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2024年3月

2024年3月31日 (日)

フィリピ1:9-11 アガペーの歩みをさせて頂けますように

 フィリピ19-11には次のように記されています。
9 私は、こう祈ります。
あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察〔識別力(2017)〕を身に着けて、ますます豊かになり、10 本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となり、11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができ〔神の栄光と誉れが表され(2017)〕ますように。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
9 私は祈っています。
どうか、あなたがたの愛が、もっともっと満ちあふれますように。同時に、霊的な知識と洞察力も、さらに深められますように。
10
それは、あなたがたに、善悪をはっきり見分ける力が備わり、主が来られる日まで、だれからも非難されることなく、心がきよく保たれるよう願うからです。
11
どうか、神の子供にふさわしく、親切な良い行ないができますように。
それは、大いに主をほめたたえ、主の栄光を現わすことになるのです。”とあります。

 9
節の「愛」と訳されている語のギリシア語原語は、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味を持つ「アガペー」です。

 アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べてしましました。それによって罪が入り、善悪の識別力は、罪の性質が入った状態の識別力となってしましました。
ですから、この世に人が「善」ということを、主なる神様は「悪」という場合が多々あります。

 イザヤ520.21には次のような聖句があります。
20 わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。21 わざわいだ。自分を知恵のある者と見なし、自分を悟りのある者と思い込む者たち。”(2017)と記されています。

9
節で言われている霊的な知識、識別力、洞察力は、生まれながらの肉によって得られるものではなく、聖霊によって得られる霊的な知識、識別力、洞察力です。
私たちは御言葉と真理の御霊とも言われる聖霊によって善悪を教えられる必要があると教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロのとりなしの祈りを自分自身にあてはめて祈ります。
アガペーの愛を豊かにしてください。
アガペーは、主なる神様から出てきます。
アガペーは寛容であり、アガペーは親切です。また人を妬みません。アガペーは自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、いら立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます、と1コリント134-7に記されています。
あなたのそのようなアガペーの御本質が、私を通しても表されていきますように。
また、アガペーは、聖霊によって与えられる知識と識別力によって豊かにされますから、日々聖霊に満たされて歩ませていただけますように。
日々聖霊に満たされて歩ませていただく中で、御霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、誠実という神様の御本質に豊かに預かる者としてお整え下さいますように。
黙示録2211に、聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい(新改訳初版~第三版)、と記されているように主がお整え下さいますように。
そして、12節に記されているように、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、私たちを通しても、神の栄光と誉れが現されますように、と願います。
この祈りを私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月30日 (土)

箴言28:11 人の心の高慢は破滅に先立ち、主は主なる神様に対する謙遜を喜ばれる

 箴言2811を、
リビングバイブルは“貧しくても知恵のある人は、金持ちだとうぬぼれている人が、ほんとうは貧しいことを見抜きます。”と訳し、
新改訳2017は“富む者には自分が知恵のある者に見える。しかし、分別のある貧しい者は、彼を調べる。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“富める者は自分を知恵ある者と思い込むが、貧しくても分別ある人はそれを見破る。”と訳し、
新共同訳は“金持ちは自分を賢いと思い込む。弱くても分別ある人は彼を見抜く。”と訳しています。

 「富む者」(新改訳)、「富める者」(聖書協会共同訳)、「金持ち」(新共同訳、リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーシール」でrich (man)、noble(man)の意があります。

 「知恵のある」(新改訳)、「知恵ある」(聖書協会共同訳)、「賢い」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーカム」で、賢い、賢明な、知恵のある、等の意があります。

 「人」(リビングバイブル)、「者」(新改訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「イーシュ」で男、人の意があります。
「イーシュ」については、創世記223の“人〔ヘブライ語原語は「アーダーム」(筆者挿入)〕は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」”(新共同訳)と記されている個所を思い浮かべます。

 「思い込む」(新改訳初版~第三版、新共同訳、聖書協会共同訳)、「見える」(2017)、「うぬぼれている」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アイン」で、目、視力、注視、自負心、うぬぼれ、独断、私見、・・等の意があります。

 「知恵のある」(リビングバイブル)、「分別のある」(新改訳)、「分別ある」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ビーン」で、分ける、区別する、分離した、識別する、理解する、把握する、・・等の意があります。

 「調べる」(新改訳)、「見抜く」(新共同訳、リビングバイブル)、「見破る」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーカル」で、見通す、見抜く、洞察する、見つけ出す、吟味する、・・等の意があります。

 「彼を」(2017、新共同訳)、「自分を」(新改訳初版~第三版)、「それを」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は、ギリシア語聖書のTR版によると、接尾辞の「ヌ」となっていて、「ヌ」は、一人称複数形を表します。

 「貧しい」(新改訳、リビングバイブル、聖書協会共同訳)、「弱い」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ダル」で、ぶら下がる、弱い、虚弱な、薄い、細い、・・等の意があります。

 ギリシア語聖書のTR版を基にすると、
この聖句の前半部分は、「金持ちの人、あるいは身分の高い人は、自分を賢い人と見ています、あるいはうぬぼれています。」と訳せると思います。

 後半部分は、「しかし、〔キリストに(筆者挿入)〕ぶら下がる者、あるいは弱い者、あるいは貧しい者〔霊の貧しい者{マタイ53}(筆者挿入)〕は、自分を調べます、あるいは自分を〔主に在って、自分の思いや感情がどのような状態であるのかを(筆者挿入)〕見つけ出します。という意に解釈できるのではないかと思います。

 箴言1812には“人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。”(2017)と記されています。

 ルカ189-14には次のような主イエス様のたとえ話が載っています。
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10
 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11
 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、 この徴税人のような者でないことを感謝します。
12
 私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13
 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』
14
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 
 マタイ53には“心の貧しい者〔直訳「霊において貧しい者」(欄外注)〕は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。”(2017)と記されています。
KJV
訳は“Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.”と訳しています。

 霊において貧しい者は、主に、「主よ、私の霊の中に満ち満ちてください」とお願いするでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも主なる神様の前にへりくだり、主を崇め、主を敬い、主のみ旨にかなうことを主に求め、主に教えていただきつつ、主に導かれて歩ませていただく者であらせてください。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月29日 (金)

詩篇107:4-9 主は私を苦しみと滅びから救われました

 詩篇1074-9には次のように記されています。
4 彼らは荒れ野をさまよい、不毛の地で人の住む町に至る道を見いだせず、5 飢え、また渇き、命は衰え果てようとしていた。
6
 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから助け出した。
7
 主は彼らをまっすぐな道に進ませ、人の住む町に向かわせた。
8
 主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業のゆえに。
9
 まことに主は渇いた魂を潤し、飢えた魂を良いもので満たしてくださった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4.5節を2017は“彼らは荒野や荒れ地をさまよい、人が住む町への道を見出せなかった。飢えと渇きによって、彼らのたましいは衰え果てた。”と訳しています。

 リビングバイブルは“住む家もない人々は、荒野をあてどなくさまよい、空腹をかかえ、のどはからからに渇き、体力も衰え果てました。”と訳しています。

 実際にイスラエルの人々の中には、このようなことを体験した人たちもいたのでしょう。

 苦しみにあった人たちは、神ヤハウェ(主)に叫び祈りました。
神ヤハウェ(主)は、その祈りに応えてくださったのです。
 6.7節を2017は、“この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。彼らをまっすぐな道に導き、人が住む町へ向かわせた。”と記されています。

 詩聖は、主が良くしてくださったことについて主に感謝するように勧めています。
8
節には“主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。”(2017)と記されています。
 
 余談になりますが、
イスラエル王国(北イスラエルの10部族)の人たちは、アッシリアに捕囚された後、やがて東の方へと安住の地を求めて旅をしたそうです。シルクロードを通って行った人たちもいました。その中には、砂漠で多くの人が死んだ例もあったそうです。現代のイスラエルでは、これらのことを調査でつかんでいるようです。
やがて、エゼキエル3715-28の預言が成就するのです。
 エゼキエル3715-28には次のように記されています。
15 主の言葉が私に臨んだ。
16
 「人の子よ〔ここではエゼキエルのこと(筆者挿入)〕、あなたは一本の木を取り、その上に、『ユダとその友イスラエルの子らのために』と書き記しなさい。またもう一本の木を取って、その上に、『エフライムの木であるヨセフとその友であるイスラエルの家すべてのために』と書き記しなさい。
17
 それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。
18
 同胞があなたに向かって、『これらはどういう意味なのか、我々に告げてくれないか』と言うとき、19 彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はエフライムの手の中にあるヨセフの木とその友イスラエルの諸部族を取り、これらをユダの木に合わせて、一本の木とする。これらは私の手の中で一つとなる。
20
 あなたの書き記した木が彼らの目の前であなたの手の中にあるとき、21 彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はイスラエルの子らを、行った先の諸国民の間から取り戻し、周囲の国々から集め、彼らの土地に導き入れる。
22
 私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王〔再臨のキリストで、キリストの千年王国の王(筆者挿入)〕が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と 二つの王国に分かれることはない。
23
 彼らは二度と偶像や憎むべきものや、もろもろの背きによって汚されることはない。私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる〔ここの「彼ら」の中には大患難時代を過越した一部の日本人もいるのではないかと想像します(筆者挿入)〕。
24
 わが僕ダビデ〔主キリスト(筆者挿入)〕が彼らの王となり、彼らすべての者のために、一人の牧者となる。彼らはわが法に従って歩み、わが掟を守り、これを行う。
25
 彼らは、私がわが僕ヤコブに与えた地、すなわちあなたがたの先祖が住んでいた地に住む。彼らもその子らも、その子孫もとこしえにそこに住み、わが僕ダビデ〔主キリスト(筆者挿入)〕が永遠に彼らの指導者となる。
26
 私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。私は彼らを祝福し、増やす。私はわが聖所をとこしえに彼らのただ中に置く。
27
 わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
28
 こうして、わが聖所がとこしえに彼らの中にあるとき、諸国民は私がイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ユダヤ人たちも世界の各地から今のイスラエルの地に集められてきましたが、やがてはイスラエルの10部族の人たち{もとよりユダの人たちとイスラエルの地に住んでいた人たちもいました(2歴代誌30章)}もキリストの千年王国の時代にはイスラエルの地に住むのです(関連預言個所:エゼキエル40-48章参照)。

 話しは変わりますが、
私たちキリスト者の中にも、主キリスト・イエス様の御救いにあずかる前は、自分の心の中に、渇き、苦しみ、飢え、さまよい、・・・というようなことがあったことを思い出す人たちもいることと思います。

 詩篇1079.8節には、
9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。8 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私の場合、究極的には、滅びの不安というものがありましたが、主が「わたしを信じればよいのだよ。」と教えてくださったことにより、主の御救いにあずかることができました。
ありがとうございました。
主を信じさせていただいたことによって、滅びではなく、永遠の命を与えられ、平安を与えられ、御言葉の豊かさとあなたの愛に包まれて生活させていただけますこと、また将来についての預言の成就に心を躍らせつつ歩めるようにしてくださいましたことを感謝します。
私の外なる人はボロボロですけれど、それも感謝できるようにしてくださっておられますからありがとうございます。
やがては、朽ちない、美しい、堅牢な、霊の体を与えていただけますからありがとうございます。
今現在も、三一の主なる神様と共に歩ませていただける恵みを与えられていますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月28日 (木)

黙示録21:8 新生したキリスト者は火と硫黄の燃える池に入れられません(キリストが身代わりに罰を受けてくださったからです)

 黙示録218には、 “しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 リビングバイブルはこの個所を次の様に意訳しています。
“しかし、わたしに従うのをやめるような臆病者、不忠実な者、堕落した者、人殺し、不道徳な者、魔術を行なう者、偶像礼拝者、うそをつく者――このような者たちの行き着く先は、火と硫黄が燃えさかる池です。これが第二の死なのです。”と記しています。

 キリスト者はまじめな方が多いと思います。
そこで、中には、このような聖句を見ると不安を覚えてしまう人もいるようです。
新生したキリスト者に用意されているのは、第二の死ではなく、永遠の命です。新生したキリスト者の場合、霊においてはすでにそれを得ているのです。
1
コリント617には、“主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。”(聖書協会共同訳)と記され、使徒ヨハネは、主キリストを「永遠の命」であると語り(1ヨハネ12)、キリスト者は永遠の命を持っていると語っています(1ヨハネ511.13.20)。

 新生したキリスト者は、キリストの空中再臨の時(キリストの現われの時)に霊の体を戴きます。
 1テサロニケ413-18は次のように記されています。
13 きょうだいたち、眠りに就いた人たち〔{この世の人が言うところの}「死んだ人たち」(筆者挿入)〕については、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14
 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出して〔連れて来て(リビングバイブル)〕くださいます。〔キリストの空中再臨の時に(筆者挿入)〕
15
 主の言葉によって言います。主が来られる時〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たち〔キリストの空中再臨の時以前に霊と魂が天に引き上げられた人たち(筆者挿入)〕より先になることは、決してありません。
16
 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し〔霊の体に復活し{1コリント1544}(筆者挿入)〕、17 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
18
 ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 霊の体に復活すると記されている1コリント15章の関連個所を下記します。
35 しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。/
42
 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し44 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します/
47
 最初の人〔アダム(筆者挿入)〕は地に属し、土からできた者ですが、第二の人〔キリスト(筆者挿入)〕は天に属する方です。
48
 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。
〔「人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリストのものとなった人はみな、キリストと同じ、天から与えられる体を持つようになるのです。」(リビングバイブル)/ローマ829、コロサイ341ヨハネ32参照(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)と記されています。

 新生したキリスト者たちは、霊の体を戴いた後に、キリストの裁きの座で報酬の裁定を受け(2コリント510)、その後、霊の体を戴いたキリスト者の総体であるエクレシア(教会)すなわちキリストの花嫁は、キリストの地上再臨の前に天において花婿キリストとの結婚式に臨むのです。その時に着ているキリスト者のドレスは輝く清い上質の亜麻布でできたものであり、それは義なる行いを表しているのです。すなわち罪を犯さない体に変えられているのです。

 黙示録195-8には次のように記されています。
5 また、玉座から声がして、こう言った。
「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ。」
6
 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。7 私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、8 輝く清い上質の亜麻布を身にまとったこの上質の亜麻布とは、聖なる者たちの正しい行いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 花嫁は、天にあるエルサレム、新天新地における新エルサレムの住人です。
主イエス様は、十字架にかかられる前に、「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ141-3・聖書協会共同訳)と語られたのです。

 話が少し長くなりましたが、新生したキリスト者は、今日の聖書個所にある「火と硫黄の燃える池」に入れられることはないのです。
キリスト者は、すでに自分の罪を認めて、その罪を主に申し上げ、主の十字架のゆえに罪赦され{エフェソ(エペソ)17}、きよくされた者であり{ヘブライ(へブル)1010}、キリストの御復活のゆえに新生させられたものなのです(ヨハネ33.61ペトロ13.23)から。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
もしも主イエス様を信じることがなかったならば、私も火と硫黄の池に投げ込まれた者です。
主イエス様を信じることを得させてくださりありがとうございました。
三一の主なる神様をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”(1テモテ242017
まだ主イエス・キリスト様を信じていない人は、是非、主イエス・キリスト様を信じて、永遠の命を得てください。
お願いします。
ヨハネ316には“実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界〔「この世界」の個所の所に自分の名前を入れて読んでください(筆者挿入)〕を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。”(リビングバイブル)と記されています。
神の御子キリスト・イエスを信じる者は、永遠の命を与えられるのです。
それは、主イエス・キリスト様が十字架にかかり死んで葬られ、三日目に復活されたからです。
主イエス様が、十字架にかかられたのは、私たちの罪(創造主であるまことの神のみ旨に従わなかったことども)の罰を身代わりに受けるためでした。
イエス様が為してくださったことを感謝して受け取る者は永遠の命を得るのです。

2024年3月27日 (水)

フィリピ1:7.8 福音宣教にあずかる恵み

 フィリピ17.8には次のように記されています。
7 私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、獄中にいるときも、福音を弁明し立証しているときも、あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。
8
 私が、キリスト・イエスの深い憐れみの心で、あなたがた一同をどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所までの所で、フィリピの教会員が、福音宣教のためにパウロを支援してきたことがわかります。
5
節には、“あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることに、ともに携わってきたことを感謝しています。”(2017)とありますから。

 福音宣教の支援者は、福音宣教の恵みに共にあずかるものなのです。
7
節に、“あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めている”と記されています。

 7節には“私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。”とありますが、「このように」とは、何を指しているのでしょうか。

