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2023年5月

2023年5月31日 (水)

マタイ22:34-40 主を愛することが出来るのは主が愛してくださったから

 マタイ2234-40には次のように記されています。
34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35
 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36
 「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」
37
 イエスは言われた。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の戒めである。
39
 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40
 この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ〔「すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」(フランシスコ会訳)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 37節の、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」という個所を直訳すると、「あなたの心のすべての中で、あなたの魂のすべての中で、あなたの思いのすべての中で」となります。

 主イエス様を敵視している、主イエス様を貶めようとする勢力によるいくつもの質問が、私たちにとってはさらなる真理の啓示となってくれています。

 さて、この個所の並行個所であるマルコによる福音書12章では、さらに続いていて、律法学者と主イエス様とのやり取りが次のように記されています。
32 律法学者はイエスに言った。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」
34
 イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は、律法の根底となっている聖句を語られました。
それを聞いた律法学者は、イエス様が語られた通りであると認めたのです。
その律法学者に対して、主イエス様は、「あなたは神の国に入っている」とは言われず、「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです。

 自力の行いによって神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。
ここに登場した律法学者は、「イエスを信じないことが罪である」(ヨハネ169)ということがわかっていませんでした。

またこの律法学者は自己評価において、自分は、主が語られた律法の聖句を行えていたと考えていたのかもしれません。

 マタイ2234-40に関してBIBLE vaviは、次のように述べています。
“パリサイ人は600以上の律法を分類し、それほど重要でないものと、重要なものを区別しようとした。それで彼らの中の一人、「律法の専門家」が、イエスに最も重要な律法を明らかにするよう求めた。パリサイ人は律法主義的、排他的になっており、世界にとって祝福となるために神がイスラエルに与えた役割を無視していた。イエスは、申命記65とレビ1918から引用した。この二つを守ることで、他の全部の戒めを守ることになる。この二つは、十戒その他の旧約聖書の道徳律を要約している。
もし神と隣人を心から愛するならば、自然に戒めを守ることになる、とイエスは言われた。これは、神の律法の肯定的な見方である。行うべきことを心配するのではなく、神と他の人に愛を示すために行うことが出来ることに集中しよう。”と記しています。

 マタイ22章の、“37 ・・。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
39
 ・・。『隣人を自分のように愛しなさい。』”という聖句を、罪をもって生まれた人間が行えるわけはないのです〔{ローマ512、詩篇515(新共同訳は7節)、ローマ714-25}(聖句個所は口語訳、新改訳)参照〕。

 キリスト者は、自力で、律法の聖句に基づいて生きようとするのではなく、三一の神の霊に導かれて生きる存在なのです。霊である神ヤハウェ(主)に導かれて生きるときにはじめて、律法が言わんとする生き方を生きることが出来るのです。

 2コリント3章には次のように記されています。
4 私たちはキリストによって、このような確信を神に対して持っています。
5
 何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。
6
 神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字〔旧契約(筆者挿入)〕は殺し、霊は生かします。
7
 石に文字で刻まれた死をもたらす務め〔律法はキリストに導く養育係でした(ガラテヤ324)。律法を自力で行うことは出来ません(筆者挿入)〕さえ栄光に包まれて、モーセの顔に輝くつかの間の栄光のために、イスラエルの子らがその顔を見つめることができなかったとすれば、
8
 まして、霊に仕える務めは、なおさら、栄光に包まれているはずではありませんか。
9
 人を罪に定める務めに栄光があったとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ち溢れているからです。
10
 事実、かつて栄光を受けたもの〔旧約律法(筆者挿入)〕は、この場合、はるかに優れた栄光〔キリストの十字架と復活に基づく福音(筆者挿入)〕の前に、栄光を失ったのです。
11
 やがて消え去るものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 更にローマ331には、“それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。”(2017)と記されています。

 心の奥底まで、神に愛されていることを知った者でないと、神を本当に愛することは出来ないでしょう。
福音はそれを可能にしたのです。

 1ヨハネ4章には次のように記されています。
7 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです
8
 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。
9
 神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。
10
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります
11
 愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。
12
 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。
13
 神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。
14
 私たちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
15
 誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人の内に神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
16
 私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
17
 このように、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に私たちは確信を持つことができます。イエスが天でそうであるように、この世で私たちも、愛の内にあるのです〔直訳:「あの方がそうであるように、この世で私たちもそうである」(欄外注)、「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです」(2017)〕。
18
 愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。恐れには懲らしめが伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。〔ですから、私たちを心から愛してくださる方を、どうして恐れる必要がありましょう。もし恐れがあるなら、それは神が私たちに何をなさるか不安をいだいているからです。神の完全な愛は、そんな恐れをすべて取り除きます。恐れている人は、神の愛をまだ十分理解していないのです。(リビングバイブル)〕
19
 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
何時もあなたが与えてくださる恵みによって生かされていますことを感謝します。
今日もあなたを賛美しながら歩むひと日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月30日 (火)

箴言22:24.25 多くの場合、良くも悪くも朱に交われば赤くなる/聖い交わり

 箴言2224.25には、
24 怒りっぽい者と交わるな〔怒りやすい者の友になるな(新共同訳)〕。激しやすい者と一緒に行くな。
25
あなたがその道に倣って、自分〔魂(新共同訳)〕が罠にかからないために。”(2017)と記されています。

 「怒りっぽい者」と訳されている「者」のヘブライ語原語は「バアル」で、原義は、master、で、husbandownermanperson、・・・等の意があります。

 「交わる」と訳されている語のヘブライ語原語は「ティトゥラー」で、友達になる、の意もあります。
新共同訳は、24節の前半部分を、「怒りやすい者の友になるな。」と訳しています。

 25節の「自分」と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」で、たましい、とも訳される語です。

 最初の殺人を犯したのは、アベルの長男のカインでした。カインは先ず神ヤハウェ(主)に対して怒りを燃やし、弟アベルを殺したのです。そしてカインは呪われました(創世記41-12)。

 カインは、神ヤハウェ(主)の自分に対する行動や御言葉の前に、へりくだることが出来なかったのです。もしカインが、神ヤハウェ(主)の言動に対して、へりくだることが出来たら、おそらく祝福されたことでしょう。

 箴言1216には、“愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。”(2017)と記されています。

 箴言1416には、“知恵のある者は慎重で、悪を避けるが、愚かな者は怒りやすく、自信が強い。”(2017)と記されています。

 箴言1429には、“怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。”(2017)と記されています。

 箴言151には、“柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”(2017)と記されています。

 箴言1518には、“激しやすい者は口論を引き起こし、怒りを遅くする者は争い事を鎮める。”と記されています。

 箴言1632には、“怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。”(口語訳)と記されています。

 箴言1911には、“悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。”(口語訳)と記されています。

 怒りに関して、聖書には多くの聖句があります。上記したのは聖書の怒りに関する聖句の一部分です。

 次に、新約聖書に目をとめてみたいと思います。
エペソ(エフェソ)430-32を、
 聖書協会共同訳は、“30 神の聖霊を悲しませてはなりません。あなたがたは、聖霊によって、贖いの日のために証印を受けたのです。
31
 恨み、憤り、怒り、わめき、冒涜はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい。
32
 互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”と訳し、
 リビングバイブルは、“30 聖霊を悲しませるような生き方をしてはいけません。この聖霊は、罪からの救いが完成する日のために、救いの確かな証印を押してくださる方であることを、忘れてはなりません。
31
無慈悲、憤り、怒りなどを捨てなさい。とげのあることばやえこひいきをなくしなさい。
32
むしろ、互いに親切にし、心のやさしい人になりなさい。そして、神がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”と訳しています。

 1コリント6.17に、“主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”とあるように、新生させていただいた私たちの霊は、御言葉、祈り、賛美、黙想などを通して、いつもキリスト様との交わりの中にある状態が健全なことです。

 また、2テモテ222に、“あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。”(2017)とあるように、きよい心で主を求める人たちとの交わりを大切にすべきであることをも教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
日々、主との交わりを大切にし、あなたのみ旨にかなった歩みをさせていただけますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月29日 (月)

詩篇69:11-19 ダビデの苦しみは受難のキリストの予表、及びキリストの受難の預言(3)

 詩篇6911-19には次のように記されています。
11 私が断食し、自分のことで泣けば、そのことでそしられ、
12
 粗布を衣とすれば、私は彼らの話の種となります。
13
 町の門に座る人々は私を噂の的とし、酒に酔った者は嘲り歌います。
14
 しかし主よ、私はあなたに向かって祈ります。神よ、御旨に適うとき、豊かな慈しみとまことの救いとによって答えてください。
15
 泥沼にはまり込んだままにならないように助け出してください。私を憎む者から、大水の深みから助け出してください。16 大水の激流が、私を押し流すことがありませんように。深い底が呑み込むことがありませんように。穴が私の上に口を閉ざすことがありませんように。
17
 主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください。
18
 僕(しもべ)に御顔を隠さないでください。私は苦難の中にあります。急いで答えてください。
19
 私の魂に近づき、贖い、敵から解き放ってください。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳、リビングバイブルは、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、新共同訳の節よりも、1節前にずれています。)

 毎度書いていますが、詩篇68篇は「ダビデによる」とありますから、11-13節の下記の個所、すなわち、“11 私が断食し、自分のことで泣けば、そのことでそしられ、12 粗布を衣とすれば、私は彼らの話の種となります。13 町の門に座る人々は私を噂の的とし、酒に酔った者は嘲り歌います。”という内容は、2サムエル12章の記事を私は思い起こします。その中から一部を下記します。
13 ダビデはナタンに言った。「私は主に罪を犯しました。」ナタンはダビデに言った。「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。14 しかし、あなたがこの行いによって大いに主を侮ったために、生まれて来るあなたの息子は必ず死ぬであろう。」15 ナタンは自分の家に帰って行った。主は、ウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれたので、子は重い病気にかかった。16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして引きこもり、夜を徹して地に伏した。17 彼の家の長老たちはその傍らに立って、彼を地面から立たせようとしたが、ダビデは立とうとせず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
18
 七日目になってその子は死んだ。家臣たちはその子の死をダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、 王に何を申し上げても、私どもの声に耳を貸そうとはされなかった。お子様が亡くなったことをどうしてお知らせすることができようか。何かよくないことをなさりはしまいか。」
19
 ダビデは家臣たちがささやき合っているのを見て、子どもの死を悟り、家臣たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「亡くなられました。」
20
 すると、ダビデは地から起き上がり、体を洗って香油を塗り、衣服を着替えて、主の家に入り、礼拝した。それから自分の家に帰り、料理の用意をさせ、食事をした。
21
 家臣たちはダビデに言った。「どうして、このように振る舞われるのですか。お子様が生きておられるときは断食して嘆かれましたが、お子様が亡くなられると、起き上がって食事をなさいました。」
22
 ダビデは言った。「子どもがまだ生きていたとき、私は断食して嘆き続けた。主が私を憐れみ、子どもを生かしてくださるかもしれないと思ったからだ。23 しかし今、子どもは死んでしまった。・・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様も、話のタネにされたり(12)、うわさされたり(13)、そしられたり(11)、嘲られたりしました(13)。
ルカ734には、「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。」(2017)と記されています。
 またマタイ2738-44に記されている内容を思い起こします。
38 同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
39
 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、40 言った。
「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42
 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
44
 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ダビデは、無実でありながらサウルに追われ続け、また周辺諸国と多くの戦いをし、息子アブサロムから追われるというような多くの苦難にあってきました。その時には、14-19節の様に祈ったのではないだろうかと想像します。再掲します。
14 しかし主よ、私はあなたに向かって祈ります。神よ、御旨に適うとき、豊かな慈しみとまことの救いとによって答えてください。
15
 泥沼にはまり込んだままにならないように助け出してください。私を憎む者から、大水の深みから助け出してください。
16
 大水の激流が、私を押し流すことがありませんように。深い底が呑み込むことがありませんように。穴が私の上に口を閉ざすことがありませんように。
17
 主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください。
18
 僕(しもべ)に御顔を隠さないでください。私は苦難の中にあります。急いで答えてください。
19
 私の魂に近づき、贖い、敵から解き放ってください。”と記されているように、ダビデは祈ったことと思います。

 イエス様も私の罪の身代わりとして、またそれだけではなく、全世界の罪を身代わりに負って十字架にかかっておられたとき、「僕(しもべ)に御顔を隠さないでください。私は苦難の中にあります。」(18)という状態であったでしょう。イエス様が十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ2746)と叫ばれたのですから。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」の意味は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(マタイ27462017)と記されています。

 16節には、“大水の激流が、私を押し流すことがありませんように。深い底が呑み込むことがありませんように。穴が私の上に口を閉ざすことがありませんように。”とあります。
「大水の激流」とは、聖書の他の個所から想像すると、世の激しい流れ、とか、敵の大群、というような意ではないかと思います。
イエス様は、贖いを成し遂げた後、霊において、「深い底」すなわち陰府(よみ)に下りました(1ペテロ319.20)が、十字架から三日目には霊のからだをもって復活なさいました。

 へブル122bを、
新共同訳は、“イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。”と訳し、
新改訳初版~第三版は、“イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。”と訳しています。
 下線部分を新共同訳の様に訳している聖書には、フランシスコ会訳、前田訳、塚本訳があり、一方新改訳初版~第三版の様に訳している聖書には、岩波訳、聖書協会共同訳、口語訳、文語訳があります。
2017
は、「喜びのために」と訳し、リビングバイブルは、「喜びを知って」と訳しています。
ギリシア語原語は、“ホス アンティ テース プロケイメネース”となっていて、新共同訳の様にも、新改訳初版~第三版の様にも訳せるのです。
下線部分の、イエス様の御心境は、どちらかではなく、その両方であったのではないだろうかと、私は思いますが、実際のところは、天国でイエス様に聞かないとわかりません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様は、多くの苦しみを経て贖いの業を全うしてくださいました。
それ故、私たちの負い目は払われ、自由の身とされたことを覚え、心から感謝します。
御父も、愛してやまないひとり子の御子を十字架につけねばならないという所を通りました。
その心中の痛みはいかばかりであったことでしょうか。
御名を崇めて感謝します。
世々限りなく父、御子、御霊の三一の神の御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月28日 (日)

申命記14:3-21 食物の規定/食べても良い霊の食物(主の御言葉)

 申命記143-21には次のように記されています。
3 あなたは、忌むべきものを一切食べてはならない。
 4 あなたがたが食べてよい動物は次のとおりである。
牛、羊、山羊、5 鹿、ガゼル、のろじか、野山羊、羚羊(れいよう)、かもしか〔オリックス(欄外注)〕、野羊。6 反芻するもので、ひづめが割れ、二つに完全に分かれている動物はすべて食べることができる
 7 ただし、反芻するだけか、あるいはひづめが割れているだけのものは食べてはならない
らくだ、野兎、岩狸〔ハイラックス(欄外注)〕、これらは反芻するが、ひづめが割れて いないので、あなたがたには汚れたものである。
8
 豚、これはひづめは割れているが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。これらの肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。
 9 水の中に住むすべてのもののうち、食べることができるのは次のとおりである。ひれとうろこのあるものはすべて食べることができる10 ひれやうろこのないものは一切食べてはならない。あなたがたには汚れたものである
 11 清い鳥はすべて、食べることができる
12
 しかし、次のものは食べてはならない。禿鷲(はげわし)、ひげ鷲、黒禿鷲、13 赤鳶(あかとび)、隼(はやぶさ)、鳶の類、14 烏の類すべて、15 鷲みみずく、小みみずく、かもめ、はいたかの類、16 小きんめふくろう、森ふくろう、めんふくろう、17 こくまる烏、エジプト禿鷲、みさご、18 こうのとり、鷺(さぎ)の類、やつがしら、こうもり。19 また、羽があって群がるものはすべて、あなたがたには汚れたものであり、食べてはならない。
20
 清い鳥はすべて食べることができる。
 21 自然に死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる 民だからである。
 子山羊をその母の乳で煮てはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 日本人は、この食物規定にとらわれることなく、結構何でも食べる民族ですね。
実際、新契約(新約)時代のキリスト者は、上記の禁止条項をあまり気にすることなく、衛生面に注意しつつ、様々なものを食べますね。

 教会時代が始まった最初の頃に救われた人たちはイスラエル人でしたから、それらの人たちは食物規定に縛られていたようです。
使徒101-29には次のように記されています(特に9-16節をご覧ください)。
1 さて、カイサリアにコルネリウスと言う人がいて、イタリア大隊と呼ばれる部隊の百人隊長であった。2 敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。
3
 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。
4
 彼は天使を見つめ、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。
すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。5 今、ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。6 その人は、皮なめし職人シモンと言う人の客になっている。家は海岸にある。」
7
 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは召し使い二人と、側近の部下で敬虔な兵士一人とを呼び、8 すべてを話してヤッファに遣わした。
9
 翌日、この三人が旅をして町の近くまで来た頃、ペトロは祈るために屋上に上がった。昼の十二時ごろである。10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、
11
 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来るのを見た。12 その中には、あらゆる四つ足の獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
13
 そして、「ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
14
 しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません。」
15
 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。」
16
 こういうことが三度あり、その入れ物はすぐ天に取り上げられた。
17
 ペトロが、今見た幻は一体何だろうかと、戸惑っていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、18 声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。
19
 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、霊〔御霊(新改訳、口語訳)、霊には定冠詞がついています(筆者挿入)〕が言った。
「三人の者があなたを探しに来ている。20 さあ、立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ。」
21
 ペトロは、その人たちのところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、この私です。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。
22
 すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、ユダヤの全国民に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」
23
 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。
23
 翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファのきょうだいも何人か同行した。
24
 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。
25
 ペトロが中に入ろうとしたとき、コルネリウスは迎えに出て、足元にひれ伏して拝んだ。
26
 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。私も同じ人間です。」
27
 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、28 彼らに言った。
「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました。29 それで、お招きを受けたとき、ためらわずに来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 また、主イエス様が次のように語られた個所があります。
14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。
「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。15 外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」
 17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
18
 イエスは言われた。
「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。19 それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」
このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、20 さらに言われた。
「人から出て来るもの、これが人を汚す。21 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」”(マルコ7章・聖書協会共同訳)と記されています。

 従って申命記の食物規定は、心のありようについて述べているものではないかと推測できます。

 申命記146には、“反芻するもので、ひづめが割れ、二つに完全に分かれている動物はすべて食べることができる。”とあります。
これは、霊の食物である御言葉を幾度も読み熟考し、主にあるわきまえのあるような人とは、交わることが出来る、その人を受け入れることが出来るということではないだろうかと思います。
食事をする、ということは交わりをする、というように捉えることが出来るのではないだろうかと思います(黙示録320)。

 申命記149には、“ひれとうろこのあるものはすべて食べることができる。”とあります。
預言書では、「海」はこの世を表します(ダニエル73,17、黙示録131173)。
この世の支配者はサタンです。ひれとウロコ両方ある魚は、この世にあっても、塩漬けにされることなく、泳ぎ回っています。サタンに捕らえられないという象徴ではないでしょうか。サタンは、蛇や竜として聖書の中に描かれている個所があります。それに似ているものは食べないように、ということなのでしょうか。
霊的には、サタンに属する者と交わるな、すなわち、深い交わりをするな、サタンに属する者の考え方や感情を取り入れるな、ということなのではないかと想像します。

