フォスターの「主人は冷たい土の中に」というものです。}
“1.世には良き友も数あれど キリストに勝る良き友は無し 罪人のかしら我さえも 友と呼び給う愛の深さよ
*(折り返し) ああ 我が為 命をも捨てましし友は主なる君のみ
2.世の中の友は冷えてゆき 暖かき言葉いつか消(き)ゆとも 変わらぬ愛もて主は我に 喜びを与え常にはぐくむ  *
3.試みの時も 病む日にも 死ぬる間際にもそばにいまして 力ある腕を我に延べ 優しくの給う「いと安かれ」と  *”

2023年3月17日 (金)

申命記8:6-20 主に信頼し主に感謝をささげつつ生きるか、幸いなることを当たり前のこととして不平を言って生きるか

 申命記86-20には次のように記されています。
6 また、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩み、主を畏れなさい。
7
 あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地であり、8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの実る地、オリーブ油と蜜の取れる地である。
9
 不足なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない地であり、石は鉄を含み、山からは銅を掘り出せる地である。
10
 あなたは食べて満足するとき、その良い地をくださったことを覚えて、あなたの神、主をたたえなさい。
11
 あなたの神、主を忘れないようにあなたは注意し、今日あなたに命じる戒めと法と掟とを守りなさい。
12
 あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、13 牛や羊が増え、銀や金が増し、あなたのあらゆる持ち物が増えるとき、14 心が驕り、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出されたあなたの神、主を忘れないようにしなさい。
15
 この方は、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させ、16 あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。
17
 あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない。
18
 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。この方が、あなたに力を与えて富を生み出させ、先祖に誓われたその契約を実行し、今日のようにしてくださったのである。
19
 もし、あなたの神、主を忘れるようなことがあって、他の神々に従い、これに仕え、これにひれ伏すなら、私は今日、あなたがたに証言する。あなたがたは必ず滅びる。
20
 主があなたがたの前から滅ぼされた諸国民と同じように、あなたがたも滅びる。あなたがたの神、主の声に耳を傾けないからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルを、良い地に導き入れようとしているのは、ヤハウェ(主)です(7)。
そしてヤハウェ(主)は必ず良い地を与えてくださるのです。実際に、イスラエルは良い地を与えられました(10)。

 その内イスラエルは、良い地での豊かな生活(8.912.13)が当たり前のこととなってしまい、ヤハウェ(主)が豊かな生活を与えてくださったことを忘れ、自分たちが優れているから豊かな生活をエンジョイしているのだと錯覚し、ヤハウェ(主)を畏れ敬うことを忘れ、ヤハウェ(主)に感謝することを忘れ、ヤハウェ(主)が主ではなくなり、自分を「主」とし、偶像を主とし、不幸のスパイラルに陥っていったのです。

 実際、古代イスラエルは、ヤハウェ(主)に仕えたり、ヤハウェ(主)から離れ偶像を拝んだり、ということを繰り返しました。そしてソロモンが偶像礼拝所の開設を許可し、次の代には北イスラエル王国(10部族連合)とユダを中心とする南イスラエル王国(ユダ王国)に分裂し、19.20節で言われていることが現実のものとなってしまったというのが、大雑把な古代イスラエルの歴史です。北イスラエル王国はB.C.722年ごろに滅び、ユダ王国はB.C.586年頃に滅びました。

 キリスト者もイスラエルの歴史を糧にする必要があります。

 キリスト者もかつては主なる神様とは断絶し、サタン(悪魔)の配下にあって生きていました。
エフェソ(エペソ)21-3には次のように記されています。
1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた〔霊の死{神と交わる機能の喪失}(筆者挿入)〕のです。
2
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
3
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。”(新共同訳)とあります。

 同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
1 以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。
2
この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。
3
私たちもみな、以前はほかの人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。”とあります。

 エペソ23の文中にある最終的な「神の怒り」、「私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。」と記されているのは、黙示録20章に記されている次の預言の内容です〔神のことばである預言は必ず成就します(イザヤ46105511)〕。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった〔キリストの千年王国が終わった後のことです(筆者挿入)〕。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。


 新生したキリスト者ではあっても、新生させていただく前は、エペソ21-3に該当する者であったのです。

 新生したキリスト者は、善いことをしたので新生させて頂けたのでしょうか。
善い行いによって新生させていただける人はだれもいないのです。
何故なら、その人の生存期間中に、律法を完全に守った人が善人であるからです。一つでも行いそこなったら律法を全うしたとは言えないのです。すなわち罪を犯したことになります(ヤコブ210)。
パウロは、詩篇143を引用し、ローマ310に、“「義人はいない。一人もいない。”(2017)と記しています。
 またエレミヤはヤハウェ(主)の御言葉として「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(新改訳初版~第三版)と記しています。
この個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
「人の心は何ものよりも欺きに満ち、芯まで腐っている。それがどんなに悪質であるか、だれにもわからない。」とあり、続く10節には、「ただわたし〔ヤハウェ(主){筆者挿入}〕だけが人の心を知っていて、隅々(すみずみ)まで探り、一番奥に隠された動機まで読み取る。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」(リビングバイブル)とあります。

 それでは、キリスト者となった人(新生した人)はどのようにして救われたのでしょうか。
エペソ24-9をリビングバイブルは次のように意訳しています。
4 しかし神は、なんとあわれみに満ちたお方でしょう。こんな私たちを深く愛してくださって、5 罪のために霊的に死に果て、滅びる定めにあった私たちを、キリストの復活と共に生かしてくださいました。救われる価値などない私たちに、ただ一方的な恵みが注がれたのです。
6
そして、キリストと共に、私たちを墓の中から栄光へと引き上げ、キリストと共に席に着かせてくださいました。
7
神がキリスト・イエスを通して成してくださった、すべてのことからも、神の恵みのすばらしさがわかります。私たちは今、その恵みがどんなに豊かであるかを示す見本とされているのです。
8
あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)です。
9
救いは、私たちの良い行ないに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。”と記されています。

 それ故、私たちは、三一の神様を崇め、感謝し、賛美し、み旨に従って生活するようにされている、orされていくのです。そのようにしてくださっておられるのも主なる神様です(エペソ210参照)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたのみ旨に従って歩み続けることが出来ますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「七里ガ浜の哀歌(真白き富士の根)」のメロディーに乗せて(元来アメリカの讃美歌が原曲)
「いつかは知らねど」 聖歌 623番、聖歌総合版669番、新聖歌465
“1.いつかは知らねど 主イエスの再び この世に来たもう 日ぞ待たるる その時聖徒は 死よりよみがえり、われらも栄えの姿とならん
2.悩みは終わりて 千歳(ちとせ)の世となり あまねく世界は君に仕えん 荒野に水湧き 砂漠に花咲き み神の栄えを仰ぎ得べし
3.されば萎(な)えし手を 強くし求めよ 弱りし膝をも 伸ばし歩め 約束のごとく 主は世に来たりて 迎えたもうべし そのみ民を
4.その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び 負(お)いて進まん 嘆きも悩みも しばしの忍びぞ たのしきたたえの 歌と変わらん
5.携(たずさ)え上げられ 主イエスに抱(いだ)かる その日の喜び いかばかりぞ 備えは終われり いざ来りたまえ 花婿なる主よ 救い主よ”
アーメン!
ハレルヤ!

2023年3月16日 (木)

マタイ18:15-20 教会内における兄姉が罪を犯したときの対処方法/叶えられる祈り

 マタイ1815-20には次のように記されています。
15 「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。
16
 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。
17
 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18
 よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。
19
 また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。
20
 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 除籍処分にかかわってくるようなとても重い内容です。
なぜそのようなことが言えるかというと、18節に、“「よく言っておく〔原語を交えて直訳すると「アーメン、私{主イエス・キリスト}は言う」となります(筆者挿入)〕。あなたがたが地上で結ぶ〔「つなぐ」(2017)〕ことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」”と記されているからです。

 重い内容なので、BIBLE navi の解説を転記します。
“「つなぐ」「解く」とは、争いにおける教会の決定のことである。信仰者は、教会の責任ある指導者を超えて裁判所まで行くことはない。理想的には、教会の決定は、神によって導かれ、神のみことばに見出される原則に基づいているべきである。それゆえ信仰者には問題を教会にもっていく責任があり、教会には、神の導きを用いて衝突解決に努める責任がある。神の方法で問題に対処することは、今、そして永遠に影響を与える。”と記しています。

 次に15-17節の解説についてBIBLE naviは、次のように記しています。
“これは、私たちに対して罪を犯す者に対処するためのイエスの指針である。
これが適用されるのは、
①不信者ではなく、クリスチャンである。
②他の人にではなく、あなたに対して犯された罪である。
③一般の社会ではなく、教会での争いの解決である。
 イエスのことばは、私たちを傷つけるか無視する人への正面攻撃を許可しない。破壊的な噂(うわさ)を広めたり、教会裁判を要請したりすることも許可しない。これは紛争を扱う通常の方法であり、段階ごとに公に対する説明責任が増していく。
 まず、本人とその良心に訴えかける。これがうまくいかなければ、共同体からまず数人、次第に多くの人を呼び入れる。イエスは、皆が調和して生きることが出来るよう、信仰者の間での争いが人間関係や教会という共同体に被害を与えかねない場所では、どこででも和解するよう促す。
多くの場合、イエスの勧めと正反対のことを行う。憎しみや恨みで顔を背け、復讐を求めるか、噂、言葉での反撃や中傷に携わるのだ。どんなに難しくても、まずその人のところへ行くべきである。それから、その人に赦しが必要になるたびに、赦すべきである(182122)。このことは、関係を回復させるより良い機会を作りだす。”とあります。

