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2023年4月 9日 (日)

マタイ19:30-20:16 褒賞が与えられる順番

                       ハレルヤ! イースター


 イースターメッセージとは関係なく、今までの聖書の順に従っています。
 
 マタイ19302016には次のように記されています。
19:30 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。
20:1
 〔「というのは」(筆者挿入)〕天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。
2
 彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
3
 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場で立っている人々がいたので、4 『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。
5
 それで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。
6
 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。
7
 彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と言った。
8
 夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』
9
 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。
11
 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12
 『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』
13
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。
14
 自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。』
16
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 以前に、トミーの聖書理解でこの個所の注解を書いたとき(201615日)には、次のように記しました。
“このたとえ話は、教会時代を想定して解説される場合が多いようですが、私は、もう少し長い期間を考えた方が良いのではないかと思うのです。即ち、最初の者とはイスラエルの人たち、最後の者たちとは異邦人の人たち、という理解の仕方です。

多くの最初の者たちは最後になる。即ち、少しの最初の者たちは最初の者となるのです。

最初に神の国に入った者はイスラエル人(イスラエル人の祖先も含む)です。初代教会時代には、ある程度のイスラエル人が救われました。しかし、その後は異邦人伝道がなされ、異邦人が次々と救われていったのです。

マタイ1930の岩波訳は、「しかし、最初の者の多くが最後の者となり、最後の者〔の多く〕が最初の者となるであろう。」と記されています。

「この御国の福音は全世界にのべ伝えられて、すべての国民にあかしされ」(マタイ2414・新改訳)、更に、「異邦人の完成のなる時」(ローマ1125・新改訳)という記述があり、その後イスラエル人がまとめて救われていくのです。

ローマ1125-29には、
25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
28
福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
29
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(新共同訳)と記されています。”
以上は201615日に、トミーの聖書理解にupしたものです。

 今回は別の捉え方をしたものを記していきたいと思います。 
20
1の上記の翻訳には訳出されていないギリシア語聖書の原語に「ガル」という単語があります。「ガル」は接続詞で、そして、しかし、それ故、何故なら、というのは、・・・等の意があります。
それ故、1節の冒頭に、筆者挿入として、「というのは」を入れました。

 マタイ201-16は、その前のマタイ1927-30を受けていると考えて書き進めます。

 ペテロは、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」(マタイ1927)とイエス様に質問しました。

 その質問に対するイエス様のお答えは次のようなものでした。
「よく言っておく〔「よく」と訳されている語の原語は「アーメン」で、「よく言っておく」とは、「真実をあなたがたに告げておく」ということになるでしょう(筆者挿入)〕。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。29 また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(28-30)と記されています。

 そして、マタイ1930の、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」というイエス様の御言葉は、ブドウ園の労働者の譬えの最後の節のマタイ2016において、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」というお言葉で終わるのです。

 また、マタイ1928の、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。」という主イエス様の御言葉からすると、これは、キリストの千年王国時代の始まりのときのことです。

 これらのことを考え合わせると、ブドウ園の労働者とは、新生したキリスト者のことであり、ブドウ園に呼ばれた時間は、新約時代において、救われた年代の違いであると考えることが可能です。
そのような捉え方をすると、キリストの千年王国における報酬は、この世の終わりの方に救われた人たちから始まるということになるのではないかと考えられます。

 報酬のための裁きは、2コリント510に、“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行い〔体を住みかとしていたときに行った仕業(聖書協会共同訳)〕に応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)と記されています。
それ故、パウロは、2コリント59において、「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(新共同訳)と語っているのでしょう。

 主のために、一生懸命働いてきた人たちは、ペテロと同じように、「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」(マタイ19272017)というかもしれません。

 しかし、救い主は、イエス様であり、報酬の与え主も主キリスト・イエス様なのです。
罪の性質(単数形の「罪」)をもって生まれてきた人間は、様々な罪を犯していき(ローマ512)、その結果、火の池に投げ込まれる存在の者であった(黙示録2012.15)のです。
そのような者であったのに、神の恵みによって、主イエス様の十字架の恵みと与えられた信仰によって救われた存在、それがキリスト者です(エペソ28参照)。
いつの間にか、自分は、あれこれのことをしたのだから、これだけのものをもらって当然ではないか、と錯覚するようになっていくのです。

 イエス様は次のように言われます。
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。」(マタイ2013-15・聖書協会共同訳)と。

人間であればだれでも「妬み」を持ち易いものですが、妬みは地に属し、肉に属し、悪霊に属するもの(ヤコブ3:15・新改訳第三版)であり、一方、神の王国は「聖」なる王国であり、そこには肉に属する妬みはありません。

 神の王国は、神を王とする、神が主権を持っている国家です。民主主義国家ではありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつもあなたを愛し、あなたに与えられたご奉仕を喜びと低き心をもって、あなたに在ってさせていただく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

happy Easter‼︎

〝多くの最初の者たちは最後になる。即ち、少しの最初の者たちは最初の者となるのです。〟
少しの最初の者は最後となるのではないのかな?と思いましたが、まだまだ理解が浅いです。

「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と思うと、業績のようなものを積み上げたくなりますが、主が喜ばれるのは愛ですものね。何時も、どんな事にも愛を持ってゆくことができます様にと祈る日々です。
錯覚も、地のものですね。この世には沢山の悪が潜んでいる事を知ります。その悪に陥らないように。他者に囚われがちですが、常に主の方を見て地上生活を送ってゆきたいと改めて思います。
主のご復活おめでとうございます。

アーメン。
アーメン。
ハレルヤ!

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