 申命記1411には、“清い鳥はすべて、食べることができる。”とありますが、清くない鳥に分類される鳥は、死肉をも食べる鳥です。
「死」は罪の結果です(創世記217、ローマ623)。
罪を平気で取り入れる人の考え方や感情の持ち方、などを取り入れないように、ということではないだろうかと推測します。

 ヤコブ126.27には、“26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。”(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
この世の考えや感じ方を取り入れることなく、いつもあなたの御教えに従って歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月27日 (土)

マタイ22:23-33 復活後のからだと結婚

 マタイ2223-33には次のように記されています。
23 その日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
24
 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して〔レビレート婚(筆者挿入)〕、兄のために子をもうけなければならない。』
25
 さて、私たちのところに、七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが、子のないまま死に、その妻を弟に残しました。26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。27 最後にその女も死にました。28 すると復活の時、彼女は七人のうち誰の妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
29
 イエスはお答えになった。
「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。天の御使いのようになるのだ。
31
 死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。32 『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
33
 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 サドカイ派(人)について、聖書協会共同訳の用語解説は次の様に簡略にまとめています。
“〔サドカイ派は(筆者挿入)〕ファリサイ派と共にイエスの時代のユダヤ教の一派で、祖先はダビデ時代の祭司ツァドクの家系と思われる。大半は指導的な祭司や社会的特権階級の者で、成文の律法、モーセ五書のみを認め、復活、天使、霊を認めなかった(使徒238)。民衆からの支持が少なく、紀元後70年のエルサレム神殿崩壊とともに歴史の舞台から姿を消す。”と記しています。

 24節の『 』内の個所は、申命記25章に基づくもので、申命記のその箇所のポイントをサドカイ派の人は述べたのでしょう。
 申命記255-10には次のように記されています。
5 兄弟が共に住んでいて、そのうちの一人が死に、子がなかった場合、死んだ者の妻は家を出て、他の者の妻になってはならない。その夫の兄弟が彼女のところに入り、彼女をめとって妻とし、兄弟としての義務を果たさなければならない。6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルから絶やしてはならない。
7
 しかし、その兄弟が義理の姉妹をめとろうとしないときは、彼女は町の門の長老たちのもとに行き、言いなさい。
「私の夫の兄弟は、夫の名をイスラエルに残すことを拒み、兄弟の義務を果たそうとしません。」
8
 町の長老は彼を呼び出して、諭さなければならない。
それでも彼がかたくなに、「私は彼女をめとろうとは思わない」と言うならば、
9
 義理の姉妹は彼に近寄り、長老たちの前でその足の履物を脱がせ、顔に唾を吐きかけ、彼に「自分の兄弟の家を立てない者はこのようにされる」と言いなさい。10 彼の名は、イスラエルの間で履物を脱がされた者の家と呼ばれるであろう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 BIBLE naviは、“律法によると、夫が子のないままで死んだなら、夫の兄弟には、残された妻と結婚して面倒を見る責任があった。この律法は、一人残される女性を守った。この文化では、彼女たちは普通、自活する手段が他になかったからである。”と述べています。

 創世記38章に、ユダとタマルの話が出てきますが、タマルは、ユダにレビレート婚を要求したのでしょう。

 「復活後のからだと結婚」というのを今日のテーマにしたいと思います。
私たちキリスト者は、主イエス様が語られた御言葉をそのまま信じます。しかし、ユダヤ人たちの多くは信じなかったと思います(ルカ1334)。
主イエス様は次のように語られました。ヨハネ521-29には次のように記されています。
21 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。
22
 また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。
23
 すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
24
 よくよく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。
25
 よくよく〔原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)、「まことに、まことに」(新改訳)〕言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。26 父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである〔ダニエル713.14参照(筆者挿入)〕。
28
 このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く29 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者〔主を信じなかった者(筆者挿入)〕は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、かつてこのように語っていましたが、サドカイ派の人たちは、主イエス様の御言葉を信じないので、マタイ22章に記されているように、“31 死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。32 『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」”と語られたのでしょう。
主の「生きているものの神」という御言葉以外にも、アブラハムが生きていることについては、ルカ16章の金持ちとラザロの譬えから明らかですし、エリヤやモーセが生きているのは、キリストの変貌山の出来事(マタイ171-6)からも明らかなことです。

 また、サドカイ人は、死者はよみがえらない、というスタンスに立っていましたが、イエス様の公生涯中にも、主イエス様は、死んで四日目になるラザロをよみがえらせ(ヨハネ1138-44)、やもめの息子を生き返らせ(ルカ711-17)、ヤイロの12歳くらいの娘を死からよみがえらせたのです(ルカ842.49-55)。

 30節には、“復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。天の御使いのようになるのだ。”というイエス様の御言葉があります。
キリストの花嫁以外の者の場合は、そのようになるのでしょう。
キリストの花嫁は、キリストの空中再臨の時に天に挙げられた人たちとすでに天に帰ったキリストの花嫁を構成する霊たちの総体すなわち、エクレシア(教会)です。キリストの花嫁を構成する一人一人は、キリストに似たものとなるのです(1ヨハネ32)。

 新生したキリスト者は、すでに霊においてキリストと一つになっているのです。
ローマ89に“神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。”(新共同訳)と記され、“主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”(1コリント6172017)と記されているように、キリストと新生したキリスト者は霊においては結婚しているのです。婚姻の儀は、霊のからだを頂いた後であって黙示録197-9に記されている天における出来事です。
ただし、新生していても、このことを霊的に実感できる人は多くはないのかもしれません。新生した人の霊、たましい、からだの違いがわかる迄は、お預けなのでしょう。わかるというよりも、恵みによってわからせていただけるものなのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
救われる前の私は、サドカイ派の人たち以下の考えしか持ち合わせていませんでした。
私は、サドカイ派の人たちの様に、復活、霊、天使を認めないという者でした。それだけではありません。サドカイ派の人たちはモーセ五書を認めていましたが、私は、それをも認めていなかったのです。
あなたの憐れみと恵みが私に注がれなかったならば、私は、神の実在を信じることが出来ず、救い主による救いを受け入れることもできなかった者です。
ただただ御名を崇めて感謝します。
世々とこしえに主の御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月26日 (金)

箴言22:22.23 弱いものに心をとめなさい

 箴言2222.23には次のように記されています。
22 弱い人からかすめ取るな、その人は弱いのだから。苦しむ人を町の門で踏みにじってはならない。
23
 主が苦しむ人のために争い、その命を奪う者の命を奪うからだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 適用注解に力を入れているBIBLE naviは、この個所について次のように述べています。
“この箴言は、不正な独裁的指導者のもとで生活し働く人々への希望のメッセージである。人を厳しく支配することを楽しむ者たちへの警告でもある。時には、神が介入し、暴君を直接滅ぼされる。神は、よく、他の支配者を使ってその暴君を倒したり、しいたげられた人々を使って暴君に反逆させる。もしあなたが教会、職場、家庭において権威ある立場にいるなら、暴君は何が起こるかを思い出そう。やさしさによるリーダーシップは、力ずくのリーダーシップよりも長く続き、効果的である。”と記しています。

 このようなことは、出エジプト記1-12章や、落ち度のないナボトに対する殺人略奪を計画し、ナボト殺人を実行させたイゼベルの個所(1列王記211-16,23.24)を読み、イゼベルに対する神ヤハウェ(主)の預言とその結末の個所(2列王記930-37)を読むと頷けるものと思います。
その他にも、聖書にはいくつもの事例が挙げられています。
 
 更に、横暴な支配者たちは、死後の世界でも恥辱を受けることになります。
神ヤハウェ(主)の預言として、エゼキエル3217-32には、残虐な支配者たちの死後の様子が描かれています。
中でも凶暴残虐であったアッシリアについて、またエラム、エジプトについては次のように記されています。
17 第十二年のその月の十五日に、主の言葉がわたし〔預言者エゼキエル(筆者挿入)〕に臨んだ。
18
「人の子よ、あなたと諸国の娘たちは、エジプトとその貴族たちのために泣き悲しめ。わたしは彼らを地の低い所に下らせる。穴に下って行く者と共に。19 お前はだれよりも美しいと思っていたのか。下って行き、割礼のない者と共に横たわれ。20 彼らは剣で殺された者の間に倒れる。エジプトは剣に渡された。エジプトとその軍勢はすべて運び去られた。
21
陰府の中から、最も強い勇士たちが、エジプトとその同盟者たちに語る。
割礼のない者、剣で殺された者たちは、下ってきてそこに横たわる、と。
22
そこには、アシュル〔アッシリア(2017)〕とその仲間がすべており、彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者である。
23
アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり、その周りには仲間たちの墓がある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者、かつて、生ける者の地で恐れられていた。
24
そこには、エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者、割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。 生ける者の地で恐れられていたが、穴に下る者と共に恥を負う。”(新共同訳)とあります。

 イエス様が死後の世界について語ってくださった個所もあります(ある金持ちとラザロの話は、救い主であり、主であるイエス様を信じようとしない、そして自分を義とし、金を愛するパリサイ人たちに聞かせる意味を持って語られた話とも受け取れます。また一般的に、救い主であり、主であるイエス様を信じようとしないで自分を義とし、金を愛する人は、このたとえ話に出てくる「ある金持ち」と同じですよというお話なのだろうと思います)。
 ルカ1619-31に金持ちとラザロの話として記されていますが、ここでは、ルカ1619-26を下記します。
19 「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。
20
 この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。
22
 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。〔ここには記されていませんが、貧しい人ラザロは主を信じていた人であると考えられます(筆者挿入)〕
23
 そして、金持ちは陰府〔ギリシア語原語は「ハデス」(筆者挿入)〕でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24
 そこで、大声で言った。
『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
25
 しかし、アブラハムは言った。
『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26
 そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』”(聖書協会共同訳)と記されています。

今日のまとめとして、1テサロニケ512-22を読んでおこうと思います。
12 きょうだいたち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、13 彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。
14
 きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。
15
 誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。
16
 いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
18
 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
19
 霊の火を消してはいけません。
20
 預言を軽んじてはいけません。
21
 すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。
22
 あらゆる悪から遠ざかりなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日の箴言の個所に対応するように、1テサロニケ514には、「弱いものを助けなさい。」と記されています。
それ以外に記されている個所にも心をとめながら歩むことが出来ますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月25日 (木)

詩篇69:6-10 ダビデの苦しみは受難のキリストの予表、及びキリストの受難の預言(2)

 詩篇696-10には次のように記されています。
6 神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。私の犯した罪もあなたには隠すことができません。
7
 わが主、万軍の主よ。あなたに望みを置く人が、私のことで恥じ入ることがありませんように。
イスラエルの神よ。あなたを尋ね求める人が私のことで屈辱を受けることがありませんように。
8
 私はあなたのゆえにそしられ、顔は恥辱に覆われています。
9
 兄弟にとっては見知らぬ者。同じ母の子らにとってはよそ者となりました。
10
 あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし、あなたをそしる者のそしりが、私の上に降りかかっています。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳、リビングバイブルは、聖書協会共同訳の節より1節ずつ少ない節になります。)

 6節には、“神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。私の犯した罪もあなたには隠すことができません。”とあります。
 詩篇69篇は「ダビデによる」とあります。
ダビデの犯した罪や愚かさについて、2サムエル記11章には、ウリヤの妻バト(バテ)・シェバとの姦淫、ウリヤを戦死させるようにヨアブに命じたという殺人に関する罪が記され、2サムエル13章には、長子アムノンによるダビデの娘タマルへの凌辱に対する対処をしなかったこと、アムノンの弟でタマルの兄であるアブシャロムによるアムノン殺害に対する適切な対処をしなかったこと、etc.が記されています。

 救い主イエス様の場合は、イエス様ご自身が犯した愚かさや罪というものはなく、全世界の人々の罪や愚かさを、イエス様が身代わりにその身に負ったのです。
 1ヨハネ22には、“彼〔イエス(筆者挿入)〕は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。”(口語訳)とあり、
 1ペトロ(ペテロ)2章には、次のように記されています。
22 「この方は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節を聖書協会共同訳は、“わが主、万軍の主よ。あなたに望みを置く人が、私のことで恥じ入ることがありませんように。
イスラエルの神よ。あなたを尋ね求める人が私のことで屈辱を受けることがありませんように。”と訳し、
 リビングバイブルは、“ああ主よ。この私の存在が、あなたを信頼しようとする人々にとって、つまずきとなりませんように。混乱を引き起こす原因となりませんように。”と訳し、
新共同訳は、“万軍の主、わたしの神よ。あなたに望みをおく人々が、わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ。あなたを求める人々が、わたしを屈辱としませんように。”と訳し、
2017
は、“万軍の神主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。”と訳しています。

 ダビデが、罪を犯した、また愚かな対応をしたダビデ自身の心境を述べたとすると、リビングバイブル訳の様に、「ああ主よ。この私の存在が、あなたを信頼しようとする人々にとって、つまずきとなりませんように。混乱を引き起こす原因となりませんように。」という訳になると思います。
私たちキリスト者も、「私を見ないで、キリストを見てください。」と言うような時があります。
パウロの様に、「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント1112017)とは、私などはとても言えません。

 新共同訳の様に、「万軍の主、わたしの神よ。あなたに望みをおく人々が、わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ。あなたを求める人々が、わたしを屈辱としませんように。」と訳すと、苦しみを受けている救い主イエス様が、主を信じる人々のために、とりなしをしているように思えてきます。

 2017の様に、「万軍の神主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。」という訳も、前述(新共同訳の解説)と同じように取れますし、また、弟子の宣教活動の場合における主のとりなしの祈りのようにも思えます。

 ただし、主は、弟子たちに、「・・・。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16362017)とも語られました。

 8-10節には、
8 私はあなた〔父なる神(筆者挿入)〕のゆえにそしられ、顔は恥辱に覆われています。9 兄弟にとっては見知らぬ者。同じ母の子らにとってはよそ者となりました。10 あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし、あなたをそしる者のそしりが、私の上に降りかかっています。”とあります。

 この個所は、イエス様のことに関してのみ取り上げます。
使徒ヨハネは、ヨハネの福音書2章に、10節を次の様に引用しています。
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
14
 そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが座っているのを御覧になった。
15
 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。
「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
17
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また、マタイ12章には次のように記されています。
46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。
47
 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
48
 イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」
49
 そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。50 天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 マルコ321には、マタイ1246の原因が次のように記されています。
“・・、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。”(2017)とあります。

 また、救い主イエス様が、十字架につかれていた間、母マリアは、十字架の近くにいましたが、イエスの肉の兄弟たちが近くにいたという記事はないと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日の主題からは外れますが、イエス様は、「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と語られました。
また、イエス様は、「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、」(ヨハネ6402017)とも言われました。
この世の肉的関係は、この世で終了しますが、主を信じる人は、「神の家族」(エペソ219)として永遠を生きることを覚えます。
常に、上にあるものに心をとめつつ(コロサイ31)、地上のことも思いつつ、地上のことに縛られすぎることなく、日々歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どのような時にも、霊によって祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ618・聖書協会共同訳) 

2023年5月24日 (水)

申命記14:1.2 主の宝の民/キリスト者はキリストの証人

 申命記141.2には次のように記されています。
1 あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。死者のために自らを傷つけたり、額をそり上げてはならない。
2
 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主はあなたをご自分の宝の民として、地上のすべての民の中から選んだのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には、“あなたがたは、あなたがたの神、主の子らである。死者のために自らを傷つけたり、額をそり上げてはならない。”とあります。

 小預言書の中にアモス書という書があります。
アモスという人は、ベツレヘムの南約9㎞の所にあったテコアという所(ヨシュアの時代にユダの地として分割された土地の中にあります)で、いちじく桑の木を栽培し、羊を飼って生計を立てていた人ですが、北イスラエルのための預言者として主から召された人です。”(アモス11714.15

 預言者アモスは、神ヤハウェ(主)の御言葉として、次のように語った個所があります。
9 その日になると、私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を闇とする――主なる神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕の仰せ。
10
 私はあなたがたの祭りを喪に、喜びの歌をことごとく哀歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪もそり落とさせ、独り子を亡くしたような喪に服させ、その最期を苦しみの日にする。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 申命記141.2に関して、注解付新改訳聖書の注は、“死者のための異教的服喪の習慣を禁じている。この服喪の仕方は、古代オリエントで広く行われていた。後には、イスラエルもこの習慣に染まった(アモス810)”と述べています。

 申命記141〔&2(筆者挿入)〕についての注解&適用に関して、BIBLE naviは、
“これ〔1節(筆者挿入)〕は、死者の儀式である。今日の多くの他の宗教には、死者のための崇拝や儀式が存在する。しかし、キリスト教とユダヤ教の、他の宗教との決定的な違いは、この人生における神への奉仕に集中することである。死人のことばかり考えて、自分を見失うことなく、まだ生きている間に、神から授かった仕事を遂行することに集中すべきである。”と述べています。

2節には、“あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主はあなたをご自分の宝の民として、地上のすべての民の中から選んだのである。”とあります。

 申命記142の「あなたは」とあるのは、イスラエルを指しています。
出エジプト19章には次のように記されています。
1 イスラエルの人々はエジプトの地を出て、三度目の新月の日にシナイの荒れ野にやって来た。2 彼らはレフィディムをたってシナイの荒れ野に入り、その荒れ野で宿営した。イスラエルはそこにある山の前に宿営した。
3
 さて、モーセが神のもとに登って行くと、主が山から呼びかけられた。
「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい。
4
 『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。5 それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。6 そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
7
 そこでモーセは戻り、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらの言葉をすべて彼らの前で語った。
8
 すると民は皆、口をそろえて答えた。
「私たちは、主が語られたことをすべて行います。」
そこでモーセは主に民の言葉を持ち帰って伝えた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この後、神ヤハウェ(主)は、イスラエルに十のことば(十戒)を与え、さらにわかり易くした法を与え、雄牛の血をもって契約を結んだのです(出エジプト201-248)。

 私たちキリスト者は、申命記142をどのように捉えたらよいのでしょう。
1
ペトロ(ペテロ)2章には次のように記されています。
3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。
4
 主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。
5
 あなたがた自身も生ける石として、霊の家〔キリストのからだ{エペソ123}(筆者挿入)〕に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです
6
 聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、私は選ばれた尊い隅の親石をシオンに置く。これを信じる者は、決して恥を受けることはない。」〔イザヤ2816からの引用(筆者挿入)〕
7
 それゆえ、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者にとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」〔詩篇11822からの引用(筆者挿入)〕のであり、8 また、「つまずきの石、妨げの岩」〔イザヤ814からの引用(筆者挿入)〕なのです。彼らがつまずくのは、御言葉に従わないからであって、そうなるように定められていたのです。
9
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司〔「王である祭司」(新改訳)〕、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者はキリストの証人として立てられています。
使徒18に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(新共同訳)と、主キリスト・イエス様が言われたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
地上に置かれている間、主の証人として証しし続けていけますよう助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月23日 (火)