 7節の前の6節には、“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。”(2017)と記されています。
この個所をリビングバイブル旧版は、“あなたがたの内面に良い働きを始めた神様は、引き続き、必ずそれを恵みのうちに成長させ、やがてキリスト・イエスが帰って来られる日に、ついに完成してくださると、私は堅く信じています。”と意訳しています。

 6節のように言ってもらえる人は、新生している人です。
知識としてのみの福音理解ではなく、主キリスト・イエス様を自分の救い主、自分の主、自分の神、として受け入れた人です。
その人は、神の霊から霊の誕生をしたのです(ヨハネ36)。

 主イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ332017)と言われましたが、新生した人は、新しく生まれた人なので、神の国に入ることができるのです。
主を信じた者を新生させることは、フィリピ16の聖句を用いると「神様があなたがたの内面に良い働き〔「業(わざ)」(新共同訳)〕を始めた」(リビングバイブル)ということになります。

 フィリピ教会の教会員がパウロの宣教の経済的支援をしているということは、新生している証拠でもあります。
パウロは、福音宣教のために投獄されている時代でもあったからです。
経済的支援をしている兄姉たちが支援をするにあたって祈っていないということはないでしょう。
フィリピ教会の聖徒たちは、祈りと共に経済的な支援をしたのです。

 フィリピ414-18bには次のように記されています。
14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
5
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
18b
わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。”(新共同訳)とあります。

 パウロは宣教活動へのこのような心遣いは神へのささげものである、と述べています。
18
節全文には、“わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ〔ささげもの2017)〕です。”(新共同訳)と記されています。

 パウロは、福音宣教のサポートをしているフィリピの教会員たちに、フィリピ414-18の聖句をもとにして、続く19節の聖句を記しました。
“わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。”(新共同訳)と。
上記の14-19節を読むと、マタイ633の“まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの〔地上生活における必要なもの(筆者挿入)〕はすべて、それに加えて与えられます。”(2017)という主イエス様の御言葉を思い起こします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主なる神様を愛して福音宣教のために労する者であらせてください。
今の時代は、福音宣教の難しい時代になってきましたが、まだ携挙が起こらないところを見ると、御父が御子に与えられた羊の中にまだ救われていない羊がいることを覚えます。
福音を伝えるべき人へと主が導いてくださり、主に在って福音を伝えていくことができますように。
また、あなたに召されて福音宣教者として励んでいる働き人たちの支援を、キリスト者全員で行っていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月26日 (火)

箴言28:10 主に信頼する者は慈しみ(恵み)に囲まれる

 箴言2810を、
リビングバイブルは“神を恐れる人を悪い仲間に誘う者はのろわれ、正しく生きる人を励ます人はだれにも好かれ、尊敬されます。”と訳し、
新共同訳は“正しい人を悪の道に迷い込ませる者は、自分の掘った穴に落ちる。無垢な人々は良い嗣業を受ける。”と訳し、
聖書協会共同訳は“正しい人を悪の道に迷い込ませる者は、自分の掘った穴に落ち、完全な人は良いものを受け継ぐ。”と訳し、
2017
は“直ぐな人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし、誠実な人たちは幸せを受け継ぐ。”と訳しています。

 前半部分の「正しい」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「直ぐな」(2017)、「神を恐れる」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーシャール」でまっすぐな、正しい、・・・等の意です。
神様に対して、正しい人は、「神を恐れる人」(リビングバイブル)です。
黙示録の中で、この世の最後に、全世界の人に対して、天使が語る福音は、「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」(黙示録147抜粋・2017)という内容です。

 黙示録146.7には次のように記されています。
6 また私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、 永遠の福音を携え7 大声で言った。
「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。
主キリスト・イエス様は、神でありながら神のあり方を捨てて神でありつつ人ともなられて、十字架上で世のすべての罪を負って、罪の罰を私たちの代わりに受けてくださいました。そして死んで葬られ、復活して天に上り、御父の右の座に着座された神です。
また御子は創造者でもあります(コロサイ116)。
ですから、「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」とい天使が語った神の中には、主キリスト・イエス様も含まれているのです。
神は三位一体ですから。
ヨハネ169には「罪とは、わたしを信じないことです。」(リビングバイブル)と主イエス様の御言葉が記されています。
トマスは、復活された後のイエス様にお会いした時、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。(ヨハネ2028

 「幸せ」(2017)、「良い」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「トーブ」で英語のgoodですから、良いことに属する様々な意味を持っています。

 「嗣業を受ける」(新共同訳)、「受け継ぐ」(2017、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーハル」で、それらの意があります。
「嗣業」とは、神によって与えられた財産、特に土地を指し、次世代へと受け継がせて行くべきもの、の意です。

 神を畏れ敬う人に対し、悪の道すなわち神を畏れず、神に信頼しなくなるようにする者はサタン(悪魔)とその配下の悪霊、及びサタンに用いられている人等です。
この世はサタンの支配下にありますから(1ヨハネ519)、私たちキリスト者は、悪へと誘う様々なものに囲まれています。しかしキリスト者は主なる神の支配下にある神のものです(1ヨハネ519)。

 やがて悪魔悪霊は、ゲヘナに送られます。
主イエス様は、ゲヘナを「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」(マタイ2541・新共同訳)とも表現されました。
{「よみ」はギリシア語でシェオール、ヘブライ語ではハデスで、最後の審判(黙示録2011-15)迄存在する天国に行けなかった人の地下にある領域です。}
悪魔(サタン)は、悪霊や神を畏れ敬うことなくサタンの支配のもとにある人たちを用いて、神にあって正しい人、神によって義とされた人を唆し、神から離させようとするのです。
そしてできるだけ多くの人を自分たちと同じところ(ゲヘナ)へと連れて行きたいのです。

 ダビデは次のような詩を記しています。
1 指揮者によって。ダビデの詩。
主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか。
「鳥のように山へ逃れよ。2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人〔主なる神を信じている人(筆者挿入)〕を射ようとしている。3 世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」と。
4
主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。
5
主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、
6
逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。
7
主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。”(詩篇11篇・新共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いかなる悪からの誘惑に対しても誘われることがありませんように。
敵は巧みです。
主イエス様は、「悪より救いいだしたまえ」と祈るようにと教えてくださいました。
忘れずに祈る者であらせてください。
勝利は主の内にあることを覚えて感謝します。
御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみ〔ヘブライ語原語は「ヘセド」で親切、慈しみ、・・等。「恵み」(新改訳)(筆者挿入)〕に囲まれる。”(詩篇3210・新共同訳)

2024年3月25日 (月)

詩篇107:1-3 主に贖われた者たちの主への感謝

 詩篇1071-3には次のように記されています。
1 「主に感謝せよ。まことに、主は恵み深い。その慈しみはとこしえに。」
2
 主に贖われた人々はそのように唱えよ。
主は、彼らを苦しめる者の手から贖い、3 国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から。”(聖書協会共同訳)とあります。

 旧約時代の詩聖が記した詩であることは明らかなことですが、だれが記したのかは分かりません。
4
節以降を読むと、様々なところからの救いが記されています。
4
節以降には記されていませんが、私は、今日の個所で、まずは2b3節に目を止めます。そこには、「主は、彼らを苦しめる者の手から贖い、国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から。」と記されています。
今回は、これを近未来の預言として読んでみたいと思います(他の読み方もできますが)。
現在でもイスラエルに戻っていないユダヤ人や自分が北イスラエル王国(イスラエルの10部族)の末裔のイスラエルの民であるとは知らないで生活している人たちが、世界のあちらこちらにいます。

 近未来に成就するであろうと推測できる預言の一つに、エゼキエル37章の次の預言があります。
15 主の言葉が私に臨んだ。
16
 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に、『ユダとその友イスラエルの子らのために』と書き記しなさい。またもう一本の木を取って、その上に、『エフライムの木であるヨセフとその友であるイスラエルの家すべてのために』と書き記しなさい。
17
 それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。
18
 同胞〔直訳「民の子ら」(欄外注)〕があなたに向かって、『これらはどういう意味なのか、我々に告げてくれないか』と言うとき、19 彼らに語りなさい。
主なる神はこう言われる。私はエフライムの手の中にあるヨセフの木とその友イスラエルの諸部族を取り、これらをユダの木に合わせて、一本の木とする。これらは私の手の中で一つとなる。
20
 あなたの書き記した木が彼らの目の前であなたの手の中にあるとき、21 彼らに語りなさい。
主なる神はこう言われる。私はイスラエルの子らを、行った先の諸国民の間から取り戻し、周囲の国々から集め、彼らの土地に導き入れる。22 私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王〔キリストの千年王国の王であるキリスト(筆者挿入)〕が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と 二つの王国に分かれることはない。23 彼らは二度と偶像や憎むべきものや、もろもろの背き〔神ヤハウェ(主)に従わないこと(筆者挿入)〕によって汚されることはない。私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背き〔レニングラード写本のヘブライ語聖書は「彼らの居住地」(欄外注)〕から救い、清める。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。24 わが僕ダビデ〔再臨のキリストのこと(筆者挿入)〕が彼らの王となり、彼らすべての者のために、一人の牧者となる。彼らはわが法に従って歩み、わが掟を守り、これを行う。25 彼らは、私がわが僕ヤコブに与えた地、すなわちあなたがたの先祖が住んでいた地に住む。彼らもその子らも、その子孫もとこしえにそこに住み、 わが僕ダビデ〔王の王であるキリスト(筆者挿入)〕が永遠に彼らの指導者となる。26 私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。私は彼らを祝福し、増やす。私はわが聖所をとこしえに彼らのただ中に置く。27 わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。28 こうして、わが聖所がとこしえに彼らの中にあるとき、諸国民は私がイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリストの千年王国においては、12部族が揃うのです。
各部族への割り当ての地は、エゼキエル4713-4829に記されています。
主なる神様は、約束を守るお方です。
 今から約4000年前のこと、神ヤハウェ(主)は、アブラム(後のアブラハム)に次のような約束をしました。
18 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまでの、19 カイン人〔ケニ人(2017)〕、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人〔ヒッタイト人(2017)〕、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(創世記15章・聖書協会共同訳)と記されています。

 話を変えて、私たちキリスト者について考えてみます。
私たちも皆、サタンの支配から解放されて、神の支配に移された者たちです。
 エフェソ(エペソ)2章には次のように記されています。
1 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者〔神と断絶した者(筆者挿入)〕であって、2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神〔サタン{悪魔}(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子ら〔まことの神に従わない者たち(筆者挿入)〕に今も働く霊〔悪魔悪霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいたのです。
3
 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い〔肉の行為についてはガラテヤ5.19-21参照(筆者挿入)〕、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
4
 しかし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、5 過ち〔ギリシア語原語は「パラプトーマ」で、横滑りする、(宗教・道徳上の)罪、・・・・の意(筆者挿入)〕のうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
6
 キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。〔そして、キリスト様と共に、墓の中から栄光へと、引き上げてくださいました。その天の領域で、私たちはキリスト様と共に、席に着いているのです。これはすべて、キリスト・イエスが成し遂げてくださったわざに基づいているのです。(リビングバイブル旧版)
7
 それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。
8
 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
9
 行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって〔in Christ Jesus(KJV)〕造られたからです。それは、私たちが善い行い〔good works(KJV)〕をして歩むためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者もあなたによってこの世の神である悪魔(サタン)から救い出された者であることを覚えます。
私たち一人一人の見た目の救われ方は異なりますが、私たち一人一人が、自分がどこから誰によって救われたのかを証しするだけで、伝道していることになることを覚えます。
私たち一人一人に、証しする対象者を与えてくださり、一人一人が主を証していくことができますように。
また、あなたによって救われたことを折に触れて思い起こし、あなたに感謝をささげる者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。 アーメン。

2024年3月24日 (日)

黙示録21:1-7 新天新地の現れと新天新地における祝福

 黙示録211-7には次のように記されています。
1 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
 また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
3
 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
 5 すると、玉座におられる方が言われた。
「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」
6
 また、私に言われた。
「事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には“また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。”と記されています。
これは永遠の世界です。

 イザヤ書には次のように預言されていました。
6513 それゆえ、主なる神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。/
 6517 見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく、心に上ることもない。
18
 しかし、私が創造するものを代々とこしえに楽しみ、喜べ。私はエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19
 私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。/
 6622 私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように。あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く――主の仰せ。
23
 新月ごと、安息日ごとに、すべての肉なる者は私の前に来てひれ伏す。――主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。
24
 彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。それに付く蛆(うじ)は絶えず、それを焼く火は消えることがない。それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新天新地の新エルサレムは、キリストの千年王国のエルサレムとも異なります。
2
節には“また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。”と記されています。
新エルサレムは目をみはるように美しいのでしょう。

 新天新地においては神が人々と一緒に住むのです。
旧約時代は、神を見たら死んでしまうと思われていました。主がそのようにモーセに語られたからです。
 出エジプト33章には次のように記されています。
18 モーセが、「どうかあなたの栄光を私にお示しください」と言うと、
19
 主は言われた。
「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名によって宣言する。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
20
 さらに言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 新天新地において、神が人と共に住む、ということは何と素晴らしいことでしょうか。
しかしキリスト者は、今の世にあっても主と共なる生活を体験することができるのです。
主イエス様は言われました。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(2017)と。
何という恵みでしょうか!しかし条件も付いています。

 3.4節には、
3 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」”と記されています。

 これは新天新地における有様ですが、キリストの千年王国時代以前においても、天においては同じような状況が見られます。
 黙示録7章には次のように記されています。
13 すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14
 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。
「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で 洗って白くしたのである。15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。
玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。
16
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。
17
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、大患難時代に殉教した聖徒たちについての記述ですが、教会時代(恵みの時代)の聖徒が天に召されたときも同じです。

 パウロは次の様に告白しました。
20 そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
21
 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
22
 けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23
 この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。」(フィリピ1章・聖書協会共同訳)と。

 5-7節において、主はさらなる確証を次のように与えられています。
5 すると、玉座におられる方が言われた。
「見よ、私は万物を新しくする。」
また言われた。
「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」
6
 また、私に言われた。
「事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる。”(聖書協会共同訳)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
日々、父、子、聖霊なる神様と共に生活させていただく恵みを与えられていますことを感謝します。
更に天に召された後には、直接御顔を仰ぎ見させていただきつつ交わりを持たせていただけますことを感謝します。
ハレルヤ!
大いなる感謝をもって私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月23日 (土)

フィリピ1:6 主なる神様は私たちを完成させてくださるお方

 フィリピ16には次のように記されています。
6 あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所を、新改訳初版~第三版は“あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。”と訳しています。

 「あなたがたの間で」(聖書協会共同訳)、「あなたがたの内に」(新改訳初版~第三版)と訳されている中の「間で」、「内に」という語のギリシア語原語は「エン」でその主要な意味は、in です。

 「キリスト・イエスの日」とは、キリストの現われの日、キリストの空中再臨の日です。

 この節に似た聖句に次のようなものがあります。
“どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊と心と体とを完全に守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者としてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます。”(1テサロニケ523.24・聖書協会共同訳)

 “愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(1ヨハネ322017

 “あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。”(コロサイ342017
“真のいのちであるキリストが再び戻って来られる時、あなたがたも彼と共に輝き、そのすべての栄光にあずかるのです。”(コロサイ34・リビングバイブル)

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
“わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。”(2コリント318・新共同訳)と記されているように、私たちを主が整えてくださいますから感謝します。
それには、痛みを伴うこともあるでしょうが、主のお取り扱いに対して従順に取り組んでいくことの出来る者であらせてください。
感謝します。
あなたの御名を賛美しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月22日 (金)

箴言28:9 義人の祈りは聞かれる

 箴言289を、
2017
は“耳を背けておしえを聞かない者は、その祈りさえ忌み嫌われる。”と訳し、
リビングバイブルは“教えをおろそかにする者の祈りは答えられません。”と訳しています。

 「教え」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーラー」で、モーセ五書、十戒、律法、・・等の意があります。
 
 「祈り」と訳されている語のヘブライ語原語は「ティフィラー」で、祈り、祈祷、とりなしの祈り、哀願、懇願、比喩的に、讃美歌、聖歌、賛歌等の意があります。

 「忌み嫌う」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーエバー」で、胸が悪くなるような、実に嫌な、大嫌いなもの、憎悪、嫌悪感、・・・等の意があります。

 ヤコブ516のリビングバイブル訳は“ですから、互いに罪を告白し、祈り合いなさい。正しい人の祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があります。”とあります。

 義人は、父なる神様と主イエス様を畏れ敬い、神を愛し、神のことばを信じ(神のことばに信頼し)、神に従う人です。
そのように生きることができる以前に、キリストの十字架は、キリストが、自分を含めた世の罪のために、身代わりに十字架上で罰を受け、贖ってくださったものである、ということを信じている必要があります。
また、キリストは十字架上で死んだ後、3日目に復活され、天に昇られ、父なる神の右の座に着かれていることを信じている必要があります。
このようなことを心から信じることができるためには、聖霊の働きが必須です。

