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2023年11月12日 (日)

申命記33:18.19 主イエス様が宣教を開始された地方

 申命記3318.19には次のように記されています。
18 ゼブルンについて彼は言った。
「ゼブルンよ、進み出て喜べ。イッサカルよ、天幕の中で喜べ。
19
 彼らはもろもろの民を山に呼び寄せ、そこで義のいけにえを献げる。彼らは海の豊かさ、砂に隠された宝を手に入れる。」”(聖書協会共同訳)とあります。(聖書協会共同訳)とあります。

 18.19節は、ゼブルンとイッサカルについての祝福の預言です。
この箇所を、イエス様の初臨に関連付けて考えてみたいと思います。

イザヤ91-7には次のような預言が記されています。(新共同訳、聖書協会共同訳は823-96になります)
1 しかし、苦しみのあった所に、闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、辱(はずかし)めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民ガリラヤは栄誉を受ける。
2
闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
3
あなた〔イスラエル(リビングバイブル)〕はその国民をふやし、その喜びをまし加えられる。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4
あなた〔神(リビングバイブル)〕が彼が負うくびきと、肩の杖〔肩を打つ杖(筆者挿入)〕、彼を追い立てる者のむちを、ミデヤンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5
まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食(えじき)となる。
6
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。2017)とあります。

イエス様の初臨時代のガリラヤ地方は、モーセがヤハウェ(主)から示された12部族への土地の分割を基にすると、ゼブルンの大部分+イッサカルの一部+ナフタリの一部になると思います。

イザヤ91に、「しかし、苦しみのあった所に、闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、辱(はずかし)めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民ガリラヤは栄誉を受ける。」と預言されていましたが、イエス様が住んでおられたナザレは、ゼブルンの地にあったのです。「苦しみのあった所」とありますが、ゼブルンの地は、旧約時代のイスラエルの南北分裂後は、北イスラエル王国に属していましたから、アッシリアに攻撃されたとき、アッシリアに敗北したのです(これは背教に対するヤハウェの裁きでした)。

 キリスト者なら、そのほとんどの人が知っているようにイザヤ96.7はイエス様についての預言であると知っていることでしょう。そして、イザヤ91のゼブルンの地にイエス様が過ごされたナザレがあり、イエス様が活動の中心とされたガリラヤは、ゼブルンの大部分+イッサカルの一部+ナフタリの一部を含んでいたのです。イエス様が弟子たちとして召し出した人たちの多くもガリラヤ地方の人たちでした。イスカリオテのユダは、カリオテの人ユダという意味で、カリオテはユダヤ地方でした。

 申命記3318の「天幕」と出エジプト3614の「幕屋の上にかける天幕」の「天幕」の原語は同じ語です。「天幕にいて楽しみを得る」というのは、主の臨在にあって楽しみを得る、とも解釈できるのではないかと思います。

新約的に言うと、イエス様が共におられることによって楽しみを得られるということです。イエス様との交わりがあれば外にいても内にいてもいつも楽しみを得られます。
申命記3318の「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。」(口語訳)の預言に一致します。

 続く19節には、「彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼らは海の富を吸い、砂に隠れた宝を取るからである。」(口語訳)とあり、
この箇所を新改訳2017は、「彼らはもろもろの民を山に招き、そこで義のいけにえを献げる。彼らが海の富と、砂に隠されている宝で育まれるからである。」と訳し、
新共同訳は、「彼らは諸国の民〔或いは「他の部族」(新共同訳スタディ版)〕を山に招き、そこで正しいいけにえをささげる。彼らは海の富、砂に隠れた宝を手に入れる。」と訳しています。

 敢えて、この聖句を基に、時間軸を超越して考えてみたいと思います。今、私が考えたことなので、読まれる方は、ご自分で取捨選択してください。
 イエス様の福音は、初めユダヤ人に、それから一部の異邦人にも及びました。そして、イエス様のご復活後、弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒18・新共同訳)と語られました。