マタイ22:15-22 人を貶めようとする人の質問に対する答え

 マタイ2215-22には次のように記されています。
15 その頃、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉尻を捕らえて、罠にかけようかと相談した。16 そして、その弟子たちをヘロデ党の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。
「先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをなさらないからです。17 ところで、どうお思いでしょうか、お答えください。皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。」
18
 イエスは彼らの悪意に気付いて言われた。
「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。19 税金に納める硬貨を見せなさい。」
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
20
 イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。
21
 彼らは、「皇帝のものです」と言った。
すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22
 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所には、ファリサイ(パリサイ)派の人々、ヘロデ党の人々、主イエス様が登場しています。

 ファリサイ派とは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、
“パリサイ人,ファリサイ派,ファリサイ人ともいう。前2世紀のマカベア戦争直後から紀元1世紀頃にかけて存在したユダヤ教の一派。語義は「分離した者」。ハシディーム派の敬虔な一派が祖という。律法厳守に徹して民衆や他宗派に接せず,ユダヤ教の創始者エズラに従い,口伝律法も成文律法と同様に権威を有するとしてその拘束性を主張。サドカイ派と異なり,非ユダヤ的なものに反対し,熱心党が目指したような政治闘争には加わらず,死後の応報,肉身のよみがえりを信じ,自由意志と予定の結合を唱えた。キリストの教説に反対し,福音書では偽善者と非難されるが,宗派としては純正な立場をとりシメオン,ザカリアス,パウロなどすぐれた人材を擁していた。前2世紀から紀元 70年のエルサレム陥落まで勢力を保ち,ヘロデ大王の頃 6000人に達したという。しかし 70年以後も残存し,ラビの思想に影響を残した。”とあります。

 ヘロデ党とは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、
1世紀に存在したユダヤのヘロデ王家 ( 37~後 92) 支持派。思想的には対立するパリサイ派と結んでキリストを磔刑にいたらしめた。『マルコによる福音書』36節,『マタイによる福音書』 22 16節に記事がある。彼らの実体については,すでに教父の時代から見解が分れているが,最近の有力な説では,ユダヤ教の歴史家ヨセフスが「ヘロデの親衛隊」と呼んでいる人々と同一視されている。”とあります。

 ヘロデ家の者たちは、ローマに支えられている政治的な分野での支配者層ですから、ファリサイ(パリサイ)派の者たちとヘロデ党の者たちとは、元来、相容れない存在者同士でした。
しかし、主イエス・キリストを抹殺するために、両者は手を組んだのです。

 民衆の間で、人気が高まっていた主イエス様を貶めるために主イエス様を罠にかけたのです。
罠の中心的な質問は、「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。」(17)という内容でした。

 ローマの統治下におかれているユダヤ人は、ローマ帝国に税金を納める必要があったのです。
 一方、宗教的集団であるファリサイ派の人々は、ユダヤを律法に基づく宗教国家としたかったのです。ですから、ローマの支配を快く思っていませんでした。

 もし、イエス様が、「皇帝に税金を治めることは正しいことである」と答えたら、唯一の王である神の国を待ち望んでいるファリサイ派の人々は、主イエス様を神の敵として排斥することが出来たでしょう。

 一方、イエス様が、「皇帝に税金を納めることは正しいことではない」と答えたら、ローマに取り入って甘い汁を吸っている人たちは、イエス様をローマに対する反逆の罪で、イエス様をローマに引き渡すことが可能であったのです。

 イエス様を罠にかけようとしたファリサイ派の人々とヘロデ党の人々は、自分たちが掛けた罠に逆にはめられてしまいました。
イエス様と彼らとのやり取りは、18-22節に、
18 イエスは彼らの悪意に気付いて言われた。
「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。19 税金に納める硬貨を見せなさい。」
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
20
 イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。
21
 彼らは、「皇帝のものです」と言った。
すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22
 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者も厳しい立場に立たされることがあります。
その時は先ず主に祈ることです。
 主イエス様が弟子の派遣に関して語られた話の中の、マタイ1016-20には次のように記されています。
16 「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。
17
 人々には用心しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる。
18
 また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
19
 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。20 というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 いざというときには、私たちの内におられる父の霊が語ってくださるのです。
しかし、それは、私たちの肉体を守るというような内容とは限りません。
私たちは、主を証しするためにたてられているのですから。キリスト者はキリストの証人です(使徒18)。
マタイ1028には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(新共同訳)と主イエス様の御言葉が記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
大切なところで肉的な応答をしてしまうことなく、ただちに祈り、神の霊の導きによって応答する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月22日 (月)

箴言22:17-21 神のことば/キリスト者に対するカウンセリング

 箴言2217-21には次のように記されています。
17 耳を傾けて、知恵ある人の言葉を聞け。私の知識に心を向けよ。
18
 これらを体の中に納め、一つ残らず唇に備えるのは甘美なことだから。
19
 あなたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼する者となるため、私は今日、特にあなたに知らせる。
20
 私の判断と知識による三十句をあなたのために書かないことなどありえようか。
21
 それは真実〔真理(2017)〕の言葉が信頼できることをあなたに知らせ、真実〔真理(2017)〕の言葉をあなたの使者に持ち帰らせるため。”(聖書協会共同訳)とあります。

 箴言2217-2434は、「知恵ある人たちの言葉」です。
 17節の「知恵ある人」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーカム」の複数形で、「ハーカム」は、「賢い」「賢く行動する」の意で、2017は複数形であることがわかるようにと「知恵のある者たち」というように訳したのでしょう。

 17節の「私の知識」と訳されている語のヘブライ語原語の「私」は単数形です。
ですから、箴言2217-2434は、「知恵ある人たちの言葉」を、これを記した人がまとめたのではないかと想像します。

 ここに登場する「私」という人は、三十の句を書いたのですが、その句を渡した相手はおそらく高貴な人であったのでしょう。受け取る側の人の使者がその主人のために受け取っているのですから(21節参照、個人的推測の範囲)。

 三十の句を書いた理由は、「あなたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼する者〔拠り頼む者(2017)〕となるため」(19・聖書協会共同訳)であると述べています。

 具体的な内容は、箴言2222-2434に記されています。

 さて、話は変わりますが、私たち新約の聖徒はなんと恵まれていることでしょうか。
パウロは、「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(ローマ11332017)と述べ、
また、コロサイ23には、「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(2017)と記しています。
知恵と知識との富はすべてキリストの内に在るのです。当たり前のことですが。

 使徒ヨハネは、ヨハネ11に、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(2017)と述べ、
ヨハネ114では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(2017)と記しました。

 啓示の書である黙示録を書くように主に召されたヨハネは、黙示録1章に、“17 ・・・。「恐れることはない。わたしは、初めであり、後わりであり、18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみ〔ギリシア語原語は「ハデス」(筆者挿入)〕のかぎを持っている。19それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後(のち)に起ころうとしていることを書きしるせ。」”(2017)と主キリスト・イエス様から言われたのです。

 そして黙示録1913を読むと、再臨されるキリストは、「神のことば」と天で呼ばれていることも知るのです

 またヨハネは次の様にも記しています。
「私は、この世界が造られる前から存在しておられたキリストをこの目で見、そのことばをこの耳で聞き、その体にこの手でふれました。キリストは、神のいのちのことばです。」(1ヨハネ11意訳・リビングバイブル)と。

 また主イエス様ご自身が、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ1462017)、「わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(ヨハネ14102017)、「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」(ヨハネ14242017)と語っておられるのです。

 御父は次のよう語られました。
「これ〔御子イエス(筆者挿入)〕はわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(マタイ1742017)と。

 教会の中にもこの世の方法のカウンセリングが入ってきているとも聞いますが、キリスト者に対しては、キリストがカウンセラー(Counselor)なのです。
イザヤ96には、キリストを指して、「Wonderful Counselor」(NIV)と記されています。

 キリスト者に対しては、キリストの言葉による(神のことばによる)カウンセリングが必要なのです。
この世の方法は、異なる霊の導きによる場合があります。
コロサイ28には、「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」(2017)と記されています。

 キリストを信じようとはしないところのこの世の人から相談を受けた時には、この世の方法をとる私ではありますが、キリスト者に対しては、御言葉こそ大切であると考えています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様は、悪魔に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と断言されましたが、私たちキリスト者は、日々あなたの御言葉によって生かされておりますことを感謝します。
「キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」から感謝します。
また御父が、「御子に聞け」、と力強くおっしゃいますから励まされます。
今日も主に感謝しつつ、主により頼みつつ、主の愛に包まれて歩むひと日でありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「みことばなる」(聖歌500 聖歌総合版518 新聖歌316
“1.みことばなる 光のうち 主と共に歩まば 行く道筋 照らし給わん より頼む 我らに げに主は 依り頼みて 従う者を 恵み給わん”

2023年5月21日 (日)

詩篇69:1-5 ダビデの苦しみは受難のキリストの予表、及びキリストの受難の預言(1)

 詩篇691-5には次のように記されています。
1 指揮者によって。「百合」に合わせて。ダビデの詩。
2
 神よ、私を救ってください。大水が喉元にまで迫っているからです。
3
 私は深い泥沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深みに沈み、激流が私を押し流します。
4
 叫び疲れて、喉は涸れ、わが神を待ち望み、目は衰えました。
5
 いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。私は自分が奪わなかったものさえも償わなければなりません。
(口語訳、新改訳は、聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳の一節を表題として扱っていますので1節ずつずれています。)

 原始教会では詩篇69編をメシア受難の詩編として尊重したとのことです。

岩波訳聖書の注には、“この詩篇は、神に仕える熱心の故に無実の罪を負って苦しむ人の、救いを待ち、敵への報復を願う、祈りと賛美”とあります。

 おそらくダビデは、この詩篇に記したような苦しみを味わったことがあるのでしょう。
ダビデは、サウル王とその軍隊からの断続的な長く続く攻撃による命の危機を味わい、周辺諸国との戦いにおいては、危機的状況に遭遇したこともありました。また、息子アブサロムの謀反の時には、エルサレムから逃げました。またダビデは自身が犯した罪(バテ・シェバ事件)のゆえに苦しみを味わったこともあります。

 2-5節には、
2 神よ、私を救ってください。大水が喉元にまで迫っているからです。
3
 私は深い泥沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深みに沈み、激流が私を押し流します。
4
 叫び疲れて、喉は涸れ、わが神を待ち望み、目は衰えました。
5
 いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ダビデは、自分の命の危機を上記の2.3節の様に表しました。
実際ダビデは、親友ヨナタンに自分の危機的状況を次のように言い表しています。
1 ダビデはラマのナヨトから逃げ、ヨナタンの前に来て言った。
「私が何をし、私にどのような過ちがあるのでしょう。あなたの父上〔サウル王(筆者挿入)〕に対し、私がどのような罪を犯したというのでしょう。あの方〔サウル王(筆者挿入)〕は私の命を狙っています。」
2
 ヨナタンはダビデに言った。
「いや、あなたが死ぬようなことはない。実際、私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れることなしに、何かをするというようなことはしない。どうして父が、そのようなことを私に隠すことがあろうか。そのようなことはない。」
3
 それでもダビデはこう誓った。
「お父上は、私があなたの好意を得ていることをよくご存じです。それでヨナタンが悲しむといけないから、知らせないでおこうと考えておられるのです。主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます〔「主とあなたにかけて誓います」の意(筆者挿入)〕。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」”(1サムエル20章・聖書協会共同訳)と記されています。

 ダビデはこのような状態から解放されるようにと祈ったことでしょう。しかしその祈りは中々聞かれなかったのです(4.5節)。おそらく10年間、あるいはそれ以上の期間、聞かれなかったと思います。
サウル王からの繰り返しの攻撃は、おそらく10年以上続いたのです(1サムエル1733186-11191a,9-112111-14221237-13a,15-26241-3261-42サムエル54をすべて参照)。

 話は変わりますが、御子イエス様は、永遠の過去から十字架にかかられてすべての人の罪を身代わりに負われる直前まで、ひと時も御父から離れたことはなく、常に御父と愛の交わりの中にいたのです。
救い主イエス様が、私をも含めた全世界の罪をすべて身代わりに負って(1ヨハネ22)十字架上で裁かれたとき、御父は、御子イエス様から離れたのでしょう。
おそらくその初めは、正午であったのではないでしょうか?私の推測ですが。
マタイ2745には、“さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。”(2017)と記されています。
続く46節には、“三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。”(2017)と記されています。

 十字架の約1000年前に、ダビデの詩として、詩篇22篇にダビデは次のように記しています。これはダビデの体験であったとともに、キリストの十字架の予表であり、また預言であったと思います。
1 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
2
わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかし、あなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。”(2017)とあります。

 夜のゲッセマネでの祈りも、主イエス様の最初の祈りは答えられませんでした。
ルカ22章に次のように記されています。
39 イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
40
 目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
41
 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
42
 「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」
43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕{初期の写本には43.44節を欠くものが多い(2017欄外注)}
45
 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは心痛のあまり眠り込んでいた。
46
 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 5節には、“いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は、十字架上で痛みと苦しみに満たされていたと思われるのに、
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23342017)と祈られたのです。
祈られた人たちは、どのような人たちであったのでしょうか?
 ルカ23章には、
18 しかし、人々は一斉に、「その男〔イエス(筆者挿入)〕は連れて行け。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
19
 このバラバは、都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
20
 ピラトはイエスを釈放しようと、改めて呼びかけた。
21
 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
22
 ピラトは三度目に言った。「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる罪は何も見つからなかった。だから、懲らしめたうえで、釈放することにしよう。」
23
 ところが、人々は、イエスを十字架につけるように大声で叫んでやまなかった。そしてついに、その声がまさった。/
35
 民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36
 兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、37 言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38
 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。
39
 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 A.B.Simpsonは歌いました。
「かくも主は悩み かくも愛し 主の花嫁と我を為しぬ 我が内に主はいます くすしくも妙なり 我が内にいます主は 来るべき王なり」と。(「聖歌592「神の子なるイェス」の2節、聖歌総合版は630番、新聖歌は342番)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主イエス様の贖いを感謝します。
死から買い取られた者は、奴隷とされても文句も言えません。
しかし、主はご自身の血をもって私たちを買い取ってくださって、御父は、私たちをキリストの花嫁となさったのです。
旧約最大の預言者であるバプテスマのヨハネでもキリストの友人です。
キリスト者は何という恵みを与えていただいたことでしょう。
主の愛にこたえて、主を愛し、喜びをもって主に従い続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「われ贖(あがな)われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストに在(あ)りて 平安(やすき)身なり
(折り返し)* 贖い 贖い 我は歌わん ハレルヤ! ときわに 我は歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて 「ハレルヤ」を叫ぶ 身とはなりぬ
  *
3.負(お)い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる
  *
4.われはイエスのもの 主はわがもの 御霊の証しは 心にあり
  *”

2023年5月20日 (土)

申命記13:7-19 他の神々へと誘ういかなる人からの誘いにも乗らないこと/イエス・キリストの他に救いはありません

 申命記137-19には次のように記されています。
7 たとえ、同じ母から生まれたあなたの兄弟、あるいは、息子か娘、愛する妻か無二の親友があなたを誘って、
「さあ、あなたも先祖も知らない他の神々に仕えようではないか」
とひそかに言っても、8 それがあなたがたの周りにいる民の、あなたの近くにいる神々であろうと、地の果てから果てにいる民の、あなたから遠い神々であろうと、9 あなたはその者に同調したり、耳を貸したりしてはならない。そのような者に憐れみの目を向けたり、同情してかばったりしてはならない。
10
 あなたはその者を必ず殺さなければならない。殺すには、まずあなたが手を下し、それから他のすべての民が手を下しなさい。11 その者を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出したあなたの神、主から、あなたを引き離そうとしたからである。
12
 イスラエルのすべての人々はこれを聞いて恐れ、あなたの中で、このような悪事が二度と行われることはないだろう。
13
 もし、あなたの神、主が、あなたに与えて住まわせる町の一つで、14 よこしまな者があなたの中から出て、
「さあ、あなたがたが知らない他の神々に仕えよう」
と言って、町の住民を惑わせていると聞いたなら、15 それを調べ、探り、よく問いただしなさい。そして、もしそのことが確かな事実であり、この忌むべきことがあなたの中で行われたのであれば、16 あなたは必ずその町の住民を剣で打ち殺さなければならない。その町とそこにあるすべてのもの、家畜も剣で滅ぼし尽くしなさい。17 そして、すべての戦利品を広場の中央に集め、町もろともそれを火で焼いて、あなたの神、主のために献げ尽くしなさい。町はとこしえに廃虚の丘となり、再び築かれることはない。18 その滅ぼし尽くすべきものが何一つあなたの手に残らないようにしなさい。そうすれば、主はその燃える怒りを収め、あなたに憐れみを与え、先祖に誓われたとおり、憐れみをもってあなたの数を増やしてくださる。
19
 あなたは、あなたの神、主の声に聞き従い、私が今日命じるすべての戒めを守り、あなたの神、主の目に適う正しいことを行いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 家族や無二の親友からの背教への誘いとその対処方法、そしてヤハウェ(主)が命じた対処方法についての理由が、7-12節に、
7 たとえ、同じ母から生まれたあなたの兄弟、あるいは、息子か娘、愛する妻か無二の親友があなたを誘って、
「さあ、あなたも先祖も知らない他の神々に仕えようではないか」
とひそかに言っても、
8
 それがあなたがたの周りにいる民の、あなたの近くにいる神々であろうと、地の果てから果てにいる民の、あなたから遠い神々であろうと、
9
 あなたはその者に同調したり、耳を貸したりしてはならない。そのような者に憐れみの目を向けたり、同情してかばったりしてはならない。
10
 あなたはその者を必ず殺さなければならない。殺すには、まずあなたが手を下し、それから他のすべての民が手を下しなさい。11 その者を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出したあなたの神、主から、あなたを引き離そうとしたからである。
12
 イスラエルのすべての人々はこれを聞いて恐れ、あなたの中で、このような悪事が二度と行われることはないだろう。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 イスラエルは神ヤハウェ(主)と契約を結んだ民でした。
イスラエルは、地上における神ヤハウェ(主)の国{ヤハウェ(主)が支配される国}でした。旧約における背教は、ヤハウェ(主)を捨てて偶像礼拝に走ることです。

 天より降られ人となられた第二位格の神であられる御子イエス様は、律法の中で一番重要なことについて、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22372017)ということであると教えられました。

 今日の聖句の個所では、背教に誘う者を殺しなさい、と命じられています。
元来、律法は、イスラエルに与えられたものです。
申命記413には、“主はご自分の契約をあなたがた〔イスラエル(筆者挿入)〕に告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。”(2017)と記され、
詩篇14719.20には、“主はヤコブ〔=イスラエル(筆者挿入)〕にはみことばを、イスラエルにはおきてとさばきを告げられる。主はどのような国々にもこのようにはなさらなかった。”(抜粋・2017)と記され、
ローマ94には、“彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。”(2017)と記されています。


新約の地上における神の国(神が支配される国)は、この世のものではなく(ヨハネ1836)、霊的な教会です(エペソ123、コロサイ118)。

新約の背教の根本は、人となってこられた神である御子イエス・キリストを認めないことです(ヨハネ114、1ヨハネ222)。
救い主は、イエス・キリストしかいないのです。
使徒48-12には次のように記されています。
8 その時、ペトロは聖霊に満たされて言った。
「民の指導者たち、また長老の方々、9 今日私たちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によって癒やされたかということについてであるならば、10 皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。
この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。
11
 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石』です。
12
 この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 律法では、背教をさせようとしたものを殺しなさい、とありますが、霊的な教会の場合は「除籍」ということになるでしょう。

