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2023年6月

2023年6月30日 (金)

詩編72篇 ダビデがソロモンを思って祈った祈り/聖霊に導かれた祈り

 詩篇721-7には次のように記されています。
1 ソロモンの詩〔ソロモンのために(2017)〕。
神よ、あなたの公正〔「さばき」(2017)、あるいは「統治」(2017欄外注)〕を王に、あなたの正義を王の子にお授けください。
2
 彼が正義によってあなたの民を、公正によって苦しむ人を裁きますように。
3
 山々が民に平和を、丘が正義をもたらしますように。
4
 王が民の中の苦しむ人を裁き、貧しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように。
5
 王が、太陽と月のあるかぎり〔直訳「太陽と共に、そして月の前で」(欄外注)〕、代々にわたってあなたを畏れますように。
6
 王が、刈り入れ後の牧草に降る雨のように、地を潤す豊かな雨のようになりますように〔直訳「下ってきますように」(欄外注)〕。
7
 王の治世に正しき人が栄え、月の失われるときまで平和が豊かにありますように。”(聖書協会共同訳)とあります。

 冒頭に、“ソロモンの詩”とありますが、詩編7220には、“エッサイの子ダビデの祈りの終わり。”とあり、また、ヘブライ語原語は「レシェロモー」と、日本語訳のソロモンの接頭前置詞が「レ」で、~に、~のために、という意味ですから、2017訳のように「ソロモンのために」とした方が良いのではないかと思います。

 ヤハウェ(主)は、預言者ナタンに、ダビデとダビデ家の将来について、次のような預言を与えました。2サムエル記には次にように記されています。
8 今、私の僕ダビデに告げなさい。
『万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。牧場で羊の群れの後ろにいたあなたを取って、私の民イスラエルの指導者としたのは私だ。
9
 あなたがどこに行こうと、私は共にいて、あなたの前から敵をことごとく絶ち、地上の大いなる者の名に等しい名をあなたのものとする。
10
 私の民イスラエルには一つの所を定め、そこに彼らを植える。彼らは敵に代わって根を下ろし、もはや恐れおののくことはない。初めの頃のように、 不正を働く者が民を苦しめることはもうない。
11
 昔、私の民イスラエルの上に士師を立てた頃のように、私はあなたの敵をことごとく退け、あなたに休息を与える。主は告げられる。主があなたのために家を興す。
12
 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後(あと)に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。
13
 その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。
14
 私は彼の父となり、彼は私の子となる。彼が過ちを犯すときは、私は人の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。
15
 私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。
16
 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」
17
 ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに語った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇72篇の祈りは、ダビデが神ヤハウェ(主)から与えられた上記の約束を土台にしているように私には思えます。
ダビデの次の王として立てられたソロモンについて、そして、さらに最終的な王の王であるところのイエス・キリストについての預言に呼応した祈りまでも詩篇72篇に記されています。
イエス・キリストは、肉の血統においてはダビデの子孫として生まれました。
神は霊であり(ヨハネ424)、神のひとり子の御子も霊です。イエス・キリストは、神のひとり子の御子が人の肉体をまとって誕生されたのです。
キリストが復活した後のからだは、霊のからだです(ヨハネ2019、使徒19、1コリント1540.42.-44)。

 ダビデによるソロモンへの教育とソロモンのための祈りは、若い頃のソロモンの心に深く根付いたのではないかと想像します。ソロモンはダビデの死後夢を見ましたが、それはヤハウェ(主)が夢の中に現れ、主と交わりを持たせていただいた夢でした。
 1列王記3章には次のように記されています。
4 王〔ソロモン(筆者挿入)〕はいけにえを献げるためにギブオンへと行った。そこには最も重要な高き所があったからである。ソロモンはその祭壇の上で、一千頭の焼き尽くすいけにえを献げた。
5
 その夜ギブオンで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は夢の中でソロモンに現れた。
「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう」と神は言われた。
6
 ソロモンは答えた。
「あなたは、あなたの僕(しもべ)である父ダビデに、大いなる慈しみを示されました。彼が真実と正義と正直な心をもって御前を歩んだからです。あなたはこの大いなる慈しみを守り続け、今日、その座に着く子を与えられました。
7
 わが神、主よ。この度、あなたは父ダビデに代わって、この僕を王とされました。しかし、私は未熟な若者で、どのように振る舞えばよいのか分かりません。
8
 僕(しもべ)はあなたがお選びになった民の中の一人ですが、民は多く、その多さのゆえに数えることも調べることもできません。
9
 どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。そうでなければ、誰がこの数多くのあなたの民を治めることができるでしょうか。」
10
 ソロモンが願ったことは、主の目に適(かな)う良いことであった。
11
 神は言われた。
「あなたが願ったのは、自分のために長寿を求めることでもなく、富を求めることでもなく、また敵の命を求めることでもなかった。 あなたが願ったのは、訴えを聞き分ける分別であった。12 それゆえ、あなたの言うとおりに、知恵に満ちた聡明な心をあなたに与える。あなたのような者は、前にはいなかったし、この後にも出ないであろう。
13
 私はまた、あなたが求めなかったもの、富も栄誉も与えよう。生涯にわたり、王の中であなたに並び立つような者は一人もいない。
14
 父ダビデが歩んだように、あなたが私の掟と戒めを守り、私の道を歩むなら、私はあなたに長寿を与えよう。」
15
 ソロモンが目を覚ましてみると、それは夢であった。ソロモンはエルサレムに戻り、主の契約の箱の前に立ち、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを献げ、すべての家臣のために宴会を開いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ソロモンの願いとヤハウェ(主)の応答の前には、ダビデが主の導きによって祈らせていただいた詩篇72篇の内容があったのではないかと私は想像したくなるのです。
詩篇721-19には次のように記されています。
1 ソロモンの詩〔ソロモンのために(2017)、for SolomonKJV)〕。
神よ、あなたの公正を王に、あなたの正義を王の子にお授けください。
2
 彼が正義によってあなたの民を、公正によって苦しむ人を裁きますように。
3
 山々が民に平和を、丘が正義をもたらしますように。
4
 王が民の中の苦しむ人を裁き〔弁護し(2017)〕、貧しい人の子らを救い、虐げる者を砕きますように。
5
 王が、太陽と月のあるかぎり、代々にわたってあなたを畏れますように。
6
 王が、刈り入れ後の牧草に降る雨のように、地を潤す豊かな雨のようになりますように。
7
 王の治世に正しき人が栄え、月の失われるときまで平和が豊かにありますように。
8
 海から海まで、川から地の果てまで、王が支配しますように。
9
 砂漠に住む者が王の前に身をかがめ、敵が塵をなめますように。
10
 タルシシュと島々の王たちは献げ物を携え、シェバやセバの王たちが貢ぎ物を納めますように。
11
 すべての王が彼の前にひれ伏し、すべての国が彼に仕えますように。
12
 王が、叫び声を上げる貧しい人を、助ける者もない苦しむ人を救い出しますように。
13
 弱い人、貧しい人を憐れみ、貧しい人の命を救い、14 虐げと暴力からその命を贖い、王の目にその人たちの血が、貴いものでありますように。
15
 王が命を得、シェバの黄金を受けますように〔ヘブライ語は「彼に与えますように」(欄外注)、「彼にシェバの黄金が献げられますように(2017)〕。人々が王のために絶えず祈り、日夜、王を祝福しますように。
16
 地には一面の麦、その実りはレバノンのように、山々の頂まで豊かに波打ち、町には人が地の青草のように栄えますように。
17
 王の名がとこしえに続き、その名が太陽のあるかぎり栄えますように。すべての国民が彼によって祝福を受け、彼を幸いな人と呼びますように。
18
 神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をたたえよ、イスラエルの神を、ただひとり奇しき業(わざ)を行う方を。
19
 栄光に輝く主の名をとこしえにたたえよ。栄光が全地を満たしますように。アーメン、アーメン。”(聖書協会共同訳)とあります。
そして最後の20節は、“エッサイの子ダビデの祈りの終わり。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ618・新改訳)と勧められているように、いつも主の霊の導きに従って祈ることが出来ますよう祝福して下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」(ローマ8262017

2023年6月29日 (木)

申命記17:14ー20 王に関する規定/教会のかしらはキリスト・イエスです

 申命記1714-20には次のように記されています。
14 あなたが、あなたの神、主が与える地に入り、それを所有してそこに住み、「周りにいるすべての国民のように、私の上に王を立てよう」と考えるなら、15 必ず、あなたの神、主が選ぶ者を王としなければならない。
同胞の中から、あなたを治める王を立てなさい。同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。
16
 ただし、王は自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすためだと言って、民をエジプトに再び帰らせてはならない。主は、「あなたがたはこの道を二度と帰ってはならない」と言われたからである。
17
 また、妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。
18
 王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、19 傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。それは、王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、20 また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。
そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14.15節には、
14 あなたが、あなたの神、主が与える地に入り、それを所有してそこに住み、「周りにいるすべての国民のように、私の上に王を立てよう」と考えるなら、15 必ず、あなたの神、主が選ぶ者を王としなければならない。
同胞の中から、あなたを治める王を立てなさい。同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。”と記されています。

 イスラエルが、他の国々のように「王が欲しい」と言い出したのは、預言者であり士師であったサムエルが老年になったときでした。サムエルは、士師として不適な息子たちをイスラエルの裁き司としたのです。
サムエルの息子たちは、主を畏れず、その行為はイスラエルの一般の民よりもひどいものでした。それに業を煮やしたイスラエルの民は王を求めたのです。詳しくは1サムエル8章に記されています。

 ヨシュアは、モーセの子どもではありませんでしたが、モーセに従い続け、主に対するモーセのありようを見続け、また主もヨシュアをお取り扱いくださり、イスラエルを導く者とされました。
もし、サムエルもその様な弟子がいたならば、サムエルの時代にイスラエルの民が王を求めることはなかったのではないかと思います。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民の求めに応じて、サウルを王として立てました。
神ヤハウェ(主)は、サウルが主の命令に従わなかったことを理由に、サウルを排してダビデを王と立てました。

 ダビデの次に王になったのはソロモンでした。
申命記1716.17には、
16 ただし、王は自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすためだと言って、民をエジプトに再び帰らせてはならない。主は、「あなたがたはこの道を二度と帰ってはならない」と言われたからである。
17
 また、妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。”と記されています。

 イスラエルの三代目の王ソロモンは、多くの妻をめとりました。おそらく政略結婚と肉性の情欲からでしょう。
1
列王記11章には、
1 ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。
2
 これらの国民について、主はかつてイスラエルの人々に、「あなたがたは彼らと結婚してはならない。また彼らもあなたがたと結婚してはならない。 さもなければ、必ずやこれらの国民が、あなたがたの心をその神々〔神々の実質は「悪しき霊」です。1コリント1019-22参照(筆者挿入)〕へと向けさせるだろう」と言われた。だがそれにもかかわらず、ソロモンはこうした者たちを愛して離れることがなかった。
3
 彼には多くの妻、すなわち、七百人の王妃と三百人の側室がいた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 知恵があっても情欲、肉欲にはなかなか勝てないものです。
主イエス様は、このための解決方法与えてくださいました。
それは、ガラテヤ524に、“キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった〔アオリスト時制(筆者挿入)〕のである。”(口語訳)と記されています。
主と結ばれているキリスト者は、上記の聖句を信じることによって自分のものとして実体化させて頂けばよいのです。

 16節に、「王は自分のために馬を増やしてはならない。」とありますが、1列王記1026には、“ソロモンは戦車と騎兵を集め、戦車千四百台と騎兵一万二千人を所有した。彼はこれらを戦車の町々、およびエルサレムの王のもとに配置した。”(2017)と記されています。

 17節に、「自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。」とありますが、1列王記10章には、
14 一年間にソロモンのもとに入って来る金の重量は、六百六十六キカル〔タラント(口語訳、新改訳)〕であった。15 そのほかに、行商人、貿易商、アラビアのすべての王、地方総督からの収入があった。
16
 ソロモン王は延金で大盾を二百枚作ったが、一つの大盾に貼り付けた金は六百シェケルであった。
17
 また、延金で小盾を三百枚作ったが、一つの小盾に貼り付けた金は三マネ〔ミナ(新改訳、口語訳)〕であった。王はこれらの盾を「レバノンの森の家」〔レバノンの森の宮殿(2017)。レバノン山の森から切り出した杉材で建てられた豪華な建物(筆者挿入)〕に置いた。
18
 王はさらに象牙の大きな玉座を作り、精錬された金で覆った。19 玉座には六つの段があり、背もたれの上部は丸く、座席の両側には肘掛けがあり、肘掛けの脇には二頭の獅子の像が据えられていた。20 また、六つの段の両側には、十二頭の獅子の像が据えられていた。このようなものは、他のどこの王国でも造られたことがなかった。21 ソロモン王の杯はすべて金であり、「レバノンの森の家」の器はすべて純金で、銀のものはなかった。ソロモンの時代には、銀は価値あるものとは 見なされていなかったのである。
22
 海には、王のタルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった。三年に一度、タルシシュの船団は、金や銀、象牙、ひひや猿を運んで来た。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 財産、武力、名声等が豊かになるほどに、この世においては、主により頼まなくても快適に生活することが出来るようになるでしょう。そうなるとそのような環境の中で、常に主を第一として主によりすがって歩んでいくのが難しくなるのです。

 イエス様は、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マルコ10252017)と語られ、また、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのち〔原語は「プシュケー」で「魂」(筆者挿入)〕を失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ8362017)とも語られました。

 申命記1718-20には、
18 王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、19 傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。それは、王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、20 また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。”と記されています。

 主は極めて大切なことを教えてくださっていたのです。
イスラエルの歴代の王が、毎日律法の書を読んでいたならば、イスラエルの歴史は変わっていたでしょう。
私たちキリスト者も、毎日、聖書を読み、ただ読むだけではなく、御言葉に従った生活をするように聖霊に助けられつつ歩めば、主の御目には良きものと映ることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
聖書を与えてくださいましたことを感謝します。
日々、聖書の御言葉に接し、主のみ旨に従う生き方をさせていただくことが出来ますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月28日 (水)

マタイ23:37-39 エルサレムに対する裁きの預言と嘆き

 マタイ2337-39には次のように記されています。
37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
38
 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
39
 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 37節に、「めんどりが雛を羽の下に集めるように」とありますが、主なる神様は、似たような表現をもちいます。
 申命記3210-12には、“10 主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ、彼を抱き、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。11 鷲がその巣を揺り動かし、雛の上を舞い、羽を広げて雛を取り、翼に乗せて運ぶように、12 ただ主だけが彼を導き、異国の神は共にいなかった。”(聖書協会共同訳)とあり、
 詩篇914には、“主はご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。”(2017)と記され、
 イザヤ315には、“万軍の主は、舞い飛ぶ鳥のように、エルサレムを守る。これを守って救い出し、これを助けて解放する。”と記されています。

 上記の聖句を考え合わせると、主イエス様は、神のひとり子の御子として、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(37)と語られたのではないかと思います。

 また37節に、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、・・・」とありますが、サンヘドリン(最高法院)で福音を証言したステパノは、その町の外に追い出され、石で打ち殺されたのでした(使徒68-760)。

 エルサレムの人々は、預言者たちを殺し、主イエス様さえも殺しました。
それは、神から託された預言者たちの神の言葉も、主イエス様をも自分たちには必要がない、ということでした。
神様は、必要がないのならば、すなわち、神様を捨てるのならば、私も同じようにしよう、ということになるのでしょう。
38
節には、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」と預言されています。
「お前たちの家」とある「家」は単数形です。神殿を指しているのではないかと思います。
神様は、ご自身の家であるエルサレム神殿さえも見捨てる、と言われたのでしょう。
マルコ131.2には、
1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」”(2017)とありますが、エルサレムは、ティトゥス率いるローマ軍によってA.D.70年に陥落したのでした。

 39節には、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」とあります。

 これは主キリスト・イエス様の地上再臨の預言でしょう。
 イザヤ5915b-21には、
15b主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
16
主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。
17
主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。
〔主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。(新改訳)〕
18
主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。
〔主は彼らの仕打ちに応じて報い、はむかう者に憤り、敵に報復し、島々にも報復をされる。(2017)〕
19
西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。
20
主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。
21
これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると、主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる。”(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
詩篇91篇には、“1 いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る。
2
私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦、私が信頼する私の神」と。
4
主はご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。”(2017)と記されていますが、三一の主なる神様を信じさせていただける恵みを心から感謝します。
主の羽の内にとどまるということは、主の御言葉の内にとどまるということにも通じるところがあることを覚えます。
いつもあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたのみ旨の内を歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月27日 (火)

箴言23:12 御言葉を読み続け、聴き続けよう

 箴言2312には、“あなたは訓戒に心を用い、知識のことばに耳を傾けよ。”(2017)と記されています。

 BIBLE naviはこの聖句に関して次のように適用注解しています。
“知恵を得る可能性が最も高い人たちとは、聴く気のある人たちである。他者が言うことに注意を払うことは、弱さではなく強さのしるしである。聴くことに熱心な人たちは、学び続け、人生を通して成長し続ける。考えが凝り固まってしまうことを拒否するならば、私たちは常に知識の限度の幅を広げることが出来る。”と述べています。

