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2023年9月18日 (月)

詩篇95篇 神ヤハウェ(主)に従順な者への幸いと不従順な者への災い

 詩篇958-11には、主に対して不従順な人は主の安息に入れない、と次のように記されています。
8 「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
9
 あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。私の業を見ていながら、私を試した。
10
 四十年の間、私はその世代をいとい、そして言った。
『彼らは心の迷える民、私の道を知らない。』
11
 私は怒り、誓いを立てた。
『彼らは私の憩い〔「安息」(2017)〕に入れない』と。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 8.9節には“8 「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。9 あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。私の業を見ていながら、私を試した。”とあります。
この出来事は、出エジプト171-7に記されています。
この時、モーセに率いられていた民は、エジプトに下った10の災いや紅海での出来事という主の御業を体験した人たちでした。それにもかかわらず、飲み水のない地に宿営したとき、主に対してへりくだって、飲み水を与えてくださるようにお願いするのではなく、ひどい言動をしたのです。その時の様子が出エジプト172-4に次のように記されています。
2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
3
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇き で殺すためなのか。」
4
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」・・”(新共同訳)とあります。

 出エジプトした民は、主へのへりくだりと主に対する信頼と感謝が欠けていたのです。
彼らは不平や愚痴を言い続けたのでした。

 10.11節をリビングバイブルは、
10 「この四十年間、わたしは苦々しい思いで民を見すえてきた。心も思いも遠く離れているこの民は、わたしのおきてを見向きもしなかった。
11
だから、わたしは激しい怒りをこめて誓った。彼らに約束した安息の地へ、彼らが入ることは決してない。」”と訳しています。

 主が、10.11節のようなことを語られたのは、マサの地における出来事の故ではなく、民数記13.14章に記されている、代表者12人によるカナンの地の偵察とその報告、報告を聞いた民の言葉、それを聞いた時に発せられた主の御言葉です。

 上記に関連する民数記13.14章の聖句をピックアップすると大体次のようになります。
1317 モーセは次のように彼らに命じ、カナンの地の偵察に遣わした。/
25
 四十日の後、彼らはその地の偵察から戻り、26 パランの荒れ野のカデシュにいたモーセとアロン、およびイスラエル人の全会衆のもとに帰って来た。彼らは二人と全会衆に報告し、その地の果実を見せ、27 モーセに説明した。
「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行って来ました。そこはまことに乳と蜜の流れる地でした。これがそこの果実です。28 しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。私たちはそこでアナク人の子孫さえも見ました。29 ネゲブの地にはアマレク人が住み、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人が住み、海辺とヨルダンの岸辺にはカナン人が住んでいます。」
 30 カレブは民を静め、モーセに向かって「私たちはぜひとも上って行くべきです。そこを手に入れましょう。私たちには必ずできます」と言った。
31
 だが、彼と一緒に上って行った者たちは「いや、あの民に向かって上ることなどできません〔主への信頼が全くありません(筆者挿入)〕。彼らは私たちよりも強いからです」と言い、32 偵察した地について、イスラエルの人々の間に悪い噂を広めて言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。33 私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」
 14:1 全会衆は声を上げて叫び、民はその夜、泣き通した。2 イスラエルの人々は皆、モーセとアロンに向かって不平を言い、全会衆が彼らに言った。
「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。この荒れ野で死んでいたらよかったのに。」/
 22 私の栄光と、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者は誰一人として、23 私が彼らの先祖に誓った地を見ることはない。私を侮る者は誰一人としてそれを見ることはない。/
27
 「この悪しき会衆は、いつまで、私に対して不平を言うのか。私は、イスラエルの人々が私に対して言い続ける不平を十分聞いた。28 あなたは彼らに言いなさい。
私は生きている――主の仰せ。私は、あなたがたが私の耳に語ったとおり、あなたがたに対して行う29 あなたがたの死体はこの荒れ野に倒れるであろう。私に対して不平を言った者、すなわち、あなたがたのうち二十歳以上で、登録をされ、数えられ た者は皆、倒れるであろう
30
 あなたがたは、私があなたがたを住まわせると誓った地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。
31
 あなたがたは『幼子たちが奪われる』と言ったが、私は幼子たちを導き入れる。彼らはあなたがたの拒んだその地を知るようになる。32 だが、あなたがたは死体となってこの荒れ野に倒れ、33 あなたがたの子どもは、あなたがたの死体が荒れ野で朽ち果てるまで、四十年の間、荒れ野で羊飼いとなってあなたがたの背信の罪を負う。34 あなたがたがあの地を偵察した四十日という日数に従い、一日を一年として四十年の間、あなたがたは自分の罪を負い、あなたがたは私に反逆することの意味を知るであろう。35 主である私が言う。私に逆らって集まったこの悪い全会衆に対して、私は必ずこのことを行う。彼らはこの荒れ野で絶え果てて、死ぬ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主に信頼しない罪は恐ろしいものです。
それは新約でも同じです。
ヨハネ316-18には次のように記されています。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17
 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
18
 御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている〔ここのギリシア語原語は完了形で、本文の訳以外に「罰せられている」「罪に定められている」の意もあります(筆者挿入)〕。神の独り子の名を信じていないからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1-7bには、主に対して従順で心から主を賛美する者こそ主の民である、ということが次のように記されています。
1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。救いの岩に喜びの声を上げよう。
2
 感謝のうちにその前に進み、賛美と共に喜びの声を上げよう。
3
 まことに主は大いなる神、すべての神々にまさる偉大な王。
4
 地の深みもその手の内にあり、山々の頂も主のもの。
5
 海も主のもの。主が造られた。その手は乾いた地を形づくられた。
6
 さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。
7
 まことに、主こそ我らの神。私たちはその牧場の民、御手の羊。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1テサロニケ5章には、
16 いつも喜んでいなさい。
17
 絶えず祈りなさい。
18
 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 神ヤハウェ(主)に従順であるように、という勧めが7c-8節に次のように記されています。
“あなたがたは今日、主の声を聞きなさい。
8
 「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
愚痴や不平を言わずに、いつも主に在って喜び、祈り、感謝しつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

私も不平不満を言いがちですので、毎回、毎日の様に悔い改めます。
主を信じる前の私は思い込みで、教会関連の方々から嫌がらせを受けていると思い全面的に拒否していました。パウロの様に(働きなどは全く異なりますが)追い詰めている身であったと思います。イエス様を信じる前の私は、とうの昔に神様から罰を受けている身でしたので、イエス様の救いは本当に感謝です!

〝あなたがたは今日、主の声を聞きなさい。「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。〟
過去の過ちをいつまでも握りしめず、赦すこと。先の不安に対して恐れて身動きできないこと。それは、主からかけ離れていることでしたね。その様な思いに駆られる事は多々あります。私には中々神様の似姿の様な行いはできません。なので都度々罪の告白をして矯正していただく感じです。(その矯正を生かしているかな?)
恥ずかしい思いをしたなーとか、惨めな気持ちになったなーとか、傷ついたなー等等ありますが、主を信じて歩む事を選択して、迷った時も導いてくださっている事を信じて、三位一体の神様に常に祈り続けて歩んでゆきたいと改めて強く思いました。ありがとうございました。

体調を崩していたので返信が遅れました。
主を信じた者は、想像を絶するほどに神様から愛されています。
何があっても、どのような道筋を通っても、神様は愛をもって関与してくださっておられます。
ローマ8:28に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・・。」(口語訳)とありますように。
本当に感謝なことです。

お身体大丈夫ですか?
ご無理なさらないでください。

神様に感謝です!

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