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2023年4月

2023年4月30日 (日)

申命記12:1-4 偶像礼拝の禁止/まことの礼拝

 申命記121-4には次のように記されています。
1 これから示す掟と法は、あなたの先祖の神、主があなたに所有させる地で、あなたがたが命あるかぎり、守り行うべきものである。
2
 あなたがたが追い払おうとしている諸国民が、高い山の上や丘の上、茂った木の下で彼らの神々に仕えてきた場所は、必ずことごとく破壊しなければならない。
3
 彼らの祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火で焼き、神々の彫像を切り倒し、彼らの名をその場所から消し去りなさい。
4
 あなたがたの神、主には、同じようにしてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民がカナンの地に入ったならば、それまでカナンの地に住んでいた民の偶像を一掃しなければならないと命じました。

 クリスチャンホームの家には見える形での偶像は設置されていないと思いますが、偶像礼拝をしていた家庭から、初めてキリスト者が起こされた場合、特にその人が子供である場合やその家に関する実権を握っていない場合には、偶像を撤去することは難しいと思います。
 また日本には、至る所に偶像が設置されています。キリスト者となり、純粋に主に仕えていきたいと願う人は、道端の祠(ほこら)や偶像迄みな除きたくなることでしょう。

 イスラエルの場合は、神ヤハウェ(主)が、地上に神の国(神の支配)をうちたてようとされた国です。ですから、一例をあげると士師記に記されているギデオンによる偶像破壊等をヤハウェ(主)は喜ばれ、ヤハウェ(主)は、ギデオンに力を与えました。ここには転記しませんので、ギデオンについての内容を知りたい方は、士師記6-8章を読んでみてください。

 キリストの地上再臨の日には、主キリスト・イエス様が、偶像を断ち滅ぼします。
ゼカリヤ121-132の中には次のように記されています。
121 宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。
9
その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。
13
2 その日──万軍の主のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。”(抜粋・2017)とあります。

 この世で神々と言われるものと偶像との関係、及び真の神についてパウロは次のように述べています。1コリント8章には、
5 現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、6 私たちには、唯一の父なる神がおられ、万物はこの神から出、私たちもこの神へと向かっています。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万 物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。/
4
・・・、この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
5 ある人は、偉大な神々は天にも地にも数多くいると考えています。
6
しかし私たちは、父なる神ただお一人であることを知っているのです。この神様が、万物を創造し、人間をご自分のものとして造られたのです。また私たちは、ただひとりの主、イエス・キリストがおられることを知っています。この方がすべてのものを造り、私たちにいのちを与えてくださるのです。/
4
・・・。私たちはみな、偶像など実際には神ではなく、神様はお一人だけで、ほかにはいないことを知っています。”とあります。

 キリスト者の場合は、見える形の偶像を持っている人は少ないでしょう。
もちろん見える形の一切の偶像を捨て去る必要がありますが、キリスト者に対して、偶像を捨て去りなさい、と主が語られる偶像は、大部分が、その人が心の中で大切にしているものになります。

 使徒ヨハネは偶像から身を避けるようにと次の様にヨハネの手紙Ⅰの最後に記しています。1ヨハネ521には次のように記されています。
2017
は、「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」と訳し、
新共同訳は、「子たちよ、偶像を避けなさい。」と訳し、
リビングバイブルは、「愛する子どもたちよ。神にとって代わる心の中の偶像から、自分自身を守りなさい。」と意訳しています。

 エフェソ(エペソ)53-5には、
3 聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません。
4
 恥ずべきこと、愚かな話、下品な冗談もふさわしくありません。むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。
5
 すべて淫らな者、汚れた者、貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主の現れの前には、あるいは個人的に主に召される場合の前には、聖徒はますます聖なる者とされることでしょう(1テサロニケ523.24、へブル1214、黙示録2211)。

 また、まことの礼拝について主イエス様は次のように語られました。
「本物の礼拝者たちが霊と真理のうちにあって父を礼拝するようになる時が来ようとしている。今 がその時だ。事実、父は自分を礼拝する人々としてこのような人々を求めているのである。神は霊である。そして神を礼拝する人々は霊と真理のうちにあって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23.24・岩波訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
1
テサロニケ523.24には、「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(新共同訳)と記されていますから感謝します。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月29日 (土)

マタイ21:18-20 イチジクの木を呪う/イスラエルへの呪い/主の祝福にあずかる方法

 マタイ2118-22には次のように記されています。
18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19
 道端に一本のいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、
「今から後いつまでも、お前には実がならないように」
と言われると、木はたちまち枯れてしまった。
20
 弟子たちはこれを見て驚き、
「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主は、「いちじく」をイスラエルの比喩に用いたことが幾度もありました。
 イザヤ283.4には、主からの災いとして、次のような預言が記されています。
「エフライムの酔いどれどもの誇る冠は、足の下に踏みにじられる。その栄えある麗しさは、肥沃な谷の頂でしぼんでいく花となる。それを見つけた者が手に取って、夏前の初なりのいちじくのように呑み込んでしまう。」(聖書協会共同訳)とあります。

 エレミヤ24章には次のような預言が記されています。
1 主は私に示された。見ると、主の神殿の前に二籠のいちじくが置かれていた。それは、バビロンの王ネブカドレツァルがユダの王であるヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、職人、鍛冶屋をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った〔B.C.597年のこと(筆者挿入)〕後のことであった。
2
 一つの籠には初なりのような上等のいちじくがあり、
もう一つの籠には食べることもできない傷んだいちじくがあった。
3
 主は私に言われた。
「エレミヤよ、何が見えるか。」
私は言った。「いちじくです。良いいちじくは上等ですが、悪いほうは傷んでいて食べられません。」
4
 すると、主の言葉が私に臨んだ。
5
 「イスラエルの神、主はこう言われる。これらの良いいちじくのように、私はこの場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものと見なす。6 私は彼らに目を注いで恵みを与え、この地に帰らせ、彼らを建てて倒さず、植えて引き抜くことはない。7 私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。こうして、彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは心を尽くして私に立ち帰るからである。
8
 しかし――主はこう言われる――、私はユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者、この地に残された者、またエジプトの地に住んでいる者を、この食べることもできない悪いいちじくのようにする。
9
 私は彼らを、地のすべての王国のおののきと災いの種とし、また私が追いやるあらゆる所で、そしりと物笑いの種、嘲りと呪いの的とする。〔ゼデキヤ王が目をくりぬかれ、バビロンに捕囚となったのは、B.C.586年です(筆者挿入)〕
10
 私は彼らの中に剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた土地から彼らを滅ぼし尽くす。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 エレミヤ2917-19には次のような預言が記されています。
“万軍の主はこう言われる。私は彼らに剣、飢饉、疫病を送り、彼らを悪くて食べられない、腐ったいちじくのようにする。18 私は、剣、飢饉、疫病によって、彼らを追い、地のすべての王国のおののきの的とし、私が追いやる先のすべての国で、呪い、恐怖、嘲り、そしりとする。19 彼らが私の言葉に聞き従わなかったからである――主の仰せ。私は、私の僕である預言者たちを繰り返し遣わしたが、彼らは聞こうとしなかった ――主の仰せ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ホセア910には、ヤハウェ(主)のことばとして、「荒れ野のぶどうの房のように、私はイスラエルを見つけた。初なりのいちじくのように私はあなたがたの先祖を見いだした。ところが彼らはバアル・ペオルに赴き、恥ずべきものに身を委ね、彼らの愛人のように憎むべきものとなった。」(聖書協会共同訳)とあります。

 ミカ71.2aには、ヤハウェ(主)のことばとして、「なんと悲しいことか。私は夏の果物を集める者のように、ぶどうの摘み残しの実を集める者のようになってしまった。食べられるぶどうの房はなく、私が好む初なりのいちじくもない2 忠実な人はこの地から絶え、正しい者は人々の中にはいなくなってしまった。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 今日の聖書個所に戻ります。
マタイ2119には、“道端に一本のいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、
「今から後いつまでも、お前には実がならないように」
と言われると、木はたちまち枯れてしまった。”と記されています。

 主イエス様が、マタイ2119の御言葉を語られる前に、次のようなことを語っておられたとルカの福音書は述べています。
“それから、イエスは次のたとえを話された。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。
『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』
園丁は答えた。
『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」”(ルカ136-9・聖書協会共同訳)と記されています。

 マタイ2119の預言的聖句は、A.D.70年に成就しました。
エルサレムは、ローマ軍によって陥落させられたのです。

 そして、現代イスラエルが再建されたのは、1948年でした。
イスラエル国再興の預言は、エゼキエル36.37章に記されています。

 主イエス様は、ご自身の地上再臨とその前に起こること、さらには、大患難時代に地上にいないですむ方法を教えられました。ルカ21章には次のように記されています。
29 それから、イエスはたとえを話された。
「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30 葉が出始めると、それを見て、夏の近いことが分かる〔イスラエルが再建されると主の再臨が近くなっている(筆者挿入)〕。31 それと同じように、これらのこと〔大患難時代に起こること(筆者挿入)〕が起こるのを見たら、神の国は近いと悟りなさい。32 よく言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代〔人間が人間を統治する時代。次の時代はキリストが人間を統治するキリストの千年王国時代。(筆者挿入)〕は決して滅びない。33 天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
 34 「二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が罠のように、突如あなたがたを襲うことになる。
35
 その日は、地の面のあらゆる所に住む人々すべてに、襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのこと〔大患難時代の災い(筆者挿入)〕から逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。
大患難時代は、黙示録6-19章に記されているおもに地上部分に記されている災いの起こる期間です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
“霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。”(ガラテヤ522.23・新共同訳)とあります。
御聖霊によって実を結ぶ歩みをしていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月28日 (金)

箴言22:10 主なる神様を嘲る者は追い出される時が来る

 箴言2210には、“嘲る者を追い出せば、いさかいも去り、争いも侮辱もやむ。”(聖書協会共同訳)とあります。
 リビングバイブルは、“人をさげすむ者を追い出せば、みんなうちとけて、争いも口げんかもなくなります。”と意訳しています。

 この聖句は、説明されなくても理解できると思いますが、この世にあってそれを人が実現することは、なかなか難しいものがあります。

 神ヤハウェ(主)の支配下にある人すなわちキリスト者の場合でも、主イエス様が、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ1633後半部分・2017)と語られている以上、キリスト者は、世にあって苦難は付きものなのです。
 キリスト者ではない義人ヨブの場合でも、サタンは、神ヤハウェ(主)にヨブを苦難に陥れる許可を願い出たのですから(ヨブ11-28参照)。

 先にヨハネ1633の後半部分を記しましたが、ヨハネ1633の前半部分には、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」(2017)と主イエス様が語られたと記されています。

 聖歌474、聖歌総合版491、新聖歌250に、「世の波風いかに荒れて」という賛美を思い起こします。その歌詞を下記します。
“1.世の波風 いかに荒れて 我に襲い来るとも イェスは我に その安きを 与えませば 恐れ無し
(折り返し) *
 (主の安き×2 我は内に今持てり)×2
2.すべての罪 悪しき癖を 悔い改め 捨て去りて この身を主の 手に委ねし 我が心はいと安し *
3.よし(「もし」の意)悪魔は 獅子のごとく 吠え猛(たけ)るも 何かあらん また光の使いのごと 欺(あざむ)くとも 誘われじ *
4.世の栄も 富も知恵も また誉も死でさえも 主の賜(たま)いし その安きを 我が内より奪い得(え)じ *
5.ハレルヤ!主は 世と悪魔に すでに勝ちを得(え)給えば 我らもまた イエスと共に 日々勝ち得て余りあり *”とあります。
この聖歌を賛美しながら、ヨハネ16331427、1ヨハネ19、ヤコブ471ペテロ58-102コリント1114.15、イザヤ263.4、ローマ835.37(口語訳、文語訳をお持ちの方はその聖書でローマ837を読んでみてください)等を思い起こします。

 やがて主の地上再臨によって、サタンは、(ギ)アビュソス(英単語では“depthlessabyssetc.”、日本語では、底なしの淵、底知れぬ淵、深淵、奈落、底知れぬ所、等と訳されているところ)に1000年間閉じ込められます。そして、主キリスト・イエス様が王の王、主の主として地上を治めるのです。この1000年間は地上に公正と恵みが溢れます。

 しかし、何ということでしょう。キリストの千年王国の時代が終わると、サタンが「アビュソス」から解放されるのです。するとサタンはまた悪を働くのです。黙示録207-9aには次のように記されています。
:7 千年が終わると、サタンは牢獄から解き放たれ、8 地の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。 

 サタンとサタンに従う者たちの主なる神に対する反抗もこれで終わります。
黙示録209b.10には、“すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。

20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者もいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 神ヤハウェ(主)のこの義の行為によって、箴言2210の“嘲る者を追い出せば、いさかいも去り、争いも侮辱もやむ。”という聖句は成就するのです。

 歴史を眺めると、折に触れて主は介入され、義を執行されているのがわかります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
これからの時代は、コロナ以上の疫病がはやり、飢饉が至る所で起こり、また大きな地震もあちらこちらで起こり、またあちこちで戦争が起こり、また戦争にまで至らないところでも疑心暗鬼にさいなまされていく時代になるとイエス様は教えてくれました。それだけではなく、隕石等も降り注ぐようなことも記されています。
しかし、主イエス様の現われを待ち望み、あなたに在って歩んでいる者に対しては、主イエス様が、黙示録の封印が解かれる前に天に引き上げてくださいますからありがとうございます。
日々あなたの導きに従い、あなたを愛して歩み続ける者として導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月27日 (木)

詩篇67篇 諸国の民が主を賛美しますように/世界宣教

 詩篇67篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。弦楽器で。賛歌。歌。
2
 神が私たちを憐れみ、祝福し、その顔を私たちに輝かせてくださいますように。〔セラ
3
 地があなたの道を知り、すべての国があなたの救いを知るために。
4
 神よ、もろもろの民があなたに感謝を献げますように。もろもろの民が、こぞってあなたに感謝を献げますように。
5
 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います。あなたがもろもろの民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれるからです。〔セラ
6
 神よ、もろもろの民があなたに感謝を献げますように。もろもろの民が、こぞってあなたに感謝を献げますように。
7
 地は実りをもたらしました。神、我らの神が私たちを祝福してくださいます。
8
 神が私たちを祝福してくださいます。地の果てに至るまですべての者が、神を畏れ敬いますように。”(聖書協会共同訳)とあります。

 旧約の時代、神ヤハウェ(主)は、イスラエルに働くご自身の言動を通して、人間側からは知ることの出来ないヤハウェ(主)の聖性{ヤハウェ(主)がどのようなお方であるかということ}を世界に知らしめようとしたのだと思います。

 今日の詩篇67篇は、解釈の仕方によっては、新約時代の世界宣教の為の祈りの様にも捉えることが可能と思えるような祈りですので、今回はその観点から眺めてみたいと思います。

 新改訳や口語訳、リビングバイブルは、聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳の1節を表題としています。そして、聖書協会共同訳等の2節を、新改訳等は1節としていますので、1節ずつのずれがありますので、あらかじめそのことをお知らせしておきます。

 2.3節を、
聖書協会共同訳は、
2 神が私たちを憐れみ、祝福し、その顔を私たちに輝かせてくださいますように。〔セラ
3
 地があなたの道を知り、すべての国があなたの救いを知るために。”と訳し、
 リビングバイブルは、
1 ああ神よ、私たちをあわれんで祝福してください。私たちを見るとき、あなたの御顔が喜びにほころびますように。
2
私たちを世界各地に送り出してください。神の救いの力と全人類への永遠のご計画とをみなに知らせて回ります。”と意訳しています。

 主イエス様が教えてくださった祈りの中に、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ610b2017)というのがありますが、この祈りを個々人のキリスト者にあてはめて応用すると、「みこころが天で行われるように、私にも行われますように。」とすることも可能でしょう。
キリスト者は、「自分が、神様のみ旨にかなう者になりますように。」と祈ると思います。
神様は聖なるお方です。
そして、神様の御心の中には、「あなたがた〔キリスト者個々人(筆者挿入)〕が聖なる者となること」(1テサロニケ432017)というものがありますし、
また、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣(の)べ伝えなさい。」(マルコ16152017)というものもあります。

 主の御心に従って、キリスト者一人一人がきよめられ、世界宣教のビジョンを持たせていただくと、詩篇672.3の様に(聖句を少し変化型にして書きますが)、「神が私たちを憐れみ、祝福し、私たちをきよめ、私たちをあなたのご計画のために聖別し、私たちを世界各地に送り出してください。神の救いの力と全人類への永遠のご計画とをみなに知らせて回ります(or神の救いの力と全人類への永遠のご計画とをみなに知らせて回らせてください)。」と祈るようになるでしょう。

 直接、宣教に出ていくキリスト者も、その方々を祈りと経済その他でサポートするキリスト者も、ともに世界宣教にあずかるのです。

 詩篇67篇の3-6節はさらに次の様に続きます。
3 地があなたの道を知り、すべての国があなたの救い〔語根は、(ヘ)「イェシュア」で、イエスのことです。(筆者挿入)〕を知るために。
4
 神よ、もろもろの民が〔「どの国の人々も(リビングバイブル)」あなたに感謝を献げますように。もろもろの民が、こぞってあなたに感謝を献げますように。
5
 諸国の民は喜び祝い、喜び歌います。あなたがもろもろの民を公平に裁き〔原語は(ヘ)「シャーファト」で、「裁く」の他、「統治する」の意もあります。(筆者挿入)〕、この地〔原語「エレツ」には「世界」の意もあります。(筆者挿入)〕において諸国の民を導かれるからです。
6
 神よ、もろもろの民があなたに感謝を献げますように。もろもろの民が、こぞってあなたに感謝を献げますように。”と詩聖は祈っています。

