« 箴言25:15.16 柔和、忍耐、節制(自制) | トップページ | 申命記31:14-29 モーセとヨシュアへの神のことばとイスラエルに対する預言の概略 »

2023年10月 2日 (月)

マタイ26:47-56 イスカリオテのユダの裏切りとイエス・キリストの捕縛とイエス・キリストを見捨てた弟子たち

 マタイ2647-56には次のように記されています。
47 イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
48
 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
49
 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
50
 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい〔別訳「何のために来たのか」(欄外注)〕と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
 すると、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52
 そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53
 私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54
 しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55
 またその時、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。
56
 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」この時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 47節には“イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。”とあります。

この箇所の並行箇所であるヨハネ183.12を読みますと、役人たちやローマ軍の兵士もイエス様を捕縛するために遣わされていることが分かります。そこには、
「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)や灯や武器を手にしていた。」(ヨハネ183・聖書協会共同訳)とあり、また、
「そこで一隊の兵士とその大隊長〔別訳「千人隊長」(欄外注)〕、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、」(ヨハネ1812・聖書協会共同訳)と記されています。

 48.49節には“イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。”とあります。

 イスカリオテのユダは、銀30枚というお金をもらってイエス様を祭司長たちに売ったのです(マタイ2615)。
ユダは「先生、こんばんは」と言って接吻した、とありますが、「こんばんは」という語のギリシア語原語は「カイロー」で原義は「cheer」です。2017の欄外注には“別訳「喜びがありますように」「お元気ですか」”とあります。

 いかにも偽りの父悪魔(サタン)がユダに内住している感じがします。
ヨハネ1327には“ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。”(聖書協会共同訳)とあり、
ヨハネ844には「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)と、主イエス様が語られた御言葉を思い起こさせられます。

 ユダが、主イエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻したとき、主イエス様はサタンに話しかけたり、命じたりしたのではなく、ユダの心に、「友よ、何のために来たのですか」と語りかけているように思います。
 もしユダが、主イエス様の御言葉で我に返って、主イエス様の御前で悔い改めたら、主イエス様は赦されたのではないかと思います。

 実際はどのようであったのでしょうか。
マタイ273-5には、サタンがユダから離れた後の出来事について次のように記されています。
3 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5
 それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 ヨハネ844の「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉がズーンと心に響きます。
サタンは、イエス様を死に追いやるようにし、弟子のユダも死に追いやったのです。
サタンがイエス様を殺したかったのは、創世記315の神ヤハウェ(主)の宣告の言葉を無効にするためでした。
しかし実際には、創世記315の御言葉の通りになるのです。

 主イエス様を捕縛しに来た時の状況の一部を下記しておきます。
ヨハネ183-6には次のように記されています。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4
イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5
彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。
イエスは彼らに「わたしがそれだ」〔ギリシア語聖書は「エゴー・エイミ」。次節、8節も同じ(欄外注)〕と言われた
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6
イエスが彼らに「わたしがそれだ」〔原語は「エゴー・エイミ」(筆者挿入)〕と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。”(2017)とあります。
「エゴー・エイミ」とは、「わたしはある」(私は存在し続けているものである)という神の御名です。出エジプト314参照。

 50-56aには次のように記されています。
50 イエスは、「友よ、何のために来たのか」(欄外注を使用)と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
 すると、イエスと一緒にいた者の一人〔シモン・ペトロ(ペテロ){ヨハネ1810}〕が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52
 そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53
 私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54
 しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55
 またその時、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。
56
 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」”とあります。

 少し前に主イエス様が、「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」(マタイ2631・聖書協会共同訳)と弟子たちに言われたとき、
ペトロは、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言ったのです。(マタイ2633

 さて、実際はどのようになったのでしょう。
ペトロは、剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落としたのですが、主イエス様は次のように言われました。
「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ2652-54)とあります。

 そして結局弟子たちは、預言通り、イエスを見捨てて逃げてしまったのでした(マタイ2656)。
ゼカリヤ137には“・・・牧者を打て。すると、羊の群れは散らされる。・・・”(聖書協会共同訳)との預言が記されています。
 弟子たちの言葉はマタイ2635に次のようにありました。
“ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。”(聖書協会共同訳)とあります。
 私たち人間は、自分自身がどうなるのかさえも分かっていないことを痛感します。
一方、主なる神様は、全てご存じなのです。
その上で愛し、導き、支え、根気よくお取り扱いくださるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは悪しき者の計画をさえ、良きことの計(はか)らいに用いるお方です。
主イエス様の十字架上の死によって、そしてその血によって、私たちのすべての罪が赦されたことを覚え感謝します。
ただ罪が赦されただけではなく、主イエス様が3日目に復活なさったゆえに、1ペテロ13に“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されているように新生の恵みにあずからせてくださいましたこと(ヨハネ33.5.6)を感謝します。
この個所でも、“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる”(ローマ828・新改訳初版~第三版)ということが真実であること実感させられます。
今の世はどんどん暗くなっておりますが、あなたはそれをも用いられるお方ですから御名を崇め賛美します。
み旨がなりますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

« 箴言25:15.16 柔和、忍耐、節制(自制) | トップページ | 申命記31:14-29 モーセとヨシュアへの神のことばとイスラエルに対する預言の概略 »

マタイによる福音書」カテゴリの記事

日毎の恵み15」カテゴリの記事

コメント

ドラマや物語の基本となるものですね。
聖書が基本となって、作られているのだと思いました。今、私が生きているのも先に決まっていて…と、なんだか不思議な感覚になりながら学ばせていただきました。
49節のユダの挨拶は、嫌味的な感じなのですね。ユダのイメージは絵であったり、分かち合いの中からもらうものが多かったのですが、今日はユダのイメージが変わりました。トミーさんが書かれていた事に全く同感いたします。
神様のご計画が成就するには、それに至る様々なことが為されてゆく。それは全て決まっていることを改めて学びます。主の御心のままに従って歩んでゆけますよう切に願い祈ります。

神様の予知能力に従って預言されていますが、人には自由意思があるので、人が何をどうするかはその人の自由です。
しかし、人の自由意思に基づく言動も予知されているのです。
人間の能力では計り知れないので、驚嘆するしかありません。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 箴言25:15.16 柔和、忍耐、節制(自制) | トップページ | 申命記31:14-29 モーセとヨシュアへの神のことばとイスラエルに対する預言の概略 »

カテゴリー

2024年4月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