 世の人は、訓戒や知識というと、この世の人が提供してくれているもののことを考えるのではないかと思います。
この世の人が提供してくれているものが、主の御教えに対して矛盾していなければよいのですが、この世が提供してくれるものはサタンからきているものが多いのではないかと思います。
コロサイ28には、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。
同じ個所を、
口語訳は、“あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基(もとづ)くものにすぎない。”と訳し、
新共同訳は、“人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。”と訳しています。

 また、1ヨハネ519には、“この世全体が悪い者〔悪魔(リビングバイブル)〕の支配下にあるのです。”(新共同訳)と記されています。
この個所を、口語訳は、“全世界は悪しき者の配下にある”と訳しています。

 一方、詩篇19篇には、
7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。
8
主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで人の目を明るくする。
9
主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。
10
それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。
11
あなたのしもべもそれらにより戒めを受け、それを守れば大きな報いがあります。”(2017)と記されています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、8-12節になります。)

 2コリント318には、“わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。”(新共同訳)と記されているように、キリスト者は、一人一人が変えられていきます。
 さらにキリスト者の総体であるキリストのからだは、キリストの身の丈を目指して成長していくのです。
エペソ4章には次のように記されています。
11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
12
それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
14
こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教(おしえ)の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
16
また、キリストを基(もとい)として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだ〔キリストのからだ(筆者挿入)〕を成長させ、 愛のうちに育てられていくのである。”(口語訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの御言葉を食し、あなたの御言葉を聴き、御言葉と共に働く御聖霊によってお整えをいただいて、日々を過ごしていく者であり続けさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月26日 (月)

詩篇71:19-24 主を信じる信仰者は主から訓練を受け主を賛美するようになる

 詩篇7119-24には次のように記されています。
19 神よ、あなたの正義は高い天にまで至ります。あなたは大いなる業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。
20
 あなたは多くの苦しみと災いを私に思い知らせましたが、再び命を与えてくださいます。地の深い淵から再び引き上げてくださいます。
21
 私を大いなるものとし、慰めを与えてくださいます。
22
 わが神よ、私もまた竪琴に合わせてあなたのまことに感謝を献げます。イスラエルの聖なる方よ、琴に合わせてあなたをほめ歌います。
23
 私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。
24
 私の舌も日夜あなたの正義を唱えます。私の災いを望む者が恥を受け、辱められた、と。”(聖書協会共同訳)とあります。

 19節には、“神よ、あなたの正義は高い天にまで至ります。あなたは大いなる業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。”とあります。

 「神よ、あなたの正義は」(2017)と訳されている中の「正義」の訳ですが、新改訳、フランシスコ会訳、口語訳、文語訳は「義」と訳し、新共同訳は「恵みの御業」と訳し、リビングバイブルは「恵み」と訳しています。ヘブライ語原語は「ツェダーカー」で、正しさ、公正、正義、義、厳正、正直、(倫理的な)美徳、(比喩的に)繁栄、等の意があります。

 神様は、折々に義を執行なさいます。
神に反逆した天使すなわちサタン(悪魔)について、イザヤ14章には次のように記されています。
12 ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地へと切り倒された。諸国民を打ち倒した者よ。13 お前は心の中で言った。『私は天に上り、神の星々より上に王座を高く据えよう。そして、北の果てにある集会の山に座し、14 雲の頂に登り、いと高き方のようになろう』と。
15
 しかし、お前は陰府へと、その穴の底へと落とされる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イザヤ1415は、黙示録201-3の個所にも次の様に記されています。
1 また私は、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。
2
 この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、3 底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになっている。”(聖書協会共同訳)とあります。

 またサタンに従って堕罪した天使たちも多くいましたが、この堕天使たちの裁きについて、ユダの手紙6節をリビングバイブルは、“また、もう一つ、心にとめてほしいことがあります。それは、かつては汚れなく、きよい存在であったにもかかわらず、罪に堕落していった、あの天使たちのことです。神は、彼らを審判の日まで鎖につなぎ、暗黒の牢獄に閉じ込めてしまわれました。”と意訳しています。

 24節には、“・・・。私の災いを望む者が恥を受け、辱められた”とありますが、主を信じる信仰者の災いを望む者たち、すなわち悪魔悪霊を主は裁いてくださいます。

 神様は、人間社会に対しても折々に義を執行されてきたことが旧約聖書を読むとわかりますし、新約の時代の歴史を眺めていると、ここで介入されたのではないだろうかということが、あちらこちらで分かります。

 詩聖は、詩篇7119-21で、
19 神よ、あなたの正義は高い天にまで至ります。あなたは大いなる業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。
20
あなたは多くの苦しみと災いを私に思い知らせましたが、再び命を与えてくださいます。地の深い淵から再び引き上げてくださいます。
21
 私を大いなるものとし、慰めを与えてくださいます。”と述べています。

 神様は、神ヤハウェ(主)を信じる信仰者に対しては、矯正こそすれ滅ぼすことはせず、かえってお整え下さいます。ヘブライ(へブル)12章には次のように記されています。
4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
5
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
7
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8
もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子〔私生児(2017)〕であって、実の子ではありません。
9
更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
10
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を 結ばせるのです。”(新共同訳)とあります。

 ペトロ(ペテロ)は、2ペトロ(ペテロ)14に、“この栄光と力ある顕現によって、私たちには尊く大いなる約束が与えられています。それは、あなたがたがこの約束によって、世の欲にまみれた腐敗を 免れ、神の本性〔「神のご性質」(新改訳)〕にあずかる者となるためです。”(聖書協会共同訳)と記しています。

 まことの神である主を信じる者たちは、多かれ少なかれ、主の御性質にあずからせていただくために訓練された(訓練されている)ことと思います。

 22.23節には、“わが神よ、私もまた竪琴に合わせてあなたのまことに感謝を献げます。イスラエルの聖なる方よ、琴に合わせてあなたをほめ歌います。私の唇は喜び歌い、あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。”とありますが、主の恵みを受けたものは、主を賛美するのです。

 へブル1315には、“だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。”(口語訳)と記され、
詩篇223には、“・・あなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です。”(2017)と記されています。

 詩篇150篇には、
1 ハレルヤ。主の聖所で神を賛美せよ。主の力の溢れる大空で神を賛美せよ。
2
 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。そのすぐれた偉大さにふさわしく神を賛美せよ。
3
 角笛を吹いて神を賛美せよ。竪琴と琴を奏でて神を賛美せよ。
4
 タンバリンに合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし、笛を吹いて神を賛美せよ。
5
 シンバルを鳴らして神を賛美せよ。シンバルを高らかに響かせて神を賛美せよ。
6
 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたからの御訓練を頂くときもありますが、いつも主を賛美しながら歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月25日 (日)

申命記16:21ー17:7 正しい礼拝/神が憎悪されるもの

 申命記1621-177には次のように記されています。
1621 あなたは、自ら造った、あなたの神、主の祭壇の傍らに、いかなるアシェラの木像も立ててはならない。
22
 あなたは、あなたの神、主が憎まれる石柱を立ててはならない。
17
1 あなたは、いかなる欠点であれ、欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主に、いけにえとして献げてはならない。それはあなたの神、主が忌み嫌われることである。
2
 もし、あなたの中に、あなたの神、主が与える町で、男であれ女であれ、あなたの神、主の目に悪とされることを行い、契約に背き、3 他の神々のもとに行って仕え、その神々や、私が命じたこともない太陽や月や天の万象などにひれ伏す者がいて、4 そのことが伝えられ、それを聞いたならば、よく調べなさい。もしそれが確かな事実であり、忌むべきことがイスラエルの中で行われたのだとしたら、5 あなたはその悪事を行った男か女を町の門のところに引き出し、その者たちを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。
6
 死刑にするには、二人または三人の証人の証言によらなければならない。一人の証人の証言によって死刑にしてはならない。
7
 死刑にするにあたっては、最初に証人たちが手を下し、それからすべての民が手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を除き去りなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1621には、“あなたは、自ら造った、あなたの神、主の祭壇の傍らに、いかなるアシェラの木像も立ててはならない。”とあります。

 アシェラについて聖書辞典は、“アシェラ (〈ヘ〉aserah aserah) アシュタロテと共にカナン宗教の肥沃祭儀の礼拝の対象とされていた女神で、古代オリエント全域で信奉されていた。アシェラはイスラエルにおいて、唯一の真の神ヤハウェに対する信仰が自然および自然の力を信奉する宗教に堕落する時には、必ず入り込んできた。そして至高神の妻として崇拝される偶像となった。アシェラはこのようにアシュタロテ、アナテと共に有力な女神とされ、それらの相手になる男神としては一般的にバアルがあげられている。その祭は農業宗教的要素を持ち、きわめて官能的、性的傾向に走った。後にエルサレムの神殿にアシェラ像が立ち、神殿男娼の部屋が設けられ、その像に掛ける幕を織る女たちがいたことが記されている(Ⅱ列23:7)。
モーセの律法では、「彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない」と命じられている(出34:13,7:5,16:21)。しかし士師時代にはすでにイスラエルの国中に雑草のごとくはびこり始めたので、主はギデオンに対してバアルの祭壇のそばに立っているアシェラ像を切り倒すように命じられた(参照士6:25‐30)。アシェラは「憎むべき像」(15:13)と言われたにもかかわらず、ヤロブアム王もレハブアム王も共にこの像を南北両王国内に導入して崇拝した(14:15,23)。”と述べています。

 22節には、“あなたは、あなたの神、主が憎まれる石柱を立ててはならない。”とあります。

 「石の柱」(石柱)について、聖書辞典は次のように述べています。
“石の柱 石の柱(〈ヘ〉マッツェーバー)は昔、さまざまな用途があった。契約を結んだ時の記念として、あるいは、しるしとして(創31:45)、記念すべき出来事を覚えるために(創31:46,ヨシ4:5‐9)、神が現れた場所の記念として等、石の柱を立てて神を礼拝した(創28:18,31:13,35:14)。ところがイスラエル人がカナンの地に定住するようになってから、石の柱はまことの神を礼拝するためにではなく、カナンのバアル神礼拝のために用いられるようになった。石の柱はバアル〔バアルは男神(筆者挿入)〕礼拝をささげる「高き所」と呼ばれる聖所に立てられ、偶像神の顕現の場所として偶像礼拝の対象とされたのである(Ⅰ列14:23)。それゆえ石の柱はバアル礼拝を意味するようになり、預言者たちによって憎むべき対象とされ、取り壊すよう命じられた(3:2,10:26‐27,18:4,23:14,Ⅱ31:1.参照出23:24,34:13,7:5,16:22)。”とあります。

 マッツェーバーには、何か置かれた物、円柱、偶像、(立っている)像、柱、等の意があります。

 申命記1621.22は、偶像礼拝を禁止する、ということです。
申命記172-7は、偶像礼拝をした者に対する処罰規定とその処刑に至る工程をどのように行うのかということが記されています。

 申命記171には、“あなたは、いかなる欠点であれ、欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主に、いけにえとして献げてはならない。それはあなたの神、主が忌み嫌われることである。”と記されています。
 
 この聖句に関して、BIBLE naviは次の様な適用注解をしています。
“この命令があるということは、イスラエルの民の中に、そのような動物を献げる者がいたということだろう。当時も今と同じように、最も良い物を神に献げることは難しく、犠牲が大きいのだ。私たちは、ばれなければよいと思っているので、神に少なく献げるという誘惑にかられる。ささげ物は、優先順位を著している。神に残り物を献げるなら、主が私たちの人生の中心ではないことが明らかになる。給料も時間も才能も、まず最初に神に献げ、神に栄光を帰そう。”とあります。

 いけにえは、キリストの予型でした。
コロサイ216.17をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“・・・、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。それらは、キリストが来られる前にだけ有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。”と記しています。

 キリストに傷があれば、すなわち罪があれば、私たちの罪のためのいけにえにはなれなかったのです。罪があれば、罪を持っている自分自身のために死ぬ、ということになるからです。

 1ペテロ222-24aには、
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
まことの神である三一の神が、この宇宙を創り、私たちが生存できるような環境を造り、そして、私たち人間を造ってくださったお方ですから御名を賛美します。
まことの神ではない、この世の神々と言われる者たちは、あなたの栄光を横取りしようとし、人々を自分たちの方へと導きます。
ただあなただけを崇めて歩みつづける生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月24日 (土)

マタイ23:29-36 「災いあれ」の8/イエス様を信じる者は救われる

 マタイ2329-36には次のように記されています。
29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。
30
 そして、『もし先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流す側には付かなかったであろう』などと言う。
31
 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫だと、自ら証明している。
32
 あなたがたも、先祖たちが犯した罪の升目を満たすがよい。
33
 蛇よ、毒蛇の子らよ、どうしてあなたがたはゲヘナの裁きを免れることができようか。
34
 だから、私は預言者、知者、学者をあなたがたに遣わすが、あなたがたはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くであろう。
35
 こうして、正しい人アベルの血から、あなたがたが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血がことごとく、あなたがたに降りかかってくる。
36
 よく〔原語は「アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。これらの報いはみな、今の時代に降りかかってくる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 29.30節には、“29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。30 そして、『もし先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流す側には付かなかったであろう』などと言う。”と主イエス様は語られました。

 預言者とは、神の御言葉を預かって語る者のことです。
イエス様こそ預言の集大成をしたお方です。キリストは「神のことば」(黙示録1913)と呼ばれているお方です。
 へブル111.2には次のように記されています。
1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。・・。”(2017)とあります。
 また黙示録には、“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。/それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。”(黙示録11.2.192017)と記され、黙示録も、主キリスト・イエス様が御父から与えられ、それを使徒ヨハネに書かせたものであることがわかります。

 主イエス様の伝道に反対し続けたのは、祭司長たちや律法学者たち、ファリサイ派の人たちでした。そして、イエス・キリストを殺そうと計画し、イエス様を殺すためにローマを用いたのは祭司長たちと民の長老たちでした。
マタイ263.4には、“そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。”(2017)と記されています。
 長老に関して、聖書辞典は、“町の長老たちは、日常の民事上、宗教上の事件を処理した(ルツ4:2‐11,エズ10:14)。これはローマ時代まで続いた(マタ21:23,26:3,47)。”と述べ、
 律法学者について、聖書辞典は、“新約聖書の中に現れる律法学者(〈ギ〉グラムマテュース)は多くの場合、祭司長やパリサイ人と並んで記されている(マタ12:38,15:1,マコ14:53)。当時のユダヤ人社会は、祭司長の属するサドカイ人と、律法学者、パリサイ人によって指導されていた。/ギリシヤ時代に入ると、祭司は異教文化にひかれ、先祖の伝えた律法に対する関心が薄らいだ。逆に学者が台頭し始めた。彼らは祭司よりも伝承に対して熱心だったので、民衆に受け入れられて教師となった。キリストの時代には、これら2つの階級の区別が明確になっていた。律法の量はしだいに膨大なものとなり、その研究と解釈は重要な仕事と見なされるようになった。また、サドカイ派とパリサイ派の分立により、律法学者はパリサイ派に属するようになった。こうして律法学者は律法を解釈し、教え、民衆に生活の規範を与えたが、イエスは律法学者やパリサイ人をきびしく告発し、彼らを公然と非難した。彼らが律法の真意を見失っていたからである(ルカ6:6‐11等)。”と述べています。

 ここで脱線しますが、大切なことを記しておきます。
イエス様は、祭司長たちや長老たちが、ご自分を十字架につけて殺そうと謀(はか)っても、十字架にかからないようにすることも出来ました。
しかし、イエス様は、ご自分から十字架にかかられたのです。
ヨハネ1018には、「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。

 主イエス様は、私たちの罪の負い目を完済するために(贖うために)十字架にかかられたのですが、祭司長や民の長老たちは、それとは関係なく、自分たちの利益を守るために主イエス様を殺したのでした。

 主イエス様は、律法学者たちやファリサイ派の人々に、「あなたがたも、先祖たちが犯した罪の升目を満たすがよい。蛇よ、毒蛇の子らよ、どうしてあなたがたはゲヘナの裁きを免れることができようか。」(マタイ2332.33)と語られました。
「蛇よ、毒蛇の子らよ」というのは、悪魔(サタン)の子らよ、の意です(ヨハネ812-47参照)。

 34節には、“だから、私〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕は預言者、知者、学者をあなたがたに遣わすが、あなたがたはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くであろう。”と記されています。

 パウロも主の救いにあずかる前は、主イエス様を信じる者たちを迫害していく人でした。
パウロ自身が、「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、祭司長たちから権限を受けて、多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、それに賛成の票を投じました。11 また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」(使徒269-11・聖書協会共同訳)と証言しています。

 また、使徒68-81にはステパノ(ステファノ)の殉教のいきさつ、使徒12章には使徒ヤコブの死、ペトロ(ペテロ)への迫害等の記事が記されています。

 35.36節には、「こうして、正しい人アベルの血から、あなたがたが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血がことごとく、あなたがたに降りかかってくる。よく〔原語は「アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。これらの報いはみな、今の時代に降りかかってくる。」というイエス様の預言が記されています。