 今日の個所のまとめとして、1コリント59-13を下記します。
9 私は前の手紙で、淫らな者と交際してはいけないと書きました。
10
 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を礼拝する者と一切交際してはいけない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かなければならないでしょう。
11
 今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです
12
 外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。あなたがたが裁くべき者は、内部の人々ではありませんか。
13
 外部の人々は、神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪人を除き去りなさい。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 余談になりますが、1コリント512.13の「外部の人々を裁くこと〔について(筆者挿入)〕・・・外部の人々は、神がお裁きになります。・・・」という個所も重要に思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
まずは自分自身が、あなたの子どもとしてふさわしく歩むことが出来ますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月19日 (金)

マタイ22:1-14 王子の婚礼の祝宴に出席できる人とできない人/救いは主イエス・キリストによる贖いと主キリスト・イエスを信じる信仰による

 マタイ221-14には次のように記されています。
1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
2
 「天の国は、ある王が王子のために婚礼の祝宴を催したのに似ている。
3
 王は家来たちを送り、祝宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
4
 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜 を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。」』
5
 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
7
 王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
8
 そして、家来たちに言った。
『祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9 だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。』
10
 それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。
11
 王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。
12
 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。
この者が黙っていると、13 王は召し使いたちに言った。
『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』
14
 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節の「天の国」(聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、塚本訳)、「天の王国」(岩波訳)、「天国」(前田訳、口語訳、文語訳)、「天の御国」(新改訳、リビングバイブル)と訳されている語のギリシア語原語は、マタイ53.1013.11.24.31.33.44.47に出てくるものと同じで、「天」(ウラノス)、「王国」or「御国」or「国」(バシレイア)の両単語の前には定冠詞がついています。
天の王国とは、まことの神様が支配される国のことです。ですから、神の王国は天上にも地上にもあるのです。地上にあるのは教会{(キリストのからだ)エペソ123、コロサイ118a}であり、霊的なものです。

 3節には、“王は家来たちを送り、祝宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。”とあります。
これは福音宣教をしても「イエスがキリスト」である(イエスが救い主であり主である)ということを受け入れなかった人たちです。
主イエス様が十字架にかかられる以前の福音宣教とユダヤ人たちの対応を大雑把に譬えているのだと思います。

 4節には、“そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜 を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。」』”とあります。
牛や肥えた家畜を屠ったというのはキリストの十字架を旧約的に語っているのでしょう(レビ記1-5章)。
特に、主の御前でのお食事は、主と共なるお食事であり、レビ記3章には、「酬恩祭の犠牲」(口語訳、文語訳)、「和解のいけにえ」(新改訳初版~第三版)、「和解の献げ物」(新共同訳、フランシスコ会訳)、「交わりのいけにえ」(新改訳2017)、「会食のいけにえ」(聖書協会共同訳)と記されているものです。

 5.6節には、“5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。”とあります。
これは、キリストの十字架と復活後にイスラエル人になされた福音宣教の時代の譬えでしょう。イスラエル人の中でもキリスト・イエス様信じて救われた人たちはいましたが多くの人は信じませんでした。
ステパノや使徒ヤコブは殉教しました。聖書には記されていませんが、その方々以外にも牢に入れられたり殉教した人もいたのです。
 
 7節には、“王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。”とあります。
A.D.70
年にローマ軍によってエルサレムは陥落しました。
マタイ242が成就したのです。
マタイ241.2には、次のように記されています。
1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。2 イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様がこのように語られる前に、次のように語られました。マタイ23章には次のように記されています。
34 だから、私は預言者、知者、学者をあなたがたに遣わすが、あなたがたはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くであろう。35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたがたが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血がことごとく、あなたがたに降りかかってくる。36 よく言っておく。これらの報いはみな、今の時代に降りかかってくる。」(聖書協会共同訳)とあります。

 8.9節には、“8 そして、家来たちに言った。『祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9 だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。』”と記されています。
ユダヤ人の中でも主キリスト・イエスによる救いを受け入れた人々はいましたが(使徒241.4761)、ユダヤ人の多くは、主キリスト・イエスによる救いを拒絶しました。
異邦人伝道は、A.D.70年以前に、すでに、コルネリオとその家族及びコルネリオのかかわりの人々から始まりましたが、A.D.70年にはエルサレム神殿が陥落し、福音宣教は、ユダヤ人から異邦人へと完全に移行していったのだろうと推測します。

 10節には、“それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。”とあります。
福音の世界宣教です。

 10-12節には次のように記されています。
10 それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。
11
 王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。
12
 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。
この者が黙っていると、13 王は召し使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』”とあります。

 義の衣を着ていない者は外に出されてしましました。
主キリスト・イエス様を信じた人、すなわち心に受け入れた人は、義の衣を着せられるのです。
1
コリント130には、“神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(新共同訳)とあります。
新改訳初版~第三版は、“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と記しています。
キリストが、主イエス様を信じる私たちの義となってくださったのです。

 またローマ3章には次のように記されています。
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです
25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです
26
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです
27
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。”(新共同訳)とあります。

 私たちが主イエス様を信じることが出来たのは、神の恵みであり、神の業です(エペソ28、ヨハネ629)。

 14節に、“招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。”と記されています。
福音を聞いた人は数多くいます。しかし、福音を信じた人は少ないのです。
イエス様は言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713.142017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
御子イエス様を、救い主として、主として、信じさせてくださいましたことを感謝します。
あなたの御言葉にふれて信じ救われていく人々が起こされますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月18日 (木)

箴言22:15 愛に基づく教えと訓練

 箴言2215を、
2017
は、“愚かさは子どもの心に絡み付いている。懲らしめのむちがこれを子どもから遠ざける。”と訳し、
新共同訳は、“若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭しの鞭。”と訳し、
リビングバイブルは、“若者は反抗心でいっぱいですが、正しく罰すれば素直になります。”と訳しています。

 「子ども」、「若者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ナアル」で、少年、少女、子ども、若者、召使い、等の意があります。

 後半部分の「むち」と訳されている語のヘブライ語原語は「シェベト」で、原義は、「切り離された枝」で、子孫、接ぎ木の若枝、棒、木製の鞭、木の枝、細長い棒、・・等の意があります。

 箴言2215の新共同訳の前半部分には、若者の心には無知がつきもの。”と記されています。
私は、後期高齢者になっていますが、未だに知らないことだらけです。

 最初にBIBLE naviの適用注解の個所を転記します。
“幼い子どもは、何が起こるかを理解していないので、愚かで危険なことをする。知恵と一般常識は、親の良い模範だけでは伝わらない。私たちが良くなるよう神が私たちを訓練し、叱責なさるように、親は、子どもが善と悪の違いを学べるように、彼らを懲らしめなければならない。神がどのように私たちを叱責されるかについては、31112を読もう。”と記しています。
とのことですので、箴言311.12の聖句と、その箇所の適用注解をも下記します。

 箴言311.12には、
11 わが子よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。
12
父がいとしい子を叱るように、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は愛する者を叱る。”(2017)と記されています。

 BIBLE vaviの適用注解は次のように述べています。
“「懲らしめ」とは、「教え、訓練すること」を意味する。「懲らしめ」が多くの人にとって否定的な響きを持つのは、懲らしめる者たちに愛がなかったからだ。だが、神はすべての愛の源であられる。神が私たちを罰するのは、痛みを与えることを楽しむためではなく、私たちの成長に深く配慮しておられるゆえである。神は、私たちが道徳的に強く良い状態になるためには、善と悪の違いを学ばなければならないことを知っておられる。私たちはそのことを神の愛ある懲らしめによって学ぶことが出来るのだ。
 状況を後で振り返るまで、神がいつ懲らしめておられるのかを知るのは困難である。もちろん、すべての災難が直接神から来るのではない。しかし、もし私たちが神に反逆し、生活の中の罪を神が明らかにされるとき悔い改めることを拒むなら、神は私たちをご自身のもとに引き戻すために、罪悪感や危機や悪い経験を用いられる可能性がある。だが、時に、ひどい罪を犯していないときでも困難が訪れることがある。その場合は、私たちは忍耐と誠実をもって反応するべきであり、何をするべきかを神が示してくださると確信を持つべきである。”と記しています。

 BIBLE vaviの適用注解に記されている、“「懲らしめ」とは、「教え、訓練すること」を意味する。・・・・神は・・・愛の源であられる。”という個所がありますが、この個所を書きながら、エペソ51.2の個所に関する私の体験を思い起こしました。
その証は、2013811 ()付の、「トミーの聖書理解」に次のようにあります。
その時のお祈りをも含めて転記します。

“エペソ5:1.2
5:1こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。5:2また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」(口語訳)

 私にとってこの箇所は思い出深い箇所です。

この箇所は読めば誰でも理解できる内容です。しかし、実行となるとこれまた自分の力で出来るわけはないのです。

信仰を持たせて頂いて数年が経過した頃、この箇所を読んでいたときであったと思いますが、主が優しく包み込むように御声をかけてくださったのです。

「私は、あなたを愛しているよ。あなたも愛のうちに歩みなさい。」と

私は、それによって確かに変えられました。
主のみ言葉が生きて働いてくださったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは偉大な方です。
あなたは御声をかけてくださり、そのおことばは、私を変えてくださいます。
あなたのお言葉は、私達の内で生きて働きます。
みことばを用いて御霊が働いてくださるのでしょう。
ありがとうございます。
主の御名によってお祈りします。アーメン”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「何ゆえ御神は」(聖歌450 聖歌総合版462 新聖歌357
“1.何ゆえ御神は かかる身をも 神の子とせしか 知るを得ねど
(折り返し)* わがより頼む主は 委(ゆだ)ねたる身と魂(たま)を 守り得給(えたも)うと 確信するなり
2.何ゆえ御言葉 信ぜし時に 安きを得たるか 知るを得ねど *
3.何ゆえ主イエスを 救い主と 信じ救われしか 知るを得ねど *”

本当に大感謝です。ハレルヤ!

2023年5月17日 (水)

詩篇68:33-36 主に栄光を帰し、主を賛美せよ

詩篇6833-36には次のように記されています。
33 地にある王国よ、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕に向かって歌え。わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕にほめ歌を歌え〔セラ
34
 いにしえよりの天の天を駆って進む方に〔いにしえから、天の天を御される方に(2017)〕。神は声を、力強い声を発せられる。
35
 力を神〔エロヒーム(筆者挿入)〕に帰せよ。その威光はイスラエルの上に。その力は雲のかなたにある〔御力は雲の中にある(2017)〕。
36
 聖所におられる神〔エロヒーム(筆者挿入)〕こそ畏れられる方。イスラエルの神は民に力と権威を授ける方。神をたたえよ。”(聖書協会共同訳)とあります。
(新改訳、口語訳、リビングバイブルは、この個所を32-35節としています。)

 文章を書こうとする前に、以前この個所を扱った「トミーの聖書理解」{詩篇68:32-35 やがてイスラエルは高くあげられる}(2015/2/19)のところを読んでみました。
その結果、今の私は、それにあまり付け加えることがないと思い、それに加筆あるいは訂正してupしようと思いました。そのようなわけですがよろしくお願いします。

 “68:32地のもろもろの国よ、神にむかって歌え、主をほめうたえ。〔セラ
68:33
いにしえからの天の天に乗られる主にむかってほめうたえ。見よ、主はみ声を出し、力あるみ声を出される。
68:34
力を神に帰せよ。その威光はイスラエルの上にあり、その力は雲の中にある。
68:35
神はその聖所で恐るべく、イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな。(口語訳)

32節において、「地のもろもろの国よ、神にむかって歌え、主をほめうたえ。」という勧めをしています。

ダビデの時代は、イスラエル周辺のイスラエルに屈服した国々を「もろもろの国よ」と言ったかも知れません。しかし、やがて本当に全世界の国々が神に服し、神にほめ歌を歌う時が来ます。

旧約聖書のイザヤ4522-25には、
22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
23
わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。
すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、24 わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。
主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。
25
イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」(新改訳第二版)と記されています。

新約聖書のピリピ210.11には、「・・イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(新改訳第二版)と記されています。

33節の「天の天に乗られる主」を、新共同訳は、「高い天を駆って進む方」と訳しています。岩波訳は、「天なる天を駈ける方」と訳しています。

また、「主はみ声を出し、力あるみ声を出される。」とあります。

主は細き御声を出されること(1列王記1912)もあれば、神様の御声を聞くことの出来ない人にとっては、雷鳴のようにも聞こえる場合(ヨハネ1229)もあります。

34節に、「力を神に帰せよ。」とありますが、人間は、力を持てばすぐに自分が力を持った、と自分に帰してしまうのです。人間は、元来、神様が造られなかったら存在しなかった存在であるにもかかわらず、罪の中にある人間は、神様を度外視して偉くなったり、落ち込んだりするのです。

ほめたたえられる方は、万物を造られ、保持されている神様だけなのです。
神様は、万物を造られただけではなく、万物を保持することもしています。
へブル12.3には、
“・・・。神は・・・、御子によって世界を造られました。御子は・・・、その力あるみことばによって万物を保っておられます〔万物をその力ある言葉によって支えておられます(聖書協会共同訳)〕。”(2017)と記されています。

 余談になりますが、この御子は、次の様にも語りました。
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ2435、マルコ1331、ルカ21332017)と記されています。
今の天地を神様が崩壊させた後には、神様は、新天新地を創造されます。(2ペテロ310、黙示録2011、イザヤ6517、黙示録211等を参照)

話しを元に戻します。
「その威光はイスラエルの上にあり」とありますが、イスラエルが神様に従っていた時には、神様の威光はイスラエルの上にいつも輝いていました。イスラエルが神様に背いていた時は、裁きという形で、神様の栄光はイスラエルの上に輝いていました。それはこれからも同じです。

また、イエス・キリスト様の十字架と復活の故に、キリスト者の上にも神様の御栄光は輝いています。キリスト者自身はあまり気付きません。例えば、私が救われた時に、天使たちに喜びが湧き起って(ルカ157.10)、天使たちが神様をほめたたえ、神様に栄光を帰したことを私は知りませんでした(参考:黙示録512)。また、私のために祈って労してきた人たちは、その人達の内におられる神である聖霊と共に喜んだことでしょう。その時、霊的赤子である私はそれに気付きませんでした。私は救われたわずか数ヵ月後に、私が救われたのは、聖書をよく探求したからだとごう慢になりました。その瞬間、みことばを信じることが出来なくなり、救いの確信を失ったのです。その時の恐怖感は大きいものでした。私は地獄へ行ってしまうと大いなる恐怖を覚え、みことばを信じることが出来るようにと必死に祈りました。そして、信仰は主が与えてくださったものであることをその時悟らせて頂きました。その時間は短い時間でしたが、「サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ2231.32)というイエス様のおことばを聞いたのです。高慢になった瞬間に神様の許しのもと、サタンが来たのです。しかし、主イエス様のとりなし(ローマ834の最終部分)によって直ちに回復されたのです。

エペソ28.9に「・・あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(新共同訳)とありますが、このおことばを実体験してしまったのです。今から34年前の出来事です(現在は42年くらい前になると思います)。

栄光は元々神様のものです。人が受けることは的外れであり、神様の栄光を横取りすることになります。

詩篇291.2には、“力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。”(2017)と記され、
詩篇1151には、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(新改訳第二版)と記されています。

イザヤ4811で、「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(新改訳)と主ご自身が語っておられます。

34節に、「その力は雲の中にある」と記されています。岩波訳の注に、この「雲」は「天」と同義とあります。新改訳第二版は、「雲の上にある」と訳しています。新共同訳は、「神の威力は雲の彼方にある」と訳しています。

「雲の中にある」という訳からは、出エジプト時の「雲の柱、火の柱」を連想しますし、また、シナイにおいての出来事、出エジプト1916-19の「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」(新改訳第二版)という箇所を思い浮かべます。

この主が、私たちの内にもいてくださるのですから驚きです。その上、私たちは主の愛に包まれて歩ませて頂いているのですから大感謝です。もし、恐怖を携えて、主が出て来られたら、たまったものではありません。

35節に、「神はその聖所で恐るべく、イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな。」とあります。

新改訳第二版は、「神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。」と訳し、
 新共同訳は、「神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ。」と訳し、
 聖書協会共同訳は、「聖所におられる神〔エロヒーム(筆者挿入)〕こそ畏れられる方。イスラエルの神は民に力と権威を授ける方。神をたたえよ。」と訳しています。

イスラエルは、世の終わりに、それまで経験したことのない様な大患難を経験します(マタイ2421.22)が、キリストの再臨後は、地上のどの諸国よりも高く上げられるのです(イザヤ21-4)。

キリスト者の総体である教会は、この時は、既に天においてキリストとの結婚式と婚宴を終了しています(黙示録196-9)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イスラエル民族は、キリストの1000年王国において、高くあげられますが、その前には神様から練られる(ダニエル1210)ことが聖書に記されています。
私達キリスト者に対しては、主は、神のみこころはあなた方がきよくなることですよ(1テサロニケ43)とお声をかけていて下さいますから感謝します。
強制的に練られるのではなく、自発的にきよくされることを求め、主の御前に立つことが出来ますよう助けていて下さい。
立場的、法的には、イエス・キリスト様の血潮によって、聖なる者とされていますことを感謝します(へブル1010)。実質的にも、練られて、それに見合った者とされていきますように(1ペテロ115)。
黙示録198には、義の衣を与えてくだるとありますから、ありがとうございます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月16日 (火)

申命記13:2-6 神ヤハウェ(主)以外の預言者や夢占いをする者に従ってはならない

 申命記132-6には次のように記されています。
2 あなたの中に預言者や夢占いをする者〔「夢見る者」(2017)〕が現れ、しるしや奇跡を示し、3 その者が告げたしるしや奇跡が実現して、
「さあ、あなたの知らない他の神々に従い、仕えようではないか」と言っても、
4
 あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。
5
 あなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守り、その声を聞いて、主に仕え、主に付き従わなければならない。
6
 預言者や夢占いをする者は、死ななければならない。そのような者は、あなたがたをエジプトの地から導き出したあなたがたの神、主に背くように語り、あなたを奴隷の家から贖い出したあなたの神、主が歩むように命じられた道から外れるようにあなたを仕向けるからである。あなたは こうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳、リビングバイブルは、1-5節となっています。)

 「預言者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ナービー」です。
主の預言者であっても、主からの御言葉を預言する者ではなくても、預言者は「ナービー」というようです。
 申命記18章に、
15 あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。
16
 これは、あなたが集会の日にホレブで、あなたの神、主に
「私が死ぬことがないよう、私の神、主の声を二度と聞かず、また、この大いなる火を再び見ることのないようにしてください」
と言って求めたことによるものである。
17
 その時、主は私に言われた。
「彼らの言うことはもっともである。18 私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。19 彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する。20 ただし、預言者が傲慢にも、私の命じていないことを私の名によって語ったり、他の神々の名によって語ったりするならば、その預言者は死ななければならない。」
21
 もしあなたが心の中で、「私たちは、その言葉が主の語られた言葉ではないことを、どのように知りえようか」と考える場合、
22
 その預言者が主の名によって語っていても、その言葉が起こらず、実現しないならば、それは主が語られた言葉ではない。預言者が傲慢さのゆえに語ったもので、恐れることはない。”(聖書協会共同訳)と記されていますが、この聖句に記されている「預言者」のヘブライ語原語は、全て「ナービー」です。