 1コリント6章にはこの個所に関連するような文章が次のように記載されています。
1あなた方のうち誰かが仲間と争いを起こした場合、聖なる人々に訴えずに、あえて正しくない人々に訴えようとするのですか。
2
それとも、あなた方は、聖なる人々が世を裁くことになるのを知らないのですか。また、世があなた方によって裁かれるというのに、あなた方にはささいなことを裁く力もないのでしょうか。
3
わたしたちがみ使いたちを裁くことになるのを知らないのですか。まして、この世の生活に関わることを裁くのは言うまでもありません。
4
それなのに、あなた方はこの世に関わることで争いが生じると、教会が取るに足らないとみなしている人々〔キリスト・イエス様を主としていない人々(筆者挿入)〕を、裁く者の席に着かせるのですか。
5
わたしがこのようなことを言うのは、あなた方を恥じ入らせるためなのです。あなた方の中には、兄弟間の問題を裁くことのできるような知恵のある者〔この世的な知恵者ではなく、その問題に対して適切に、神の御言葉を持って対処できる知恵者(筆者挿入)〕が、一人もいない というほどまでになっているのですか。
6
それで、兄弟が兄弟を訴え、しかも、信仰のない者の前でそうするのですか。”(フランシスコ会訳)とあります。

 1コリント61-6を、フランシスコ会訳は「異教徒に提訴してはならない」という題をつけ、新共同訳と聖書協会共同訳は「信仰のない人々に訴え出てはならない」という題をつけています。

 マタイ1819.20には、
“また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。”と主イエス様が語られた内容が記されていますが、15-20節までは一連の話なので、この2節は16節に関連する内容なのではないかと思います。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」という文の「私の名によって」と訳されている語のギリシア語を英語に変換すると、in my name、になります。キリストの名を使って肉の私と肉のあなたが祈る、ということではなく、二人または三人が霊であるキリストに導かれた祈りである必要があるのです。

 19.20節は、複数人が集まったときの祈りの本質を示していますので、BIBLE naviは、次のような解説を記しています。
“イエスは、ご自分が体においてではなく、聖霊によって信者たちとともにいる新しい日のことを考えておられた。信仰者たちのからだ(教会)において、2人が心から一致して祈ることは、何千人もの人がうわべだけ一致するより力がある。キリストの聖霊がともにおられるからである。2人かそれ以上の信仰者が、聖霊に満たされて、自分の意思ではなく、神の御心によって祈る。だから、彼らの願いはかなえられるのである。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつもあなたの御言葉に従った行動をとることが出来ますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月15日 (水)

箴言21:27.29 良き捧げものと悪しき捧げものについて

 箴言2127.29を、
2017
は、
27 悪しき者のいけにえは、忌み嫌われる。悪意をもって献げるときは、なおさらのこと。
29
悪しき者は厚かましいが、直ぐな人は自分の道をわきまえる。”と訳し、
 新共同訳は、
27 神に逆らう者のいけにえは忌むべきものだ。悪だくみがあってささげるのだから。
29
神に逆らう者は厚かましく事を行う。正しい人は自分の道を整える。”と訳しています。
 リビングバイブルは、
27 神は悪人からの贈り物が嫌いです。何か下心があるときはなおさらです。
29
悪人は強情ですが、神を恐れる〔畏れる(筆者挿入)〕人は、悪いとわかれば素直に考え直します。”と意訳しています。

 捧げもの(礼拝)について、BIBLE navi は、次のようなコメントを述べています。
“この箴言〔27節の(筆者挿入)〕に描写されている礼拝(「いけにえ」)は、賄賂も同然である。
人はどのようにして神に賄賂を渡そうとするのだろうか。
彼らは、神への愛と献身ゆえではなく、見返りに神が祝福してくださることを望むゆえに、教会に行き、10分の1献金を献げ、奉仕をする。
しかし、神は、宗教的な儀式よりも、従順と愛を望んでいることを明らかにしておられる。(213、1サムエル1522)。
神は、私たちの時間、労力、金銭といういけにえだけを望んでいるのではなく、私たちの心、すなわち私たちの完全な愛と献身を望んでおられる。
私たちは人には賄賂を渡せるかもしれないが(2114)、神に賄賂を渡すことは出来ないのだ。”とあります。

 上記のコメント欄の聖句を下記します。
箴言213には、“神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。”(新共同訳)と記され、
箴言2114には、“ひそかな贈り物は怒りを鎮め、懐の賄賂は激しい憤りを鎮める。”(2017)と記され、
1サムエル1522には、“主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。”(2017)と記されています。

 主に愛されていることを自覚したゆえに、主を愛することが出来るようになり、真実・誠実な主に愛されているゆえに安心して主に信頼し、主に従うことが出来るのではないかと思います。
より深く主の愛を知るためには、生まれながらの魂の性向である肉性をきよめていただく必要があることを覚えます。それは、罪を示されたら、その罪を告白し、主に造り変えていただくということです。
ペテロ(ペトロ)は、“13 それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14
 従順な子として、かつて無知であった頃のさまざまな欲望に従わず、15 あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。
16
 「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。”{1ペトロ(ペテロ)1章・聖書協会共同訳}と述べています。

 箴言2129の前半部分に、「厚かましい」という語が出てきます。このように訳されている語のヘブライ語原語は「アーザズ」で、太った、どっしりした、の意がありますが、人の心についていうときには、確固とした、きっぱりした、強情な、非情にする、頑固にする、・・等の意があります。
リビングバイブルは、「強情」と訳しています。
「厚かましい」というのは、“恥知らず〔恥ずべきことをして平気でいること(筆者挿入)〕で遠慮がない。ずうずうしい。厚顔である。”(精選版日本語大辞典)ということです。

 神様に対して厚かましい人は、神様の御言葉を意に介さない(気にかけないor気に留めない)人です。
29
節前半部分を、新共同訳は、「神に逆らう者は厚かましく事を行う。」と訳し、
2017
は、「悪しき者は厚かましい」と訳しています。

 29節の後半部分をリビングバイブルは、「神を恐れる〔畏れる(筆者挿入)〕人は、悪いとわかれば素直に考え直します。」と訳しています。
このような人を主は喜ばれますね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたが私たちを、そして私を愛してくださっておられますことを感謝します。
私たちもあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従い、あなたに感謝し、あなたを賛美しながら歩み続ける者としてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月14日 (火)

詩篇61篇 心が衰え果てるとき 心がくずおれるとき

 聖書協会共同訳の詩篇61篇には次のように記されています。
口語訳、新改訳は1節の個所を、節を付けずに表題としていますので、聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳とは1節ずつのずれがあります。

1 指揮者によって。弦楽器で。ダビデの詩。
2
 神よ、私の叫びをお聞きください。私の祈りに心を向けてください。
3
 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。私よりはるか高くそびえる大岩へと私を導いてください。
〔私の心が衰え果てるとき、私は地の果てからあなたを呼び求めます。どうか及びがたいほど高い岩の上に私を導いてください。(2017)〕
4
 あなたは私の逃れ場、敵の前の堅固なやぐらとなってくださいます。
5
 私はあなたの幕屋にとこしえに宿り、あなたの翼を隠れ場として逃れます。〔セラ
6
 神よ、あなたは私の誓いを聞き入れ、あなたの名を畏れる人に継ぐべきものを与えてくださいます。
7
 王の日々になお日々を加え、その年月を代々に長らえさせてください。
8
 神の前にあって、王がとこしえの王座に着き、慈しみとまことに守られますように。
9
 私はいつまでもあなたの名をほめ歌い、日ごとに私の誓いを果たします。”とあります。

 3節前半部分には、「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。」(聖書協会共同訳)というダビデの叫びがあります。
この個所を2017は、「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てからあなたを呼び求めます。」と訳し、
リビングバイブルは、“どこからでも、たとえ地の果てからでも、私は大声で、「助けください」と叫びます。落胆して心がくずおれるとき、”と訳し、
フランシスコ会訳は、「心が弱り果てるとき、わたしは地の果てから、あなたに呼び求めます。」と訳し、
口語訳は、「わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。」と訳しています。

 「心が挫けるとき」、「心が衰え果てるとき」、「心がくずおれるとき」、「心が弱り果てるとき」とダビデは記していますから、ダビデはこのような経験をしたのでしょう。
サムエル記を読んで黙想するとき、ダビデがこのような状況に置かれた時々があったことであろうということは容易に想像できます。

 ダビデのみならず多くの人が程度の差はあっても「心が挫ける」、「心が衰え果てる」、「心がくずおれる」、「心が弱り果てる」ということを経験したでしょう。まだ経験していない人もこれから経験するかもしれません。

 キリスト・イエス様を信じる前にそのような状況に追い込まれ、イエス様こそキリストであり、救い主であり、主であり、神のひとり子の御子である、と信じることが出来た人もいるでしょう。

 中にはキリスト者となった後に、「心が挫ける」、「心が衰え果てる」、「心がくずおれる」、「心が弱り果てる」ということを経験した人もいるでしょう。
信仰は神様からの賜物(贈り物)であり、信仰の豊かさも人によって異なります。
それは、ローマ123の“神が各自に分け与えてくださった信仰の量”という文からわかります。
どのような信仰者でも、その時点で与えられている信仰の量を超えるような試練が与えられたら「心が挫ける」、「心が衰え果てる」、「心がくずおれる」、「心が弱り果てる」ということを経験することになるでしょう。

