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2023年4月26日 (水)

申命記11:26-32 祝福と呪い/キリスト者の祝福の基

 申命記1126-32には次のように記されています。
26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。
27
 もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、
28
 もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く。
29
 あなたが入って所有する地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき、あなたは祝福をゲリジム山の上に、呪いをエバル山の上に置きなさい。
30
 その二つの山は、ヨルダン川の向こう側、アラバに住むカナン人の地の、日の沈む方角のかなた、ギルガルに向かい合うモレの樫の木の傍らにあるではないか。
31
 あなたがたはヨルダン川を渡り、あなたがたの神、主が与える地に入って、それを所有しようとしているが、それを所有して、そこに住むときには、32 今日私があなたがたに与える掟と法を、すべて守り行わなければならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民にヤハウェ(主)と結んだ律法の契約を行う者には祝福を、律法の契約に違反するものには呪いを与えると宣言しました。
すなわち、ヤハウェ(主)とイスラエルが結んだ律法に従う者には、主が祝福を与え、律法に従わない者には、主が呪いを与える(災いを与える)とヤハウェ(主)は言われたのでした。

 29.30節に記されている内容は、祝福と呪いの宣言の儀式についての教えに関するものです。

 ヨシュア記8章には次のように記されています。
30 それから、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のための祭壇を築いた。
31
 主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの律法の書に記されているとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石の祭壇であった。人々はその上で、主への焼き尽くすいけにえと、会食のいけにえを献げた。
32
 ヨシュアはその石に、モーセがイスラエルの人々の前で記した律法の写しを刻んだ。
33
 イスラエルのすべての人々、長老、役人、裁き人は、祭司たち、すなわち、主の契約の箱を担ぐレビ人たちの前で、箱のこちら側とあちら側に立った。寄留者もイスラエル人も同じように、その半分はゲリジム山の前に、また他の半分はエバル山の前に立った。これは、主の僕モーセが かつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
34
 その後、ヨシュアは律法の言葉、祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。
35
 モーセが命じたすべての言葉の中で、イスラエルの全会衆、女、子ども、彼らの間で生活する寄留者に向かってヨシュアが読み上げなかったものは一つもなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記27章には次のように記されています。
9 モーセはレビ人である祭司たちと共にイスラエルのすべての人々に告げた。
「イスラエルよ、静まれ。そして、聞け。今日あなたは、あなたの神、主の民となった。10 それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、今日、私が命じる戒めと掟を行いなさい。」
11
 その日、モーセは民にこう命じた。
12
 あなたがたがヨルダン川を渡ったなら、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンは、民を祝福するために、ゲリジム山の側に立ちなさい。〔約束の地に入ったら、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンの各部族は、ゲリジム山に立って祝福を告げ、(リビングバイブル)〕
13
 ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリは、民を呪うために、エバル山の側に立ちなさい。〔ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリの各部族は、エバル山に立ってのろいを告げなさい。(リビングバイブル)〕
14
 レビ人は、イスラエルのすべての人々に大声で宣言しなければならない。〔それから、レビ人が両者の間に立って全国民に向かって宣言しなさい。(リビングバイブル)〕
15
 「職人の手の業である、主の忌み嫌われる彫像と鋳像を造り、ひそかに安置する者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
16
 「父と母をないがしろにする者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
17
 「隣人の地境を移す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
18
 「盲人を道で迷わせる者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
19
 「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
20
 「父の妻と寝る者は呪われる。父を辱めるからである。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
21
 「いかなる動物であれ、それと寝る者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
22
 「父の娘であれ母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
23
 「妻の母と寝る者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
24
 「隣人をひそかに打ち殺す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
25
 「賄賂を受け取り、人を打ち殺して無実の血を流す者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。
26
 「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」
民は皆、「アーメン」と言いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 祝福の条件(主が祝福される条件)と内容については、申命記281-14、レビ263-12に記され、
呪いの条件(主が災いをもたらされる条件)と内容については、申命記2815-68、レビ2614-39に記されています。

 神ヤハウェ(主)は、約束の地に神ヤハウェ(主)が支配する地上の国(神の国)とつくろうとしました。
イスラエルに対する祝福は、申命記283-13に記されているように、地上の祝福です。

 一方、キリスト者に対する祝福は、天の神の王国のものです。
エペソ13には、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。
「天上にある」と訳されている個所のギリシア語聖書は、「エン」(in)「トイス」(the)「エプラニオス」〔「エピ」(overuponetc.+「ウラノス」{空(skyor天(heaven)}の複数形)}〕となっています。

 キリスト者は、神の内住を与えられたのです。
ヨハネ14章には、次のような主イエス様の御言葉が記されています。
15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔(ギ)「パラクレートス」(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり〔直訳「とどまり」(欄外注)〕、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18
 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19
 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
20
 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる〔相互内住(筆者挿入)〕。
21
 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」
22
 イスカリオテでないほうのユダが、イエスに言った。「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」
23
 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
24
 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 続けてコロサイ3章を引用したいのですが、長くなるのでここで終わります。

 恵みの条件は、キリストを愛し続けることであり(エペソ624)、呪いの条件は、キリストを愛さないことです(1コリント1622)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主を愛し、喜びをもって主にお仕えし続けていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

〝・・イスラエルの全会衆、女、子ども、彼らの間で生活する寄留者に向かってヨシュアが読み上げなかったものは一つもなかった。〟を、改めて読み直すと神様の偉大さを感じ、また、この世を造られたお方であり、唯一無二の存在である事を改めて実感しました。
新約を記載してくださりありがとうございます。忘れていない筈の事に、ハッとさせられました。
日々の生活の中で何か起きた時こそ、動揺せず、この世に振り回されず、主により頼む事が大事である事も改めて学びます。そうすれば力を入れずに踏ん張る(表現の仕方が分かりませんが、これが自力ではないという事なのでしょうか…)事ができるのだと思いました。
何か結果や答えを早くに求めてしまったり、怒りや憤りを持ち続けたりするのは、この世のものですね。その様な事が生じた時こそ、主に祈り求める事をやめてはいけないですよね。
主を賛美し、主に祈り求めながら歩んでゆく事の大切さを改めて学びます。何時もありがとうございます。

ハレルヤ!

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