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2023年9月 9日 (土)

申命記29:29 主が啓示された律法は行うもの/律法によって罪を悟った者の中にはキリストによる救いを求める者があり、そしてキリストを信じた者は救われる

 申命記2929には次のように記されています。
“隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。”(2017)とあります。

 この個所を新共同訳と聖書協会共同訳は、28節としており、次の様に訳しています。
聖書協会共同訳は、
“隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものであり、私たちがこの律法のすべての言葉を行うためである。”と訳し、
新共同訳は、“隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。”と訳しています。

 私自身が原文をも参照しながら、自分がわかり易いように訳しなおすと、
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、啓示されていることは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこの律法(原語は「トーラー」)のすべてのことばを行うためである。」となります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民に、神ヤハウェ(主)が啓示した事柄以外を探し求めるのではなく、啓示された律法を行いなさい、という内容です。

 啓示された律法を余すところなく行うことが出来ればよいのですが、残念ながら罪の性質を持って生まれた人間は、律法を一つ残らず行うということは出来ないのです。

 十戒(原語では「十の言葉」)の十番目は、「あなたの隣人の妻を欲してはならない〔貪るなかれ(文語訳)〕。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない〔貪るなかれ(文語訳)〕。」(新共同訳)というものでした。

 パウロは、自分を顧みて次のように言っています。
「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったで しょう。律法が、『むさぼってはならない〔あるいは「悪い欲望を持ってはいけない」(欄外注)〕。』と言わなかったら、私はむさぼり〔あるいは「悪い欲望」(欄外注)〕を知らなかったでしょう。」(ローマ77・新改訳初版~第三版)とあります。

 人間は、幼少のころから、お友達が遊んでいるものを欲しがります。それどころか、そのおもちゃを奪いに行きます。
罪の性質を持って生まれてきているので、人から教えられなくても貪ることを自然に行うことが出来るのです。

 律法は読めばわかります。しかし行えないので、解釈を加えるのです。
イエス様が地上におられた頃、律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエス様から次のように叱責されました。
 マタイ23章には次のように記されています。
16 ものの見えない案内人、あなたがたに災いあれ。あなたがたは、『神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない』と言う。
17
 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を聖別する神殿と、どちらが尊いか。
18
 また、『祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない』と言う。
19
 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を聖別する祭壇と、どちらが尊いか。
20
 だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
21
 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのである。
22
 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
23
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。
24
 ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは呑み込んでいる。
25
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26
 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる。
27
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28
 このようにあなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法とでいっぱいである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、次のように教えられています〔塚本訳で下記します{塚本訳の( )内は役者の挿入です}〕。
19 それでは、律法は何のためにあるか。(わたしは答える。)律法は違反のため(、言いかえれば、罪を知らせてこれを犯させるために、あとから約束に)つけ加えられたものであり、しかも約束された子(なるキリスト)の来られる時まで(のもの)である。(かつ、これは神が直接につけ加えられたものでなく、)天使たちをもって、仲介者(モーセ)の手をもって規定されたに過ぎない。
20 ──
仲介者は一方的のものではない。しかし(約束を与えられた)神はただ一人である。──
21
それでは、律法は神の約束に矛盾するか。以てのほかである。もしも命を与える力をもつ律法が与えられたのであったら、(それこそ)本当に律法によって義たることがあるでもあろう。
22
しかし(律法は命を与えるものでなく、人を罪に閉じこめる力をもつだけである。)聖書はすべての人を(律法によって)罪の下に閉じこめ、イエス・キリストを信ずる信仰によって、信ずる者に約束が与えられるのである。(律法は約束に矛盾しない。むしろこれに導く家庭教師である。)
23
しかし信仰が来る前には、わたし達は(みな)律法の下に閉じこめられ、監督されて、信仰が現れねばならぬ時にまで及んだ。
24
だから(モーセ)律法は(わたし達を)キリストへつれて行く家庭教師となった。信仰によってわたし達を義とするためである。
25
しかし(それは信仰が来るまでのことで、)信仰が来た以上は、わたし達はもはや家庭教師の下にはいない。
26
(なぜか。)あなた達はキリスト・イエスを信ずる信仰によって、みな神の子だからである。
27
すなわちキリストへと洗礼を受け(て彼のものとなっ)たあなた達はみな、キリストを着たからである。”(ガラテヤ3章)と記されています。

 またパウロは次のようにも語りました。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実〔別訳「イエス・キリストへの信仰」(欄外注)〕によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」(ガラテヤ216・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
律法によって、自分で考えるよりもより詳しく、罪とは何なのかを教えてくださり、また、イエス・キリストを信じれば救われるということも教えてくださり、救いにあずからせていただけましたことを感謝します。
また、主イエス様を信じさせていただけたことにより、律法の本質である、神を愛し、隣人を愛する、という生き方を主に在って行うことが出来る恵みを与えられましたことを感謝します。
今日も、主に在って(in the Lord)歩むことが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

惑わされやすい事を改めて実感します。本当に惑わされやすいのです。
あれだけ誓ったのに…と自分を責めたくなる程ですが…主であるイエス様を信じます。
改めて読み学びますと、イエス様に出会う為に導かれ、導かれたからこそ愛を知り、愛を知ったからこそ又導かれ…というループにいる事を知ります。
〝神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民に、神ヤハウェ(主)が啓示した事柄以外を探し求めるのではなく、啓示された律法を行いなさい、という内容です。〟とトミーさんが書いてくださっている所でフラフラとしている感じでいる事も気付かされます。啓示されているのだから、その事のみを行っていたらいいのに、惑わされるのです。これは私の罪である事を教えられます。
もっと主に従順に生きてゆく事をしたいです。
そして、律法の本質である生き方をしてゆける様になりたいと切に願い祈ります。
気づきをありがとうございます。

“イエス様に出会う為に導かれ、導かれたからこそ愛を知り、愛を知ったからこそ又導かれ…というループにいる事を知ります。”→
アーメン。
アーメン。

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