 2.3節には、“2 あなたの中に預言者や夢占いをする者が現れ、しるしや奇跡を示し、3 その者が告げたしるしや奇跡が実現して、・・・”と記されています。
その上、神ヤハウェ(主)の預言者ではなくても預言を当て、奇跡を起こすこともある、ということが、続く3節後半部分の、“「さあ、あなたの知らない他の神々に従い、仕えようではないか」と言っても、”という個所から分かります。

 神は唯一であり、三一の神以外の神と言われるものは悪魔悪霊であると聖書は教えています。
1コリント84-6には、
4 そこで、偶像に献げた肉を食べることについてですが、この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。
5
 現に多くの神々や多くの主なるものがあるように、神々と呼ばれるものが天や地にあるとしても、6 私たちには、唯一の父なる神がおられ、万物はこの神から出、私たちもこの神へと向かっています。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。”(聖書協会共同訳)とあり、
 また、1コリント1019-21には、
19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像に献げた肉とは何であるとか、偶像とは何であるとか、言おうとしているのでしょうか。
20
 そうではなく、彼らが偶像に献げる物は、神ではなく悪霊に献げている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってほしくありません。
21
 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方にあずかることもできません。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 まことの神ヤハウェ(主)の預言者は、神から受けたものを人々に伝える役目であり、預言の内容はすでに語られたものもあれば、未来に起こる内容のものもあります。預言者とは、とにかく神から受けたものを語る者のことです。

 一方、神ヤハウェ(主)の預言者ではない預言者は、悪しき霊に教えられたことを語る場合もあれば、悪しき霊に憑依されて語る場合もあれば、自分の思考等の精神活動で得たもの、思いついたものを語る場合もあります。

 偽預言者について、エレミヤ23章には次のように記されています。
25 〔神ヤハウェ(主)がまことの預言者エレミヤを通して語っている個所です(筆者挿入)〕私の名で偽りを預言する預言者たちが、「私は夢を見た、私は夢を見た」と言うのを、私は聞いた。
26
 偽りを預言する預言者たちの心に、いつまで偽りがあるのだろうか。彼らは自分の心の欺き〔「心の偽りごと」(2017)、「自分で考えだしたこと」(リビングバイブル)〕を預言する者だ。
27
 彼らの先祖がバアルのゆえに私の名を忘れたように、彼らは互いに自分の夢を語って、私の民に私の名を忘れさせようともくろんでいるのだ。
28
 夢を見た預言者は夢を語るがよい。私の言葉を受けた者は私の言葉を真実をもって語らなければならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 夢占いは、占いの一種です。
ヨセフ(創世記37.39-48.50章)は、神ヤハウェ(主)からの夢を見た人です。
ダニエルは、神の霊によって、夢の解き明かしをしました。
新約時代になっても、預言の賜物を受けた人はいました。その一人にアガボという人がいました(使徒1127.28)。

しかし、聖書が完結した後には、主なる神様は、主にひたすら信頼することを求めています。
キリストの内に知恵と知識の宝のすべてが隠されているのです。
コロサイ2章には、
3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。
4
私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。
9
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
10
あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
多くの人は、未来について不安がある場合や将来における成功等のために預言を求めたり、占いに頼ったりすることが良くあります。
しかし、あなたは主に信頼しなさい、と教えてくださっておられますから感謝します。
いついかなる時にも、愛をもって最善を為してくださる主に信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3 主に信頼し、善を行え。地に住み、真実を育め。4 主を喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。5 あなたの道を主に任せよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”(詩篇37篇・聖書協会共同訳)
“神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて〔別訳「神が共に働いて万事において」、「霊が共に働いて万事において」(欄外注)〕益となるということを、私たちは知っています。”(ローマ828・聖書協会共同訳)

2023年5月15日 (月)

マタイ21:33-46 神の国は神の国にふさわしいものに与えられる

 マタイ2133-46には次のように記されています。
33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾(しぼ)り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
34
 収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕(しもべ)たちを農夫のところへ送った。
35
 ところが、農夫たちはその僕たちを捕(つか)まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
36
 また、前よりも多くの僕たちを送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
37
 そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
38
 農夫たちはその息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう。』
39
 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。
40
 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
41
 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません。」
42
 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。これは 主がなさったことで、私たちの目には不思議なこと。』
43
 だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。
44
 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される。」
45
 祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、46 イエスを捕(と)らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 とてもわかり易い譬えなので読んだだけで理解する人が多いのではないでしょうか。
まだ旧新約聖書を通読していない人のために、解釈を加えた訳の様にして下記してみます。

 33 父なる神様は、地上の神の国の中心地としてエルサレムを建てました。地上の神の国の人々を神の国の民としてふさわしくするようにと、その民を指導する宗教指導者も立て、彼らに神の国の民を委ねました。

 34 宗教指導者たちの指導によって、神の国の民が整えられていることを期待できるような時期に、預言者を使わしました。預言者とは、神の御言葉を預かり、神の御言葉を語る者です。

 35.36 ところがどうでしょう。王や宗教指導者たちは、預言者を迫害し、危害を加え、預言者によっては殺される者も出るという始末です。
預言者が迫害された例を少し述べてみましょう。
 2歴代誌24章には次のように記されています。
15 ヨヤダ〔エホヤダ(口語訳、新改訳)〕は年老い、生涯を全うして死んだ。百三十歳であった。16 彼は王たちと共にダビデの町に葬られた。イスラエルにおいて神とその神殿のために良いことを行ったからである。
17
 ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。
18
 彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪責のため、ユダとエルサレムに怒りが下った。
19
 彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が遣わされた。預言者たちが厳しく命じても、彼らは耳を貸さなかった
20
 祭司ヨヤダの子ゼカルヤ〔ゼカリヤ(口語訳、新改訳)〕は神の霊に包まれた。彼は民を見下ろして立ち、こう言った。
「神はこう言われる。『なぜ、あなたがたは主の戒めを破るのか。あなたがたは栄えない。あなたがたが主を捨てたから、主もあなたがたを捨てる。』」21 だが、ゼカルヤに対する陰謀が企てられ、彼は王の命令により主の神殿の庭で石で打ち殺された22 ヨアシュ王は、彼の父ヨヤダが示した慈しみを思い起こさず、その息子を殺したのである。ゼカルヤは死の間際に言った。「主が御覧になり、この血の責任を追及されますように。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 預言者エレミヤも迫害を受けました。
エレミヤ3715.16には次のように記されています。
15 高官たちはエレミヤに激怒し、彼を打ち叩き、書記官ヨナタンの家にある部屋に入れた。そこが牢獄として使われていたからである。
16
 エレミヤは丸天井のある地下牢に入れられ、長期間そこにとどまった。”(聖書協会共同訳)とあります。
 またエレミヤ386には、“そこで、彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ放り込んだ。彼らはエレミヤを綱でつり降ろしたが、水溜めには水がなく泥が溜まっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 アサ王は、最初の頃は預言者に従いましたが、晩年には、預言者を迫害しました。
2
歴代誌1610には、“アサは先見者〔預言者の別称(筆者挿入)〕に対して怒り、彼を獄に投じた。このことで、彼に激しい怒りを覚えたからである。この時、アサは民の中のある者たちを虐げた。”

 テキストに戻ります。
 37 そこで最後に、父なる神様は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送ったのです。それがイェシュア(イエス)でした。

 38.39 ところが、時の宗教指導者たちは、自分たちの権益を守ることと、主イエス様への妬みや憎しみのゆえに、主イエス様を十字架につけて殺したのです。
イエス様が十字架につけられたのは、エルサレムの都の外でした。

 40 裁きの時になったらどうなるのでしょう。

 41 父なる神様はエルサレムと宗教指導者たちを裁かれました。
A.D.70
年に父なる神様は、エルサレムがローマ軍に滅ぼされることを許可したのです。

 以上、イエス様のたとえ話をわかり易く書いてみました。

 42-44節には、主イエス様のまとめの御言葉が次のように記されています。
42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議なこと。』
43
 だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。
44
 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される。」”とあります。

 主イエス様こそ神の家の土台であり、上の部分を支える隅の親石であるのですが、生ける神の家を建てなければならなかった宗教指導者たちは、神のひとり子の御子であり主であるイエス様を捨てたのです。すなわち十字架につけたのです。
それ故、神の国は、神の国にふさわしい者たちに与えられました。

 44節をリビングバイブルは、“また、この真理の石につまずく者は打ち砕かれ、この石が落ちてくると、粉みじんにされます。”と意訳しています。
44
節は、キリストによる裁きを現わしているでしょう(ヨハネ522.27)。
ユダヤの宗教指導者たちは、真理を語られた主イエス様に躓(つまず)いたのです。
 また、教会時代に主イエス様を受け入れない国々、すなわち天の御国{呼び出された者たち(エクレシア)の国}以外の国々は粉みじんにされるのです。
 ダニエル2章の幻とダニエル7章の幻に記されています。
ダニエル2章には次のように記されています。
44 この王たちの時代に、天の神は永遠に滅ぼされることのない王国を興されます。その王国は、他の民に渡されることはなく、かえってこれらの王国をすべて粉砕して滅ぼし、永遠に立ち続けます。45 一つの石が人手によらずに山から切り出され、鉄と青銅と陶土と銀と金を粉砕したのを御覧になりましたが、それによって、大いなる神は、この後に何が起こるかを王様に示されたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
 ダニエル7章には次のように記されています。
26 しかし、裁きが行われ、彼の支配権は奪われ、破壊され、滅ぼされて終わる。27 王国と支配権、天の下の国々の権威は、いと高き方の聖なる民に与えられる。その王国は永遠の王国であり、すべての支配者は彼らに仕え、服従する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ2145.46には次のように記されています。
45 祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、46 イエスを捕(と)らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。(聖書協会共同訳)とあります。

 祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、語られた意味をある程度理解したたようですが、悔い改めることはなく、かえって主イエス様を殺そうとしているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主イエス様の御言葉を聞いて信じる者の幸いを覚えます。
主に信頼し続け、主を賛美しながら、この世の旅路を歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月14日 (日)

箴言22:14 主の忠告に背を向けた者に下る災い/主に従い続ける

 箴言2214を、
聖書協会共同訳は、“よその女の口は深い穴。主の憤りに触れた者はそこへと落ちる。”と訳し、
新改訳第三版は、“他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。”と訳しています。

 冒頭に「よその女」(聖書協会共同訳)、「他国の女」(新改訳第三版)とありますが、このように訳されている語のヘブライ語原語は、「ズールト」で、「ズール」は、(滞在場所のために)「向きを変える」というのが原義のようで、外国人、見なれない、神聖を汚す、不敬の、口汚い、ばちあたりな、世俗的な、卑俗な、娼婦、・・等の意があります。

 リビングバイブルは、“娼婦は危険な罠、主にのろわれた者は、その罠に簡単に引っかかります。”と訳しています。

 主に背を向け、主の教えを踏みにじる歩みをする人に対し、主は怒ります。その人は主と断絶しているので、簡単に、主が、「してはいけない」と言われる罠に陥り、抜け出せなくなる、というような感じの聖句でしょう。

 イスラエルは、地上の神の国でしたから、全てのイスラエル人は、地上における神の民でした。ですから、この聖句は、リビングバイブル訳の様に考えられていたのかもしれません。

 この「他国の女の口は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。」という聖句は、ソロモンの箴言と言われていますが、ソロモン自身が、この聖句を実演してしまったのです。
 1列王記11章には次のように記されています。
1 ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。
2
 これらの国民について、主はかつてイスラエルの人々に、
「あなたがたは彼らと結婚してはならない。また彼らもあなたがたと結婚してはならない。 さもなければ、必ずやこれらの国民が、あなたがたの心をその神々へと向けさせるだろう」と言われた。〔申命記72-5、出エジプト2331-33、出エジプト3412-16等を参照(筆者挿入)〕
だがそれにもかかわらず、ソロモンはこうした者たちを愛して離れることがなかった。
3
 彼には多くの妻、すなわち、七百人の王妃と三百人の側室がいた。この女たちが彼の心を誤らせたのである。
4
 ソロモンが年老いたとき、女たちは彼の心を、他の神々へと向けさせた。彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。
5
 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべきものミルコムに付き従って行った。
6
 ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった。〔ソロモンは、主の教えに背き、さらに偶像礼拝をおこない、よりによって人身御供迄も許可したのです。(筆者挿入)〕
7
 その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。
8
 また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。
9
 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。主はかつて二度ソロモンに現れ〔1列王記3592(筆者挿入)〕、10 このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。
11
 そこで主はソロモンに言われた。
「あなたはこのようなことをして、私が命じた契約と掟を守らなかった。それゆえ私は、必ずあなたの王国を引き裂き、あなたの家臣に分け与える。
12
 ただ、あなたが生きている間は、あなたの父ダビデに免じてそうしないでおく。私が王国を引き裂くのは、あなたの息子の代である。
13
 ただし、王国すべてを引き裂くというのではない。わが僕ダビデに免じ、また私が選んだエルサレムに免じて、あなたの息子には一つの部族を与えることにする。」
 14 主はソロモンに敵対する者として、エドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王家の血筋を引く者であった。/
23
 また、神はソロモンに敵対する者として、エルヤダの子レゾンを起こされた。彼は自分の主君、ツォバの王ハダドエゼルから逃げ出した者で、24 ダビデがツォバの人々を殺害したとき、自分のもとに人々を集めて、一群の長となった者である。彼らはダマスコに行ってそこに住み、ダマスコを支配した。25 レゾンは、ソロモンが生きている間中、絶えずイスラエルに敵対し、ハダドと同じように災いをもたらし、イスラエルを憎んだ。彼はまたアラムを支配した。
 26 ネバトの子ヤロブアムはエフライム人で、ツェレダの出身であった。母はすでに夫を亡くしており、名をツェルアと言った。彼はソロモンに仕えていたが、やがて王に反逆することになった。/
40
 ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは直ちにエジプトに逃げた。エジプトの王シシャクのもとに逃げ、ソロモンが死ぬまでエジプトにとどまった〔ヤロブアムは、ソロモンの子レハブアムの時代に、10部族からなる北イスラエルの初代の王となりました(筆者挿入)〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

2コリント614-16には次のように記されています。
14 あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんな交わりがありますか。
15
 キリストとベリアルとにどんな調和がありますか。信者と不信者とにどんな関係がありますか。
16
 神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
神の神殿としてふさわしく歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
コリント6章には、“18 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、淫らな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯すのです。
19
 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

2023年5月13日 (土)

詩篇68:19-22 日々、私たちを担ってくださる神

 詩篇6819-22には次のように記されています。
19 あなたは高い天に上り、捕らえた者を引いて行き、人々を貢ぎ物として、背く者さえも貢ぎ物として取られる。神である主がそこに住まわれるために。
20
 わが主をたたえよ。我らの救いの神は、日々、私たちを担ってくださる。〔セラ
21
 我らの神は救いの神。わが主は死から逃れさせてくださる神。
22
 神は必ずその敵の頭を打ち砕き、罪の内に歩む者の、髪に覆われた頭を打ち砕かれる。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳、リビングバイブルは、聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳の19節が18節というように、節が1節ずつずれています。)

 20節を、
聖書協会共同訳は、“わが主をたたえよ。我らの救いの神は、日々、私たちを担ってくださる。”と訳し、
新改訳2017は、“ほむべきかな 主〔アドナイ(筆者挿入)〕。日々、私たちの重荷を担われる方。この神こそ、私たちの救い。”と訳し、
文語訳は、“日々にわれらの荷をおひたまふ主われらのすくひの神はほむべきかな”と訳しています。

 ヘブライ語聖書の語順どおりに和訳して記すと、「ほむべきかな アドナイ(主) 日々 私たちの重荷を担う 私たちの為に 神 救う(or救い)」となっています。 
それ故、新生させていただき、神の子とされた者として、親しい関係をもって関わることのできる者として訳すと、「我が主よ、日ごとに、私たちの為に、私たちの重荷を負ってくださる私たちの救いの神様。御名をほめたたえます。」(私訳)としても良いのではないかと思います。
文語訳や聖書協会共同訳が「私たちの救いの神」と訳している中核の語は、「イェシュア」(イエス)です。

 イエス様が、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。30 私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ1128-30・聖書協会共同訳)と語られた御言葉の詩篇版というような個所です。

 21節には、“我らの神〔エル(筆者挿入)〕は救いの神〔エル(筆者挿入)〕。わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕は死から逃れさせてくださる神〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。”とあります。
20
節と合わせて意味深いですね。

 マタイ1章に次のような箇所があります。
20 ・・・、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 ルカ1章には次のような箇所があります。
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
27
 ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。
28
 天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
29
 マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。
30
 すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31 あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 22節には、“神は必ずその敵の頭を打ち砕き、罪の内に歩む者の、髪に覆われた頭を打ち砕かれる。”と記されています。
前半部分に「神は必ずその敵の頭を打ち砕き」とありますが、主なる神様が、蛇に次のように言いました。
創世記315後半部分に、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 ヘビはサタンの象徴です。
主はサタンに勝利しました。それは十字架と復活によってです。
それ故、詩篇6819を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
“大勢の捕虜を率いて、高い所へ登っていきます。神が受ける貢物の中には、かつての反逆者からささげられたものもあります。神である主は私たちのただ中に住んでくださるのです。”(リビングバイブルは、18節)とあります。

 パウロは、詩篇6819を引用してエフェソ(エペソ)4章に次のように記しました。
7 しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物の秤に従って、恵みが与えられています。
8
 そこで、こう言われています。
「高い所に昇るとき、捕らえた者を引いて行き、人々に贈り物を分け与えられた。」
9
 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか〔つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか(2017)〕。
10
 この降りて来られた方ご自身が、すべてのものを満たすために、あらゆる天よりもさらに高く昇られたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルはこの個所を次のように意訳しています。
7 けれども、キリストは私たち一人一人に、それぞれ賜物を与えてくださいました。ご自分の豊かな賜物の宝庫から、お心のままに与えてくださったのです。
8
聖書の詩篇の作者は、こう言っています。
「(キリストは)復活してサタンに打ち勝ち、勝利を得て天に帰られた時、人々に惜しみなく賜物をお与えになった。」(詩篇6818
9
ここで、キリストが「天に帰られた」という点に注意してください。つまり、最初は天の一番高い所におられたのに、地の一番低い所に下られたことを意味します。
10
この下って来られた方が、天に帰られたのです。それは、キリストが、底辺から頂点に至るまで、あらゆる点であらゆるものを満たすためなのです。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主イエス様は、日々、私たちの為に、私たちの重荷を負ってくださる私たちの救いの神ですからありがとうございます。
讃美歌72節に、“委(ゆだ)ねまつる 我(わ)が重荷を 主は代りて 負い給う 悩み多き 世の旅路も 主のいませば 安けし”とありますが、日々、主は、重荷を負ってくださいますから感謝します。
1日、1日、あなたから力を与えられて歩み続けることが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
讃美歌7番は新聖歌でも7番です。