 A.D.70年には、ローマ軍によって攻められ、エルサレムは崩壊し神殿は見る影もなく無残にされたのです。
そのことは、マタイ242のイエス様の預言でも語られています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様が私を贖ってくださったことを信じることが出来る祝福を与えてくださいましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「われ贖われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264)の3
“負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗(あら)わる 贖い 贖い 我は歌わん ハレルヤ! ときわに 我は歌わん”

2023年6月23日 (金)

箴言23:10.11 主は私たちの贖い主

 箴言2310.11には次のように記されています。
10 昔からの地境を移すな。みなしごの畑を侵すな。
11
 彼らを贖う方は強い。その方が彼らに代わってあなたと争うだろう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 11節に、「贖う方」(聖書協会共同訳)とありますが、口語訳、新改訳、フランシスコ会訳は「贖い主」、新共同訳は「贖う神」、と訳しています。ヘブライ語原語の語根は、「ガーアル」で、ガーアルは、英語ではredeemと訳され、弁済する、償還する、請け出す、(努力して)取り返す、(努力して)名誉などを挽回する、(身代金・賠償金を払って)身請けする、救出する、救う、贖(あがな)う、(…)補う、等の意があります。Redeemerは、贖い主、救い主、キリスト、を意味します。

 贖い主について、聖書辞典は次のように記しています。
“あがないぬし 贖い主 〈ヘ〉ゴーエール。「買い戻す者」という意味の〈ヘ〉ガーアルの分詞形。旧約聖書ではいろいろな意味で用いられている。兄弟の売った土地を買い戻す(レビ25:25)、奴隷に売られた兄弟を買い戻す(レビ25:48)、血の復讐をするものとなる(民35:19)、親戚であるやもめを買い戻す(ルツ3:13)といった近親者の義務に関係することから、みなしごの財産の保護者(箴23:10‐11)といった隣人の義務に関すること、さらには、イスラエルのヤハウェに対する関係を示して、イスラエルをエジプトから救い出すことに関して(出6:6)、捕囚から解放して帰還させることに関して(イザ43:1,44:6,24,48:20,52:9)の贖い主に用いられる。ヤハウェとの個人の関係において、悩みや敵や死から救い出すことについての用法を見ることもできる(ヨブ19:25,103:4)。”とあります。

 10節には、“昔からの地境を移すな。”とあります。
それについては、箴言2228、“昔からの地境を移してはならない。先祖の定めたものなのだから。”(2017)という個所で大意を扱いました。

 11節には、“彼らを贖う方は強い。その方が彼らに代わってあなたと争うだろう。”とあります。
 この節には、「贖う方」とありますので、「私たちを贖う方」について、少しの事柄だけですけれど、新約的に考えてみます。

 「私たちを贖う方」は、イエス・キリストです。
ローマ324には、“神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。”(2017)、と記され、
エペソ17には、“このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(2017)と記されています。

 贖われた人には、聖霊が与えられています。
ヨハネ14章には次のように記されています。
15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
16
 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17
この方は真理の御霊です。”(2017)と記され、
真理の御霊は、聖霊であると、ヨハネ1426に、“・・、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。”(2017)と記されています。

 エペソ114には、“聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。”(2017)と記されているとともに、聖霊が与えられている人は、花婿キリストが迎えに来た時に花婿の所に連れて行ってもらえると書いてあります。
 マタイ25章には次のように記されています。
1 「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2
 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3
 愚かなおとめたちは、灯は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4
 賢いおとめたちは、それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
5
 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。
6
 真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
7
 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた。
8
 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。私たちの灯は消えそうです。』
9
 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10
 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできている五人は、花婿と一緒に祝宴の間に入り、戸が閉められた。
11
 その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
12
 しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。
13
 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」”(聖書協会共同訳)とあります。
このたとえ話の油とは聖霊のことです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
救い主イエス様に贖われ、聖霊に満たされて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月22日 (木)

詩篇71:16-18 神の力による前進

 詩篇7116-18には次のように記されています。
16 わが主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私はあなたの力によって進みます。主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。
17
 神よ、若い時からあなたが教えてくださったので、今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。
18
 神よ、私が老いて白髪になってもどうか捨て去らないでください。あなたの腕の業を、力強い業を。来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節前半を2017は、“神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私はあなたの力とともに行きます。”と訳しています。

 私は、今朝は体が重くてなかなか起きることが出来ませんでした。私の心臓は、陳旧性心不全と狭心症に加齢が加わって心不全と不整脈になっていますが、このようなことは今朝に限らずよくあることです。心臓に対する治療は、西洋医学的にも漢方医学的にもしっかりと行っていますが、このような状態によくなります。
このようなときは、16節前半の、「わが主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私はあなたの力によって進みます。」(2017)という詩聖の祈りと同じ意味合いの祈りをして主から力をいただいて起き上がります。
私の場合は、主イエス様が、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒182017)と語られた聖句と、ローマ811の「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(2017)の御言葉により頼むのです。
御聖霊は、すでに私の内に住んでくださっておられますが、御聖霊がどのように働いてくださるかは、御聖霊の自由意思です。ヨハネ38には、「プニューマ(風、霊、・・等の意)は思いのままに・・」とあるますように。

 それゆえこのようなときには、笹尾鉄三郎牧師の「今日まで守られ」の歌詞の2番と1番を混ぜ合わせた、「か弱き者をも顧みたもう 我が主の恵みはこの身に足れり いかなる折にも 愛なる神は すべてのことをば よきにし給わん」という歌詞が心を行き廻ります。

 16節後半を2017は、「あなたのただあなたの義だけを心に留めて。」と訳しています。
1
コリント130後半には、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(新改訳初版~第三版)とあります。
そして前半部分には、「・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。」(新改訳初版~第三版)とあります。

 詩聖は、「あなたのただあなたの義だけを心に留めて。」と語っていますが、キリスト者は神の恵みによって、何と多くのもの、というか天にあるすべての霊的祝福(エペソ13)を受けたことでしょうか。

 それもあってか、私の心には、頻繁にA.B.Simpsonの「ただ主を」の賛美が出てきます。
“1.ただ主を崇めて ただ主に仕えん ただ主を頼りて ただ主を仰がん
(折り返し) * たたえよ ただ主を 主は 救い主 きよめ主 癒し主 王の王 主の主
2.主こそ救い主 神の子羊 我が義 我がきよき 我が力なれ *
3.主こそきよめ主 我が内きよめ 御霊の御神の住まいとし給う *
4.主こそ癒し主 主を生かしたる霊をもて 死ぬべき我が身を生かす *
5.主こそ来るべき王の王 主の主 我が花婿なれ 我は恋い慕う *”と。 

 18節には、「神よ、私が老いて白髪になってもどうか捨て去らないでください。あなたの腕の業を、力強い業を。来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。」とあります。
キリスト者はなんという恵みを受けていることでしょうか。
私たちがどうであるかではなく、神様は、ご自身の御愛と、キリストの御業のゆえに、私たちキリストを信じる者たちを捨て去らないのです。
キリストを信じることが出来るのも神の恵みです。
エペソ28を口語訳は、“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。”と訳し、
リビングバイブルは、“あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)です。”と意訳しています。

 パウロは言いました。
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」(ローマ3362017)と。

 17.18節には、“17 神よ、若い時からあなたが教えてくださったので、今に至るまで私は奇しき業を語ってきました。18 神よ、私が老いて白髪になってもどうか捨て去らないでください。あなたの腕の業を、力強い業を。来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。”と記されています。

 私も、主がその任務を与えてくださっておられる間は、主がどのようなお方であるのかを証しすることと、聖徒のための祈りを続けていきたいと願います。そのことさえも、出来るか否かは、主のみ旨にかかっていることです。

 「主が私の手を」という歌詞の中に、「いつまで歩くか どこまで行くのか 主がそのみ旨を なし給うままです」という個所があります。
地に在っても、天に移されても、主のみ旨のままに、ということです。
地に在っても天に在っても愛なる主とともにいるのです。

 今日あげた賛美は、全部YouTubeで見る(聞く)ことが出来ますよ。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日の個所を書きながら、今日はどうしてこんなにも体が重いのかという理由がわかりました。
感謝します。
もともと、あなたの恵みによって、この地上に置かれ、日々過ごさせていただいている身ですが、つくづくあなたのみ旨一つであることを実感させていただけます。
感謝と賛美をささげつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月21日 (水)

申命記16:18-20、17:8-13 裁判官の任命と上告の規定/キリスト・イエスを信じる信仰による救い

 申命記1618-20には次のように記されています。
18 あなたの神、主が部族ごとに与えられるすべての町に裁き人〔裁判官(リビングバイブル)〕と役人〔「つかさたち」(2017)、「行政官」(リビングバイブル)〕を立てなさい。彼らは民を正しく裁いて治めなければならない。
19
 あなたは裁きを曲げてはならない。人を偏り見てはならない。賄賂を受け取ってはならない。賄賂は知恵ある者の目をくらまし、正しき者の言い分をゆがめるからである。
20
 あなたは、ただ正義のみを追い求めなさい。そうすれば、あなたは命を得、あなたの神、主が与える地を所有することができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 18節には、主が与えてくださる約束の地のすべての町々に、裁判官と行政官をおいて、裁かねばならないことを正しく裁き、そして正しく治めなさい、ということが記されています。

 19.20節には、約束の地において公正を保つように、ということが記されています。
19
節に、「賄賂を受け取ってはならない。」とありますが、日本を含め、行政の現場では時々賄賂問題が取り上げられていることをニュースなどで見ますね。

 申命記178-13は、上告についての規定と、判決に従わない者に対する対処方法が次のように記されています。
8 あなたの町の中で起きた訴訟や流血事件、権利争いや傷害に関わるもので、判断の難しいものは、直ちに、あなたの神、主が選ぶ場所に上り、9 レビ人である祭司、およびその時、任に就いている裁き人のところに行って尋ねなさい。彼らはあなたに判決の言葉を告げるだろう。
10
 あなたは、主が選ぶ場所から彼らが告げる言葉のとおりに実行しなさい。すべて彼らがあなたに教えたように守り行わなければならない。11 彼らがあなたに教える指示のとおりに、また彼らが告げる判決に基づいて、あなたは行わなければならない。彼らが告げる言葉から、右にも左にもそれてはならない。
11節をリビングバイブルは、“彼らの判決に従って、完全に実行しなさい。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
12
 あなたの神、主に仕えるために立っている祭司、あるいは裁き人の言うことを聞かずに、傲慢に振る舞う者は、死ななければならない。こうしてあなたはイスラエルから悪を取り除きなさい。
13
 民は皆、聞いて恐れ、二度と傲慢な振る舞いをすることはないであろう。
13節をリビングバイブルは、“きびしい罰を加えるのは、法廷を侮辱してはならないことを教えるためです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 律法はモーセの時代に与えられましたが、それ以前の法律として、ハンムラビ法典(B.C.1750年頃)、またそれ以前の法律としては、ウル・ナンム法典(B.C.2100年頃)というのがあったそうです。
律法が、ハンムラビ法典やウル・ナンム法典と違うところは、律法は、神ヤハウェ(主)がイスラエルに与えたものだということです。

 今日の申命記の主題から離れた内容を記していきます。
律法は、まことの神様が与えたものですから不変でした。
主イエス様は次のように語っておられます。
17 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18
 よく〔原語は「アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。
19
 だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20
 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」”(マタイ5章・聖書協会共同訳)と記されています。

 神様は、律法を与えてくださいましたが、守れた人はいませんでした。
そこで、神様は、ひとり子の御子であるイエス様を私たちの罪の贖いのために遣わしてくださいました。

キリスト者ならば、誰でも知っており、体験している内容を下記します。ローマ321-26をリビングバイブルは次の様に訳しています。
21.22 しかし今、神は、別の救いの道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、律法を守ろうと努力するような道ではありません。神は今、「もしあなたがたがイエス・キリストを信じるなら、あなたがたを受け入れ、罪のない者と宣言する」と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じるという、この方法によって救われるのです。
23
すべての人は罪を犯したので、神の標準にはほど遠い存在です。
24
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じるなら、このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるのです。
25
神はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪に対する償(つぐな)いをさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。たとえ、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神は完全に公正であられるのです。キリストが来て人々の罪を取り除く時を、神は待ち望んでおられました。
26
そして今日も、神はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。イエスが彼らを、義と認めてくださるためです。しかし、このように罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神の公正なやり方に反するのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜなら彼らが、自分の罪を帳消しにしてくださったイエスを信じたという事実に基づいて、神はそうなさるからです。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは、律法という善きものを与えてくださいましたが、私たち人間は、それに基づいて歩むことはできませんでした。
私たち人間は、御怒りにあって当然のものでしたが、あなたは救い主イエス様を遣わしてくださり、イエス様の贖いを通して、そして信仰によって救ってくださいました。
ありがとうございます。
先に救われた私たち一人一人に、福音を語る対象者をお与え下さいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月20日 (火)

マタイ23:16-28 「災いあれ」の4-7/私たちをきよくしてくださる主

 マタイ2316-21には次のように記されています。
16 ものの見えない案内人、あなたがたに災いあれ。あなたがたは、『神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて 誓ったら、それを果たさねばならない』と言う。
17
 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を聖別する神殿と、どちらが尊いか。
18
 また、『祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない』と言う。
19
 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を聖別する祭壇と、どちらが尊いか。
20
 だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
21
 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのである。
22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主が厳しいお言葉を投げかけている宗教指導者たちが、神との交わりを持っていなかったことがよくわかります。何がより尊いのかということも理解していなかったようです。

 マタイ2323.24には次のように記されています。
23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。
24
 ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは呑み込んでいる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、律法で規定された十分の一の献げ物を否定したのではなく、十分の一の献げ物も大切だけれども、律法の根幹である神と隣人への愛(マタイ2236-40参照)、その表れとしての公正、慈悲、誠実といった律法が教えている大切なことをないがしろにしてはいけませんよ、と教えてくださったのだと思います。

 マタイ2325-28には次のように記されています。
25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26
 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる。
27
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28
 このようにあなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法とでいっぱいである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 人は、アダムの堕罪により罪(罪の性質)をもって生まれてくるようになりました(ローマ512)。人は生まれながらの罪人なのです。それ故、人は、「きよくなれ」と言われても、自分で自分をきよくすることなどできないのです。
神様は、人に、「きよくなりなさい」と言われますが、人にできることは、神様に、「私をきよくしてください」と自分を差し出すことだけです。
 1ペトロ(ペテロ)115.16には、
15 あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。16 「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。”(聖書協会共同訳)と記され、
 ローマ122には、
“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ローマ122を新改訳2017は、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と訳しています。

 自分で自分をきよくしようとする人は、できないことをしようとしているのですから、まじめな人ほど苦しむことになるでしょう。

 2コリント318には、“私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ〔別訳「鏡のように映し出しながら」(欄外注)〕、栄光から栄光へと、主と同じかたち〔あるいは「像」(欄外注)〕に変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様を信じている者、すなわち心にお迎えしている者は、天に迎え入れていただける前に、主が全くきよくしてくだざいます。
 1テサロニケ523.24には次のように記されています。
:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。
24
 あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
キリスト者は、キリストの血のゆえに、地位的にはすでに聖なる者とされています(へブル1010)が、実質的にも、主の霊によってお整えを頂けます(2コリント318)からありがとうございます。
神に愛されている子どもらしく、神に倣う者となり、愛の内を歩む者としてお整えください(エペソ51.2)。
私たちを通しても、あなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月19日 (月)

箴言23:9 イエス様は相手によって話し方が異なりました

 箴言239を、
2017は、“愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばを蔑むからだ。”と訳し、
口語訳は、“愚かな者の耳に語ってはならない、彼はあなたの言葉が示す知恵をいやしめるからだ。”と訳し、
リビングバイブルは、“忠告に逆らう者に言い聞かせてもむだです。どんなにためになることを言っても、顔をそむけるだけです。”と意訳しています。

 主イエス様は、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24352017)と語られ、また、
「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」(ヨハネ14242017)と語られ、また、
「わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」(ヨハネ8262017)とも語られました。

 神ヤハウェ(主)が、人間に与えられた御言葉は、もっとも大切な言葉なのだとわかります。

 「思慮深い言葉」(2017)、「言葉が示す知恵」(口語訳)、「見識ある語りかけ」(聖書協会共同訳)、「見識ある言葉」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は2語からなっていって、「セケル ミルラ(言葉)」で、各日本語訳聖書の様に訳せるのでしょう。

 “神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。”(2017)とへブル11.2に記されています。

 預言者のことばを聞いて悔い改めた人もあれば、預言者のことばを聞かないどころか、預言者を殺してしまった人たちもいました。

 主イエス様は、公生涯の初めから神のことばを語りました。
イエス様のお話を聞いて、イエス様が語られた内容を理解しようとする人もいましたが、その反対に、イエス様の御言葉に怒りを燃やす人たちもいました。また、聞いてはいても悟らない人たちもいました。

 イエス様は、ときに、お言葉を語った後に、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。

 イエス様は、いつまでも語ってくれたわけではありませんでした。ヘロデ王の質問に対しては、答えなかったのです。
ルカ238.9には次のように記されています。
“ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。”(2017)と記されています。

 しかしポンテオ・ピラトの質問には答えました。ヨハネ18章には次のように記されています。
33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と言った。
34
 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのか。」
35
 ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。」
36
 イエスはお答えになった。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」
37
 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について 証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」
38
 ピラトは言った。「真理とは何か。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ピラトは、裁判の席についているときに、自分の妻からイエス様に関して次のようなことを言われていました。
「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」(マタイ27192017)記されています。