 このようなことは主からの恵みです。
信仰の量を増やしていただけるチャンスです。
主イエス様が、「求めなさい。そうすれば与えられます。」と言われたのですから。

 3節前半部分には、「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。」(聖書協会共同訳)と記されていました。
「地の果て」を距離的にとらえてみると、主に叫んでいる者と主なる神との距離が物理的に遠い状態です。主は天におられor主は宮におられ、私は遠い地におります、という関係です。
また霊的な感覚において「地の果てからあなたを呼びます。」というときには、主との間に何かの罪がありそうです。

 「呼ぶ」(聖書協会共同訳)、「呼び求める」(2017)、「叫ぶ」(リビングバイブル)、「呼ばわる」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「カーラー」で、呼ぶ、叫ぶ、言う、読む、・・等の意がありますが、私は、ダビデは、この個所では、主に叫んだのではないかと想像します。

 キリスト者と主との関係を記すと、主は天の座におられるとともに、キリスト者の傍らにもおられ、キリスト者を覆ってもおられ、キリスト者の内にもおられます。
キリスト者の場合において、主が遠く感じられるのは、主に対する何かしらの罪があるからです。
多くの場合は、主よりも自分に押し寄せる問題を大きく見てしまうからでしょう。
主こそ愛なる全能の神である、という位置から主を引きずり降ろしている場合でしょう。
主に、「信じます」と言っていながら、主に信頼していないというような場合もあるでしょう。
あるいはまた、主は愛なる神である、と知識では知っていても、「自分の祈りなどは聞かれない」と自分で決めている場合もあるでしょう。Etc.

 御言葉を読み、理解はできても信仰が来ない、すなわちその御言葉が心の内に定着してくれない、ということもあると思います。そのような時、讃美歌や聖歌は大いなる恵みを与えてくれます。歌詞を信じて賛美するのです。信仰が与えられるまで賛美する、という方法もあります。聖歌や讃美歌と言えども、聖書の聖句と整合性が取れていないのではないかなと思えるもの(自分の知識が少ないために間違って捉えることもあるでしょうが)は賛美しないことです。歌詞を信じて賛美できなければ、自分のものor糧(かて)にはなりませんから。

 私は、心臓リハビリ兼、車いすに乗らないで済むようにという願いから、毎日散歩します(気象条件の悪い日には散歩をしませんが)。時々、杖をついたおばあさんに抜かれることもある速度です。心臓の関係でゆっくりしか歩けないので、賛美しながら歩いています。途中、ベンチに座ったり、腰掛けられるところで腰掛けたりしながら。私にとっては賛美しながら(声を出したり出さなかったですが)歩いているときが至福の時です。
讃美歌や聖歌の歌詞の中には、聖書の聖句がふんだんに入っていますから、これは聖書のあの個所だな、これは聖書のこの個所だな、などと思いながら信仰の糧をいただいています。

 経済的にも健康的にも対人関係についても問題を持っていない、だから問題がない、だからハッピー、ハッピー、という人がいたとします。
しかしそのような場合はその発想が問題なのです。
その人がキリスト者であれば、主は、その人用の十字架を与えてくださることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつも主を愛し、主に信頼し、主に感謝し、主を賛美しながら、常に主が主体となってくださり主と共に歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月13日 (月)

申命記8:5-9 主は訓練(鍛錬)なさるお方/天的祝福

 申命記85-9には次のように記されています。
5 人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。
6
 また、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩み、主を畏れなさい。
7
 あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地であり、8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの実る地、オリーブ油と蜜の取れる地である。9 不足なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない地であり、石は鉄を含み、山からは銅を掘り出せる地である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 5節には、“人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。”と記されています。

 新約聖書の中にもヘブライ(へブル)人への手紙の中に次のような文章があります。
4 あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。
5
 また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主によって懲らしめられても弱り果ててはならない。6 主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
7
 あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。8 誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子〔私生児(2017)〕であって、実の子ではありません。
9
 さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。
それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10
 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです
11
 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。”(ヘブライ12章・聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルは地上の神の王国の民なので、イスラエルの民は、7-9節に“平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地であり、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの実る地、オリーブ油と蜜の取れる地である。不足なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない地であり、石は鉄を含み、山からは銅を掘り出せる地である。”と記されているような祝福を受ける、と神ヤハウェ(主)から約束されました。

 霊に在ってキリスト者が受けている祝福の第一のものは、エペソ13に“神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(新改訳第三版)と記されているような霊的なものです。

 「キリストにあって」は英訳では、in Christです。
「天にある」(新改訳第三版)、とか「天上にある」(2017)という言葉を読むと、物理的な、というか視的なイメージを持ちやすいかもしれませんが、人が地上において天にある霊的祝福を受けるというのは、その祝福の結果は目に見える場合も多いとは思いますが、本質的には霊的なものなので目には見えません。とはいえ目には見えなくても、目や表情、態度、言葉遣い等に現れてくるものではないかと思います。

 テレビや映画、ユーチューブ、その他の様々な番組の中には、なんて悪魔的なのだろうと思えるものがあまりにも多くあります。
それらは、キリストの内にはなく、サタン(悪魔)というこの世の神(2コリント441ヨハネ519)の下で製作されているからだろうと思います。

 キリスト者は、主なる神との交わりの中で、また主に在るキリスト者との交わりの中で、霊的祝福を思う存分味わうことが出来ます。

 申命記87-9には、“7 あなたの神、主は、あなたを良い地に導き入れようとしている。そこは、平地でも山でも川の流れがあり、泉や地下水が溢れている地であり、8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの実る地、オリーブ油と蜜の取れる地である。9 不足なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない地であり、石は鉄を含み、山からは銅を掘り出せる地である。”と記されていましたが、これを私なりに霊的に解釈すると、「キリストの内にある者たちの内には、聖霊がゆき巡り、霊の食物、すなわち御言葉をたくさん与えられ、霊的に満腹することが出来、かつ霊的な宝物も掘り出すことが出来るのです。」となります。

 霊的祝福は霊の実として現れます。一方肉的なものは地に属し悪魔に属するものです(ヤコブ315)。

 肉による行いと霊の実について、ガラテヤ516-23には次のように記されています。
16 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17
 肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
〔私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導き従って歩んでいる時に行ないたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。内面のこの二つの力は、どちらも私たちを思いどおりに動かそうと、いつも格闘しています。そして私たちは、この二つの力の板ばさみになって、したいと思うことが自由にできない状態なのです。(解説意訳・リビングバイブル)〕
18
 霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
 肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
 22 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ガラテヤ信徒への手紙は上記の文に続けて、霊的祝福の中で生きる方法と勧めを次のように記しています。
24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。26 思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。」(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
地上に在っても、天にある(神に属する)霊的祝福の中で歩み続けることが出来ますように。
この世はますます暗くなっています。
主の現われを待ち望んでいる兄姉たちと共にあなたの御迎えを待ち望みます。
その時に関しては御父しか知らない、とイエス様は言われました。
しかし、天において“合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます”(1テサロニケ417・新共同訳)と教えてくださっておられますから感謝します。
また、イエス様のたとえ話の中には、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい。」(マタイ2562017)という声が聞こえる、というように記されていますから感謝します。
黙示録2211には、「聖なる者はさらに聖なる者となれ」(聖書協会共同訳)とあるように、益々、in Christで歩み続けていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月12日 (日)

マタイ18:10ー14 迷い出た羊を探して連れ帰る主イエス様

 マタイ1810-14には次のように記されています。
10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。
12
 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
13
 よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
14
 そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ18章は、サタン(悪魔)の支配下にあるこの世の国(1ヨハネ519)の話ではなく地上の天の王国{天の御国(マタイ181)}の話です。

 10節前半部分には、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」とあります。
「これらの小さな者」とは、主イエス様を信じた者のことです。
主イエス様を信じた者を躓かせる者は、「ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。」(マタイ186・聖書協会共同訳)とイエス様は言われました。
私は、イスラエルに行ったときに、かつて使われた石臼を見てきましたが、これを首に懸けられて、深い海に沈められたら二度と浮かび上がることは出来ないな、と心の底から思いました。

 イエス様の羊{御父が御子イエス様に与えた人たち(ヨハネ637172.24)}は、イエス様にとって、とても大切な存在なのです。
イエス様の羊は、イエス様について行きます(ヨハネ103-5.16)。

 御父が主イエス様に与えられた人には天使(御使い)が遣わされます。
10
節には、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父の御顔を仰いでいるのである。」と主イエス様は語られました。
 へブル114には、“天使は、救われる人々を助けるために遣わされた、霊の使者なのです。”(リビングバイブル)と記され、
 詩篇345-8{(聖書協会共同訳)、口語訳、新改訳は4-7節}には、
5 私が主を尋ね求めると、主は私に答え、あらゆる恐怖から助け出してくださった。
6
 主を仰ぎ見る人は輝き、辱めに顔を伏せることはない。
7
 苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き、あらゆる苦難から救ってくださった。
8
 主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き、彼らを助け出した。”とあり、
 詩篇9111には、“主が、あなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。”(2017)とあります。

 初代教会の信徒たちも御使いを信じていました。
使徒1215には、“・・・。それで彼らは「それはペテロの御使いだ」と言った。”(2017)と記されています。

 守られているのなら、どうして殉教や迫害があるの?と疑問を持つ人もいるでしょうが、殉教や迫害が許されているのは主を証しするためだからです。
私は自分の肉体よりも私の主であるイエス様を愛しています、という証です。
私たちの本体は新生させていただいた霊です(使徒759)。
殉教者や迫害された人には天でのご褒美が待っているのです(マタイ511.12)。
新生させていただいた霊は永遠の命を持っています(ヨハネ1126、1コリント6.171ヨハネ512.13)。