 続く7.8節には、
7 大地は作物を実らせました〔個人的に意訳して「世界から救われる人が起こされました」としてみます(筆者挿入)〕。神、わたしたちの神が、わたしたちを祝福してくださいますように。
8
神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまですべてのものが神を畏れ敬いますように。”(新共同訳)と記されています。

 やがて全世界の人々は、主を礼拝するのです。
ピリピ210.11には、
“・・、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。”(2017)と記されています。
この個所を岩波訳は次のように訳しています。
“・・、イエスの名において、天上の者、地上の者、そして地下の者たちの、すべての膝がかがめられ、すべての舌が、「イエス・キリストは主なり」と告白するためである、父なる神の栄光のために。”と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
キリストの十字架と復活後、聖霊が注がれました。
主イエス様が、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒182017)と語られたように、新約の時代は、多くのキリスト者によって福音が宣教されたことを覚えます。
福音は私のところにも届き、この私も、多くの兄弟姉妹たちとともにあなたを賛美することが出来るようにしていただけました。
御名が聖とされますように。
感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月26日 (水)

申命記11:26-32 祝福と呪い/キリスト者の祝福の基

 申命記1126-32には次のように記されています。
26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。
27
 もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、
28
 もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く。
29
 あなたが入って所有する地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき、あなたは祝福をゲリジム山の上に、呪いをエバル山の上に置きなさい。
30
 その二つの山は、ヨルダン川の向こう側、アラバに住むカナン人の地の、日の沈む方角のかなた、ギルガルに向かい合うモレの樫の木の傍らにあるではないか。
31
 あなたがたはヨルダン川を渡り、あなたがたの神、主が与える地に入って、それを所有しようとしているが、それを所有して、そこに住むときには、32 今日私があなたがたに与える掟と法を、すべて守り行わなければならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民にヤハウェ(主)と結んだ律法の契約を行う者には祝福を、律法の契約に違反するものには呪いを与えると宣言しました。
すなわち、ヤハウェ(主)とイスラエルが結んだ律法に従う者には、主が祝福を与え、律法に従わない者には、主が呪いを与える(災いを与える)とヤハウェ(主)は言われたのでした。

 29.30節に記されている内容は、祝福と呪いの宣言の儀式についての教えに関するものです。

 ヨシュア記8章には次のように記されています。
30 それから、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のための祭壇を築いた。
31
 主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの律法の書に記されているとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石の祭壇であった。人々はその上で、主への焼き尽くすいけにえと、会食のいけにえを献げた。
32
 ヨシュアはその石に、モーセがイスラエルの人々の前で記した律法の写しを刻んだ。
33
 イスラエルのすべての人々、長老、役人、裁き人は、祭司たち、すなわち、主の契約の箱を担ぐレビ人たちの前で、箱のこちら側とあちら側に立った。寄留者もイスラエル人も同じように、その半分はゲリジム山の前に、また他の半分はエバル山の前に立った。これは、主の僕モーセが かつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
34
 その後、ヨシュアは律法の言葉、祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。
35
 モーセが命じたすべての言葉の中で、イスラエルの全会衆、女、子ども、彼らの間で生活する寄留者に向かってヨシュアが読み上げなかったものは一つもなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記27章には次のように記されています。
9 モーセはレビ人である祭司たちと共にイスラエルのすべての人々に告げた。
「イスラエルよ、静まれ。そして、聞け。今日あなたは、あなたの神、主の民となった。10 それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、今日、私が命じる戒めと掟を行いなさい。」
11
 その日、モーセは民にこう命じた。
12
 あなたがたがヨルダン川を渡ったなら、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンは、民を祝福するために、ゲリジム山の側に立ちなさい。〔約束の地に入ったら、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンの各部族は、ゲリジム山に立って祝福を告げ、(リビングバイブル)〕
13
 ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリは、民を呪うために、エバル山の側に立ちなさい。〔ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリの各部族は、エバル山に立ってのろいを告げなさい。(リビングバイブル)〕
14
 レビ人は、イスラエルのすべての人々に大声で宣言しなければならない。〔それから、レビ人が両者の間に立って全国民に向かって宣言しなさい。(リビングバイブル)〕
15
 「職人の手の業である、主の忌み嫌われる彫像と鋳像を造り、ひそかに安置する者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
16
 「父と母をないがしろにする者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
17
 「隣人の地境を移す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
18
 「盲人を道で迷わせる者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
19
 「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
20
 「父の妻と寝る者は呪われる。父を辱めるからである。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
21
 「いかなる動物であれ、それと寝る者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
22
 「父の娘であれ母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
23
 「妻の母と寝る者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
24
 「隣人をひそかに打ち殺す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
25
 「賄賂を受け取り、人を打ち殺して無実の血を流す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
26
 「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 祝福の条件(主が祝福される条件)と内容については、申命記281-14、レビ263-12に記され、
呪いの条件(主が災いをもたらされる条件)と内容については、申命記2815-68、レビ2614-39に記されています。

 神ヤハウェ(主)は、約束の地に神ヤハウェ(主)が支配する地上の国(神の国)とつくろうとしました。
イスラエルに対する祝福は、申命記283-13に記されているように、地上の祝福です。

 一方、キリスト者に対する祝福は、天の神の王国のものです。
エペソ13には、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。
「天上にある」と訳されている個所のギリシア語聖書は、「エン」(in)「トイス」(the)「エプラニオス」〔「エピ」(overuponetc.+「ウラノス」{空(skyor天(heaven)}の複数形)}〕となっています。

 キリスト者は、神の内住を与えられたのです。
ヨハネ14章には、次のような主イエス様の御言葉が記されています。
15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔(ギ)「パラクレートス」(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり〔直訳「とどまり」(欄外注)〕、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18
 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19
 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
20
 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる〔相互内住(筆者挿入)〕。
21
 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」
22
 イスカリオテでないほうのユダが、イエスに言った。「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」
23
 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
24
 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 続けてコロサイ3章を引用したいのですが、長くなるのでここで終わります。

 恵みの条件は、キリストを愛し続けることであり(エペソ624)、呪いの条件は、キリストを愛さないことです(1コリント1622)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主を愛し、喜びをもって主にお仕えし続けていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月25日 (火)

マタイ21:12-17 神殿のきよめ/ホサナの意味

 マタイ2112-17には次のように記されています。
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。
13
 そして言われた。
「こう書いてある。『私の家は、祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
14
 境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちが御もとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
15
 しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16 イエスに言った。
「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」
イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」
17
 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこでお泊まりになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 12.13節の個所を読んだ後、主イエス・キリスト様が、神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返すような傍若無人なことを何故したのだろうか、と思う人がいるかもしれないと思いますので、そのあたりのことについて、BIBLE naviの解説を下記しておきます。
“これはイエスが宮をきよめた二度目である(ヨハネ213-17)〔ヨハネ2章の方は一度目の宮きよめです(筆者挿入)〕。商人や両替人は、宮の中の異邦人の庭に屋台を建て、そして神を礼拝するために文明世界の至る所からやって来た異邦人を締め出した。商人は高い値段でいけにえの動物を売り、遠方からやって来た人たちの弱みに付け込んでいた。両替人はすべての国際通貨を特別な宮の通貨、すなわち商人が受け入れる唯一の貨幣と交換した。相場を知らない外国人をしばしばだましていた。神の家における彼らの営利主義は、人々の礼拝しようとする試みをくじいた。もちろんこのことは、イエスを大いに立腹させた。神を礼拝することを妨げるどんな慣習も、中止されるべきである。”と記しています。

 15節に、“しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、”とある中の「不思議な業」とは、「奇跡」と訳せる単語です。
祭司長たちや律法学者たちは、イエス様が奇跡を行っても腹を立て、また、子どもたちが、「ダビデの子にホサナ」と叫ぶように言うのを聞いても腹を立てたのです。
イエス様が奇跡を行ったのを見て腹を立てたのはねたみ(マタイ2718参照)や自己保身からではないかと思います。

 「ホサナ」について
「ホサナ」は、原語では、詩篇11825に「ホーシーアー(救ってください)・ナー(どうか)」と出てきます。
詩篇11825の前半部分には、「ああ主よ、どうか救ってください。」(2017)とありますが、「どうか(or今)、救ってください(or解放してください、or助けてください、or勝利させてください)」というのが、ヘブライ語原語では、「ホーシーアー・ナー」です。

 「ホサナ」について、キリスト教辞典は、
“ホサナ 〈ギ〉osannaまたはhosanna。元来は〈ヘ〉ホーシーアー・ナー(「今、お救い下さい」の意)で、そのアラム語形ホーシャナーの音訳。本来は、「どうぞ今、お救い下さい」(詩篇118:25)という祈りのことばであるが、その意味を失って賛美の叫び声となった(マタイ21:9,15,マルコ11:9,10,ヨハネ12:13)。ルカの福音書を除く三福音書がこのことばをそのまま音訳していること自体が、その意味の変化を証拠立てている。それは、このヘブル語がもはや救いとは何のかかわりも持たなくなったというのではない。詩篇118:25,26の追憶であるその背景が、たといこの詩篇からの直接の引用、あるいはこの詩を暗示するものではなかったとしても、これが父なる神と主イエスに当てはめられていることから、ホサナということばがメシヤによる救いにかかわるものであったことは明らかである。(森 文彦)”と述べています。
 また、聖書辞典は、
“ホサナ (〈ギ〉hosanna) 「今、救ってください」という意味。元来は〈ヘ〉ホーシーアー・ナーで、そのアラム語形ホーシャナーの音訳。原意は、詩118:25にあるように、「ああ、主よ。どうぞ救ってください」であるが、その本来の意味は失われて、ただ単に、賛美に伴う感嘆詞のように用いられるようになった(マタ21:9,15,マコ11:9‐10,ヨハネ12:13)。これは、ホサナという音訳が、ギリシヤ語においては尊敬やあいさつの叫びとして、「ごきげんよう」とか、「栄光あれ」というように誤って解されるようになったことによる。ルカを除く福音書の中で、6回にわたって記されており、特にマタイは、「ダビデの子にホサナ」とか、「ホサナ。いと高き所に」というように修飾語をつけて用いている。”と述べています。

 祭司長たちや律法学者たちは、境内で子どもたちが、「ダビデの子にホサナ」と叫んで言うのを聞いて腹を立て、「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」とイエス様に言いましたが、イエス様は、ご自身が救い主(「イェホシュア」or「イェシュア」)であることを否定せず、「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」(16)と応答されたのでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたはイエス様を救い主として遣わしてくださいました。
イエス様は私たち罪人を救うために、十字架上で贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
また、イエス様の救いにあずからせていただいたキリスト者の内には、主なる神様が住んでくださいますからありがとうございます。
主が私たちの内に住んでくださるのにふさわしく、私たちの罪を示して下さり、私たちの心をも主はきよめてくださいますから感謝します。
感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月24日 (月)

箴言22:9 祝福を受ける一つのパターン/聖化

 箴言229を、
口語訳は、“人を見て恵む者はめぐまれる、自分のパンを貧しい人に与えるからである。”と訳し、
新改訳初版~第三版は、“善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。”と訳し、
リビングバイブルは、“親切な人は貧しい人に食べ物をわけて喜ばれます。”と訳し、
新改訳2017は、“善意の人〔直訳「目つきの良い人」(欄外注)〕は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“慈悲深い目の人は祝福を受ける。彼は自分のパンを貧しい者に施すから。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“善意に溢れるまなざしの人は祝福される。自分のパンを弱い人に与えるから。”と訳しています。

 ヘブライ語聖書で、前半部分を直訳すると、「目の良い人は祝福されるだろう(未完了形)」となります。

 この聖句の前半を、直訳した文から考えていこうと思います。
「目の良い人」の「良い」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーブ」で英語ではgoodです。
「トーブ」の原義は、good(良い)ですが、英語のgoodに多くの意味があるように、「トーブ」にも多くの意味があり、「良い」の他に、美しい、惜しみなく与える、豊富な、快活な、朗らかな、元気のいい、気を引き立てるような、愉快な、楽しい、気持ちのよい、明るい、快くする、慈悲深い、恵み深い、親切な、愛情のある、思いやりのある・・・・等々の意があります。

 直訳すると、「目の良い人」の個所を、
新改訳は、「善意の人」と訳し、
口語訳は、「人を見て恵む者」と訳し、
リビングバイブルは、「親切な人」と訳し、
フランシスコ会訳は、「慈悲深い目の人」と訳し、
聖書協会共同訳は、「善意に溢れるまなざしの人」と訳しています。

 イエス様が語られた山上の垂訓の中には、「目」という語が出てくる個所がいくつかありますが、その中の一つのマタイ622.23の個所には次のように記されています。
「目が澄みきっているなら、あなたのたましいも輝いているはずです。しかし、目が、悪い考えや欲望でくもっているなら、あなたのたましいは暗やみの中にいるのです。その暗やみのなんと深いことでしょうか。」(リビングバイブル)とあります。

 この個所を聖書協会共同訳は、「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」と訳しています。

 「目が澄んでいれば」の個所は、原語からは、「目が単一であれば」とも訳せます。
神は光ですが、生まれながらの人(新生していない人)の心は暗闇であり、混沌としています。
目が単一で(ものの見方が一点に集中しており)、いつも主を見ていれば、光の中にいることが出来ます。

 キリスト者の場合は、新しく生まれた霊と主の霊が一つとなっています(ヨハネ361ペテロ131コリント617)。
霊はたましいに囲まれています。
たましいが、主と同一化していないと、内奥の霊の光が外に輝きださないのです。
たましいが聖い状態に保たれていると、内なる主の光が外まで輝き出るのです。

 主イエス様は、別の表現もしています。
ヨハネ737.38には、「渇いている人は誰でも〔直訳「誰かが乾いているなら」(欄外注)〕、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から〔直訳「腹から」(欄外注)〕生ける水が川となって流れ出るようになる。」(聖書協会共同訳)と記されています。
使徒ヨハネは、「生ける水」について、次の39節で、“イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。”(聖書協会共同訳)と解説しています。

 新約時代は、聖徒の内におられる主の慈しみが、外に流れ出すことの可能な時代です。そのためには、たましいを主によって聖くして頂くことが大切です。
イエス様は八福の教えの中で、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(2017)と言われました。
自然に出てくる憐み深さ、憐みの行為をしたことを自分でもよく覚えていないような憐みの行為は、内なる主から出てくるのでしょう。
憐みを受けたいから、人を憐れむ、というのは肉の思いです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主の血潮によりたましいを聖別して救ってくださり感謝します。
さらに、思いや感情、意志も具体的に、御聖霊が御言葉を用いてきよめてくださり、霊の内におられる主の霊が輝き出ることが出来ますように。
そのようにして、御父の御名があがめられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5162017

2023年4月23日 (日)

詩篇66:16-20 祈りを聞いてくださる神/聞かれる祈りと聞かれない祈り

 詩篇6616-20には次のように記されています。
16 神を畏れる人はすべてここに来て、聞け。神が私に成し遂げてくださったことを語ろう。
17
 私の口は神に呼びかけ、舌をもって崇めます。
18
 私が心に悪事を見ているなら、わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕はお聞きにならないでしょう。
19
 しかし、まことに神は聞き入れ、私の祈る声に心を向けてくださいました。
20
 神をたたえよ。神は私の祈りを退けず、慈しみ〔原語は「ヘセド」(筆者挿入)〕を拒まれませんでした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節に、「畏れる」(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳)、「恐れる」(口語訳、新改訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーレー」で、(恐怖の意味での)恐れる、心配する、(敬虔なという意味での)畏れる、等の意があります。

 「恐れ」と「畏れ」と「虞」について、小学館のデジタル大辞泉は、
“1 (恐れ)こわがる気持ち。恐怖。不安。「将来への漠たる
2 (畏れ)敬い、かしこまる気持ち。畏怖 (いふ) ・畏敬 (いけい) の念。「神の偉大さにをいだく」
3 (虞)よくないことが起こるかもしれないという心配。懸念。「自殺のがある」”と記しています。

 英単語では、“fear”で、fearは、(差し迫る危険・苦痛などに対する)恐れ、恐怖、不安、心配、気づかい、可能性、恐れ、神に対するおそれ、等の意で用いられています。

 もし人が、主キリスト・イエス様による救いを体験せず、ヤハウェ(主)を、義にして全能の神、とだけ捉えたとしたら、それはとても恐ろしい(恐怖をもたらす)神に思えることでしょう。

 一方、ヤハウェ(主)が、義にして全能の神であると認識しているけれども、神の愛を体験している人は、神を愛し、神を畏れ敬っていることでしょう。
 
 また、心配性の人は、虞(おそれ)を持ちやすいですが、ピリピ46.71ペテロ57の聖句などを主が体得させてくださったなら、無駄な虞からは解放されることでしょう。
また、健全な恐れというものもあります。
健全な恐れを持っている人は、高層マンションの屋上から飛び降りるようなことはしないでしょう。

 16.17節には、“16 神を畏れる人はすべてここに来て、聞け。神が私に成し遂げてくださったことを語ろう。
17
 私の口は神に呼びかけ、舌をもって崇めます。”と記しています。

 神様の御業を体験した人は、人にその体験を話したくなると思います。
特に、喜んで聞いてくれる人に対しては、そり一層その様であると思います。
また、聞き手が未信者の人である場合でも、その人が、主イエス様に御父が与えられた羊(「人」のこと)である場合には、証しを真剣に聞いてくれるということを、私は幾度となく経験しています(ヨハネ1025-27参照)。

 18節には、“私が心に悪事を見ているなら、わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕はお聞きにならないでしょう。”とあります。

聖書協会共同訳が、「悪事」と訳している単語を、新共同訳も「悪事」、フランシスコ会訳は「邪」、口語訳、新改訳、文語訳は「不義」と訳しています。このように訳されている語のヘブライ語原語は「アーヴェン」で、原義は、あえぐこと、動悸すること、熱望すること、あこがれること、等の意で、その他、うぬぼれ、虚栄心、偶像、悪、不正、悪意、意地悪、・・・・等の意があります。