 天国に行ってから出ないとわかりませんが、ピラトの妻は、天国にいるのでしょうか、いないのでしょうか。

 イエス様は、聞く耳のある弟子たちには、懇切丁寧に語りました。
イエス様は、持っているものはさらに豊かに与えられるとも語られましたが、持たない者は持っているものまでも取り上げられる、とも語られたのです(マタイ2529、ルカ1926)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの御言葉に心を閉ざすことなく、どのような御言葉に対しても心の耳でよく聞く者であらせてください。
あなたは沈黙の神ではなく、語ってくださる神ですから御名を崇めて感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・
“主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。
主の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
主からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。”(詩編197-102017
「あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17172017
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(1ペテロ1232017

2023年6月18日 (日)

詩篇71:10-15 困難の中にあっても主に信頼し、主に希望を置き、主を賛美しよう

 詩篇7110-15には次のように記されています。
10 敵が私についてたくらみ、私の魂を見張る者が共に謀り、
11
 「神が彼を捨て去った。追い詰めて捕らえよう。彼を助け出す者はもういない」と言っています。
12
 神よ、私から遠く離れないでください。わが神よ、私を助けるために急いでください。
13
 私の魂に敵対する者が恥を受け、滅ぼされますように。私の災いを望む者が嘲りと辱めに包まれますように。
14
 私は絶えず待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。
15
 日夜、私の口はあなたの正義を、あなたの救いを語り継ぎます。しかし決して語り尽くすことができません。”(聖書協会共同訳)とあります。

この詩の表題には、ダビデによる詩、とは記されていませんが、私は、この詩を読んでいるとダビデが書いたのかな、と思えてしまいます。様々な節が個々人の信仰者に当てはまるとは思いますが、22節に、“私もまた琴であなたをほめたたえます。わが神よ、あなたの真実を。私は竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。”(2017)という個所やその他の個所を読むと、ダビデは武人であり、王として油注がれた者であり、音楽家でもあり、信仰を鼓舞する教育者でもありましたから。

 10節には、“敵が私についてたくらみ、私の魂を見張る者が共に謀り、”とあります。
ダビデが、サウルから逃れていたときには、幾度となくこのような目に遭っていました。
その中から、代表的なものを一つ下記しておきます。1サムエル23章には次のように記されています。
1 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、2 ダビデは主に託宣を求めた。
「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」
主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」
3
だが、ダビデの兵は言った。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか。」
4
ダビデは再び主に託宣を求めた。主は答えられた。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」
5
ダビデとその兵はケイラに行ってペリシテ軍と戦い、その家畜を奪い、彼らに大打撃を与え、ケイラの住民を救った。
6
アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエフォドを携えていた。
7
ダビデがケイラに来たと知らされたサウルは、「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は、扉とかんぬきのある町に入って、自分を閉じ込めてしまったのだ」と言った。
8
彼は兵士全員を戦いに向けて召集し、ケイラに下ってダビデとその兵を包囲しようとした。
9
ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。
10
ダビデは主に尋ねた。「イスラエルの神、主よ、サウルがケイラに進んで来て、わたしゆえにこの町を滅ぼそうとしていることを僕は確かに知りました。11 ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうか僕にお示しください。」
主は「彼は下って来る」と言われた。
12
ダビデが、「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」と尋ねると、主は「引き渡す」と言われた。
13
ダビデとその兵およそ六百人は立ち上がって、ケイラを去り、あちこちをさまよった。サウルはダビデがケイラから避難したと知らされて、出陣するのをやめた。
14
ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、またジフの荒れ野の山地にとどまった。サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった。
15
ジフの荒れ野のホレシャにとどまっていたダビデは、サウルが自分の命をねらって出陣したことを知った。/
19
ジフの人々は、ギブアに上ってサウルに報告した。「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます。
20
王〔サウル(筆者挿入)〕が下って行くことをお望みなら、今おいでください。王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」
21
サウルは答えた。「主の祝福があるように。あなたたちはわたしを思ってくれた。22 戻って、更に確かめてくれ。ダビデが足をとどめている場所と誰がそこで彼を見たかをはっきり調べてくれ。彼は非常に賢い。23 彼が隠れた場所をことごとく調べ上げて、確かな情報を持って来てくれれば、あなたたちと共に出て行こう。この地にいるのであれば、ユダの全氏族の中から彼を捜し出す。」
24
人々はサウルに先立ってジフに戻って行った。ダビデとその兵は砂漠の南方、アラバのマオンの荒れ野にいた。
25
サウルとその兵はダビデをねらって出て来たが、ダビデはその知らせを受けると、マオンの荒れ野の岩場に行き、そこにとどまった。サウルはそのことを聞き込み、マオンの荒れ野にダビデを追跡した。26 サウルは山の片側を行き、ダビデとその兵は山の反対側に行った。ダビデはサウルを引き離そうと急いだが、サウルとその兵は、ダビデとその兵を捕らえようと、周囲から迫って来た。”(新共同訳)とあります。

 詩篇7110.11には、
10 敵が私についてたくらみ、私の魂を見張る者が共に謀り、11 「神が彼を捨て去った。追い詰めて捕らえよう。彼を助け出す者はもういない」と言っています。”と記していますが、1サムエル23章に記されているような個所は、まさしくそのような箇所の一つでしょう。

 そのような時、ダビデは、心の中であるいはまた声に出して、時には叫ぶように祈っていたことでしょう。詩編7112-14には次のように記されています。
「神よ、私から遠く離れないでください。
わが神よ、私を助けるために急いでください。
私の魂に敵対する者が恥を受け、滅ぼされますように。
私の災いを望む者が嘲りと辱めに包まれますように。
私は絶えず待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。」と。

 先ほど、1サムエル2326までを記しました。
ダビデの祈りに応えて、神ヤハウェ(主)は何をしてくださったのでしょう。
なんと、イスラエルの敵を用いてダビデを助けたのです。
1
サムエル2327.28には次のように記されています。
27 そのとき、使者がサウルのもとに来て、「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」と言った。
28
サウルはダビデを追うことをやめて、ペリシテ人の方に向かった。・・・。”(新共同訳)とあります。

 サウル王は、この戦いではありませんが、結局ペリシテとの戦いで死ぬのです。サウルは敵に矢を撃ち込まれ、自害したのでした。(1サムエル311-6

 キリスト者も、自分の罪の結果ではないのに、ダビデの様に、妬みや、他の人々の利益追求、権益追求のために、同じような目に合う場合はあります。

 主イエス様は言われました。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16332017)と、また、
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017)と、また、
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ510-122017)と。

 パウロは自分の体験をもとにして次のように証ししました。
35 我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難か、苦難か、迫害か、飢か、裸か、危險か、劍か。/
37
されど凡(すべ)てこれらの事の中にありても、我らを愛したまふ者に頼り、勝ち得て餘(あまり)あり。38 われ確(かた)く信ず、死も生命も、御使(みつかい)も、權威ある者も、今ある者も後あらん者も、力ある者も、39 高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。」(ローマ8章・文語訳)と。

 三谷種吉愛兄は賛美しました。
「ハレルヤ! 主は 世と悪魔に すでに勝ちを得給えば 我らもまた イェスと共に 日々勝ち得て 余りあり 主の安き 主の安き 我は内に今もてり 主の安き 主の安き 我は内に今もてり」(「世の波風いかに荒れて」の5節・聖歌474 聖歌総合版491)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
折々に主が助けを与えてくださいますから感謝します。
絶えず祈り、全てのことを感謝しながら、主にゆだね切って歩みつづけることが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月17日 (土)

申命記16:1-17 三大祝祭日/聖い心と聖霊の力によって

 申命記161-17には次のように記されています。
1 アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月の夜に、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出したからである。
2
 主がその名を置くために選ぶ場所で、羊、あるいは牛を過越のいけにえとして、あなたの神、主に屠りなさい。
3
 それを、種入りパンと共に食べてはならない。七日間は、種なしパン、苦しみのパンと共に食べなさい。あなたがエジプトの地を急いで出たからである。こうして、エジプトの地を出た日を、生涯にわたって思い起こしなさい。
4
 七日間、あなたの領地のどこにもパン種があってはならない。最初の日の夕方に屠った肉を朝まで残しておいてはならない。
5
 あなたの神、主があなたに与えるどの町においても、過越のいけにえを屠ってはならない。
6
 あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所で、夕方、日の沈む頃、あなたがエジプトを出た時刻に、過越のいけにえを屠らなければならない。
7
 あなたの神、主が選ぶ場所でそれを煮て食べ、朝になったら自分の天幕に帰りなさい。
8
 六日間、あなたは種なしパンを食べ、七日目にはあなたの神、主のために終わりの集いを開き、仕事をしてはならない。
 9 あなたは、七週を数えなければならない。麦畑に鎌を入れる時から始めて、七週を数えなさい。
10
 そして、あなたはあなたの神、主のために七週祭を祝い、あなたの神、主の祝福に応じて、あなたが献げることのできる、手ずからの自発の献げ物を献げなさい。
11
 こうしてあなたは、息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦と共に、あなたの神、主の前、すなわち あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所で楽しみなさい。
12
 あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を守り行いなさい。
 13 麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだなら、七日間、仮庵祭を祝いなさい。
14
 息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。
15
 七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。あなたの神、主が、あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されるのだから、あなたは心から喜びなさい。
16
 年に三度、男子は皆、除酵祭と七週祭と仮庵祭のときに、主が選ぶ場所で、あなたの神、主の前に出なければならない。主の前に何も持たずに出てはならない。
17
 あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずからの贈り物をしなければならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主が定めた中央の聖所での3大例祭の規定が記されています。
イスラエルについていえば次の様になります。
1,過越しの祭りと種無しパンの祭りを祝う理由は、3節に記されています。詳しくは、出エジプト121-1316に記されています。
2.七週の祭り:七週の祭りの祝い方と理由は9-12節に記されています。これは小麦の初穂の刈り入れの祭りである(レビ2316)と共に、律法を与えられた日でもあります(出エジプト1912411)。
3.仮庵の祭り:仮庵の祭りは、出エジプト後の荒野の生活を思い起こし、主の御業を思い出して感謝するとともに、秋の収穫の感謝でもありました。

 キリスト及びキリスト者と三大祭との関係
1.過越しの祭り:キリストの十字架。キリスト者はキリストの十字架の贖いのゆえに罪を赦されたのです。それに続く種なしパンを食べることは、キリストに混ぜものをしたものを食べてはならないということでした。

 イエス様は次のように語られました。ヨハネ6章には次のように記されています。
53 イエスは言われた。「よくよく〔「まことに、まことに」(2017)。原語は「アーメン、アーメン」(筆者挿入)〕言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
54
 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。
55
 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。
56
 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。
57
 生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。
58
 これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59
 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新生している人には説明する必要のない事柄です。それは体験しているからです。

2.七週の祭り(ペンテコステ):これは聖霊降臨の日でした。その日にはだれの目にも明らかなように教会が誕生したのです。使徒21-41に記されています。

 余談になりますが、弟子たちが聖霊を受けたのは、主イエス様のご復活の日の夕方でした。ヨハネ20章には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

3.仮庵の祭り:これはキリストの千年王国の予表でしょう。
キリストの千年王国の後に、仮庵ではない新天新地を神ヤハウェ(主)が創造なさるのです(イザヤ6517、黙示録211-4)。そしてそれは永遠に続くのです(イザヤ6518)。
キリストの千年王国は地球が使われます。ただし、今の地球のままというわけではなく、山や島が移動したり(黙示録614)島々が消えたり、山々が平地{あるいは「丘」(ミカ41)}になり(黙示録1620・リビングバイブル)、エルサレムがとても高くなったり(イザヤ22、ミカ41)と色々なことが起こるのです。

 余談になりますが、そしてあくまでも想像ですが、キリストの降誕は、仮庵の祭りの頃であったかもしれません。その理由は、キリストの公生涯は三年半と言われていること、また、ヨハネ114aを聖書協会共同訳は、“言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った〔直訳「幕屋を張った」(欄外注)〕。”と記していることです。岩波訳は、“ことばは肉〔なる人〕となって、われわれの間に幕屋を張った。”と訳しています。{岩波訳の〔 〕内は訳者挿入です。}
とはいえ、私は、救われる人が起こされやすい現在のクリスマスの節季を大切にしています。それはまだ救われていない人の為です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
1
コリント57.8には、「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」(2017)と勧められているように、誠実と真実をもって主を礼拝し、主に仕え、また、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒182017)とあるように、聖霊の力によって歩み続ける者であらせてください。
肉体は衰えますが(2コリント416)、霊的にはますます強められて日々歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月16日 (金)

マタイ23:13-15 「災いあれ」の1-3/天国に入る方法は主イエス・キリストを信じることのみ

 マタイ2313-15には次のように記されています。
13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
14
(底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
15
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。”(新共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
13 ああ、いまわしいパリサイ人、ユダヤ教の指導者たち。あなたがたは偽善者です。神の国に入ろうとしている人たちのじゃまをし、自分でも入ろうとはしないのです。
14
町の大通りで、見栄(みえ)のための長い祈りをし、聖者のようなふりをしながら、未亡人の家を食いものにしています。偽善者たち。
15
そうです。あなたがたのような偽善者こそいまわしいものです。たった一人の改宗者(ユダヤ教に転向する人)をつくるために、どんな遠くへでもせっせと出かけて行くが、結局その人を、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうのです。”とあります。

 13aに、“律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。”(聖書協会共同訳)とあります。
「不幸」(新共同訳、フランシスコ会訳)と訳されているギリシア語原は「ウーアイ」で、悲哀、苦悩、悲痛、悩み、災い、災難、悲痛な事柄等の意があります。
口語訳、新改訳、聖書協会共同訳は、「わざわい」と訳しています。
マタイ53-12には、8つの「幸い」が記されていましたが、マタイ2313-36には8つの「不幸orわざわい」が記されています。
8
つのわざわい(不幸)と言っても、14節は、古い写本には記されていません。
ここでは、14節も一つのわざわいとして記しておきます。

 13節を、聖書協会共同訳は、“律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、 入ろうとする人をも入らせない。”と訳し、
 新改訳2017は、“わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。”と訳しています。

 律法学者たちとファリサイ派の人々が、主イエス様に、「災いあれ」と言われた内容の第一は、人々が天国に入れないように活動しているということでした。

 天国に入れる方法には、二つの方法がありました。
一つは、律法をすべて守ることでした。どの程度守ればよいのでしょう。
程度問題ではなく、完璧に守る必要があったのです。
このことは、罪の性質をもって生まれた人間にはできないことでした。そのことをパウロはローマ7章で語り、また、ローマ512には、“・・、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。”(新共同訳)と記されています。

 天国に入るもう一つの方法は、主イエス様を信じることでした。
救いは、主イエス様を信じること、ただそれだけです。
ところがこれが結構難しいのです。
多くの人は、何らかの行いに頼ろうとします。
たとえ、赤子のイエス様を出産したマリアでさえ、主イエス様を、主として信じなければ、救われないのです。
 マルコ3章には次のように記されています。
20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21
 身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。/
31
 イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32
 時に、群衆がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。
35
 神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 35節に、「神の御心を行う人」とありますが、その第一歩は、御子であり、主であり、救い主であるイエス・キリスト様を信じることです。主イエス・キリスト様を信じれば、永遠の命が与えられるのです。
 主イエス様は、「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ6.402017)と語られたと記されています。

 律法学者やファリサイ派の人々(パリサイ人たち)は、イエスが御子であり、キリストであり、救い主であることを否定し、自分たちが教える教えを強要したのです。
同じことは、教会歴史の中でも繰り返し見られたものです。
免罪符を買えば、罪が赦される、とか、山上の垂訓を守らなくては救われない、とか、その他色々あります。
それでは、主イエス様が十字架上で流された血は、価値のないものになってしまいます。

 イエス様の贖いは完了したのです。イエス様の贖いは成し遂げられたのです。それはヨハネ1930に記されています。
エペソ17には、“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。”(新共同訳)と記されている通りです。

 神様が望んでおられる善き行いは、イエス・キリスト様の救いにあずからないと行えないのです。
エペソ28-10には次のように記されています。
:8 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
9
 行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちも間違ったことを教えて、「災いだ」と言われないようお守りください。
あなたの御言葉から外れたことを言ってしまいませんように。
また主の恵みによって御言葉を実行するものとしてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月15日 (木)

箴言23:6-8 主のみ旨に反するものを食さないこと

 箴言236-8を、
 聖書協会共同訳は、“6 悪意ある者のパンを食べるな。珍味だからと欲望をあらわにするな。
7
 彼は腹で計算して「食べよ、飲め」と言うが、心はあなたと共にはない。
8
 あなたは一口食べたものも吐き出すことになり、あなたの親切な言葉も空しいものとなる。”と訳し、

 2017は、“6 物惜しみする人〔直訳「目つきの悪い人」(欄外注)〕のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。
7
彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたとともにない。
8
あなたは、食べた食物を吐き出し、ほめことばを無駄にすることになる。”と訳し、

