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2023年11月11日 (土)

マタイ27:48-56 御父と直接交わりを持つことができるようにしてくださった主イエス様

 マタイ2748-56には次のように記されています。
48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51
 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
52
 墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53
 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。
54
 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
55
 またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。
56
 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 48-50節の箇所を補うためにヨハネ1930-37を下記します。
30 イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
31
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32
 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
33
 イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。
34
 しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
35
 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36
 これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37
 また、聖書の別の箇所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」〔ゼカリヤ1210参照{キリストの地上再臨に関連する預言}(筆者挿入)〕とも書いてある。(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1931には“その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。”と記されています。

 「その日は準備の日で」とあります。
何の準備の日であったのでしょうか。
イエス様が十字架上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時でした。日没とともに土曜日の安息日が始まるのがユダヤの暦です。その上、この安息日は一年の中でも特別の日で過越しの祭りの第一日目であったのです。 

またユダヤ人たちが安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすようにと、ピラトに願い出た理由は、申命記2122.23の聖句が根拠なのかもしれません。次のように記されています。
22 ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。
23
 あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。”(聖書協会共同訳)と記されているからです。

 ヨハネ1932.33には“そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。”と記されています。

また、ヨハネ1936には、「これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。」と記されています。
これは、詩篇3421(新改訳は20節)に記されている「彼の骨をすべて守り、その一本も砕かれることはない。」(聖書協会共同訳)という預言の成就であったのですよ、とヨハネは語っているのでしょう。

ローマの兵士は、イエス様が死んでいるのを見届けた(33)にもかかわらず、兵士のうちのひとりがイエス様のわき腹を槍で突き刺した(34)のです。すると、ただちに血と水が出て来た(34)のです。

「血と水が流れ出た」(34)ということについて考えてみます。
イエス様の血は、罪を贖う血です。イエス様の血によって罪は赦され、聖くされるのです。
「水」にはいくつかの解釈がありますが、私は、ここでは「生ける水」と捉えたいと思います。
イエス様はかつて祭りの終わりの大事な日に“「37 渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章・聖書協会共同訳)と言われました。
また、その御言葉についてヨハネは次のように解説しました。
「イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。” (ヨハネ739・聖書協会共同訳)と記されています。

 神の霊から霊の新生を受けた人がキリスト者です(ヨハネ33.6)。キリスト者はキリストの霊を持っています(ローマ89)。

神様は、アダムを創造し、アダムのあばら骨からエバを造り(創世記27)、アダムの妻としました(創世記222-24)。
神様は、イエス様の脇腹から流れ出た血と水によって、新創造された(2コリント517)キリストの妻である教会を生み出しました(エペソ532)。

人は、自分の行いによって義を得るのではなく、キリストの血によって、罪を赦され、聖とされ、義とされるのです。キリストの血はすでに流されましたが、その血を自分に適用する為には信仰が必要です。自分の行いに重きを置いた時には、キリストの血を脇に退けているのです。キリストの血の他に救いはありません。キリストの血だけが救いの根拠です。キリストの血に目を留めることを忘れ、自分の行いに目を留める人は洗礼を受けたといっても救いの確信が揺らぎます。

 マタイ2750.51には“50 ・・、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、”(聖書協会共同訳)と記されています。

「神殿の垂れ幕」といってもイスラエル人でない者、或いは旧約聖書を読んだことのない者にとっては、何のことか分かりませんので、わかり易く書いてあるヘブライ(ヘブル)91-7を次に転記します。
1 ところで、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
2
 すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台、台、供えのパンがありました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。
3
 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。
4
 そこには、香をたく金の祭壇と全面を金で覆われた契約の箱があり、その中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板がありました。
5
 また、箱の上では、栄光のケルビムが贖いの座を覆っていました。これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。
6
 以上のものがこのように整えられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。
7
 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。(聖書協会共同訳)とあります。

キリストの贖いが成就した時、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです(マタイ2751)。そして、イエス様を信じる者は、イエス様の血によってはばかることなく、神の臨在の場所へと入ることが出来るようになったのです。

ヘブライ(ヘブル)人への手紙91-7に続いて、98-15には次のように記されています。
8 これによって聖霊は、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ明らかにされていないことを示しておられます。
9
 この幕屋とは、今〔ヘブライ人への手紙が書かれた当時(筆者挿入)〕という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえが献げられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
10
 それらは、ただ食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
11
 しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました。人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、もっと 大きく、もっと完全な幕屋を通り、
12
 雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13
 雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、
14
 まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。
15
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様の血は、レビ記に記されているいけにえの血による贖いの本体であったのです。旧約時代のいけにえは主イエス様を指し示す予型でありました(コロサイ216.17)。

 

また、ヘブライ(ヘブル)415.16には、「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。16 それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様が贖いを成し遂げられた結果、誰でもイエス様の血の故に、大胆に恵みの御座の前に出ることが出来るようになったことを、上から下まで割かれた神殿の垂れ幕を見ることによっても納得させられるのです。

話しを元に戻しますが、マタイ2754には“百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様が十字架上で過越しの子羊、即ち予型ではなく実体である神の子羊として贖いを成し遂げられた後は、ユダヤの過越しの祭りは必要がなくなったのです。しかし、霊の目が開かれない人達は旧約聖書に示された祭りを続けていきました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、御子なる主イエス様の御父と直接交わることができるようにしてくださいました。
これは本当に驚嘆すべきことです。
ヤハウェ(主)はかつてモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33202017)と言われたことを思い出します。
私たちも直接御父を見たわけではありませんが、御父に親しく祈りを献げ、交わりを持たせていただくことができるのですから大感謝です。
あなたは、私たちが、あなたを賛美し、あなたに祈り、あなたの御言葉を心に留め、あなたを愛してあなたにお従いすることを喜ばれます。
日々、あなたに喜ばれる歩みをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

〝人は、自分の行いによって義を・・洗礼を受けたといっても救いの確信が揺らぎます。〟と、トミーさんが分かり易く書いてくださっている箇所を読み、自分の行いによると思って生活している訳ではありませんが、身に付いている生活の中で滲み出てしまっていると思いました。「ハッ」とする事が多々ありますので…。少しずつなのでしょうけれども。
儀式など、目に見えるものを信じるのではなく目に見えないものを、より信じて歩んでゆきたいと思いました。(ありのままの醜い私をも神様は知っておられ、そんな私をも愛してくださることをも信じて)

神様は何でも知っておられ、その上で愛してくださり、導いてくださいますから感謝です。
ハレルヤ

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