2023年5月12日 (金)

申命記12:29-13:1 サタンの罠に陥らないように/主の霊によって歩む

 申命記1229-131には次のように記されています。
29 あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、あなたの神、主が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、30 注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。
すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。
31
あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。
1
 私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。〔文語訳、口語訳、新改訳、リビングバイブルは、この個所を申命記1232としています(筆者挿入)〕”(新共同訳)とあります。

 日本には八百万の神(やおよろずの神)がいると言われています。世界を見渡しても色々な神と呼ばれるものがいます。
しかし、神は唯一であると聖書は教えてくれています。
 1コリント84-6には、“・・、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。”(2017)と記され、
 1コリント1019-21には、“私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。”(新改訳第三版)と記されています。

 世の中には、キリスト者に対して、一神教に立っているから戦争が起こる、と意見する人もいますが、主イエス様の御言葉を知らない人の言葉です。
主イエス様は、「剣を取る者はみな剣で滅びます。」「剣をもとに納めなさい。」(マタイ2652)と語られました。
十字軍も間違っているし、主イエスの名による人と人の戦いは間違っているのです。
キリスト者の戦いは、悪魔悪霊との戦いであり、その戦い方も、エペソ610-18に記されています(ここに記されている以外の戦い方もありますが)。

 申命記1231には、“あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。”と記されています。

 カナンの地に住んでいた民は、主がいとわれ、憎まれるあらゆることを偶像の神々、すなわち悪しき霊たちに行い、その息子、娘さえも火に投じて偽りの神々にささげたのです。

 ソロモン王は、申命記1231の教えを破りました(1列王記111-11参照)。
人身御供について、モレクの項を聖書辞典から引用します。
“モレク (〈ヘ〉molek) ヘブル語の「王」(〈ヘ〉メレク)に、「恥ずべきもの」(〈ヘ〉ボーシェス)の母音をつけて発音させたもの。偶像の総称で、「恥ずべき王」という意味かと思われる。特に、アモン人の神(11:7)を指す。ミルコムとも(11:33)、モロクとも呼ばれた(使7:43)。モレクの神殿は、エルサレムの南西にあるベン・ヒノムの谷(エレ32:35)の、トフェテ(エレ7:31)に築かれていた。それはソロモンによって建てられたもので、異教徒の妻たちのために建てられたのかもしれない(11:8)。具体的には、オリーブ山の南端と考えられ、それは「破壊の山」とも呼ばれた(Ⅰ列11:7,Ⅱ23:13)。そこに雄牛の頭を持った青銅の像が、手を突き出して立っており、モレクの信者たちは、その手の上に子供をのせ、下から火をたいていけにえとした(レビ18:21)。モレクの祭司たちは、太鼓をたたき続けて、子供の叫び声を消し、両親の悲しみを和らげたと言う。レビ記は、はっきりとモレク礼拝を禁じ、小児のいけにえを禁じているが(レビ20:2‐5)、偶像礼拝と共に受け継がれ、ユダの王ヨシヤの宗教改革で排除されるまで続けられた。イスラエルはその歴史の中で、この小児人身犠牲という、きわめて異教的で、罪悪的、非人道的儀式を何回も取り入れた。聖書の中ではユダの王アハズによって行われ(Ⅱ列16:3)、その後、マナセ王も父ヒゼキヤ王が取り壊した高き所を築き直し、ベン・ヒノムの谷で、この悪習慣を繰り返した(21:6)ことが記されている。彼らは、神が「わたしの子どもたち」と言われる幼児たちを、偶像モレクにいけにえとしてささげて「食べさせた」のである(エゼ16:20‐21)。
 北王国イスラエルの滅亡後サマリヤに移住させられたセファルワイム人の神々として、アデラメレクとアナメレクの名があげられている(Ⅱ列17:31)が、アナメレクの「アナ」は「アヌ」に通じ、バビロンの空の神と考えられ、アデラメレクの「アデラ」も「主人」の意味を持つと思われ、どちらも子供を火で焼いて、人身犠牲をするところから、「メレク」は「モレク」の変形とされ、何らかの関係があるものと考えられている。”(聖書辞典)と記されています。

 サタン(悪魔)は、神ヤハウェ(主)のようになりたい存在者です(イザヤ1412-14)。サタン(「敵対者」の意)となる前は、神ヤハウェ(主)に仕える大天使ヘイレル{ヘブライ語(英語では「ルシファー」)}であったのです。
元大天使ヘイレルが神ヤハウェ(主)に背き、サタンとなった後、ヤハウェ(主)は、彼に、「お前は穴の底に落とされる」と語られました(イザヤ1415)。このことが実現するのは、黙示録201-3に記されている時なので、大患難時代がキリストの地上再臨によって終わる時です。

 サタンは、人が罪を犯したり、神ヤハウェ(主)を罵(のの)しるようにさせたくてたまらないのです。

 神ヤハウェ(主)が、ヨブについて、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」、とサタンに語られたとき、サタンは、神ヤハウェ(主)に何と答えたでしょうか?
サタンは、「ヨブが理由なしに神を畏れるでしょうか。あなたは彼のために、その家のために、また彼のすべての所有物のために周りに垣根を巡らしているではありませんか。あなたが彼の手の業(わざ)を祝福するので、彼の家畜は地に溢れています。しかし、あなたの手を伸ばして、彼のすべての所有物を打ってごらんなさい。彼は必ずや面と向かって、あなたを呪うに違いありません。」(ヨブ19-11・聖書協会共同訳)と語った、と記されています。
そして、サタンは悪行を働くことの許可を受け、悪行を働くのです。

 幸いなことに、新生したキリスト者は、主と結ばれた霊or主と一つとされた霊(1コリント6.17)に従って生きることの出来る恵みを与えられています。
主と一つとされた霊に従って生きるとき、どのような状態に置かれても主を畏れ敬い、主を愛し、主に従って生きることが出来るのです。
新生したキリスト者は、主イエス様が、「生きていてわたし(主イエス)を信じる者は、決して死ぬことがない。」(ヨハネ1126)ということを霊において体験しているからです。
(新生していてもこのことがよくわからない人もいますが、肉に従って歩むのではなく、霊に従って歩むようになるとよくわかるようになります。)

 新生した霊(ヨハネ33.61ペテロ13)と救われた魂(1ペテロ18.9)を持っている人は幸いです。その人は肉体の滅びやこの世のものに囚われずに生きることが出来るからです。救われたてでは無理かもしれませんが、霊に在って歩んでいくと可能になっていくでしょう。
肉体に関しては、「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ1482017)とパウロのように言うことが出来るでしょう。
主と一つとされた霊に従って生きていれば。よりどころが主の内に在れば。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
人は、何かに従って生きていきます。
つくづくあなたに従って歩ませていただける恵みをありがたく思います。
肉的な欲ではなく、あなたと共にある幸いを覚えつつ歩める恵みを与えてくださいますことを感謝します。
今日も主との相互内住の中にあって一歩一歩、歩んでいけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月11日 (木)

マタイ21:28-32 神の御言葉を信じ神の御意志を行う者の幸い/罪を悔い改めることの重要性

 主イエス様が語られた寓話であるマタイ2128-32を、聖書協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波訳、新共同訳、塚本訳等は、同じような訳し方をしています。ここでは、もっとも最近に発行された聖書協会共同訳2018の訳文を下記します。
 「28 ところで、あなたがたはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
29
 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
30
 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『はい、お父さん』と答えたが、出かけなかった。
31
 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄のほうです」と言うと、イエスは言われた。「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。
32
 なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたがたはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」と記されています。

 一方、文語訳、口語訳、新改訳初版~第三版、リビングバイブル、前田訳等は、聖書協会共同訳等とは異なる底本を用いて訳しています。代表として口語訳聖書のマタイ2128-32を下記します。
28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
29
すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
30
また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
31
このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
32
というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」

 二種類のタイプの訳文において、異なる個所は、29節と30節の個所です。

 今日は、どちらの訳し方でも構わないテーマをこの個所から学ぼうと思います。
テキストとしてリビングバイブル2016版を用います。リビングバイブルは、次のように意訳しています。
28 ところで、次のような話をどう思いますか。ある人に息子が二人いました。兄のほうに『今日、農場で働いてくれ』と言うと、
29
『はい、行きます』と答えたのに、実際には行きませんでした。
30
次に、弟のほうに、『おまえも行きなさい』と言いました。弟は『いやです』と答えましたが、あとで悪かったと思い直し、農場へ出かけました。
31
二人のうち、どちらが父親の言うことを聞いたのでしょう。」
「もちろん、弟です。」彼らは答えました。
 イエスは言われました。
「確かに、悪人や売春婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入ります。
32
なぜなら、バプテスマのヨハネが来て、悔い改めて神に立ち返れと言った時、あなたがたはその忠告を無視しました。しかし、悪人や売春婦たちは言われたとおりにしました。あなたがたは、それを目(ま)のあたりにしながら、なお罪を捨てようとしませんでした。ですから、信じることができなかったのです。”と記しています。

 この寓話を聞いていたのは、祭司長たちや民の長老たち、パリサイ人と群衆とイエス様の弟子たちでした(マタイ212345.46参照)。

 バプテスマのヨハネが遣わされた目的とバプテスマのヨハネの言葉と、バプテスマのヨハネについての旧約聖書の預言について、マルコ11-8は次のように記しています。
1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
2
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、私〔父なる神(筆者挿入)〕はあなた〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕より先に使者〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕を遣わす。彼はあなたの道を整える。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣(の)べ伝えた。
5
 そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。
6
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べていた。
7
 彼はこう宣べ伝えた。
「私よりも力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 バプテスマのヨハネについて、天使がヨハネの父親であるザカリアに語ったことばがルカ113-17に次のように記されています。
“天使は言った。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15 彼は主の前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、16 イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。17 彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 17節をリビングバイブルは、“「昔の預言者(神に託されたことばを伝える人)エリヤのように、たくましい霊と力にあふれて、メシヤ(ヘブル語で、救い主)の来られる前ぶれをし、人々にメシヤを迎える準備をさせます。大人には子供のような素直な心を呼び覚(さ)まし、逆らう者には信仰心を起こさせるのです。」”と意訳しています。

 マタイ2131後半~32のリビングバイブル訳(意訳)には、
“イエスは言われました。
「確かに、悪人や売春婦たちのほうが、あなたがた〔祭司長たちや民の長老たち(筆者挿入)〕より先に神の国に入ります。
32
なぜなら、バプテスマのヨハネが来て、悔い改めて神に立ち返れと言った時、あなたがたはその忠告を無視しました。しかし、悪人や売春婦たちは言われたとおりにしました。あなたがたは、それを目(ま)のあたりにしながら、なお罪を捨てようとしませんでした。ですから、信じることができなかったのです。”と記されています。

 罪を捨てようとしないと、キリスト・イエス様を心にお迎えすることが難しいことを教えてくれています。

 マルコ1章には次のように記されています。
9 その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。
10
 そしてすぐ、水から上がっているとき、天が裂けて、霊〔「聖霊」。原語はπνευματι αγιω(筆者挿入)〕が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になった。
11
 すると、
「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた。
12
 それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。
13
 イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。
14
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 福音について聖書辞典は次のように述べています。
“・・・・・・・・。福音とは「良い知らせ」という意味であるが、それは神からの賜物〔贈り物(筆者挿入)〕である。それは罪の赦しと、イエス・キリストを通して買い戻されて神の子としての身分にあずかる救いである。すなわち罪の赦しと神との和解の知らせである。この意味で新約聖書に75回以上この語が使われている。
 イエスや使徒たちは福音についてさまざまな表現をしている。すなわち、「神の福音」(ロ-マ1:1,Ⅰテサ2:2,9)、「キリストの福音」(マコ1:1,ロ-マ15:19,Ⅰコリ9:12,ガラ1:7)、「神の恵みの福音」(使20:24)、「平和の福音」(エペ6:15)、「救いの福音」(エペ1:13)、「キリストの栄光にかかわる福音」(コリ4:4)などである。福音とはキリストそのものであるキリストが主であり、キリストが目的であり、キリストがそのいのちである。そのようにこの福音を主御自身が語り(マタ4:23,11:5,マコ1:14,ルカ4:18)、使徒たちも語り(使16:10,ロ-マ1:15,Ⅰコリ9:16)、そして伝道者たちも語った(使8:5)。・・・・・・・・。”(抜粋)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
「悔い改めて、福音を信じなさい。」と主イエス様は語られました。
私が最初に改めたのは、イエス様を信じないことから信じることにしたことです。
その頃は、イエス様を信じないことが罪だとは夢にも思っていませんでした。
イエス様を信じた途端に、私の心に平安が与えられたのです。
感謝します。
それからというもの、あなたには、この罪がある、またこの罪もある、と罪をたくさん示してくださり、整えていってくださいました。
人によって救われ方は異なりますが、悔い改めて、イエス様を信じること、すなわち心にお迎えすることが、はじめの一歩であることを、この文章を読んでくださっておられる未信者の方々に届きますように。
また、主にある兄弟姉妹たちにとっては、自分の救いを思い起こし主を賛美するときでありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・
「この安きを受けし時に雨雲は晴れたり」{「心にあるこの安きを」(聖歌560、聖歌総合版584、新聖歌254)の2節の冒頭部分}

2023年5月10日 (水)

箴言22:13 主により頼み、主から力をいただいて前に進もう

 箴言2213には、“怠け者は言う。「獅子が通りにいる。私は広場で殺される」と。”(2017)とあります。
この個所をリビングバイブルは、“怠け者は、「仕事になんかとても行けない。外に出たらライオンに食い殺されるかもしれない」と言いわけします。”と意訳しています。

 似たような箴言が他にも記されています。
箴言2613には、“怠け者は「道に獅子がいる。広場に雄獅子がいる」と言う。”(2017)とあります。

 また、怠け者の生活の結果について、箴言2430-34は、
30 私は怠け者の畑のそばを、良識のない者のぶどう畑のそばを通った。
31
見よ。茨が一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣は壊れていた。
32
私はこれを見て心に留め、これを見て戒めを受けた。
33
少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで横になる。
34
すると、付きまとう者のように貧しさが、武装した者のように乏しさがやって来る。”(2017)と記しています。

 この個所をリビングバイブルは、
30.31 怠け者の畑のそばを通ったら、いばらと雑草だらけで柵もこわれています。
32.33
これを見て学びました。「もうちょっと眠り、もうちょっと昼寝し、もうちょっと休もう。」
34
こんな生活をしていると、どんどん貧しくなり、どうにもならなくなるということです。”と意訳しています。

 怠け者と疲れているものに対する主イエス様のお取り扱いは異なります。
疲れている人にイエス様は次のように語りました。
マルコ6章には次のように記されています。
30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
31
するとイエスは彼らに言われた。
「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」
出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。”(2017)とあります。
 また、マタイ11章には次のように記されています。
28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。”(2017)とあります。

 タラントの譬えでは、主から報酬を受ける人と叱責と損害を受ける人が記されています。マタイ25章には次のように記されています。
14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15
彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。
するとすぐに、16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
17
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
18
一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
 19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
20
すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
21
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
22
二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
23
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24
一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
26
しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。28     だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
29
だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』”(2017)とあります。

 主に言われたことや、なさねばならないことをする気力がないときや体力のないときもあります。
その時には、主のお約束に従って力を求めるとよいのです。
使徒18には、“聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。”(2017)とあります。
また、エペソ610には、“主にあって、その大能の力によって強められなさい。”(2017)と記されています。
「主にあって」と訳されているギリシア語原語の分は、εν κυριωで、英語にすると、in the Lordとなります。
また、2テモテ21には、“・・・キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。”(2017)とあります。
「キリスト・イエスにある」という訳のギリシア語原語を英語にすると、in Christ Jesusとなります。

 私たちキリスト者の力の源泉は、主です。
「霊に燃え主に仕えよ。」(ローマ1211)とありますが、霊は燃えていても、肉(ギリシア語原語は「サルクス」)は弱いのです(マタイ2641)、とイエス様は言われました。
またパウロは、「・・・私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2017)と述べています。
この個所をリビングバイブルは、“肉体はしだいに衰えますが、うちにある力は日ごとに強くなってゆきます。”と訳しています。
「衰える」と訳されているギリシア語原語は、「ディアフセイロー」で、滅びる、死ぬ、の意があります。
私の体の部品も、あちらこちらと壊れてきています。
しかし、霊は別物で永遠です。魂は、霊に従うか、肉に引きずられるかで、ありようが変わってきます。
祈りや賛美の御奉仕は、寝たきりになっても続けられます。霊の中で行えることだからです。

 いずれにしても、強くされるように主に祈り求め、主が与えてくださる中で、すなわち「主に在って」励んでいきたいものです。
主は言われます。「死に至るまで忠実なれ」(黙示録210)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
地上に在っては、肉体の死に至るまで、主に在って忠実に歩み、天に在っては、疲れを知らない霊の体を与えられていますから、私たちを愛し続けてくださる主イエス様に、とこしえの愛をもってお従いする歩みをし続けていく者であらせてください。
父なる神、御子、御霊に、代々、御稜威(みいつ)と御栄(みさかえ)がありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月 9日 (火)

詩篇68:8-12a 備えてくださる主なる神様

 詩篇688-12aには次のように記されています。
8 神よ、あなたが民に先立って出て、荒れ果てた地を行進されたとき〔セラ
9
 地は震え、天は雨を滴らせた。神、シナイの神の前に。神、イスラエルの神の前に。
10
 神よ、あなたは豊かに雨を降らせ、衰え果てたご自分の民を回復させ、11 あなたの群れはその地に住む。神よ、あなたは恵み深く、苦しむ人のために備えてくださる。
12a
 わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕が言葉を与えられる〔主はみことばを与えてくださる(2017)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳の節は、n-1節になります。)

 8.9節は、出エジプト後のこと、荒野の旅、シナイでのことを述べています。
8
節に“神よ、あなたが民に先立って出て、荒れ果てた地を行進された”とありますが、出エジプト1317-22を抜粋すると、
17 さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。18 それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。21 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。22 昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。”(2017)と記されています。

 9節には、“地は震え、天は雨を滴らせた。神、シナイの神の前に。神、イスラエルの神の前に。”とありますが、出エジプト1916-18には、
16 三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。17 モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。18 シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。”(2017)と記されています。

 余談になりますが、シナイ山をホレブ山とも言います(申命記410-14参照)。
また、神ヤハウェ(主)が、モーセに現れ、エジプトからカナンの地へと導くように仰せられたのも神の山ホレブでした(出エジプト31-10)。

 私たちにあてはめて考えると、主なる神は、この世という荒野においても、歩み方を教え、先立って歩んでくださり、また、「わたしが神である主だ、私はあなたと共にいる」、と教えてくださるお方だと思います。
 主は、上におられ、前におられ、後におられ、傍らにおられ、下から支え、また、内に住んでくださっておられます。神様は霊ですから、人が理解しやすい物質世界とは異なります。