 リビングバイブルは、“6-8 悪者とつき合ってはいけません。気に入られたいとか、贈り物をもらいたいとか思ってはいけません。いかにも親切そうに見せかけて、ほんとうはあなたを利用しているのです。彼らのごちそうは、食べると気分が悪くなり、吐き出してしまいます。礼を言ったことさえばからしくなります。”と意訳しています。

 6節の「悪意ある者」(聖書協会共同訳)、「物惜しみする人〔直訳「目つきの悪い人」(欄外注)〕」、「悪者」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は2語からなっていて、「ラ アイン」で、直訳すると2017の欄外注の様に「目つきの悪い人」となります。「ラ」or「ラーアー」は、悪い、悪、邪悪な、不道徳な、等の意で用いられます。

 6aを、聖書協会共同訳は「悪意ある者のパンを食べるな。」、2017は「物惜しみする人〔直訳「目つきの悪い人」(欄外注)〕のパンを食べるな。」、リビングバイブルは「悪者とつき合ってはいけません。」と訳しています。

 主イエス様は次のように教えてくださいました。
「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」(マタイ622.232017)と。

 同じ個所を新共同訳は、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」と訳し、

 リビングバイブルは、「目が澄みきっているなら、あなたのたましいも輝いているはずです。しかし、目が悪い考えや欲望でくもっているなら、あなたのたましいは暗やみの中にいるのです。その暗やみのなんと深いことでしょうか。」と訳しています。

 「目が健やか」(2017)、「目が澄んで」(新共同訳)、「目が澄みきって」(リビングバイブル)と訳されている語のギリシア語原語は、2語で「オフサルモス ハプルース」で、直訳すると、「目が単一で」となります。これをヘブライ語翻訳聖書では「アイン ヘミマー」となっていて、直訳すると「目が無垢で」となります。

 以上を考え合わせると、主イエス様は、「心がいつも主に向いている人は」の意で用いたのではないかと思います。

 生まれつき目が見えない人や失明した人、また白内障や目の感染症等を患い、目が濁っている人でも、心は主に向いている人はいます。
私は、ファニークロスビーの歌詞も大好きです。ファニークロスビーは生後6週間で目が見えなくなった人でした。

 主イエス様は、次の様にも語られました。
「外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」(マルコ718d-19a2017)と語られ、また、
「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ720b-232017)と記されています。

 私たちは新約の聖徒ですから、以上のことを踏まえて、箴言236-8を、私は、たましい的に次の様に捉えてみたいと思います。
「心がいつも主に向いている人の言葉すなわち聖書的であることばは摂取すべきですが、そうではない言葉は、たとえこの世的に受け入れられている思想や、言い伝え、法律で認められていても聖句に反しているものは、キリスト者は、自分の魂に受け入れないほうが良い。主のみ旨の範囲内ではない内容の言葉を受け入れることは、悪魔(サタン)悪霊に足掛かりを与え、結局は自分を追い込むものとなる。」と超意訳してみたいと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4292017)と命じられていますが、まだ、なかなかそうはいきません。
どうぞお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月14日 (水)

詩篇71:1-9 老年信仰者の嘆願/新約の恵みと安心感1

 詩篇711-9には次のように記されています。
1 主よ、あなたのもとに逃れます。私がとこしえに恥を受けることがないようにしてください。
2
 あなたの正義によって私を助け救い出してください。私に耳を傾け、お救いください。
3
 砦の大岩となり、絶えず入ることができるようにしてください。あなたは私を救うよう命じてくださいました。あなたこそわが岩、わが城。
4
 わが神よ、悪しき者の手から、不正を働く者と抑圧する者の手から、私を救い出してください。
5
 わが主よ、あなたこそわが希望。主よ、私は若い時からあなたに信頼し、6 母の胎にいるときからあなたに支えられてきました。あなたが母の胎から私を取り上げてくださいました。私は絶えずあなたを賛美します。
7
 私は多くの人にとって驚きとなりました。あなたこそ、わが力なる逃れ場。
8
 私の口はあなたへの賛美に満ち、日夜あなたの誉れをたたえます。
9
 年老いた時、私を見捨てず、私が力衰えても、捨て去らないでください。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルは次のように意訳しています。
1 主よ、あなたは私の隠れ場です。私がくずおれないよう、お守りください。
2
不正を憎まれるお方よ、この訴えに耳を傾け、救いの手を差し伸べてください。
3
私を守る大きな岩となり、いつでも私をかくまい、あらゆる攻撃から守ってください。
4
ああ神よ、不正を行う残忍な者どもの手から、逃れさせてください。
5
ああ主よ、あなただけが頼りです。私は幼いころからあなたに信頼してきました。
6
そうです、産声をあげた瞬間から、あなたは私のそばにいて、いつも助けてくださいました。ですから、私はいつもあなたをほめたたえるのです。
7
あなたの強力な守りのおかげで、私は人々が目をみはるほどの成功を収めたのです。
8
ああ神よ、私は昼も夜も、あなたがしてくださった数々のことを思い起こしては、あなたを賛美し、栄誉をたたえています。
9
私は年老いて、体力も衰えています。どうか、お見捨てにならないでください。”と記しています。

 9節の「私は年老いて、体力も衰えています。どうか、お見捨てにならないでください。」という祈りから、この詩聖は、高齢になり、体力もなくなっている状態であることがわかります。

 新約時代の私たちキリスト者は、旧約時代の聖徒よりも多くの約束の御言葉をいただいていますから感謝のほかありません。
詩篇71篇の作者は誰だかわかりませんが、仮にダビデだとすると、ダビデから約300年後のイザヤは、神ヤハウェ(主)から、イスラエルについて次のような御言葉を受け取りイザヤ書46章に次のように記しています。
「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担(かつ)がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(3.4節・2017)とあります。

 新約聖書の聖句をいくつか下記します。
 「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(新改訳2017)とあり、
 この聖句を新改訳初版~第三版は、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と訳しています。
私としては、新改訳初版~第三版の訳の方が好きなので、好きな方の訳を自分に適用しています。
 イエス様の御言葉を信じることの出来る人は幸いです。イエス様は次のように語られました。
「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネ1027-302017)と記されています。

 私も一応後期高齢者となり、かつ心臓病のために、若い頃と比べたら本当に肉体的な力は無に等しいような状態です。しかし、私にとってはそれも大いなる恵みです。
ますます命の御言葉が生きて働いてくださいます。
「生きることはキリスト、死ぬことは益。」(ピリピ121
「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められること」(ピリピ120
霊と魂に関しては、「生きていてキリストを信じる者は永遠に決して死ぬことがない」(ヨハネ1126)と、疑いなく信じさせてくださり、
そして体については、「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに〔霊のからだに(筆者挿入)〕変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15522017)ということを疑いなく信じることが出来る信仰を、主は、与えてくださっておられるのです。
何という恵みでしょう!
ただただ、主をほめたたえます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
感謝、感謝です。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主が私の手を」(聖歌651 新聖歌474)の3節に次のような歌詞があります。
“いつまで歩くか どこまで行くのか 主が そのみ旨を 成し給うままです 優しい主の手にすべてを任せて 旅が出来るとは 何たる恵みでしょう”
この聖歌の4節を、私は聖書にふさわしい歌詞とは思えないので、私は歌いません。
讃美歌の場合は、歌詞が少し異なりますが、「御恵ゆたけき」という賛美です。ただし、聖歌6513節のような歌詞はありません。

2023年6月13日 (火)

申命記15:19-23 初子の規定/傷のない初子はイエス・キリストの予表

 申命記1519-23には次のように記されています。
19 牛や羊の雄の初子はすべて、あなたの神、主のために聖別されなければならない。牛の初子は働かせてはならず、羊の初子は毛を刈ってはならない。
20
 あなたの神、主の前で、年ごとに主が選ぶ場所で、あなたと家族でそれを食べなさい。
21
 また、もし初子が足や目にひどい傷を負っている場合は、あなたの神、主にいけにえとして献げてはならない。
22
 その肉はガゼルや鹿と同じように、清くない者も清い者も、あなたの町で食べてよい。
23
 ただし、血を食べてはならず、水のように地に注ぎ出さなければならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 19aには、“牛や羊の雄の初子はすべて、あなたの神、主のために聖別されなければならない。”とあります。

 イスラエルが、エジプトで奴隷としてして使役させられ苦しんでいた時に、イスラエルを奴隷状態から解放するために、神ヤハウェ(主)は、エジプトに十の災いを下されました。

十番目の災いの予告が、出エジプト114-8に次のように記されています。
4 モーセは言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。
『私は深夜エジプトの中を歩む。5 そして、エジプトの地のすべての初子は死ぬ。その王座に着くファラオの初子から、石臼の傍らにいる女奴隷の初子まで、また家畜の初子もすべて死ぬ。6 大きな叫びがエジプト全土に響き、そうした叫びはかつて起こったことがなく、再び起こることもない。』
7
 しかし、イスラエルの人々に対しては、人であっても家畜であっても、犬はうなり声を立てることもない。こうして、あなたがたは主がエジプト人と イスラエル人を区別されることを知るであろう。
8
 あなた〔ファラオ{パロ}(筆者挿入)〕の家臣すらも皆、私のところに下って来て、『あなたもあなたに従う民も皆出て行ってください』と私にひれ伏して言うであろう。その後私は 出て行く。」こうして、モーセは怒ってファラオのもとを出て行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

人や家畜の初子が殺されるという裁きをイスラエルが受けないために、神様が命じられた方法は、一歳の子羊かやぎを屠り、その血を二本の門柱とかもいに塗るということでした。屠った肉は食べるのです。(出エジプト123-11a

続く、出エジプト121-13には次のように記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエジプトの地で、モーセとアロンに言われた。
2
 「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。3 イスラエルの全会衆に告げなさい。
『この月の十日に、父祖の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊一匹を用意しなさい。4 もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。5 あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。6 あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。7 そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。8 その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。9 それを生のまま、または水で煮て食べてはならない。火で焼いて、頭も足も内臓も食べなければならない。10 それを翌朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼き尽くさなければならない。11 それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の過越である。
12
 その夜、私はエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。
私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。
13
 あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたのいる所を過ぎ越す。こうして、エジプトの地を私が打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。(聖書協会共同訳)とあります。

イスラエル人は、主に命じられた通りのことを行いました。この時の血は、イエス・キリストの血の予表であったのです。肉は、イエス・キリストの肉の予表でした。イエス・キリスト様の血の故に罪が赦されるのです。肉を食べるということは、イエス様を心に受け入れるということを表しています。

さて、ヤハウェ(主)なる神様の忠告にもかかわらず、悔い改めなかったエジプトはどのようになったのでしょうか。

出エジプト1229.30には次のように記されています。
「深夜になり、主はエジプトの地のすべての初子を打たれた。王座に着くファラオの初子から、地下牢にいる捕虜の初子まで、さらに家畜の初子もすべて打たれたので、ファラオもその家臣もすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人のない家はなかったので、悲痛な叫びがエジプトで上がった。」(聖書協会共同訳)とあります。

主なる神様の御言葉を信じなかったエジプトの人と家畜の初子は、神様の裁きによって殺されたのです。

 

ヤハウェ(主)なる神様が、無から有をつくりだしたお方なのです。人間をも含め万物は、神様の創造の御業であり、神様の所有物です。主なる神様に感謝し、主に従った歩みをすることは当然のことなのです。自分のつくり主である神様を敵に回したら大変なことになります。エジプトへのこの裁きの原則は継続しています。

2テサロニケ18.9には、「主イエスは、燃え盛る火の中を来られ、神を知らない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の御顔から、またその御力の栄光から退けられ、永遠の滅びという裁きを受けるのです。」(聖書協会共同訳)と記されています。
そして、キリストの千年王国の最後の時にも同じことが起こります(黙示録207-10)。更に今の宇宙が滅び、新天新地が造られる前に、最後の審判があります(黙示録2011-15)。

話を元に戻します。
イスラエルは、いけにえの血によって、裁きから免れました。イスラエルの人と家畜の初子は死ななかったのです。この十番目の裁きの後、ヤハウェ(主)なる神様は、「すべての初子を聖別して私に献げなさい。人も家畜も、イスラエルの人々の間で初めに胎を開くすべての初子は私のものである。」(出エジプト132・聖書協会共同訳)と語られたのです。

申命記1519の「牛や羊の雄の初子はすべて、あなたの神、主のために聖別されなければならない。・・・。」という命令は、今まで述べてきた背景を持っているのです。

人の初子についてはどのようになるのでしょうか、時間の都合で、旧約時代を飛ばして、新約時代に行くと、「天に登録されている長子たちの教会」(ヘブル1223)と出てくるのです。初子即ち長子は、キリスト者のことであったのです。キリスト者は、キリストの血の故に、罪を赦されただけではなく、神のものとして聖別されているのです。
1
コリント130に、「・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(新改訳初版~第三版)と記されている通りです。

申命記1520には、「あなたの神、主の前で、年ごとに主が選ぶ場所で、あなたと家族でそれを食べなさい。」とあります。

新約的には、この初子はイエス・キリスト様を表しています。ヨハネ129に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」とあり、肉を主なる神様のみ前で食することは、「・・それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(1ヨハネ13・口語訳)と記されている事柄の予型です。

 

 申命記1521-23には、「また、もし初子が足や目にひどい傷を負っている場合は、あなたの神、主にいけにえとして献げてはならない。その肉はガゼルや鹿と同じように、清くない者も清い者も、あなたの町で食べてよい。ただし、血を食べてはならず、水のように地に注ぎ出さなければならない。」とあります。

神ヤハウェ(主)に献げるいけにえは、主イエス・キリスト様の予型ですから、何か傷があってはいけないのです。即ち、罪も汚れもあってはならないということの象徴です。罪や汚れがあったら贖いとなることが出来ません(21)。罪や汚れがあったら、その者自身のために裁きを受けて死ぬことになるからです。
神ヤハウェ(主)に献げることの出来ないものの場合には、「その肉はガゼルや鹿と同じように、清くない者も清い者も、あなたの町で食べてよい。ただし、血を食べてはならず、水のように地に注ぎ出さなければならない。」ということです。

レビ1711には、「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。」(口語訳)と記されています。

モーセの時代以後から主イエス様の贖いが成就するまでの時代は、律法の時代と言われます。その時代は、律法を守ることによって祝福され、守らなければ呪われるという契約でした。それというのも、イスラエルが律法をみな行いますと言って、神様と契約を結んだからです(出エジプト記24章)。

新しい契約はこれとは異なるものです。イエス・キリスト様の血による契約です。イエス様は、「そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互に分けて飲め。/この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。』」(ルカ2217.20・口語訳)と語られました。

イエス様は、弟子たちに対してだけではなく、ユダヤ人たちに対しても、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」(ヨハネ653-58・口語訳)と語っておられました。

いけにえの血が予表していたところの本体は、イエス様の「血」であったのです。

 

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様、ありがとうございます。
あなたの血と肉を感謝します。
イエス様を信じさせて頂けましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月12日 (月)

マタイ23:5-12 神よりも人から良く思われようとする生き方の戒め/敬虔な生き方

 マタイ235-12には次のように記されています。
5 「その〔2節より「律法学者たちやファリサイ派の人々の」(筆者挿入)〕することは、すべて人に見せるためである。
聖句の入った小箱のひもを幅広くしたり、衣の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8
 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。
9
 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10
 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11
 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12
 誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所に関してBIBLE naviは、いくつかに分けて、次のように記しています。
“<235-7>イエスは再び、宗教指導者の偽善的な態度をあらわにされた。彼らは聖句を知っていたが、それに従って生活していなかった。敬虔であることに関心がなく、感嘆や称賛を受けるために敬虔に見せているだけだった。今日、パリサイ人のように、多くの人は聖書について語りながら、聖書の真理に人生を変えられようとはしない。イエスに従っていると言うが、イエスの愛の基準に従って生活していない。私たちの愛の行動は信仰と調和しなければならない。”とあり、
 “<235>「聖句を入れる小箱」は、聖書のことばを入れた革製の箱である。信心深い人々は、申命記68と出エジプト139.16を厳密に文字通り解釈して、この箱を額や腕につけていた。しかし聖句を入れる小箱は、そこに入っている真理のためよりもそれが与えられる地位のためにさらに重要になってしまった。同様に、バンパーステッカーや宗教的アクセサリーのような象徴的なものは、神が望んでおられる生活を思い出させる役には立つが、それが真に神を愛することや人を助けることにとって代わることはできない。”とあり、
 “<238-10>イエスは敬称を禁じたのではなく、クリスチャンは家族のように、神の権威のもとで平等なものとして結び合わされていると言っておられたのである。神との関係という観点から、人々の重要性を階層化してはならない。また、イエスは人を「父」と呼ぶことはできないと言われたわけではない。ここでも教師と弟子との関係およびそこに内在する階層性という文脈で語っておられる。弟子は教師に神より上の敬意や権威を与えてはならず、そのような人を偶像化してはならなかった。同様に、他の人が自分を彼らより高く上げることを許してはならなかった。同じ原則が今日のクリスチャン指導者や教師に当てはまる。”とあり、
 “<2311.12>イエスは出世についての一般的に行きわたっている考えに異議を唱えた。イエスにとっての偉大さは、個人的利得や進歩を気にせず神に仕え人を助けることからくる。仕えることで、他の人の必要を常に気にかけるようになり、自分に集中することがなくなる。イエスはしもべとして来られた。あなたが他の人のしもべになりたいなら、何を変える必要があるだろうか。”とあります。

