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2023年6月20日 (火)

マタイ23:16-28 「災いあれ」の4-7/私たちをきよくしてくださる主

 マタイ2316-21には次のように記されています。
16 ものの見えない案内人、あなたがたに災いあれ。あなたがたは、『神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて 誓ったら、それを果たさねばならない』と言う。
17
 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を聖別する神殿と、どちらが尊いか。
18
 また、『祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない』と言う。
19
 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を聖別する祭壇と、どちらが尊いか。
20
 だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
21
 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのである。
22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主が厳しいお言葉を投げかけている宗教指導者たちが、神との交わりを持っていなかったことがよくわかります。何がより尊いのかということも理解していなかったようです。

 マタイ2323.24には次のように記されています。
23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。
24
 ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは呑み込んでいる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、律法で規定された十分の一の献げ物を否定したのではなく、十分の一の献げ物も大切だけれども、律法の根幹である神と隣人への愛(マタイ2236-40参照)、その表れとしての公正、慈悲、誠実といった律法が教えている大切なことをないがしろにしてはいけませんよ、と教えてくださったのだと思います。

 マタイ2325-28には次のように記されています。
25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26
 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる。
27
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28
 このようにあなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法とでいっぱいである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 人は、アダムの堕罪により罪(罪の性質)をもって生まれてくるようになりました(ローマ512)。人は生まれながらの罪人なのです。それ故、人は、「きよくなれ」と言われても、自分で自分をきよくすることなどできないのです。
神様は、人に、「きよくなりなさい」と言われますが、人にできることは、神様に、「私をきよくしてください」と自分を差し出すことだけです。
 1ペトロ(ペテロ)115.16には、
15 あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。16 「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。”(聖書協会共同訳)と記され、
 ローマ122には、
“あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ローマ122を新改訳2017は、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と訳しています。

 自分で自分をきよくしようとする人は、できないことをしようとしているのですから、まじめな人ほど苦しむことになるでしょう。

 2コリント318には、“私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ〔別訳「鏡のように映し出しながら」(欄外注)〕、栄光から栄光へと、主と同じかたち〔あるいは「像」(欄外注)〕に変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様を信じている者、すなわち心にお迎えしている者は、天に迎え入れていただける前に、主が全くきよくしてくだざいます。
 1テサロニケ523.24には次のように記されています。
:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。
24
 あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
キリスト者は、キリストの血のゆえに、地位的にはすでに聖なる者とされています(へブル1010)が、実質的にも、主の霊によってお整えを頂けます(2コリント318)からありがとうございます。
神に愛されている子どもらしく、神に倣う者となり、愛の内を歩む者としてお整えください(エペソ51.2)。
私たちを通しても、あなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

働いて税金を納めているだけではいけません。行いをイエス様に倣いなさいと言われているのだと思いました。イエス様を表すことは、私はまだまだできていない事を自覚するので、とても気になるところです。
1ペテ1:15.16を読めば、理由とかではなく、とにかく、聖なるものになりなさいという命令に近いものなのかな?と捉えました。
トミーさんが書かれていた〝・・まじめな人ほど・・〟という一文は、主に出会う前の私は、本当にその様な事で苦しみました。その後もキリスト者と名乗る人の話を真に受けてしまったりして苦しみました。やはり主の御言葉のみが正しい方向に導いてくださる事を実感しております。でも、その御言葉をどの様に捉えてゆくのか?聖書を読んだ(聖書を読み学ぶという事が既に変えていただけている事で、感謝です)だけでは全くわかりませんので、解説を加えて下さり正しく受け取ってゆく事で日々の生活にも活かせます。(きっと活かせていると…)
学び初めは、どの様に聖くしたら…?と思いましたが進めてゆくうちに、主を信じていたら良いのだと思いました。
いつも学ばせていただける事に感謝いたします。

良かったですね。

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