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2023年6月12日 (月)

マタイ23:5-12 神よりも人から良く思われようとする生き方の戒め/敬虔な生き方

 マタイ235-12には次のように記されています。
5 「その〔2節より「律法学者たちやファリサイ派の人々の」(筆者挿入)〕することは、すべて人に見せるためである。
聖句の入った小箱のひもを幅広くしたり、衣の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8
 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。
9
 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10
 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11
 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12
 誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所に関してBIBLE naviは、いくつかに分けて、次のように記しています。
“<235-7>イエスは再び、宗教指導者の偽善的な態度をあらわにされた。彼らは聖句を知っていたが、それに従って生活していなかった。敬虔であることに関心がなく、感嘆や称賛を受けるために敬虔に見せているだけだった。今日、パリサイ人のように、多くの人は聖書について語りながら、聖書の真理に人生を変えられようとはしない。イエスに従っていると言うが、イエスの愛の基準に従って生活していない。私たちの愛の行動は信仰と調和しなければならない。”とあり、
 “<235>「聖句を入れる小箱」は、聖書のことばを入れた革製の箱である。信心深い人々は、申命記68と出エジプト139.16を厳密に文字通り解釈して、この箱を額や腕につけていた。しかし聖句を入れる小箱は、そこに入っている真理のためよりもそれが与えられる地位のためにさらに重要になってしまった。同様に、バンパーステッカーや宗教的アクセサリーのような象徴的なものは、神が望んでおられる生活を思い出させる役には立つが、それが真に神を愛することや人を助けることにとって代わることはできない。”とあり、
 “<238-10>イエスは敬称を禁じたのではなく、クリスチャンは家族のように、神の権威のもとで平等なものとして結び合わされていると言っておられたのである。神との関係という観点から、人々の重要性を階層化してはならない。また、イエスは人を「父」と呼ぶことはできないと言われたわけではない。ここでも教師と弟子との関係およびそこに内在する階層性という文脈で語っておられる。弟子は教師に神より上の敬意や権威を与えてはならず、そのような人を偶像化してはならなかった。同様に、他の人が自分を彼らより高く上げることを許してはならなかった。同じ原則が今日のクリスチャン指導者や教師に当てはまる。”とあり、
 “<2311.12>イエスは出世についての一般的に行きわたっている考えに異議を唱えた。イエスにとっての偉大さは、個人的利得や進歩を気にせず神に仕え人を助けることからくる。仕えることで、他の人の必要を常に気にかけるようになり、自分に集中することがなくなる。イエスはしもべとして来られた。あなたが他の人のしもべになりたいなら、何を変える必要があるだろうか。”とあります。

 5-12節をリビングバイブルは、
5 彼らのやることと言ったら、人に見せびらかすことばかりです。幅広の経札(聖書のことばを納めた小箱で、祈りの時に身につける)を腕や額につけたり、着物のふさ(神のおきてを思い出すために着物のすそにつけるように命じられていた)を長くしたりして、あたかも聖者であるかのようにふるまいます。
6
また、宴会で上座に着いたり、会堂の特別席に座ったりするのが何より好きです。
7
街頭でていねいなあいさつを受けたり、『ラビ』(ヘブル語で、教師)とか『先生』とか呼ばれることも大好きです。
8
だがあなたがたは、だれからもそう呼ばれないようにしなさい。なぜなら、神だけがあなたがたのラビであって、あなたがたはみな同じ兄弟だからです。
9
またこの地上で、だれをも『父』と呼ばないようにしなさい。天におられる神だけが『父』と呼ばれるにふさわしい方だからです。
10
それに、『先生』と呼ばれてもいけません。あなたがたの先生は、ただキリストひとりです。
11
人に仕える人が最も偉大な者です。ですから、まず仕える者になりなさい。
12
われこそはと思っている人たちは、必ず失望し、高慢の鼻をへし折られてしまいます。一方、自分から身を低くする者は、かえって高く上げられるのです。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを愛し、兄姉を愛し、あなたに仕え、兄姉方に仕える歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

ありとあらゆる所で見られる光景だと思いますが、救われる以前はその様な状況を見ていた為に、教会からは意図的に遠ざかってしまう心がありました。
呼ばれる時期がやはりあるのですね…。
今、その様な光景を見ても、多少は気になりますが以前よりは気にならずに、私自身のみに集中を置ける様になれてきている気がします。元々、人の目が気にななったり、人の心を深読みしてしまったり、他者を優先してしまったりする性質です。そうすると必然的に神様より人を優先してしまう傾向となる流れですが、不思議とそれは薄れております。色々な働きかけでその様にしてくださっているのだと思います。
〝時〟は神様が与えてくださるのだと改めて思いました。
先日の説教の中でも似た様なお話を耳にしました。御聖霊に導いていただきながら、主に仕えてゆく生き方をしてゆく事ができますよう祈ります。

ハレルヤ!

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