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2023年5月17日 (水)

詩篇68:33-36 主に栄光を帰し、主を賛美せよ

詩篇6833-36には次のように記されています。
33 地にある王国よ、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕に向かって歌え。わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕にほめ歌を歌え〔セラ
34
 いにしえよりの天の天を駆って進む方に〔いにしえから、天の天を御される方に(2017)〕。神は声を、力強い声を発せられる。
35
 力を神〔エロヒーム(筆者挿入)〕に帰せよ。その威光はイスラエルの上に。その力は雲のかなたにある〔御力は雲の中にある(2017)〕。
36
 聖所におられる神〔エロヒーム(筆者挿入)〕こそ畏れられる方。イスラエルの神は民に力と権威を授ける方。神をたたえよ。”(聖書協会共同訳)とあります。
(新改訳、口語訳、リビングバイブルは、この個所を32-35節としています。)

 文章を書こうとする前に、以前この個所を扱った「トミーの聖書理解」{詩篇68:32-35 やがてイスラエルは高くあげられる}(2015/2/19)のところを読んでみました。
その結果、今の私は、それにあまり付け加えることがないと思い、それに加筆あるいは訂正してupしようと思いました。そのようなわけですがよろしくお願いします。

 “68:32地のもろもろの国よ、神にむかって歌え、主をほめうたえ。〔セラ
68:33
いにしえからの天の天に乗られる主にむかってほめうたえ。見よ、主はみ声を出し、力あるみ声を出される。
68:34
力を神に帰せよ。その威光はイスラエルの上にあり、その力は雲の中にある。
68:35
神はその聖所で恐るべく、イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな。(口語訳)

32節において、「地のもろもろの国よ、神にむかって歌え、主をほめうたえ。」という勧めをしています。

ダビデの時代は、イスラエル周辺のイスラエルに屈服した国々を「もろもろの国よ」と言ったかも知れません。しかし、やがて本当に全世界の国々が神に服し、神にほめ歌を歌う時が来ます。

旧約聖書のイザヤ4522-25には、
22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
23
わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。
すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、24 わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある』と言う。
主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。
25
イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」(新改訳第二版)と記されています。

新約聖書のピリピ210.11には、「・・イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(新改訳第二版)と記されています。

33節の「天の天に乗られる主」を、新共同訳は、「高い天を駆って進む方」と訳しています。岩波訳は、「天なる天を駈ける方」と訳しています。

また、「主はみ声を出し、力あるみ声を出される。」とあります。

主は細き御声を出されること(1列王記1912)もあれば、神様の御声を聞くことの出来ない人にとっては、雷鳴のようにも聞こえる場合(ヨハネ1229)もあります。

34節に、「力を神に帰せよ。」とありますが、人間は、力を持てばすぐに自分が力を持った、と自分に帰してしまうのです。人間は、元来、神様が造られなかったら存在しなかった存在であるにもかかわらず、罪の中にある人間は、神様を度外視して偉くなったり、落ち込んだりするのです。

ほめたたえられる方は、万物を造られ、保持されている神様だけなのです。
神様は、万物を造られただけではなく、万物を保持することもしています。
へブル12.3には、
“・・・。神は・・・、御子によって世界を造られました。御子は・・・、その力あるみことばによって万物を保っておられます〔万物をその力ある言葉によって支えておられます(聖書協会共同訳)〕。”(2017)と記されています。

 余談になりますが、この御子は、次の様にも語りました。
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ2435、マルコ1331、ルカ21332017)と記されています。
今の天地を神様が崩壊させた後には、神様は、新天新地を創造されます。(2ペテロ310、黙示録2011、イザヤ6517、黙示録211等を参照)

話しを元に戻します。
「その威光はイスラエルの上にあり」とありますが、イスラエルが神様に従っていた時には、神様の威光はイスラエルの上にいつも輝いていました。イスラエルが神様に背いていた時は、裁きという形で、神様の栄光はイスラエルの上に輝いていました。それはこれからも同じです。

また、イエス・キリスト様の十字架と復活の故に、キリスト者の上にも神様の御栄光は輝いています。キリスト者自身はあまり気付きません。例えば、私が救われた時に、天使たちに喜びが湧き起って(ルカ157.10)、天使たちが神様をほめたたえ、神様に栄光を帰したことを私は知りませんでした(参考:黙示録512)。また、私のために祈って労してきた人たちは、その人達の内におられる神である聖霊と共に喜んだことでしょう。その時、霊的赤子である私はそれに気付きませんでした。私は救われたわずか数ヵ月後に、私が救われたのは、聖書をよく探求したからだとごう慢になりました。その瞬間、みことばを信じることが出来なくなり、救いの確信を失ったのです。その時の恐怖感は大きいものでした。私は地獄へ行ってしまうと大いなる恐怖を覚え、みことばを信じることが出来るようにと必死に祈りました。そして、信仰は主が与えてくださったものであることをその時悟らせて頂きました。その時間は短い時間でしたが、「サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ2231.32)というイエス様のおことばを聞いたのです。高慢になった瞬間に神様の許しのもと、サタンが来たのです。しかし、主イエス様のとりなし(ローマ834の最終部分)によって直ちに回復されたのです。

