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2023年10月30日 (月)

マタイ27:32-44 十字架につけられたイエス様とイエス様の両脇に十字架につけられた強盗達1

 マタイ27.32-44には次のように記されています。
32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人〔ギリシア語原語は「クレーナイオス」(筆者挿入)〕に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
33
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
35
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。
37
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。”(新共同訳)とあります。

 33.34節を2017は次のように記しています。
33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。”と訳しています。

 34節の「苦味」と訳されている語のギリシア語原語は「コレー」で、「鎮痛剤」の意もあります。マルコ1523には「没薬」とあり、マルコ1522.23には次のように記されています。
22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
23
彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。”(2017)とあります。

 イエス様の十字架は、私たち罪人を贖うための十字架です。
それ故、苦味の入ったぶどう酒を飲んで痛みを和らげることなく、痛みのすべてをそのまま受け入れる必要があったのでしょう。
イザヤ5311には“彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。”(新共同訳)と記され、
この個所を2017は“彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。”と記しています。
イザヤ53章は、イエス様の十字架よりも七百年位前に預言として記されたものです。

 もし弱虫の私がイエス・キリストを信じる信仰のゆえに十字架につけられることがあったなら、没薬ではなく、モルヒネが欲しいですね。キリスト者は死ねば天国です。

 35節には“彼ら〔ローマの兵士たち(筆者挿入)〕はイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。”(2017)と記されています。
並行記事であるヨハネ1923.24aには次のように記されています。
23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
24a
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。”(新共同訳)とあります。

 詩篇2218には“彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。”(2017)と預言されていました。この預言はキリストの十字架の千年位前のものでした。

 39.40節には次のように記されています。
39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(新共同訳)と。
主イエス様は、三日目に復活されたのです。
主イエス様のお体こそ神の霊が住んでおられる神殿でした。
新約時代、キリスト者のからだは、神の霊が住んでくださっておられる神殿(宮)です(1コリント316,619)。”

 「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」という者たちもいましたが、もしイエス様が十字架から下りてしまわれたら、贖いが成就せず、この世に救われる者がいなくなってしまうのです。そして、すべての人が、自分の罪のために死に、死後に裁きを受け、行先は火の池に行くことになります(黙示録2011-15)。

 宗教指導者たちや民の指導者たちも、主イエス様が行った善き業を認めていました。
42
節を読むと、指導者たちも、主イエス様が、「他人を救った」と認めています。
使徒ヨハネは、主が行われたさまざまな奇跡をヨハネの福音書の2-11章に7つのしるし(ヨハネ21-11446-5451-961-14616-2191-12111-44)として記しました。その意図は、イエスがキリストであることを明らかにするものでした。主イエス様を信じた人は信仰を強められたのです。一方、イエスがキリストであるというしるしや証しを見、また聞いても信じない人は罪に定められたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様の十字架を自分のものとして信じさせていただけましたことを感謝します。
主イエス様が贖いを成就してくださらなかったならば、私の行き先は火の池でした。
主イエス様の十字架、復活、昇天、高挙のゆえに、私も御父の最大の祝福の内に主イエス様と共にとこしえに生きることができますことを感謝します。
御名に感謝と賛美をささげつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

イエス様が主である事や、聖書を学ぶ事も不思議な事です。信じさせてくださった事は感謝です。
43節は人が思いがちな事で、そして神様は異なるご対応をしてくださる思いですね。
様々な事を通して、この思いに惑わされます。
昨日も学ばせていただいた“痛みを伴わなければ…”に似ている様に思いました。(イエス様の十字架の重さや重要性など比にはならないのですが…)
トミーさんが〝「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」という者たちもいましたが、もしイエス様が十字架から下りてしまわれたら、贖いが成就せず、この世に救われる者がいなくなってしまうのです。・・〟と書かれている所を読み、初めはその言い切ってしまう表現に驚きましたが、学びを進めている中で、「逆」であるとわかりました。私はどこかまだ偽善で、他人事のように捉えているのだと思いました。イエス様の贖いの十字架がなければ、今、私は苦しみの最中におり、自分が十字架にかけられたなら、私はモルヒネどころか、気を失わないと…と思いました。もっと身近にもっとリアルに捉えてゆきたいと思いました。
トミーさんは絵画でよく描かれているアンデレのような感じでイエス様に従っているのだと想像しました。(ちなみに、私は木の影から見ている様なポジションで…まだまだである事を再確認してしまいました…)勝手な想像です。
いつも学ばせていただき、ありがとうございます。

私はいと小さき者ですよ。

まことの信仰生活を長く続けていらっしゃる方はやはり表れてくるのだと思います。

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