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2023年5月19日 (金)

マタイ22:1-14 王子の婚礼の祝宴に出席できる人とできない人/救いは主イエス・キリストによる贖いと主キリスト・イエスを信じる信仰による

 マタイ221-14には次のように記されています。
1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
2
 「天の国は、ある王が王子のために婚礼の祝宴を催したのに似ている。
3
 王は家来たちを送り、祝宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
4
 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜 を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。」』
5
 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。
7
 王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
8
 そして、家来たちに言った。
『祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9 だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。』
10
 それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。
11
 王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。
12
 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。
この者が黙っていると、13 王は召し使いたちに言った。
『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』
14
 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節の「天の国」(聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、塚本訳)、「天の王国」(岩波訳)、「天国」(前田訳、口語訳、文語訳)、「天の御国」(新改訳、リビングバイブル)と訳されている語のギリシア語原語は、マタイ53.1013.11.24.31.33.44.47に出てくるものと同じで、「天」(ウラノス)、「王国」or「御国」or「国」(バシレイア)の両単語の前には定冠詞がついています。
天の王国とは、まことの神様が支配される国のことです。ですから、神の王国は天上にも地上にもあるのです。地上にあるのは教会{(キリストのからだ)エペソ123、コロサイ118a}であり、霊的なものです。

 3節には、“王は家来たちを送り、祝宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。”とあります。
これは福音宣教をしても「イエスがキリスト」である(イエスが救い主であり主である)ということを受け入れなかった人たちです。
主イエス様が十字架にかかられる以前の福音宣教とユダヤ人たちの対応を大雑把に譬えているのだと思います。

 4節には、“そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜 を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。」』”とあります。
牛や肥えた家畜を屠ったというのはキリストの十字架を旧約的に語っているのでしょう(レビ記1-5章)。
特に、主の御前でのお食事は、主と共なるお食事であり、レビ記3章には、「酬恩祭の犠牲」(口語訳、文語訳)、「和解のいけにえ」(新改訳初版~第三版)、「和解の献げ物」(新共同訳、フランシスコ会訳)、「交わりのいけにえ」(新改訳2017)、「会食のいけにえ」(聖書協会共同訳)と記されているものです。

 5.6節には、“5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。”とあります。
これは、キリストの十字架と復活後にイスラエル人になされた福音宣教の時代の譬えでしょう。イスラエル人の中でもキリスト・イエス様信じて救われた人たちはいましたが多くの人は信じませんでした。
ステパノや使徒ヤコブは殉教しました。聖書には記されていませんが、その方々以外にも牢に入れられたり殉教した人もいたのです。
 
 7節には、“王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。”とあります。
A.D.70
年にローマ軍によってエルサレムは陥落しました。
マタイ242が成就したのです。
マタイ241.2には、次のように記されています。
1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。2 イエスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様がこのように語られる前に、次のように語られました。マタイ23章には次のように記されています。
34 だから、私は預言者、知者、学者をあなたがたに遣わすが、あなたがたはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くであろう。35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたがたが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血がことごとく、あなたがたに降りかかってくる。36 よく言っておく。これらの報いはみな、今の時代に降りかかってくる。」(聖書協会共同訳)とあります。

 8.9節には、“8 そして、家来たちに言った。『祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9 だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。』”と記されています。
ユダヤ人の中でも主キリスト・イエスによる救いを受け入れた人々はいましたが(使徒241.4761)、ユダヤ人の多くは、主キリスト・イエスによる救いを拒絶しました。
異邦人伝道は、A.D.70年以前に、すでに、コルネリオとその家族及びコルネリオのかかわりの人々から始まりましたが、A.D.70年にはエルサレム神殿が陥落し、福音宣教は、ユダヤ人から異邦人へと完全に移行していったのだろうと推測します。

 10節には、“それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。”とあります。
福音の世界宣教です。

 10-12節には次のように記されています。
10 それで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった。
11
 王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。
12
 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。
この者が黙っていると、13 王は召し使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、歯ぎしりするであろう。』”とあります。

 義の衣を着ていない者は外に出されてしましました。
主キリスト・イエス様を信じた人、すなわち心に受け入れた人は、義の衣を着せられるのです。
1
コリント130には、“神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(新共同訳)とあります。
新改訳初版~第三版は、“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と記しています。
キリストが、主イエス様を信じる私たちの義となってくださったのです。

 またローマ3章には次のように記されています。
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです
25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです
26
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです
27
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30
実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。”(新共同訳)とあります。

 私たちが主イエス様を信じることが出来たのは、神の恵みであり、神の業です(エペソ28、ヨハネ629)。

 14節に、“招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。”と記されています。
福音を聞いた人は数多くいます。しかし、福音を信じた人は少ないのです。
イエス様は言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713.142017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
御子イエス様を、救い主として、主として、信じさせてくださいましたことを感謝します。
あなたの御言葉にふれて信じ救われていく人々が起こされますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

やはり、聖書を学ぶ事は落ち着きます。
イエス様は決して、人を迫害する事はない事を改めて実感します。
主であるイエス様をただ信じて歩んでゆけばよい事を学びます。
この世ば、サタンの支配下である為、何がサタンなのだろう?何が神様からの矯正なのだろう?と思います。未だに区別はわかりません。
わかる事は、愛ある神様、主であるイエス様は人を追い込んだり傷めつける事はなさらないという事だと思いました。
12節の王のお言葉を真の王から言われた時には、答えたいです。
表題を読んだ時マタ25:1-13の十人のおとめの譬え話かと思いました。私はまだ準備ができていなく逃してしまう者なのだと時折思います。(引っ込み思案であったり、鈍かったり、出遅れてしまう事があり、他者優先としがちな性格です…)
2節の「天の国」の原語がヘブライ語となっておりましたが、ギリシャ語ではないのかな?と思いました。
今日も沢山の学びがあり、感謝します。

1度読み直すのですが、気付かないのですね。
大助かりです。
治しておきました。

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