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2024年4月

2024年4月30日 (火)

使徒1:15-26 イスカリオテのユダの自死とユダのポストの後継者のための選び

 使徒115-26には次のように記されています。
15 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていたが、ペトロはその中に立って言った。
16
 「きょうだいたち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
17
 ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ務めを割り当てられていました。
18
 ところで、この男は不正を働いて得た報酬で土地を手に入れたのですが、そこに真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいました。
19
 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
20
 詩編にはこう書いてあります。『彼の住まいは荒れ果て、そこに住む者はいなくなりますように。』また、『その職は、他人が取り上げるがよい。』
21-22
 ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
23
 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストとも言うヨセフと、マティアの二人を立てて、24 次のように祈った。
「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうち、どちらを選ばれたかをお示しください。
25
 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、この務めと使徒職を継がせるためです。」
26
 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスカリオテのユダは主イエス様を銀貨30枚で売った後、そのことを後悔し、銀貨を祭司長たちに返しに行きましたが、祭司たちに受け入れてもらえなかったので、その銀貨を神殿に投げ込み、首をつりました(マタイ273-5)。ユダは首をつったのですが、綱が切れたか枝が折れたかして(伝承)、ユダはまっさかさまに落ちて体が裂け、はらわたが外に出てしまったのです(使徒118)。

 余談になりますが、ユダは「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」(マタイ274a)と大祭司たちに言ったのです。悔いただけではなく、主イエス様のもとに戻れば赦してくださったのではないかと思うのです。
「悔い改め」と日本語聖書で訳されている語のギリシア語原語は「メタノイア」という語で、文字通りには心の転換を意味しています。回心です。メタノイアに相当するヘブライ語原語は「シューブ」という語で、(罪や神への不服従の状態から神に)「立ち返ること」を表しています。
私の表現を用いると、ペテロは、召使いの女に「あなたはあの人の仲間だ」と言われたとき、「私は、イエスという男を知らない。もし私の言葉が嘘であったら呪われてもよい(神の罰を受けてもよい)。」と言ったのです。
しかし、ペテロはその後、悔いましたが、ただ悔いただけではなく、主イエス様の下に行ったのです。まずは主の墓を見に行きました。

 話しを元に戻します。
イスカリオテのユダの死の際、体の落下に伴い、はらわたが飛び出すという破損を伴う出血がありました。祭司長たちは、ユダが神殿に投げ込んだ銀貨30枚を血の地所の代金として、ユダが落下した土地を買い、異国人のための墓地としました(使徒118.19、マタイ275-8)。

 ペトロ(ペテロ)と他の10人の使徒たちは、使徒の欠員を補うために、旧約時代のようにくじを引いてマティア(マッティア)を選出しました。
この段階での使徒たちは、直接御霊からの声によって使徒を任命することの出来る段階にはいなかったようです。

 話は変わりますが、
パウロは、御父と御子からの任命を受けて使徒とされたと自己紹介しています。
ガラテヤ11には“人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方〔キリスト(筆者挿入)〕を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主なる神様のご計画の中で、主の内にあっては、使徒が誰であるのかは、はっきりしています。
12
名の使徒名については、キリストの千年王国の後に来る新天新地を主なる神様が新創造された時、だれの目にも明らかになることが聖書に記されているからです。
黙示録2114には“都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。”(2017)と記されています。
この城壁の土台石に刻まれている使徒名は、主イエス様が選んだ11名ともう一人は誰なのでしょうか。
その時になればわかります(キリストの花嫁はそれ以前に分かります)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
詩篇328に「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(新改訳初版~第三版)と記されていますが、そのように、あなたの御声を明確に聞きつつ、進んで行くことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月29日 (月)

フィリピ1:29.30 恵みによって与えられる苦闘もある

 フィリピ127-30には次のように記されています。
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。
 あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、28 どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神 によることです。
 29 なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。
30
 あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、最後の晩餐の時に、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ1633・新改訳初版~第三版)と言われました(この時にはイスカリオテのユダはいません。イスカリオテのユダは少し後に自死しました)。
ヨハネを除く10人の使徒全員が殉教したのです。
ヨハネは島流しにあいましたが、そこで啓示が与えられ「黙示録」を残しました(神様のご計画であったのでしょう)。

 使徒でなくても、キリスト者は誰でも信仰の戦いから逃れることはできません。キリスト者の方が戦いたいと思わなくても、サタンは、悪霊やサタンの自由になる人達を使ってキリスト者に戦いを挑んでくるからです。

目的は、福音宣教の邪魔をすること、イエス・キリストへの信頼を揺るがせること、祈らないようにさせること、聖書を読めないようにさせること、恐れを抱かせること、・・・等々とあるでしょう。

イエス様を信じて少したってから、聖書を読む気がしない、祈れない、或いは祈る気がしない、礼拝に出ることに気後れする、などの現象に襲われることがあります。これらの多くは悪霊の働きや示された罪をそのままにしておくことから来るものです。

試しに、祈れないとき、「主よ、喜びを持って祈ることが出来るように祝福してください。悪霊が祈らせないように邪魔しているのであれば、悪霊を排除してください。主イエスの御名によって祈ります。」と祈ってみてください。スムーズに祈れるように変わっているかもしれませんよ。
また、祈りたいと思っているのに何か祈りにくいようなときには、悪霊に対して「主イエスの御名によって命じる。祈りを妨げている悪霊よ、引き下がれ。 主よ、私を祈りの霊で満たしてください。」というような祈りでも結構です。
悪霊による場合には、直ちに祈れるようになるでしょう。
祈り方は色々あります。
聖書を読めないとき、教会に行きたくないときもこれを応用してみてください。