 18節前半部分の、「見る」(聖書協会共同訳、新共同訳)、「見出す」(2017)、「ある」(フランシスコ会訳、新改訳初版~第三版)、「いだく」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーアー」で、原義は、「見る」ことですが、出現する、現われる、良いと認める、考える、思う、はっきりと認める、熟視する、(愛情をこめて)心に抱く、大事にする、・・・等の意があります。

 18節の後半部分には、“わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕はお聞きにならないでしょう。”(聖書協会共同訳)とあります。
18
節前半部分には、主が祈りを聞いてくださらない条件が記されています。
祈りのきかれない条件は、神ヤハウェ(主)が、正しくない、とすることを容認している場合や、さらには、ヤハウェ(主)が嫌うこと、すなわち正しくないこと(不義)を愛してしまっている場合です。
ですから、御言葉に反することを愛するとか、容認するとか、信じるということは、ヤハウェ(主)を愛していない、あるいはヤハウェ(主)を軽く見ている、あるいはヤハウェ(主)を畏れ敬っていない、ということになるでしょう。
この世の風潮は、主が嫌われることに満ちています。
恐ろしいことですね。
1
ヨハネ519には、“・・・、世全体は悪い者の支配下にある・・・。”(2017)と記されています。
すなわち、神に対して不従順な人たちは、“この世を支配する者〔サタン(筆者挿入)〕、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでい”(エペソ22・新共同訳)るのです。

 18節をリビングバイブルは、“もし私が罪を告白していなかったら、神は祈りに答えてくださらなかったでしょう。”と意訳しています。
口語訳は、“もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。”と訳しています。

 箴言1529には、“主は悪しき者から遠くにおられ、正しい人の祈りを聞かれる。”(2017)という聖句があり、
ヤコブ516には、“正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。”(新共同訳)と記されています。
1
ヨハネ514には、“何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる”(新改訳第三版)とあります。

 ヤコブ516に、「正しい人」と出てきますが、正しい人とは、神様を愛し、神様を第一としている人のことです。神様を第一としている人は、神の御言葉に従います。

 リビングバイブルは、1ヨハネ521を、「愛する子どもたちよ。神にとって代わる心の中の偶像から、自分自身を守りなさい。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたのみ旨に従って歩み続けることが出来ますよう祝福してください。
聖なるあなたの御名を崇め、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月22日 (土)

申命記11:10-25 約束の地/キリスト者の約束の地

 申命記1110-25には次のように記されています。
11 あなたたちが渡って行って得ようとする土地は、山も谷もある土地で、天から降る雨で潤されている。
12
それは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が御心にかけ、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。
 13 もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、
14
わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。
15
わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
 16 あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。
17
さもないと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が与えられる良い 土地から直ちに滅び去る。
18
あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、19 子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、20 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
21
こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。
22
もし、わたしがあなたたちに行うようにと命じるこのすべての戒めをよく守り、あなたたちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛してそのすべての道に従って歩み、主につき従うならば、23 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたたちの前からこれらの国々をすべて追い払われ、あなたたちは自分よりも大きく強い国々を追い払うことができる。24 あなたたちが足の裏で踏み込む所は、すべて、あなたたちのものとなり、荒れ野からレバノン山まで、ユーフラテス川から西の海まであなたたちの領地となる。25 あなたたちに立ち向かいうる者は一人もいない。あなたたちが言われたように足を踏み入れる土地の至るところに、あなたたちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたたちに対する 脅威とおののきを起こされる。”(新共同訳)とあります。

 ヤハウェ(主)がアブラハムと契約した約束の地は、創世記15章には次のように記されています。(約束の地は下記の18-21節にあります)
7 主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。」/
13
 主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。14 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。
それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」/
 18 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまで の、19 カイン人、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人〔ヒッタイト人(2017)〕、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 創世記157の前節には、“アブラムは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を信じた。主はそれを彼の義と認められた。”(6・聖書協会共同訳)という重要な聖句があります。

 新約時代において、「義と認められた」と言っていただけるのは、究極的にいえば、イエス・キリストを信じたときです。
「究極的に」と書いたのは、イエス・キリストを信じるということの中には、罪を悔い改める(回心する)ということが含まれているからです。
なぜなら、主イエス様ご自身が、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)と語られたからです。
「罪とは、私を信じないことだ。」ということを悟れるのは、真理の霊によるのだ、ということをイエス様は言われました(ヨハネ1613参照)。
主イエス様を信じるということは、主イエス様を心にお迎えするということでもあります(ヨハネ112、黙示録320参照)。イエス様を信じるということは、ただ知的に、イエス・キリストについての知識を持つというのとは異なります。
罪について、また霊的な真理については、主イエス様を信じて救われた後に、本当のことがとわかっていくのです。
まずイエス様を信じることから始まります。

 キリスト者の約束の地は、天の神の王国です。
ヨハネ141-3には、
“「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私〔主イエス(筆者挿入)〕を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。”(聖書協会共同訳)と記され、
 ピリピ320には、“・・、私たちの国籍は天にある。・・・。”と記されています。
キリスト者は、地では旅人なのです(へブル1113、1ペテロ211参照)。
 リビングバイブルは、1ペテロ211を、
“愛する皆さん。この地上では、あなたがたは旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。”と意訳しています。
 マタイ1343には、“・・、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。・・。”(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
{「正しい人」とは、主キリスト・イエス様を心にお迎えした人です。その人に対して、主キリスト・イエス様は義となってくださいました(1コリント130)し、父なる神は、主イエスを信じたこと(心にお迎えしたこと)を義と認めて(義として)くださるのです(ローマ326)}

 キリストの千年王国時代の次には、新天新地の時代が来ますが、その時代については、黙示録211-4に次のように記されています。
1 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
 また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
3
 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その〔彼らの(筆者挿入)〕神となり、4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たち携挙されるキリスト者は、携挙後より、とこしえに主とともにいることが出来ますから感謝します。
また、祝福の上に祝福を与えてくださいますあなたの御名を賛美します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、天上のあらゆる祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。それは、私たちがキリストのものとなっているからです。”(エペソ13・リビングバイブル)

2023年4月21日 (金)

マタイ21:1-11 平和の王の到来/主イエス様を迎える様々な人

 マタイ211-11には次のように記されています。
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。
3
 もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4
 それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
5
 「シオンの娘に告げよ〔「エルサレムに告げよ」の意(筆者挿入)〕。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。
8
 大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9
 群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高き所にホサナ。」
10
 イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11
 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節の“預言者を通して言われたことが実現するためであった。”という内容は5節に記されていますがこれは、預言者ゼカリヤが、ヤハウェ(主)から受けた託宣でした。

 ゼカリヤ9章には次のように記されています。
1 託宣。/
9
 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る、雌ろばの子、子ろばに乗って。
10
 私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ゼカリヤ99の預言は、棕櫚の日曜日(主日)と言われる日に成就した預言です。
ゼカリヤ910は、キリストの地上再臨からキリストの千年王国時代の最初の頃に成就します。

 群衆は、「ダビデの子にホサナ。」(9)と叫んでいましたが、「ダビデの子」とは、この時代、メシアの称号でした。

 「ダビデの子」の解説について、聖書辞典は、次のように述べています。
“イスラエル人が捕囚によって異民族の支配を受けるようになってから、理想の王であるダビデの子孫がメシアとして現れ、イスラエルに勝利を与えることを強く待望するようになった(ヨハネ7:42)。それは神が約束されていたことでもあった(サム7:12‐13,イザ9:7,エゼ34:23‐24)。「ダビデの子」はメシアの称号であり、聖書はイエスがダビデの子孫であることを明確に記している(マタ1:1,ルカ3:31,ローマ1:3)。しかし、この称号は多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなった。だが一方では、真に霊的な王なる方を待望している人々もいた(参照ルカ1:68‐79,2:25‐38)。イエスは御自分でこの称号は用いられなかったが(マコ12:35‐37)、人がそう呼ぶことは容認された(マタ21:9‐16,マコ10:47)。”と記しています。

 棕櫚の主日(日曜日)の一週間後は、キリストの復活の日です。
その前の金曜日には、キリストの受難(十字架)がありました。

 聖書辞典に、
“「ダビデの子」はメシアの称号であり、聖書はイエスがダビデの子孫であることを明確に記している(マタ1:1,ルカ3:31,ローマ1:3)。しかし、この称号は多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなった。”
と記されていますが、棕櫚の日曜日は、キリストの十字架と復活の前であり、まだ新約(新契約)時代には入っていなかったのです。
ですから聖霊が臨んでこのことに関する真理を教えられた人以外の人は、「ダビデの子」すなわちメシアを、イスラエルをローマから独立させてくれる方と捉えていたことでしょう。
そのような人たちは、イエス・キリストが逮捕されるとガッカリしたことでしょう。そして、彼らの中には、怒りへと変化した人も多かったことでしょう。自分の思いが裏切られたのですから。
そのような人たちの中には、「十字架につけろ」、「十字架につけろ」と叫んだ人たちもいたことでしょう(マタイ2722.23)。
イエス様の弟子たちは、イエス様が捕縛された時には皆つまずいたのです(マタイ2631-3569-75)。そして、主イエス様の復活の後になってもしばらくの間は怯えていました(ヨハネ201926)。

 棕櫚の日の話ではありませんが、聖霊に満たされて預言したバプテスマのヨハネの父ザカリヤは、次の様に述べています。
「幼子〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」(ルカ1776-79・聖書協会共同訳)とザカリヤの預言が記されています。

 また聖霊の臨在があり、聖霊に導かれて語ったシメオンは、次のように語りました。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ229-32・聖書協会共同訳)と記されています。

 イエス様が肉体においては誕生以前であったり、赤子であったとき、聖霊によって預言したザカリヤとシメオンは、霊的な預言を述べています。

 結局、主イエス様が、霊の王国の救い主であり王であるということは聖霊によらなければわからなかったのでしょう。

 現代でも、礼拝には様々な人が集いますが、心にある思いは様々です。
自分の利得を求めて集っている人もいれば、主を賛美し、主のみ旨を聞き、主に感謝するために集っている人もいるでしょう。中には、人に連れてこられて、いやいやながらも席に座っているという人もいるかもしれません。戦時中には、説教者等を逮捕するために説教を聞いていた人もいました。

 イエス様は次のように語っておられます。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風〔原語は「プニューマ」で、風の他、霊の意味もあります(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」{ヨハネ33.5.6-8(一部抜粋)・聖書協会共同訳}と記されています。

 1コリント123には、“ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。”(新共同訳)と記されています。

 イエス様が復活され、五旬節の日に聖霊が下るまでは、イエス様を主であると信じていたとしても、霊的な意味なのか、地上的な意味なのか、すなわち神様の時に関するご計画を知らなければ、一般群衆のようであっても仕方のないことであったのでしょう。
弟子たちでさえ、五旬節前には、復活された主キリスト・イエス様に対して、「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」(使徒162017)と聞いているのですから。

 “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”{伝道者(コヘレト)312017

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みによって、イエス様が救い主であり、主であると悟らせて頂けた恵みを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖なる我らの主」(聖歌479 聖歌総合版496 新聖歌24
“1.聖なる我らの主 ほめまつれ 拝しまつれ 救いを受けし者 み子とせられし者 海原は手をたたき 山々皆踊る
(折り返し) * 聖なる我らの主 歌え 喜びもて
2.くすしく妙なる主 証しせよ 言い広めよ 御業は大いなり くらぶるものあらじ 天使たちは声合わせ 聖徒たちはひれ伏す

3.世界の王なる主 祝わまし 歌わまし 御国に帰りなば いよいよ高らかに 白妙(しろたえ)の衣(きぬ)まとい 棕櫚の葉を手に取り
*”

2023年4月20日 (木)

箴言22:8 人は自分が蒔いたものを刈り取る

 箴言228を、
聖書協会共同訳は、“不正を蒔く者は災いを刈り入れ、その怒りの杖も折れる。”と訳し、
2017
は、“不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。こうして彼への激しい怒りのむちは終わる。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“不正を播く者は災いを刈り取る。その怒りの鞭は彼自身を滅ぼす。”と訳し、
リビングバイブルは、“悪い支配者は必ず災いに会い、権力を失います。”と意訳しています。

 後半部分の、「杖」(聖書協会共同訳)、「むち」(2017、フランシスコ会訳)、「権力」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「シェーベト」で、それらの意があります。

 「不正」(聖書協会共同訳、2017、フランシスコ会訳)、「悪い」(リビングバイブル)と訳されているこの個所のヘブライ語原語は「エヴラー」で、(道徳的に)悪い、邪悪な、の意が原義で、不正、不法、悪行、罪、へそ曲がり、不公平な、不正な、不条理な、罪深さ、よこしまなこと、不道徳な、悪意のある、・・等の意があります。

 ヘブライ語聖書の箴言228の個所を読むと、上記の各日本語訳聖書のどの訳のようにも訳せることがわかります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルに律法を与えました。
イスラエルは、律法を守ります、とヤハウェ(主)と契約を結びました。
イスラエルの歴史を見ると、イスラエルが律法の内容の中核を犯し続けたときには、必ずヤハウェ(主)からの懲らしめがあったことを覚えます(出エジプト記、民数記、士師記、サムエル記、列王記、歴代誌等参照)。

 災いを刈り取る原則については、申命記2814.15をもとに記すと、
“私が・・あなたがたに命じるこのすべてのことば〔律法(筆者挿入)〕から右や左に外(はず)れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。しかし、もしあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。”(抜粋・2017)というものでした。

 祝福を刈り取る原則については、申命記281.2をもとに記すと、
“・・、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主の〔原語は「彼の」(筆者挿入)〕すべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。”というものでした。
そしてその祝福のほとんどは地的なものでした。

 新約聖書にも似たような聖句があります。
ガラテヤ6章には次のように記されています。
7 思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8
 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9
 たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
10
 それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 8節前半には、“自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、”とあります。
「自分の肉に蒔く者」とは、肉の欲望を満足させる生き方のことでしょう。
「肉」に関連して、ガラテヤ519-21には次のように記されています。
“肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 8節の後半部分には、“霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。”とあります。「霊に」と訳されている「に」のギリシア語原語は「エイス」で、英語ではinto(~の中へ)です。

 何を蒔くのでしょう。
正しいかどうかわかりませんが、今回は次のように解釈したいと思います。
私は、霊の栄養は、神の御言葉であると考えています。
イエス様は、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(マタイ442017)と語られました。
私たちの本体である霊は、神の御言葉で生きるのです。
それ故、霊の中へと蒔くのは、神のことばでしょう。
霊はすでに、永遠の命を与えられていますが、やがて体も永遠の命を持つ霊のからだが与えられるのです。キリストの現われの時に、肉のからだは消失し、霊のからだを与えられますが、霊は、地上にあっても天上にあっても、キリストの身丈を見つつ成長させていただけるのでしょう(エペソ413参照)。

 またローマ8章には次のように記されています。
9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく〔肉の内にではなく(2017、聖書協会共同訳)〕、霊におるのである〔霊の内にあります(聖書協会共同訳)〕。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。〔「キリストの内に在る」ということについては1コリント130前半部分参照(筆者挿入)〕
10
もし、キリストがあなたがたの内におられる〔コロサイ127参照(筆者挿入)〕なら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである〔ヨハネ1126参照(筆者挿入)〕。〔新生した人は、主キリスト・イエスを信じたゆえに義とされ、また、キリストはその人の義となってくださっています{ローマ322-24425511コリント130}(筆者挿入)〕
11
もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう〔生かしてくださいます(2017)、神のことばの未来形は未完了と捉えます。時が来れば完了します。(筆者挿入)〕。”(口語訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
日々御言葉の食物を与えてくださっておられますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月19日 (水)

詩篇66:10-15 主の訓練と主へのささげもの

 詩篇6610-15には次のように記されています。
10 神よ、あなたは私たちを試み、火で銀を練る〔銀を精錬する(2017)〕ように私たちを練った。
11
 あなたは私たちを網に追い込み、腰に重荷を付け
12
 人が私たちの頭の上を乗り越えることをお許しになった。私たちは火の中、水の中を通ったが、あなたは私たちを広々とした地に導き出された。
13
 私は焼き尽くすいけにえを携えて神殿に入り、あなたへの誓いを果たします。
14
 私が苦難の中で唇を開き、この口をもって約束したことです。
15
 肥えた獣を焼き尽くすいけにえとし、香と共に雄羊を、雄山羊と共に雄牛を献げます。〔セラ”(聖書協会共同訳)とあります。

 10-12節は、新約的にいうと、主による聖化の作業でしょう。
ヘブライ(へブル)1210.11には、
10 ・・・、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義 の実を結ばせるのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 11節を岩波訳は、“躾(しつけ)はすべて、その時は喜ばしいことではなく、つらいことに思われるが、後になってみると、 それによって訓練された人々に義に基づく(訳者挿入)〕平和の実を結ばせる。”と訳しています。

 ガラテヤ522.23には、“・・・、霊〔直訳「その霊」(筆者挿入)〕の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、・・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 13-15節は、誓願の祈りです。
神様に、~をしますから、~をしてください、という祈りです。
旧約時代には、誓願の祈りがよくささげられたのでしょう。
新約時代に入ってからも、そのような祈りをする人をよく見ます。それは、使徒2117-26にも記されています。そして、その結果は、使徒2127-36に記されています。

