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2023年9月 4日 (月)

マタイ26:1ー5 キリストの十字架とその予表としての過越し

 マタイ261.2には次のように記されています。
1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2
「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」”(2017)とあります。

 主イエス様が、ご自身が十字架につけられるor殺されるという預言をしたのは、これで4度目です。
一度目のときの予告とペトロ(ペテロ)の反応はマタイ1621-23に次のように記されています。
21 この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22
 すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23
 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 第二回目の予告は、マタイ1722.23に、
22 一行がガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。
「人の子は人々の手に渡されようとしている。23 そして殺されるが、三日目に復活する。」
弟子たちは非常に心を痛めた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 第三回目の予告は、マタイ2017-19に、
17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
18
 「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、19 異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 そして四度目の予告が今回でした。

 1コリント57に、「私たちの過越の子羊キリスト」(2017)と記されているように、過越しの子羊はキリストの予表でした。

 キリストが誰であるかを、主から遣わされて、証しをする任を負っていた預言者であるバプテスマのヨハネは、まだ主イエス様の弟子となる前のヨハネとペテロ(ペトロ)の兄弟のアンデレに、「見よ、神の子羊」と言ったのです(ヨハネ136)。
アンデレとヨハネは、バプテスマのヨハネの弟子でした(ヨハネ135)が、この後、主イエス・キリスト様の弟子となったのでした。

 過越しの子羊は、過越し迄の四日間、完全であるかどうかを調べられました。
出エジプト12章には次のように記されています。
3 イスラエルの全会衆に告げなさい。
「この月の十日に、父祖の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊一匹を用意しなさい。4 もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。5 あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。6 あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の場合は、祭司長や民の長老たち、ファリサイ派(パリサイ人)、ヘロデ党の人々、サドカイ派の人々、律法の専門家たちによって、罪(欠陥)を詮索されましたが、ユダヤの宗教指導者たち、政治指導者たちによっても欠陥(罪)を見出すことが出来ませんでした。これらの質問とイエス様の答弁は、マタイ2123-2246に記されています。

 主イエス様には、罪がないゆえに、罪のゆえに逮捕することが出来ませんでした。
それ故、祭司長や民の長老たちは、イエス様をだまして捕らえることにしたのです。
マタイ263-5には次のように記されています。
3 その頃、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファと言う大祭司の屋敷の中庭に集まり、4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
5
 しかし、彼らは、「祭りの間はやめておこう。民衆の中に騒ぎが起こるといけない」と話していた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イザヤ53章には次のように記されています。
5 彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに 平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。/
11
彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、多くの人〔キリストの贖いを信じる人(筆者挿入)〕が正しい者とされるために、彼ら〔私たち(筆者挿入)〕の罪を自ら負った。
12
・・・。彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。”(新共同訳)とあります。

 主イエス様は、十字架上での贖いが完了したとき、「テテレスタイ」(終わった、完了した)と言われました。(ヨハネ1930

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたが愛してやまないひとり子の御子を、これまたあなたが愛してやまない私たち人間のために、そして、その人間の罪を贖うために、神のひとり子の御子で、神であられるお方が、救い主として人の肉体をまとい、その肉において贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
昔は、買い取られたら奴隷として働かされたものですが、あなたは、私たちをキリストの花嫁として買い取り、豊かな愛を注ぎ続けてくださっておられます。
私たちも、キリストを愛し、キリストに従い、喜びをもってキリストに仕えていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

全てはイエス様のおかげ!
善人でありたいと努力したり、何か良い事をして褒められたいと思ったり。その様な気持ちが常に根底にありました。慈愛やアガペー等は知らずに育ってきて、イエス様に出会えた時「何かをしなければならない見返りの愛ではないこと」を知った時の感動を改めて思い起こさせていただきました。
いつも何処かに見返りがなければ愛してはもらえないというものからの解放でした。
救ってあげたとか、やってあげたという概念が、何処かに残ってはおりつつ、消え去りました。
人は神様には決してなれず、人は罪人として生きてゆく。自分の持っている罪を認めて日々生きてゆく。隣人と互いに助け合いながら愛を持って生きてゆく。私にはとっては中々難しい事です。
卑下する事もなく、罵りあう事もない、なんて素晴らしい。実際の世は真逆の事が多く、倒れそうになるばかりです。私もイエス様の似姿に変えてくださいと祈りつつも行ってしまっています。地上生活はこの様にずっと続くのでしょうね。それでも、少しでもイエス様の行いを真似する事ができます様に…と祈るばかりです。
中々、できるものではありませんが、私が持つ全てを愛してくださる神様は私の悪い所をも愛してくださり、その悪い所をいずれ変えてくださるという事を信じ(自力で変えてゆく事をしないように…結構辛いですね…表面を取り繕った生き方の方が人から好かれるので、その折り合いが難ししいです)て、祈り続けます。
マタイ27:3-5は、マタイ26:3-5かと思います。

訂正すべき箇所を教えてくださり感謝します。
自分の変化を、年単位で比べてみると、主の御業が自分になされているのを感じるのではないでしょうか。
お証を感謝します。
主を賛美します。
ハレルヤ!

確かに、年単位では変化があります。
今、その生活が当たり前ですので対比することがなくなっておりましたので、教えてくださり感謝します。
それでも、全く変わり無い所もありますので、まだまだです。祈り続けます。
ありがとうございます。

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