 また、神のことばに従って生きるためには神の霊の働きが必要です。
人の肉は、神のご命令を守ることができません。

 福音書の中で、主イエス様に何かを願って(祈りをして)応えられた人は、主イエス様に信頼した人です。
主イエス様を信頼する人は、主イエス様の御言葉にも信頼し、守るでしょう。
また、主イエス様は、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」(ヨハネ14232017)とも言われました。

 ヨハネ1423の聖句は、驚くべき聖句で、次のように記されています。
“イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」”(2017)とあります。

 今日の箴言の聖句は、リビングバイブルによると“教えをおろそかにする者の祈りは答えられません。”(意訳)というものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父と御子・主イエス様を愛し、信頼し、御旨に従い、聖霊の導きに従った祈りをささげつつ歩ませていただけますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月21日 (木)

詩篇106:44-48 不義な者でも主に立ち返えば救ってくださる主

 詩篇10644-48には次のように記されています。
44 それでも、叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみを顧み、45 彼らのために契約を思い起こし、豊かな慈しみにふさわしく憐れみ、46 彼らをとりこにした者が皆、彼らに憐れみを示すようにした。
47
 我らの神、主よ、私たちを救い、国々から集めてください。私たちはあなたの聖なる名に感謝し、あなたの誉れを誇ります。
48
 イスラエルの神、主をたたえよ。いにしえからとこしえまで。民はこぞって言う。「アーメン、ハレルヤ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 人はどれほど不義なのでしょう。
この個所の前の43節には“主は幾たびも彼らを救い出したが、彼らはたくらみを抱いて反抗し、自分たちの過ちによって没落した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主に助け出されたにもかかわらず、幾度も幾度も罪を犯し、そのたびに主に助けを叫び求めたイスラエルの民に対し、主は、“彼らの苦しみを顧み、彼らのために契約を思い起こし、豊かな慈しみにふさわしく憐れみ、彼らをとりこにした者が皆、彼らに憐れみを示すようにした。”(44-46)のです。

 次に新約時代の私たちのことを考えてみます。
新約聖書の中に次のような話が記されています。
21 その時、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
22
 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。
23
 そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似ている。
24
 清算が始まると、一万タラントン〔60,000,000デナリオン{120日働いたとすると約250,000年分の労賃}(筆者挿入)〕借金している家来が、王の前に連れて来られた。
25
 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
26
 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した。
27
 家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。
28
 ところが、この家来は外に出て、百デナリオン〔約100日分の労賃{120日働いたとすると5ヶ月分の労賃}(筆者挿入)〕貸している仲間の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29
 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。
30
 しかし、承知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。
31
 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。
32
 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33 私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34
 そして、主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。
35
 あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」”(マタイ1821・聖書協会共同訳)とあります。

 私たちは主なる神様に対して返済しきれないほどの負債(罪)を負っていたのですが、主の十字架のゆえに私たちは赦されたのです。

 44.45節には、“それでも、叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみを顧み、彼らのために契約を思い起こし、豊かな慈しみにふさわしく憐れみ、”と記されています。

 私たちに与えられた契約は、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ109.102017)という契約です。

 私たちの負い目はすべて支払われました。
主イエス様は、十字架上で、「完了した。」と言われたのです。(ヨハネ1930

 「われ贖われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264)の3節に次のような歌詞があります。
“負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる 贖い 贖い 我は歌わん ハレルヤ ときわに 我は歌わん”

 エペソ432には「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(新改訳初版~第三版)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの御愛により、また御子の御愛により、御子が神のあり方を捨てて人の形を取り、その肉において十字架上で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
また御聖霊が私たちに働いてくださり、私達に、イエス・キリストを救い主、主、と啓示、告白させてくださいましたことを感謝します。
御子の贖いによって赦された者として、私達も愛の内に生きるものとさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。

2024年3月20日 (水)

黙示録20:11-15 白い御座の裁き/最後の審判

 黙示録2011-15には次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 11節後半には“天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。”と記されています。
キリストの千年王国が終了すると、今の天地、すなわち宇宙は崩壊、消滅するのでしょう。
2
ペテロ310bには“その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象〔別訳「自然界の構成要素」(欄外注)〕は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます〔異本「暴かれます」(欄外注)〕。”(2017)と記されています。

 神様は、人間の観察では、無から有を作り出されましたが、キリストの千年王国が終わると、有を無にするのです。
そして、最後の審判の後に神様は、新天新地を創造されるのです。
イザヤ6517には“見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。”(2017)と記されています。

 12節には“数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。”という個所があります。
キリスト者は命の書に名が記されています。
ルカ1020には“しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。”(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
いのちの書は、天国の信徒名簿であり、千年王国時代の信者も記されている書なのでしょう。
ピリピ43には次のような聖句があります。
“そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。”(2017)と記されています。
いのちの書に名が記されている人たちは、すでに永遠の命を与えられており、霊の体も与えられています。

 12節の「いのちの書」には、千年王国時代に主イエス様に信頼し、善を行った人たちも記されているのだろうと思います。
千年王国時代に霊の体を与えられていなかった人たちは、肉体をもって生活し、そして死んでいった人たちですから、その人たちの中で、いのちの書に名が記されていた人たちがいたのだろうと思います。
 イザヤ6520には“わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。”(口語訳)と記されています。

 12.13節の各前半部分には“12 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。/13 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府〔ギリシア語原語は「ハデース」で、死者の魂のいる場所(筆者挿入)〕も、その中にいた死者を吐き出した。”と記されています。

 いのちの書に名前が記されていない人たちも体をもって復活します(ヨハネ528.29)。
ヨハネ5章には次のような主イエス様の御言葉が記されています。
22 また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。/
27
 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子(ダニエル713.14参照)だからである。
28
 このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。
29
 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。
30
 私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである。」(聖書協会共同訳)とあります。

 次に、いのちの書に名が記されていない人たちについて記します。
いのちの書に名の記されていない人たちは、行いに従って裁かれるのです。
12
cには“これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。”と記され、13bには“死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。”と記されています。

 命の書に名が記されている人は、主イエス様を信じていた人たち、すなわち主イエス様を受け入れていた人たちでしょう。
主イエス様が、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)と語られ、また、「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ639.402017)と語っておられましたから。

 命の書に名が記されていない人たちの行き場所はどこなのでしょう。
15
節には“命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”と記されています。
またこの審判を最後に、死ぬ人はいなくなりますし、死ぬ人がいないのですからハデースもいらなくなります。
14
節には“死も陰府〔ギリシア語原語は「ハデース」(筆者挿入)〕も火の池に投げ込まれた。”と記されています。

 14bには“この火の池が第二の死である。”と記されています。
第一の死は、魂と肉体の分離です。
死とは分離することです。
魂の存在を信じない人にとっては、肉体が滅びた、もうおしまい、と捉えるでしょう。しかし、聖書はそう教えてはいません。
第二の死は、魂を持っている肉体が、神様と完全に分離した状態になることです。
実は、それはその人の選択によるのです。

 神様はすべての人を愛しています。
人には、主なる神様を愛する人と主なる神様を嫌う人、すなわち受け入れない人がいるのです。
主を愛する人は、主と共に生活するようになりますし、主を嫌う人は、主と離れて生活するようになるのです。
主の内に、全き愛も、全き義もあるのです。
悪魔は、初めから人殺しであり、偽り者なのです(ヨハネ844)。
悪魔(サタン)・悪霊に最後まで付き従った人たちは、悪魔のいるところにいることになるのです。
人には選択権があります。
そうでなければ、主なる神様はモーセを通して「あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30192017)とは言わなかったでしょう。

 まだ主イエス様を心にお迎えしていない人は、是非、主イエス様をご自分の救い主として、ご自分の主としてお迎えしてください。
お願いします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの御愛のゆえに救われたことを覚えます。
感謝します。
御父を愛し、わが主を愛し、喜びをもって主に従い続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月19日 (火)

フィリピ1:3-5 喜び、祈り(神との交わり)、感謝

 フィリピ13-5には次のように記されています。
3 私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5
 それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者ならば、知らない人はほとんどいないという聖句に次のようなものがあります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ516-18・聖書協会共同訳)という聖句です。

 パウロは、「喜べ、祈れ、感謝せよ」と語るだけではなく、フィリピの信徒への手紙を読むと、それを実践していたことがわかります。
フィリピの信徒への手紙は、獄中書簡としても有名です。
パウロはローマの獄中にいたのです。
パウロの肉体は、行動の自由を奪われていました。
しかし、パウロの魂と霊は自由でした。

 パウロがどのようなことに感謝し、喜んでいたのか、ということについてはフィリピの書簡を読み進めればわかります。

 パウロの話はここまでにして、私たち一般のキリスト者について考えてみたいと思います。

 体が不自由であったら、体が病気でままならなかったら、何を喜ぶことができるのでしょうか。
それでも、魂や霊は、喜ぶことができます。
御父は、天にあるすべての霊的祝福を与えてくださったのですから。
エペソ13には“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。

 祈りについても、祈りは必ずしも体でするものではないでしょう。
声を発するためには、口(舌や口唇も含んでいます)や声帯、呼吸器などが必要でしょう。
しかし、無言でも祈れるのです。
祈りも、霊と魂で祈れるのです。
エペソ618には「どのような時にも、霊によって祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(聖書協会共同訳)と記されています。
エペソ618の聖句中の「霊」に関して、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、前田訳は「霊」と訳し、口語訳、新改訳は「御霊」と訳しています。
この個所のギリシア語原語は、「聖霊」というのではなく、直訳すると「霊の中で」となってます。
「祈り」は神への願い事だけではなく、その本質は「神との交わり」です。

 キリスト者の霊は、主と一つとされている霊です。
1
コリント617には“主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”(2017)と記されています。
魂での祈りは、神の霊に導かれて祈ることが大切ではないかと思います。
エフェソ618を新共同訳は“どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。”と訳しています。
 新共同訳が、”霊”と表記している個所について:
聖霊、神の霊、主の霊が意味されていると思われる場合には、”霊”と表していると凡例に記されています。

 霊を主に明け渡している人の霊は、その霊の主権を、主がとってくださっておられるでしょう。

 感謝することは、キリスト者ではなくても、物事の捉え方によって、あらゆる場合に感謝することができるのだろうと思いますが、キリスト者の場合は、新生させていただいた霊と救われた魂を持っているのですから、この世の何事にも感謝できるこの世の人よりもより豊かな感謝をささげることができるだろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と命じられています。
そして、このような生き方を励ますためにでしょうか、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と記されています。
いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する歩みをし続けていくことができますよう整え導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月18日 (月)

箴言28:7 主に喜ばれる歩みをしよう(させて頂こう)

 箴言287を、
新共同訳と聖書協会共同訳は“教えを守るのは分別のある子。放蕩者と交わる者はその父を辱める。”と訳し、
2017
は“分別のある子はおしえを大切にする。放蕩する者と交わる者は、父に恥をかかせる。”と訳し、
口語訳は“律法を守る者は賢い子である、不品行な者と交わるものは、父をはずかしめる。”と訳し、
リビングバイブルは“賢い若者はきちんと教えを守り、非行に走る息子は父親に恥をかかせます。”と訳しています。

 前半部分の「教え」(新共同訳、聖書協会共同訳、2017、リビングバイブル)、「律法」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「トーラー」で、法、法律、訓示、教訓、勧告、モーセ五書、十戒、等の意があります。

 前半部分の「守る」(新共同訳、口語訳、リビングバイブル)、「大切にする」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーツァル」で、守る、従う、言い続ける(言い張る)等の意があります。

 「分別」(新共同訳、聖書協会共同訳、2017)、「賢い」(口語訳、リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ビーン」で、分離する、分ける、理解する、分かる、納得する、賢い、等の意があります。

 これは聖句なので、前半部分は、「(神の)教えを守る者は、分別のある子(賢い子)」と訳せると思います。
「ナーツァル」の語根の意は、「分離する」ということですから、神の教えとこの世の教えを分離し(そしてわきまえ)、神の教えを守る者は、それは賢い子である、という意が含まれているのだろうと思います。
新約時代に生きる私たちにとって「神の教え」はモーセ五書にとどまりません。

 後半部分の「放蕩するor放蕩」(新共同訳、聖書協会共同訳、2017)、「不品行な」(口語訳)、「非行に」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ザーラル」の複数形で、倫理的な意味合いでは、乱れる、不道徳な、恥ずべき、下品な、・・等の意があります。

 後半部分は、(神の教えに背き)不品行なor下品なor不道徳な者たちと群れる者は父(霊の父)に恥をかかせる。という意になると思います。

 不道徳な人にも福音が届けられることは大切なことです。
主イエス様は、その見本を見せてくださいました。
しかし、不道徳な方へ引きずられることには注意する必要があります。

 1コリント6章には次のように記されています。
9 それとも、正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけません。淫らな者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒に溺れる者、人を罵る者、奪い取る者は、神の国を受け継ぐことはありません。
11
 あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです/
15
 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのですか。私がキリストの体の一部を取って、娼婦の体の一部にしたりするでしょうか。決してそんなことはない。
16
 娼婦と交わる者は、その女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。
17
 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。
18
 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、淫らな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯すのです。
19
 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
聖霊を悲しませることなく、かえって聖霊が豊かに働くことができるような生き方を常にしていく者としてお整え下さり、私たちを通してもあなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月17日 (日)

詩篇106:39-43 不誠実な民と真実な主

 詩篇106:39-43には次のように記されています。
39 彼らはその業〔偶像礼拝の業(筆者挿入)〕によって汚れ、その〔偶像礼拝の(筆者挿入)〕行いによって淫らな者となった。
40
 主の怒りがその民に向かって燃え上がり、主はご自分の民を忌み嫌った。
41
 主は彼らを国々の手に渡し、彼らを憎む者らが彼らを支配した。
42
 彼らは敵に虐げられ、その手の下に屈服した。
43
 主は幾たびも彼らを救い出したが、彼らはたくらみを抱いて反抗し、自分たちの過ちによって没落した。〔主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相謀って逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。(2017)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 古代イスラエルは、幾度も偶像礼拝をおこない、そのたびに主はイスラエルを敵の民族の手に委ねられました。
やがて、北イスラエル(イスラエル王国)はアッシリアによって滅ぼされ、南イスラエル(ユダ王国)はバビロンによって滅ぼされたのです。

 古代イスラエルの偶像礼拝の記事を聖書から探すとあまりにも多いので、今日は士師記から少しだけ下記することにします。

 士師記211-19には次のように記されています。
11 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアルに仕えた。
12
 彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周りにいる民の神々に従い、これにひれ伏し、主を怒らせた。
13
 彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた。
14
 主の怒りはイスラエルに対して燃え上がり、略奪者たちの手に任せて略奪されるがままにされた。主がイスラエルを周囲の敵の手に売り渡されたので、彼らはもはや、敵に立ち向かうことすらできなかった。
15
 主が告げられたとおり、また、主が彼らに誓われたとおり、主の手は彼らの行く先々で災いとなった。このことは彼らにとって大変な苦痛となった。
16
 主は士師たちを起こし、彼らを略奪者たちの手から救い出された。
17
 しかし、彼らは士師たちにも聞き従わず、他の神々を慕って淫行〔偶像礼拝(筆者挿入)〕に走り、これにひれ伏した。先祖が主の戒めに聞き従おうと歩んだ道からすぐに離れ、同じように歩もうとはしなかったのである。
18
 主が彼らのために士師を起こされたとき、主は士師と共にいて、その士師の生きている間は、彼らを敵の手から救われた。彼らが圧迫し抑圧する者たちを前に呻き苦しむのを、主が憐れまれたからである。
19
 しかし、その士師が死ぬと、彼らは元に戻って先祖よりもさらに堕落し、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その行いとかたくなな生き方を捨てなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 士師記4章には次のように記されています。
1 エフドが死んで、イスラエルの人々は再び主の目に悪とされることを行った。
2
 そこで、主はハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの将軍は、ハロシェト・ハゴイムに住んでいたシセラであった。
3
 ヤビンは鉄の戦車九百台を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけたので、イスラエルの人々は主を叫び求めた。
・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15
 主がバラクの前で、シセラとすべての戦車と軍勢を剣でかき乱されたので、シセラは戦車を捨て、徒歩で逃げ去った。
16
 バラクは戦車と軍勢をハロシェト・ハゴイムまで追撃した。シセラの全軍勢は剣に倒れ、生き残った者は一人もなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・後略・・・・・・・・・・・・・・・”(聖書協会共同訳)とあります。