 5-12節をリビングバイブルは、
5 彼らのやることと言ったら、人に見せびらかすことばかりです。幅広の経札(聖書のことばを納めた小箱で、祈りの時に身につける)を腕や額につけたり、着物のふさ(神のおきてを思い出すために着物のすそにつけるように命じられていた)を長くしたりして、あたかも聖者であるかのようにふるまいます。
6
また、宴会で上座に着いたり、会堂の特別席に座ったりするのが何より好きです。
7
街頭でていねいなあいさつを受けたり、『ラビ』(ヘブル語で、教師)とか『先生』とか呼ばれることも大好きです。
8
だがあなたがたは、だれからもそう呼ばれないようにしなさい。なぜなら、神だけがあなたがたのラビであって、あなたがたはみな同じ兄弟だからです。
9
またこの地上で、だれをも『父』と呼ばないようにしなさい。天におられる神だけが『父』と呼ばれるにふさわしい方だからです。
10
それに、『先生』と呼ばれてもいけません。あなたがたの先生は、ただキリストひとりです。
11
人に仕える人が最も偉大な者です。ですから、まず仕える者になりなさい。
12
われこそはと思っている人たちは、必ず失望し、高慢の鼻をへし折られてしまいます。一方、自分から身を低くする者は、かえって高く上げられるのです。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを愛し、兄姉を愛し、あなたに仕え、兄姉方に仕える歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月11日 (日)

箴言23:4.5 主に喜ばれる歩み

 箴言234.5には次のように記されています。
4 富を得るために労するな。分別をもって思いとどまれ。
5
 目を富に向けても、そこに富はない。自ら鷲のような翼を生やし、天に飛んで行く。”(聖書協会共同訳)と記あります。

 リビングバイブルは「金持ちになろうとあくせくするのは時間の無駄です。そうやってもうけても、札束はすぐに羽が生えて飛んで行くからです。」と意訳しています。

イエス様は、富(財産)を得ようとする貪欲と命とをとりあげて、「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12152017)と語られ、また「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ8362017)と語られました。

主から自分に与えられている時間をどのように使うべきなのでしょう。人は皆、1日24時間という時間を与えられています。
皆が、同じものを与えられたミナの譬えを思い起こします。ルカ1912-26には次のように記されています。
12 ・・、イエスは言われた。「ある身分の高い人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった。
13
 そこで、十人の僕を呼んで十ムナ〔新改訳は「ミナ」。ギリシア語原語は「μνα」です。通貨の単位(筆者挿入)〕の金を渡し、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14
 しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。
15
 さて、彼が王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
16
 最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17
 主人は言った。『よくやった。良い僕だ。お前はごく小さなことに忠実だったから、十の町を支配させよう。』
18
 二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19
 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
20
 また、ほかの者が来て言った。『ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21
 あなたは預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22
 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか〔なんて悪いやつだ!わしが、そんなにひどい人間だと言うのか。それほどよくわかっていたのなら、(リビングバイブル)〕。23 ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
24
 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
25
 僕たちが、『ご主人様、あの人はすでに十ムナ持っています』と言うと、
26
 主人は言った。『言っておくが、誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
27
 ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」”(聖書協会共同訳)とあります。

 余談になりますが、ルカ1927の聖句は怖いですね。
救い主イエス様の十字架を何とも思わず、自分の罪の中に生きること(ヨハネ169)を選択している人は、裁きの時に恐ろしいことを体験することになります。天の国は神が王である国なのです。

 話しを本題に戻します。
マタイ619-21には次のように記されています。
19
 「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
20
 宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。
21
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(聖書協会共同訳)とあります。
主を愛して、主から与えられている時間を有効に用い、主のために働く者でありたいですね。
「自分には何もできない」という人もいるかもしれません。
パウロのように大胆に福音を語ることが出来なかったとしても、祈ること(エペソ618-20)や賛美すること(へブル1315)、真理の御言葉(御言葉は剣でもあります)をより深く知って悪魔悪霊と戦うこと、その他色々なことが出来ると思います(へブル1316)。ドルカスは自分が出来ることをして姉妹たちに喜ばれるとともに、聖書にも名前が載りました(使徒936-42)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
1
コリント1031には、「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(2017)とあり、
コロサイ323.24には、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(2017)とあります。
貪欲に陥ったり、お金によりどころを求めたりするのではなく、常に主を愛し、主に信頼し、主にあって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月10日 (土)

詩篇70篇 助けを求める叫びの祈りに応えられる主/常にキリストに心をとめる

 詩篇70篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。ダビデの詩。記念のために。
2 神よ、私を救い出してください。主よ、急いで助けてください。
3 私の命を狙う者が恥を受け、辱められ、私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。
4 「あはは、あはは」とはやす者が、恥を受けて逃げ出しますように。
5 あなたを尋ね求める人すべてが、あなたによって喜び楽しみ、あなたの救いを愛する人が、「神は大いなるかな」と絶えることなく言いますように。
6 私は苦しむ者、貧しい者です。神よ、私のために急いでください。あなたこそわが助け、わが救い。主よ、ためらわないでください。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳は、1節を表題とし、2節が1節となっており、順次1節ずつずれています。)

 この箇所の詩は、詩篇40:14-18と内容的にはほぼ同じです。その箇所を聖書協会共同訳は次のように記しています。
14 主よ、お願いです、私を救い出してください。主よ、急いで助けてください。
15 私の命を奪おうと狙う者が皆、恥を受け、辱められますように。私の災いを望む者が退き、屈辱を受けますように。
16 私を「あはは、あはは」とはやす者が、自ら恥を受け、うろたえますように。
17 あなたを尋ね求める人すべてが、あなたによって喜び楽しみ、あなたの救いを愛する人が、「主は大いなるかな」と、絶えることなく言いますように。
18 私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みてくださるように。あなたこそわが助け、わが救い。わが神よ、ためらわないでください。”とあります。

 詩篇70:1には、“ダビデの詩。記念のために。”と記されています。
何の記念であったのでしょうか?
詩篇70篇のみを読むと、苦難の時に主に助けを叫び求めるような祈りのように思えます。
しかし、詩篇40:2-6を読むと、主は、ダビデのこのような助けを求める祈りに対して、主が応(こた)えてくださったことがわかります。
(口語訳、新改訳は1-5節になります。)

 聖書協会共同訳は、詩篇40:2-6を次のように記しています。
2 私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向かって身を乗り出し、私の叫びを聞いてくださった。
3 主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ、歩みを確かなものとし、4 私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。
多くの人はこれを畏れ、主に信頼する。
5 幸いな者。主を頼みとする人。ラハブ〔別訳「高ぶる者」(欄外注)〕にも、偽りの神〔「の神」は補足(欄外注)〕に迷う者にも顔を向けない人。
6 わが神、主よ、あなたは多くのことを、奇しき業と計らいを、私たちのために成し遂げられた。あなたに並ぶ者はありません。私がそれを語り伝えようにも、おびただしくて数えきれません。”とあります。

 多くの場合、私たちが困難に陥った場合、主は上記のように助けてくださいます。
困難が長く続くときには、この件に関しては、主は助けてくれないのではないかと思えるような時があります。
その様な時に何を賛美するかなー?と思ったのですが、下記の賛美が心に湧いてきました。

 「望みも消えゆくまでに」(聖歌604 聖歌総合版642 新聖歌172)という聖歌があります。歌詞は次の様になっています。
“1.望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み 汝(な)が心は安(やす)きを得ん
(折り返し) * 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ ひとつづつ 数えてみよ主の恵み
2.主の賜(たま)いし十字架を 担いきれず沈むとき 数えてみよ主の恵み つぶやきなど如何(いか)であらん * 
3.世の楽しみ 富 知識 汝(な)が心を誘(さそ)うとき 数えてみよ主の恵み 天(あま)つ国の幸(さち)に酔わん * ”

 キリスト者は、天の国の国籍を持っている天国人です。
ですから、地上の困難のすべてから解放されるわけではない可能性もあるのです。
地上では、苦難のままのこともあるでしょう。
しかしキリスト者は、地上の苦難はあっても、上にあるものを常に求める者です。
 コロサイ3章には、
1 あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。
3 あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。
4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
5 だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなり ません。/
10 新しい人を着なさい。新しい人は、造り主のかたちに従ってますます新たにされ、真の知識に達するのです。
11 そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。
”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
地上生活において、あなたは多くの助けを与えてくださってこられましたが、地上における何かの苦難からの救いをもし与えられなくても、私たちは、いつも主の御前をそして主と共に、そして主が内にいて、さらには主が後ろから下から支えてくださっておられますことを感謝します。
益々、上にあるものを求め続け、思い続けて歩む者であらせてください。
と同時に、あなたから与えられた地上における働きを、主の助けを頂きつつ果たしていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月 9日 (金)

申命記15:12-18 奴隷として買われただけでもありがたいのに花嫁とされた者

 申命記1512-18には次のように記されています。
12 もしあなたのもとに、ヘブライ人の男か女が売られて来たら、六年間あなたに仕える。しかし、七年目には自由の身としてあなたのもとから去らせなければならない。
13
 自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たせずに去らせてはならない。
14
 あなたの羊の群れから、あなたの麦打ち場から、あなたの搾り場から惜しみなく与えなければならない。あなたの神、主があなたに祝福したものを、彼に与えなければならない。
15
 エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを思い出しなさい。それゆえ、私は今日この言葉をあなたに命じているのである。
 16 もしその人が、あなたとその家族を愛し、あなたと共にいることを望み、「私はあなたのもとを離れません」と言うならば、
17
 あなたは錐(きり)を取り、彼の耳を入り口の扉につけて刺し通しなさい。そうすれば彼は生涯あなたの奴隷となる。女奴隷の場合も、同様にしなければならない。
 18 あなたがその者を自由の身としてあなたのもとから去らせるときは、厳しくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の倍も働いて、あなたに仕えたからである。そうすれば、あなたの神、主はあなたが行うすべてのことを祝福される。〔リビングバイブルは18節を、「一方、自由になりたいというものは、気持ちよく開放しなさい。六年ものあいだ使用人の賃金の半分以下の費用で働いてくれたからです。奴隷を自由にすることで、主はあなたがたのすることをいっそう栄えさせてくださいます。」と訳しています。(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記1512-15.18には、同胞間の奴隷解放の規定が記されています。
奴隷というと、私たちは、どのような生活を考えるでしょうか?
聖書の聖句を別にして考えると、奴隷生活は過酷なものだと、私などは思ってしまいます。

 上記12-14節は、神ヤハウェ(主)が教えているヘブライ人(イスラエル人)の奴隷解放の方法について記されています。
 また、レビ2539には、“同胞のイスラエル人が生活に困って身売りしても、普通の奴隷のように扱ってはならない。”(リビングバイブル)と規定されています。
 レビ2555には、“イスラエルの子らは、このわたしのしもべ〔「奴隷」(新共同訳)〕だからである。彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべ〔奴隷(新共同訳)〕である。わたしはあなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。”(2017)と記されています。

 このような奴隷解放の規定は、へブル(ヘブライ)人社会で守られたのでしょうか?
ヘブライ人は、奴隷解放の規定を守らなかったようです。
エレミヤ341314には次のように記されています。
13 「イスラエルの神、主はこう言われる。私は、奴隷の家エジプトの地からあなたがたの先祖を導き出した日に、彼らと契約を結んで言った。14 『七年の終わりには、あなたがたはそれぞれ、あなたのもとに売られて来た同胞のヘブライ人を去らせなければならない。六年間、彼があなたのために働いたなら、彼を自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない。』ところが、あなたがたの先祖は私に聞き従わず、耳を傾けようとしなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日のテーマとしたいのは、自分は主の花嫁だと思っている人についてです。
まず申命記1516.17をリビングバイブル訳で記します。
16 しかし奴隷のほうで、『自由になりたくありません。どうぞ、いつまでもご主人様のおそばに置いてください』と言ったら、17 その者の耳たぶを戸に押しつけ、きりで刺し通しなさい。そうすれば、永久にあなたの奴隷となります。女奴隷の場合も同じです。”とあります。

 キリスト者は、神が人となられた方がご自身の肉の体を十字架につけて身代わりの死を遂げることによって、贖われた者です。
買い取られた私たちは、奴隷とされても、死から解放されたので、大満足の存在でした。
しかし、主は、私たちを花嫁としたのです。
時系列的には、婚姻の儀は、大患難時代に天で行われますが、霊における結びつきは、すでに成就しているのです。
何という驚くべき恵みでしょうか?
キリスト者は、花嫁とされたからと言っても、主を愛するゆえに、喜びをもって主にとこしえにお仕えする者です。

 関連聖句を下記します。
“・・・。キリストも、肉によれば彼ら〔イスラエル人(筆者挿入)〕から出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。”(ローマ952017
“ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”(ヨハネ1142017
“神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。”(1ヨハネ422017
“キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。”(ガラテヤ3132017
“肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。”(ローマ83
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(ピリピ2章・新共同訳)
“このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(エペソ172017
“・・、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”(1コリント6172017
22 妻たちよ、・・、自分の夫に従いなさい。
25
 ・・、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになった・・・
31
 「こういうわけで、・・、二人は一体となる。」
32
 この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。”(エペソ5章・聖書協会共同訳)
6 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。
7
 私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え8 輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
9
 それから、天使は私に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言い、また、「これらは、神の真実の言葉である」とも言った。”(黙示録19章・聖書協会共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
ローマ623には、“罪の報いは死であり”(岩波訳抜粋)とあります。
私もそうですが、私たち人間は、死ぬ運命にありました。
しかし、主イエス様は、私たちを贖ってくださり、永遠の命を与えてくださいました。
私たちは主に買い取られて、奴隷とされるだけでもありがたいことでありましたのに、花婿キリスト・イエス様の花嫁として頂けましたことを感謝します。
とこしえに主イエス様を愛し、主イエス様にお従いする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神の子なるイェス」(聖歌592 聖歌総合版630 新聖歌342)の2節には次のようにあります。
“かくも主は悩み かくも愛し 主の花嫁と 我を為しぬ 我が内に主はいます くすしくも妙なり 我が内にいます主は 来るべき王なり”

2023年6月 8日 (木)

マタイ23:1-4 御霊の導きに従って歩もう

 マタイ231-4には次のように記されています。
1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2
 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。4 彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 説教者の言葉と行動及び聞く人の聞き方と行動について、主イエス様の教えが記されています。

 2節には、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」と主イエス様は語られました。
大預言書を著したイザヤ、エレミヤ、エゼキエル等の書を読むと、「主はこう仰せられる」or「主の託宣」or「主の仰せ」or「主のことば」などと、主の御言葉が語られるときには記されています。

 しかし申命記を見ると、モーセは主の御言葉を語る時に、いちいち、「主のことば」などとは言わずに、主の御言葉を語っています。勿論それまでの経緯から、モーセが語っている内容は、主の御言葉だとわかるのですが。

 このモーセが、次のように語った個所があります。
15 あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。
16
 これは、あなたが集会の日にホレブで、あなたの神、主に「私が死ぬことがないよう、私の神、主の声を二度と聞かず、また、この大いなる火を再び見ることのないようにしてください」と言って求めたことによるものである。
17
 その時、主は私に言われた。
「彼らの言うことはもっともである。18 私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。19 彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する。
20
 ただし、預言者が傲慢にも、私の命じていないことを私の名によって語ったり、他の神々の名によって語ったりするならば、その預言者は死ななければならない。」
21
 もしあなたが心の中で、「私たちは、その言葉が主の語られた言葉ではないことを、どのように知りえようか」と考える場合、22 その預言者が主の名によって語っていても、その言葉が起こらず、実現しないならば、それは主が語られた言葉ではない。預言者が傲慢さのゆえに 語ったもので、恐れることはない。”(申命記18章・聖書協会共同訳)とあります。

 モーセは、「私のような預言者をあなたのために立てられる。」(15)と言いました。
この預言者とは、キリストを指しているのだと、使徒320-24は教えてくれています。
そのキリストが、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」(マタイ232.3)と語られたのです。

 イエス様も似たことを語っておられます。
17 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。19 だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」”(マタイ5章・聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者は、律法を何が何でも守ろうと汲々とした生活を送る必要はありません。
すでにキリスト・イエス様を信じたゆえに、すなわち心にお迎えした故に、霊を新生させていただき(ヨハネ11333.6、ヤコブ1181ペテロ13)、また、たましいの救いを得ているからです(1ペテロ18.9)。
キリスト者は、御霊に従って歩めばよいからです。
御霊は、折々に示してくださいます。また、その内容は、聖書から逸脱することはありません。
とはいえ、多くの聖句を心にとどめている方が良いこともまた事実です。
コロサイ316には、“キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。”(2017)と記されていますから。
キリストのことばが豊かに蓄えられていると、御霊は、多くの聖句をもって導きやすくなります。

 さて、話を変えます。
説教者の説教している内容は、神のことばを語っているのですが、そのおことばを聞いている者も、話している者も、そのおことばの様に出来ていないということに遭遇することがあります。
聞く側の人が、100%神のことばとして聞いている場合には、問題は起こらないのですが、聞く側の人が、説教者を見て、自分も出来ていないのに何を言っているのだ、というように説教者に対して思ってしまうと恵みを受けそこなってしまうことになります。