 新生させていただいた人は、神から生まれた人です。
ヨハネ3章には次のように記されています。
3 イエスは答えて言われた。「よくよく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。人は、新たに〔原語は「アノーセン」で、上から、新しく、再び、の意(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
5
 イエスはお答えになった。「よくよく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6
 肉〔両親の受精卵(筆者挿入)〕から生まれたものは肉〔body(筆者挿入)〕である。霊から生まれたものは霊〔新生したのは霊です(筆者挿入)〕である。
7
 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節には、「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」とあります。
キリスト信者間で問題が発生し、交わりから出て行ってしまったor交わりに入ることが出来ないという兄姉がいた場合には、再び交わりに入れるように主に在って努力する必要があることを覚えます。
キリスト者がやらなければ、直接、主がことを行うことでしょう。
27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしも彼らを知っており、彼らはわたしに聞き従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らはいつまでも滅びることがなく、誰もわたしの手から、彼らを奪い去りはしない。29わたしの父がわたしにくださったものは、他の何ものにも勝るものであり、誰もそれをわたしの父の手から、奪い去ることはできない。」(ヨハネ10章・フランシスコ会訳)とイエス様は語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
兄姉を躓かせてしまうことのないようにお守りください。
あなたの大切な一人一人を私たちも愛をもって大切にしていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月11日 (土)

箴言21:25.26 怠け者と主に従う人

 箴言2125.26を、
2017
は、“25 怠け者の欲望はその身を殺す。その手が、働くことを拒むからだ。
26
この者は一日中、自分の欲望に明け暮れる。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。”と訳し、
リビングバイブルは両節を合わせて、“怠け者は働きもしないで、やたらに欲しがり、人をうらやむことしか知りません。しかし神を恐れる人は、喜んで人に与えます。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“25 怠け者の欲望は自らを死に至らせる。その手が働くことを拒むからである。
26
 その者は日夜欲望を満たそうと願うが、正しき者は与え、惜しむことはない。”と訳しています。

 「怠け者」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーツェール」で、「怠け者の,怠惰な,無精な、ものぐさな」の意があります。

 「正しき者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、「正しい、合法の、適法の、正当な、高潔な,有徳な」(者)の意があります。
新共同訳は、「神に従う人」と訳しています。

 「欲望」と訳されている語のヘブライ語原語は「タアッヴァー」で、「切望、憧れ、激しく恋しがること、楽しみ、(大)喜び、願望、欲望、」等の意があります。

 25節には、“怠け者の欲望は自らを死に至らせる。その手が働くことを拒むからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「怠け者」と訳されているヘブライ語を「無精者」と訳すこともできます。
「無精者」という語の中の「精」とは、心身の力、元気、精力、等の意で用いられることもあります(中医学はもう少し突っ込んだ考え方をします)。
とすると、「無精者」とは、精神的、(or /and)肉体的に、活力(活動のもとになる力、生命力、生活する力)のない者ということになります。
「あなたは本当に怠け者ね」と言われる人もいるかもしれませんが、実は、精神活動や身体活動を活発にできない肉体であるからかもしれません。

 無精者になっている原因が、なんであるのか、それを究明できて対処できるとよいですね。
イエス様は、忙しくて食事をとる時間のない弟子たちに、「静かなところへ行って休みなさい。」と言われたことがあります(マルコ631)。
イエス様は、エネルギー不足や疲労の蓄積時に、「気力を出して頑張れ」、とは言われないお方でした。
主キリスト・イエス様は、ご復活後に、「・・、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒182017)と言われましたが、キリストの証人としての責務を全うするための力でしょう。

 また、怠け者の中には、生きる意味が分からなくて怠け者状態になっている人もいます。
そのような場合には、刹那的に大喜びできることに没頭してしまうかもしれません。
生きる意味、生きがい、生きる目的が見いだせると、怠け者から脱却することができる人もいます。

 2017は、25節を“怠け者の欲望はその身を殺す。その手が、働くことを拒むからだ。”と訳しています。
 
 職業を選択する方法の一つとして、「自分のしたいことをしましょう」というのがありますが、自分のしたいことをして生活していける人ばかりではないのです。
自分のしたいことをして生活することができ、かつ、それが人の役に立つことであればそれは素晴らしいことですが、誰もがそのように生きていくことが出来るとは限りません。

 聖書は、「・・・、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」(1テサロニケ411.122017)とか、
「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」(エペソ4282017)とか、
「あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(2テサロニケ310-122017)などと述べています。

 聖書を読んでいると、職業選択の自由を否定してはいませんが、自分がしたい仕事が見つかるまでは仕事をしない、ということを認めてはいないことがわかります。
まずは、自分の肉体を養うために働きなさい、ということを述べているように思います。
そして収入に応じた生活を心がけることが大切です。
ローマ138には、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたから与えられた分相応の生活をしつつ、あなたの中に喜びを見出し、あなたを賛美し、あなたに感謝しつつ歩んでいく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月10日 (金)

詩篇60:1.2 敵に対する勝利は主の御力による

 詩篇601.2には次のように記されています。
1 指揮者によって。「百合」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教えのため。
2
 ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。”(聖書協会共同訳)とあります。

 口語訳、新改訳、リビングバイブルは上記1.2節を表題としていますので、聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳とは2節のずれがあります。

 この個所に一致する聖書個所の一つは、2サムエル83.13であろうと思われますが、それらの周辺の節もついでに下記しておきます。
3 ツォバの王、レホブの子ハダドエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようとして出て行ったとき、ダビデは彼を討った。/
13
ダビデが塩の谷でアラム人一万八千人を討って帰って来たとき、彼は名をあげた。
14
彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。”(2017)とあります。
また1歴代誌196.7以下の記述も表題と関係がありそうです。
1
歴代誌196.7には、
6 アンモン人は、自分たちがダビデの憎しみを買ったのを見てとった。そこでハヌンとアンモン人は、銀千タラントを送って、アラム・ナハライムアラム・マアカ、ツォバから戦車と騎兵を雇った。
7
彼らは、戦車三万二千台、マアカの王とその兵たちを雇った。彼らは来て、メデバの前に陣を敷いた。アンモン人は彼らの町々から集まり、戦いに臨んだ。”(2017)と記されています。

 2サムエル8章の方では、最終的な勝利しか記されていませんし、1歴代誌196以降も勝利で締めくくられて終わっている記述ですが、実際は大変な戦い、それも敗戦間近というような戦いであったことが詩篇60篇からわかります。

 詩篇603-511.12には次のように記されています。
3 神よ、あなたは私たちを拒み、打ち倒し、怒っておられます。私たちを回復させてください。
4
 あなたは地を震わせ、引き裂かれました。どうかその裂け目を癒やしてください。地が揺らいでいるのです。
〔あなたはこの国を恐怖で震撼させ、引き裂きました。主よ{ヘブライ語聖書には「主よ」はありません(筆者挿入)}、深みまで揺るがされたこの地を今、回復してください。(リビングバイブル)〕
5
 あなたはご自分の民に辛酸をなめさせ、よろめかせる酒を私たちに飲ませました。
〔さんざんに打ちのめされて、私たちの足はよろめいています。(リビングバイブル)〕/
11
 誰が私を堅固な町に連れて行くのか。誰が私をエドムに導くのか。
12
 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。神よ、あなたは私たちの軍勢と共に出陣しようともされない。
〔神よ、あなたご自身が私たちを拒まれるのですか。神よ、あなたはもはや私たちとともに出陣なさらないのですか。(2017)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 上記の詩篇に記されているダビデの叫びを読むと、イスラエル軍の中に、殺された兵士や負傷したイスラエル軍の兵士が多数出たのではないだろうか、そしてそれに基づくダビデの恐怖が伝わってきます。
ダビデは、この戦争に関して、神様が臨在しておられない、と感じたのでしょう。
12
節には、「神よ、あなたご自身が私たちを拒まれるのですか。神よ、あなたはもはや私たちとともに出陣なさらないのですか。」という神への叫びが記されています。

 何故かこの詩篇においては、ダビデの全能者への呼びかけが、「神よ」としか書かれていません。「ヤハウェ(主)よ」とは書かれていないのです。
これはクリスチャンが、「主よ」、「イエス様」と呼びかけられずに、「神様」としか言えないような状態を私は想像してしまいます。

 とにかく戦いの前半戦においては、ヤハウェ(主)はイスラエルに力を与えていないように思えます。
5
節には、「あなたはご自分の民に辛酸をなめさせ、よろめかせる酒を私たちに飲ませました。」(聖書協会共同訳)というダビデの訴えがあり、
12
節には、「神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。神よ、あなたは私たちの軍勢と共に出陣しようともされない。」というダビデの絶望的な怒りが記されています。

 しかしそのような中にあってもダビデは、次のようなヤハウェ(主)の御言葉を回顧し、握りしめました。詩編608-10には次のように記されています。
8 神はその聖所で宣言された。
「私は喜び勇んでシェケムを分配し、スコトの谷を測量しよう。9 ギルアドは私のもの。マナセも私のもの。エフライムは私の頭の兜。ユダは私の王笏。10 モアブは私の足を洗うたらい。エドムには私の履物を投げ、ペリシテ中に勝ち鬨の声を響かせよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 上記の聖句が心に浮かんだので、ダビデは次のように祈れたのでしょう。
6 あなたを畏れる人には、一つの旗をお与えになりました。弓矢から逃れた者を再び集めるために。7 あなたの愛する人々が助け出されるように。右の手で救い、私たちに答えてください。/
13
 私たちを敵から助け出してください。人の与える救いは空しい。
14
 神によって私たちは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 わたしの想像ですが、ひょっとするとダビデやイスラエル軍は、他国との戦いにおいて次々と勝利できたので、ヤハウェ(主)が働いてくださっておられることを忘れ、自己過信に陥っていたのかもしれないな、と思います。
そのように思うのは、ダビデの「人の与える救いは空しい。神によって私たちは力を振るいます。」(13.14・聖書協会共同訳)の個所からです。