 士師記10章には次のように記されています。
6 イスラエルの人々は再び主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、 ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、これに仕えなかった。
7
 主は怒りに燃え、イスラエルをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。
8
 そこで彼らはその年、イスラエルの人々を打ち砕き、また十八年にわたり、ヨルダン川の向こう側にいるすべてのイスラエル人を打ちのめした。そこはアモリ人の地であり、ギルアドにあった。
9
 さらに、アンモン人がヨルダン川を渡り、ユダ、ベニヤミン、そしてエフライムの家にも戦いを仕掛けて来たので、イスラエルは苦境に立たされた。
 10 イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。
「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨てて多くのバアルに仕えました。」
 11 主はイスラエルの人々に言われた。「エジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人、12 シドン人、アマレク、マオンがあなたがたを抑圧し、あなたがたが私を叫び求めたとき、私は彼らの手からあなたがたを救ったではないか。13 だが、あなたがたは私を捨てて他の神々に仕えた。それゆえ、私はもうあなたがたを救わない。
14
 あなたがたが選んだ神々のもとに行き、叫び求めなさい。あなたがたの苦しみのときには、その神々があなたがたを救うだろう。」
 15 イスラエルの人々は主に言った。
「私たちは罪を犯しました。あなたの目に適う良いことを、すべて私たちに行ってください。今日、どうか私たちを救い出してください。」
 16 彼らは異国の神々を自分たちの間から取り除き、主に仕えるようになった。主はイスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 士師記6-8章には次のように記されています。
6:1 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミデヤン人の手に渡された。
2
 ミデヤン人の力はイスラエルよりも強かったので、イスラエルの人々はミデヤン人を避けて、山の隠れ場、洞窟や要害を住みかとした。
3
 イスラエルが種を蒔くと、いつもミデヤン人をはじめ、アマレク人やヨルダン川東岸の人々が襲って来るようになった。
4
 彼らはイスラエルに対して陣を敷き、ガザに至るまでその地の実りを荒らし回り、羊や牛やろばなど命の糧となるものは何もイスラエルに残さなかった。
5
 彼らは家畜を引き連れ、自分たちの天幕を携えて上って来た。それはまるでばったの大群のようで、人もらくだも数えきれないほどであった。彼らはこの地にやって来ては荒らし回った。
6
 イスラエルはミデヤン人のために非常に衰え、人々は主を叫び求めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・
14
 すると、主は彼〔ギデオン(筆者挿入)〕の方を向いて言われた。
「行きなさい。あなたは持っている力を尽くして、イスラエルをミデヤン人の手から救うのだ。あなたを遣わすのはこの私だ。」
 15 ギデオンは言った。「お言葉ですが、わが主よ。どのようにして私はイスラエルを救うのでしょう。私の氏族はマナセの中で最も弱く、私は家族の中でいちばん若いのです。」
 16 主は言われた。「私はあなたと共にいる。だからあなたは、一人残らずミデヤン人を打ち倒すことができる。」
・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・
8
10 ゼバとツァルムナはカルコルにいた。彼らの率いる陣営には、ヨルダン川東岸の軍勢の中で生き残った者たちが全部で一万五千人ほどいた。剣を携えた十二万の兵が、すでに打ち倒されていた。11 ギデオンは、ノバとヨグボハの東にある、天幕に住む人々の道を上り、油断していた敵の陣営に襲いかかった。
12
 ゼバとツァルムナは逃走し、ギデオンは彼らの後を追った。ギデオンはミデヤンの二人の王、ゼバとツァルムナを捕らえ、敵の陣営全体を恐怖に陥れた。
・・・・・・・・・・・・・・・後略・・・・・・・・・・・・・・・・・”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イスラエルはいくたびも主のもとを離れ、主が嫌われる偶像礼拝すなわち悪魔礼拝に走りました。
しかしあなたは、あなたの民に常に心を留められ、離反したイスラエルの民が回心して主に助けを求めると幾度も救われたという歴史を見ます。
そしてイスラエルは、最終的に、大患難時代の最後、キリストの地上再臨の時に民族的悔い改めが起こると聖書に預言されています。
そしてイスラエルの残りの民はすべて救われるのですから、あなたの豊かな恵みのゆえにあなたの御名を賛美します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私たちが真実〔誠実(新共同訳)〕でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(2テモテ2132017

2024年3月16日 (土)

黙示録20:7-10 最終的な悪への裁き1/神の善に対して悪をなす者たち

 黙示録207-10には次のように記されています。
7 千年が終わると、サタンは牢獄から解き放たれ、8 地の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
9
 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
10
 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者もいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1000年の間、悪魔悪霊の干渉のない状態で、そして生活環境の良い状態で、主イエス様が愛と義によって、地上に住む人々を統治してくれたにもかかわらず、キリストの1000年王国の満了により、サタン(悪魔)が牢獄から解放され、サタンが、地の四方にいる諸国の民を惑わすと、非常に多くの人々が王の王であるキリストに敵対し、サタンに付きしたがって、聖なる者たちの陣営と、愛された都エルサレム囲んだのです。

 話は変わりますが、
アダムとエバがおかれたエデンの園はとても良い所でした。
アダムもエバもエデンの園の恵みを享受していました。
その上いつも神ヤハウェ(主)と交わることができたのです。

 キリストの千年王国に住んでいる人々も同じような環境を与えられていました。
千年王国に住んでいた多くの人々は、とても恵まれていましたが、それでもサタンが解放されるとサタン側についたのです。
サタン側についた人たちの魂は、神よりも悪魔を選んだのです。

 人間の外見上の肉体は、皆、同じ様なものに見えますが、肉眼で見ることの出来ない魂はそうではないことがわかります。

 主イエス様の初臨の時代、主イエス様が、いくら真理を話しても、それを受け入れず、敵対してくる人たちがいました。主イエス様は、その人たちに対して、「あなたがたは、悪魔である父から出た者」であると言われたのです。
そのことが記されている個所を下記します。
31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
 33 彼らは言った。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」
 34 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36 だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。37 あなたがたがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたがたは私を殺そうとしている。私の言葉を受け入れないからである。38 私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている。」
 39 彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです」と言うと、
イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ。40 ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。41 あなたがたは、自分の父と同じ業をしている。」
 そこで彼らが、「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません〔イエス様の出自について彼らは、マリアの淫らな行いによるものと考えていたのかもしれません(筆者挿入)〕。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
 42 イエスは言われた。
「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は勝手に来たのではなく、神〔父である神(筆者挿入)〕が私をお遣わしになったのである。43 私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいな い。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。45 しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じない。46 あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。47 神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである。」”(ヨハネ8章・聖書協会共同訳)と記されています。

 話を元に戻します。
聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ人たちは、天から降った火によって焼き尽くされました。そして、悪魔は、今度は牢獄ではなく、火と硫黄の池に投げ込まれたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは愛と義をもって善を行い続けられました。
しかし、それでも敵対する者たちがいることを覚えます。
あなたのみ旨が為されますように。
すべてのことをあなたにお委ねし、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月15日 (金)

フィリピ1:2 フィリピの信徒への手紙のあいさつ(後半)/恵みと平安を与えてくださる神

 フィリピ12には“私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 「私たちの父なる神」とありますが、神を父と呼べるのはなんと幸いなことでしょうか。
人間の祖先はアダムであり、アダムとエバ以外の人は、アダムが堕罪した後に、アダムとエバから生まれたのです。
アダムとエバが堕罪し、二人の内に罪が入った故、人は罪(単数形の罪、すなわち原罪or罪の性質)を肉の中にもって生まれてきました。
ローマ718.20には“18 ・・・自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。・・・。/20 ・・・、私のうちに住んでいる罪です。”(2017)と記されています。

 またローマ623には“罪の報いは死です。”(私訳)と記されています。
新生していない人、すなわち生まれながらの人が、「死」という場合、肉体の死を指して言っていると思います。
{肉体の死を、主イエス様やキリスト者は「眠り」とも言います。(ヨハネ1111-141テサロニケ413-16)}

 「死」とは分離です。
死とは肉体からいのちの息(or霊)が抜け出ることであり(ルカ849-55、特に55節参照)、魂の内に霊(いのちの息)があるので、創世記3518には“彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき”(2017)と記されています。

 生まれながらの人{the natural man1コリント214KJV))}は、魂と肉体の分離、それを肉体の死と言います。

 神と交わることの出来る霊の機能が死んでいる時、人側から神と交わることはできません。
主イエス様は次のように語られました。
3 ・・。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」〔「よくよく」と訳されている語のギリシア語は「アメーン(まことに)、アメーン」です。主イエス様が、「アーメン、アーメン」で語り始めているのです。(筆者挿入)〕
5
 ・・。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(ヨハネ3章・聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者は、神の霊から生まれた霊なので、神と交わることができるのです。
また、神の霊から生まれた霊は、神の子どもです(1ヨハネ31)。

 へブル129に次のような聖句があります。
「さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。」(2017)と記されています。
私たちの主イエス・キリスト様の御父は、私たちの霊の父です。

 生まれながらの人は、私たちの主イエス・キリスト様の御父を、「私の父」ということはできません。
せめて、創造主なる神様、至高の神様、イエス・キリストの父なる神様、・・というようにしか呼べないのです。

 パウロは、フィリピ12に“私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。”と記しています。

 キリスト者の受けた恵はなんと絶大なものでしょう。
「私たちの父なる神」と言うことができるのですから。
また、主イエス・キリスト様は、御子であられると共に、天においても地においても、いっさいの権威を授けられているお方です。(マタイ2818
その御父と御子から「恵みと平和があなたがたにありますように」と祈られているのです。
これは手紙の書き出しのあいさつ文として解釈されていますが、パウロが書いたのですから、そのように祈って書いたと思います。
しつこいようですが、「恵みと平和があなたがたにありますように」と祈られているのです。

 「恵み」と訳されている語のギリシア語原語は「カリス」で、恵み深い、慈悲深い、という意がありますが、その他、親切、やさしさ、好意、・・等の意があります。
また、「恵み」はヘブライ語原語では「ヘーセード」で、同じような意味を持っています。

 「平和」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「平安」(口語訳、新改訳)と訳されている語のギリシア語原語は「エイレーネ―」で、平和、平安、安心、繁栄、成功、・・・等の意があります。
また、「平和or平安」はヘブライ語原語では「シャローム」で、エイレーネ―と同じような意味を持っています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父と御子から、親切、恵み、慈悲、優しさ、平和、平安、安心、繁栄、成功、・・・が与えられることは何と幸いなことでしょう。
へ―セードとシャロームを単なるあいさつに使うのではなく、祈りつつ用いさせていただく者であらせてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたの恵み〔ヘブライ語は「ヘセド」(筆者挿入)〕」によって、あなたのしもべを取り扱ってください。」(詩篇1191242017

2024年3月14日 (木)

箴言28:6 主に信頼し続けて歩む幸い

 箴言286を、
リビングバイブルは“うそつきの金持ちになるより、貧しくても正直に生きるほうがずっと幸せです。”と意訳し、
2017
は“貧しくて、誠実に歩む者は、富んでいて、曲がった道を歩む者にまさる。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“貧しくても完全な道を歩む人は、曲がった道を歩む富める者にまさる。”と訳し、
新共同訳は“貧乏でも、完全な道を歩む人は、二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。”と訳しています。

 「貧しい」(新改訳、聖書協会共同訳、リビングバイブル)、「貧乏な」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーシュ」で、貧しい、極貧の、困窮する、等の意があります。

 「誠実に」(新改訳)、「完全な」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「正直に」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「トーム」で、完全な、正直な、正しい、純潔、純真、・・等の意があります。

 「曲がった」(新改訳、新共同訳、聖書協会共同訳)、「うそつきの」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「イケーシュ」で、ゆがめられた、誤った、曲がった、心の曲がった、不正直な、正道を踏み外した、誤っている、邪悪な、・・等の意があります。

 「道」と訳されている語のヘブライ語原語は「デレク」で、この個所は単数形ではありません。母音記号の付き方で、双数形になれば新共同訳のように訳しますし、双数形ではない母音記号のつき方であればもっと多くの複数形になります。
正しくない道はいくらでもあります。

 リビングバイブルは“うそつきの金持ちになるより、貧しくても正直に生きるほうがずっと幸せです。”と意訳していますが、「貧しい」(ルーシュ)には、極貧、衣食にも事を欠く、という意がありますから、「武士は食わねど高楊枝」のような生き方です。

 この個所から二つの聖書個所を取り上げます。
ルカ16章には主を信じていた(「主を信じていた」とは聖書には書いてありませんが)ラザロと主の教えを守らない憐みの心のない金持ちの譬えです。次のように記されています。
19 「ある金持ちがいた。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいた。
20
 この金持ちの門前に、ラザロと言う出来物だらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
犬もやって来ては、彼の出来物をなめていた。
22
 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23
 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24
 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
25
 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』
27
 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。28 私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。』
29
 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる〔原文からは「モーセと預言者(聖書)を持っている」とも訳せます。あるいは、金持ちの兄弟たちは聖書朗読者であったのかもしれません。(筆者挿入)〕。彼らに耳を傾けるがよい。』
30
 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31
 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないならば、たとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」”(聖書協会共同訳)とあります。

 金持ちは、主を信ぜず、主の教えに従おうともしていなかったようです。主に従わない、主の教えに従わないことは曲がった道を歩むことです。

話を変えます。
 アブラム(後のアブラハム)は、神ヤハウェ(主)から、「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される。」(創世記121-3・聖書協会共同訳)と語られました。

 アブラムは、主の御言葉を信じて、当時の大都市ハラン(偶像神を拝んでいる人たちの都市)を出発したのです。75歳の時でした。
アブラムは、ヤハウェ(主)に「私はあなたを大いなる国民と(する)」と言われましたが、自分の子どもは、まだ一人も与えられていませんでした。

 神ヤハウェ(主)は、まだ一人の子どもも与えられていないアブラムに、「あなたの受ける報いは非常に大きい」(創世記151・聖書協会共同訳)と語られました。
途中の話を飛ばしますが、神ヤハウェ(主)は、「あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」(創世記154・聖書協会共同訳)とアブラムに語られました。
それだけではなく「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。・・・あなたの子孫はこのようになる。」とヤハウェ(主)はアブラムに語られたのです。(創世記155参照)

 まだ一人の子どもも与えられていないアブラムは、この主のことばを信じたのです。
創世記156には“アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 
更に神ヤハウェ(主)はアブラムに対して、「アブラムの子孫に、エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまでの・・・の地を与える。」と言われたのです。(創世記1517-21参照)

 しかしアブラムが85歳になっても子供は生まれませんでした。
アブラムは神様の方法ではなく、妻サライの助言を受け入れて、サライの女奴隷から子どもをもうけたのです。その時、アブラムは86歳でした。(創世記16章)

 この時から、約13年間聖書は空白です。ヤハウェ(主)がアブラムに声をかけなかったのかもしれません。

 13年後、アブラムが99歳のとき、神ヤハウェ(主)は、アブラムに次のように語られました。
「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」(創世記171.2・聖書協会共同訳)と記されています。

 「全き」(口語訳、新改訳、新共同訳、聖書協会共同訳)、「完全な」(フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ターミーム」で、全体の、完全な、全き、真実な、高潔な、真っ直ぐな、誠実な、・・等の意があります。
「ターミーム」(創世記171)も「トーム」(箴言286)も語根は「ターマム」(完全な、全部の、真っ直ぐ、・・の意)です。

 アブラムは、神様の約束がまだ実現していない、すなわちアブラムとサライの子どもという観点では、現状が「極貧」(ルーシュ)以下(ここでは0人)であっても、神のことばを完全に信じるように、完全に信じ続けるように、と言われたのです。

 へブル(ヘブライ)111に次のような聖句があります。
リビングバイブルは“信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。”と意訳し、
2017
は“さて、信仰は、望んでいることを保証し〔別訳「の実体であり」(欄外注)〕、目に見えないものを確信させるものです。”と訳し、
岩波訳は“信仰とは〔私たちが〕希求している〔直訳「希望されている」(欄外注)〕事の基〔「実体」、「確信すること」(欄外注)〕であり、見えないものの証明である。”と訳し、
聖書協会共同訳は“信仰とは、望んでいる事柄〔直訳「望まれていること」(欄外注)〕の実質であって〔別訳「を確信し」(欄外注)〕、見えないものを確証するものです。”と訳しています。

 今日の個所をアブラムの例から、この個所を信仰的に捉えて、あなたが与えてくださった御約束がなかなか成就しない場合でも、あなたに信頼し、あなたの御言葉に信頼して歩むことの幸いを教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちを愛し続けてくださっておられる主の御言葉に信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」(詩篇3210・新共同訳)

2024年3月13日 (水)

