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2023年7月30日 (日)

マタイ24:3-14 終末と満了7/神様は終末の最後まで救われる人が起こされることを期待しておられる

 マタイ243-14には次のように記されています。
3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
4
 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。5 私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。6 戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。9 その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。10 その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。11 また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。14 そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節には、「この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る〔キリストが地上再臨する、の意があるのだと思います(筆者挿入)〕。」というイエス様の御言葉があります。

 教会時代の福音宣教は教会と聖霊によって行われています。
キリストの救いにあずかった人がいくら福音を伝えてもそれだけで人々が救われるわけではありません。御聖霊の働きが大切なのです。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記され、
使徒18には、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・・わたしの証人となります。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。

艱難時代、大患難時代の福音宣教は144000人と艱難時代に救われた人々によって福音宣教が進められていくことでしょう。
神様は、何故、福音宣教のために144000人を遣わすのでしょうか?
艱難時代には、霊的な教会、すなわち新生した者たちの群れは地上にはいないのです。霊的な教会は、キリストの空中再臨の時に携挙されて天に移されているからです。

 黙示録7章には、144000人の神のしもべ(僕)について次のように記されています。
1 この後、私は地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、地の四隅から吹く風を押さえ、地にも海にもどの木にも吹きつけないようにしていた。
2
 また私は、別の天使が生ける神の刻印を携え、日の出る方から上って来るのを見た。その天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に向かって大声で叫んで、3 言った。
「私たちが神の僕の額に刻印を押すまでは、大地も海も木々も損なってはならない。」
4
 私は、刻印を押された人々の数を聞いた。それはイスラエルの子らの全部族〔ただしダン部族は入っていません(筆者挿入)〕の中から刻印を押された人々であり、十四万四千人であった。
5
 ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、ルベン族の中から一万二千人、ガド族の中から一万二千人、6 アシェル族の中から一万二千人、ナフタリ族の中から一万二千人、マナセ族の中から一万二千人、7 シメオン族の中から一万二千人、レビ族の中から一万二千人、イッサカル族の中から一万二千人、8 ゼブルン族の中から一万二千人、ヨセフ族〔ヨセフからマナセとエフライムが出ましたが、6節にマナセ族はあってもエフライム族の記述はありません(筆者挿入)〕の中から一万二千人、ベニヤミン族の中から一万二千人が刻印を押された。”(聖書協会共同訳)とあります。

 人間には分からなくても、神様は、イスラエルの末裔の中から、それもおそらく世界各地に住んでいる人たちで、各人が住んでいる国の言葉で話せる人たちを神のしもべとして福音宣教のために選び出すのでしょう。

 また、世界の中には、携挙されずに残された自称クリスチャンと言われる人たちの中から、本当にイエス・キリストを自分の救い主として殉教覚悟で信じた人たちもいるでしょう。

 いずれにしても艱難時代に殉教して天に帰ってくる魂は多いのです。
黙示録7章には次のように記されています。
9 この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。10 彼らは声高らかに言った。
「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある。」
11
 また、天使たちは皆、玉座と長老たちと四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12 こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が世々限りなく私たちの神にありますように。アーメン。」
13
 すると、長老の一人〔おそらく教会代表者の一人(筆者挿入)〕が私に問いかけた。
「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14
 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。
「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で 洗って白くしたのである。
15
 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録79に記されている人以外にも、この後、救われていく人たちは起こされていきます。
それは、黙示録13章を読むとわかりますが、反キリスト(黙示録131-7に記されている第一の獣)を、高く上げる偽預言者(黙示録1311-17に記されている第二の獣)が、反キリストに対する礼拝を強要し、また反キリストの像(偶像)に対する礼拝を強要し、さらに獣の刻印である666を額か右の手に受けることを強制するのです。そして、反キリストや反キリストの像を拝まない人を殺し、666のしるしを持たない者には、売り買いをすることが出来ないようにするのです。
しかし、この命令に従わないで殉教する人たちもいます。
それは黙示録204の後半部分に、“また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。”(2017)と記されているのでわかります。

 大患難時代の宣教の最後は天使によって行われます。
天使による宣教の内容は、キリストの血によって救われた人の場合とは少し異なります。その宣教の内容には、「子羊の血潮」が出てきません。
黙示録14章に次のように記されています。
6 また私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、7 大声で言った。
「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。
創造主なる神を畏れ敬い、創造主なる神を礼拝せよ、という内容です。

 イエス様は、「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20292017)と語られました。
教会時代に、見ずに信じさせていただけた人は幸いであると思います。
艱難時代、大患難時代を通らないで天に携え挙げられるのですから。
とはいえ教会時代にも殉教したキリスト者は大勢いましたが。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
とても自分勝手ですけれども、教会時代にイエス・キリスト様の救いにあずからせてくださりありがとうございました。
艱難時代にも多くの人たちが殉教してきますが、その人たちを強めてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

13 ...「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14 ...「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で 洗って白くしたのである。
15 ...16...17 …彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”

涙。。。

17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”

教会時代がいかに恵み深いのかという事を改めて学び、実感します。
日本でも迫害されていた時期を思うと、より一層の感謝です。なのに、日々の些細な事への不満や私の思い通りにならない事への不満などの方が多く、その都度イエス様を求めずにはいられません。(たまにイエス様を見失ってしまっている時もあるからでしょうね)
私にも何かできる宣教(奉仕)は?と思うと、自分の身を投げ捨て、いつでも殉教できる様な心持ち、日々の信仰心を養う事なのかな?と思いました。(日常生活を送るだけでも困難がありますから…全く及んでおりませんが…)
救われて直ぐの時、福音宣教を行おう等とは全く思ってもおりませんでしたし、学びもご存知の通りまだまだな状態でした。私の姿を見て楽しそうで来ましたと言われた事があり、その事を思い起こすと、私の中で?周りで?御聖霊が働いてくださったからなのだと強く思うのです。
今現在の私にはないので、その様な振る舞いをすれば…という証を見せてくださったのだと思います。今、またその時のことを思い起こすという事は、再びあの頃の気持ちを取り戻し、奉仕する心を祈り求めなさいと言われている気がしました。
どの様な事でも御聖霊が働かなければ福音も洗礼も何も進んでゆきませんものね。私ができる事は、私に与えられた事を主の教えを心に持ち、行うことだけですね。
命令に従わないで殉教する人、黙20:4の記事を載せてくださり、それを読み、主の教えとは異なる事、私の中でその様に思う事は御聖霊が働いてくださっているのかな?という問い掛けを一度してみるという事をしてゆこうと思いました。日々の繋がりがあり、感謝します。

子羊様
地上では苦しいことがたくさんあるかもしれませんが、天国の希望があるのでありがたいですね。
さらに、黙示録21:4には
“神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。”(2017)とありますものね。

mitiko様
おそらく、主に在って歩んでいれば、主を求めようとする人には自然に光を放っていると思いますよ。頑張らなくても大丈夫です。
主を求めようとはしない人の場合は、この世的なものに関心があり、この世的なものを見ていますから、キリストにあって歩んでいる人を魅力的は感じないかもしれません。

自力ではなく、主に従ってですね。
ありがとうございます。

アーメン

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