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2023年6月28日 (水)

マタイ23:37-39 エルサレムに対する裁きの預言と嘆き

 マタイ2337-39には次のように記されています。
37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
38
 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
39
 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 37節に、「めんどりが雛を羽の下に集めるように」とありますが、主なる神様は、似たような表現をもちいます。
 申命記3210-12には、“10 主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ、彼を抱き、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。11 鷲がその巣を揺り動かし、雛の上を舞い、羽を広げて雛を取り、翼に乗せて運ぶように、12 ただ主だけが彼を導き、異国の神は共にいなかった。”(聖書協会共同訳)とあり、
 詩篇914には、“主はご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。”(2017)と記され、
 イザヤ315には、“万軍の主は、舞い飛ぶ鳥のように、エルサレムを守る。これを守って救い出し、これを助けて解放する。”と記されています。

 上記の聖句を考え合わせると、主イエス様は、神のひとり子の御子として、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(37)と語られたのではないかと思います。

 また37節に、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、・・・」とありますが、サンヘドリン(最高法院)で福音を証言したステパノは、その町の外に追い出され、石で打ち殺されたのでした(使徒68-760)。

 エルサレムの人々は、預言者たちを殺し、主イエス様さえも殺しました。
それは、神から託された預言者たちの神の言葉も、主イエス様をも自分たちには必要がない、ということでした。
神様は、必要がないのならば、すなわち、神様を捨てるのならば、私も同じようにしよう、ということになるのでしょう。
38
節には、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」と預言されています。
「お前たちの家」とある「家」は単数形です。神殿を指しているのではないかと思います。
神様は、ご自身の家であるエルサレム神殿さえも見捨てる、と言われたのでしょう。
マルコ131.2には、
1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」”(2017)とありますが、エルサレムは、ティトゥス率いるローマ軍によってA.D.70年に陥落したのでした。

 39節には、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」とあります。

 これは主キリスト・イエス様の地上再臨の預言でしょう。
 イザヤ5915b-21には、
15b主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。
16
主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。
17
主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。
〔主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。(新改訳)〕
18
主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。
〔主は彼らの仕打ちに応じて報い、はむかう者に憤り、敵に報復し、島々にも報復をされる。(2017)〕
19
西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。
20
主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。
21
これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると、主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる。”(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
詩篇91篇には、“1 いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る。
2
私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦、私が信頼する私の神」と。
4
主はご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。”(2017)と記されていますが、三一の主なる神様を信じさせていただける恵みを心から感謝します。
主の羽の内にとどまるということは、主の御言葉の内にとどまるということにも通じるところがあることを覚えます。
いつもあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたのみ旨の内を歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

〝何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。〟(細かな事、全く問題にはならない事ですが最後の鉤括弧閉がありませんでした)という御言葉を私自身に当てはめて読んだ時、恐ろしさを感じました。見捨てられることが無いことを切に願いました。
事ある毎に主に祈る事が習慣づいていると思っても、肝腎要な時にいつも抜け落ちている事に気づかされます。その都度「あぁ、また…」と落胆します。
事を進めようとする時にも祈りますが、私の思う進捗が見えないと「神様は望まれていないのか」と又々落胆し、神様は私をお見捨てに…と、神様の思いを私が決めているという事にも気づかされます。その様な時、私の原罪を指摘し、整えてくださっているのかな?と思ったりします。そして、やはりその様な時こそ「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という御言葉に近い祈りをしながら、嘆きながら歩ませていただいているのだと、振り返らせていただきました。恵みと感謝です。
〝イザヤ59:15b-20〟は21節までなのでは?と思います。

いつも見つけてくださって感謝します。

“何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。”という主の御言葉の「応じようとしなかった」という個所に該当する人たちは、イエス様をメシア(キリスト)と信じなかった人たちのことです。
ですからあなたの場合とは異なるのです。
イエスは神のひとり子であり、救い主であり、主である、と信じている人は、天国の国籍を持っています。

そそっかしいもので、間違えて捉えている事が多いですね。
そうですよね、イエス様を唯々信じていたらいいのですよね。
教えてくださり、ありがとうございます。

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