 これは家庭内においても起こることです。
クリスチャンホームで、父親か母親が子供に、神様の御言葉を語るとき、子どもは、父や母の出来ない面も知っていますから、モーセの座、あるいは神の座からお話をすると、「お父さん(orお母さん)だって出来ていないじゃない」と心の中で思うか、言葉で言うことになるのです。

 語る側も、特に自分も出来ていない場合の内容を語るときには、子どもor聴衆と共に、神の御前に座し、そのスタイルでお話しすると受け入れてもらい易いものですor躓きを与えずに済みます。

 ガラテヤ5章には次のように記されています。
16 ・・。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
25
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。”(2017)とあります。

 “御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。”(ガラテヤ522.232017)とあります。
そして、“4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。”(1コリント13章・口語訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
日々、御霊によって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「御言葉なる光のうち」(聖歌500 聖歌総合版518 新聖歌316
“1.御言葉なる光のうち 主と共に歩まば 行く道筋 照らしたまわん より頼む我らに
(折り返し)* げに主は 依(よ)り頼みて 従う者を恵みたまわん
2.御顔の笑み 輝くとき 雲霧(きり)は消えゆき 疑いなく 憂いもなし より頼む我らに *
3.祭壇に行き 身も心も ささぐると同時に 喜びをば満たし給(たま)わん より頼む我らに *
4.いかにきよき 交わりぞや 妨(さまた)ぐるものなし 昼も夜も臨在あり より頼む我らに *”

2023年6月 7日 (水)

箴言23:1-3 真理の御言葉を食し続ける

 箴言231-3には次のように記されています。
1 支配者と宴席に着くとき、自分の前にあるものをよく見極めよ。
2
 食欲旺盛であるなら、喉にナイフを当てておけ。
3
 珍味だからと欲望をあらわにするな。それは偽りの食物だ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルはこの1-3節を次の様に意訳しています。
“金持ちといっしょに食事するときは、どんなにごちそうが並んでいても、満腹するまで食べてはいけません。
彼らはあなたを買収しようとしているからです。
そんな所に招待されても、良いことは何もありません。”と記しています。

 2017は次のように訳しています。
1 あなたが支配者と食事の席に着くときは、前にある物によく注意するがよい。
2
あなたが食欲の盛んな人であるなら、自分の喉に短刀を当てよ。
3
そのごちそうを欲しがってはならない。それは偽りの食物である。”と記しています。

 おそらくは、リビングバイブル訳のようなことを言っているのだと思います。
このような意味合いのことは、私も経験してきました。

 1節を、聖書協会共同訳は、“支配者と宴席に着くとき、自分の前にあるものをよく見極めよ。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“お前が支配者と食卓に着く時には、お前の前に誰がいるかをよく考えよ。”と訳しています。

 後半部分の、「もの」(聖書協会共同訳、2017、・・)、「誰」(フランシスコ会訳)と訳されている個所をまず取り上げてみたいと思います。
それに相当するヘブライ語原語は、「アシェル」で、who, which, what, that,・・・、の意があります。
ですから、1節の後半部分を直訳すると、「あなたの前に何があるかをよくよく考えよ。」or「あなたの前に誰がいるかをよくよく考えよ。」となります。

 私たちキリスト者は、霊的な民なので、今日の個所を霊的に捉えてみたいと思います。
もしも自分の前にいる人がサタン(悪魔)悪霊の使いであるとしたら、と考えてみたいと思います。
そしてその人が、自分の前に並べてくれたものが、主が、悪いことor悪いものであると教えてくれていた内容であったとしても、この世においては「良いもの」or「良いこと」としているものであった場合、よくよく注意を払う必要があると思うのです。

 悪しき霊が持ってくるものを、心に取り入れてしまっては大変です。
聖書の教えに反する教えは、おいしそうに見えても毒饅頭です。人祖アダムとエバが食べた善悪の知識の木の実の様です。

 サタンは、主なる神様の真似をするのですが、提供するものは偽りのものなのです。
人祖アダムとエバは、蛇(サタン)の偽りの言葉によって堕罪したのです。
 創世記215-17には次のように記されています。
15 神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。16 神である主は、人に命じられた。
「園のどの木からでも取って食べなさい。17 ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 創世記31-6には次のように記されています。
1 神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」
2
 女は蛇に言った。
「私たちは園の木の実を食べることはできます。3 ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」
4
 蛇は女に言った。
「いや、決して死ぬことはない。5 それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
6
 女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は言われました。
「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(ヨハネ8442017)と記されています。

 “わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。”(イザヤ5202017)という聖句もあります。

 この世はますます暗くなっていきますから、本当に注意が必要だと思います。
一方、エフェソ(エペソ)4章には次の様に記されています。
14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。”(2017)とあります。
 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
14 そこで、もはや、だれかから間違ったことを教えられたり、うそを真実のようにたくみに見せかけられたりしても、そのたびに、子どものようにふらふらと信じるものを変えてはいけません。
15
むしろ、誠実に語り、誠実にふるまい、誠実に生きて、常に真理に従うことを喜び、あらゆる点で、教会のかしらであるキリストにますます似た者となるのです。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつも御言葉に立って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世の波風いかに荒れて」(聖歌474 聖歌総合版491)の3節に、
“よし 悪魔は 獅子の如く 吠え猛(たけ)るも 何かあらん また光の使いの如(ごと) 欺くとも誘われじ {(主の安き)×2 我は内に今もてり}×2”とあります。
「栄えの王にます主の」(聖歌456 聖歌総合版469 新聖歌361)の2節に、
“世は変わるとも 変わらぬ御言葉に 堅(かた)く立ちて 惑い恐れの嵐に 心は乱されじ 立て 立て 永遠(とわ)に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て”とあります。

2023年6月 6日 (火)

詩篇69:35-37 イスラエルの救いとキリストの千年王国

 詩篇6935-37には次のように記されています。
35 天と地、海とその中にうごめくものすべてが、主を賛美しますように。
36
 神は必ずシオンを救い、ユダの町を築かれる。彼らはそこに住み、そこを受け継ぐ。
37
 主の僕(しもべ)らの子孫はこれを譲り受け、主の名を愛する人はその中に住む。”(聖書協会共同訳)とあります。

 35節には、“天と地、海とその中にうごめくものすべてが、主を賛美しますように。”とダビデは祈ったと記されています。
このことはやがて実現するのです。それはフィリピ(ピリピ)211に記されています。
 フィリピ(ピリピ)26-11には次のように記されています。
6 キリストは、神の形であり〔直訳「神の形の中に存在し」(筆者挿入)〕ながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました〔直訳「人の形の中に存在されました」(筆者挿入)〕。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。
9
 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 36節には、“神は必ずシオンを救い、ユダの町を築かれる。彼らはそこに住み、そこを受け継ぐ。”と記されています。
 この聖句が完全な形で実現するのは、キリストの地上再臨の時、及びその後のことです。
キリストの地上再臨がなされる直前の地上世界は、悪魔(ザ・サタン)悪霊が、イスラエル人を皆殺しにして、聖書の預言が成就しないようにしようとしている時です。
 黙示録16章には次のように記されています。
12 第六の天使が、その鉢の中身を大河ユーフラテスに注ぐと、水が涸れ、日の昇る方角からやって来る王たちの道ができた。
13
 また私は、竜〔「サタン」のこと(筆者挿入)〕の口から、獣〔「時の世界支配者」(筆者挿入)〕の口から、そして偽預言者〔「時の世界宗教の支配者」(筆者挿入)〕の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
14
 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである〔全能の神の恐ろしい審判の日に備えて、一丸となって主と戦おうとけしかけるためです(リビングバイブル)〕。
15
 ――見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――
16
 汚れた三つの霊は、ヘブライ語で「ハルマゲドン」〔直訳「メギドの丘(or山)」(筆者挿入)〕と呼ばれる所に王たちを集めた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 36節に、“神は必ずシオンを救い、”とありますが、聖書に同様の意の個所が多くあります。今日は別の2か所を取り上げてみたいと思います。

 ダニエル121には、“その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民〔ユダの民(筆者挿入)〕で、あの書に記されている者はみな救われる。”(2017)と記されています。

 ゼカリヤ書12章には次のように記されています。
1 託宣。イスラエルに対する主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言葉。天を広げ、地の基を据え、人の霊をその中に造られた主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の仰せ。
2
 私はエルサレムを杯とし、周囲のすべての民をよろめかす。エルサレムが包囲されるとき、ユダも同様になる。
3
 その日になると、私はエルサレムをすべての民にとって石の重(おも)しとする。それを担ぐ者は皆、深い傷を負う。地上のすべての国民は、エルサレムに向かって集まる。
4
 その日には、私はすべての馬を打って慌てさせ、乗り手を狂わせる――主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の仰せ。そしてユダの家の上に目を開いて、もろもろの民の馬をすべて打ち、目を見えなくする。
5
 ユダの首長たちは心の中で言う。「エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕によって私の力となる。」
6
 その日、私はユダの首長たちを薪(たきぎ)で燃える火鉢のように、また麦束で燃える松明(たいまつ)のようにする。その火は左右に燃え広がり、周りにいるすべての民を焼き尽くす。こうしてエルサレムは、その場所エルサレムにそのままとどまる。
7
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は初めにユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の誉れとエルサレムの住民の誉れをユダ以上に大きくしないためである。
8
 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムの住民を守られる。その日、彼らの中の弱い者もダビデのようになる。そしてダビデの家は、彼らの前で神のように、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いのようになる。
9
 その日になると、私はエルサレムに攻めて来る諸国民をすべて滅ぼす。”(聖書協会共同訳)とあります。

 36.37節には、“36 神は必ずシオンを救い、ユダの町を築かれる。彼らはそこに住み、そこを受け継ぐ。37 主の僕(しもべ)らの子孫はこれを譲り受け、主の名を愛する人はその中に住む。”と記されています。
キリストの千年王国におけるイスラエルの土地の分割は、エゼキエル4713-4829に記されていますが、長くなるので割愛します。

 さて、天にいるキリスト者の総体(教会)は?というと、地上でメギドの丘に世界の軍勢が集まって右往左往しているとき、教会はキリストの花嫁ですから天において、花婿キリストとの婚宴の儀が催されているのです。{参考箇所(エペソ521-32、黙示録197.8
キリストの地上再臨は、婚宴の儀が終わった後のことです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは、「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。」(イザヤ46102017)と語ることの出来るお方ですから、御名を崇めて賛美します。
あなたの聖なる御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われているように地でも行われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月 5日 (月)

申命記15:1-11 負債の免除に関する規定/主はご自身のからだをもって負債を免除してくださいました

 申命記151-11には次のように記されています。
1 あなたは、七年の終わりごとに負債を免除しなければならない。
2
 免除のしかたは次のとおりである。
すべての貸し主は隣人に貸したものを免除しなければならない。隣人や同胞から取り立ててはならない。主が負債免除を告知されたからである。3 外国人からは取り立ててもよいが、同胞があなたに負っている負債は免除しなければならない。4 あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福されるから、あなたの中に貧しい者は一人もいなくなるであろう。5 ただ、そのためには、あなたは、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日あなたに命じる戒めをすべて守り行わなければならない。6 あなたの神、主は、あなたに告げられたとおりあなたを祝福されるから、あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはない。また、多くの国民を支配するようになるが、支配されることはない。
 7 あなたの神、主があなたに与えられた地のどこかの町で、あなたの兄弟の一人が貧しいなら、あなたは、その貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。8 彼に向かって手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさい。9 あなたは、心によこしまなことを抱き、「七年目の負債免除の年が近づいた」と言って貧しい同胞に物惜しみをし、彼に何も与えないことのないよう気をつけなさい。彼があなたのことで主に訴えると、あなたは罪に問われることになる。10 彼に惜しみなく与えなさい。与えるときに惜しんではならない。そのことで、あなたの神、主は、あなたのすべての働きとあなたのすべての手の業を祝福してくださる。11 この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 負債免除の規定と貧しい人に対する貸し渋り禁止の規定が記されています。
約束の地における地上の神の国の産業は、おもに第一次産業でした。
ですから、イスラエルが主に従えば、主は天候を祝福してくださると約束されていたのです。

 申命記28章には次のように記されています。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。/
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。/
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 しかし、約束の地に入り、与えられた地が、開墾を必要とする地であれば、最初のうちは大変であっただろうと思います。
また、病弱に生まれついた人もいたでしょうし、病気になって働けないような状況に追い込まれた人も出たのではないかと思います。そうなると当然貧しくなり、場合によっては生活が成り立たないというような状況になったことでしょう。
そのような人に貸し惜しみをしないように、というのが、申命記157.8に該当するのでしょう。

 イスラエルにも怠け者はいました。
箴言に次のような聖句が記されているのですから。
 箴言69-11 には、“怠け者よ、いつまで寝ているのか。いつ目を覚まして起き上がるのか。少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで、横になる。すると、付きまとう者のように貧しさが、武装した者のように乏しさがやって来る。”とあり、
 箴言204には、“怠け者は冬に耕さない。刈り入れ時に求めても、何もない。”とあり、
 箴言2125.26aには、“怠け者の欲望はその身を殺す。その手が、働くことを拒むからだ。この者は一日中、自分の欲望に明け暮れる。”とあり、
 箴言2616には、“怠け者は、良識ある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。”とあります。
上記のような怠け者が貧困に落ちいったときにはどのように対応したらよいのでしょう?

 申命記151-6には、7年の終わりごとの負債の免除についての規定が記されています。
 新約聖書にも、負債の免除についての記述があります。
主イエス様は、赦しと負債の免除の関係性についてお話をしました。マタイ1821-35には次のように記されています。
21 その時、ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
22
 イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。
23
 そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。
24
 清算が始まると、一万タラントン〔六千万デナリオン(筆者挿入)〕借金している家来が、王の前に連れて来られた。
25
 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
26
 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。
27
 家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。
28
 ところが、この家来は外に出て、百デナリオン〔0.0167タラントン(筆者挿入)〕貸している仲間の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29
 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。
30
 しかし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。
31
 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。
32
 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。
『不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33 私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34
 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。
35
 あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、至高の神を、「父」と呼ぶようにされた者たちに対して、別の個所では、「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ614.15・聖書協会共同訳)と語っておられます。

 御父は、御子イエス・キリストによって、私たちの負債(罪の負債)をすべて帳消しにしてくださいました。
エペソ432には、“互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。”(新共同訳)と記されています。

 収入不相応な暮らしを変えない故に貧しくなっている人から、「あなたはクリスチャンなのだから、私を愛して、私にお金を与えることは当然のことでしょ。」という内容のことを言われて困っている人からの相談を受けたことがあります。お金を要求している人も洗礼を受けているのです。

私は、怠け者あるいは指導を受け入れないで、分不相応な生活をして、困窮している人に対しては、いいなりになるのではなく、分相応な生活をするようにと、指摘することが愛だと思います。
人の心をマニピュレートしてくる人には注意しましょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主の来臨が近づけば近づくほど、黙示録2211に「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(2017)と記されている聖句の如くになるのだろうと思っています。
精神的にも益々生きにくい時代になっていますが、いつもあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従って、聖なる歩みをする者として歩むことが出来ますようお助けください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月 4日 (日)

マタイ22:41-45 メシア(キリスト)はだれの子か?/神が人となられたお方

 マタイ2241-45には次のように記されています。
41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42
 「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」
彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43
 イエスは言われた。
「では、どうしてダビデが、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのか。
44
 『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
45
 このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
46
 これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや、あえて質問する者はなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の一行が、エルサレムに来た時、次から次へと主イエス様はユダヤ教の様々な立場にある人々から質問されました。
 主イエス様の権威についての質問をしたのは、祭司長たちや民の長老たちでした。
マタイ2123には、“それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」”(2017)と記されています。

 次は、パリサイ人たちやヘロデ党の者たちが主イエス様に、主なる神に仕えるべきか、カエサルに仕えるべきかという宗教と政治の問題をもって、罠にはめようとしてきました。
マタイ2215-17には、“そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」”(2017)と記されています。

 次にイエス様を罠にはめようとして来たのは、復活を信じないサドカイ派の人たちでした。
マタイ2223-28には、
23 その日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
24
 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけなければならない。』
25
 さて、私たちのところに、七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが、子のないまま死に、その妻を弟に残しました。26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。27 最後にその女も死にました。28 すると復活の時、彼女は七人のうち誰の妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 更に次には、パリサイ派の一人の律法の専門家が、律法に関する質問をもってやって来ました。
マタイ2234-36には、
34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36
 「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様を罠にかけようとしたこれらの質問があった後、今度は、主イエス様の方からファリサイ派の人々(パリサイ人たち)に、主イエス様が質問しました。それが、今日の個所です。再掲します。
41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42
 「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」
彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43
 イエスは言われた。
「では、どうしてダビデが、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのか。
44
 『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
45
 このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
46
 これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや、あえて質問する者はなかった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は、詩篇1101の、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の主〔ここの「主」は「アドン」。「私の主」は「アドニ」(筆者挿入)〕に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするまで。」”(2017)という聖句を用いたのです。

