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2023年4月21日 (金)

マタイ21:1-11 平和の王の到来/主イエス様を迎える様々な人

 マタイ211-11には次のように記されています。
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。
「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。
3
 もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4
 それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
5
 「シオンの娘に告げよ〔「エルサレムに告げよ」の意(筆者挿入)〕。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。
8
 大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9
 群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高き所にホサナ。」
10
 イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11
 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節の“預言者を通して言われたことが実現するためであった。”という内容は5節に記されていますがこれは、預言者ゼカリヤが、ヤハウェ(主)から受けた託宣でした。

 ゼカリヤ9章には次のように記されています。
1 託宣。/
9
 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る、雌ろばの子、子ろばに乗って。
10
 私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ゼカリヤ99の預言は、棕櫚の日曜日(主日)と言われる日に成就した預言です。
ゼカリヤ910は、キリストの地上再臨からキリストの千年王国時代の最初の頃に成就します。

 群衆は、「ダビデの子にホサナ。」(9)と叫んでいましたが、「ダビデの子」とは、この時代、メシアの称号でした。

 「ダビデの子」の解説について、聖書辞典は、次のように述べています。
“イスラエル人が捕囚によって異民族の支配を受けるようになってから、理想の王であるダビデの子孫がメシアとして現れ、イスラエルに勝利を与えることを強く待望するようになった(ヨハネ7:42)。それは神が約束されていたことでもあった(サム7:12‐13,イザ9:7,エゼ34:23‐24)。「ダビデの子」はメシアの称号であり、聖書はイエスがダビデの子孫であることを明確に記している(マタ1:1,ルカ3:31,ローマ1:3)。しかし、この称号は多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなった。だが一方では、真に霊的な王なる方を待望している人々もいた(参照ルカ1:68‐79,2:25‐38)。イエスは御自分でこの称号は用いられなかったが(マコ12:35‐37)、人がそう呼ぶことは容認された(マタ21:9‐16,マコ10:47)。”と記しています。

 棕櫚の主日(日曜日)の一週間後は、キリストの復活の日です。
その前の金曜日には、キリストの受難(十字架)がありました。

 聖書辞典に、
“「ダビデの子」はメシアの称号であり、聖書はイエスがダビデの子孫であることを明確に記している(マタ1:1,ルカ3:31,ローマ1:3)。しかし、この称号は多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなった。”
と記されていますが、棕櫚の日曜日は、キリストの十字架と復活の前であり、まだ新約(新契約)時代には入っていなかったのです。
ですから聖霊が臨んでこのことに関する真理を教えられた人以外の人は、「ダビデの子」すなわちメシアを、イスラエルをローマから独立させてくれる方と捉えていたことでしょう。
そのような人たちは、イエス・キリストが逮捕されるとガッカリしたことでしょう。そして、彼らの中には、怒りへと変化した人も多かったことでしょう。自分の思いが裏切られたのですから。
そのような人たちの中には、「十字架につけろ」、「十字架につけろ」と叫んだ人たちもいたことでしょう(マタイ2722.23)。
イエス様の弟子たちは、イエス様が捕縛された時には皆つまずいたのです(マタイ2631-3569-75)。そして、主イエス様の復活の後になってもしばらくの間は怯えていました(ヨハネ201926)。

 棕櫚の日の話ではありませんが、聖霊に満たされて預言したバプテスマのヨハネの父ザカリヤは、次の様に述べています。
「幼子〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」(ルカ1776-79・聖書協会共同訳)とザカリヤの預言が記されています。

 また聖霊の臨在があり、聖霊に導かれて語ったシメオンは、次のように語りました。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ229-32・聖書協会共同訳)と記されています。

 イエス様が肉体においては誕生以前であったり、赤子であったとき、聖霊によって預言したザカリヤとシメオンは、霊的な預言を述べています。

 結局、主イエス様が、霊の王国の救い主であり王であるということは聖霊によらなければわからなかったのでしょう。

 現代でも、礼拝には様々な人が集いますが、心にある思いは様々です。
自分の利得を求めて集っている人もいれば、主を賛美し、主のみ旨を聞き、主に感謝するために集っている人もいるでしょう。中には、人に連れてこられて、いやいやながらも席に座っているという人もいるかもしれません。戦時中には、説教者等を逮捕するために説教を聞いていた人もいました。

 イエス様は次のように語っておられます。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風〔原語は「プニューマ」で、風の他、霊の意味もあります(筆者挿入)〕は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」{ヨハネ33.5.6-8(一部抜粋)・聖書協会共同訳}と記されています。

 1コリント123には、“ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。”(新共同訳)と記されています。

 イエス様が復活され、五旬節の日に聖霊が下るまでは、イエス様を主であると信じていたとしても、霊的な意味なのか、地上的な意味なのか、すなわち神様の時に関するご計画を知らなければ、一般群衆のようであっても仕方のないことであったのでしょう。
弟子たちでさえ、五旬節前には、復活された主キリスト・イエス様に対して、「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」(使徒162017)と聞いているのですから。

 “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”{伝道者(コヘレト)312017

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みによって、イエス様が救い主であり、主であると悟らせて頂けた恵みを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖なる我らの主」(聖歌479 聖歌総合版496 新聖歌24
“1.聖なる我らの主 ほめまつれ 拝しまつれ 救いを受けし者 み子とせられし者 海原は手をたたき 山々皆踊る
(折り返し) * 聖なる我らの主 歌え 喜びもて
2.くすしく妙なる主 証しせよ 言い広めよ 御業は大いなり くらぶるものあらじ 天使たちは声合わせ 聖徒たちはひれ伏す

3.世界の王なる主 祝わまし 歌わまし 御国に帰りなば いよいよ高らかに 白妙(しろたえ)の衣(きぬ)まとい 棕櫚の葉を手に取り
*”

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コメント

既に記されていることに関して信じるという事と、未知のことに関して信じる事の違いを思いました。
信仰を持ちはじめの頃に思っていた事と、学び始めてからでは異なる様に…。
伝3:1をまさに思います。
イエス様が救い主であるということを信じる事ができて心から感謝します。

ハレルヤ!

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