エペソ28.9に「・・あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(新共同訳)とありますが、このおことばを実体験してしまったのです。今から34年前の出来事です(現在は42年くらい前になると思います)。

栄光は元々神様のものです。人が受けることは的外れであり、神様の栄光を横取りすることになります。

詩篇291.2には、“力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。”(2017)と記され、
詩篇1151には、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(新改訳第二版)と記されています。

イザヤ4811で、「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(新改訳)と主ご自身が語っておられます。

34節に、「その力は雲の中にある」と記されています。岩波訳の注に、この「雲」は「天」と同義とあります。新改訳第二版は、「雲の上にある」と訳しています。新共同訳は、「神の威力は雲の彼方にある」と訳しています。

「雲の中にある」という訳からは、出エジプト時の「雲の柱、火の柱」を連想しますし、また、シナイにおいての出来事、出エジプト1916-19の「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」(新改訳第二版)という箇所を思い浮かべます。

この主が、私たちの内にもいてくださるのですから驚きです。その上、私たちは主の愛に包まれて歩ませて頂いているのですから大感謝です。もし、恐怖を携えて、主が出て来られたら、たまったものではありません。

35節に、「神はその聖所で恐るべく、イスラエルの神はその民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな。」とあります。

新改訳第二版は、「神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。」と訳し、
 新共同訳は、「神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ。」と訳し、
 聖書協会共同訳は、「聖所におられる神〔エロヒーム(筆者挿入)〕こそ畏れられる方。イスラエルの神は民に力と権威を授ける方。神をたたえよ。」と訳しています。

イスラエルは、世の終わりに、それまで経験したことのない様な大患難を経験します(マタイ2421.22)が、キリストの再臨後は、地上のどの諸国よりも高く上げられるのです(イザヤ21-4)。

キリスト者の総体である教会は、この時は、既に天においてキリストとの結婚式と婚宴を終了しています(黙示録196-9)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イスラエル民族は、キリストの1000年王国において、高くあげられますが、その前には神様から練られる(ダニエル1210)ことが聖書に記されています。
私達キリスト者に対しては、主は、神のみこころはあなた方がきよくなることですよ(1テサロニケ43)とお声をかけていて下さいますから感謝します。
強制的に練られるのではなく、自発的にきよくされることを求め、主の御前に立つことが出来ますよう助けていて下さい。
立場的、法的には、イエス・キリスト様の血潮によって、聖なる者とされていますことを感謝します(へブル1010)。実質的にも、練られて、それに見合った者とされていきますように(1ペテロ115)。
黙示録198には、義の衣を与えてくだるとありますから、ありがとうございます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

とても幅広く、時間の経過が早かったです。他の聖句も記載してくださり、多くの学びがありました。ありがとうございます。(広げて学んでしまっただけかもしれませんが)
「練る」という言葉を使用されておりましたが、まさにその様に思いました。よい表現だと思いました。私の生き様に、主が練り込まれながらきよくしていただける道を歩んでゆける事は幸いなことです。全ては神様から始まり、神様に終わる。個々人、全てがそうであると思いました。その中でイエス様を信じ、この様に学ばせていただける事はとてもありがたいです。
34節の解説をしてくださっている中に
〝罪の中にある人間は、神様を度外視して偉くなったり、落ち込んだりするのです。〟と書かれていらした文ですが、起きた事に対してと捉えてよいのでしょうか?(説明が難しく簡単な質問の言葉となってしまい、汲み取ってくださると助かります)
〝威光〟と〝栄光〟の使い方がよくわからなかったので、もう少し学んでみようと思いました。
〝ダビデの時代・・「もろもろの国よ」と行ったかも・・〟となっておりましたのでお知らせ致します。

訂正すべき箇所を直しておきました。
いつも見つけてくださり感謝します。

“〝罪の中にある人間は、神様を度外視して偉くなったり、落ち込んだりするのです。〟と書かれていらした文ですが、起きた事に対してと捉えてよいのでしょうか?”→
「主を心の中心に置かずに人を見てしまい、自分と人を比べてしまうと、人は高慢になったり卑屈になったりしやすいものです。」或いは、「自分はこうだけど、あの人はどうだろう。」という意味合いで書こうとしたのですが、文章表現が良くなかったですね。

「主を心の中心に置かずに人を見てしまう」という言い回しは、私にはとても分かり易いです。主を心の内に入れるということにもつながりますね?
自分を先ず持ってきてしまっている…という事にもつながり易いのかな?と思いました。
起きた事に対して、主を中心にすると結果が異なってくるという事ですね。
とてもよい表現だと思います。いつもありがとうございます。

理解していただけて良かったです。
主の御名を崇めます。

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