 キリスト者の戦いは、悪魔悪霊との戦いです(エペソ612)が、勝利できるのは、主の故であることを片時も忘れてはならないことを教えられます。
またキリスト者の戦いには、罪との闘いもあります(へブル124)。この戦いは悪魔悪霊も絡んでいます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちキリスト者にも戦いはありますが、いつも主の血によって、主の御名によって戦い、勝利していくことができますように。
戦いの時に自分だけで戦ってしまうことなく、主に在って(in Christ)戦うことを忘れないようにさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月 9日 (木)

申命記8:4 必要を満たしてくださる主

 申命記84には、“この四十年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 モーセはもう一度、同様のことを語っています。
申命記295に、「私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった。」(2017)とあります。

 それだけではありませんでした。
主は、日々の食物として、マナも40年間与え続けたのです。

 エジプトの地における過越しの日は、第一の月の15日の夜でした(イスラエルの1日は日没から翌日の日没までが1日です)。それから一ヶ月間はパンを食べていたのです。しかし、パンの原料は一ヶ月で底をつきました。

 出エジプト16章には次のように記されています。
1 こうして、イスラエル人の全会衆はエリムをたち、エリムとシナイの間にあるシンの荒れ野に入った。それは、エジプトの地を出て、第二の月の十五日のことであった。
2
 イスラエル人の全会衆は荒れ野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
3
 イスラエルの人々は二人に言った。
「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」
 4 そこで主はモーセに言われた。
「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。民は出て行って、毎日、一日分を集めなさい。これは彼らが私の律法に従って歩むかどうかを試すためである。
5
 六日目に持ち帰ったものを整えると、日ごとに集める分の二倍になるだろう。」
 6 そこでモーセとアロンは、イスラエルの人々すべてに言った。
「夕方には、あなたがたは主があなたがたをエジプトの地から導き出されたことを知 り、7 朝には、あなたがたは主の栄光を見る。あなたがたの主に対する不平を主がお聞きになったからだ。あなたがたが私たちに向かって不平を言うとは、 私たちを一体何者だと思っているのか。」
8
 さらにモーセは言った。「主が夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが並べ立てた不平を聞かれたからである。私たちを一体何者だと思っているのか。あなたがたが不平を言ったのは、私たちに向かってではなく、主に向かってなのだ。」
 9 モーセはアロンに言った。
「イスラエル人の全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主はあなたがたの不平を聞き入れられた。』」
10
 アロンがイスラエル人の全会衆に語っているとき、彼らが荒れ野の方を向くと、主の栄光が雲の中に現れた。
11
 そこで主はモーセに告げられた。
12
 「私はイスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えなさい。『夕方には肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたは私が主、あなたがたの神であることを知るようになる。』」
13
 さて夕方になると、うずらがやって来て宿営を覆い、朝になると、宿営の周りに露が降りた。14 降りた露が上がると、荒れ野の地表に薄く細かいものが、地の上の霜のようにうっすら積もっていた。15 イスラエルの人々はそれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か分からなかったのである。
 そこでモーセは彼らに言った。
「これは、主があなたがたに食物として与えられたパンである。16 主が命じられた言葉はこうである。『それぞれ自分の食べる分を集め、一人当たり一オメルずつ、自分の天幕にいる人数に応じて取りなさい。』」
17
 イスラエルの人々はそのとおりに行った。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。18 しかし、オメル升で量ると、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなく、それぞれ自分の食べる分を集めていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マナの必要がなくなったのは、イスラエルの民がヨルダン川を渡り(ヨシュア記3.4章)、約束の地に入り、そこの食物を食べ時からです。その時からマナは降らなくなりました。
 
 ヨシュア5章には次のように記されています。
10 イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕方、エリコの平野で過越祭を祝った。
11
 過越祭の翌日に当たるちょうどその日に、彼らは土地の産物を種なしパンや炒り麦にして食べた。
12
 彼らが土地の産物を食べた翌日からマナは絶えた。もはやイスラエルの人々にマナはなく、彼らはその年、カナンの地で収穫されたものを食べた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 また荒野にいた40年の間、脱水の故に死んだ人はいませんでした。
飲み水のないときには、主にお願いすれば、主は水を与えてくださったからです。

 出エジプトから約束の地すなわちカナンの地に入り、生活が安定した時までのことをネヘミヤは次のように、主への祈りの中で簡略にまとめています。
9 わたしたちの先祖がエジプトで苦しんでいるのを見、葦の海で叫び声をあげるのを聞き、10 ファラオとその家来、その国民すべてに対して、あなた〔主(筆者挿入)〕は数々の不思議と奇跡を行われた。彼らがわたしたちの先祖に対して傲慢にふるまったことをまことにあなたは知っておられた。こうしてかちえられたあなたの名声は、今日も衰えることを知らない。
11
あなた〔主(筆者挿入)〕は先祖の目の前で海を二つに裂き、海の中の乾いた地を通らせ、追い迫る敵をあたかも石のように、荒れ狂う水の深みに投げ込まれた。
12
昼は雲の柱、夜は火の柱をもってわたしたちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。
13
あなたは天からシナイの山に降って彼らと語り、正しい法、真実の律法、優れた掟と戒めを授け、14 あなたの聖なる安息日を布告し、僕モーセによって、戒めと掟と律法を授けられた。
15
彼らが飢えれば、天からパンを恵み、渇けば、岩から水を湧き出させ、必ず与えると誓われた土地に行って、それを所有せよと命じられた。
16
ところが、わたしたちの先祖は傲慢にふるまい、かたくなになり、戒めに従わなかった。17 聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになり、エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。
18
彼らが牛の像を鋳て造り、エジプトから救ってくれた神だと称し、背信の大罪を犯したときも、19 まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し、夜は火の柱を取り去ることなく 行く道を照らされた。
20
あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え、口からマナを取り上げることなく、渇けば水を与えられた。
21
四十年間、あなたが支えられたので、彼らは荒れ野にあっても不足することなく、着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。
22
諸国、諸民族を彼らの支配下に置き、分け与えて国境に住まわせられた。ヘシュボンの王シホンの国も、バシャンの王オグの国も彼らの所有となった。
23
その子らの数を天の星のように増やし、行って所有せよと先祖に約束された土地に彼らを導き入れられた。
24
その子らはその地に入り、これを所有した。あなたはその地の先住民カナン人を服従させ、彼らの支配下に置かれた。その地にいた諸民族とその王たちを、彼らは思いのままにあしらった。
25
堅固な町々、肥沃な土地を奪い、すべての良きものに満ちた家、貯水池、ぶどう畑、オリーブと果樹の園を、数多く手に入れた。彼らは食べて飽き、太り、大きな恵みを受け、満足して暮らした。”(新共同訳)とあります。

 パウロは次のように言いました。
「・・私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(2017)と。

 御父が必要を満たしてくださるということに関するイエス様の御言葉を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
25 ですから、食べ物や飲み物、着る物のことで心配してはいけません。いのちのほうが、何を食べ、何を着るかということより、ずっと大事です。
26
空の鳥を見なさい。食べ物の心配をしていますか。種をまいたり、刈り取ったり、倉庫にため込んだりしていますか。そんなことをしなくても、天の父は鳥を養っておられるでしょう。まして、あなたがたは天の父にとって鳥よりはるかに価値があるのです。
27
だいたい、どんなに心配したところで、自分のいのちを一瞬でも延ばすことができますか。
28
また、なぜ着る物の心配をするのですか。野に咲いているゆりの花を見なさい。着る物の心配などしていないでしょう。
29
それなのに、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花ほど美しくは着飾っていませんでした。
30
今日は咲いていても、明日は枯れてしまう草花でさえ、神はこれほど心にかけてくださるのです。だとしたら、あなたがたのことは、なおさらよくしてくださらないでしょうか。ああ、全く信仰の薄い人たち。
31
ですから、食べ物や着物のことは、何も心配しなくていいのです。
32
ほんとうの神を信じない人たちのまねをしてはいけません。彼らは、それらがたくさんあることを鼻にかけ、そうした物に心を奪われています。しかし天の父は、それらがあなたがたに必要なことをよくご存じです。
33
神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます
34
明日のことを心配するのはやめなさい。神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生きなさい。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは必要を満たしてくださる神様ですら御名を崇め私たちの主キリスト・イエス様の御名で感謝の祈りをささげます。アーメン。

2023年3月 8日 (水)

マタイ18:6-9 キリスト信者を躓かせる者への災い/キリストに在って生きる

 マタイ186-9には次のように記されています。
6 「しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。
7
 人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。
8
 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命に入るほうがよい。
9
 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。両目がそろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりは、一つの目になって命に入るほうがよい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、第一に、主イエス様を心に受け入れた信仰者をつまずかせるような者は、主なる神様から、取り返しのつかない災いを受けることになる、と記されています。
その罪の罰というのは、重い石臼を付けられて深海に投げ込まれて二度と上がって来ることの出来ないような災いよりも、さらにひどい罰を受けるということです。