 15節には、“肥えた獣を焼き尽くすいけにえとし、香と共に雄羊を、雄山羊と共に雄牛を献げます。”と記されています。

 新約(新契約)時代に移行するために、主イエス様は、ご自身を、神への全焼のいけにえ(全焼の献げもの)として、人々の罪のためには、罪のためのいけにえ(きよめの献げもの)として献げてくださいました。
イエス様が、仲保者(仲介者)となってくださったゆえに、神と交わりを持つことが出来るようになったことを覚えます。イエス様は和解のいけにえ(交わりのいけにえ)ともなってくださったのです。(レビ記13章、41-5101テモテ25参照)

 キリスト者が神様にささげる献げ物は何でしょうか?
ローマ121には、“あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。”(抜粋・2017)と記されています。

 ローマ121の聖句について、いくつかの日本語訳聖書の訳を下記します。
文語訳は、“されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ靈の祭なり。”と訳し、
新共同訳は、“こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。”と訳し、
岩波訳は、“そこで、兄弟たちよ。私はあなたがたに、神の慈悲によって勧めるが、あなたがたのからだを、 生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい。〔すなわち(訳者挿入)〕あなたがたの霊的な礼拝を〔なすようにしなさい(訳者挿入)〕。”と訳し、
2017
は、“ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる〔別訳「受け入れられる」(欄外注)〕、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい〔別訳「あなた方の霊的な」、「あなた方にとって理にかなった」(欄外注)〕礼拝です。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
ローマ613には、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい〔神にお任せしなさい(前田訳)〕。」(聖書協会共同訳)と記されていますように、あなたがお整え下さって、あなたのために用いていただけたら幸いです。
栄光を主に帰しつつ、地上生涯を送れるのですから。
すべてをお委ねし、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月18日 (火)

申命記11:1-9 主の御業を忘れず、主の戒めを守り、主に祝福されなさい

 申命記111-9には次のように記されています。
1 あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟(おきて)、法および戒めを常に守りなさい。
2
あなたたちは、あなたたちの神、主の訓練を知ることも見ることもない子孫とは違うことを、今日知らねばならない。その大いなる御業、強い御手と伸ばされた御腕、3 エジプトの中でエジプトの王ファラオとその全土に対してなさったしるしと御業、4 エジプト軍、その馬と戦車に対してなさったこと、すなわち彼らがあなたたちを追撃して来たとき、主が彼らの上に葦の海の水を溢れさせて滅ぼし、今日に至っていること、5 あなたたちがここに来るまで主が荒れ野でなさったこと、6 また、ルベンの孫で、エリアブの子であるダタンとアビラムになさったこと、すなわち、大地が口を開けて、彼らとその家、その天幕、および全イスラエルの中で彼らと行を共にした者を皆〔彼らも家族も一人残らず(リビングバイブル)〕、呑み込んだことなど、7 主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。
8
あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。
こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる。
9
こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。”(新共同訳)とあります。

 3-7節には、
3 エジプトの中でエジプトの王ファラオとその全土に対してなさったしるしと御業、4 エジプト軍、その馬と戦車に対してなさったこと、すなわち彼らがあなたたちを追撃して来たとき、主が彼らの上に葦の海の水を溢れさせて滅ぼし、今日に至っていること、5 あなたたちがここに来るまで主が荒れ野でなさったこと、6 また、ルベンの孫で、エリアブの子であるダタンとアビラムになさったこと、すなわち、大地が口を開けて、彼らとその家、その天幕、および全イスラエルの中で彼らと行を共にした者を皆〔彼らも家族も一人残らず(リビングバイブル)〕、呑み込んだことなど、7 主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた。”と記されています。

 3-7節に記されている内容を、わかり易く、かつもう少し詳しく列記すると次のようになります。
1.エジプトに対する十の災い(3
 ①水を血に変えて飲料水として飲めなくした災い(出エジプト714-25
 ②カエルの災い(出エジプト726-811
 ③ブヨの災い(出エジプト812-15
 ④あぶの災い(出エジプト816-28
 ⑤疫病の災い(出エジプト91-7
 ⑥腫物の災い(出エジプト98-12
 ⑦雹の災い(出エジプト913-35
 ⑧バッタの災い(出エジプト1012-20
 ⑨暗闇の災い(出エジプト1021-29
 ⑩初子(ういご)の死の災い(出エジプト1229-36

2.葦(あし)の海で、イスラエルを追ってきたエジプト軍を滅ぼしたこと{4節(出エジプト1317-14章)}

3.荒れ野での奇跡(5
 ①苦くて飲めない水をヤハウェ(主)が甘い水にしたこと(出エジプト1522-25
 ②ヤハウェ(主)がイスラエルの民に、日々の食物として「マナ」を与えたこと(出エジプ16章)
 ③ヤハウェ(主)が水の無い地において岩から水を出したこと{マサとメリバ(出エジプト171-7)}
 ④ヤハウェ(主)が、アマレクの攻撃からイスラエルを守ったこと(出エジプト178-16

4.ヤハウェ(主)がシナイにおいて十戒を根幹とする律法を与えられたこと{5節(出エジプト191-2411)}

5.ヤハウェ(主)に従わない者たちへの裁き{6節(民数記16章)}

6.上記以外のヤハウェ(主)の御業(7)・・・大きなものをあげると
 ①青銅の蛇(民数記214-9
 ②シホンとオグに対する勝利(民数記2121-35
 ③肉的姦淫から霊的姦淫(偶像礼拝)へと進んだイスラエルの民に対するヤハウェ(主)の裁き(民数記25章)
 ④ミデヤン人に対する勝利(民数記311-12

 モーセが語っている話を聞いていた人たちは、上記の事柄を体験してきたのです。
モーセは、イスラエルの民にそれらのことを思い起こさせた上で、
「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい。こうして、あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地〔約束の地、すなわちカナンの地(筆者挿入)〕に首尾よく入り、それを得ることができる。こうして、主があなたたちの先祖に、彼らとその子孫に与えると誓われた土地、すなわち乳と蜜の流れる土地で、あなたたちは長く生きることができる。”(8.9)と語ったのでした。

 私たちキリスト者の場合も、主は、一人一人に応じて様々な御業を行ってきてくださったと思います。
詩篇1031.2には、
1 わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。
2
わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。”(2017)と記されています。

 「望みも消えゆくまでに」(聖歌604、聖歌総合版642、新聖歌172)の歌詞は次のように記されています。
“1.望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ 主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん
 (折り返し) *
  数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み
2.主の賜(たま)いし十字架を 担いきれず沈むとき 数えてみよ 主の恵み つぶやきなど如何(いか)であらん
 *
3.世の楽しみ 富 知識 汝(な)が心を誘(さそ)うとき 数えてみよ 主の恵み 天(あま)つ国の幸に酔わん
 *  ”とあります。

 モーセは、8.9節の勧めをしましたが、私たちキリスト者は、主キリスト・イエス様を信じ続けて、天の王国へと入れていただけるのです。
なんという恵み、何という幸いでしょうか。ハレルヤ!

 主イエス様は言われました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ142.32017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
折に触れて、あなたの御業を思い起こすことの大切さを再度学ばせていただきました。
感謝しつつあなたをほめたたえ、あなたに在って歩み続けていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月17日 (月)

マタイ20:29-34 二人の盲人の癒し/真理を見る(悟る)ことの出来る人とできない人

 マタイ2029-34には次のように記されています。
29 一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。
30
 すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
31
 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
32
 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、
「何をしてほしいのか」と言われた。
33
 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
34
 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ2017-19には、主イエス様が、ご自身の死と復活について3度目の預言をされたことが記されていました。
その直後に、ヤコブとヨハネの母がイエス様にとんでもないお願いをしたのです。その願いによって、他の弟子たちの肉性もあらわになりました。(マタイ2020-24)。

 主イエス様は、偉くなりたいor権力の座に着きたいという肉性丸出しの弟子たちに対して次のように対処なさいました。マタイ2025-28には次のように記されています。
25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、27 あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。
28
 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 エリコを経由してエルサレムへ登っていく道がありますが、マタイ2017-28の記述の出来事は、私の想像ですが、エルサレムへと向かっていくエリコの手前での出来事であったのだろうと思います。

 マタイ2029.30には、“29 一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。30 すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。”と記されています。

 この盲人は、盲人と書いてあるのですから目が見えないのですが、イエスが、「主」で「ダビデの子」であるという真理を悟っていたのです。
新約聖書はギリシア語で記されていますが、ユダヤ人たちは、ヘブライ語やアラム語を話していたことでしょう。ユダヤ人が、「主」というとき、「アドナイ」という語を使っていたようです。ヤハウェ(主)の同義語として。主の御名をみだりに唱えてはいけない、と十戒にあるので、ヤハウェとは呼ばずに、「アドナイ」と呼んでいたのです。アドナイには、主人、主、私の主、神、等の意があると思われます。
イエス様に対して、「ダビデの子」と呼んだのは、当時としては、あなたはメシアです。という信仰告白でもあったでしょう。

 それゆえ、群衆は、特に宗教家たちは、盲人の言葉を遮(さえぎ)ろうとしたのだろうと思います。
31
節には、“群衆は叱りつけて黙らせようとした”と記されています。

 この個所は、目が見えなくても真理を悟っている人と、肉の目は見えているのに、真理を悟れない人たちの対比を見ることが出来ます。

 「ヤハウェ(主)よ、ダビデの子よ」という呼び方を、分析すると、霊においては、神ヤハウェ(主)であり、肉においては、ダビデの子、すなわちメシア、ということになります。
この二人の盲人が、そのように捉えていたかどうかは分かりませんが。
ローマ95を参照すると、“キリストも、肉によれば彼ら〔イスラエル人(筆者挿入)〕から出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。”(抜粋・2017)と記されています。

 31-34節には、
31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
32
 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、
「何をしてほしいのか」と言われた。
33
 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
34
 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。”と記されています。

 主イエス様は、二人の盲人に、「何をしてほしいのか」と言われました。
盲人たちは、「憐れんでください」といいましたが、主イエス様は、盲人たちに盲人たちが願っていることを明確にさせたのです。
盲人たちは、「目を開けていただきたいのです」(33)と言ったのです。

 何をどう祈ったらよいかわからないときにもご聖霊は助けてくださいます(ローマ826)が、できるだけ具体的に祈ったほうが良いことをこの個所から教えられます。
具体的に祈ると、それが肉から出ていることなのか、霊から出ていることなのか、愛から出ていることなのか、欲から出ていることなのか、・・・・等々を自分でも把握することが出来るようになるだろうと思います。
ここに出てくる二人の盲人は、肉の目を見えるようにして頂いた後、主イエス様について行ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御旨についての知識に満たしていただけますように。
また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長させていただけますように。
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますようお整え下さいますように。
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげ続ける者であらせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月16日 (日)

箴言22:7 借金をしないことは幸いなことです(分に応じて生きる)/上にあるものを求めよう

 箴言227を、
2017
は、“富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。”と訳し、
新共同訳は、“金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。”と訳し、
リビングバイブルは、“貧しい人が金持ちに押さえつけられるように、金を借りる者は貸してくれた人の奴隷になります。”と訳しています。

 「しもべ」(2017)、「奴隷」(新共同訳、リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「エベド」で、召使い、しもべ、奴隷、等の意があります。
 
 古代、奴隷とされる人にはいくつかのパターンがあったようです。
1.戦争で負けることにより奴隷にされた例
2.売られて奴隷にされた例
3.破産により子どもや家族や自分を奴隷として売る例
4.食べていくのが大変な故に子供を奴隷あるいは売春婦として売る例
5.その他
等とあったようです。

 創世記の中には、ヨセフの兄たちが、嫉妬の故から、ヨセフをエジプト人に売った例が記されています(創世記3712-36参照)
 NHKの「おしん」という有名な朝のドラマがありました。諸外国の中でもよく見られたようです。「おしん」は、食費を減らす為&食料を得るために親によって売られた少女でした。

かつての日本には、その様な子女がいたのです。売春婦として売られる場合もありました。

 話しを変えますが、聖書の中には、奴隷に関する律法がありました。
出エジプト記21章には次のように記されています。
1 あなたが彼らの前に置くべき法は次のとおりである。
2
 あなたがヘブライ人の奴隷を買った場合、彼は六年間仕えれば、七年目には無償で自由の身として去ることができる。
3
 一人で来たのなら、一人で去り、妻がいたのなら、妻は彼と共に去ることができる。
4
 もし主人が彼に女を与え、彼女が彼との間に息子または娘を産んだなら、その女と子どもたちは主人のものであり、彼は一人で去らなければならない。
5
 しかし、その奴隷がはっきりと、「私は自分の主人と妻と子どもたちを愛しています。自由の身として去るつもりはありません」と言うなら、
6
 主人は彼を神のもとに連れて行く。すなわち、門の扉か柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で突き通さなければならない。そうすれば彼は生涯、主人に仕えることができる。
7
 また、ある人が自分の娘を女奴隷として売る場合、彼女は男奴隷が去るようには去ることができない。
8
 もし彼女が、彼女を自分のものと定めた主人の目に適わなければ、主人は彼女が買い戻されることを認めなければならない。外国人に売ることは許されない。彼女を裏切ることになるからである。〔もし彼女を妻にしようと定めた主人が、彼女を気に 入らなくなれば、彼女が買い戻されることを許さなければならない。彼は彼女を欺いたから、彼女を他国の者に売る権利はない。(フランシスコ会訳)〕
9
 もし彼女を自分の息子のものとするならば、彼女を自分の娘と同じように扱わなければならない。
10
 息子が別の女をめとることがあっても、彼女から食事、服、夫婦の交わりを減らしてはならない。
11
 もし彼がこの三つを彼女に与えなければ、彼女は銀を支払うことなく無償で去ることができる。/
20
 ある人が自分の男奴隷や女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、必ず罰せられなければならない。
21
 ただし、その者が一日か二日生き延びたなら、罰せられることはない。奴隷は彼の財産だからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日の箴言の個所は、借金が払えなくなった故に奴隷となったor奴隷とされた場合のように思えます。

 現代の日本では、自己破産をし、生活保護を受けるという方法もありますし、その他の方法もあります。

 そうであるとはいえ、借金が返せなくなった場合は、つらい目に合う場合が多いでしょう。

ローマ138には、“だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。”(2017)と記されています。

 収入に見合った生活をすることが大切ですね。
何よりも主に信頼することが大切なことです。
ピリピ419には、“わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。”(新共同訳)と記されています。
多くの人は、主なる神様が、「あなたにとって必要な物」と考えている内容と、その人自身が「私にとって必要な物」と考えている「必要な物」の間には隔たりがあるのではないかと思います。

 1テモテ67.8には、“7 私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。8 食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
主が、一人一人に対して、必要と認めれば、それも与えてくださるでしょう。

 キリスト者は、元来、この世のものではなく、上にあるものを求める者なのです(コロサイ31.2)。
上記の1テモテ67.8の前後の部分も含めて下記します。
6確かに、信心は足ることを知る人々にとっては〔満ち足りる心を伴う敬虔{信心(フランシスコ会訳)}こそが(2017)〕大きな利益をもたらします。
7
わたしたちは、何一つ持たないでこの世に来ました。また、確かに何一つ持たないで、この世を去ります。
8
食べる物と着る物とがあれば、 それで満足すべきです。
9
しかし、金持ちになろうと望む者は、誘惑の罠、愚かで有害なさまざまな欲望に陥ります。それらのものは、人々を滅びと破滅に沈ませます。
10
金銭の欲は、すべての悪の根源です。ある人々は、金銭を追求するあまり、信仰から離れ去り、さまざまなひどい苦しみで自らを刺し貫きました。
11
 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。”(フランシスコ会訳)と記されています。

 私の場合は、衣食住と聖書、聖歌、讃美歌、パソコンにネット環境は欲しいですね。
主よ、よろしくお願いします。

 パウロはフィリピ信徒への手紙の中で次のように述べています。
20 そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです
21
 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです
22
 けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23
 この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。
24
 しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(聖書協会共同訳)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
日々、あなたとの交わりこそが最も大きな楽しみであることを覚えて感謝します。
御父との間に壁が出来ないように、常に聖霊の光を受けつつ、キリストの血潮に感謝し、また用いさせていただいて、あなたに感謝し、あなたを賛美しつつ、キリストの御迎えを待ち望ませていただきたいと願います。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月15日 (土)

詩篇66:1-7 主は賛美されるべきお方/主に命じられたことを行い主の栄光を見る

 詩篇66:1-7には次のように記されています。
1 指揮者によって。歌。賛歌。
全地よ、神に向かって喜びの叫びを上げよ。
2
 御名の栄光をほめ歌い、栄光に賛美を添えよ。
3
 神に向かって言え。「あなたの業(わざ)は恐るべきもの。大いなる力により、敵はあなたに屈服します。
4
 全地はあなたに向かってひれ伏し、ほめ歌います。あなたの名をほめ歌います」と。〔セラ
5
 来て、神の業を見よ。人の子になされた恐るべき業を。
6
 神は海を乾いた地に変えた〔出エジプト1421(筆者挿入)〕。人は大河を歩いて渡り〔ヨシュア311-16参照(筆者挿入)〕、そこで、私たちは神を喜び祝った。
7
 神は力によってとこしえに支配し、その目は諸国民を見渡される。背く者は自ら驕ってはならない。〔セラ”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節に、“全地よ、神に向かって喜びの叫びを上げよ。”とあります。
「全地」と記されていると、地球全体を指すのだろうか、と思う人もあるでしょう。
実は、かつての私の頭は、自然に日本を含めた地球全体をイメージしました。
ところが、ヘブライ語聖書を読んで直訳すると、「その地のすべてよ、神に喜び叫べ。」となります。
「その地」は「地」(エレツ)に定冠詞がついていて「ハーレツ」となっています。
ですから、「その地のすべてよ」は、イスラエル全土よ、あるいはイスラエルの全地の民よ、となるのだろうと思います。
現代は、新約時代であり、この個所を、私たちキリスト者は、「すべてのキリスト者よ、神に喜び叫べ。」と捉えることが出来ます。
キリスト者は「聖なる国民」ですから(1ペテロ29)。すなわち、神のために神によって聖別された神の王国の民ですから。

