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2023年10月22日 (日)

マタイ27:15-26 罪人の身代わりになったイエス様

 マタイ2715-26には次のように記されています。
15 ところで、祭りの度(たび)に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
16
 時に、バラバ・イエスと言う名うての〔名の知れた(2017)〕囚人がいた。
17
 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」
18
 人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。
19
 ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
20
 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
21
 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
22
 ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
23
 ピラトは、「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
24
 ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。」
25
 民はこぞって答えた。「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。」
26
 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 祭りの度(たび)に、総督は、民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていました(15)。
 総督ピラトは、ユダヤの宗教指導者たちや民の長老たちから、イエス・キリストを死刑にしてほしいという要求を受けていました(マタイ271.2)。
一方、総督ピラトは、妻から、「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」という伝言を受けました(19)。

 ピラトは、ユダヤの宗教指導者たちや民の長老たちの要求がイエスに対する彼らの妬みに基づくものであると(18)推測していました。

 ピラトは、イエス・キリストは無実であると判断し、イエス・キリストを釈放しようと考えました。

そこで総督は、祭りの度(たび)に民衆が希望する囚人を一人釈放するという慣例(15)を利用して、イエス・キリスト(メシア)を釈放しようと民衆に持ちかけました。

 一方、民衆はといえば、①イエス・キリストが地上の王となって、ユダヤをローマから解放してくれるという希望が無くなったこと(マタイ216-11→マタイ2668271.2,11-14)による失望と怒り、及び②祭司長たちや長老たちからの、イエスを死刑にしようという扇動の言葉(20)により、イエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んだのです(22)。

 判決を下さなければならないピラトがおかれている立場について、聖書に記されていない事どもをBible naviから抜粋、要約して引用します。
“ピラトは総督ですから、ローマから担当地域の平和を保つという責任を負わされています。
ですから反乱がおこることがないようにせねばなりませんでした。
歴史資料によれば、ピラトは、ユダヤ人たちの伝統をかたくなに軽視していたので、ユダヤ人たちはすでに、ローマにその苦情を申し立てるとピラトを脅していたのです。
もし、そのような苦情が正式にローマに提出されれば、ピラトは総督の立場を解任される可能性が高かったのです。
ローマ政府には、支配下にあるすべての地域に大勢の軍隊を配置する余裕はありませんでした。
そこで総督の主要な任務の一つは、どんなことをしてでも平和を維持することでした。”
とあります。

 上記のことを踏まえると、ヨハネ1912-16aに記されている記事(特に12.13節)がよくわかります。
ヨハネ1912-16aには、
12 それで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
13
 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
14
 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言うと、
15
 彼らは叫んだ。「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」
ピラトが、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うと、
祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と言った。
16a
 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 16.17節には、
16 時に、バラバ・イエスと言う名うての〔名の知れた(2017)〕囚人がいた。
17
 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」”と記されています。

 またマルコ157には、“暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバと言う男がいた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
「暴動」とありますが、バラバは、ローマ政府に対する反乱に参加していたのです、バラバはローマの敵でしたが、ユダヤにおいては英雄であったことでしょう。

 バラバという語のギリシア語原語を英語のアルファベットに置き換えると、「Barabbas」となります。
「バル」の意味は「子」です。「アッバ」の意味は「父」です。
バラバ・イエスは、「父の子イエス」という意味になります。
イエスのヘブライ語原語は「イェシュア」or「イェホシュア」で、ヤハウェ(主)は救う、救い主、の意になります。
バラバ・イエスは、父の子である救い主、とも捉えることの出来る名前です。
現生における救い主として捉えると、たのもしい名前です。

 21.22節には、
21 ・・、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、
人々は、「バラバを」と言った。
22
 ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、
皆は、「十字架につけろ」と言った。”と記されています。

 バラバは、イェス・キリスト様が身代わりになったことで死から解放されたのでした。
私も同じでした。
まことの神様を創造主とも思わず、主なる神様の主権を嫌い、自己の主権を認める他の宗教に救いを求めたこともある身です。
その様な大それた罪を犯し続けてきたにもかかわらず、主イエス様は、ご自身の贖いのゆえに救ってくださったのです。「私を信じればよいのだよ」と語ってくださって。
私は、その時に、それまで求めても得られなかった平安を得たのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、“みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。”(エペソ14.5・口語訳)と記されていることを、私にとっての最善の時に実行してくださいました。
ありがとうございます。
それは、イエス・キリスト様の十字架と復活に基づき、また私たちの主に対する信仰の故である、信仰もあなたから与えられたものですが、と悟らせていただいておりますことを感謝します。
また、救い主イエス・キリスト様へと導き続けてくださった聖霊様にも感謝します。
「すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです」とローマ1136にあります。
アーメンです。
御名をほめたたえ、感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「心にあるこの安きを」(聖歌560 聖歌総合版584 新聖歌254
“1.心にあるこの安きを 奪うもの地になし 試みにて苦しむとも わが安き動かじ
(折り返し) * わがものなる主を宿す その喜び言い難し 主 のたまえり「われなどてなれを捨てて去るべき」
2.この安きを受けしときに 雨雲は晴れたり 悩みあらず涙もなく 歌声のあるのみ
  *
3.この安きを持てる土の器なるわが身も やがてイェスに会わば変わらん 栄ある姿と *”

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コメント

主イエス様の十字架に感謝します。
今日、初めて読んだのですが、私が思い込みなのですが、ピラトが指揮して指示してイエス様を十字架に付けたのだと思い込んでおりました。(重ねて思い込みと使ってしまう程、思い込みは恐ろしいです)平行記事なども併せなければ、本質が見えてこないですね。
やはりこの世はサタンの支配下で、その支配下の中で、どれだけ主に従った歩みをしてゆくことができるのかと思いました。
人が持つ嫉妬心など、とても恐ろしいと思います。集団というものの恐ろしさも感じました。
19節のピラトの妻の言葉を読み、男と女にはそれぞれの役割があるのだと思いました。
主に頼りながら歩んでゆけますよう祈り求めます。

アーメン
アーメン。

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