 10.11節を、聖書協会共同訳は、
10 神よ、あなたは豊かに雨を降らせ、衰え果てたご自分の民を回復させ、11 あなたの群れはその地に住む。神よ、あなたは恵み深く、苦しむ人のために備えてくださる。”と訳し、
 2017は、“9 神よ、あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れたあなたのゆずりの地を堅く立てられました。10 あなたの群れはその地に住みました。神よ、あなたはいつくしみをもって苦しむ者のために備えをされました。”と訳しています。
 これはカナンの地におけることを語っているのでしょう。
主は、必要の備えをしてくださる神です。
少数の例をあげると、人を創造する前に、神様は、人に必要な物を備えられたことが創世記1章から分かります。
離散したイスラエルの民がイスラエルに戻ってくる前に、主はイスラエルの地を生活できるように準備していきました(エゼキエル36章)等があります。

 私たちキリスト者に対して主イエス様は、「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。明日のことを心配するのはやめなさい。神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生きなさい。」(マタイ633.34・リビングバイブル)と語られました。
 パウロは自分の体験もかねてであろうと思いますが、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4192017)と述べています。

 12aには、“わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕が言葉を与えられる。”(聖書協会共同訳)とあります。
2017
は、“主はみことばを与えてくださる”と訳しています。

 私たちは、肉体を養うパンだけではなく、神のことばによって生きるのです。
申命記82.3には、“あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。”(2017)と記され、
 またイエス様は、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6632017)と語られ、
 使徒パウロは、“聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。”(2テモテ3162017)と手紙に書きました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みを感謝します。
日々あなたの御言葉を頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月 8日 (月)

申命記12:13-28 血はいのちである/キリストは十字架上で血を流された

 申命記1213-28には次のように記されています。
13 あなたは自分のよいと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げないように気をつけなさい。
14
 ただ、主があなたの一つの部族の中に選ばれる場所で、焼き尽くすいけにえを献げ、私が命じることをすべて行いなさい。
 15 しかし、あなたの神、主が与えられる祝福に従って、どの町においても、あなたは心行くまで屠って、肉を食べることができる。清くない者も清い者も、ガゼルや鹿と同じようにその肉を食べることができる。
 16 ただし、あなたがたは血を食べてはならない。あなたはそれを水のように地に注ぎなさい。
17
 そしてあなたは、穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の十分の一、牛や羊の初子、また、あなたが誓った誓願の献げ物、自発の献げ物、手ずからの献納物を、自分の町で食べることはできない。
18
 あなたの神、主の前、すなわちあなたの神、主が選ぶ場所で、それを食べなければならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も、あなたの神、主の前で、あなたのすべての手の業を楽しみなさい。
 19 あなたは、この地で生きているかぎり、レビ人を見捨てないように気をつけなさい。
 20 あなたの神、主があなたに告げられたとおり、あなたの領土を大きくされるとき、あなたが心行くまで肉が食べたいと思うなら、食べたいだけ肉を食べることができる。21 あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、主が与えられた牛や羊を屠り、自分の町で、心行くまで食べることができる。
22
 ガゼルや鹿の肉を食べるのと同じようにその肉を食べてよい。清くない者も清い者も共に、それを食べることができる。
 23 ただ、その血は決して食べてはならない。血は命であるから、命を肉と共に食べてはならない。
24
 血は食べることなく、水のように地に注ぎ出さなければならない。
25
 血を食べてはならない。そうすれば、あなたとあなたの後に続く子孫は幸せになる。必ず主の目に適う正しいことを行いなさい。
26
 ただ、あなたが献げる聖なるものと誓願の献げ物を携えて、主が選ぶ場所に行かなければならない。
 27 焼き尽くすいけにえの場合は、肉も血も、あなたの神、主の祭壇の上で献げるが、会食のいけにえの場合は、その血はあなたの神、主の祭壇の上に注ぎ、肉は食べることができる。
28
 あなたは、私が命じるこれらの言葉をすべて聞いて守らなければならない。このように、あなたの神、主の目に適う良いこと、正しいことをあなたが行うなら、あなたとあなたの後に続く子孫はいつまでも幸せになる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 唯物論者の方に、この聖書個所を読んで聞かせたとしたら、「血液は、その成分から見ると、液体成分である血漿(しょう)と細胞成分である血球(けっきゅう)からできていて、血漿成分は全血液の約55%であり、血球成分は約45%ということになっており、また、血液は、元素記号表に記されている種類の中の複数の原子をもとに造られているのだから、“血はいのちである”(23)、“すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。”(レビ1714)と言われても、何を言っているの?血液も単なる物質ではないか。」と反論するのではないでしょうか。(私が霊魂の存在を知る前の私であったらと想定した文です。)

 イエス様は、ユダヤ人に、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」(ヨハネ653抜粋・聖書協会共同訳)と語られた、と記されています。

 これを聞いたユダヤ人たちの反応はどのようなものであったのでしょうか。この時までイエス様について来ていた多くの弟子たちの反応でも次のようなものでした。「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」(ヨハネ660抜粋・聖書協会共同訳)と言った、記されています。弟子たちは、主イエス様の数多くの奇跡を見てきた人たちです。

 イスラエルの民は、次のように教えられてきたからです。
20 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに告げられたとおり、あなたの領土を大きくされるとき、あなたが心行くまで肉が食べたいと思うなら、食べたいだけ肉を食べることができる。21 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がその名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が与えられた牛や羊を屠り、自分の町で、心行くまで食べることができる。22 ガゼルや鹿の肉を食べるのと同じようにその肉を食べてよい。清くない者も清い者も共に、それを食べることができる。
23
 ただ、その血は決して食べてはならない。血は命であるから、命を肉と共に食べてはならない。
24 血は食べることなく、水のように地に注ぎ出さなければならない。
25
 血を食べてはならない。そうすれば、あなたとあなたの後に続く子孫は幸せになる。必ず主の目に適う正しいことを行いなさい。”と。

 律法を守ろうとしているユダヤ人であれば、イエス様の語られた内容は、そう簡単には理解できなかったし、受け入れられなかったのではないかと思います。それどころか、この人はおかしいのではないかと思ったと思います。

 私の想像ですが、神ヤハウェ(主)は、万物を創造なさる前に、黙示録21章に記されている新天新地とその中での生活まで、計画されていたのではないかと思います。

 「キリストの血による贖い」を教えることをも含めて、旧約のきよい動物による贖いの制度を制定したのではないかと想像します。キリストこそ、ご自分から御父にご自身をささげたまことの全焼のささげものであり、罪のためのささげものであり、神との交わりのためのささげものであると。

 そのように考えると、主なる神様が、血に対していい加減なことをしてはならない、ということを教えるために、今日の個所のようなことを言われたのではないかと想像します。(それ以外の理由もあると思いますが。)
 イエス・キリスト様の血は、罪を赦し、きよめるためのものであったからですし、贖いのためのものであったからです。
 コロサイ216.17には、“こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。”(2017)と記され、
 へブル922には、“律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。”(2017)と記され、
 エペソ(エフェソ)17には、“このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(2017)と記されています。

 キリスト者は、キリストの血による贖いを信じています。というか、おそらく聖霊によって信じさせていただけたのではないかと思います。
この世の常識では、2000年前のキリストの血を信じてどうなるの?となるわけですから。
ありがたいことに、私もキリスト様の血を信じさせていただけました。大感謝です。
ですから、「キリスト・イエスを基(もとい)てして うち建てられし御(み)教会は 君〔キリストのこと(筆者挿入)〕が血をもて買いたまいし 花嫁たちの集まりなり」(聖歌201、聖歌総合版160)という讃美歌詩が大好きです。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス・キリスト様の血による贖いを信じさせてくださいましたことを感謝します。
私などは、どう考えても、信じることの出来ないような人間でしたが、あなたが信じさせてくださいましたことを感謝します。
ただただ三一の主なる神様に感謝をささげ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月 7日 (日)

マタイ21:23ー27 主は真理を求めない者には答えてくださらないことがある/主は真理を求める者には答えてくださるお方

 マタイ2123-27には次のように記されています。
23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄って来て言った。
「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」
24
 イエスはお答えになった。
「私も一つ尋ねる。それに答えるなら、私も、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。
25
 ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からか、それとも、人からか。」
彼らは論じ合った。
「『天からのものだ』と言えば、 『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
27
 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。
すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 境内で主イエス様が民に真理を教えておられると、祭司長たちや民の長老たちが近寄って来て、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」とイエス様を問い詰めました(23)。

 それに対して主イエス様は、「ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からか、それとも、人からか。」(25)と逆に質問しました。
祭司長たちや民の長老たちは、イエス様の質問に対して、自分たちが考えていることを語ることをせず、『わからない』と答えたのです(25b-27a)。

 その答えを聞いた主イエス様は、彼らに真理を語りませんでした(27c)。

 祭司長たちや民の長老たちといえば、まさしく民の指導者です。
民の指導者でも、主イエス様を信じていたことが明白であった二人の人がいます。
一人は、ニコデモ、もう一人は、アリマタヤ出身のヨセフという人でした。

 アリマタヤのヨセフについては、
マタイ27章に次のように記されています。
57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフと言う人が来た。この人もイエスの弟子であった
58
 彼はピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出た。そこでピラトは、渡すように命じた。
59
 ヨセフは遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩に掘った自分の新しい墓に納めた。そして、墓の入り口に大きな石を転がしてから立ち去った。”(聖書協会共同訳)とあります。
 またマルコ15章には、
43 アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。この人は高名な議員であり自らも神の国を待ち望んでいた人であった
44
 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。
45
 そして、百人隊長に確かめたうえで、遺体をヨセフに下げ渡した。
46
 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 アリマタヤのヨセフは、高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であり、イエスの弟子であった人です。

 ニコデモという人も議員であり、主イエス様の御前にへりくだって、主イエス様から真理を教えていただいた人です。ヨハネ3章には次のように記されています。
1 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者〔「議員」(2017、新共同訳)〕であった。
2
 この人が、夜イエスのもとに来て言った。
「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
3
 イエスは答えて言われた。
「よくよく〔この個所のギリシア語原語は「アメーン、アメーン」。ヘブライ語だと「アーメーン」、私たちは「アーメン」と言います(筆者挿入)〕言っておく人は、新たに〔原語は「アノーセン」で、上から、新たに、再び、等の意があります(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4
 ニコデモは言った。
「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
5
 イエスはお答えになった。
「よくよく〔この個所のギリシア語原語は「アメーン、アメーン」(筆者挿入)〕言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である〔肉体は両親から生まれました。霊は霊である神から生まれるのです(筆者挿入)〕。
7
 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8
 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9
 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10
 イエスは答えて言われた。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
11
 よくよく〔原語は「アメーン、アメーン」。新改訳は「まことに まことに」(筆者挿入)〕言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。12 私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 またニコデモについて、ヨハネ19章は次のように記しています。
38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたい と、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行ってイエスの遺体を取り降ろした。
39
 前に、夜イエスのもとに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜた物を百リトラばかり持って来た
40
 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
41
 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、誰もまだ葬られたことのない新しい墓があった。
42
 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ユダヤ人の指導者でも、真理を求めたニコデモやアリマタヤのヨセフは、主イエス様から包み隠すことなく真理を教えていただいたことでしょう。

 ユダヤ人の指導者たちでも、真理を探究することなく、イエス様を罠にはめて亡き者にしようとするような人たちには、イエス様はお答えになりませんでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつも主の御前に謙遜であることの大切さを覚えます。
それはまた、主が語られた御言葉に対して、へりくだって真実に信じる態度でもあると思います。
人によっては、御言葉よりも自分の権威を上にしている人がいますが、私がそのようなことにならないよう、常にお守りください。
ファンダメンタリストと言われようが、主の御言葉をしっかり信じて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月 6日 (土)

箴言22:12 神の教えや約束をそのまま信じる者は幸いです

 箴言2212を、
新改訳は、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目は知識を見守り、裏切り者のことばをくつがえす。”と訳し、
新共同訳は、“主の目は知識を守り、欺きの言葉を滅ぼす。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“主の目は知識を守り、裏切り者の言葉を滅ぼす。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“主の目は知識のある人を見守り、裏切り者の言葉を覆す。”と訳し、
リビングバイブルは、“主は正しい人を守り、悪者の計画を葬り去ります。”と意訳し、
口語訳は、“主の目は知識ある者を守る、しかし主は不信実な者の言葉を敗られる。”と訳しています。

 この聖句の前半部分を単純に直訳すると、“ヤハウェ(主)の目は知識を守る。”となりますが、「守る」と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーツァル」で、原義は、守る、ですが、見張る、保全する、監視する、従って行動する、・・・・・等々の意があります。
 
 聖書でいう「知識」とは、神の知識、福音についての知識、真理についての知識、・・等々のことを指すと思います。
口語訳とフランシスコ会訳は、「知識ある者(人)」と「者(人)」を付加して訳しています。
「知識」と訳されている語のヘブライ語原語は「ダーアト」で、原義は、「知識」で、気付いて、知って、等の意もあります。

 ですから、「ヤハウェ(主)の目は、(真理のor神の)知識を見守るor保全するor監視する」とも訳せると思います。
そのように訳してみたとき、あることを思い浮かべました。
キリスト教歴史の中で、幾度となく間違った神学が世を席巻しいてきたということを。
そのたびに主は、護教家を起こし、間違った神学を打破してきました。
まさしく箴言2212の後半部分の聖句に、“裏切り者の言葉を覆す。”or“裏切り者の言葉を滅ぼす。”とあるように。
「裏切り者」と訳されている語のヘブライ語原語は「バーガド」で、原義は、覆う、ですが、不真実な、不信仰な、等の意もあります。またその意に「人」を付けて用いる場合もあります。

 詩篇19篇に次のような聖句があります。
7 主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、浅はかな者を賢くする。
8
主の戒めは真(ま)っ直(す)ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
9
主からの恐れ〔別訳「主への恐れ」(欄外注)〕はきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
10
それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴(したた)りよりも甘い。
11
あなたのしもべも、それらにより戒めを受け、それを守れば、大きな報いがあります。”(2017)とあります。

 へブル11.2aには、“神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。”(2017)と記されています。
「神は、・・・・御子にあって語られました。」と記されています。
「あって」と訳されているギリシア語原語は「エン」で英単語ではinです。
神は、御子の中で語られた、の意を持っています。
イエス様は次の様に言われました。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。・・。」(ヨハネ149-11抜粋・聖書協会共同訳)と。
また、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(ヨハネ8582017)とも言われました。→(出エジプト314参照)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「神のことばは、生きていて、力があり、」とへブル412にありますが、あなたの御言葉は生きて働いてくださいますから感謝します。
常に主が語られた御言葉に信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“彼〔ペテロ(筆者挿入)〕がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これは〔イエスは(筆者挿入)〕わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。”(マタイ1752017

2023年5月 5日 (金)

詩篇68:6.7 慈愛の神/主に背く者が得るもの

 詩篇686.7(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、6.7節ですが、口語訳、新改訳、リビングバイブルは、5.6節になります)を、
 聖書協会共同訳は、
6 みなしごの父となり、やもめの裁き手となるのは、聖なる住まいにいます神。
7
 神は孤独な人を家に住ませ、捕らわれ人を幸福へと導き出される。背く者は焼けつく地に住まなければならない。”と訳し、
 2017は、
5 みなしごの父やもめのためのさばき人は、聖なる住まいにおられる神。
6
神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。しかし頑迷な者は焦げつく地に住む。”と訳し、
リビングバイブルは、
5 聖なる方である神は、父親のいない子の父となり、未亡人の訴えを公正に取り扱ってくださいます。
6
身寄りのない者に家族を与え、囚人を牢獄から解き放ち、その口に喜びの歌をわき上がらせてくださいます。しかし、神に背く者の行く手には、ききんと悩みが待っています。”と意訳しています。

 “みなしごの父となり、やもめの裁き手となるのは、聖なる住まいにいます神。”(6・聖書協会共同訳)とあります。
 「みなしご」、「父親のいない子」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤートーム」で、原義は、「一人ぼっち」であること、肉親に先立たれた人、父親のいない子、孤児、等の意があります。

 「やもめ」、「未亡人」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アルマーナー」です。

 「裁き手」と訳されている語のヘブライ語原語は「ダヤーン」で、裁判官、裁き人、代弁者、等の意があります。
「ダヤーン」を、フランシスコ会訳は「守り手」、新共同訳は「訴えを取り上げてくださる」、新改訳は「さばき人」、口語訳は「保護者」と訳しています。

 申命記1017.18には、“17 あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記は、神の民に語っているので、ここに出てくる孤児と寡婦は、信仰を持っている人のことでしょう。
父親のいない子であったり、孤児であったり、寡婦であったとしても、イエス・キリスト様の父なる神様が父となってくださり、生活を保障してくださるというのです。
原語からすると、孤児、というだけではなく、独り者、も同じであることがわかります。
そのことを信じる人にとっては、その通りになるのです。
イエス様はよくおっしゃいました。「あなたの信仰の通りになるように」と。
天のお父様は、慈愛に富んだお方なのです。

 7節前半部分には、“神は孤独な人を家に住ませ、捕らわれ人を幸福へと導き出される。”とありますが、その中の「神は孤独な人を家に住ませ」という個所についてまず記します。
新約時代のまことの家は、「霊の教会です」。「教会はキリストの体です。」(エペソ123
地上において、外見上はやもめや孤児や孤独人であったとしても、主イエス様を信じ、主イエス様を心にお迎えすることによって、神の家族の中に入れてもらえるのです。
 イエス様は言われました。
「見なさい。わたしは戸〔あなたの心の戸(筆者挿入)〕の外でたたいています。その呼びかけにこたえて戸〔あなたの心の戸(筆者挿入)〕を開ける人なら、わたしは中〔あなたの心の中(筆者挿入)〕に入って、だれとでも〔あなたと(筆者挿入)〕親しく語り合います。そして、互いに楽しい時を過ごすのです。」(黙示録320・リビングバイブル)と。

 また7節の前半部分には、「・・・捕らわれ人を幸福へと導き出される。」ともあります。
神様は、サタンに捕らわれ、支配されていた人を、サタンの支配から解放し、主の内に在る幸福な生活へと導きだしてくださるお方です。
 エフェソ信徒(エペソ人)への手紙2章には次のように記されています。
1 さて、あなたがたは、過(あやま)ちと罪とのために死んだ者〔神と交わることの出来ない者(筆者挿入)〕であって、2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊〔悪魔{サタン}・悪霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいたのです。
3
 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
3節をリビングバイブルは、「私たちもみな、以前はほかの人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。」と訳しています。(筆者挿入)〕
4
 しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、5 過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6 キリスト・イエスにおいて〔「おいて」は英単語ではin(筆者挿入)〕、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。
7
 それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。
8
 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物〔贈り物(筆者挿入)〕です。
9
 行いによるのではありません〔救いは、私たちが自分で思うところの善い行いによるのではありません。人は、救っていただけるような善い行いをすることは出来ないのです。なぜなら救われる以前の人の善い行いと思っている行為は肉に基づくものだからです(筆者挿入)〕。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行い〔内におられる主の霊に導かれた善い行い(筆者挿入)〕をして歩むためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節後半には、“背(そむ)く者は焼けつく地に住まなければならない。”(聖書協会共同訳)と記されています。
「背く者」という個所を、リビングバイブルはさらにわかり易く「神に背く者」と訳しています。ヘブライ語原語は「サーラル」で、顔を背ける、硬い、反抗的な、・・等の意があり、反抗的な人、背く人、というように人を付けても訳します。