 5.6.3節には、“5 来て、神の業を見よ。人の子になされた恐るべき業を。
6
 神は海を乾いた地に変えた。・・・、そこで、私たちは神を喜び祝った。
3
 神に向かって言え。「あなたの業は恐るべきもの。大いなる力により、敵はあなたに屈服します。」”とあります。

 上記の6.3節の抜粋した出来事は、出エジプト14章を念頭に置いて読まれたものでしょう。そこには次のように記されています。
13 そこで、モーセは民に言った。
「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは今エジプト人を見ているが、もはやとこしえに見ることはない。14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。
15
 主はモーセに言われた。
「なぜ私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に出発するように告げなさい。16 あなたは自分の杖を上げ、海に向かって手を伸ばし、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行ける。
17
 私がエジプト人の心をかたくなにするので、彼らはその後を追って入って来る。
そこで、ファラオとその全軍、戦車と騎兵によって私は栄光を現そう18 ファラオとその戦車と騎兵によって私が栄光を現すとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる。」
 19 イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは移動し、彼らの後ろから進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して、彼らの後ろに立ち、20 エジプトの軍とイスラエルの軍の間に入った。雲と闇があって夜を照らしたので、一晩中、両軍が接近することはなかった。
 21 モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
 23 エジプト人は彼らの後を追って行き、ファラオの馬も戦車も騎兵もすべて海の中に入って行った。
24
 朝の見張りのとき、主はエジプト軍を火と雲の柱から見下ろされ、エジプト軍をかき乱された。
25
 主が戦車の車輪を外し、進みにくくされたので、エジプト人は言った。
「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」
 26 主はモーセ に言われた。
「海に向かって手を伸ばしなさい。水はエジプト人の戦車と騎兵の上に戻るだろう。」
27
 モーセが海に向かって手を伸ばすと、海は夜明け前に元に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主は彼らを 海の中に振り落とされた。
28
 水は元に戻り、戦車も騎兵も、彼らの後を追って海に入ったファラオの軍隊すべてを呑み込み、一人も残らなかった。
 29 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進み、水は彼らの右と左で壁となった。
30
 こうして、主はこの日、イスラエルをエジプトの手から救い出された。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
31
イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる業を見た。・・・。”(聖書協会共同訳)とあります。

 17.18節に、「栄光」という単語が出てきます。「栄光」と訳されている語のヘブライ語原語は「カーバド」or「カーボードゥ」で、重さ、重いこと、というのが原義で、栄光の意もありますが、その他、激しく苦しめる、名誉に値する、高貴な、・・・・・・等々の意があります。
「神の栄光」の意味について、キリスト教辞典は次のように述べています。
“神の栄光とは、神の本質と属性の輝きのことである。神は人格的な方であるから、その栄光も、愛、恵み、まこと、知恵、力、義、聖さなどにかかわる人格的なものである。また、神は無限な方であるから、その栄光も無限である。それは神の存在に固有なものであり、神の臨在とみわざにおいて現される。”とあります。

 モーセは、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。」(14)と民に言いましたが、
主は、モーセに、「なぜ私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に出発するように告げなさい。16 あなたは自分の杖を上げ、海に向かって手を伸ばし、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行ける。」(15.16)と言われました。

 主は、モーセに、「あなたは自分の杖を上げ、海に向かって手を伸ばし、海を二つに分けなさい。」と言われましたが、モーセが海の水を分けたのではなく、神であるヤハウェ(主)が海の水を分けたのです。
これと本質的には同じようなことを、キリスト者にも、主は言われることがあります。
主は、「今、~のために祈りなさい。」とか、「今、悪しき霊に命じなさい。」とか、「今、~をしなさい。」・・・などと言われます。

 「主がついてれば」(聖歌665、聖歌総合版713)の3節に、次のような歌詞があります。
“主はそばにいて 私を愛し 主のお手伝い させてくださる 主は 私を 主は 私を 主は 私を愛してくださる”と。

 主は、ご自身の御業を行うときに、私たちに、さらなる喜びを与えてくださるのです。そして私たちは、主をほめたたえるのです。
栄光はすべて主に在ります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日もあなたの御声を聞ながら歩める日としてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月14日 (金)

申命記10:17-22 ヤハウェ(主)にのみ仕えなさい/主の御性質の一部と主の御業の一部

 申命記1017-22には次のように記されています。
17 あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は神の中の神、主の中の主〔アドナイ アドニーム(筆者挿入)〕、偉大で勇ましい〔力があり(新改訳2017)〕畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。
19
 だから寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。
20
 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れ、主に仕えなさい。主に付き従い、その名によって誓いなさい。
21
 主こそあなたの誉れ、あなたの神、あなたが目にしたこれらの大いなる恐るべきことを行われた方である。
22
 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたを空の星のように多くされた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 17.18節には、“17 あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は神の中の神、主の中の主〔アドナイ アドニーム(筆者挿入)〕、偉大で勇ましい〔力があり(新改訳2017)〕畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。”と記されています。

 「あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は神の中の神、主の中の主〔アドナイ アドニーム(筆者挿入)〕」とありますが、三一の神様以外は、悪魔悪霊が、「私は神である」といっているか、肉である人間が、「ある者or物」を神としているだけのことです。
この個所では、この時代のイスラエルの民の霊的知識がまだ乏しいため、ヤハウェ(主)は、このような表現をしたのでしょう。

 新約時代になると、1コリント8章に、“4 ・・・、この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。5 現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、6 私たちには、唯一の父なる神がおられ、万物はこの神から出、私たちもこの神へと向かっています。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1コリント84-6を読むと、キリストは主ではあっても神ではないかのように思う方がいるかもしれませんが、コリント信徒への手紙を書いたパウロは、ローマ信徒への手紙の中で、“キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。”(95後半部分・新共同訳)と記し、
また、ピリピ2章では、“キリストは、神の御姿であられる”(6節前半部分・2017)とパウロは記しています。

 ついでに「聖霊」が神であるということについて記します。
1コリント316には、“あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。”(聖書協会共同訳)とあり、
1
コリント619には、“知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神が三位一体であるという聖句の極めつけは、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」(マタイ2819後半部分・2017)とイエス様が語られた聖句によります。
この聖句の中の「名」は単数形です。

 この世に、この宇宙に、まことの神は、三一の神しかいないのです。
コロサイ116には、“天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。”(新共同訳)と記されています。
創世記11には、“初めに、神が天と地を創造した。”(新改訳第三版)とあります。
「神」と訳されている語のヘブライ語原語は「エロヒーム」で「神」の複数形です。
「創造した」と訳されている語のヘブライ語原語は「バーラー」で単数形です。
新約聖書の解き明かしをもとに考えると、三一の神が天地を創造したことがわかります

 17.18.21節の個所を2017は、“・・・偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。この方こそあなたの賛美、この方こそあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大いなる恐るべきことを、あなたのために行われた方である。”と訳しています。

 主の御言葉を語っているモーセは、“偉大で力があり、恐ろしい神。・・・自分の目で見たこれらの大いなる恐るべきこと〔エジプトでの10の災いからモアブの平原に来るまでの間に主がなさった御業(筆者挿入)〕を、あなた〔イスラエル(筆者挿入)〕のために行われた方・・。”を見た(体験した)のです。

 主である神は、畏怖するほどに力があるだけではなく、“偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方”(17.18)とあるように、義なる神であり、公正なる神であり、愛の神でもあるのです。

 そのように教えたうえで、モーセは、「あなた方の神、主だけを恐れ、礼拝し、頼りなさい。主の名以外のものにかけて誓ってはいけません。」(20・リビングバイブル)と命じました。

 20節には、“あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れ、主に仕えなさい。主に付き従い、その名によって誓いなさい。”とあります。
「その名によって誓いなさい」という個所について、主イエス様は、「誓ってはならない」(マタイ534)と教えてくださいましたが、この節のポイントを「その名によって」、すなわち「ヤハウェ(主)の名によって」、というところに照準を合わせて考えてみたいと思います。「他の神の名によってではない」、ということです。

 そのように考え、私は、20節を「誓い(誓願)」を脇において「ただヤハウェ(主)だけを畏れ敬い、ヤハウェ(主)に仕え、ヤハウェ(主)に従いなさい。」と捉えたいと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主を畏れ敬い、主を愛し、喜びをもって主に従い仕える者としてお整え下さり、導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月13日 (木)

マタイ20:17-28 肉の愛情と欲望/御父が支配する王国/主に在って僕(しもべ)として歩める者の幸い

 マタイ2017-28には次のように記されています。
17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
18
 「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、19 異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
 20 その時、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、願い事をした。
21
 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
彼女は言った。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください。」
22
 イエスはお答えになった。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
彼らが、「できます」と言うと、
23
 イエスは言われた。
「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左に座ることは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。」
24
 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
25
 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、27 あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 17-19節を読むと、主イエス様が、12人の弟子だけに、「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」ということを話しました。

 この十字架と復活の預言は、主イエス様が弟子たちを引き連れ、エルサレムへ行く途上の中での重要なお話でした。主イエス様が話された死と復活の預言は、これが三度目です。一度目(マタイ1621)、二度目(マタイ1722.23)の時の死と復活の預言の話の中では、十字架という言葉はありませんでした。しかし三度目の時には、「十字架につける」(ギリシア語原語は「スタウロオー」です。)と語られたのです。スタウオローは、十字架に突き刺す、という感じになります。

 よりによって、この時、12弟子の中のヤコブとヨハネの母サロメは、「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください。」とイエス様に願い出たのです。

 20.21節には、“その時、ゼベダイの息子たちの母〔サロメ{マルコ119、マタイ2756、マルコ1540を合わせて参照}(筆者挿入)〕が、息子たち〔ヤコブとヨハネ(筆者挿入)〕と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、願い事をした。
21
 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
彼女は言った。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください。」”と記されています。

 主イエス・キリスト様が、自分は、十字架に突き刺される、と仰っていたそばから、おそらく母の息子に対する肉の愛情からでしょうが、ヤコブとヨハネを連れて、「あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください。」とひれ伏し、願い事をしたのです。
本当に何ということでしょう!!
それだけではありません。
24
節には、“ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。”と記されています。
12
弟子たちは、主イエス様の受難のことを考えていたのかどうかは分かりませんが、主イエス様が、「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。」(18.19)と語られたばかりなのに、主イエス様のその大変さを思わず、皆、自己中心的であったのです。
主イエス様は、十字架につかれる前には、ゲッセマネで悩み、そして私たちを愛して十字架につかれたのに。
ア――――――――――ッ!

“かくも主は悩み かくも愛し 主の花嫁と我を為しぬ 我が内に主はいます くすしくも妙なり 我が内にいます主は 来るべき王なり”(「神の子なるイェス」の2節:聖歌592、聖歌総合版630、新聖歌342A.B.Simpson-中田羽後訳)

1 This is my wonderful story, Christ to my heart has come;
Jesus, the King of Glory, Finds in my heart a home.
Christ in me, Christ in you, Christ in us, O wonderful story, Christ in me, Christ in you,   Christ in us, the hope of glory.

2 Was there e’er story so moving, Story of love and pain; Was there e’er Bridegroom(花婿) so loving, Seeking our hearts to gain.
3 I am so glad I received Him, Jesus my heart’s dear King; I who so often have grieved Him, All to His feet would bring.
4 How can I ever be lonely, How can I ever fall; What can I want, if only Christ is my all in all?
5 Now in His bosom confiding, This my glad song shall be; I am in Christ abiding, And Christ abides in me.

というのが聖歌592番の原詩のようです。
キリストとの相互内住(5/1コリント130+コロサイ127)・・・ハレルヤ!

 話を元に戻します。
サロメの申し出に対して、主イエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と応答されました(22)。
それに対して、ヤコブとヨハネは、「できます」と答えたのでした(22)。
ヤコブは12弟子の中で最初に殉教しました(使徒122)。

 この出来事をもとにして、主イエス様はさらに二つのことを教えられました。
①神の王国における役職を決定するのは父なる神様であるということ(23)。
②へりくだって仕える者になりなさい(26.27)。
という内容でした。
上記の関連節を再掲します。
23 ・・・、私の右と左に座ることは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。/
26
 ・・・。・・・、皆に仕える者となり、27 ・・・、皆の僕になりなさい。28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。”と主は語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
御父を愛し、御子であり、私たちの救い主であり、私たちの主であり、私たちの花婿であるイエス様を愛し、愛するゆえにすべてを献げてお仕えしていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月12日 (水)

箴言22:6 聖書教育/新生、聖化

 箴言226を、
新改訳は、“若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“歩むべき道に応じて若者を訓練せよ。そうすれば年老いてからもそれることはない。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“子供を、その行くべき道に沿って教育せよ。そうすれば、年老いても、それからそれることはない。”と訳し、
新共同訳は、“若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。”と訳し、
口語訳は、“子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない。”と訳し、
リビングバイブルは、“子どもの時に正しい生き方を教えておけば、年をとってからも変わりません。”と訳しています。

 「若者」(新改訳、聖書協会共同訳、新共同訳)、「子どもor子」(フランシスコ会訳、口語訳、リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーアル」で、少年、少女、召使い、赤ん坊、幼児、子ども、若者、青少年等の意があります。

 「教えるor教育する」(口語訳、新改訳、リビングバイブル、新共同訳、フランシスコ会訳)、「訓練する」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーナク」で、どちらの意味も持っています。

 リビングバイブル訳のように、“子どもの時に正しい生き方を教えておけば、年をとってからも変わりません。”と捉えると、「正しい生き方」とは、神の言葉に従った生き方ですから、子どもの時の聖書教育は、その人の後の歩みを幸いなものにすることになる、と捉えることが出来ます。

 ところが、この世の学校教育等で、進化論を教え、ヤハウェ(主)なる神による創造などは論外である、というような教え方をする先生に教えを受けると、その教えを受けた子どもは、聖書の聖句を信じきれなくなっていくのです。
そうなるとサタンの勝利です。

 そうならないためには、聖句を教えるだけではなく、早い時期に新生していることが大切になるのではないかと思います。
新生して、日々、神様との交わりの中で成長していくと、学校で進化論を教わり、神による創造を否定されても、新生した霊、救われた魂は、進化論を教える先生の言葉を鵜吞みにすることはないでしょう。なぜなら、1ヨハネ39には、“神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。”(2017)と記されているからです。

 人を構成するものの中で、「神から生まれた者」とは、新生した霊だけです。
1
ペテロ13に、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。
この個所を聖書協会共同訳も同じような意味合いで、“私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。”と訳しています。

 霊から生まれたものが霊なのです。肉からは霊は生まれません。
ヨハネ36を、聖書協会共同訳、新共同訳は、“肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”と訳し、口語訳、フランシスコ会訳、前田訳、岩波訳も同じ意で訳しています。

 魂は救われました(1ペテロ18.9)が罪は犯すことがあります。また肉体の中には単数形の罪(罪を犯す性質)が住んでいます(ローマ720)。

 1ヨハネ39には、“神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。”(2017)とありましたが、「神の種」の「種」と訳されている語のギリシア語原語は「スペルマ」という語で、種、精子、・・等の意があります。精子の頭部は遺伝子のかたまりです。霊的な話ですから、精子というわけではないのですが、神から生まれた霊、すなわち新生したものは霊であり、神の遺伝子が入っているのです。それ故、神の子であるとともに、その霊は、主の霊とも結ばれています(1コリント617)から、敵である悪魔は、新生した霊に対して攻撃することが出来ないのです。
1ヨハネ518には、“神から生まれた人〔「霊」のこと(筆者挿入)〕は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人〔「霊」(筆者挿入)〕は自分を守り、悪い者〔サタン(筆者挿入)〕がその人に触れることはありません。”(聖書協会共同訳)とあります。
この個所を、2017は、“神から生まれた者〔「霊」のこと。新生した人の本体は「霊」です{2コリント51-42ペテロ113.14、使徒759等を参照}(筆者挿入)〕はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。”と訳しています。

 ヨハネ361コリント617からすると、どちらにも訳せることがわかりますが、いずれにしても、主は軛(くびき)を負ってくださるお方(マタイ1130)ですから大感謝です。

 多くの場合、御聖霊は、御言葉を用いて働かれますから、幼いころから御言葉に接することは大いに有益なことであることがわかります。

 コヘレトの言葉(伝道者の書)12章には次のような聖句が記されています。
1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。災いの日々がやって来て、「私には喜びがない」と言うよわい(齢)に近づかないうちに。
13
 聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。
14
 神は善であれ悪であれ、あらゆる隠されたことについて、すべての業を裁かれる。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたのみ旨に従って歩むことが出来るように、新生の恵みにあずかり、心の割礼を受け、喜びをもってあなたに従う歩みをしていく者として祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月11日 (火)

詩篇65:10-14 主なる神の恵みによって豊かな祝福を受ける

 詩篇6510-14には次のように記されています。
10 あなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は地を訪れてこれを潤し、大いに豊かにします。神の水路は水をたたえ、あなたは穀物を備えます。あなたがそのように整えたのです。
11
 畝を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、萌え出でたものを祝福してくださいます。
12
 あなたは恵みを年の冠とされます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
13
 荒れ野の原にも滴り、どの丘も喜びをまとい、14 牧場は羊の群れをまとい、谷は穀物に覆われています。辺り一面、喜びの叫びを上げ歌声を響かせています。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳等は、9-13節になります。)

