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2023年10月 8日 (日)

詩篇100篇 主は慈しみ深くその真実は代々に至る/主を賛美する生活

 詩篇100篇には次のように記されています。
“感謝の賛歌。
1
全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
2
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3
知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。
4
感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5
主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。”(2017)とあります。

 「ダビデの詩」とは記されていませんが、「牧場の羊」という用語から、ダビデの詩と仮定すると、4節に「主の門に、・・その大庭に」とあるので、これは幕屋(会見の天幕)の門、幕屋の大庭のことでしょう。そのようなわけで、「全地よ」(1)というのは、イスラエルの全地のことを指して言っているのでしょう。
ダビデの時代はまだ神殿は建てられていませんでした。
 ダビデは、イスラエルの民のいるところで、
1 全地よ。ヤハウェ(主)に向かって喜びの声をあげよ。
2
喜びをもってヤハウェ(主)に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3
知れ。ヤハウェ(主)こそ神。彼が私たちを造られた。私たちは私たち自身のものではなく、彼の民、彼の牧場の羊である。
4
感謝しつつ、その門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。彼に感謝し、御名をほめたたえよ。
5
ヤハウェ(主)はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」
と賛美したのでしょう。(私が参考にしているヘブライ語聖書を基にしています)

 このような賛美は、心からヤハウェ(主)を神とすることを喜んでいる人でなければ賛美できる内容ではありません。
未信者の人は、このように賛美することはできないでしょう。
また偶像礼拝者は、このような賛美を嫌うでしょう。
詩篇100篇を「アーメン」「アーメン」と思いつつ読むことの出来る人は幸いです。

 エペソ28-10には次のような聖句が記されています。
8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9
決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。”(口語訳)とあります。

 キリスト者は詩篇100篇が大好きでしょう。
それは、エペソ210に記されていることのゆえなのでしょう。
主に新しく作られた民は、その良い行いとして、まず、霊と真実をもって、主を賛美するように造られているからです{詩編10218(新共同訳・聖書協会共同訳は19節)、エペソ16.12.14}。
良い行いはたくさんありますが、まず主を賛美すること、それに勝る良い行いはないでしょう。

 神様は、モーセに命じて幕屋(会見の天幕)を造らせました。
ソロモンの時代になり、幕屋は神殿にかえられました。
新約時代に入り、神殿(宮)とは、キリスト者のからだであると教えていただきました。
それは、キリスト者の内に主なる神様が住まわれたからです。
1
コリント619.20には次のように記されています。
19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮〔神殿(新共同訳・聖書協会共同訳)〕であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。”(2017)とあります。

 いつでもどこでも、慈しみ深く、恵み深く、真実を尽くしてくださる主を賛美しつつ生活することが出来る恵みが与えられている者、それがキリスト者です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日もあなたを賛美しつつ歩む一日(ひとひ)であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

イエス様を信じる!という信仰を持たせてもらう事で救われている日々に感謝します。
〝未信者の人は、・・読むことの出来る人は幸いです。〟とトミーさんが書かれていた所を読み、信仰を持っているからなのだと改めて思いました。
エペ2:8-10に記されている聖句を読み、「行いによるのではないけれども、良い行いをしてゆく」とは…?と思いました。
自分で考えた行いではなく、神様が伝えてくださっている行いをしていく事?と捉えて良いでしょうか?
聖書を学んで、それを活かしてゆく…。
中々、難しいものです。
〝自分のからだをもって神の栄光を現しなさい〟と記されていて、神様になりきってしまうことのない様にしたいと思いました。
教会に集う時、主を賛美する為に行きます。
そこで知り合う兄弟姉妹の皆さんと仲良くできることは幸いな事です。
人間なので、その中で聞きたくない人の批判•非難があったりするのをみてがっかりしますが、私ができていない所を考えれば、私も神様に向かって良い行いができて少しでも栄光を現す事ができているのかな?と思います。
人を見る事は簡単ですが、自分自身を見るという事は中々難しい事です。救われた事に改めて感謝です!

善い行いをしようとしなくても、無意識のうちにしているようになりますから焦る必要はありません。
マタイ25:37を読んでみてください。

自然と…ですね。
主が変えてくださいますね。
ありがとうございます。

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