申命記3319には、「彼らは諸国の民〔或いは「他の部族」(新共同訳スタディ版)〕を山に招き、そこで正しいいけにえをささげる。」(新共同訳)とあります。
 弟子たちが宣教を開始する頃、イスラエルの地にはユダヤ人が多かったのですが、ユダヤ人だけではなく、アッシリアやバビロンに捕囚されなかった人たちの子孫もいました。
北イスラエル王国がアッシリアとの戦いで敗れた(B.C.722年)後、アッシリアが、サマリヤに連れて来た異邦人たち(2列王記1724)と北イスラエルの民との間には雑婚が起こりました。新約聖書にはサマリヤ人として記されています(一例としてヨハネ4章)。
 弟子たちが伝道を開始し、ユダヤ人たちの救いの後、異邦人コルネリオとその家族等が救われていきました(使徒10章)。
 その後、主イエス様は、ユダヤ名でサウロ、ギリシア名でパウロという人を直接救いへと導き、パウロを用いて多くの異邦人即ち諸国の民を救っていかれたのです。
そして時は下り、その救いは私たち日本人にももたらされました。
 まさに、初めはイスラエルの諸部族を「山」(申命記3319)即ち聖地、聖所に招き、さらに、イエスを通して父なる神へと導き、さらに異邦の民(諸国の民)へと福音がもたらされました。
そしてイエス様を受け入れた人たちは、主なる神様を礼拝させていただけるようになったのです。

 また、「彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。」とありますが、唯一の「正しい犠牲」とは、十字架上で屠られたイエス・キリスト様でした。イエス様の血が流されることなしに、罪の赦しも、きよめも無かったのです。旧約時代のいけにえの動物は、イエス様を表す予型であったのです。まことの救いを求めた人は、カルバリ山の十字架へと導かれたのです。そして、御霊によって、イエス・キリスト様が流された血潮こそ、私の罪のために流された尊い血潮であると悟らせて頂けたのです。

 19節後半には、「彼らは海〔ガリラヤ湖(筆者挿入)〕の豊かさ、砂に隠れた宝を手に入れる。」(聖書協会共同訳)とあります。

「彼ら」は、セブルンとイッサカルですが、これは後のガリラヤの地を構成する土地の要素であり、その地から、イエス様が登場したのです。そして使徒とされた人たちの大部分もガリラヤの出身でした。そして主イエス様によって育(はぐく)まれた人たちは、宣教へと出て行ったのです。
申命記3319後半には、「彼らが海の富と、砂に隠されている宝で育まれるからである。」と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主はガリラヤ湖(海)の漁師に「あみを捨て置きて我に従え」と言われました。
そのようにして主の宣教が開始され、イスラエルから見たら地の果てにいる私の所へも主の救いがもたらされました。
そして、私も、主を信じさせていただけました。ありがとうございます。
今日もあなたにお従いして歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主はガリラヤ湖の」(聖歌580 聖歌総合版616 新聖歌395
“1.主は ガリラヤ湖の漁師に告げぬ 「網を捨て置きて我に従え」 また主は 疲れし世人に告げぬ 「罪を振り捨てて我に従え」
2.険しきみやま(深山)の谷間に呼べる 羊飼いの声 友よ聞かずや 「我が羊よ何故 かくさまよえる なが守りてなる我に従え」
3.「罪の世にありて 罪に汚れず 憂いを慰め 疲れをいやし ながそばにありて常にか(勝)たしむ 命の君なる我に従え
4.我が跡を踏みて 右や左に 迷い行くなかれ 道狭くとも 十字架を担い 天(あめ)をのぞみて 常世の朝まで 我に従え」”
<応答>(聖歌571 聖歌総合版617 新聖歌396の折り返し部分)
「いずくまでも行かん いずくまでも行かん いずくまでも行かん 愛する主の後を」
・・・・すべて恵みです・・・・

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コメント

中々証人となるような感じにはなれず歯がゆさが募ります。導いていただけますよう祈り求めます。

自力で証人になることはできません。
証人のための主の霊が必要です。
主イエス様は、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8・2017)と言われたのです。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき」ですから、それが大切です。

そうでした。何をいつまでも間違えた捉え方をしているのでしょうか…。教えてくださりありがとうございます。

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