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2023年9月28日 (木)

マタイ26:36-46 ゲッセマネで祈られた主イエス様

 マタイ2636-46には次のように記されています。
36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37
 ペトロとゼベダイの子二人〔ヤコブとヨハネ(筆者挿入)〕とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。
38
 そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」
39
 少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」
40
 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。
41
 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
42
 さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」
43
 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
44
 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
45
 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。
46
 立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様が十字架上で世の罪の贖いを成し遂げることは、イエス様といえども簡単なことではなく、それは極めて大変なことであったことが分かる箇所です。
 
 最後の晩餐の後、イエス様は弟子たちとゲツセマネ(油しぼりの意)というところに来ました。この場所はオリーブ山の西麓にあります。
イエス様が祈った場所とされる板状の岩のある所には、現在、万国民の教会が立っています。その隣には、今でもオリーブの園があり、私には何年たった木かは全く分かりませんが、「これは2000年前のオリーブの木です」とガイドさんが説明する木も残っていました。

 イエス様が、すべての時代のすべての人の罪を負って十字架につかれるということは、イエス様にとっても、容易なことではありませんでした。
37.38
節には、“ペトロとゼベダイの子二人〔ヤコブとヨハネ(筆者挿入)〕とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」”と記されています。
弟子たちはこのようなイエス様を見たことがなかったでしょう。しかし、弟子たちは眠ってしまいました(37)。

 イエス様は、父なる神様に、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」とうつ伏せになり祈り続けたのです(39)。しかしその祈りの内容で終わってしまう祈りではなく、「しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」(39)と、父なる神様のみ旨を第一にするという祈りの内容で祈ったのです。

 「杯」には、飲むべきものを入れます。
毒を入れた杯というものもありますが、普通、杯の中には、良いものを入れるでしょう。
ダビデは、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇235.6・新改訳初版~第三版)と主を賛美しました。

 一方、イエス様の「杯」は、飲まねばならない神の裁き、十字架上における神の裁きのことを指していたと思います。
聖書には、「杯」という語を、神の裁きの意で用いている箇所があります。例えば、
イザヤ5117には、「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」(2017)とあり、
エレミヤ2515.16には、「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」(2017)とあります。

 肉が飛び散り、血が流れる、金属等の付いたむちで打たれる痛み、太い釘で十字架に打ち付けられる痛み、吊り下げられ肉が引き裂かれる痛み、脱水の苦しみ、十字架につけられて呼吸困難になる苦しみ等々をイエス様は受けられましたが、それらの肉体的苦しみのみを想像して恐れ苦しみ悶えたのではないと思います。
そのようなことは、殉教者たちの中にも拷問や殺戮の方法は異なっても経験した人たちがいたでしょう。殉教者たちの中には、喜びをもって殉教した人たちもいたという記述が残っています。聖書の中ではステパノの例を見ることが出来ます。
ステパノの殉教のシーンは、
“55
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
59
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒7章・新改訳第二版)というものであり、主を見上げ、喜びの内に天にあげられたことでしょう。

 キリシタン禁令下の日本でも、12歳や13歳の子どもが、喜びをもって十字架につけられ殉教したという記録が残っているようです。
このような場合、ステパノと同じようにイエス様が現れてくださったのかも知れません。
今の時代でも同じようなことがあります。ISIS(アイシス、イスラム国)に処刑された殉教者たちの中にも、肉体の死を迎える前に、イエス様の現れを体験してから殉教した人がいる、という証が残っているそうです。

 しかし、イエス様の場合は全く異なるのです。
イエス様の場合は、罪を犯したことの無いお方が、世の罪を身代わりに負って罰を受けるのですから。
私が信仰を持って間もない頃のこと、私が、旧約時代の罪の為のいけにえのささげ方について記されている本を読んでいた時、私は、とてもつらくなったことがありました。もし罪の為のいけにえに差し出す動物が、かわいがって育て、一緒に暮らしていた羊であったとしたら。・・・。
私は、イエス様に、「自分の罪の身代わりとして、愛しているものを差し出して、罪の罰としての死を受けさせることは、私には辛いことです。まして、イエス様に身代わりになってもらうなんて。・・・私が裁きを受けて死ねばいいのです。」というような祈りをしたことがあります。その時、未信者の方には、また幻聴と思われるかもしれませんが、「あなたは、地獄を知らない。私に任せておきなさい。」というイエス様のおことばを聞いたような気がしたのです。
父なる神様は、最も愛している「ひとり子の御子」を罪の為のいけにえとして差し出したのです。

 イエス様は、私一人の罪の罰を身代わりに負うだけでも大変なことであったと思います。イエス様は、過去現在未来の歴史上のすべての人の罪を身代わりに負って裁かれたのです。
罪を犯したことの無いお方が、あらゆる時代のすべての人の罪を身代わりに負ってその罰を受けるということを想像するだけでも、イエス様の十字架は大変なことであったと思います。

 ルカ2239-44には、
“39
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
40
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
42
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
43
すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
44
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(新改訳第二版)とあります。
43
節には、「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」とあります。
父なる神様が天使を送られて力づけられたのです。
それでも、次の節には、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。

 弟子たちが眠ってしまった理由の一つとして、「悲しみの果てに」(ルカ2245)とルカは記しています。また、マルコ1438には、「心〔原語はプニューマ即ち霊(筆者挿入)〕は燃えていても、肉体は弱いのです。」(新改訳初版~第三版)というイエス様のおことばもあります。

 41節には「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」(聖書協会共同訳)とあります。
この節を岩波訳は「目を覚ましておれ、祈っておれ。試みに陥ってしまわないためだ。霊ははやっても、肉が弱いのだ。」と訳しています。
主イエス様は、弟子たちのことを考えて、そのように言ったのでしょう。

 イスカリオテのユダの先導によって、イエス様を捕縛するために祭司長たちから遣わされた者たちが到着する前に、イエス様は祈り終えていました。イエス様は、彼らが到着した時には、この難局に対してすでに勝利していたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様。
主イエス様の贖いを感謝します。
イエス様の贖いがなければ、私の結末は、永遠の死、すなわち永遠に神ヤハウェ(主)と断絶する、ということであったことを覚えます。
主イエス様は、十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声を上げられました。
御父から断絶されてしまうという罰が最も恐ろしい罰であることを覚えます。それは暗闇であり、また火の池でもあります。
イエス様を信じさせていただけたことのゆえに、罪赦され、義とされ、永遠の命を与えられ、神の子どもとされていますことを感謝します。
その上、天に帰らせて頂いた後には、花婿キリスト様との結婚の儀が備えられていますからありがとうございます。
私たちに良きものをもたらす為、十字架上で罪を引き受け、贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

私も直ぐに誘惑に陥って、眠ってしまうのだろうと想像します。
実際に死を目前とすれば、やはり恐怖です。
私は祈り続けることしかできないのだろうと思いました。
長い時間、殺されるのかどうなのかという恐怖と苦痛に果たして耐えられるのだろうか?精神を安定させる事自体大変なのだろうとも思いました。
今の時代、日々生きている中で様々な事がありますが、恵みは多いのだと思いました。

恵みの時代に生かされている私たちは、もし殉教しそうということになったら、もうすぐイエス様のもとに行けるということが心を占めるようになると良いなと思います。
また、その時には、主が力を与えてくださることでしょう。

そうですね。
イエス様のもとに行けるなんてこの上ない幸せですね!

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