 神に対して頑(かたく)なであり、神に背を向けていながら、神は愛なのだから私を祝福すべきだ、という人もいるでしょう。
創世記1章の神様の創造の順序を見ると、如何に神様が人を愛しているかがわかります。神様は、人が気持ちよく生活できるように整えてから人を造られたのです。

 無神論者や、創造者なる神を信じない人は、これから書くことに不満を覚えるでしょうが、人が生きていくために必要な空気も水も食料もみな神様が造られたのです。
そのような思いやり深い神様に背を向けて進んで行く人は、自分で空気を造り、水を造り、食料を造ったらよいのですが、例えば、米や麦を構成している原子を神様がその人に与えてくれたとしても、その人は、その原子から米や麦を造ることは出来ないでしょう。人間は、欲しいと思う物質の構成原子を与えられても、それをもとにして食料すらも自分で造ることは出来ないのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは、私たちに主に救われた証しをすることならできるようにしてくださいました。私たちは、あなたに感謝し、あなたを賛美します。
そして、あなたは、私たちが、いつもあなたに在って喜びを持ち、あなたに祈り、あなたに感謝することを喜んでくださいます。
あなたに喜ばれる歩みをし続けていくことが出来ますようお整え下さりお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 

2023年5月 4日 (木)

申命記12:5-12 礼拝の場所

 申命記125-12には次のように記されています。
5 むしろ、あなたがたの神、主が、その名を置くためにすべての部族の中から選ぶ場所、その住まいを尋ね求めなければならない。あなたはそこへ行きなさい。
〔ささげ物をする場所は、神がお選びになるところに建てなさい。(意訳・リビングバイブル)〕
6
 あなたがたは、焼き尽くすいけにえ〔全焼のささげ物(2017)〕、会食のいけにえ、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、誓願の献げ物、自発の献げ物、牛や羊の初子をそこに携えて行き、
7
 あなたがたの神、主の前で、あなたがたも家族も共に食べ、あなたの神、主が祝福してくださったすべての手の業を楽しみなさい。
6.7節をリビングバイブルは、「焼き尽くすいけにえをはじめ、主にささげるいけにえはみな、そこへ持って来なさい。十分の一のささげ物、祭壇の前で揺り動かしてささげるささげ物、誓いをはたすためのささげ物、進んでささげるささげ物、羊や牛の初子のささげ物などすべてそうです。そこで家族とともに主の前で食事をし、恵みを喜び祝いなさい。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
8
 あなたがたは、私たちが今日ここで行っているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。
〔今まで、それぞれが正しいと思うようにやってきましたが、これからは、それではいけません。(リビングバイブル)〕
9
 あなたの神、主が与えられる安住の地、相続地にあなたがたはまだ入っていないからである。
10
 しかしあなたがたはヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに継がせる地に住むようになる。主が周りにいるすべての敵からの安らぎをあなたがたに与えるので、あなたがたは安らかに住むことができる。
11
 その時、あなたがたの神、主がその名を置くために選ぶ場所に〔主がご自分の家としてお選びになった場所に(リビングバイブル)〕、あなたがたは私が命じるすべてのもの、すなわち、焼き尽くすいけにえ、会食のいけにえ、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、主に誓った最良の誓願の献げ物などをすべて携えて行き、
12
 あなたがたの神、主の前で、あなたがたも、息子も娘も、男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も、共に楽しみなさい。レビ人にはあなたがたのような割り当て地や相続地がないからである〔祝いには、同じ町に住む領地を持たないレビ人も忘れずに招きなさい(意訳・リビングバイブル)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 出エジプトをし、カナンの地に入る前の旧約の民は、カナンの地に入った後の礼拝の在り方をモーセをとおしてヤハウェ(主)から上記の内容のように教えられました。

 さて、新約の時代はどのようになったのでしょうか。
イエス様は、新約時代の礼拝の場所は、エルサレムに限定されるわけではないと語られました。
ヨハネ4章にはイエス様とサマリアの女性との会話が記載されている個所があります。その一部を下記します。
19 女は言った。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21
 イエスは言われた。
「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実〔ギリシア語原語は「アレーセイア」で、アレーセイアには、真理、真実、誠実、正直、・・等の意があります(筆者挿入)。「真理」(2017、塚本訳、新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳)、「まこと」(新改訳初版~第三版、口語訳、前田訳、文語訳)〕をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実〔個人的には「真理と真実」と捉えたいです。(筆者挿入)〕をもって礼拝しなければならない。」
25
 女は言った。
「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
26
 イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 「霊と真実をもって礼拝しなければならない。」(聖書協会共同訳)、
「神を礼拝する者は、霊と真理において礼拝しなければならない」(フランシスコ会訳)
霊と真理のうちにあって礼拝しなければならない」(岩波訳)
「御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(2017
「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(新共同訳)
「霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(新改訳初版~第三版)
等と日本語訳聖書は訳していますが、直訳すると、「霊の中で、そして、真理(真実)の中で礼拝しなければならない。」となります。

 個人的な礼拝のありようと場所については上記の個所からわかりますが、それでは、いつも一人で礼拝すればよいのでしょうか。一人で礼拝しなければならない環境に置かれることもあるでしょう。病気のゆえに、あるいは介護のために、あるいはまた信仰のゆえに監獄の中で、・・・・・等々とあるでしょう。
 しかし、キリスト者が集まって礼拝を献げることが出来る場合には、皆で集まって礼拝を献げることが勧められています。
へブル1025に、“ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。”(2017)と記されていますように。

 キリスト者同士であっても、一人一人の生い立ちや生まれながらの気質が異なりますから、お互いに何の問題もなく礼拝をささげ、交わりをすることは難しいものです。
主に在る楽しいご奉仕、楽しい交わりの法則が、コロサイ3章には次のように記されています。
12 ・・、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
13
 互いに耐え忍び、不満を抱くことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
14
 さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。
15
 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。
16
 キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして教え合い、諭(さと)し合い、詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。
17
 そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
コロナ下で個人として、あるいは家族としてネット礼拝等を余儀なくされた人たちもありましたが、一応キリスト者が集まって礼拝をおささげすることの出来る状態になってきました。
とはいえ、コロナはかなり蔓延していますから注意を怠ることは出来ませんが、多くの兄姉たちと主に礼拝をお捧げ出来ます恵みを感謝します。
キリスト信仰のゆえに牢に入れられている兄姉もおります。
主が格別、御祝福くださいますように。
主を愛し、兄姉が互いに主に在って愛し合い、あなたに在って歩み続けていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月 3日 (水)

マタイ21:18ー22 御旨にかなうことを信じて祈るならば、その祈りはかなえられる

 マタイ2118-22には次のように記されています。
18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19
 道端に一本のいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、木はたちまち枯れてしまった。
20
 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21
 イエスはお答えになった。「よく言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イチジクの木が呪われた理由は429日の文章に中に記しました。
主イエス様の弟子たちは、イエス様がイチジクに、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われた途端にイチジクの木が枯れたのを見、驚いて「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と質問しました。

 弟子たちのこの質問にイエス様は何と答えたのでしょうか。
イチジクの木が瞬時的に枯れたのは、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」という主イエス様の信仰による宣言であったのですが、イエス様は、弟子たちに、祈りについて話されたのでした。

 21.22節には、“イエスはお答えになった。
「よく言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山〔オリーブ山(リビングバイブル)〕に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」”と記されています。

 少し脱線します。
イスラエル旅行をした人なら誰でもオリーブ山に行ったと思います。
 弟子たちが、神殿が崩壊させられることや世の終わりのしるしについて質問した場所もオリーブ山でした。
マタイ243には、“イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか〔マタイ241.2参照(筆者挿入)〕。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」”(2017)とあります。
 イエス様はオリーブ山の東麓にあるベタニア村に住んでいたラザロとその姉妹マルタとマリヤの家に時々行かれたようです。
 また、イエス様は、ご復活後オリーブ山から昇天しました(使徒19-12)。
そして、主キリスト・イエス様は、地上再臨の時、オリーブ山に降り立つのです。
ゼカリヤ144には、“その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。”(2017)と記されています。

 オリーブ山は海に移るのではないのですが、主の地上再臨の時に、オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができるのです。それは、山の半分は北へ、残りの半分は南へと移るからです。
これが神ヤハウェ(主)のご計画の一部なのでしょう。
それだけではなく、標高790mのエルサレムは、どんどん高くなり、どの山〔原語では「山」(ハル)には「ヘー」がついている複数形なので、イスラエルの山々かも知れません(筆者想像)〕よりも高くなるのです(イザヤ22)。

 話を元に戻します。
イエス様は、「よく聞きなさい。あなたがたも、信仰を持ち、疑いさえしなければ、もっと大きなことができるのです。たとえば、このオリーブ山に、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。ほんとうに信じて祈り求めるなら、何でも与えられるのです。」(マタイ2121.22・リビングバイブル)と弟子たちに語られたのです。

 おそらく弟子の誰もオリーブ山を海に移動させてしまうという神から来る確信を持つことは出来なかったと思います。
神様のオリーブ山に関するご計画では、主イエス様の地上再臨の時に、イエス様がオリーブ山に降り立ち、その時オリーブ山は北と南に分かれ、東西に延びる谷が出来る、ということになっていたからです。

 疑うことなく信じれば、とありますが、祈りの成就には、その他の重要な要素もあります。イチジクの木のこの個所には記されていませんが、1ヨハネ514.15には、「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 叶えられる祈りの条件として、御心にかなう祈り、ということも重要であり、それはまた、主の御人格、主の思いや感情、意志、に合致する範囲内の祈り、ということが大切なのではないだろうかと私には思えます。
イエス様は、「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」(ヨハネ1413.142017)と語られました。
「名によって」という個所を直訳すると、「名の中で」となりますから、主イエス様というお方の御性質や、思いや感情、意思の範囲の中での祈り、というようにも取れると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたのみ旨にかなう祈りをささげることが出来ますようお整え下さり、お導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年5月 2日 (火)

箴言22:11 心のきよい{主に対して(心の純粋な)}人は幸いです

 箴言22:11を、
新改訳は、“心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。”と訳し、
口語訳は、“心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友となる。”と訳し、
新共同訳は、“清い心を愛する人は唇に品位があり、王がその友となる。”と訳し、
リビングバイブルは、“きよい心を愛し、良いことを語る人は、王のほうから友になってくれます。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“心の清さを愛する人は、唇は上品で、王がその友となる。”と訳しています。

 前半部分に、「心のきよさ」(新改訳、聖書協会共同訳)、「清い心」(新共同訳、リビングバイブル)、「心の潔白」(口語訳)とありますが、「清い」「清さ」「潔白」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターホール」で、(肉体的にor物質的に、また化学的に、道徳的に、儀式or儀礼上的に)純粋な、きれいな、潔白な、きよい、清純な、(その他)公正な、等の意があります。「ターホール」は、形容詞としても名詞としても使います。

 中間部分に、「優しく」(新改訳)、「上品な」(口語訳、聖書協会共同訳)、「品位」(新共同訳)、「良いこと」(リビングバイブル)とありますが、そのように訳されている語のヘブライ語原語は「ヘーン」で、上品な、優雅な、気品のある、心遣い、親切な、優しい、礼儀正しい、善意、好意、優美、優雅、気品、しとやかさ、上品、・・等の意があります。

 新約聖書に目を向けて、心がきよいことを取り上げている聖句を見ると次のようなものがあります。
 1ペテロ1:22 には、“あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。”(2017)とあり、
 1テモテ1:5には、“私の〔「私の」は補足(欄外注)〕この命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としています。”(聖書協会共同訳)とあり、
 2テモテ2:22には、“若い頃の情欲を避け、清い心で主を呼び求める人たちとともに、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。”(聖書協会共同訳)とあり、
 テトス1:15には、“清い人には、すべてがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な者には、何一つきよいものはなく、その知性も良心〔原語は「スネイデーシス」で、良心、善悪の判断力等の意(筆者挿入)〕も汚れています。”(聖書協会共同訳)とあり、
 マタイ5:8には、“心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。”(新共同訳)とあります。
マタイ5:8を、口語訳は、“心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。”と訳しています。最後の「見るであろう」というギリシア語原語は、未来形です。聖句で未来形のものは、未完了ということなので、やがて見るのです。

 主イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちに次のように語りました。
「12 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。
15 私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。
17 互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15章・聖書協会共同訳)と記されています。

 健全なキリスト者は、心のきよさを愛し、正義と信仰と愛と平和を追い求める人でしょう。
心のきよい人は、やがて神にお会いするのです。
心のきよい人は、日々、霊的には、主とお会いしていることでしょう。
 
 主イエス様は、死の奴隷、サタンの奴隷であった私たちを、ご自身の血をもって買い取ってくださいました。
買い取られた者は、普通は奴隷としての立場が与えられるでしょう。ところが、主は、私たちを友の立場に引き上げてくださり、それで終わりではなく、主イエス様は、花婿となってくださったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主を愛し、主に従い続ける生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「唇に品位があり」(新共同訳)という個所を書き忘れました。
新約聖書のエフェソ(エペソ)の信徒への手紙の中には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」(4:29・聖書協会共同訳)と記されています。
同じ聖句を2017は、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」と訳しています。

2023年5月 1日 (月)

詩篇68:1-5 主と共に歩み主をたたえる/なぜ悪魔が世を支配しているのか

 詩篇681-5には次のように記されています。
1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。歌。
2
 神は立ち上がり、敵を散らす。神を憎む者はその前から逃げ去る。
3
 煙を吹き払うように、あなたは敵を吹き払う。火の前に蝋(ろう)が溶けるように、悪しき者は神の前に滅び去る。
4
 正しき人は喜び、祝う。神の前に喜び、楽しむ。
5
 神に向かって歌え。その名をほめ歌え。雲を駆って進む方をたたえよ。主〔この個所の原語は「ヤハ」or「ヤー」{ヤハウェの短縮形}(筆者挿入)〕の名によって、その前に喜び躍れ。”(聖書協会共同訳)とあります。
(聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳の、詩編681節を、口語訳、新改訳は表題としていますので、節に関しては1節ずつのずれがあります)

 民数記1035の個所には、詩篇682と似た文が記されています。
民数記1011-13には次のように記されています。
11 第二年の第二の月の二十日、雲が証しの幕屋から離れて昇ったので、12 イスラエルの人々はシナイの荒れ野を出発し、雲はパランの荒れ野にとどまった。13 彼らは、モーセを通して示された主の命によって、初めて旅路に着いたのである。”(聖書協会共同訳)とあります。
途中を省略しますが、民数記1033-36には次のように記されています。
33 彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山から旅立ち、三日の道のりを進んだ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の契約の箱はこの三日の道のりを彼らに先立って進み、彼らの休む場所を探した。
34
 彼らが宿営を出て進むとき、昼は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の雲が彼らの上にあった。
35
 主の箱が出発する度に、モーセはこう言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者が御前から逃げ去りますように。」
36
 またとどまる度に、彼はこう言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、帰って来てください。幾千幾万のイスラエルの民のもとに。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 民数記の方は、荒野を旅する場面でのことですが、詩篇682-5の個所の方は、ダビデが、神の箱をダビデの町に運び入れたときのことを賛美したものであったのでしょう。
 2サムエル612-15には次のように記されています。
12 神の箱のゆえに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がオべド・エドムの家族および持ち物すべてを祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。そこで、ダビデは行って、喜びのうちに、神の箱をオべド・エドムの家からダビデの町へと運び上げた。
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは雄牛と肥えた家畜をいけにえとして献げた。
14
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前でダビデは力の限り踊った。彼は亜麻布のエフォドを身に着けていた。
15
 ダビデとイスラエルの家は皆、喜びの声を上げ、角笛を吹き鳴らして、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の箱を運び上げた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇682-5を新生しているキリスト者との関係で考えてみたいと思います。
神の箱(契約の箱)は、ヤハウェ(主)の臨在の象徴でした。
 キリスト者のからだは神の宮(神殿)であり、神の臨在そのものです。
1コリント316には、“あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。”(新共同訳)と記されています。
また、1コリント6章には次のような文章が記されています(抜粋)。
15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。・・・。/
17
・・・、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。/
19
・・・。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。”(新共同訳)とあります。

 詩篇68篇の2.3節には、
2 神は立ち上がり、敵を散らす。神を憎む者はその前から逃げ去る。
3
 煙を吹き払うように、あなたは敵を吹き払う。火の前に蝋(ろう)が溶けるように、悪しき者は神の前に滅び去る。”と記されています。

 キリスト者の敵は、人ではなく、悪魔悪霊です。
新共同訳の、エフェソ(エペソ)612は、“わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。”と述べています。
悪の諸霊は、天にいるだけではありません。空中にもいます(エペソ22)。人の中にも入り込みます(ヨハネ1327)。

 悪魔悪霊に恐れる必要はありません。
なぜならば、我らの主イエス様が、サタンに勝利したからです。
それゆえに、私たちは、次の様に賛美することが出来るのです。
「ハレルヤ 主は 世と悪魔に すでに勝ちを得給(えたま)えば 我らもまた イェスとともに 日々勝ち得て余りあり」(聖歌474、聖歌総合版491。「世の波風如何に荒れて」の5節)

 主キリスト・イエス様は、天においても地においても一切の権威を与えられているお方だからです(マタイ2818)。
それ故キリスト者は、悪しき霊に勝利できるのです。
悪の霊界の王が、悪魔(サタン)です。
どうして悪魔がこの世を支配しているのでしょうか?
それは、アダムが、神ヤハウェ(主)の御言葉を退け、悪魔の言葉を信じたときから始まったのではないだろうかと私は考えています。
すなわち、人の祖先であるアダムの選択に基づいているのではないかと思います。
一方、神のことばを信じ、主を心にお迎えしたキリスト者は、神の支配下にあるのです。
1
ヨハネ519には、“私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある・・・。”(2017)とあり、
ローマ512には、“・・・一人の人によって罪が世界に入り・・・。”(2017)とあり、
創世記215-17には、
15 神である主は、エデンの園に人〔アダム(筆者挿入)〕を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。16 神である主は、人に命じられた。
「園のどの木からでも取って食べなさい。17 ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
そして、創世記31-6には、
1 神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」
2
 女は蛇に言った。
「私たちは園の木の実を食べることはできます。3 ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」
4
 蛇は女に言った。
「いや、決して死ぬことはない。5 それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
6
 女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記3章においては、蛇の言葉から、蛇は悪魔の化身であったのだろうと思います。悪魔が蛇に憑依したのかもしれないという考え方も出来るとは思いますが。
余談になりますが、この蛇は、黙示録では竜として登場します。また、聖書の他の個所にも竜は出てきます。
黙示録129には、“こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。”(2017)とあり、
黙示録202には、“彼〔ここでは「御使い」(筆者挿入)〕は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、”(2017)と記されています。
まことの神を知らず、龍を神とし、竜神としてダイレクトに敬っている人たちもいます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。 
今日は、話が大分それてしまいましたが、私たちの内におられる主に輝き出ていただいて、御父があがめられるようになることを切に願います。
私たちが私たちの敵に勝利したときには、あなたに賛美を捧げることを忘れることがありませんよう私たちを常に整えお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」
39
 イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。”(ヨハネ7章・聖書協会共同訳)

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