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2023年6月16日 (金)

マタイ23:13-15 「災いあれ」の1-3/天国に入る方法は主イエス・キリストを信じることのみ

 マタイ2313-15には次のように記されています。
13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
14
(底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
15
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。”(新共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
13 ああ、いまわしいパリサイ人、ユダヤ教の指導者たち。あなたがたは偽善者です。神の国に入ろうとしている人たちのじゃまをし、自分でも入ろうとはしないのです。
14
町の大通りで、見栄(みえ)のための長い祈りをし、聖者のようなふりをしながら、未亡人の家を食いものにしています。偽善者たち。
15
そうです。あなたがたのような偽善者こそいまわしいものです。たった一人の改宗者(ユダヤ教に転向する人)をつくるために、どんな遠くへでもせっせと出かけて行くが、結局その人を、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうのです。”とあります。

 13aに、“律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。”(聖書協会共同訳)とあります。
「不幸」(新共同訳、フランシスコ会訳)と訳されているギリシア語原は「ウーアイ」で、悲哀、苦悩、悲痛、悩み、災い、災難、悲痛な事柄等の意があります。
口語訳、新改訳、聖書協会共同訳は、「わざわい」と訳しています。
マタイ53-12には、8つの「幸い」が記されていましたが、マタイ2313-36には8つの「不幸orわざわい」が記されています。
8
つのわざわい(不幸)と言っても、14節は、古い写本には記されていません。
ここでは、14節も一つのわざわいとして記しておきます。

 13節を、聖書協会共同訳は、“律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、 入ろうとする人をも入らせない。”と訳し、
 新改訳2017は、“わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。”と訳しています。

 律法学者たちとファリサイ派の人々が、主イエス様に、「災いあれ」と言われた内容の第一は、人々が天国に入れないように活動しているということでした。

 天国に入れる方法には、二つの方法がありました。
一つは、律法をすべて守ることでした。どの程度守ればよいのでしょう。
程度問題ではなく、完璧に守る必要があったのです。
このことは、罪の性質をもって生まれた人間にはできないことでした。そのことをパウロはローマ7章で語り、また、ローマ512には、“・・、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。”(新共同訳)と記されています。

 天国に入るもう一つの方法は、主イエス様を信じることでした。
救いは、主イエス様を信じること、ただそれだけです。
ところがこれが結構難しいのです。
多くの人は、何らかの行いに頼ろうとします。
たとえ、赤子のイエス様を出産したマリアでさえ、主イエス様を、主として信じなければ、救われないのです。
 マルコ3章には次のように記されています。
20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
21
 身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。/
31
 イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32
 時に、群衆がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。
35
 神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 35節に、「神の御心を行う人」とありますが、その第一歩は、御子であり、主であり、救い主であるイエス・キリスト様を信じることです。主イエス・キリスト様を信じれば、永遠の命が与えられるのです。
 主イエス様は、「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ6.402017)と語られたと記されています。

 律法学者やファリサイ派の人々(パリサイ人たち)は、イエスが御子であり、キリストであり、救い主であることを否定し、自分たちが教える教えを強要したのです。
同じことは、教会歴史の中でも繰り返し見られたものです。
免罪符を買えば、罪が赦される、とか、山上の垂訓を守らなくては救われない、とか、その他色々あります。
それでは、主イエス様が十字架上で流された血は、価値のないものになってしまいます。

 イエス様の贖いは完了したのです。イエス様の贖いは成し遂げられたのです。それはヨハネ1930に記されています。
エペソ17には、“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。”(新共同訳)と記されている通りです。

 神様が望んでおられる善き行いは、イエス・キリスト様の救いにあずからないと行えないのです。
エペソ28-10には次のように記されています。
:8 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
9
 行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちも間違ったことを教えて、「災いだ」と言われないようお守りください。
あなたの御言葉から外れたことを言ってしまいませんように。
また主の恵みによって御言葉を実行するものとしてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

自力の行いか、神様が準備された行いか、の違いと捉えても大丈夫でしょうか?
神様が準備された行いって?と、自分自身で書いていても〝どんな行い?〟と明確には書けず、曖昧なところがまだまだありますけれども…。主を信じて歩んでいれば示してくださる事を信じて歩みたいと思いました。
まだ、他者に対して御言葉を教える段階まで行き着けておりませんので、その様な段階に進んで行ければ良いなーと、トミーさんのお祈りから感じました。
最近間違えて捉えてしまう傾向が私には見受けられるので、私の間違いかも知れないのですが、〝律法学者たちとファリサイ派の人々が、主イエス様に、「災いあれ」と言われた内容の第一は、人々が天国に入れないように活動しているということでした。〟とトミーさんが書いていらした箇所は、イエス様が「災いあれ」と言われたのかと思うのです。

天国に入れる二つの方法は、上記に記した文章を用いると、
“ 天国に入れる方法には、二つの方法がありました。
一つは、律法をすべて守ることでした。どの程度守ればよいのでしょう。
程度問題ではなく、完璧に守る必要があったのです。
 天国に入るもう一つの方法は、主イエス様を信じることでした。
救いは、主イエス様を信じること、ただそれだけです。”ということになります。

〝律法学者たちとファリサイ派の人々が、主イエス様に、「災いあれ」と言われた内容の第一は、人々が天国に入れないように活動しているということでした。〟とトミーさんが書いていらした箇所は、イエス様が「災いあれ」と言われたのかと思うのです。→
日本語聖書が、「災いあれ」、「不幸だ」、「災いだ」と訳しているので、それを踏襲したのですが、そのギリシア語原語は、「ウーアイ」で、悲哀、苦悩、悲痛、悩み、災い、災難、悲痛な事柄、また、間投詞として、「アーッ」、「ウーッ」と悲しみを込めて言われた、としても良いのかも知れません。何しろ、そこにいなかったので、分からないのです。
ただ言えることは、この時点で、律法学者やファリサイ派の人たちは地上に生きているので、生きている間に悔い改めてイエス様を信じれば救われるのです。

イエス様は救い主であると共に裁き主ともなられるお方です。イエス様は、罪の行為に対しては断罪しますが、人を愛するお方です。イエス様はすべての人のために十字架につかれたのですから(1ヨハネ2:2)。

パウロは、どのような人であったでしょう(使徒26:9-11)。
マナセ王もひどい人でした(2歴代誌33:1-10)。
しかし悔い改めたのです。すると主はマナセを赦されたのでした(2歴代誌33:11-13)。

行いではなく、とにかくイエス様を信じるという事ですね。
信じる事、100%イエス様を信じながら生きることはどの様な事なのだろう?と、考えてしまったり、罪を犯したかな?と思ってしまったりする事自体が、律法学者やファリサイ派の様な考えに近くなってしまうのでしょうか…。
考えても仕方のない事ですね。
私の文書力の無さは、人に伝わり難いという事を改めて実感しました。
そのお陰で新たに学べた事を感謝します。

私の方こそ、読解力と文章力の不足ですみません。

とんでもないです。いつもありがとうございます。

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