詩篇106:34-40 人身御供(ひとみごくう)迄行う悪霊礼拝に堕するイスラエル/恵みによって主に従う

 詩篇10634-40には次のように記されています。
34 彼ら〔イスラエルの民(筆者挿入)〕はもろもろの民〔偶像礼拝をしていた民(筆者挿入)〕を主が命じたとおりに滅ぼさず、
35
 諸国民〔まことの神である主ではなく偶像を神とする諸国民、すなわち悪霊礼拝をしている諸国民(筆者挿入)〕と混じり合い、その行いに倣った。
36
 偶像に仕え、それらは彼らの罠になった。
37
 彼らは息子や娘を悪霊どもに献げ、38 罪のない血を流した。
カナンの偶像に献げた息子や娘の血、その血によって土地は汚された。
39
 彼らはその業によって汚れ、その行いによって淫らな者となった。
40
 主の怒りがその民に向かって燃え上がり、主はご自分の民を忌み嫌った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主によってエジプトの奴隷から助け出された出エジプトした民は、偉大なる主の奇跡の御業を多く見させていただいたにもかかわらず、偶像礼拝に陥りました(出エジプト32章)。

 ダビデは、神礼拝に関しては、偶像礼拝に陥ることなくヤハウェ(主)に仕え続けました。
本当に素晴らしいことです。

 しかし残念なことに、ダビデの子ソロモンは偶像礼拝を許可し、人身御供を認めたのです。
 1列王記111-10には次のように記されています。
1 ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。
2
 これらの国民について、主はかつてイスラエルの人々に、「あなたがたは彼らと結婚してはならない。また彼らもあなたがたと結婚してはならない。 さもなければ、必ずやこれらの国民が、あなたがたの心をその神々へと向けさせるだろう」と言われた。だがそれにもかかわらず、ソロモンはこうした者たちを愛して離れることがなかった。
3
 彼には多くの妻、すなわち、七百人の王妃と三百人の側室がいた。この女たちが彼の心を誤らせたのである。
4
 ソロモンが年老いたとき、女たちは彼の心を、他の神々へと向けさせた。彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。
5
 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべきものミルコムに付き従って行った。
6
 ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった
7
 その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。
8
 また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。
9
 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。
主はかつて二度ソロモンに現れ、10 このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節に“ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。”と記されています。

 モレクについて、聖書辞典は次のように述べています。
“モレク (〈ヘ〉molek) ヘブル語の「王」(〈ヘ〉メレク)に、「恥ずべきもの」(〈ヘ〉ボーシェス)の母音をつけて発音させたもの。偶像の総称で、「恥ずべき王」という意味かと思われる。特に、アモン人の神(11:7)を指す。ミルコムとも(11:33)、モロクとも呼ばれた(使7:43)。モレクの神殿は、エルサレムの南西にあるベン・ヒノムの谷(エレ32:35)の、トフェテ(エレ7:31)に築かれていた。それはソロモンによって建てられたもので、異教徒の妻たちのために建てられたのかもしれない(11:8)。具体的には、オリーブ山の南端と考えられ、それは「破壊の山」とも呼ばれた(Ⅰ列11:7,Ⅱ23:13)。
 そこに雄牛の頭を持った青銅の像が、手を突き出して立っており、モレクの信者たちは、その手の上に子供をのせ、下から火をたいていけにえとした(レビ18:21)。モレクの祭司たちは、太鼓をたたき続けて、子供の叫び声を消し、両親の悲しみを和らげたと言う。
 レビ記は、はっきりとモレク礼拝を禁じ、小児のいけにえを禁じているが(レビ20:2‐5)、偶像礼拝と共に受け継がれ、ユダの王ヨシヤの宗教改革で排除されるまで続けられた。イスラエルはその歴史の中で、この小児人身犠牲という、きわめて異教的で、罪悪的、非人道的儀式を何回も取り入れた。聖書の中ではユダの王アハズによって行われ(Ⅱ列16:3)、その後、マナセ王も父ヒゼキヤ王が取り壊した高き所を築き直し、ベン・ヒノムの谷で、この悪習慣を繰り返した(21:6)ことが記されている。彼らは、神が「わたしの子どもたち」と言われる幼児たちを、偶像モレクにいけにえとしてささげて「食べさせた」のである(エゼ16:20‐21)。”(抜粋)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、モーセを通して次のように言われました。
14 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が与える地に入り、それを所有してそこに住み、「周りにいるすべての国民のように、私の上に王を立てよう」と考えるなら、15 必ず、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が選ぶ者を王としなければならない。
同胞の中から、あなたを治める王を立てなさい。同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。
 16 ただし、王は自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすためだと言って、民をエジプトに再び帰らせてはならない。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、「あなたがたは この道を二度と帰ってはならない」と言われたからである。
17
 また、妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。
自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。
18
 王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写し、19 傍らに置いて、生涯、これを読みなさい。
それは、王が自分の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため、20 また、王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないためである。
そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。”(申命記17章・聖書協会共同訳)と記されています。

 ソロモンは、申命記のこの個所の教えをことごとく破ったように思えます。
ソロモンは、知恵が与えられ、富を与えられ、権力を与えられましたが、最も基本的な律法の書を書き写し、傍らに置いて、生涯、読み続ける、ということをしなかったのでしょう。

 主イエス・キリスト様を自分の救い主として信じれば救われ、永遠の命を与えられますが、この世を生きていくにあたり、この世で、主のみ旨にかなうように、揺るがされることなく生きていくためには、主イエス様が、山上の説教の最後に語られた御言葉が大切なのでしょう。
その箇所には次のように記されています。
24 「そこで、私〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕のこれらの言葉〔マタイ5-7章、ルカ620-45(筆者挿入)〕を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
25
 雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
26
 私のこれらの言葉を聞いても行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ている。
27
 雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
滅びからの救いは、主の恵みに基づき信仰によって与えられますが、主の内にある日々の歩みの確かさは、「主に信頼し善を行え。」(詩篇373a2017)とあるように、主に信頼して主のみ旨を行うことであることを覚えます。
益々、主を愛することができますよう祝福してくださり、主を愛するゆえに、主に従い、主のみ旨を行うものであらせてください。
それらすべてはあなたの恵みであることを覚えます。
あなたを賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パウロの証し
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(1コリント1510・新共同訳)
上記「働く」・・ギリシア原語は「コピアオー」の中には、熱心に取り組む、という意もあるようです。

2024年3月12日 (火)

黙示録20:6 キリストの千年王国

 黙示録206には、
“第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリストの空中再臨時に霊の体を戴いたキリスト者は、大患難時代の前にすでに天の体(霊の体)を戴いていますし、地上が大患難時代の間に、天の神の国において、花婿キリストとの結婚も済んでいますから、この6節の第一の復活にあずかる者たちとは異なります。
第一の復活にあずかる人々は、大患難時代の殉教者たちです(黙示録204参照)。

 キリストの千年王国時代は、悪魔悪霊は地上や空中におらず、千年王国時代の人々に悪さをすることはできません。
キリストの千年王国時代は、王の王、主の主であられるキリスト様が統治する世界です。ハレルヤ!

 キリストの千年王国はどのような世界なのでしょうか。
聖書の中からいくつかの個所を取り上げたいと思います。

 戦争はなくなり、人々が神の教えを聞きにエルサレムに上ってくることが、イザヤ22-4{並行個所(ミカ41-3)}に次のように記されています。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、
3
 多くの民は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。
教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。
4
 主は国々の間を裁き、多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリストの千年王国における神域と聖所、及び主に仕える祭司やレビ人、並びにイスラエル部族への土地の分割、その他についてはエゼキエル40-48章に記されています(聖書個所をお読みください)。

 イザヤ書以外にもキリストの千年王国の状景についての預言はありますが、時間の都合で、イザヤ書の中の一部から下記します。
35:1 荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は歓喜の声を上げ、野ばらのように花開く。
2
 花は咲き溢れ、大いに喜びの歌声を上げる。レバノンの栄光とカルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。/
5
 その時、見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。
6
 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が、砂漠にも流れが湧き出る。
7
 熱した砂地は池となり、干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は、葦やパピルスが茂る所となる。
8
 そこには大路が敷かれ、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり、愚かな者が迷い込むことはない。
9
 そこに獅子はおらず、飢えた獣は上がって来ず、これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10
 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき、悲しみと呻きは逃げ去る。/
 65:20 そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。
21
 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
22
 彼らが建てて別の人が住むことはなく、彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。
23
 彼らは無駄に労することもなく、産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり、その末裔も彼らと共にいる。
24
 彼らが呼ぶより先に、私は応え、彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。
25
 狼と小羊は共に草を食み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいてもこれらは危害を加えることも、滅ぼすこともない――主は言われる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この世の最終戦争で、エルサレムに攻めてきた国の国民の内、生き残って千年王国に入れて頂ける人たちもいます。また全世界の神殿がエルサレムにあるということが、ゼカリヤ1416-21に次のように記されています。
16 エルサレムを攻めたあらゆる国民のうち生き残った者は皆、毎年上って来て、万軍の主〔「主の」ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕なる王〔「主キリスト・イエス」のこと(筆者挿入)〕を礼拝し、仮庵祭を祝う。
17
 地上の諸氏族のうちで、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕なる王〔「主キリスト・イエス」(筆者挿入)〕を礼拝するためにエルサレムに上って来ない者の上には、雨が降らない。
18
 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、仮庵祭を祝うために上らない諸国民に主が打つのと同じ疫病が、彼らの上に臨む。
19
 これがエジプトへの刑罰となり、仮庵祭を祝うために上って来ないすべての国民への刑罰となる。
 20 その日には、馬の鈴にも「主の聖なるもの」と刻まれ、主の神殿の鍋も、祭壇の前にある鉢のようになる。
21
 エルサレムとユダの鍋も、すべて万軍の主の聖なるものとなる。いけにえを献げる者は皆やって来て、鍋を取り、それで煮る。その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 21節に“その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。”とありますが、主イエス様の宮清めを思い起こします(ヨハネ213-16、マルコ1115.16参照)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの千年王国が待ち遠しいです。
その前にある、携挙の時を待ち望んでいます。
そして更に次のキリストとの婚宴の時を待ち望んでいます。
それから私たちは、再臨のキリストに従って地上に来、主キリスト・イエス様の偉大な力を見させていただき、その後に千年王国という順になっていますから、まずは、携挙の恵みにあずかる前の現在の一日一日を、主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 

2024年3月11日 (月)

フィリピ1:1 聖徒(聖なる者)、監督、奉仕者(執事)へのあいさつ(前半)

 フィリピ11には、
“キリスト・イエスの僕パウロとテモテから、フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者〔執事(口語訳、新改訳)〕たちへ。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1.2節はあいさつ文が記されています。
「キリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち」と訳されているKJV訳は〝to all the saints in Christ Jesus″と訳されています。
「聖徒」というと、何か特別な功績のある聖なる人というイメージを持つ人もいますが、聖書はそのようには述べていません。

 聖書辞典は、聖徒について次のように述べています。
“旧約において聖徒と訳されるヘブル語は「ケドーシーム」である。
この語は形容詞カドーシュからきており、その語の語根qdsの意味は「切る」「分ける」であり、神の用のために俗的な人々または物から分離することを強調することばである。
33:3の「聖徒」は「主に聖別された者」という意味であり、「ヤハウェ礼拝のために聖別されたイスラエル」を指している(参照詩16:3,34:9,ダニ8:24)。
また、アラム語の「カッディーシーン」も同義で、「いと高き方の聖徒」という表現によってイスラエルを指している(ダニ7:18‐27)。
さらに、ヘブル語のハーシードゥは「敬虔な」という意味で、ハシーディームの形で多く「聖徒たち」と訳され、主として詩篇に用いられている(詩30:4,31:23,50:5,52:9等)。
また、この語は「恵み深い者」(詩18:25)とも訳されることばで、神のあわれみ(〈ヘ〉ヘセドゥ)の概念に基づく敬虔に強調点がある。すなわち、それは人格の優秀さにではなく、神の選びと恵みを賜わった者という点に強調がおかれている
特に、マカベア時代には、ハシーディームはユダヤのギリシヤ化勢力に反抗した敬虔者の一団を指すことばとなった。
 新約において「聖徒」と訳されている〈ギ〉ハギオイは、「聖なる者」「きよめ分たれた者」という意味を持つ
マタ27:52は新約以前の聖徒を指しているが、他はすべてキリスト者を指している(使9:13,32,41,26:10,ロマ1:7,8:27,Ⅱコリ1:1,13:12,エペ1:1,3:8等)。それは、クリスチャン、兄弟と同意語である(コロ1:2)。
聖徒は主イエスに対しては弟子、同信の友に対しては兄弟である。
 聖徒とは、イエス・キリストの贖いによって「世」(罪と死の律法)から分離され、聖別された者という意味で、教会すなわち選びの民の中に加えられた者としてこの名が与えられているのである。このように、聖徒はその身分を神の召しによって得たものであって(ロマ1:7)、通常立派な人を指して言う聖人君子、完全無欠な人とは異なる。聖徒は、イエス・キリストの十字架の血によって罪をきよめられ〔へブル1010参照(筆者挿入)〕、その血に免じて罪がないと見なされ、神の御用のために世から選び分たれた「罪赦された罪人たち」である。したがって、罪深い肉的生活を送っていたコリント教会の兄弟たちにすら、パウロは聖徒と呼びかけている(コリ1:2)。とはいえ、もちろん、恵みにより聖徒とされた者には聖徒にふさわしく生きることが求められている(エペ5:3‐4)。”とあります。

 「監督」と訳されている語のギリシア原語は「エピスコポス」で、
KJV
訳は〝bishops″と訳し、NIV訳は〝overseers″と訳しています。
bishopは、【カトリック】 司教【プロテスタント】 監督,【英国国教会】 主教、
overseer
は、監督,職長監督官.と辞書に記されています。

 監督の資格について、1テモテ31-7は次のように記しています。
1「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
2
 ですから、監督は非難されるところがあってはならず、一人の妻の夫であり、冷静でいて慎みがあり、上品で、客を手厚くもてなし、よく教えることができなければなりません。
3
 酒に溺れず、乱暴でなく、寛容であり、人と争わず、金に執着せず、
4
 自分の家をよく治め、常に気品を保って、子どもを従順な者に育てている人でなければなりません。
5
 自分の家を治めることのできない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
6
 監督は、信者になったばかりの人もいけません。思い違いをして、悪魔と同じ裁きを受けることがないためです。
7
 また、教会外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そしりを受け、悪魔の罠に陥らないためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「奉仕者」(新共同訳、聖書協会共同訳)「執事」(口語訳、新改訳)と訳されている語のギリシア語原語は「ディアコノス」で、執事、助祭、牧師、召使い、・・・・等の意があります。

 奉仕者(執事)の資格について、1テモテ38-13は次のように記しています。
8 同じように、奉仕者〔「執事」(口語訳、新改訳)〕たちも、気品があり、二枚舌を使わず、酒に溺れず、恥ずべき利益を貪らず、9 清い良心をもって信仰の秘義を保っている人でなければなりません。
10
 この人々も、まず審査を受け、とがめられる点がなければ、それから奉仕の務めに就かせるべきです。
11
 同じように、奉仕者の妻たちも気品があり、人をそしらず、冷静で、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。
12
 奉仕者は、一人の妻の夫であり、子どもたちと自分の家をよく治める人でなければなりません。
13
 というのも、奉仕の務めを立派に果たした人は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得られるからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 フィリピ教会には、主の働き人の間に不和がありました。
フィリピ42には“私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。
新共同訳と聖書協会共同訳が「エボディア」「シンティケ」と記している個所を、口語訳と新改訳は「ユウオデア」、口語訳と新改訳初版~第三版は「スントケ」と訳しています。なお新改訳2017は「シンティケ」は「シンティケ」です。

 エボディアとシンティケについて新共同訳スタディ版の注は次のように記しています。
“エボディアは「良い旅」もしくは「成功」、シンティケは「幸運」の意味のギリシア名である。パウロは、福音を広める助けをしてくれたこの女性たちに争いをやめるように勧める。彼女たちは、教会に影響力を持っていたので、個人的な争いが教会の争いにならないようにとパウロは勧告している。彼女たちは教会のために家を開放し、パウロと共に教会設立の最初から働いていたと思われる(4.3)。”とあります。

 以上のような経緯があるので、パウロは、手紙の冒頭に、“キリスト・イエスの僕パウロとテモテから、フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者〔執事(口語訳、新改訳)〕たちへ。”(聖書協会共同訳)と記したのだろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
教会員全員が主イエス様を見上げ、主にあって一致して前進していけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月10日 (日)