 ファリサイ派の人々は、メシア(キリスト)がダビデの子孫であることを知っていました(42)。ファリサイ派の人々は、聖書に通じていましたから。

 2サムエル712.13には、“あなた〔ダビデ(筆者挿入)〕の日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼〔メシア(筆者挿入)〕の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。”(2017)と記されています。

 ところが、聖書をよく読むと、詩篇1101のような個所もあったのです。
この個所からは、メシアが神であることがわかります。
主イエス様は、「このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(45)とファリサイ派の人々に質問されました。

 旧約聖書は、メシア(キリスト)が、人性と神性を持ち合わせていた方であることを啓示していたのです。
それは今日の個所以外にもあります。

 フィリピ(ピリピ)26-8をフランシスコ会訳は、次のように記しています。
6キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、7かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、8死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
神のひとり子の神であられる方が、人性をも持ち、その肉のからだにおいて、贖いを全うしてくださいました。
もし、主の贖いがなければ、私は火と硫黄の池に投げ込まれる運命にありました。
御父の愛と、御子の御功績と、聖霊の御働きを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ122・新共同訳)

「我が為 十字架の」(聖歌280 聖歌総合版261
“1.我が為 十字架の悩みと恥を 受けさせ給(たま)いし 我が主の愛よ 血潮の功に 滅びの火より 逃れし我が身は歌わざらめや
2.み胸に憩える心は楽し 御霊に満たされ慰めつきじ 恵みの御言葉 妙なる歌を 聞きうる我が身は歌わざらめや
3.浮世の嵐は吹くともやすし 主の手にまかしし身と魂(たま)なれば 心を覚(さ)まして祈りの内に 日々主を待つ身は 歌わざらめや”

2023年6月 3日 (土)

箴言22:28 貪欲の戒め/霊的祝福を実体化していこう

 箴言2228には次のように記されています。
“昔からの地境を移してはならない。それはあなたの先祖が設けたものだ。”(2017)とあります。

 申命記1914には、“あなたが受け継ぐ相続地、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに所有させる地で、先祖が初めに定めた隣人との地境を動かしてはならない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 申命記279.10.17には、
9 モーセはレビ人である祭司たちと共にイスラエルのすべての人々に告げた。
「イスラエルよ、静まれ。そして、聞け。今日あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の民となった。10 それゆえ、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の声に聞き従い、今日、私が命じる戒めと掟を行いなさい。」/
17
「隣人の地境を移す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 イスラエルにおいては、上記のような律法が定められました。

しかし、王自らこれを破ろうとした人がいたのです。
1
列王記15章には次のように記されています。
1 これらの出来事の後のことである。イズレエル人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていたが、それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあっ た。
 2 アハブはナボトに話を持ちかけて言った。
お前のぶどう畑を譲ってほしい。私の王宮のすぐそばにあるので、菜園にしたいのだ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑をやろう。もしよければ、それ相当の代価を銀で支払ってもよい。」
 3 ナボトはアハブに言った。
先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」
 4 アハブは、イズレエル人ナボトが、「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなどできません」と言ったことに機嫌を損ね、激しく怒って王宮に戻った。そして寝台に横たわって顔を背け、食事もしなかった。
5
 すると妻のイゼベルが来て、「どうしてそのように機嫌を損ねて、食事もなさらないのですか」と尋ねると、
6
 アハブは話しだした。「私はイズレエル人ナボトに次のように話を持ちかけたのだ。『代金を支払うからぶどう畑を譲ってほしい。あるいはお前が望むなら、代わりのぶどう畑をやろう。』だがナボトは、『ぶどう畑は譲りません』と言うのだ。」
7
 妻のイゼベルは王に言った。
「今、イスラエルを王として治めているのはあなたではないですか。起きて食事をしてください。そうすれば気分はよくなるでしょう。イズレエル人ナボトのぶどう畑は、この私が手に入れてさしあげましょう。」
8
 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、彼の印で封をし、その手紙をナボトが住む町の長老や貴族に送った。
9
 手紙にはこう記されていた。
「断食を布告し、ナボトを民のいちばん前に座らせなさい。10 そして二人のならず者を彼に向き合って座らせ、『お前は神と王を呪った』と証言させなさい。それからナボトを連れ出し、石で打ち殺しなさい。」
11
 町の人々、町に住む長老や貴族たちは、イゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で書き送ったとおりに行った。
12
 彼らは断食を布告し、ナボトを民のいちばん前に座らせた。
13
 二人のならず者も来て、ナボトに向き合って座った。ならず者の連中は民の前でナボトについて証言し、「ナボトは神と王を呪った」と言った。
人々はナボトを町の外に連れ出し、石で打ち殺した。
14
 人々はイゼベルに使いを送って、「ナボトは石で打ち殺されました」と伝えた。
15
 イゼベルは、ナボトが石で打ち殺されたことを聞くや、アハブに言った。「直ちにイズレエル人ナボトのぶどう畑を自分のものにしてください。ナボトはあなたにぶどう畑をお金で譲るのを拒みましたが、彼はもう生きていません。死んだのです。」
16
 アハブはナボトが死んだと聞くや、直ちにイズレエル人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 多くのものを所有し、北イスラエル王国を治めている王が、さらに欲を出しました。貪欲の罪です。
一方、王の要求にもかかわらず、律法を守ったナボテは殺されました。殉教です。
ナボテを殺してナボテの土地を手に入れる策略をめぐらし、それを実行させたのは、王妃イゼベルでした。
律法違反であることを知りながらも(知らなかったかもしれませんが)保身のために、町の人々、町に住む長老や貴族たちは、イゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で書き送ったとおりに行いました。悪行の共犯者となってしまった人たちです。

 世の歴史を見ると、強い者が領土を拡張していくことはよく見ることです。
そして、それは現代でも続いているのです。
申命記の律法は、イスラエルに与えられたものですから、異邦人には関係がないという人もいることでしょう。

 パウロは、異邦人に対して、次の様に語りました。使徒17章には、
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。
「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。
23
 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、人の手で造った神殿などにはお住みになりません。25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせ、季節を定め、その居住地の境界をお決めになりました
27
 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。28 私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らもその子孫である』と言っているとおりです。29 私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
30
 さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31 先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者は、地上と天に分かれ住んでいます。
地上にいるキリスト者も国籍は天にあります(ピリピ320)。しかし、地上にいる間は、地上の国籍をも持っています。日本人キリスト者は二重国籍者です。天の国籍は永遠ですが、地上の国籍は、肉の衣を脱げば必要なくなるものです。
1
ペテロ211には、“愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。”(2017)と記されています。

 地上にいるキリスト者に対して、主イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6332017)と語られました。
「これらのもの」とは、主なる神様からご覧になって、私たち一人一人に、それぞれ必要な物を指すのだろうと思います。
パウロは、「・・、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4192017)と述べています。

 必要最小限の必要は、衣食でしょう。
1
テモテ68には、“衣食があれば、それで満足すべきです。”(2017)と記されています。
しかし、寒冷地に住んでいる人は住居も暖房も必要です。

 主なる神様は、必要な物を与えてくださいますが、貪欲は戒めています。
へブル135には、“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(2017)と記されています。
主に信頼していれば、この世の人と同じように欲を出すという必要はないのです。
主は、私たちを見放さず、見捨てないお方だからです。

 何か足りないときには、主に求めればよいのです。主は、その求めについて、主のみ旨に合致するものであるとお考えになれば与えてくださいます。
 ヨハネ1413.14には、“・・わたし〔御子イエス(筆者挿入)〕は、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。”(2017)と記され、
 1ヨハネ514には、“何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。”(2017)と記されています。

キリスト者は地上にいても、天の民であり、霊的な民です。
エペソ13には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました〔ギリシア語原語はアオリスト時制(無限定過去形)です(筆者挿入)〕。”(2017)と記されています。
キリスト者は、既に与えられている祝福を信仰によって実体化していくのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」という事実と、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」という御約束を感謝します。
あなたに在って、また御子に在って、そして御聖霊との交わりの内に地上生涯を送らせていただけますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月 2日 (金)

詩篇69:20-29 ダビデの苦しみは受難のキリストの予表、及びキリストの受難の預言(4)

 詩篇6920-29には次のように記されています。
20 あなたはご存じです。私が受けたそしりを、恥を、辱めを。私を苦しめる者はすべてあなたの前にいます。
21
 そしりは私の心を打ち砕き、私は病に伏しました〔別訳「無力になりました」欄外注〕。望んでも同情は得られず、慰めてくれる人もいません。
22
 彼らは私の食物に毒を入れ、渇く私に酢を飲ませようとします。
23
 彼らの食卓が彼ら自身の罠となり、その仲間には落とし穴となりますように。
24
 彼らの目が曇って見えなくなりますように。その腰を絶えず震えさせてください。
25
 あなたの憤りを彼らの上に注ぎ、あなたの燃える怒りが彼らに迫るようにしてください。
26
 彼らの宿営は荒れ果て、その天幕に住む者はいなくなりますように。
27
 彼らは、あなたに打たれた人をなおも迫害し、あなたに刺し貫かれた人の痛みを数え上げているからです。
28
 彼らの罰には罰を与え、あなたの義にあずからせないでください。
29
 彼らが命の書から消し去られ、正しき人と並んで書き記されることがありませんように。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳、リビングバイブルは、上記の節よりも1節ずつ前の節になります。)

 ダビデは、様々な苦しみを受けました。その中には、噂もあれば、悪口雑言(様々な悪口やののしり)もありました。
イスラエルのために働いているのに、サウル王やその配下の者たちから散々に言われたり、サウル王から近距離で槍を投げつけられたり(1サムエル198-10)、サウル王から追手を遣わされたり、逃亡先でもナバルにひどいことを言われたり(1サムエル2510.11)、ダビデに助けてもらった人たちがダビデの居場所をサウル王に密告したり(1サムエル23511-13)、ダビデが全イスラエルの王となった後にもいろいろと言われました。特にアブサロムの反逆の時にはイスラエルの多くの人にひどいことを言われたものと思います。イスラエルの中の多くの民がアブサロム側についたのですから。

 聖書協会共同訳の20-22節の個所をリビングバイブルは19-21節に次の様に意訳しています。
19 彼らが私のうわさをし、名誉を傷つけているのを、ご存じのはずです。彼ら一人一人がどんなことばを口にしたか、覚えておられるはずです。
20
彼らにさげすまれて、私の心は傷つきました。心はふさぎ込んでしまいました。一人でも、同情して慰めのことばをかけてくれる人がいてくれたらと思います。
21
彼らは私の食べ物に毒を盛り、のどの渇きを訴えると酢を飲ませました。”と記しています。

 福音書を読むとわかりますが、主イエス様は、公生涯の間、ユダヤ人たちから散々ひどいことを言われました。そして十字架上では、酢を与えられたのです。
 マルコ15章には次のように記されています。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
35
 そばに立っていた何人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
36
 ある者が走り寄り、海綿に酢を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言った。
37
 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。”(2017)とあります。

 ダビデや主イエス様に限らず、人は皆、噂をされたり、悪口を言われたりするものです。いわれのある場合もあれば、ない場合もあるでしょう。
人の上に立つものは特に悪口雑言を言われやすいものです。
悪口雑言は、人の心を傷つけます。悪口雑言がもとで、人によっては、心身症になる場合もあれば、精神病になる場合もあるでしょう。

 キリスト者は、悪口雑言を言われたとき、イエス様を思い浮かべることが出来ます。
イエス様は、真理を語り続け、病人、病弱な人々を癒し、永遠の命を得る方法を語ってきたのに、最後は十字架につけられたのです。
もっとも、イエス様の十字架がなければ、私たちの罪が赦されることはありませんでしたが。
もう一言いうと、私たちが罪を犯したので、御子は、十字架におかかりになったのです。私たちの罪を贖うために。

 23-29節は、ダビデの呪いの言葉の様に感じられます。
苦しい目にあわされ続けていたら、そのように主に言いたくなるでしょう。

 パウロは、福音を語っても聞いた人が受け入れない場合に、次のように語った例が記されています。
 使徒18章には次のように記されています。
4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人を説得しようとした。
6
しかし、彼らが反抗して口汚くののしったので、パウロは衣のちりを振り払って言った。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のところに行く。」”(2017)とあります。

 主イエス様は、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23342017)と祈られたのです。

 イエス様がこのような祈りをささげられる前には、さんざん、ありもしないことで罵られ、とげのついた鞭(むち)で打ちたたかれ、血だらけになり、更に十字架を担がされ、そして、十字架上に、太い釘で打ち付けられ、その十字架を縦にドーンと立てられ、十字架上でもさんざん悪口雑言を言われていたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
ローマ325.26には、“神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償(つぐな)う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。”(新共同訳)と記され、
1
ヨハネ49.10には、“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。” (2017)とあります。
父なる神の御愛、御子イエス様の御恵み、聖霊様の御働き(1コリント123)を感謝します。
御名を崇めて感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年6月 1日 (木)

申命記14:22-29 十分の一の規定と三年ごとの十分の一の援助

 申命記1422-27には次のように記されています。
22 あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得(え)るすべての収穫から、必ず十分の一を取り分けなさい。
23
 あなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ぶ場所で、あなたの穀物や新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の十分の一と、牛や羊の初子(ういご)を食べなさい。あなたが、あなたの神、主を常に畏れることを学ぶためである。
24
 しかし、あなたの神、主があなたを祝福しても、あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所が遠く離れ、その道のりが長すぎて、それを携えて行くことができないなら、25 あなたはそれを銀に換え、その銀を携え、あなたの神、主が選ぶ場所に向かい、26 その銀であなたの望むもの、すなわち、牛でも羊でもぶどう酒でも麦の酒でも、何でもあなたの好きなものを求め、あなたの神、主の前で食べ、あなたも家族も楽しみなさい。
27
 また、あなたの町の中にいるレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのような割り当て地や相続地がないからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主が十分の一の規定を設けた理由を学びたいと思います。
1.大原則として、天地万物の所有者は神ヤハウェ(主)です。
  申命記1014に、“見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。”(2017)と記されています。
自分自身をはじめとして、自分の愛する者&物、自分の所有物だと思っているものはすべて実は神ヤハウェ(主)のものなのです。

2.基本的に上記のことがあるので、感謝と献身のしるしとして、与えられた物の十分の一をまず捧げるのです。

3.十分の一を捧げることが出来るのは、神ヤハウェ(主)が祝福してくださったからです。

4.十分の一を捧げるとき、機械的にそのことをするのではなく、万物の所有者である神ヤハウェ(主)を畏れ敬い、感謝と献身の思いを持ち、主との交わりを許されている者として、主との交わりを大切にすることが肝要であることを、申命記1423より教えていただけます。
申命記1423 には、“あなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ぶ場所で、あなたの穀物や新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の十分の一と、牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、あなたの神、主を常に畏れることを学ぶためである。”と記されています。

あなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ぶ場所で、あなたの穀物や新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の十分の一と、牛や羊の初子を食べなさい。”という聖句の下線部分をキリスト者にあてはめると、神の霊から生まれた新しい霊の中において主と交わりなさい、ということが、根本的には、命じられているのだと思います。

 その様に思う関連聖句を下記します。
“人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。”(ヨハネ332017
“霊から生まれたものは霊である。”(ヨハネ36・新共同訳)
“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ”(1ペテロ132017
“主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”(1コリント6172017
“主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。”(2テモテ4222017
“あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり”(1コリント619・新共同訳)
etc.
とあります。

 27節から、新約時代のフルタイム献身者への養いは、十分の一献金の中から用いられることがわかります。十分の一を献げる信徒が養っているのではありません。十分の一を献げるのは神ヤハウェ(主)に対してであり、神ヤハウェ(主)がフルタイム献身者を養っているのです。

申命記1428.29には次のように記されています。
28 あなたは、三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一をすべて取り分け、町の中に置かなければならない。
29
 あなたのような割り当て地や相続地のないレビ人や、あなたの町の中にいる寄留者、孤児や寡婦がやって来て食べ、満足するようにしなさい。そうすれば、あなたの神、主はあなたの行った手の業すべてを祝福されるであろう〔「それはあなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである」〕(2017)。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所のヘブライ語聖書は未来形ですが、神のことばの未来形は、未完了ということですから、2017は上記の様に訳したのでしょう。神は語られた御言葉を完了なさいますから。

 この個所には、申命記1422の十分の一とは別に、三年ごとに十分の一を献げる規定が記されています。
その理由は、申命記1429に記されています。
日本においては、生活保護制度があり、それによって生活困窮者を救うことが出来ます。
それ故、税金はきちんと納めましょう。
また、税金の用い方を任されている人々は、きちんと責任を果たしてもらいたいと思います。

 新約時代には、三年ごとの十分の一はありませんが、世界には困窮している主にある兄姉方がいます。
新約聖書には次のような聖句があります。
“ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。”(ガラテヤ6102017)とあり、
また、“6 つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
7
 各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
8
 神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。こうして、あなたがたは常にすべてのことに自足して、あらゆる善い業に満ち溢れる者となるのです。
9
 「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与え、その義は永遠に続く」と書いてあるとおりです。
10
 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたに種を備えて、それを増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。”(2コリント9章・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
天地万物はあなたのものです。
あなたから委ねられたものを適切に管理することが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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