 神ヤハウェ(主)と神の国イスラエルとの祝福と呪いの契約関係の中の祝福の契約の契約条件と祝福の内容は、申命記281-14に記されている次のようなものでした。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。
5
 あなたの籠もこね鉢も祝福される。
6
 あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。
7
 主はあなたに立ち向かう敵をあなたの前で打ち負かされる。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前から七つの道へ逃げて行く。
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。
9
 あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むとき、主はあなたに誓われたとおり、あなたを聖なる民として立てられる。
10
 地のすべての民は、あなたが主の名で呼ばれるのを見て、あなたを恐れる。
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはない。
13
 私が今日守り行うように命じる、あなたの神、主の戒めに聞き従うとき、主はあなたを頭として、尾とすることはない。あなたは常に上にあって、 下になることはない。
14
 あなたは、今日私が命じるすべての言葉から右にも左にもそれてはならず、他の神々に従って、これに仕えてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日の聖書個所の、詩篇6510-14は、地上の神の国イスラエルにおいては、主に従い、主が命じられた御言葉を守ったことに対する祝福の結果が記されています。

 キリストの千年王国時代は、キリストが王の王として統治する時代であり、約千年の間というものは、地上の民は、王の王であるキリストに従うのです。
それ故、地の民は祝福を受けます。
その観点からは、詩篇6510-14は、預言のようでもあります。

 キリストの千年王国時代の預言として記されていると思われる個所の中から次の二つをあげておきます。
 イザヤ35章には、
1 荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は歓喜の声を上げ、野ばらのように花開く。
2
 花は咲き溢れ、大いに喜びの歌声を上げる。レバノンの栄光とカルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。/
4
 ・・・神は来られ、あなたがたを救う。
5
 その時、見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。
6
 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が、砂漠にも流れが湧き出る。
7
 熱した砂地は池となり、干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は、葦やパピルスが茂る所となる。
8
 そこには大路が敷かれ、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり、愚かな者が迷い込むことはない。9 そこに獅子はおらず、飢えた獣は上がって来ず、これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10
 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき、悲しみと呻きは逃げ去る。”(聖書協会共同訳)とあります。
この預言は、キリストの千年王国時代の最初の頃に成就すると思います。

 またイザヤ6519-25には次のように記されています。
19 私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。
20
 そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。
21
 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
22
 彼らが建てて別の人が住むことはなく、彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。
23
 彼らは無駄に労することもなく、産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり、その末裔も彼らと共にいる。
24
 彼らが呼ぶより先に、私は応え、彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。
25
 狼と小羊は共に草を食み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても、これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない。――主は言われる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇6510-14を、新約(新契約)時代の恵みによる心の祝福等の観点から、聖句の単語に加筆や置換をして書いてみたいと思います。
10 あなた、すなわちヤハウェは、キリスト者の心に訪れて、これを潤し、大いに豊かにします(ヨハネ1010の後半部分参照)。神との交わりは御言葉をたたえ、あなたは霊の穀物である御言葉を備えます。あなたがそのように整えたのです。
11
 心を潤し、心をならし、豊かに聖霊を注いで心を柔らかにし、萌え出でたものすなわち御霊の実を豊かにつけてくださいます。

12 あなたは恵みを年の冠とされます。あなたの過ぎ行かれた跡には油が滴っています、すなわち、聖霊の働きが豊かであったことがわかります。
13
 荒れた心も聖霊によって満たされ、どの心の部分も喜びをまとい、14 主の牧場には、多くの主の羊の群れがおり、主の羊たちの心の暗かった部分も御言葉や霊の実で充実しています。心は満たされ、喜びの叫びを上げ歌声を響かせています。」
「 」内は、著者の霊的解釈の一例であり、聖句ではありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みを感謝します。
今日もヘセドによってお取り扱いくださり、シャロームを与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヘブライ語の「ヘセド」の意味:親切、善意、愛顧、善行、慈悲、恵み、等の意があります。
ヘブライ語の「シャローム」の意味:安心な、幸福な(幸せな)、友好的な、幸福、繁栄、平和、平安、・・・等々の意があります。

2023年4月10日 (月)

申命記10:12-16 心の割礼

 申命記1012-16には次のように記されています。
12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽く し、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
14
見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。
15
主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。
16
心の包皮を切り捨てよ。
二度とかたくなになってはならない。”(新共同訳)とあります。

 創世記17章には次のように記してありました。
1 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。
2
 そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」
3
 アブラムがひれ伏すと、神は語りかけた。
4
 「これがあなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。
5
 あなたの名はもはやアブラムとは呼ばれず、アブラハムがあなたの名となる。あなたを多くの国民の父とするからである。
6
 私はあなたを多くの子孫に恵まれる者とし、諸国民を興す者とする。こうして王となる者たちがあなたから出るであろう。
7
 私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである。
8
 私はあなたが身を寄せている地、カナンの全土を、あなたとあなたに続く子孫にとこしえの所有地として与える。こうして私は彼らの神となる。」
9
 神はアブラハムに言われた。「あなたと、あなたに続く子孫は、代々にわたって私の契約を守らなければならない。
10
 私とあなたがた、およびあなたに続く子孫との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたがたのうちの男子は皆、割礼を受けなければならない。
11
 包皮に割礼を施しなさい。これが私とあなたがたとの間の契約のしるしとなる
12
 あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後八日目に割礼を受ける。家で生まれた者、また、あなたの子孫ではないが、外国人から銀で買い取ったすべての者がそうである。
13
 あなたの家で生まれた者、またあなたが銀で買い取った者は必ず割礼を受けなければならない。私の契約は、あなたがたの体に記された永遠の契約となる。
14
 包皮に割礼を施さない無割礼の男子、その者は民の中から絶たれる。その者は私の契約を破ったからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ルカ221には、次のような記事が記されています。
“八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 創世記1710.12に、“私とあなたがた、およびあなたに続く子孫との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたがたのうちの男子は皆、割礼を受けなければならない。あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後八日目に割礼を受ける。家で生まれた者、また、あなたの子孫ではないが、外国人から銀で買い取ったすべての者がそうである。”と記されているように、主なる神様は、アブラハム及びアブラハムの子孫とアブラハムが買い取ったすべての男子の生殖器の包皮に割礼を施すことを契約の一つとしました。

 モーセは、息子に割礼を施していませんでした。モーセの妻が異邦人であったせいかもしれません。主なる神様は、息子に割礼を施していないという理由でモーセを殺そうとした場面が出エジプト記4章に次のように記されています。
24 さて、その途中、宿泊地でのことであった。主はモーセと出会い、彼を殺そうとした。
25
 ツィポラは火打ち石を取って、その息子の包皮を切り、それをモーセの両足に付けて言った。「私にとってあなたは血の花婿です。」
26
 すると主はモーセを放された。彼女はその時、割礼のゆえに「血の花婿だ」と言ったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 少し脱線しますが、主なる神様は、契約を極めて重んじる神様でもあります。
それ故、1ヨハネ19の、“私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正〔不義(2017)〕から清めてくださいます。”(聖書協会共同訳)という聖句は、キリストによる血の契約と神の義に基づいていることがわかります。
主なる神様がこの聖句を破ったら、主なる神様は義ではない、ということになってしまうのです。
私たちの罪の赦しの確かさは、主の愛に基づくだけではなく主の義にも基づくものです。

 本論に戻りますが、肉体の割礼の本体は、心の割礼であるということを、申命記1016は教えてくれています。更にローマ229に行くと、“内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊〔神の霊(筆者挿入)御霊(新改訳)〕によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
心の割礼には男女の区別はありません。
心に割礼を受けていない心は、主なる神様の御言葉に鈍感です。

 心に割礼を受けると、心が神様の御言葉に対して鋭敏(えいびん)になるのです。
聖い歩みは、心の割礼と切っても切れない関係にあります。
神の霊によって心の割礼を行っていただかないと、申命記1012に記されている、「私たちの神である主を畏れ敬い、主の道をいつも歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕える」生き方、すなわち聖い生き方をすることが出来ないのです。

 私の想像ですが、キリストの12弟子の一人であるナタナエルは心に割礼を受けていた人であったのかもしれません。
ヨハネ1章に次のように記されているからです。
47 イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だこの人には偽りがない。」
48
 ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49
 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50
 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」
51
 さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様のナタナエルに対する評価(47)、ナタナエルのイエス様に対する霊的洞察力(49)、ローマ229の聖句等から、ナタナエルという弟子は心の割礼を受けていた人であったのではないだろうかと思うのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたのみ旨に従った歩みをし続けていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 9日 (日)

マタイ19:30-20:16 褒賞が与えられる順番

                       ハレルヤ! イースター


 イースターメッセージとは関係なく、今までの聖書の順に従っています。
 
 マタイ19302016には次のように記されています。
19:30 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
20:1
 〔「というのは」(筆者挿入)〕天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。
2
 彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
3
 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、4 『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。
5
 それで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。
6
 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。
7
 彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。
8
 夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』
9
 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。
11
 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12
 『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』
13
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。
14
 自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』
16
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 以前に、トミーの聖書理解でこの個所の注解を書いたとき(201615日)には、次のように記しました。
“このたとえ話は、教会時代を想定して解説される場合が多いようですが、私は、もう少し長い期間を考えた方が良いのではないかと思うのです。即ち、最初の者とはイスラエルの人たち、最後の者たちとは異邦人の人たち、という理解の仕方です。

多くの最初の者たちは最後になる。即ち、少しの最初の者たちは最初の者となるのです。

最初に神の国に入った者はイスラエル人(イスラエル人の祖先も含む)です。初代教会時代には、ある程度のイスラエル人が救われました。しかし、その後は異邦人伝道がなされ、異邦人が次々と救われていったのです。

マタイ1930の岩波訳は、「しかし、最初の者の多くが最後の者となり、最後の者〔の多く〕が最初の者となるであろう。」と記されています。

「この御国の福音は全世界にのべ伝えられて、すべての国民にあかしされ」(マタイ2414・新改訳)、更に、「異邦人の完成のなる時」(ローマ1125・新改訳)という記述があり、その後イスラエル人がまとめて救われていくのです。

ローマ1125-29には、
25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
28
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
29
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(新共同訳)と記されています。”
以上は201615日に、トミーの聖書理解にupしたものです。

 今回は別の捉え方をしたものを記していきたいと思います。 
20
1の上記の翻訳には訳出されていないギリシア語聖書の原語に「ガル」という単語があります。「ガル」は接続詞で、そして、しかし、それ故、何故なら、というのは、・・・等の意があります。
それ故、1節の冒頭に、筆者挿入として、「というのは」を入れました。

 マタイ201-16は、その前のマタイ1927-30を受けていると考えて書き進めます。

 ペテロは、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」(マタイ1927)とイエス様に質問しました。

 その質問に対するイエス様のお答えは次のようなものでした。
「よく言っておく〔「よく」と訳されている語の原語は「アーメン」で、「よく言っておく」とは、「真実をあなたがたに告げておく」ということになるでしょう(筆者挿入)〕。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。29 また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(28-30)と記されています。

 そして、マタイ1930の、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」というイエス様の御言葉は、ブドウ園の労働者の譬えの最後の節のマタイ2016において、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」というお言葉で終わるのです。

 また、マタイ1928の、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。」という主イエス様の御言葉からすると、これは、キリストの千年王国時代の始まりのときのことです。

 これらのことを考え合わせると、ブドウ園の労働者とは、新生したキリスト者のことであり、ブドウ園に呼ばれた時間は、新約時代において、救われた年代の違いであると考えることが可能です。
そのような捉え方をすると、キリストの千年王国における報酬は、この世の終わりの方に救われた人たちから始まるということになるのではないかと考えられます。

 報酬のための裁きは、2コリント510に、“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行い〔体を住みかとしていたときに行った仕業(聖書協会共同訳)〕に応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)と記されています。
それ故、パウロは、2コリント59において、「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(新共同訳)と語っているのでしょう。

 主のために、一生懸命働いてきた人たちは、ペテロと同じように、「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」(マタイ19272017)というかもしれません。

 しかし、救い主は、イエス様であり、報酬の与え主も主キリスト・イエス様なのです。
罪の性質(単数形の「罪」)をもって生まれてきた人間は、様々な罪を犯していき(ローマ512)、その結果、火の池に投げ込まれる存在の者であった(黙示録2012.15)のです。
そのような者であったのに、神の恵みによって、主イエス様の十字架の恵みと与えられた信仰によって救われた存在、それがキリスト者です(エペソ28参照)。
いつの間にか、自分は、あれこれのことをしたのだから、これだけのものをもらって当然ではないか、と錯覚するようになっていくのです。

 イエス様は次のように言われます。
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。」(マタイ2013-15・聖書協会共同訳)と。

人間であればだれでも「妬み」を持ち易いものですが、妬みは地に属し、肉に属し、悪霊に属するもの(ヤコブ3:15・新改訳第三版)であり、一方、神の王国は「聖」なる王国であり、そこには肉に属する妬みはありません。

 神の王国は、神を王とする、神が主権を持っている国家です。民主主義国家ではありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつもあなたを愛し、あなたに与えられたご奉仕を喜びと低き心をもって、あなたに在ってさせていただく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 8日 (土)

箴言22:5 主の教えに背く道/広い道と狭い道

 箴言225を、
2017
は、“曲がった者の道には茨と罠がある。たましい〔原語は「ネフェシュ」(筆者挿入)〕を守る者はこれらから遠く離れる。”と訳し、
リビングバイブルは、“神の教えに背く者の道には、危険な罠が待ち受けています。自分をたいせつにする人は、決してそこに近寄りません。”と意訳しています。

 主イエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713.142017)と語られました。

 門に関連して、主イエス様は次のように語られました。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。・・・。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。・・・。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」(ヨハネ109-18抜粋・2017)と記されています。

 御父が主イエス様に与えられた羊について、主イエス様は次のように語られました。
「・・・。わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネ1025-30抜粋・2017)とあり、
また、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ637・新改訳第三版)と記されています。

 主イエス様は次のようにも言われました。
「わたしの後に従いたい者は〔だれでもわたしについてきたいと思うなら(口語訳)〕、自分を捨て〔自己中心の生活をやめ(リビングバイブル)〕、自分の十字架を背負って〔「自分を主にささげて」の意でしょう(筆者挿入)〕、わたしに従いなさい。
35
自分の命〔原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
36
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命〔原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を失ったら、何の得があろうか。
37
自分の命〔原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
38
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ834-38新共同訳)と記されています。

 また主イエス様は、次のようにも語られました。
「からだ〔原語は「ソーマ」(筆者挿入)〕を殺しても、たましい〔原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017)と記されています。

 日本語訳聖書の上記の聖句中で、「たましい」、「いのち」、と訳されている語の原語は、ヘブライ語は「ネフェシュ」、ギリシア語は「プシュケー」です。

 「キリストには代えられません」という賛美の歌詞を下記します。(新聖歌428
“1.(冒頭の折り返し部分 *)キリストには代えられません。
世の宝も また富も このお方が私に代わって死んだゆえです。
(後半の折り返し部分 **)世の楽しみよ 去れ 世の誉(ほまれ)よ 行け キリストには代えられません 世の何物(なにもの)も
2.*
有名な人になることも 人のほめる言葉も この心を引きません。
**
3.*
いかに美しいものも このお方で 心の満たされてある今は
**”

 1テモテ6章には、次のような聖句が記されています。
6 ・・・、満ち足りる心を伴った敬虔〔「信心」(新共同訳、口語訳)〕は、大きな利得の道です。
7
 私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
8
 食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。
9
 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が人を破滅と滅亡へと突き落とすのです。
10
 金銭の欲が諸悪の根源だからです。
11
 ・・・、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 心臓の調子が悪いので、おもに聖句をアップするだけにとどめます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
この世の人たちは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(1ヨハネ216・新改訳)を求めますが、私たちキリスト者は、あなたの子どもであり、あなたに喜ばれる生き方をすることを求めます。
あなたに喜ばれる生き方をし続けていくことが出来ますようにお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 7日 (金)

詩篇65:5-9 創造主は預言をも成就なさるお方であり私たちの主であり救い主

 詩篇655-9には次のように記されています。
5 幸いな者。あなたに選ばれ、あなたに近づけられ、あなたの庭に住む人。私たちはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みに満ち足ります。
6
 我らの救いの神よ。あなたは義によって、恐るべき業によって答えます。遠い海、地の果てに至るすべてが信頼する方。
7
 強い力によって山々を固く据え、大いなる力を身に帯び、8 大海のどよめき、波のどよめき、そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。
9
 世界の果てに住む者はあなたのしるしを見て畏れ、朝と夕べの始まる所に、あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳と新改訳は、4-8節となります。)

 6節の“我らの救いの神よ。あなたは義によって、恐るべき業によって答えます。”という個所を、
文語訳は、“われらが救のかみよ、なんぢは公義によりて畏るべきことをもて我儕にこたへたまはん。”と訳しています。

 詩篇8914には、“義と公正はあなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の王座の基。”(2017)と記され(聖書協会共同訳は15節)、
詩篇1117には、“御手のわざは真実と公正、そのすべての戒めは確かである。”(2017)と記されています。

 主なる神様は、愛の神様、恵みを施してくださる神様ですが、義なる神様であることを忘れることは決してできません。
主なる神様が、義なる神様であるからこそ、主イエス様が、私たちのすべての罪を身代わりに負って十字架上で裁かれてくださったのです。その結果、私たち主イエス様を信じる者に対しては、父なる神様が裁きの座に着いたとしても、主なる神様は私たちの罪を見出さないのです。{実際に裁きを行うのはキリストです(ヨハネ527)。キリスト者は、キリストがご自身の血をもって買い取られた花嫁です(エペソ532)。血はいのちです(レビ171.14、申命記1223)。}

 1ペトロ(ペテロ)2章には次のように記されています。
21 ・・・。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、・・・。
22
 「この方〔キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
25
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節には、“強い力によって山々を固く据え、大いなる力を身に帯び、8 大海のどよめき、波のどよめき・・・を鎮める方。”とあります。