箴言28:5 心の王座をキリストに明け渡し、御霊(神の霊)によって歩もう

 箴言285を、
リビングバイブルは“悪人は、正しいことをするのがどんなに大切なことかわかりませんが、主の教えを守ろうとする人は、それがよくわかっています。”と訳し、
聖書協会共同訳は“悪に捕らわれた者は裁きを見極められないが、主を尋ね求める人はすべてを見極める。”と訳し、
2017
は“悪人はさばきをわきまえない。主を尋ね求める者はすべてのことをわきまえる。”と訳しています。

 「悪人」(リビングバイブル、2017)、「悪にとらわれた者」(聖書協会共同訳)と訳されているヘブライ語原語は「エノーシュ・ラー」で、悪人、悪にとらわれた者、悪い(死ぬべき)人、・・・等の意があります。
神ヤハウェ(主)から見て悪い人は、創造主なる神を神として認めない不敬虔な人、と捉えることもできるでしょう。(私はそのような者であったのに主の憐れみによって救われた者ですが)

 「裁き」(聖書協会共同訳、2017)、「正しいことをする(こと)」(リビングバイブル)と訳されているヘブライ語原語は「ミシュパート」で、評決、裁判、判断、評価、等の意がありますが、神の法律すなわち「律法」の意にも使われます。

 「主」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤハウェ」です。

 私的に意訳をさせて頂くと「創造主であるヤハウェ(主)という神様を畏れ敬わない、すなわち不敬虔な人は、神の法、すなわち神の教えを理解することができません。ヤハウェ(主)を尋ね求める人は、悟りを与えられます。」となります。

この聖句を読んだときに1コリント214を思い浮かべましたので、その前後の個所を含め下記しておきます。

 1コリント210-1431-4には、
210 私たちには、神は霊〔「御霊」(新改訳、口語訳)、原語は「その彼の霊」(筆者挿入)〕を通してこのことを啓示してくださったのです。霊はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。
11
 人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
12
 私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13
 この賜物〔神から恵みとして与えられたもの(筆者挿入)〕について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊〔ギリシア語聖書(TRバージョン)では「聖霊」(筆者挿入)〕が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。
14
 自然の人〔新生していない人(筆者挿入)〕は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。/
3
1 きょうだいたち、私はあなたがたには、霊の人〔新生し神の霊に導かれて歩んでいる人(筆者挿入)〕に対するように語ることができず、肉の人〔新生しているけれども肉的な人(筆者挿入)〕、つまりキリストにある幼子に対するように語りました。
2
 私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3
 相変わらず肉の人だからです。互いの間に妬みや争いがあるかぎり、あなたがたは肉の人〔新生しているけれども肉的な歩みをしている人(筆者挿入)〕であり、ただの人〔新生していない人(筆者挿入)〕として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4
 ある人が「私はパウロに付く」と言い、他の人が「私はアポロに」と言っているようでは、あなたがたはただの人ではありませんか。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日もご聖霊に導かれて歩む一日であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「恵みの高き嶺(ね)」(聖歌589 聖歌総合版627 新聖歌3391
“恵みの高き嶺(ね) 日々わが目当てに 祈りつ歌いつ 我は登りゆかん 
光と聖(きよ)きと 平和に満ちたる 恵みの高き嶺 我に踏ましめよ”
(高き嶺に立たせていただくのも恵みによります)

2024年3月 9日 (土)

詩篇106:34-36 イスラエルは主の命令に従わなかった結果、偶像に仕えることとなった/救われた後のきよき歩み(聖化)

 詩篇10634-36には次のように記されています。
34 彼らはもろもろの民を主が命じたとおりに滅ぼさず、
35
 諸国民と混じり合い、その行いに倣った。
36
 偶像に仕え、それらは彼らの罠になった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 34節には“彼らはもろもろの民を主が命じたとおりに滅ぼさず、”とあります。
このことは、早くもヨシュアがリーダーを務めていたときから起こりました。それはヨシュア記9章に記されているギブオン人に対することです。
その後士師記の時代に入った後も、主が滅ぼせと命じたことを守らなかったことがいくつも記されています。

 士師記1章には次のように記されています。
19 ・・・。しかし谷間の住民は鉄の戦車を持っていたので、追い出すことができなかった。/
21
ベニヤミンの一族は、エルサレムに住むエブス人を追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている。/
23-26
 ヨセフの家はベテルを偵察させた。この町はかつてルズと呼ばれていた。偵察していた者たちは、この町から出て来た男を見つけ、「さあ、町の入り口を教えろ。そうすれば情けをかけてやる」と言った。男が町の入り口を教えたので、彼らは剣をもって町を打ち破った。ただ、その男と家族全員は逃がした。26 その男はヘト人の地に行って町を築き、ルズと名付けた。これは今日に至るまでその名で呼ばれている。/
27
マナセは、ベト・シェアンとその周辺の村落、タナクとその周辺の村落、ドルの住民とその周辺の村落、イブレアムの住民とその周辺の村落、メギドの住民とその周辺の村落を占領しなかったので、カナン人はこの地に住み続けた。/
29
エフライムは、ゲゼルに住んでいたカナン人を追い出さなかったので、カナン人はゲゼルに、すなわちエフライムの中に住み続けた。/
30
ゼブルンは、キトロンの住民とナハラルの住民を追い出さなかったので、カナン人はゼブルンの中に住み続け、苦役に服した。/
31.32
アシェルは、アッコの住民、シドンの住民、マハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフィク、レホブの人々を追い出さなかった。それゆえ、アシェル人はこの地の住民であるカナン人の中に住むことになった。彼らを追い出さなかったからである。/
33
ナフタリは、ベト・シェメシュの住民、ベト・アナトの住民を追い出さなかったので、この地の住民であるカナン人の中に住むことになった。ただし、ベト・シェメシュの住民とベト・アナトの住民には苦役が課された。/
34
アモリ人はダンの人々を山地に追い込み、谷に下りて来ることを許さなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルは、主により頼み続けて、主に命じられたとおりに、主の命令を完了するまで戦い続ける必要があったのです。

 主はモーセを通して次のように語っておられました。
1 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたが入って所有する地〔カナンの地(筆者挿入)〕にあなたを導き入れて、多くの国民、すなわち、あなたより数が多くて力の強い七つの国民であるヘト人〔ヒッタイト人(2017)〕、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払うとき、2 そして、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない。
3
 彼らと婚姻関係を結んではならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。
4
 それはあなたの息子を私から引き離すことになり、彼らは他の神々に仕えるようになる。そうすれば、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、たちまちあなたを滅ぼし尽すことになる。
5
 あなたがたが行わなければならないことは、彼らの祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を切り倒し、彫像を火で焼くことである。
6
 あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖なる民である。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。”(申命記7章・聖書協会共同訳)と記されています。

 私達、新約の民であるキリスト者への応用は、救われてキリスト者とされた後には、心をきよくして頂く必要があるということを教えてくれているのだと思います。
もしそのように聖化の道を歩んで行かないと肉に支配されてしまいますよ、ということでしょう。
キリスト者とされた後に、肉の思いや感情をそのままにしておくと、キリスト者でありながらも、肉の歩みをすることになってしまうのです。
 ガラテヤ519-21には肉の行いが、次の様に列挙されています。
19 肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
また、神を主権者とせずに、人道主義こそ最高のものであるとすることも肉によります。

 ガラテヤ5章には、肉に従って歩まないための解決方法が次のように記されています。
24 キリスト・イエスに属する者〔「キリスト・イエスにつく者」(新改訳)、「キリスト・イエスのものとなった人たち」(新共同訳)〕は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。/
16
霊〔御霊(新改訳、口語訳)〕によって歩みなさい〔霊の導きに従って歩みなさい(新共同訳)〕。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。/
25
私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ガラテヤ517には“肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する・・。”(聖書協会共同訳)とあります。
 またローマ718-20には、
“私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
19
 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
20
 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ガラテヤ516の聖句を2017で記します。
「・・。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちキリスト者の肉は、キリストと共に十字架につけられました。
そのことを信仰によって自分のものとさせていただき、日々、御霊に導かれて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 8日 (金)

イザヤ13:9-13 主の日/世の終わりの時代(期間)/主の日が来る前に主を信じよう/「主に信頼する者は失望することがない(主を信じる者は裁かれることがなく永遠の命を得る)」

 イザヤ139-13には次のように記されています。
9 見よ、主の日が来る。
容赦ない憤りと燃える怒りをもって地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。
10
 空の星と星座は光を放たず、太陽が昇っても暗く、月もその光を照らさない。
11
 私は、世界をその悪のゆえに罰し、悪人たちをその罪のゆえに罰する。
私は傲慢な者が高ぶるのをやめさせ、横暴な者の高慢をおとしめる。
12
 私は人間を純金よりも、人をオフィルの黄金よりも貴いものとする。 
13 それゆえ、私は天を震わせ、その燃える怒りの日に、地はその場で揺れ動く。万軍の主の憤りのゆえに。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この聖書個所では、「主の日」{ヘブライ語で「ヨーム(日)・ヤハウェ(主)」}を、①主が来られる世の終りの日(期間)、として用いていますが、それ以外の用法で用いられることもあります。
②「主の日」は、主の復活の日{(ギリシア語で「キュリアケー・ヘーメラ」)}の意味でも使われます。
「キュリアケー・ヘーメラ」を、使徒2071コリント162では、今の暦の日曜日に使っています。これらの個所から、主が復活された日曜日に主を礼拝していたのがわかります。
③「主の日」は、「キリスト・イエスの日」or「キリストの日」という表現で、キリストの空中再臨の日、すなわち「携挙の日」の用法でも使われます。
④ ①以外の場合でも、主が主の敵を裁き、主の民を救われるときという意味で、主が圧倒的な力を持って直接介入される時をさしてつかわれることも多々あります。

 今日の聖書個所を読んだとき、私は黙示録等を思い浮かべました。
10
節には“空の星と星座は光を放たず、太陽が昇っても暗く、月もその光を照らさない。”と記されています。

 黙示録612.13には、“また私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった。”(2017)と記され、
 黙示録812には“第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった。”(2017)と記され、
 マタイ2429には、主イエス様が弟子たちに直接語られた「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。」という御言葉が記されています。

 13節には“それゆえ、私は天を震わせ、その燃える怒りの日に、地はその場で揺れ動く。万軍の主の憤りのゆえに。”と記されています。

 イザヤ2417-21には次のように記されています。
17 地に住む者よ、恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。
18
 恐怖の叫びから逃れる者は落とし穴に落ちる。落とし穴の中から這い上がる者は罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
19
 地は裂けに裂け、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。
20
 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。地の背きは地の上に重く、地は倒れて再び起き上がることはない。
21
 その日になると、主は罰する。天上では天上の軍勢を、大地の上では大地の王たちを。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イザヤ2419.20のような地震は、黙示録1617-19aに記されている次の聖句を思い起こします。
17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、「事は成った」と言った。
18
 そして、稲妻、轟音、雷鳴が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
19
 あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 私たち日本人は、大きな地震を体験していますが、ここに預言されている地震は、今まで人類が体験してきた最も大きな地震よりも大きいと記されています。

 今日の聖書個所には、神ヤハウェ(主)が、このような災いを何故もたらされるのかということについて、11節に次のように記されています。
“私は、世界をその悪のゆえに罰し、悪人たちをその罪のゆえに罰する。
私は傲慢な者が高ぶるのをやめさせ、横暴な者の高慢をおとしめる。”とあります。

 このような災害を主が与えられる理由について、9.11節は次のように記しています。
9 見よ、主の日が来る。容赦ない憤りと燃える怒りをもって地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。/
11
私は、世界をその悪のゆえに罰し、悪人たちをその罪のゆえに罰する。
私は傲慢な者が高ぶるのをやめさせ、横暴な者の高慢をおとしめる。”とあります。

 9節の「罪人」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハター」で、犯罪者、(宗教、道徳上の)罪人、等の意があります。

 主イエス様は、次のように語られました。
「その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないからです。」(ヨハネ168.92017)と記されています。

 主の大きな裁きのときには、いつも神ヤハウェ(主)を信じないということが裁きの原因になっていることを聖書から教えられます。神ヤハウェ(主)に背を向けて他のものを主とし続けていることが裁きを招くのです。
主に従っていなければ、意識するかどうかは別にして、サタン(悪魔)に従っているのです。
旧約聖書はヤハウェを「主」と訳していますが、新約聖書において「主」は、イエス・キリスト様です。

 主の裁きによって多くの人が死にます。
11.12
節には、
“私は、世界をその悪のゆえに罰し、悪人たちをその罪のゆえに罰する。
私は傲慢な者〔創造神である主を、主としないことは最高の傲慢です(筆者挿入)〕が高ぶるのをやめさせ、横暴な者の高慢をおとしめる。
私は人間を純金よりも、人をオフィルの黄金よりも貴いものとする〔人をオフィルの金よりも少なくする (新改訳初版~第三版)〕。 ”と記されています。

 黙示録には、
67 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物が「行け」と言うのを聞いた。
8
 そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は「死」と言い、これに陰府が従っていた〔陰府が従うということは死ぬということです(筆者挿入)〕。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。/
9
13 第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。
14
 その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かいこう言った。「大河ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を解き放ちなさい。」
15
 すると四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放たれた。彼らはその年、その月、その日、その時間のために備え置かれていたのである。
16
 騎兵の数は二億、私はその数を聞いた。/
14
17 また、もう一人の天使が天の神殿から出て来たが、この天使も鋭い鎌を手にしていた。
18
 すると、火をつかさどる権威を持つもう一人の天使が、祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「あなたの鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房〔主のブドウの木{ヨハネ151}の房ではない、偽りのブドウの木についているブドウの房のことだろうと思います(筆者挿入)〕を取り入れよ。ぶどうの実は熟している〔悪の完熟(筆者挿入)〕。」
19
 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ込んだ。
20
 搾り桶は都の外で踏まれた。すると、搾り桶から血が流れ出し、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオン〔296km(筆者挿入)〕にわたって広がった/
その他”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1テサロニケ59.10には、
9 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
10
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
まだ主イエス様を自分の救い主、主、として信じていない人たちが多くいますが、願わくは主の御怒りが発せられる前に、まだ信じていない人たちが、キリスト・イエス様を自分の救い主として、自分の主として信じて救われますように。
主の御救いにあずかり、神の御怒りにあうことから免れ、とこしえに恵みと愛に満ちておられる主と共に永遠を生きることができますようにと願います。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”(1テモテ242017
“主は、・・。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです〔すべての人が回心に至るようにと望んでいるのである(岩波訳)〕。”(2ペテロ39抜粋・2017
“私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。”(申命記3019.20抜粋・2017

<救われたい人のために>
以下の祈りに同意できるならば、自分の祈りとして祈ってください。
「イエス・キリストの父なる神様。
私は、今まで、神様に、また救い主であり、主であるイエス・キリスト様に背を向けて歩んできました。
ごめんなさい。
イエス・キリスト様の十字架の贖いが、私のためであったことを信じて感謝します。
イエス様を信じた以上、私の罪を赦してくださいましたことを信じて感謝します。
これからとこしえまで、主と共に歩ませていただけますように。
あなたは、義にして愛なる神ですから、そのようにしてくださいますことを感謝します。
私たちの父なる神様に、私たちの主、救い主、イエス・キリスト様の御名によって祈ります。アーメン。」

2024年3月 7日 (木)

黙示録20:4ー6 千年王国の裁判官と支配者たち

 黙示録204.5には次のように記されています。
4 また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。
また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。
この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印〔666の刻印(筆者挿入)〕を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。
5
 その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
6
 第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節には“また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。”と記されています。

 キリストの千年王国における裁判官は、携挙されたキリスト者であることが1コリント62.3に記されています。その箇所の聖句を抜粋すると次のようになります。
“あなたがた・・・聖なる者たちが世を裁くのです。・・・。私たちが天使をさえ裁く・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また主イエス様は、12弟子に対して次のように語られました。
「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。」(マタイ1928・聖書協会共同訳)と記されています。
ルカの福音書には、「・・、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる。」(ルカ1230・聖書協会共同訳)と記されています。

 黙示録3章のラオディキアの教会は、黙示録が記された当時にあった教会であり、その教会に対する警告や勧告、また主に従う者への祝福が記されていますが、預言的には、現代の教会に対するものとも考えられています。その中に次のような聖句があります。
「見よ、私〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉〔心の扉(筆者挿入)〕を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、私の座に共に着かせよう。私が勝利し、私の父と共に玉座に着いたのと同じように。」(黙示録320.21・聖書協会共同訳)と記されています。

 4b.cには“また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印〔666の刻印(筆者挿入)〕を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。”と記され、
6
節には“また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印〔666の刻印(筆者挿入)〕を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。”と記されています。

