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2023年4月17日 (月)

マタイ20:29-34 二人の盲人の癒し/真理を見る(悟る)ことの出来る人とできない人

 マタイ2029-34には次のように記されています。
29 一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。
30
 すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
31
 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
32
 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、
「何をしてほしいのか」と言われた。
33
 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
34
 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ2017-19には、主イエス様が、ご自身の死と復活について3度目の預言をされたことが記されていました。
その直後に、ヤコブとヨハネの母がイエス様にとんでもないお願いをしたのです。その願いによって、他の弟子たちの肉性もあらわになりました。(マタイ2020-24)。

 主イエス様は、偉くなりたいor権力の座に着きたいという肉性丸出しの弟子たちに対して次のように対処なさいました。マタイ2025-28には次のように記されています。
25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、27 あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。
28
 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 エリコを経由してエルサレムへ登っていく道がありますが、マタイ2017-28の記述の出来事は、私の想像ですが、エルサレムへと向かっていくエリコの手前での出来事であったのだろうと思います。

 マタイ2029.30には、“29 一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスに付いて行った。30 すると、道端に座っていた二人の盲人が、イエスがお通りと聞いて、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。”と記されています。

 この盲人は、盲人と書いてあるのですから目が見えないのですが、イエスが、「主」で「ダビデの子」であるという真理を悟っていたのです。
新約聖書はギリシア語で記されていますが、ユダヤ人たちは、ヘブライ語やアラム語を話していたことでしょう。ユダヤ人が、「主」というとき、「アドナイ」という語を使っていたようです。ヤハウェ(主)の同義語として。主の御名をみだりに唱えてはいけない、と十戒にあるので、ヤハウェとは呼ばずに、「アドナイ」と呼んでいたのです。アドナイには、主人、主、私の主、神、等の意があると思われます。
イエス様に対して、「ダビデの子」と呼んだのは、当時としては、あなたはメシアです。という信仰告白でもあったでしょう。

 それゆえ、群衆は、特に宗教家たちは、盲人の言葉を遮(さえぎ)ろうとしたのだろうと思います。
31
節には、“群衆は叱りつけて黙らせようとした”と記されています。

 この個所は、目が見えなくても真理を悟っている人と、肉の目は見えているのに、真理を悟れない人たちの対比を見ることが出来ます。

 「ヤハウェ(主)よ、ダビデの子よ」という呼び方を、分析すると、霊においては、神ヤハウェ(主)であり、肉においては、ダビデの子、すなわちメシア、ということになります。
この二人の盲人が、そのように捉えていたかどうかは分かりませんが。
ローマ95を参照すると、“キリストも、肉によれば彼ら〔イスラエル人(筆者挿入)〕から出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。”(抜粋・2017)と記されています。

 31-34節には、
31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、
「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだ。
32
 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、
「何をしてほしいのか」と言われた。
33
 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
34
 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。”と記されています。

 主イエス様は、二人の盲人に、「何をしてほしいのか」と言われました。
盲人たちは、「憐れんでください」といいましたが、主イエス様は、盲人たちに盲人たちが願っていることを明確にさせたのです。
盲人たちは、「目を開けていただきたいのです」(33)と言ったのです。

 何をどう祈ったらよいかわからないときにもご聖霊は助けてくださいます(ローマ826)が、できるだけ具体的に祈ったほうが良いことをこの個所から教えられます。
具体的に祈ると、それが肉から出ていることなのか、霊から出ていることなのか、愛から出ていることなのか、欲から出ていることなのか、・・・・等々を自分でも把握することが出来るようになるだろうと思います。
ここに出てくる二人の盲人は、肉の目を見えるようにして頂いた後、主イエス様について行ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御旨についての知識に満たしていただけますように。
また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長させていただけますように。
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますようお整え下さいますように。
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげ続ける者であらせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

言葉にする事や、思いを言葉として発する事は大事ですよね。
今日はすんなりと心から祈る事ができました。
信じる事ができる事は恵みです。
主であるイエス様の御教えに感謝します。

“すんなりと心から祈る事ができました。”→
ハレルヤ!

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