 次に、主イエス様は、「人をつまずかせるこの世に災いあれ。」(7)と語られました。
このような御言葉は人としてのイエスの言葉ではないでしょう。神のひとり子の御子であられる神の第二位格の神としての主イエス・キリスト様の御言葉でしょう。御子は御父のみ旨を語っていたのです。
ヨハネ1410.1124には次のように記されています。
10 私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない父が私の内におり、その業を行っておられるのである
11
 私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
24
 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)が語りだされた御言葉は必ず成就します。
イザヤ5511には、“わたしの口から出る言葉は、わたしが望むことを行い、わたしが託した使命を成し遂げずに、むなしくわたしに戻ることはない。”(フランシスコ会訳)と記されています。
天において御父の近くで仕えている大天使ガブリエルも次のように語っています。
「それ、神の言{原語は「レーマ」でことば}には。能はぬ所なし」(ルカ137・文語訳)と。

 黙示録18章と黙示録2011b及び2ペテロ310からは、この世が消滅させられていることを見ることができます。
今や、私たちキリスト者を取り囲んでいる多くのこの世のものは、躓きをもたらすものです。
罪に満(み)てる世界、そこに住むキリスト者という構図です。

 8.9節には次のように記されています。
「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になって命に入るほうがよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。両目がそろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりは、一つの目になって命に入るほうがよい。」と。

 イエス様が語られたことを肉体に対して実行したら、体のどこが残るのでしょう。人は生きてはいけません。
キリスト者に対しても、主イエス様は、このことを語られたのです。
強調法としての語り方であったのでしょうか。
そうではないと思います。
イエス様の十字架と復活後、このことが可能となったのです。
 ガラテヤ524.25には、
24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。”(聖書協会共同訳)とあり、
 コロサイ31-11には、
1 あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2
 上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。
3
 あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。
4
 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
5
 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。
6
 これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。
7
 あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。
8
 しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒涜〔別訳「悪口」(欄外注)〕、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
9
 互いに噓をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て10 新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。11 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
キリストに在って生きる恵みを与えられていますことを感謝します。
あなたが与えてくださっておられる恵みを大切にして歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月 7日 (火)

箴言21:23.24 災いにあいにくい口と災いにあい易い口

 箴言2123.24を、
聖書協会共同訳は、
23 自分の口と舌を守る人は、苦難から自分の魂を守る。
24
傲慢で高ぶる者の名は「嘲り」。怒りやすく傲慢な振る舞いをする。”と訳し、
2017
は、
23 自分の口と舌を守る者は、自分自身を守って苦難にあわない。
24
横柄で不遜な者、その名は「嘲る者」。彼は憤然として横柄にふるまう。”と訳し、
リビングバイブルは、
23口を開かないでいれば、苦境にたたされることもありません。
24
人をばかにする者は傲慢で、自分が一番だと思いあがっています。”と意訳しています。

 23節後半部分の「魂」(聖書協会共同訳)、「自身」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」で、どちらの意味もあります。

 24節後半部分の「怒り」(聖書協会共同訳)、「憤然」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エブラー」で、怒り、憤然、憤怒、激怒、復讐等の意があります。

 24節に「傲慢」(聖書協会共同訳)、「横柄」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ゼード」でどちらの意もあります。

 23節には、“自分の口と舌を守る人は、苦難から自分の魂(自分自身)を守る。”とありますが、リビングバイブルは、“口を開かないでいれば、苦境にたたされることもありません。”と意訳しています。

 人は、人の心にあることを、つい口に出してしまうことがあります。
心にあることが主に喜ばれる事柄なら良いのですが、主が嫌悪されることをしゃべって失敗してしまうこともあるでしょう。

 エペソ4章には次のような聖句が記されています。
25 あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。
26
怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
29
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい
30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31
無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。”(抜粋・2017)とあります。
 続くエペソ5章には次のような聖句が記されています。
3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。
4
また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。
5
このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。”(抜粋・2017)とあります。

 エペソ430には、“神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。”と記されていますからこの個所はキリスト者に与えられた聖句です。
キリスト・イエス様の救いにあずかったからといっても、心がすぐにきよめられるわけではないことがわかります。
キリストの御救いにあずかった後には、心をきよめていただくということをしていく必要があることを覚えます。

 心がきよくされ、愛に満たされていれば、その口からは、きよい愛のことばと行動が出てくることでしょう。

 コロサイ3章には次のように記されています。
12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
13
 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
14
 さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。
15
 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。
16
 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
17
 そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって〔「名によって」の原語を直訳すると「名の中で」(筆者挿入)〕行い〔何をするにも、何を語るにも、主イエスの代理人として行動し(リビングバイブル)〕、イエスによって父なる神に感謝しなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたに心を整えていただいて、あなたのみ旨にそった歩みをしていくことができますよう、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月 6日 (月)

詩篇59篇 敵からの救いを求める祈り/キリストにあって勝利が確定しているキリスト者

 詩篇59篇の本文は聖書協会共同訳を用いますので、口語訳、新改訳とは1節のずれがあります。
 詩篇591節には、“指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。”という表題が記されています。

 ダビデのみならず世界のキリスト教史を紐解けば、幾度となくキリスト教会は迫害を経験し、キリスト者は、肉の体に害を受けたり、肉の体を殺されたりしたことがあることを知るでしょう。
日本の場合でも、豊臣秀吉による迫害、徳川幕府による迫害、また明治以降にも迫害はあり、特に昭和時代の戦中期には激しい迫害がありました。

 神ヤハウェ(主)にあっては、ダビデが王とされていましたが、イスラエル国にあっては、未だダビデは正式な王とは認められておらず、サウルがイスラエルの王として君臨していた期間中の、サウルによるダビデ迫害の一コマが詩篇59篇に記されています。

 詩篇59篇の、サウルから迫害を受けていたダビデの様子や心境、及びサウル軍の様子などが記されている節を列挙してみます。
2 わが神、私を敵から助け出し、立ち向かう者から高く引き上げ、守ってください。
3
 悪事を働く者から助け出し、血を流す者からお救いください。
4
 主よ、力ある者らが私の命を狙って身を潜め、争いを仕掛けて来ます。私には背きもなく、罪もなく、5 過ちもありません。彼らは走り寄り、身構えています。/
7
 彼らは夕べに戻って来て、犬のようにほえ、町を巡り歩きます。
8
 彼らは口から、その唇から剣を吐き出しています。/
13
 ・・・。彼らは呪いと欺きを語っています。
15
 彼らは夕べに戻って来て、犬のようにほえ、町を巡り歩きます。
16
 彼らは餌食(えじき)を求めてさまよい、食べ飽きるまでは眠ろうとしません。”と記されています。

 このような状況下にある中での、ダビデの祈りは次のように記されています。
2 わが神、私を敵から助け出し、立ち向かう者から高く引き上げ、守ってください。
3
 悪事を働く者から助け出し、血を流す者からお救いください。
4
 主よ、力ある者らが私の命を狙って身を潜め、争いを仕掛けて来ます。私には背きもなく、罪もなく、5 過ちもありません。彼らは走り寄り、身構えています。目覚めて私に向かい、見つめてください〔どうか目を覚ましここに来て見てください(2017)〕。
6
 あなたこそ主、万軍の神、イスラエルの神。国々〔「諸部族」or「主を信じない者たち」とも訳せます(筆者挿入)〕を罰するために目を覚まし、悪しき裏切り者には誰にも恵みを与えないでください。〔セラ
9
 しかし主よ、あなたは彼らを笑い、国々〔「諸部族」or「主を信じない者たち」とも訳せます(筆者挿入)〕をすべて嘲っておられます。
10
 わが力よ、私はあなたの言葉を守ります。まことに神は私の砦。
11
 わが慈しみの神は私を迎える。神は私を苦しめる者の敗北を見させてくださる。
12
 我らの盾、わが主よ。彼らを殺さず、私の民が忘れることのないようにしてください。力によって彼らを動揺させ、引き下がらせてください。
13
 彼らの口の罪、唇の言葉、その高ぶりに彼らが捕らえられますように。彼らは呪いと欺きを語っています。
14
 憤りによって絶やしてください。絶やし、一人も残さないでください。その時、人は知るでしょう。神がヤコブを地の果てまでも治めること を。〔セラ”とあります。

 神ヤハウェ(主)がダビデを守ってくださったことに対するダビデの感謝と賛美の祈りが、
17 しかし私はあなたの力をたたえ、朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわが砦。苦難の日の逃げ場になってくださいました。
18
 わが力よ、私はあなたをほめ歌います。神はわが砦、わが慈しみの神。”
と歌われ、この詩は終わります。

 17.18節を新改訳2017は、次のように訳しています(1節ずつのずれがあります)。
16 しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日に、あなたが私の砦、また私の逃れ場であられたからです。
17
私の力よ、私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦、私の恵みの神であるからです。”とあります。

 次にキリスト者の場合を考えてみます。
新生したキリスト者の霊は、すでに永遠の命を持っています。
主イエス様は、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と語られました。
イエス様を信じたゆえに新しく誕生させていただいた霊は主の霊と結ばれ永遠の命を持っています(ヨハネ33.6361コリント6171ヨハネ11.2)。

 神から生まれた霊に対して、悪しき者は手出しができません。
ヨハネ518後半部分を、
聖書協会共同訳は、“神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。”と訳し、
新共同訳は、“神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。”と訳しています。
訳文としては、私は聖書協会共同訳に一票を入れますが、実際は、1コリント617に、“主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。”(新共同訳)とあるように、主と一つの霊となった霊に悪しき者は手を触れることができないのです。

