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2023年8月27日 (日)

マタイ25:14-30 キリスト者の働きと報酬/主は忠実な人を喜ばれる

 マタイ2514-30には次のように記されています。
14 「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
15
 それぞれの力〔能力(口語訳、新改訳)〕に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて、旅に出た。
 早速、16 五タラントン受け取った者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンもうけた。
17
 同じように、二タラントン受け取った者も、ほかに二タラントンもうけた。
18
 しかし、一タラントン受け取った者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠した。
 19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20
 まず、五タラントン受け取った者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。
『ご主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
21
 主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい〔主人の喜びをともに喜んでくれ(2017)〕。』
22
 次に、二タラントン受け取った者も進み出て言った。『ご主人様、二タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23
 主人は言った。『よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい〔主人の喜びをともに喜んでくれ(2017)〕。』
24
 一タラントン受け取った者も進み出て言った。『ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
26
 主人は答えた。『悪い臆病な〔怠け者の(2017)〕僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27
 それなら、私のお金を銀行に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28
 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
 29 誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。
30
 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」”(聖書協会共同訳)とあります。

 タラントの譬えといわれるたとえ話です。
この個所から、奉仕と報酬、忠実さと不忠実さの結果、キリストを主としているのかしていないのかの違いによって報いが異なることを教えてくれているように思います。

 主は全知全能の神ですから、一人一人の能力を正しく判別します。
主は、一人一人の能力に従って、色々と異なる御霊の賜物{ギリシア語原語は「カリスマ」(ローマ1261コリント124)}をも与えられました。
誰にでも等しく与えられているものには、時間があります。ルカ1913-27にはミナの譬えが記されていますが、この個所では、全員が1ミナを与えられています。

 一人一人のキリスト者に与えられているものを用いて、主キリストのためにどのような働きをしたのかということが問われている個所です。
この個所は、救いについてではなく、キリスト者の働きと報酬の関係について譬えを用いて語られているのです。

 キリスト者の「働きと報酬の裁き」については、2コリント510に、
“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)と記されています。

 5タラントと2タラント預かった人は、2コリント510に基づけば、善なる行いをした人であり、1タラント預かった人は、悪なる行いをした人であったと言えるでしょう。

 主を愛し、主に対して忠実に励んだ人は、主に喜ばれ、主から相応の報いを与えられ、主を愛さず自己保身のみに生きたところの自分を主としている人はそれ相応の報いを受けるということがわかります。

 主の御恩寵に感謝し、主を愛し、「私は主のものです」といえる人は幸いです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主は私たちに恵みの上にさらに恵みを与えてくださいました。
主の御恩寵に感謝し、主を愛し、与えられているものをもって、喜びをもって、主に仕えていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わが友 主イェスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友 主イェスは 我を見出し 引き寄せた給いぬ 愛の糸もて 御そばに侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主はわがもの 我は主のもの
2.わが友 主イェスは 罪ある我を 贖い給えり 命を捨てて この身と魂をば 主よ取り給え すべては汝(な)がもの 我がものは無し
3.わが友 主イェスは いとも優しく 慰め励まし また守り給う 悩みも剣も 飢えも裸も 引き裂く能(あた)わじ 主より我が身を”
アーメン。

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コメント

主に忠実に生きているかな?、善なる行いはできているのかな?と、譬え話の度に思います。
〝主を愛さず自己保身のみに生きたところの自分を主としている人〟とトミーさんが書いてくださっている箇所に質問させてください。
自己保身していると、自分が主となってしまう…。「自己保身している人」「自分を主と思っている人」両方がいる…。
その様に捉えて良いでしょうか?
どのみち、主を頼りにしていなければ同じ結果となる事は明らかではあると思いますが…。
まだまだ私は至っていないので、気になり質問させていただきました。
書いてくださっているこの様な生き方は、全く私が行ってきた生き方だと思います。(今もそうかなー?と思う時が多々あります)
それに気付かされたお陰で、イエス様に救っていただき今があるのだと思います。
それからできているのかな?という問い掛けは止みません。祈りながら、継続してゆく中で導いていただくしかないのでしょうね。

人は生まれながらに、自分を神の立場に置いています。主なる神様については全くの無知であります。人と神様とは断絶しているのですから。
人は生まれながらに、自己保身本能を持っていると思います。
生まれながらの人は、主とは断絶しているのですから、それは当然のことであり、もしそうでなければ生きていけないと思います。
主イエス様の救いにあずかった後でも、多くの場合、死ぬ間際まで、自分が主であるという人が多いとおもいます。なかなか主を主という立場に置くことが出来ないのです。主に委ねきるということが出来ないのです。
キリスト者の中には、ときに、いつもイエス様を主とすることのできる恵みを与えられる人がいます。(フィリピ1:21、ガラテヤ2:20)
しかしキリスト者だからといって、誰もがこのようになっているわけではありません。
主の恵み深さを段々と経験しつつ、様々なことを主に委ねることが出来るようになっていくと、自然に変えられている自分を発見していくでしょう。
無理することはありません。
主と共に歩んでいこうとしていれば、変えられていくのです(2コリント3:18)。

何時もご丁寧にありがとうございます。
変えていただける事を信じて歩んでゆきたいと思います。ます。

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