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2023年5月31日 (水)

マタイ22:34-40 主を愛することが出来るのは主が愛してくださったから

 マタイ2234-40には次のように記されています。
34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35
 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36
 「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」
37
 イエスは言われた。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の戒めである。
39
 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40
 この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ〔「すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」(フランシスコ会訳)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 37節の、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」という個所を直訳すると、「あなたの心のすべての中で、あなたの魂のすべての中で、あなたの思いのすべての中で」となります。

 主イエス様を敵視している、主イエス様を貶めようとする勢力によるいくつもの質問が、私たちにとってはさらなる真理の啓示となってくれています。

 さて、この個所の並行個所であるマルコによる福音書12章では、さらに続いていて、律法学者と主イエス様とのやり取りが次のように記されています。
32 律法学者はイエスに言った。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」
34
 イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は、律法の根底となっている聖句を語られました。
それを聞いた律法学者は、イエス様が語られた通りであると認めたのです。
その律法学者に対して、主イエス様は、「あなたは神の国に入っている」とは言われず、「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです。

 自力の行いによって神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。
ここに登場した律法学者は、「イエスを信じないことが罪である」(ヨハネ169)ということがわかっていませんでした。

またこの律法学者は自己評価において、自分は、主が語られた律法の聖句を行えていたと考えていたのかもしれません。

 マタイ2234-40に関してBIBLE vaviは、次のように述べています。
“パリサイ人は600以上の律法を分類し、それほど重要でないものと、重要なものを区別しようとした。それで彼らの中の一人、「律法の専門家」が、イエスに最も重要な律法を明らかにするよう求めた。パリサイ人は律法主義的、排他的になっており、世界にとって祝福となるために神がイスラエルに与えた役割を無視していた。イエスは、申命記65とレビ1918から引用した。この二つを守ることで、他の全部の戒めを守ることになる。この二つは、十戒その他の旧約聖書の道徳律を要約している。
もし神と隣人を心から愛するならば、自然に戒めを守ることになる、とイエスは言われた。これは、神の律法の肯定的な見方である。行うべきことを心配するのではなく、神と他の人に愛を示すために行うことが出来ることに集中しよう。”と記しています。

 マタイ22章の、“37 ・・。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
39
 ・・。『隣人を自分のように愛しなさい。』”という聖句を、罪をもって生まれた人間が行えるわけはないのです〔{ローマ512、詩篇515(新共同訳は7節)、ローマ714-25}(聖句個所は口語訳、新改訳)参照〕。

 キリスト者は、自力で、律法の聖句に基づいて生きようとするのではなく、三一の神の霊に導かれて生きる存在なのです。霊である神ヤハウェ(主)に導かれて生きるときにはじめて、律法が言わんとする生き方を生きることが出来るのです。

 2コリント3章には次のように記されています。
4 私たちはキリストによって、このような確信を神に対して持っています。
5
 何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。
6
 神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字〔旧契約(筆者挿入)〕は殺し、霊は生かします。
7
 石に文字で刻まれた死をもたらす務め〔律法はキリストに導く養育係でした(ガラテヤ324)。律法を自力で行うことは出来ません(筆者挿入)〕さえ栄光に包まれて、モーセの顔に輝くつかの間の栄光のために、イスラエルの子らがその顔を見つめることができなかったとすれば、
8
 まして、霊に仕える務めは、なおさら、栄光に包まれているはずではありませんか。
9
 人を罪に定める務めに栄光があったとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ち溢れているからです。
10
 事実、かつて栄光を受けたもの〔旧約律法(筆者挿入)〕は、この場合、はるかに優れた栄光〔キリストの十字架と復活に基づく福音(筆者挿入)〕の前に、栄光を失ったのです。
11
 やがて消え去るものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 更にローマ331には、“それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。”(2017)と記されています。

 心の奥底まで、神に愛されていることを知った者でないと、神を本当に愛することは出来ないでしょう。
福音はそれを可能にしたのです。

 1ヨハネ4章には次のように記されています。
7 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです
8
 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。
9
 神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。
10
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります
11
 愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。
12
 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。
13
 神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。
14
 私たちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
15
 誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人の内に神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
16
 私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
17
 このように、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に私たちは確信を持つことができます。イエスが天でそうであるように、この世で私たちも、愛の内にあるのです〔直訳:「あの方がそうであるように、この世で私たちもそうである」(欄外注)、「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです」(2017)〕。
18
 愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します。恐れには懲らしめが伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。〔ですから、私たちを心から愛してくださる方を、どうして恐れる必要がありましょう。もし恐れがあるなら、それは神が私たちに何をなさるか不安をいだいているからです。神の完全な愛は、そんな恐れをすべて取り除きます。恐れている人は、神の愛をまだ十分理解していないのです。(リビングバイブル)〕
19
 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
何時もあなたが与えてくださる恵みによって生かされていますことを感謝します。
今日もあなたを賛美しながら歩むひと日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

ファリサイ派にしてもサドカイ派にしても、同じ神様を信じる者同士ですよね。
頭での理解や行いによるのではない事を改めて学びました。
本物の愛がそこにあるから動かされる事を思い感じました。
隣人を愛するという御言葉をはき違えていた様に思いました。まだ上手く説明はできないのですが、言葉に囚われる事や、傷付く事を恐れて踏みとどまってしまう事よりイエス様を信じて外(自分以外の事や人)に出て行く(かかわりを持つ)事を言われているのかな?と思いました。もっとシンプルに捉えて良いという事を教えてくださった気がします。(極端な話、何も考えなくて良いという事かな?と思いました。既に知っているのだから…という事でしょうか?)大きな気づきをありがとうございます。

シンプルで大丈夫なのです。
主が支えてくださるから。

そうですよね…。特に1ヨハ4:18に足踏みしていた感じでしたので、とても救われました。いつも教えてくださりありがとうございます。

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