 “あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。”とあります。
獣と獣の像への礼拝と額や手の刻印の話は、黙示録13章に記されています。
 <サタンからサタンの力と王座と権威を与えられた第一の獣について>
13:1 また私は、一頭の獣が海から上って来るのを見た。その獣には十本の角と七つの頭があり、角には十の王冠、頭には神を冒瀆する名があった。
2
 私が見たこの獣は豹に似ていて、足は熊のようで、口は獅子のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。
3
 獣は頭の一つに死ぬほどの傷を受けたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した〔キリストの死と復活のまねごと(筆者挿入)〕。
4
 竜〔竜=サタンは父なる神のまねごとをしている。イザヤ1413.14参照(筆者挿入)〕が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「誰がこの獣と比べられよう。誰がこの獣と戦うことができようか。」
5
 この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
6
 そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名とその幕屋、天に住む者たちを冒瀆した〔天に住む者たちの中には携挙された人たちもいます(筆者挿入)〕。
7
 獣は聖なる者たち〔地上でまことの神を信じている者たち=艱難時代の聖徒達(筆者挿入)〕と戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた〔獣=反キリストに全世界の民を支配する権威が与えられた(筆者挿入)〕。
8
 地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者〔別訳「天地創造の時から屠られた小羊の命の書に、その名が記されていない者」(欄外注)〕は皆、この獣を拝むであろう。
9
 耳のある者は聞くがよい。
10
 捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰がある。”(聖書協会共同訳)とあります。

 <第一の獣(反キリスト)を礼拝させるように仕向ける第二の獣(聖霊のまねごとをするところの汚れた霊に憑かれた者)>
黙示録1311-18には次のように記されています。
11 また私は、もう一頭の獣が地中から上って来るのを見た。この獣には、小羊に似た二本の角があって、竜のように語った。
12
 この獣は、第一の獣が持っていたすべての権威をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、死ぬほどの傷が治った第一の獣を拝ませた。
13
 そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火をも降らせた。
14
 さらに、第一の獣の前で行うことを許された数々のしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣の傷を負ったがなお生きている第一の獣の像を造るように、地上に住む人たちに命じた
15
 第二の獣は、獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた
16
 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。〔新生したキリスト者は聖霊の刻印が押されました(エペソ113.14)し、神のしもべの144000人の人たちにはその額に神の印が押されました(黙示録73.4)。それをまねして、悪しき霊に支配された第二の獣は、第一の獣(反キリスト)の刻印を、大患難時代にサタンに付く人たちに刻印するのです(筆者挿入)〕
17
 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
18
 ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神は唯一であり三位一体ですが、サタンも神をまねて上記のような、竜と第一の獣、第二の獣からなる三位一体のまねごとをするのです。

 獣を礼拝せず、獣の偶像も礼拝せず、獣の刻印(666の刻印)を受けない故に殺された人たちは、キリストの地上再臨後に、生き返って、キリストの千年王国においてキリストと共に支配者として主に仕えるのです。そして、この人たちには第二の死(黙示録2014)はありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を信じ通した者たちの千年王国における祝福を読ませていただきました。
感謝します。
いつも主に信頼し続けて生涯を全うする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 6日 (水)

箴言28:4 聖書は神の霊の導きのもとに書かれたものです/聖句を捻じ曲げる者、聖句を信じさせないようにする者に注意しましょう

 箴言284を、
聖書協会共同訳は“教えを捨てる者は悪しき者を賛美するが、教えを守る人は彼らと闘う。”と訳し、
2017
は“おしえを捨てる者は悪しき者をほめる。おしえを守る者は彼らに敵対する。”と訳し、
リビングバイブルは“教えに文句を言うのは、悪者をほめることです。教えを守ることは、悪者と戦うことです。”と訳しています。

 「教え」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーラー」で、教え、教訓、訓示、勧告、十戒、モーセ五書等の意に用いられます。

 「トーラー」が、モーセ五書ならば、新約聖書や旧約聖書のモーセ五書以外の他の書物は軽く見ても良いのか、というとそうではありません。

 モーセ五書の中の申命記1815-19には次のような聖句が記されています。
15 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。
16
 これは、あなたが集会の日にホレブで、あなたの神、主に「私が死ぬことがないよう、私の神、主の声を二度と聞かず、また、この大いなる火を再び見ることのないようにしてください」と言って求めたことによるものである〔出エジプト2019参照(筆者挿入)〕。
17
 その時、主は私に言われた。
「彼らの言うことはもっともである。18 私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。19 彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 
 18節に「私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。」と記されています。
この節の預言者こそ、神でありながら人ともなられたイエス・キリスト様であったのです。

 上記19節には、ヤハウェ(主)の御言葉で「彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する。」と記されています。
すなわち、主イエス・キリスト様のことばに聞き従わない者は、責任を追及されるのです。

 主イエス様は、
「わたしと父とは一つです」(ヨハネ1030・新改訳)と語られ、
また「わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(ヨハネ14102017)と語られ、
「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること〔参照:出エジプト314=神が永遠であることを表しています。キリストの証言は、キリストが永遠の御方であり神であるということを述べているのです(筆者挿入)〕、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(ヨハネ8282017)と語られました。

 主イエス様がクレオパともう一人の弟子に話した内容、及び二人の弟子の会話からから、聖書のことばは、モーセ五書だけではないことを知ることができます。
ルカ24章には、
25 そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」
27
 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。/
31
 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32
 二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また、他の弟子たちが集まっているところにも主イエス様は現れて、
「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。」(ルカ2444・聖書協会共同訳)と語られたのです。

 また、黙示録11には“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。”(2017)と記され、
2
テモテ316には“聖書はすべて神の霊感によるもので〔「霊感を受けて書かれたもので」(聖書協会共同訳)、「霊の導きの下に書かれ」(新共同訳)〕、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
サドカイ派の人たちは、モーセ五書に中心をおき、モーセ五書に記された律法にのみ最終権威を認め、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定した人たちですが、主イエス様は、そのようなあり方は間違いであることを教えてくださいました。ありがとうございます。
昔から今まで、聖書よりも自分が偉くなっている人が多く輩出していますが、だまされることなく、御霊に導かれて聖書を読む者であらせてください。
常にあなたと交わり、あなたの御言葉が真実であることを体験させていただきつつ、あなたを愛し、あなたに在る喜びをもって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“自然の人〔新生していない人(筆者挿入)〕は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊〔神の霊(筆者挿入)〕によって初めて判断できるからです。”(1コリント214・聖書協会共同訳)

2024年3月 5日 (火)

詩篇106:32.33 モーセの罪/御言葉に従う重要性

 詩篇10632.33には次のように記されています。
32 彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせ、それゆえにモーセに災いが起こった。
33
 それは彼らがモーセの霊に逆らったとき、モーセが唇で軽率に語ったからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所の出来事は、民数記201-13に次のように記されています。
1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。
 2 さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。
3
 民はモーセと言い争った。
「私たちの兄弟が主の前で死に絶えたとき、私たちも死に絶えていればよかった
〔・・、われわれの兄弟たちが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに(2017)〕。
4
 なぜ、あなたがたはこんな荒れ野に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の会衆を導き入れたのですか。私たちと家畜をここで死なせるためですか。
5
 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、 飲み水さえもありません。」
 6 モーセとアロンは会衆から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。すると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が彼らに現れた。
 7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。
8
 「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」
 9 モーセは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が命じられたとおりに、主の前から杖を取り、10 モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。
「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」
 11 モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。
 12 だが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセとアロンに言われた。
「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。」
 13 これがメリバ〔争い、口論、喧嘩、の意(筆者挿入)〕の水であり、そこでイスラエルの人々が主と争ったが、主は自らが聖なる者であることを彼らのうちに示されたのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節に“イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。”とあります。
「第一の月に」とありますが、これは出エジプトしてから40年目の第一の月です。

 3節を、2017は“・・・われわれの兄弟たちが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに”と訳しています。
2017
が「死んだとき」と訳している個所は、ヘブライ語聖書通りです。
聖書協会共同訳は「死に絶えたとき」と訳して、出エジプトした民の、当時20歳以上であった者たちが罪のゆえに荒野で死に絶えたことをわからせるために意訳しているのだろうと推測します(民数記13.14章参照)。
 特に、民数記1426-35には次のように記されています。
26 主はモーセとアロンに告げられた。
27
 「この悪しき会衆は、いつまで、私に対して不平を言うのか。私は、イスラエルの人々が私に対して言い続ける不平を十分聞いた。28 あなたは彼らに言いなさい。私は生きている――主の仰せ。私は、あなたがたが私の耳に語ったとおり、あなたがたに対して行う。29 あなたがたの死体はこの荒れ野に倒れるであろう。私に対して不平を言った者、すなわち、あなたがたのうち二十歳以上で、登録をされ、数えられた者は皆、倒れるであろう。〔この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。(2017)〕30 あなたがたは、私があなたがたを住まわせると誓った地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。31 あなたがたは『幼子たちが奪われる』と言ったが、私は幼子たちを導き入れる。彼らはあなたがたの拒んだその地を知るようになる。32 だが、あなたがたは死体となってこの荒れ野に倒れ、33 あなたがたの子どもは、あなたがたの死体が荒れ野で朽ち果てるまで、四十年の間、荒れ野で羊飼いとなってあなたがたの背信の罪を負う。34 あなたがたがあの地を偵察した四十日という日数に従い、一日を一年として四十年の間、あなたがたは自分の罪を負い、あなたがたは私に反逆することの意味を知るであろう。35 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である私が言う。私に逆らって集まったこの悪い全会衆に対して、私は必ずこのことを行う。彼らはこの荒れ野で絶え果てて、死ぬ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 出エジプトした初代の大人たちは、ヤハウェ(主)に逆らう罪のゆえに上記のように宣告され、ヤハウェ(主)の宣告通りに死に絶えたのでしょう。

 次世代の者たちも、出エジプトして40年目の第一の月にヤハウェ(主)と言い争ったのです(モーセと言い争うことは主と言い争うことでした。モーセは主の命令に従って行動していたのですから)。

 <モーセの罪>
 ヤハウェ(主)は、モーセに次のように語られたのです。
「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」(8

 しかし、モーセは命令に従わず、更に自分を高め、主を聖としませんでした。モーセは主に栄光を帰さなかったのです。
モーセは民に次のように語り、また行動しました。
①「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」(10
モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。
と記されています。

 モーセは、「恵みと慈愛に富み給うヤハウェ(主)は、あなたがたに水を与えてくださいます。主に感謝していただきなさい。」と言えばよかったのに、と思います。

 パウロは、「岩」について、
「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(1コリント104・新共同訳)と述べています。

 岩であるキリスト・イエス様に向かってお願いするだけでよかったのです。
イエス様は次のように言われました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ737.382017)と。
メリバの水は、このことの予表的な出来事であったのかもしれません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつもあなたに対してへりくだって歩む者であらせてください。
また主が恵みをもって応えてくださったことに対して、いつも感謝と賛美を忘れることがありませんようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 4日 (月)

黙示録16章 義なる神による七つの最後の災い(神の御怒りの頂点)/多くの人は愛なる神を受け入れ易いが神が義であることを受け入れにくい/恵みと信仰による救い

 黙示録16章には次のように記されています。
1 また私は、神殿から大きな声がして、七人の天使にこう言うのを聞いた。
「行って、七つの鉢に満たされた神の怒りを地に注げ。」
 2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地に注ぐと、獣の刻印を押されている者たち、また、獣の像を拝む者たちにひどい悪性の腫れ物ができた。
 3 第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、海の生き物はことごとく死んでしまった。
 4 第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。
5
 その時、私は水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。
「今おられ、かつておられた聖なる方、あなたは正しい方です。このような裁きをして くださったからです。6 その者たちは、聖なる者と預言者たちの血を流しましたが、あなたはその者たちに血を飲ませました。それは当然なことです。」
7
 また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。
「然り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。」
 8 第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。
9
 人間は、熱で激しく焼かれたが、これらの災いをつかさどる権威を持つ神の名を冒涜し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
 10 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣の国は闇に覆われた。人々は苦痛のあまり自分の舌をかみ、11 苦痛と腫れ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めなかった。
 12 第六の天使が、その鉢の中身を大河ユーフラテスに注ぐと、水が涸れ、日の昇る方角からやって来る王たちの道ができた。
13
 また私は、竜の口から、獣の口から、そして偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
14
 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
 15 ――見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――
 16 汚れた三つの霊は、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に王たちを集めた。
 17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、「事は成った」と言った。
18
 そして、稲妻、轟音、雷鳴が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
19
 あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い起こし、怒りに満ちたぶどう酒の杯をこれにお与えになった。
20
 島々は逃げ去り、山々も消えうせた。
21
 一タラントンほどの重さもある大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々はその雹の災いのゆえに神を冒涜した。被害があまりにも大きかったからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここに記されている内容は、大患難時代の最後の頃で、
①悪魔(サタン)に従う人たちに対する裁き(24-7810)、
②海の生物に対する裁き(3)、
③最終局における裁き(ゼカリヤ129、黙示録1919-21)の準備(12-14.16
④地への裁き(18-21)等が記されています。

 その内容を箇条書きにすると、
①サタンに従った者たち、すなわち666の刻印を額か右手に受けた者たち(黙示録13章参照)に悪性の腫れ物ができた。
②海洋生物の全滅
③飲料水の消失(水が血になる)
④太陽が燃え盛る(核融合増大)・・・人が炎熱で焼かれる
⑤獣(時の世界支配者)の都バビロンが暗闇に覆われる
⑥歴史上最大の大地震、大きな地殻変動{エルサレムを除く山々が山とは呼べない程に低くなった(イザヤ22も参照)。島が見えなくなった。}、巨大な雹(一個が約35kg)が人々の上に降る

 ローマの信徒への手紙の中で、パウロは次のような文を書いています。
18 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。”(ローマ1章・聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、大患難時代の最後の裁き{神の裁きは、この後も羊と山羊の裁き(マタイ2531-46)や白い御座の裁き(黙示録2011-15)があります}をもたらす前に、天使を用いて全世界に永遠の福音を伝えさせました。
 黙示録146.7には次のように記されています。
6 また私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、7 大声で言った。
神を畏れ神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 アブラハムは、永遠の福音に記されているように神ヤハウェ(主)を礼拝したことでしょう。
主イエス様の復活後に聖霊が遣わされましたが、聖霊は、「イエス・キリストを信じないことが罪である。」(ヨハネ169)と教えてくださったのです。

 主イエス様は、トマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ2027)と言われました。
イエス様はトマスに、信じないという的外れのありようではなく、信じるということが御心にかなっていることだよ、と教えられたのです。
イエス様を信じない、ということから心を変えて、イエス様を信じる、という方向に方向転換すると、救われるのです。
トマスの場合は、主イエス様の御復活を信じることができなかったのです。

 1コリント151-6aには次のように記されています。
1 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、2 これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。
もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
 3 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと
4
 葬られたこと
また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
5
 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。6 その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリストの十字架と復活は福音の根拠なのです。
ペテロは次のように記しました。
222 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた/
1
3 ・・・・。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(1ペテロ・2017)と記し、
 そしてペテロは、“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。”(1ペテロ18.92017)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、義なる神ですが、愛なる神です。
ハレルヤ!
私たちの罪を身代わりに負って十字架上で死に、そして3日目によみがえって下さった主イエス様を、信じない者ではなく、信じる者としてくださいましたことを感謝します。
主を愛し、主に信頼し、日々主に従う者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 3日 (日)

黙示録20:1-3 悪魔(サタン)が悪魔の獄に入れられ、悪魔のいない世界が用意される/サタンとは

 黙示録201-3には次のように記されています。
1 また私は、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降(くだ)って来るのを見た。
2
 この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、3 底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。
千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。
その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになっている。”(聖書協会共同訳)とあります。

 サタンは大天使として造られた(エゼキエル2812c-15)にもかかわらず、神ヤハウェ(主)に、自由意思によって反逆し(イザヤ1413.14、エゼキエル2816.17a)たのです。堕罪前のサタンは、ヘブライ語で「ヘイレル」(「明けの明星」、英語で「ルシファー」)と呼ばれていたようです(イザヤ1412)。
サタンは、神様が造られた人類の始祖アダムとエバを堕罪へと導き、神に対して不従順になるという悪を人類に導入しました。
その結果、私たち全員は、罪の性質(原罪)をもって生まれるようになり、罪の性質を持っているゆえに、罪(複数形)を犯すことが当たり前のことになったのです(ローマ512)。
 