 ダビデはこの箇所で、「強い力によって山々を固く据え」(7)と神様の創造の御業を賛美しています。現代人のほとんどの人は、神さまの創造の御業を認めず、物質界は自然に出来上がっていったと考える人が多いようです。嘗ての私もそのように考えていましたが、神さまの恵みにより、万物は神様が創造された故に存在していると思うことが出来るようにして頂けました。

ヘブル113に、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(新改訳2017)と記されているように、万物が神の創造によって造られたものであると悟ることが出来るのは信仰の故であることが分かります。進化論を信じる人も、創造主なる神による創造論を信じる者も、どちらも理論によって証明しようとしますが、異なる考え方の相手を納得させるように理屈によって証明しきることは難しく、結局はどちらの考えも信仰によるのです。どちらが正しいかは、肉体が死ぬか、或いは人間が支配している世が終わり、イエス様が世界を統治される時代が来れば、自ずと分かります。

8節では、神様を、「大海のどよめき、波のどよめき、・・・を鎮める方」と紹介していますが、海が荒れどよめくことも、静まることも、現代人の大多数は、すべてが自然現象であると考え、それらの現象を気象学で説明しています。聖書を読むと、イエス様が嵐を沈められた時、イエス様の弟子たちは驚嘆したのでした(マタイ823-27)。
出エジプト91826には、神様が雹を降らせたことが記されていますし、ヨシュア1011にも、神様が雹を降らせたことが記されています。
また、出エジプト1022.23には、神様が3日の間、近くの人が誰であるかを識別することが出来ないほどの暗やみをもたらしたことが記されています。
 また、エジプトで奴隷であったイスラエルの人達は、神さまが紅海の水を左右に分けて地が表れた上を歩いて渡ったのです。その時渡った人達の人数は壮年男子だけでも約60万人もいたのです。女性や子どもたち、家畜を入れたら、どれだけの人々や生きものが海の水の下にある地を歩いて渡ったことでしょうか。

様々な気象状況は、科学的に説明できるものが多いかもしれませんが、それは、神様が一定の法則をもって地球(宇宙に含まれますが)も宇宙も運行させているからでしょう。
それは聖書に記されている「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ117・新共同訳)とか、「御子は・・・その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(ヘブル13・新改訳)等のみことばによります。
主の裁きや御計画によって、天変地異も起こるし(黙示録612.13)、宇宙が崩壊することもあるのです(2ペテロ310)。宇宙が崩壊した後に新天新地が創られるのでしょうから(イザヤ6517、黙示録211)。
 また、大患難時代のことでしょうが、イザヤ24章には次のような預言が記されています。
17 地に住む者よ、恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。
18
 恐怖の叫びから逃れる者は落とし穴に落ちる。落とし穴の中から這い上がる者は罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
19
 地は裂けに裂け、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。20 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。”(聖書協会共同訳)とあります。
どのような大地震が起こるのか、想像しきれません。しかし、主の現れを待ち望んでいる(へブル928)新生したキリスト者は、この時には、すでに霊のからだをいただき、天にいるのです(コロサイ341テサロニケ416.17)。

 6.7節には、“我らの救いの神よ。あなたは義によって、恐るべき業によって答えます。・・・・。強い力によって・・・・諸国の民の騒ぎを鎮める方。”とも記されています。

 大患難時代の終わりには、主イエス様が、神の御力を現わして、主に歯向かってくる反キリスト(獣)の支配下に置かれている諸国の軍隊を一蹴します(黙示録1911-21)。しかし、その人たちの中には生き残る者もいます(ゼカリヤ1416)。

 5節には、“幸いな者。あなたに選ばれ、あなたに近づけられ、あなたの庭に住む人。私たちはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みに満ち足ります。”と記されています。
旧約時代の恵みは上記の聖句のようでした。
新約時代の恵みは、何と偉大なものでしょうか。主が偉大な恵みを与えてくださったのです。
キリスト者のからだは、聖なる宮です。
1
コリント316には、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(2017)と記され、
キリスト者は、いつでもどこでも主と交わりながら生活することが出来るのです。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
絶えず主と交わりを持ちながら歩ませていただけます恵みを感謝します。
マタイ17章の変貌山でのこと、御父は、ペテロに、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(52017)と語られました。
いつもイエス様を主と仰ぎ、主の仰せに聞きしたがって歩んでいくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 6日 (木)

申命記10:6-9 大祭司アロンの死と継承及びレビ部族の召しについて

 申命記106-9には次のように記されています。
6 イスラエルの民は、ベエロト・ベネ・ヤアカンをたち、モセロト〔モセラ(新共同訳、新改訳、口語訳)〕へ向かった。アロンはそこで死んで埋葬され、息子エルアザルが代わって祭司として仕えた。
7
 彼らはそこをたってグドゴダに向かい、さらにグドゴダから川が幾つも流れる地ヨトバタに向かった。
8
 その時、主はレビの部族を選び分け、主の契約の箱を担ぎ、主の前に立って仕え、その名によって祝福するようにされた。これは今日まで続いている。
9
 そのため、レビ人には、兄弟たちのような割り当て地や相続地がない。あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 6-9節を新改訳は、挿入句としてわかるように記しています。

 この個所をリビングバイブルは、次のように意訳しています。
6 話は飛びますが、私たちはその後ベネ・ヤアカンのベエロテからモセラに向かいました。そこでアロンが死に、葬られたので、息子エルアザルが二代目の祭司に任じられました。
7
そのあとグデゴダに行き、さらに、渓流が流れる水の豊かなヨテバタに向かいました。
8
主がレビ部族に今のような特別な務め(つと)をお与えになったのは、その時です。つまり、十戒を入れた箱をかつぎ、神様のための仕事をし、主の名によって祝福する務めです。
9
このように、主ご自身がレビ族の相続地となるので、彼らは、ほかの部族のように約束の地で相続地をもらうことはできません。”と記しています。

 6節には、“話は飛びますが、私たちはその後ベネ・ヤアカンのベエロテからモセラに向かいました。そこでアロンが死に、葬られたので、息子エルアザルが二代目の祭司に任じられました。”(リビングバイブル)とあります。

 私個人としては、6節の記述がよくわからないのです。
民数記20章には次のように記されています。
22 イスラエル人の全会衆はカデシュを旅立って、ホル山に着いた。
23
 エドムの地の国境に近いホル山で、主はモーセとアロンに言われた。
24
 「アロンは先祖の列に加えられる。私がイスラエルの人々に与えた地に、彼が入ることはない。あなたがたがメリバの水のことで私の言葉に逆らったからである。
25
 あなたはアロンとその子エルアザルを連れてホル山に登り、26 アロンから衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。」
27
 モーセは主が命じられたとおりに行った。彼らは全会衆の目の前でホル山に登った。
28
 モーセはアロンから衣を脱がせ、その子エルアザルにそれを着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルは山から下りた。
29
 全会衆はアロンが亡くなったことを悟り、イスラエルのすべての家は三十日間、アロンを悼んで泣いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 民数記33章には、出エジプト後の旅程が記されていますが、その中に、
30 ハシュモナを出発して、モセロトに宿営した。
31
 モセロトを出発して、ベネ・ヤアカンに宿営した。
32
 ベネ・ヤアカンを出発して、ホル・ギドガドに宿営した。
33
 ホル・ギドガドを出発して、ヨトバタに宿営した”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記106の個所の聖書協会共同訳の訳文と民数記3330—32の個所は矛盾しているように思えてしまいます。
聖書協会共同訳の申命記106の「モセロト」が他の日本語訳聖書の「モセラ」であるとすると、矛盾は解けます。ヘブライ語聖書は「モーセーラー」となっています。

 「モセラ」の語根かもしれませんが、「ムート」という語は、「死ぬ」の意があります。
もしも、ヘブライ語に堪能の方が読んでおられたら、このあたりのことを教えてください。

 また、ホル山の位置も地図により異なります。
というわけで、申命記106は、私にはよくわからないのでスルーします。

 8.9節には、
8 その時、主はレビの部族を選び分け、主の契約の箱を担ぎ、主の前に立って仕え、その名によって祝福するようにされた。これは今日まで続いている。
9
 そのため、レビ人には、兄弟たちのような割り当て地や相続地がない。あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 「その時」とは、出エジプト32章の出来事(金の子牛事件)の時なのでしょう。
出エジプト3225-29には次のような記事が記されています。
25 モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。
26
 そこでモーセは宿営の門のところに立ち、「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」と言った。するとレビ人は皆彼のところに集まった。
27
 そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」
28
 レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。
29
 モーセは言った。「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヤハウェ(主)は、主である神を愛する人と偶像を神とする人とをより分けます。
レビ人について、ヤハウェ(主)はモーセをとおして、「レビ人には、兄弟たちのような割り当て地や相続地がない。あなたの神、主が語られたとおり、主ご自身がその相続地だからである。」(9)と語られました。
レビ族は、主への捧げものによって、直接、主に養われるということになったのです。

 新約のキリスト者は祭司であると次のように記されています。
「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司〔「王の系統を引く祭司」(新共同訳)〕、聖なる国民、神のものとされた民です。」(1ペテロ29抜粋・2017)とあります。

 キリスト者の全員が、主への捧げものによって養われているでしょうか。
少なくとも私は、主によって養われているのだと思います。そのような意味では、主は私たちの相続地です。
 コロサイ322-24に次のような聖句があります。
22 奴隷たち〔誰かに仕えて仕事をしている人たち(筆者挿入)〕、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
23
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
24
あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。”(新共同訳)とあります。

 この世では、肉の人に仕えていると思えるような場合でも、心では、主に仕えていたら、主からその報いを受けていると考えても良いのではないかと思います。それに対して、天での報いはもちろんありますが、地上における養いも、主からのものと考えることが出来るのではないかと私は思います。個人的見解ですが。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行なう者としてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 5日 (水)

マタイ19:27-30 キリストの千年王国時代の褒章

 マタイ1927-30には次のように記されています。
27 その時、ペトロがイエスに言った。「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」
28
 イエスは一同に言われた。
「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。29 また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペトロ(ペテロ)は、イエス様に、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」と質問しました。

 イエス様は、ペテロや共にいる弟子たちに対して(マタイ1923参照)、
①キリストの千年王国時代における褒章
②この世における褒章
③褒章を受ける時間的な順序
について答えられました。

 ①キリストの千年王国時代における褒章について
「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき」とあります。
主イエス様が栄光の座に着かれる時は、キリストの地上再臨後であり、その時から地上におけるキリストの千年王国が始まるのです。

 蛇足になりますが、キリストの千年王国が終わると、現在の天地は滅び、最後の審判が行われます(黙示録2011-15)。その後は、新天新地の創造が行われ(イザヤ6517、黙示録211)、御父が永遠にわたって新天地を支配します(1コリント1528)。

 話を元に戻します。
キリストの千年王国における12弟子についての褒章について、主イエス様は、「あなたがたは、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。」と語られました。
 また脱線します。
ここには記されていませんが、イスカリオテのユダは、除外され、おそらくマッティア(マティア)が使徒とされるのだろうと思います{使徒126、箴言1633も参照}。
パウロは、自身で、“異邦人の使徒”と述べています(ローマ1113)。

 キリストの千年王国時代の中心国はイスラエルであり、イスラエル12部族の土地の分割の中に、神のひとり子の御子であり、王の王、主の主であるキリスト・イエス様がエルサレム神殿の玉座に着かれるのでしょう(エゼキエル431-7前半部分を参照)。

 大患難時代には、数十億人が死ぬと思われます(黙示録68.1487-13915.18111312161315142016211915-21、ゼカリヤ138)。

 異邦人(イスラエル人以外の人)も生き残ります(ゼカリヤ1416-19、イザヤ22-4、ミカ41-4等を参照)。
異邦人キリスト者は、異邦人を支配するのでしょう(黙示録226)。
聖書には記されていないので、私の想像ですが、国の自治の制度のような人事が行われる可能性を想像します(ルカ1917.19)。
また、艱難時代の殉教した聖徒も王として治めます(黙示録204)。
「王として治める」(新改訳)「統治する」(新共同訳)と記されています(黙示録204)が、町内会くらいの広さなのかもしれません。私の想像ですが。
12使徒は、日本でいう知事、その下に市長や村長、また町長、さらに連合町内会長、各町内会長、その下の役員、等々、役職は色々あるのでしょう。(“聖書には記されていないので、”以下は、すべて想像です。あしからず。)

 ②この世における褒章について
キリスト者になったために、親に勘当された人がいるかもしれません(昔はいました)。
イスラム圏では、殺されるかもしれないことを覚悟でキリスト者になる国の人々もいます。
しかし、地上の教会組織の中に入ると、多くの兄弟姉妹を得るのです。そしてそれは国境を越えます。余談になりますが、天に帰った後には大家族です。
経済的なことは、主のお考えによって異なることでしょう。ローマ128には、「分け与える人は惜しまずに分け与え」(2017)「施しをする人は惜しまず施し」(新共同訳)と記されていますが、これは賜物についての話の中に記されています。
最低限、衣食には困らないようにしてくださいます(1テモテ68、ピリピ419)。
日本の冬は寒いですから、住についても、主はご配慮くださるでしょう。主との交わりが豊かであるなら、聖書と聖歌や讃美歌、及び衣食住があれば文句は言わないでしょう。
中には、「私は子育て中です。」と文句を言う人がいるかもしれませんが、ピリピ419を参照してください。おそらく現代は、主が必要と思われる以上の物を、人は必要であるとしているのではないかと思います。

 ③褒章を受ける時間的な順序について
この件については、イエス様が話された「ブドウ園の主人と労働者の譬え」が参考になるでしょう。
この話は次の機会になります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちのことについて、愛をもって、計画を立ててくださっておられますからありがとうございます。
あなたを愛して、忠実にお従いすることの重要性を教えてくださっておられますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(ルカ16102017
「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(ルカ19172017

2023年4月 4日 (火)

箴言22:4 主を畏れ、へりくだる者の幸い

箴言224を、
2017
は、“へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのち。”と訳し、
新共同訳は、“主を畏れて身を低くすれば、富も名誉も命も従って来る。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“主を畏れ、謙遜であれば、富と誉れと命が付いて来る。”と訳しています。

 BIBLE navi は、この聖句に関連して次のように述べています。
“主を恐れることが富、誉れ、いのちをもたらすという一般的な意見は、特に、神を恐れる従順なイスラエル人に適用されるものであった。だが、ある人たちは若くして殉教者となり、ある人たちは神の国のためにすべての富を寄付する。箴言の書は、そうあるべき人生を描写している。例外については考えていないのだ(316.17の注を参照)。”と記しています。

 箴言316.17の注を参照、と記されていますから、そのBIBLE naviの箇所を下記します。
“箴言は、長寿、富、名誉、平安を含む、知恵の利点についての力強い言明を数多く含んでいる。もしそれらを得ていないのであれば、知恵が足りないということなのだろうか。必ずしもそうではない。この言明は、一般的な原則なのだ。完璧な世界では、賢い行動は常にこれらの利点へとつながる。私たちのこの困難な世でさえ、賢く生きることは、たいてい、明らかな祝福をもたらすが、ただし、常にそうなるとは限らない。時に罪が割込み、イエスがご自身の永遠の王国を確立するまで、いくらかの祝福を受けることが遅れてしまう。これが、「見えるものによらず、信仰によって歩」むべきことの理由である(2コリント57)。私たちは、知恵が最終的には祝福へとつながると確信できるのだ。”と述べています。

 私は次のように考えます。
イスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブと神様との間の契約を土台とし、さらに、出エジプト後に、神と契約を結んだ民であったのです(出エジプト241-12)。
イスラエルにおいては、神が王であり、すなわち支配者であり、民は地上における神の国の民でした。
神とイスラエルとの間には、祝福と呪いの契約も結ばれました(申命記2616-19279-28682910-3020)。
主なる神様は、公正な御方であり、契約を重んじる御方ですから、地上の神の王国イスラエルに対して、神様は民と結ばれた契約を守るお方であったのです。
イスラエルは、主権在神の下(もと)、歩んでいれば祝福されたのです。
今日の聖句のように、主を畏れて身を低くすれば、主なる神様が祝福してくださるので、富も名誉も命も与えられたのです。

 旧約時代でも、イスラエルが、主なる神様に従わなければ、主なる神様は、イスラエルが契約を破ったので、イスラエルに祝福を与える必要がなくなるのです。すなわちイスラエルは、呪いの状態に置かれるのです。
主なる神様の支配下以外の民に対しては、悪魔(サタン)の王国が支配しています(ルカ46)。
サタンといえども、主の許可なくして、思いのままに振舞うことは出来ません(ヨブ16-1221-7)。
イスラエルが、地上の神の国であるといえども、契約不履行のイスラエルの民に対して、神様が、サタンの申し出に対して、許可を与えれば、許可された範囲で、不幸なことが起こるのです。すなわち呪いです。
 ヨブの場合は、ヨブに落ち度があったからというよりも、神様の御経綸の下、さらにヨブを祝福するため、また、ヨブは、神様とサタンとの闘いの神様側の代表として用いられたのでした。
ヨブはイスラエル人ではありませんでしたが、主なる神様に、「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」(ヨブ182017)と言われた人でした。

 さて、新約時代(新契約時代)になって、神の国は、新契約であるキリストの十字架と復活に基づき、地上にありながら天の御国(新改訳)、天の国(新共同訳)、天国(口語訳)と日本語訳聖書で呼ばれるようになりました。それは霊的なものであったからです。
それ故、エペソ13には、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(2017)と記されています。