 魂は救われた(1ペテロ18.9)とはいえ、地上において完璧に聖なる歩みを為し続けている魂はいないのではないかと思います。
肉体に対する主のご計画は、肉体を守り続けるというのではなく、霊の体に取り換えるというものです。
それゆえ、体や魂は敵の攻撃を受けることがあります。

 それに対してパウロは次のように証しし、また多くの聖徒も同じようにいうことができました。ローマ8章には次のように記されています。
35 誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。/
37
 しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
38
 私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
39
 高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
〔あるいは、私たちが空高くのぼっても、海の底深くもぐっても、どこにいようと、神の愛から私たちを引き離すことはできません。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 迫害下にあって、肉の体を守られた人もいますし、殉教した人もいます。
主は、その人その人に最善をしてくださることでしょう。

 パウロは次のように証ししています。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ120.212017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたのみ旨に従った生涯を遅らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月 5日 (日)

申命記8:2.3 主のみことばによって生きる

 申命記82.3には次のように記されています。
聖書協会共同訳は、
2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
3
 そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。”と訳し、
 2017は、
2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
3
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。”と訳し、
 リビングバイブルは、
2 主は四十年の間、荒野の旅を続けさせて、あなたがたが謙そんになり、ご自分にどう応答するか、はたして心から従うようになるかどうかを試(ため)されたのです。
3
ひもじい思いをさせたのも、謙そんを学ばせるためでした。なぜならそのあとで、マナという見たこともない食べ物を下さり、人はただパンだけで生きるのではなく、神の命令を守ることによって真に生きるのだということを教えてくださったからです。”と意訳しています。

 この個所を読むと主イエス様の試みの個所を思い起こすのではないかと思います。
マタイ4章には次のように記されています。
1 さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。
2
 そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。
3
 すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4
 イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 荒野にいたイスラエル人たちは、さんざん不平、不信仰の罪を犯しましたが、イエス様は罪を犯しませんでした。

 肉体だけを養うためには、自分に適した飲食物を摂取するだけで事足ります。
それは単細胞生物から人間まで同じです。

 生物学では、人は、霊長類(サルからヒトまで)ヒト科という分類になるのでしょうが、サルには神の言葉は与えられていません。
神の言葉は、人だけに与えられたものです。

 神様は、人を神様との交わりの中で生きるものとして造られたのでしょう。
詩篇には、主に心を向けていた聖徒の、「みことば」という語の入った祈りの一部が次のように記されています。
聖書にはそのような祈りが数多く記されていますので、ここでは詩篇119篇の一部のみを取り上げます。
11 私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。
16
 私はあなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません。
17
 あなたのしもべに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください。
25
 私のたましいはちりに打ち伏しています。みことばのとおりに私を生かしてください。
28
 私のたましいは悲しみのために溶け去ります。みことばのとおりに私を強めてください。
41-43
 主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いがみことばのとおりに。そうすれば、私をそしる者に対して言い返すことができます。私はあなたのみことばに信頼していますから。私の口から真理のみことばを取り去ってしまわないでください。
49.50
 どうか、あなたのしもべへの、みことばを心に留めてください。あなたは、私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことにあなたのみことばは私を生かします。
67
 苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今は、あなたのみことばを守ります。
89
 主よ、あなたのみことばはとこしえから天において定まっています。
103
 あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
105
 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
130
 みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。
147
 私は夜明け前に起きて叫び求めます。あなたのみことばを待ち望んでいます。
160
 みことばのすべては真実です。あなたの義のさばきはことごとくとこしえに至ります。
172
 私の舌があなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいからです。”(2017)とあります。
そのまま自分の祈りとすることのできる祈りもあることと思います。

 少し難しく思われる方もいるかもしれませんが、聖なる御言葉の本体は主キリスト・イエス様です。
ヨハネ11には、“初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”(2017)とあり、
1
ヨハネ11には、“初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。”(2017)とあり、
黙示録1913には、“・・・、その名は「神のことば」と呼ばれていた。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
御言葉に生きる者、すなわち主キリスト・イエス様にあって(in)常に生きる者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」(マタイ1752017

2023年3月 4日 (土)

マタイ18:1-5 低き心を喜ばれる主

 マタイ181-5には次のように記されています。
1 その時、弟子たちがイエスのところに来て、「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2
 そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、3 言われた。
「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。5 また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 1
節に「天の国」(新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳)、「天の御国」(新改訳)、「天国」(文語訳、口語訳、リビングバイブル)、「天の王国」(岩波訳)と訳されているギリシア語は、βασιλεια(「バシレイア」王国、支配、統治、etc.των(=theουρανων{「ウラノン」(複数形)天の}です。
「天の王国」は、はるか彼方にあるだけではなく、地上にもあるのです。

 ルカ19章に次の様なやり取りがあります。
20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
21
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」”(2017)と記されています。
神の王国とは、神が支配される王国です。新約時代は、教会時代ですから王はキリストです。

 2.3.4.5節に「こども」という単語が出てきます。「こども」と訳されている語のギリシア語原語は「パイディオン」で、a little child の意です。反抗期の子どもという意ではありません。すなわち神様の教えを自然に受け入れ、謙遜、純真、信頼という美徳を持っている小さな子供を指しています。

 よき子供の例としての聖句としていくつか下記します。
“・・あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。”(エペソ51・口語訳)・・・霊の親に倣う子供
“まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。”(マルコ10152017)・・・従順に霊の父の支配に従う者

 時に、甘えやわがままのような子供っぽさで、生活すればよいと考えているのではないかと見受けられるような人もいますが、パウロは次のように語っています。
「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」(1コリント13112017)と。

 これらのことを踏まえたうえで、BIBLE navi が述べていることに心を向けるとよいのではないかと思います。BIBLE naviは次のように述べています。
“イエスは子どもを用いて、弟子たちにどのように考え、振舞うべきなのかを説明した。私たちは(弟子たちのように、取るに足りない問題について論じあうような)子どもじみた状態でいるべきではなく、子どものように謙虚で、誠実で、信頼する心を持つべきである。生活のどの領域で、子どもじみた面と戦う傾向があるか。どのようにして子供のような面を発達させているか。
 弟子たちは、イエスの地上の王国が組織化されることに心を奪われ、神の目的を見失っていた。奉仕の場所ではなく、高い身分を求めていた。教会において永遠の展望を失い、昇進や地位を巡って競い合うことは容易である。自分を子ども、つまり地位も影響力もなく、弱く、自分に頼らない者と同一視することは、難しいが健全である。”と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたに対して純真で、誠実で、従順に歩み続けるものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・
讃美歌71
“主の御稜威(みいつ)と御栄(みさかえ)とを 声の限りたたえて またき愛と低き心 御座に供えひれ伏す”

聖歌467番、聖歌総合版480番、新聖歌268番「御国の心地す」
“1.悲しみ尽きざる 浮世にありても 日々主と歩めば 御国の心地す
(折り返し)* ハレルヤ! 罪 とが 消されし我が身は いずくにありても御国の心地す
2.かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の中にも建てらる

3.山にも谷にも小屋にも宮にも 日々主と住まえば御国の心地す
*”

2023年3月 3日 (金)

箴言21:21 いのちと義と誉れを見出す者

 箴言2121を、
リビングバイブルは、“正しく思いやりのある者になろうとする人は、充実した生活を送り、人からもほめられます。”と訳し、
2017
は、“義と恵みを追い求める者は、いのちと義と誉れを見出す。”と訳しています。

 上記のどちらにも訳せますが、リビングバイブル訳は、この世においては信仰抜きでもあり得るように思えます。しかし、永遠の観点から考えるときには、2017訳のようになると思います。
永遠の観点における誉は神様が与えてくださるものです。
2
テモテ48には、“天では、栄冠が待っています。正しい裁判官である主が再び来られる日に頂く冠です。もちろん私だけにではなく、主を熱心に待ち望む人々全員に授けられるのです。”(リビングバイブル)と記されています。

 イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ772017)と語られました。
ヨハネの福音書は次のように記しています。
“この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は恵みとまことに満ちておられた。”(ヨハネ1142017)とあり、
またイエス様ご自身が、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ1462017)と語られたことを記述しています。

 さらにイエス様が、高い山にペテロ(ペトロ)、ヤコブ、ヨハネを伴って登った時、イエス様の顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなっただけではなく、御父は、3人の弟子たちに対して、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」と語られたのです(マタイ171-6)。

 ヨハネ146の主イエス様の御言葉には、「神のひとり子の御子であり、神そのものであるわたしが、天から下り、地上において肉の体を与えられたのは、あなた方を父の御許に連れていくためですよ。」と語ってくださっておられるように私には思えます。

 箴言2121の“義と恵みを追い求める者は、いのちと義と誉れを見出す。”という聖句は、箴言の中にある福音だな、と思えたのです。

 キリスト者とされた人たちは、不義から義へ、死から命へ、と恵みによって移された人たちです。そして、天においては、キリストの花嫁としての婚礼の儀を設けていただけるのです。
地上にあっても、新しい命によって、主のみ旨にかなう生き方へと方向転換させていただけるのです。

 エフェソ(エペソ)21-10には次のように記されています。
1 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神〔悪魔悪霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊〔悪魔悪霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいたのです。
3
 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに 神の怒りを受けるべき子でした。
4
 しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、5 過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6 キリスト・イエスにおいて〔「おいて」の原語は「エン」で、゛in゛(筆者挿入)〕、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
7
 それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。
8
 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物〔贈り物(リビングバイブル)〕です。9 行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い〔原語は「アガソス」=good(筆者挿入)〕行いをして歩むためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 また1コリント130には、“あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳初版~第三版)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みの中で生かされておりますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月 2日 (木)