 余談になりますが、
人は罪の性質を持って生まれてきたゆえに、生まれながらの人(新生していない人)は、創造主なる神様を畏れ敬い、主なる神様に従うということを無意識のうちに嫌っています。
 新生していない人が、悪魔悪霊の支配している偽りの神を信じることは、比較的簡単です。
そして、そのような偽りの神を信じて、自分は信心深いと思っているのです。
 サタンは、無神論や、進化論も導入しました。
自分は頭が良いから、偶像などは信じない、という人もサタンにまんまとやられて、唯物論、進化論を信じるのです。
 新生していない人は、道徳的、倫理的な事柄についても、主なる神様が与えてくださった神のことばである聖書をそのまま信じることをせず、ヒューマニズムに基づいて判断したり、孔子、孟子、釈迦、その他の思想家等の教えを取り入れる人もいます。
 また新生していない人は、神のひとり子であり、救い主であり、創造主であり、万物を保持しているお方であり、万物の主であるお方であるイエス・キリストを信じない(信頼しない)のです(へブル12.3、コロサイ116.17、エペソ21-3、ヨハネ1691ペテロ221-24、ピリピ26-8、マタイ2818.etc.)。
 それだけではなく、生まれながらの人の内には罪が住んでいるので、霊的には暗闇で、サタンに従うことが自然のこととなっているのです(ローマ718.201ヨハネ519)。

 話を元に戻します。
神様は、天使を遣わして、いとも簡単に、サタンをサタンの獄に入れてしまわれます。それ故、主イエス様が統治なさる千年間、悪魔が人々を困らせることがなくなります。
神様はその時まで、どうして悪魔悪霊を野放しにしておいたのでしょうか。
その要因のいくつかは、悪魔悪霊の働きを用いて、人の心をより明らかにすることや、主なる神様を信じる者を霊的に成長させる一助とするためであったのではないか、また、主なる神様のすばらしさをより詳しく知るため、また自分自身をよく知るため、その他のため、であると思います。
 
 聖書辞典は、悪魔(サタン)について、次のように述べています。
“サタン (〈ヘ〉satan、〈ギ〉Satanas
元来は「敵対者」という意味。
 旧約聖書においてサタンへの言及はまれであるが、
ヨブ1‐2章では「神の子ら」と共に、神の前に姿を現す。そこからしばしばサタンが特別な悪としてではなく、単に御使いの一人として考えられることもあるが、サタンの活動がヨブに対して敵対するものであることは明らかである。
 彼〔サタン(筆者挿入)〕はダビデに人口調査をするように仕向け(21:1)、
大祭司ヨシュアを訴えるためにその右手に立ち(ゼカ3:1)、結局「サタンよ。主がおまえをとがめている」と言われている(ゼカ3:2)。
 また詩人はサタンが人の右手に立つことを悲惨なことと解釈し、これを報復の表現として用いている(詩109:6「なじる者」)。
 ヨハネは「悪魔は初めから罪を犯している」(Iヨハ3:8)と言っているが、旧約聖書もこれを支持している。

サタンに関する資料のほとんどは新約聖書による。
新約聖書では彼を悪魔(マタ4:1,ルカ4:3,ヨハネ8:44,使10:38等)、試みる者(マタ4:3)、誘惑者(テサ3:5)、悪い者(マタ13:19)、告発者(黙12:10)、敵(マタ13:39,ルカ10:19)、悪霊どものかしら(マタ9:34,マコ3:22)などと呼んでいる。他の表現では「この世を支配する者」(ヨハネ12:31)、「空中の権威を持つ支配者」(エペ2:2)、「ベルゼブル」(マタ10:25)などがある。

サタンは常に神への敵対者(ルカ22:3)、また神の計画を破壊する者として描かれている(マコ4:15)。
 マタイとルカはイエスの働きの初めに、そのわざをむなしいものとしようとして悪魔が誘惑したことを記す(マタ4:1‐11,ルカ4:1‐13)。悪魔の誘惑が退けられた時、「悪魔はしばらくの間イエスから離れた」(ルカ4:13)。これは後になって争いが再開されるであろうことを示唆している。
 彼〔サタン(筆者挿入)〕は悪霊に命じて人の心に住まわせ(マタ12:22‐29,マコ3:22‐27)、
イエスの弟子たちに働きかけ(マタ16:23)、
主の受難においてはサタンがユダに入ったと言われている(ルカ22:3,ヨハネ13:27)。
またアナニヤ、サッピラの心を奪い(使5:3)、宣教を妨害するなど(テサ2:18)、巧妙で活動的存在としてキリスト者のあり方に公然と敵対している(使13:10)。
 人間はサタンに自らを明け渡すことができるので、その結果サタンに属する者となり「悪魔の子ども」と呼ばれる(ヨハ3:10)。
 こうして私たちは「サタンの会衆」、「サタンの王座がある」所に住む人々について新約聖書から知ることができるのである(黙2:9,13)。

イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔のしわざを打ちこわすため」にほかならなかった(Ⅰヨハ3:8.参照ヘブ2:14)。
 新約聖書の至る所で、神および善の力とサタンに導かれた悪の力との大きな戦いがあることが示されている(エペ6:12,Ⅰペテ5:8‐9)。
この戦いが激しいものであることを、ペテロは「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と表現し(ペテ5:8)、
パウロは悪魔の巧妙さに注目して「サタンさえ光の御使いに変装する」と指摘している(コリ11:14)。

ゆえにキリスト者は悪魔の策略に対抗できるために、神のすべての武具を身につけることが勧められる(エペ6:11,ヤコ4:7)。
 サタンが、さまざまな「欺き」「策略」(コリ2:11)、「わな」(テモ3:7)をもって戦いを挑んでくるとはいえ、聖書は私たちが二元論に陥ることのないように留意している(参照ヨブ1:6‐12)。
 サタンは、イエスの十字架と復活によって一度打ち破られた以上、すでに敗北者なのである。
ゆえに新約聖書は、神の計画を初め、主イエス・キリスト、信仰者に敵対するサタンの姿を明らかにしつつ、同時に彼の限界と敗北を主張している。すなわち彼の力は派生的であり(ルカ4:6)、その活動は神が許された範囲でしか行えない(ヨブ1:12,2:6)。
 イエスは70人の弟子たちによる伝道の際に、勝利の予告をかいま見られた(ルカ10:18)。またサタンが「追い出される」(ヨハネ12:31)、「さばかれた」(ヨハネ16:11)と言い、サタンに対する勝利を明らかに示している。
 悪魔と堕落した御使いたちのために備えられている「永遠の火」についても語られ(マタ25:41)、ヨハネはそれが世の終りに実現する幻を見て「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」(黙20:10)と表現している。

宣教者の働きは人を「サタンの支配から神に立ち返らせる」ことである(使26:18)。
パウロは、イエスの勝利と、
耐えることのできないような試練にあわせることはしない神の真実と(コリ10:13)、
サタンの策略についての認識のゆえに(コリ2:11)、
信仰をもって「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」と言い得たのである(ロマ16:20)。

このように新約聖書におけるサタンに関する証言は明白であり、
サタンは悪意をもって常に神とその民に敵対する現実的存在である。
しかし、サタンはキリストの生涯と死、そしてよみがえりにおいてすでに敗北した者であり、この敗北は世の終りに決定的に明らかになり、御国は完成されるのである(Ⅰコリ15:24)。” (井出定治)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
サタンなんかいなければよいのに、と思う人も多いでしょうが、あなたは、人の思いをはるかに超えて、最善をなさるお方ですから御名を崇めます。
悪魔悪霊がいるおかげで、私たちは、自分の心がどのような状態であるのかをより詳しく知ることができるようにされました。
エペソ26の聖句にあるように、今や私たちの霊は、サタンの居場所よりも高い所に置かれていますことを感謝します。
悪魔悪霊の策略にごまかされることなく、常に主にあって勝利しながら歩み続けることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 2日 (土)

箴言28:3 幸いなるかな、憐れみ深い者

 箴言283を、
聖書協会共同訳は“弱い人を虐げる貧しい男は、収穫を押し流し、台なしにする雨。”と訳し、
2017
は“弱い者を虐げる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。”と訳し、
リビングバイブルは“貧しい人が自分より貧しい人をいじめるのは、激しい流れが、あっという間に、最後の頼みの綱を押し流すようなものです。”と意訳しています。

 「貧しい男」(聖書協会共同訳)、「貧しい者」(2017)、「貧しい人」(リビングバイブル)と訳されている語の「男」「者」「人」とある語のヘブライ語原語は「ゲベル」で、勇敢な人、勇士、戦士、の意があり、その他、人、の意にも使われます。

 日本でも、ホームレスをいじめる人たち、生活保護者への支給費を搾取する人たち等のニュースを見たことがあると思います。
昔も今も、同じような人がいることを知りますね。

 一方、主イエス様は、「幸いなのは、憐れみ深い人ですよ」と言われました。
主イエス様ご自身、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(2017)と、声をかけてくださいました。
更に、主イエス様は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ637・新共同訳)とも言われました。

 貧しい人、疲れた人、重荷を負っている人は、主イエス様のもとへ行くに限ります。
主イエス様は、その人その人に応じて、最善をなさってくださいます。

 弱いい人が私たちを訪ねて来た時には、どうしたらよいのでしょう。
主に祈りながら善処することだと思います。
祈りを忘れて、自分の出来そうなことをあれこれと考え、事を行ってしまうと的外れになるかもしれません。

 ガラテヤ62には“互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。”(2017)とも記されています。
互いの重荷を負い合うことは、キリストの律法を成就することになることがわかります。
主イエス様は、他の個所で、「神を愛し、隣人を愛しなさい。」と言われたことがあり、また「あなたがたは、互いに愛し合いなさい。」と言われたこともありました。(マタイ2237.39、ヨハネ1334参照)

 ヤコブ212.13には次のような警告が記されています。
「自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(2017)と語られました。
ガラテヤ522.23には、“御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制”(口語訳)と記されています。
御霊の実としての「慈愛」に満ちた歩みをすることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 1日 (金)

詩篇106:28-31 偶像礼拝者への裁き/主を愛する歩み

 詩篇10628-31には次のように記されています。
28 彼らはバアル・ペオルに付き従い、死者に献げたいけにえを食べた。
29
 その行いは主を怒らせ、疫病が彼らの間に広がった。
30
 ピネハスが立って執り成すと、疫病は収まった。
31
 これは代々とこしえにピネハスの義と見なされた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は民数記25章の出来事を述べています。
28.29
節に相当する民数記の個所は、民数記251-3であり、その箇所には次のように記されています。
1 イスラエルがシティムにとどまっていたとき、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。
2
 娘たちは民を招いて、自分の神々にいけにえを献げ、民はそれを食べて彼女たちの神々にひれ伏した。
3
 イスラエルはこうして、ペオルのバアルに付き従ったので、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 これ(性的不道徳と偶像礼拝)を画策した(民数記2515.17.18311-8,16等を参照)のは、貪欲を捨てきれなかった魔術師・占い師でありながら、強制的に神ヤハウェ(主)にヤハウェ(主)の預言活動をさせられたバラムでした(民数記22-24章参照)。
黙示録214には“バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。”(2017)と記されています。

 民数記251-3に関して、Bibleナビは次のように記しています(抜粋)。
“聖書には、どのようにしてイスラエルの男たちが性的不道徳に落ちて行ったのか、書かれてはいない。私たちは、カナン人の数々の宗教では、聖なる売春が一般的だったことは知っている。最初、イスラエル人は、偶像礼拝について考えもせず、ただ、みだらなことに興味があっただけだった。やがて彼らは、偶像礼拝を含む、その地域の祝宴や、家族の儀式に参加するようになった。すぐに彼らは、自分たちの理解を超えた多神教を信仰する文化の習慣に溶け込んでいった。彼らの興味と享楽が霊的な神との契約をぐらつかせる原因となった。/
不品行の罪と偶像礼拝の組み合わせは、イスラエルを祝福し、彼らの味方として現れたバラムの狙いでもあった(民数記3116、黙示録214)。バラムは、少なくともしばらくの間は、すべて正しいことを言い、行っていたように見えるので(民数記22.24章)、イスラエル人がどのようにして間違った方向に導かれたかを理解することは簡単である。バラムが彼らに大きなダメージを負わせる直前になってようやく、イスラエル人は、バラムが欲深く、魔術を使って、深く多神教の習慣にかかわっていたことに気づいたのだった。”とあります。

 詩篇10628には“彼らはバアル・ペオルに付き従い、死者に献げたいけにえを食べた。”と記されています。
日本でも、死者である先祖に供物を献げ、また捧げたものを食べるというようなことが、あちらこちらで行われているのではないでしょうか。

 詩篇10629には“その行いは主を怒らせ、疫病が彼らの間に広がった。”と記されています。
2017
は、民数記259を“この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。”と訳していますが、
聖書協会共同訳は“この疫病で死んだ者は二万四千人であった。”と訳しています。
「罰」(2017)、「疫病」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「マゲーファー」で、疫病、悪疫、の意があり、その他、打撃、一撃等の意もあります。

 ヤハウェ(主)は、偶像礼拝と性的貪欲である性的不品行を疫病で罰せられたのでした。
テレビやネットのニュースで見る日本は偶像礼拝が蔓延し、性的不品行もあちこちであるような感じですね。
偶像礼拝は、悪霊礼拝です(1コリント1014.19.20)。

 詩篇10630.31には“ピネハスが立って執り成すと、疫病は収まった。これは代々とこしえにピネハスの義と見なされた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
この個所をリビングバイブルは、
“ピネハスが災いを引き起こした張本人を処刑すると、神の罰はおさまりました。このピネハスの適切な処断は歴史に残るでしょう。”と訳しています。

 30節の「執り成す」(聖書協会共同訳)、「処刑する」(リビングバイブル)、「仲立ち」(新改訳)、「祈る」(新共同訳)、「仲裁」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「パーラル」で、裁判すること、判断すること、の意があり、転じて、とりなしをする、祈る、仲裁する、等の意があります。

 30.31節の出来事は、民数記25章を読むとよくわかります。
この時のピネハスは、ただ祈っていたのではありませんでした。
民数記25章には次のように記されています。
1 イスラエルがシティムにとどまっていたとき、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。
2
 娘たちは民を招いて、自分の神々にいけにえを献げ、民はそれを食べて彼女たちの神々にひれ伏した。
3
 イスラエルはこうして、ペオルのバアルに付き従ったので、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。
4
 主はモーセに言われた。「民の頭(かしら)をことごとく捕らえ、主のために彼らを処刑し、白日のもとにさらしなさい。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから去るであろう。」
5
 モーセはイスラエルの裁き人たちに言った。「あなたがたはおのおの、自分の配下で、ペオルのバアルに付き従った者たちを殺しなさい。」
6
 この時、モーセとイスラエル人の全会衆の前にイスラエル人の男がやって来て、兄弟たちのところにミデヤン人の女を連れ込んだ。それは彼らが会見の幕屋の入り口で泣いていたときのことであった
7
 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはこれを見ると、会衆の中から立ち上がって槍を手に取り8 そのイスラエル人を追いかけて奥の部屋まで行き、この二人、すなわち、そのイスラエル人と女を突き刺した。槍は女の腹にまで達した。イスラエル を襲った疫病はこれによってやんだが、9 この疫病で死んだ者は二万四千人であった。
 10 主はモーセに告げられた。
11
 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、私の熱情をイスラエルの人々の前に示すことで、彼らのうちから私の憤りを取り去った。それで私は、私の熱情〔「ねたみ」(新改訳)、「憤激」(口語訳)、ヘブライ語原語は「キンアー」でそれらのどの意もあります(筆者挿入)〕のためにイスラエルの人々を絶ち滅ぼすことはしなかった。
12
 それゆえ、あなたはこう言いなさい。私は彼に平和の契約を授ける。
13
 彼と、彼に続く子孫たちにとって、これは永遠の祭司職の契約となる。彼がその神にひたむきな熱情を示し、イスラエルの人々のために贖いをしたからである。」
14
 ミデヤン人の女と一緒に殺されたイスラエル人の名は、シメオン家の家長、サルの子ジムリであった。
15
 また、殺されたミデヤン人の女の名は、ミデヤンの部族の連合の頭、ツルの娘コズビであった。
 16 主はモーセに告げられた。
17
 「ミデヤン人を襲撃し、これを打ちなさい。
18
 彼ら〔ミデヤン人(筆者挿入)〕はあなたがたを巧妙な手口で襲い、ペオルの事件を引き起こし、また、この事件が原因で疫病が襲った日に、殺された彼らの姉妹、ミデヤン人の指導者の娘コズビの事件を起こしたからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 
 この出来事の背景が民数記3116に、“イスラエルの人々にとって、彼女たちはバラムの言葉に唆(そそのか)され、主への背信の罪を犯させたペオルの事件の張本人であり、そのために、主の会衆のうちに疫病が起きたのだ。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
偶像礼拝に陥ることなく、いつも主を愛し、主に従う者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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