 この世はサタンが支配していますから殉教もあり得ます。
しかし、殉教できる人は、霊的に豊かな祝福を受けた人であり、呪われた人ではありません。
関連聖句を少しだけ下記します。
 “私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある”(1ヨハネ519抜粋・2017
 “義のために迫害されている人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのために人々があなた方をののしり、迫害し、またありとあらゆる、いわれのない悪口をあなた方に浴びせるとき、あなた方は幸いである。喜び躍れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。”(マタイ510-12・フランシスコ会訳)

 また物質的祝福についても、新契約時代は、旧契約時代とは異なります。旧契約時代のイスラエルの民は地上における神の支配、神の国であったからです。
新契約時代においては次のように記されています。
 へブル135には、“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(2017)と記され、
 ピリピ419には、“神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。”(抜粋・2017)と記され、
 イエス様は、「25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。27 あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31
 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。32 それはみな、異邦人〔新約においては、イエス様を主としておらず、サタンの配下にある人たち(筆者挿入)〕が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
33
 まず神の国〔原語には「支配」の意もあります(筆者挿入)〕と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。34 だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6章・書協会共同訳)と語られ、
 1テモテ6章には、“6 もっとも、満ち足りる心を伴った敬虔〔「信心」(口語訳、フランシスコ会訳等)〕は、大きな利得の道です。
7
 私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
8
 食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。
9
 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が人を破滅と滅亡へと突き落とすのです。”(1テモテ6章・聖書協会共同訳)と記されています。

 地上においては大患難時代の末の時期に、天上においては子羊の婚宴の儀が執り行われています。黙示録196-8には次のように記されています。
:6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。7 わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁〔天に引き上げられている教会(筆者挿入)〕は用意を整えた。8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」”(新共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
新契約時代の主を畏れ敬い、主を愛し、主に従う者には、地上に在っては、豊かな霊的祝福を賜り、天上に入れていただけた後においては、全てにおいて祝福の中に置いていただけますことを感謝します。
あなたの御名を賛美し、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 3日 (月)

詩篇65:1-5 幸いなるかな。あなたに選ばれた者。

 詩篇651-5には次のように記されています。
1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。歌。
2
 シオンにいます神よ、あなたには沈黙も賛美。あなたへの誓いが果たされますように。
3
 祈りを聞いてくださる方よ、すべての肉なる者はあなたのもとに来ます。
4
 数々の過ちが私を責めたてます。私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。
5
 幸いな者。あなたに選ばれ、あなたに近づけられ、あなたの庭に住む人。私たちはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みに満ち足ります。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳と新改訳は表題から4節までとなります。)

 2節の前半部分は様々に訳すことが可能なので、色々に訳されています。
聖書協会共同訳は、“シオンにいます神よ、あなたには沈黙も賛美。”と訳し、
新改訳2017は、“神よ、御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“神よ、シオンにおいて、あなたを賛美するのはふさわしいことです。”と訳し、
口語訳は、“神よ、シオンにて、あなたをほめたたえることは、ふさわしいことである。”と訳し、
文語訳は、“ああ神よさんびはシオンにて汝をまつ”と訳し、
リビングバイブルは、“ああ、シオンに住む神。私たちは賛美を内に秘めながら、あなたを待っています。”と訳しています。

 「沈黙」(聖書協会共同訳)、「静けさ」(新改訳)、「ふさわしい」(フランシスコ会訳、口語訳)、「待つ」(文語訳)、「内に秘めながら待つ」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ドゥーミヤー」で、Strong辞書には、stillness; adverbially silently; abstractly quiet, trust: - silence, silent, waiteth,と記されています。
原義は、stillnessで、静けさ、静寂、沈黙、・・等の意があります。
また、adverbially(副詞として)silently、すなわち、音もなく、静かに、無言で、・・等の意があります。
また、abstractly(抽象的にor観念的に) quiet、すなわち、静かな、静寂な、・・・等の意があります。
また、trust、すなわち、信用、信頼、期待、確信、・・・・等の意があります。
また、waitethは中世の英語で、NIV訳では、await と訳しています。すなわち、待つ、です。
ヘブライ語原語の意味を知ると、諸日本語訳聖書の様々な訳し方の理由がわかります。

 私の想像ですが、ダビデがこの詩を書いた時、地上における主の宮には、静けさがあったのではないかと思います。
天のシオンは、静かとは言えない可能性があります。
イザヤ61-4には次のように記されています。
1 ウジヤ王が死んだ年、私は、高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た。その衣の裾は聖所を満たしていた。
2
 上の方にはセラフィムが控えていて、それぞれ六つの翼を持ち、二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛んでいた。
3
 そして互いに呼び交わして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
4
 その呼びかける声によって敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここまでの文章は前置きです。
2節後半部分には、“あなたへの誓いが果たされますように。”とあります。
私は、私の主であるイエス様が、「決して誓ってはいけません。」(マタイ5342017)と教えてくださったので、御父に誓うことはしません。ひたすらお願いしたり、委ねることにしています。もし、「御心がなりますように。」と祈ったとしたら、その結果を受け入れます。御父は、全能にして全き愛のお方ですから。
この世的にみると、私はいくつもの災いを受けました。
しかし、その結果は、後に、みな良いものでした。
御父には、永遠から永遠までの御計画があるのだと思っています。

 4節には、“数々の過ちが私を責めたてます。私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。”とあります。
ダビデがこの詩を書いたのは、バテ・シェバ(バト・シェバ)事件{2サムエル11章}の後のことであったのかもしれません。
ダビデが記した4節は、貪欲と姦淫と殺人の罪を犯したことに関係しているのかもしれません。
殺人の罪、と書いたのは、神様の観点からです。日本では、殺人教唆の罪となるのでしょうか?私は法律を学んだことがないのでよくわかりませんが。

 アダムの末裔である私たちは、生まれながらに罪{(単数形);罪の(を犯す)性質}をもって生まれてきています{ローマ512、詩篇515(新改訳等、聖書協会共同訳等は7節)。
旧約時代は、救い主イエス・キリスト様の贖いがまだ成就していない時代であったので、罪のための捧げものを献げ、罪を告白して、罪は覆われたのです。
罪のためのいけにえの動物の頭に手を置いて自分の罪を告白し、いけにえの動物が代わりに罰を受けたのでした。

 新約時代になるとどうなったのでしょう。
へブル(ヘブライ)10章には次のように記されています。
1 律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。ですから、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできないのです。
2
 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた以上、もはや罪の自覚がなくなるのですから、献げ物をすることは中止されたはずです。
3
 ところが実際は、いけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。
4
 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り去ることができないからです。
5
 それで、キリストは世に来て、次のように言われたのです。
「いけにえも供え物も、あなたは望まず、私のために、体を備えてくださった。6 焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも、あなたは喜ばれなかった。7 その時、私は言いました。『御覧ください。私は来ました。巻物の書に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
8
 初めに、こう言われました。「いけにえや供え物、焼き尽くすいけにえや清めのいけにえを、あなたは望まず、喜ばれなかった。」これらは、律法に従って献げられるものです。
9
 次に、こう言われました。「御覧ください。私は来ました。御心を行うために。」第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。
10
 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者の罪は覆われたのではなく、赦されたのです。
キリスト者の魂は、救われています(1ペテロ18.9)。
キリスト者の霊は、神から生まれたのです{新生(1ペテロ13、ヨハネ33.6)}。
(ヨハネ36の訳は、新改訳と文語訳以外の訳を読んでみてください。例えば、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、口語訳等)
神様のご計画では、罪を宿している肉体は、キリストの現われの時(キリストの空中再臨の時)に、霊のからだに変えてくださるということになっているのです。すでに天に帰っている霊も同様の時に霊のからだを与えられます。霊のからだは聖くて美しく堅固です。

 5節には、“幸いな者。あなたに選ばれ、あなたに近づけられ、あなたの庭に住む人。私たちはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みに満ち足ります。”とあります。
私たちキリスト者に対して、主はパウロに次のように記させました。
“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。”(エフェソ14・新共同訳)
:29 これまで、誰もわが身を憎んだ者はいません。かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
30
 私たちはキリストの体の一部なのです。
31
 「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」
32
 この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。”(エフェソ5章・聖書協会共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの限りない愛をほめたたえます。
どのように感謝したらよいのかわからない程、恵みの上に恵みを増し加えてくださっておられますことを感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年4月 2日 (日)

申命記10:1-5 契約の箱と十戒(十の言葉)の板/神のことばの内住

 申命記101-5には次のように記されています。
1 その時、主は私に言われた。
「前のような二枚の石の板を切り出し、山に登って私のもとまで来なさい。また、木の箱も作りなさい。2 私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記す。あなたはそれを箱に納めなさい。」
3
 そこで、私はアカシヤの木の箱を作り、前のような二枚の石の板を切り出し、それを手に携(たずさ)えて山に登った。
4
 あの集会の日に山で火の中から主があなたがたに語られた十戒と同じものを、主は板に記して、私に与えられた。
5
 私は身を翻(ひるがえ)して山を下り、作っておいた箱にその板を納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節の、「前のよう・・」とあるのは、出エジプト記24章に次のように記されている箇所です(思い出しのために少し余分に記します)。
9 さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に登って行って、10 イスラエルの神を仰ぎ見た。
その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。
11
 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。
12
 主は、モーセに言われた。
山に登り、私のもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける。」
13
 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。
14
 モーセは長老たちに言った。
「私たちがあなたがたのところに帰るまで、この場所で待ちなさい。ここに、アロンとフルがあなたがたと共にいる。 訴えのある者は誰でも、彼らのところに行きなさい。」
15
 こうしてモーセが山に登ると、雲が山を覆った。
16
 主の栄光がシナイ山に宿り、雲は六日間山を覆った。七日目に主が雲の中からモーセに呼びかけられた。
17
 主の栄光は、イスラエルの人々の目には山の頂を焼く火のように見えた。
18
 そこで、モーセは雲の中に入り、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 その後、金の子牛事件があり、モーセは主なる神様からいただいた二枚の石の板を砕いてしまいました。
出エジプト記32章には次のように記されています。
1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民はアロンのもとに集まって言った。
「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」
2
 アロンは彼らに言った。
「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」
3
 すると民は皆、耳にある金の輪を外し、アロンのところに持って来た。
4
 アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。
すると彼らは、
「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。
5
 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言した。
6
 彼らは翌朝早く起き、焼き尽くすいけにえを献げ、会食のいけにえを献げた。民は、座っては食べて飲み、立っては戯れた。/
15
 モーセは身を翻(ひるがえ)して山を下りた。その手には二枚の証しの板があった。板には文字が書かれており、表にも裏にも両面に文字が書かれていた。
16
 その板は神の作、文字は神の文字で板に彫られていた
17
 ヨシュアは民のざわめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言った。
18
 しかしモーセは、「私が聞いている声は、勝利の雄たけびでも、敗北の嘆きの声でもない。私が聞いているのは歌声である」と言った。
19
 宿営に近づくと、子牛の像と踊りが目に入った。
そこで、モーセの怒りは燃え、手にしていた板を投げつけ、山の麓で打ち砕いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記101-4の個所の出来事は、出エジプト記34章に次のように記されています。
1 主はモーセに言われた。
前のような二枚の石の板を切り出しなさい。そうすれば、私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記そう
2
 明日の朝までに板を準備し、朝、シナイ山に登り、山の頂上で私の前に立ちなさい。
3
 誰もあなたと共に登ってはならず、誰も山のどこにも姿を見せてはならない。羊も牛もこの山の麓で放牧してはならない。」
4
 そこでモーセは、前のような二枚の石の板を切り出し、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。
5
 すると主は雲に包まれて降り、彼と共にそこに立って、主の名によって宣言された。
6
 主は彼の前を通り過ぎて、宣言された。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、憐れみ深く、恵みに満ちた神〔原語は「エル」で単数形(筆者挿入)〕。怒るに遅く、慈しみとまことに富み7 幾千代にわたって慈しみ〔原語は「ヘセド」、恵みの意もあります(筆者挿入)〕を守り、過ちと背きと罪とを赦す方。しかし、罰せずにおくことは決してなく、父の罪を子や孫に、さらに、三代、四代までも問う方。」
8
 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。/
28
 モーセはそこに、四十日四十夜主と共にいて、パンも食べず、水も飲まなかった。彼は、板の上に契約の言葉、十の言葉〔十戒(筆者挿入)〕を書き記した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 そして、申命記105の、“私は身を翻して山を下り、作っておいた箱にその板を納めた”と続くのでしょう。

 新約の時代、新生したキリスト者は、更に大いなる恵みをいただいています。
2
コリント33には、“・・、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。”(口語訳)と記されています。

 旧約の時代は、契約の箱の中に「十の言葉(十戒)」を入れ、契約の箱を至聖所に置きました。
新約の時代は、神の言葉が新生した人の心の中に書かれるのです。
心の中でも、とりわけ霊の中であろうと私は考えています。
幕屋の構造と対比すると、至聖所に相当するのは、新生された霊であり、魂は聖所、肉体は庭であると思えるからです。
余談になりますが、そのように考えると、パウロの次の告白が明確になるように思います。
18 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
19
 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
20
 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪〔原語は「ハマルティア」で単数形(筆者挿入)〕なのです。
21
 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
22
 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、23 私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。」(ローマ7章・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主に在る人は、霊において、主と結ばれていることを感謝します。
そのような大いなる恵みを与えてくださいましたあなたを崇めます。
益々、主を愛し、喜びをもって主にお仕えしていく者とならせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1はじめに、ことばがいた。ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。2この方は、はじめに神のもとにいた。/
14
ことばは肉〔なる人(訳者挿入)〕となって、われわれの間〔原語は「エン」で「in」とも訳せます。(筆者挿入)〕に幕屋を張った。”(ヨハネ1章・岩波訳)
そして主のご復活後は、「私たちの中に住まわれたのです。」(コロサイ1271コリント617

2023年4月 1日 (土)

マタイ19:23-26 人は自分の何かの能力や善行で天の王国に入ることは出来ない/人を天の王国に入れることの出来るお方は主なる神です

 マタイ1923-26には次のように記されています。
23 イエスは弟子たちに言われた。
「よく言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」
25
 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、誰が救われることができるのでしょう」と言った。
26
 イエスは彼らを見つめて、「それは人にはできないが、神には何でもできる」と言われた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は先ず、「よく言っておく〔原語は2語で、「アーメン レゴー」(筆者挿入)〕。金持ちが天の国に入るのは難しい。」と語られました。
旧約(旧契約)時代の祝福は物質的な面(地的なもの)が大きかったように思えます(申命記281-14)。新約(新契約)時代の祝福は霊的なものが第一です(エペソ13)。
古い皮袋(かわぶくろ)から新しい皮袋に変わったのです(マタイ917)。

 イエス様が地上におられた時は、古い皮袋から新しい皮袋へ変わる転換期でした。
旧契約では、金持ちになれたのは、神様から祝福されていたからでした(申命記284.5.8.12)。中には、強奪によって金持ちになった人もいたことでしょうが。そのような人は主から罰を受けたでしょう。
 金持ちは、金の力を知っています。地上のことは、金の力で相当範囲のことをカバーできるでしょう。
しかし、金持ちは金に頼るので、主イエス様は、「金持ちが天の国に入るのは難しい。24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」と語られたのでしょう。
ラクダを、針の穴に入らせることの出来る人はいません。
冗談をまじえて書きますが、ラクダでも入れるような大きな針の穴を持つ針を造って、ラクダを針の穴を通すことが出来た、と答える人が現れるかもしれません。しかし、ここでいう針は、裁縫に使われるような針のことでしょう。

 結局、金持ちは「天の国(王国)」に入ることは出来ないと、イエス様は言いました。
では、貧乏人ならば天の王国に入れるのでしょうか。
やはり入れないのです。
人は、新しく生まれなければ、天の王国である神の国に入ることは出来ないのです

 その件に関しては、主イエス様とニコデモとの会話からよくわかります。ヨハネ3章には次のように記されています。
1 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者〔別訳「議員」(欄外注)〕であった。
2
 この人が、夜イエスのもとに来て言った。
「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
3
 イエスは答えて言われた。
「よくよく言っておく〔原語は3語で「アーメン アーメン レゴー」です。(筆者挿入)〕。人は、新たに〔別訳「上から」(欄外注)。原語「アノーセン」には両方の意があります。(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4
 ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
5
 イエスはお答えになった。
「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風〔原語は「プニューマ」で、風、霊、etc.の意があります。(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」”(聖書協会共同訳)とあります

 8節に、「風〔原語は「プニューマ」で、風、霊、etc.の意があります。(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」とあります。
1
コリント123の後半部分には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。
聖霊なる神は、神のみ旨のままに働かれるのです。

 6節には、「〔ギリシア語聖書は「霊」(筆者挿入)。新改訳は「御霊」と意訳(筆者挿入)〕から生まれたものは霊である。」とあります。
1ペテロ13の後半部分には、“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)とあります。

 ローマ109には、“・・自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”(口語訳)としるされていますが、このように信じる信仰は、肉(肉の両親)から生まれた肉の能力で言えるものではありません。その信仰は霊である神から来るのです。
エペソ28には、“事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物〔神の贈り物(筆者挿入)〕です。”(新共同)と記されています。
この聖句をリビングバイブルは、“あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)なのです。”と意訳しています。
主イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ772017)と語られました。
自分で分かっているかどうかは別にして、イエス・キリストによる救いを求めたので、イエスは霊によって、イエス様を信じる信仰を与えてくださったのでしょう。

 神の国(王国)に入ることは、肉である人間にはできないが、神にはできる。とイエス様は語られたのでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを求めさせてくださり、主イエス様を信じる信仰を与えてくださり、私のような者をも救ってくださいましたことを感謝します。
イエス様の贖いにより、罪の重荷は払われ、イエス様のご復活により新生の恵みにあずからせていただきました。
ヨハネ1126にあるように、「・・生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。・・。」(2017)と語られたイエス様の御言葉を、私の上にも成就してくださいましたことを感謝します。
御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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