詩篇58篇 悪を裁く神/キリスト者は呪う者迫害する者に対して祝福を祈る者

 詩篇58篇には次のように記されています。
“聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌
1
あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。
2
否、あなたがたは心のうちに悪い事をたくらみ、その手は地に暴虐を行う。
3
悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。
4:5
(合節としている)彼らはへびの毒のような毒をもち、魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない耳をふさぐ耳しいのまむしのようである。
6
神よ、彼らの口の歯を折ってください。主よ、若いししのきばを抜き砕いてください。
7
彼らを流れゆく水のように消え去らせ、踏み倒される若草のように衰えさせてください。
8
また溶けてどろどろになるかたつむりのように、時ならず生れた日を見ぬ子のようにしてください。
9
あなたがたの釜がまだいばらの熱を感じない前に青いのも、燃えているのも共につむじ風に吹き払われるように彼らを吹き払ってください。
10
正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう。
11
そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。(口語訳)

 口語訳、新改訳等は、聖書協会共同訳、新共同訳等の1節を表題としているので、それらの日本語聖書との間には1節ずつのずれがあります。

この詩篇58篇は、呪いの詩篇と呼ばれています。
詩篇35篇も呪いの詩篇ですが、詩篇35篇について、BIBLE navi は、
“これは「呪いの詩篇」の1つであり、敵に対処してくださるよう神に願う詩篇である。これらの詩篇は非常に辛辣に思われるが、私たちは以下のことを思い出さなければならない。
1)ダビデは、なぜ不正にも自分を殺そうとする者たちから自分が逃げなければならないのか理解できなかった。彼は神の油注ぎを受けた王であり、悪人をその地から根絶やしにするために召されていた。
2)正義を求めるダビデの叫びは純真であり、個人的な復讐心を隠したものではなかった。自分の国に神の理想が完璧に実現されることを真に願っていた。
3)ダビデは自分が復讐するとは言わず、事を神にゆだねた。これらは単に提案である。
4)これらの詩篇は誇張法を使用している。罪と悪に対して反対する立場にしっかりと立つよう他者を促すために書かれた。”と述べています。

 3節には、“悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。”とあります。
ダビデは、自分を殺そうと追い回す者たちに対して、上記のように述べたのだろうと思います。
しかし後にダビデは、イスラエルの王となって後、姦淫と殺人教唆の罪(神にあっては殺人の罪)を犯しました(バテ・シェバ事件)。
その罪を犯した後に記した詩篇の一つに、詩篇51篇があります。
ダビデは、詩篇51篇に次のように記しています。
3 神よ、私を憐れんでください。あなたの慈しみによって。深い憐れみによって私の背きの罪を拭ってください。
4
 過ちをことごとく洗い去り、私を罪から清めてください。
5
 私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。
6
 あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。あなたの前に悪事を行いました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。
7
 私は過ちの内に生まれ、母は罪の内に私を身ごもりました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今までにいく度となく書いてきましたが、人は生まれながらの罪人です(ローマ512前半)。
救いにあずかった者たちに対して、パウロは次のように書き送りました。
1 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
3
 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
4
 しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、5 過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、”{エフェソ(エペソ)2章・聖書協会共同訳}とあります。

1.2節には、“1あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。2否、あなたがたは心のうちに悪い事をたくらみ、その手は地に暴虐を行う。”と記されています。
1節は色々な訳し方をすることができるので、日本語訳聖書を比較すると訳が色々と異なっているのがわかります。)

「力ある者よ」とダビデが記したのは、単数であればサウル王、複数であればサウルをトップとするトップ集団でしょう。

現代の日本では、三権分立といって、司法、行政、立法は一応それぞれ分かれていますが、ダビデの時代、それらすべてのトップは王様でした。もっとも王様の上には見えない世界で、その王を支配している霊的存在者がいるのです。ダビデは、いつもまことの神様に支配してもらいたいと願い、神様もダビデを導いていました。サウル王はどうだったかというと、ある時から、悪しき霊に支配されるようになったのです。
1サムエル1613.14には、「サムエル〔預言者(筆者挿入)〕は油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油〔聖霊の象徴(筆者挿入)〕を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。」(新共同訳)と記されています。

今の時代も霊の支配は同じです。まことの神様の支配の下に無ければ、悪しき霊によって導かれてしまうのです(エペソ213、ダニエル1013)。悪しき霊といっても、様々な悪しきことを行うだけではなく、光の御使いに変装する(2コリント1114)こともします。悪しき霊の共通項は、まことの神様を受け入れないようにさせること、神様を受け入れている者に対しては、神様に従わないようにさせること、兎に角、神様に敵対する行動をとります。しかし、サタンは、イエス様の十字架によって、既に敗北しました。今は偽りの父として行動出来るのみです。主イエス・キリストの御名には勝てません。イエス様こそ、天においても地においても一切の権威を持っておられる方です(マタイ2818)。

2コリント1114.15には、「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。」(新改訳)と記されています。

この詩には、悪しき者がどうの様なものであるのか記されていますが、神様は、悪しき者達を火の池に入れる日をそれぞれ定めておられます(黙示録192020102011-15)。また、現在では一時的に底知れぬ穴に閉じ込められているもの達もいます。

サタンや悪霊達が早く捕えられていなくなれば良いのにと思いますが、神様は、サタンや配下の悪霊達をキリスト者の成長の為に残しているのかもしれませんし、また、どこまでも神に敵対する者達の悪が明らかになる為であるかもしれませんし、その他色々なお考えがあるのでしょう。いずれにしても、私達、主にあるキリスト者は、キリスト様の故に御名によって勝利させて頂けるのです。

イエス様は、「・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ1633・新改訳初版~第三版)と言われます。


<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
時が来れば、あなたは救い主にして主であるキリスト・イエス様を信じない者達を裁かれます。
私たちの役目は、未だ主イエス様を信じない人たちに福音を伝えることです。
1
ペテロ39には、「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(2017)とあります。
祝福を受け継ぐように召された者たちとしていつも歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月 1日 (水)

申命記8:1 主の命令(律法)を守れば約束の地を所有することができる/キリスト者はイエス・キリストを信じる信仰によって永遠の命を与えられ神の国に入ることができる

 申命記81には、“今日私が命じる戒めをすべて守り行いなさい。そうすればあなたがたは生き、数を増し、主が先祖に誓われた地に入り、これを所有することができる。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 律法を守れば、イスラエルの民は生きることができ、人口が増大し、先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブにヤハウェ(主)が約束した地を所有することができる、とヤハウェ(主)は、モーセを通して語りました。

 アブラム(アブラハム)等先祖にヤハウェ(主)が語られた約束が含まれている個所のいくつかを列挙します。
創世記121-7には、
1 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。2 私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基(もとい)となる。3 あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される。」
4
 アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。
5
 アブラムは妻のサライと甥のロトを連れ、蓄えた財産とハランで加えた人々を伴い、カナンの地に向けて出発し、カナンの地に入った。
6
 アブラムはその地を通って、シェケムという所、モレの樫の木まで来た。その頃、その地にはカナン人が住んでいた。
7
 主はアブラムに現れて言われた。「私はあなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記1512-21には、
12 日が沈みかけた頃、アブラムは深い眠りに落ち、恐怖と深い闇が彼を襲った。
13
 主はアブラムに言われた。
「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。14 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」/
18
 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
あなたの子孫にこの地を与えるエジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまで の、19 カイン人、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記171-5には、
1 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。
「私は全能の神である。私の前に歩み、全(まった)き者でありなさい。2 そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」
3
 アブラムがひれ伏すと、神は語りかけた。
4
 「これがあなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名はもはやアブラムとは呼ばれず、アブラハムがあなたの名となる。あなたを多くの国民の父とするからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記1719には、
“すると神は言われた。「・・、あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする/21 しかし私が契約を立てるのは、来年のこの時期に、サラがあなたに産むイサクとである。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記2810-15には、
10 ヤコブはベエル・シェバをたって、ハランへと向かった。11 ある場所にさしかかったとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。彼はそこにあった石を取って頭の下に置き、その場所に身を横たえて眠り、12 夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。
13
 すると、主がそばに立って言われた。
私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である。今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える14 あなたの子孫は地の塵のようになって、西へ東へ、北へ南へと広がってゆく。そして地上のすべての氏族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。15 私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 話しを変えますが、キリスト者は信仰によって永遠の命が与えられ、神の国に入れていただける者となりました。
ヨハネ31-15には、
1 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。2 この人が、夜イエスのもとに来て言った。
「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
3
 イエスは答えて言われた。
「よくよく言っておく。人は、新たに〔別訳「上から」(欄外注)、原語は「アノーセン」で、上から、新たに、再び、etc.(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4
 ニコデモは言った。
「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
5
 イエスはお答えになった。
「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である:7 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風〔別訳「霊」(欄外注)、原語は「プニューマ」(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9
 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10
 イエスは答えて言われた。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11 よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。12 私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは契約を重んじるお方です。ハレルヤ!
私たちキリスト者は、行いによっては義とされることができず、神の国に入ることはできないということを悟らせていただいた者です。
私たちキリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、新たに生まれさせていただき、永遠の命を与えられ、神の国に入れていただける恵みをいただいた者です。
そのような恵み中に生かされていますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

« 2023年2月 | トップページ | 2023年4月 »

カテゴリー

2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