また、信仰から遠ざかってしまう自分自身からくる問題としては、罪を示されているのに主に対して罪を告白していない、というのがあります。そのようにしていると主との間に壁が出来てしまいます。

罪を示されたら兎に角すぐに悔い改めることです。
主は“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。” (1ヨハネ192017)と約束してくださっておられるのですから。

信仰の戦いを戦い抜くためには、キリスト者としてふさわしい歩みをすることが大切であることを27節は教えてくれていると思います。

27節には“・・。あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦って・・、”(聖書協会共同訳)とあります。
聖書によっては、「一つの霊によって」と訳している聖書(聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳)と「霊を一つにして」と訳している聖書(文語訳、新改訳)がありますが、前者の方の訳の場合は「御霊によって」と捉えることができるでしょうし、後者の場合は「個々人の霊を主に在って一つにして」と捉えることができるだろうと思います。
いずれにしても、主と良い関係にあることが重要であることを覚えます。


御霊は、神ですからサタンやサタンの配下の悪霊に対して圧倒的な力を持っています。創造者と被造物との甚だしい違いがそこにはあります。終末に登場して世界を自分の手に治める獣(反キリスト)もキリストの体である教会の中におられる御霊が地上におられる間は、抑えられていて活動できないのです。(2テサロニケ26.7参照)

キリスト者の本体は、神から生まれた霊(ヨハネ11333.6)と救われて新しくされた魂{(キリストを信じキリストを愛する魂)1ペテロ18.92コリント5172ペテロ14}です。
それ故、万が一、肉体を使いものにならないようにされたとしても、イエス・キリストを信じる信仰をしっかり持っていたら、それは勝利です。

 1ヨハネ54には次のように記されています。
“神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。”(新共同訳)
“神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。”(2017)とあります。

この地上の肉体は、長く持っても120年でしょう。しかし、キリスト者は、永遠に滅びることなく古びることのない霊の体を頂くのです。
霊の体について、1コリント15章には次のように記されています。
「天上の体」(40)、「朽ちないもの(体)」(42)、「輝かしい(栄光ある)もの(体)」(43)、「力強いもの(体)」(43)とあります。
 1ヨハネ32には“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(2017)と記されています。
新生させていただいたキリスト者たちの総体はキリストの花嫁なのですから、キリストに似たものとしていただいても不思議ではありません。それにしてもものすごい玉の輿ですね。

「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ1033)と主イエス様は言われました。
ペテロは、人前で「主を知らない」と言ったのですが、主に赦された人です。

 話しを元に戻します。
29.30
節には“29 なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。
30
 あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
しかし、パウロに次のようにも語っています。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ472017)と証したパウロは、弟子のテモテに「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(1テモテ6122017)と語り、更に「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」(2テモテ21・新改訳初版~第三版)とも勧めました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは私達に、苦難をも恵みとして与えてくださるお方です。
いつも主に信頼して、勝利していくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月28日 (日)

箴言28:21 肉の行いに基づく罪と主の見解

 箴言2821を、
口語訳は“人を片寄り見ることは良くない、人は一切れのパンのために、とがを犯すことがある。”と訳し、
新共同訳は“人を偏り見るのはよくない。だれでも一片のパンのために罪を犯しうる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“人を偏り見ることは良くない。勇者も一切れのパンのことで罪を犯すことがある。”と訳し、
リビングバイブルは“金持ちをえこひいきするのは、一切れのパン欲しさにたましいを売り渡すことです。”と訳し、
新改訳は“人を偏(かた)より見るのは良くない。人は一切れのパンで背く。”と訳しています。

 「人」と訳されている語のヘブライ語原語は「パーニーム」で、第一義的には、顔、ですが、そのほか多くの意で訳され、人、の意にも訳されます。

 「偏り見る」と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーカル」で、徹底的に調べる、じっと見る、尊敬する、偏り見る、・・・等の意があります。

 この聖句の前半部分は、「顔をじっと見るのは良くない」、「顔を綿密に調べるのは良くない」とも訳せますが、聖書には、そのようなことが悪いとは記されていません。
1
サムエル112には“ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。”(2017)という文があります。
主は、口元をじっと見ていたエリを咎めてはいません。
それどころか主イエス様も「じっと見た」ことがあります。
マルコ1027には“イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」”(2017)と記されています。

 上記のようなことから、「顔をじっと見るのは良くない」、「顔を綿密に調べるのは良くない」と訳すのは問題があると思います。

 箴言2821の前半部分のように“人を偏り見ることは良くない。”と訳すと、この訳は他の聖書個所に合致してきます。
 ヤコブ2章には次のような文章が記されています。
1 私のきょうだいたち、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔て〔えこひいき(新改訳)〕をしてはなりません。
2
 あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。
3
 きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。
5
 私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人〔直訳「この世に対して貧しい人たち」(2017欄外注)〕を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この世の人のものの見方と神の国の霊の世界のものの見方の違いを教えていただけます。
この世は、この世の財力、武力、地位、名誉、この世における能力、外見、・・・等で人を判断していますが、神の国における霊の世界では、愛、信仰、心の中のありよう、・・・等で判断されています。

 箴言2821の後半部分には“勇者も一切れのパンのことで罪を犯すことがある。”(聖書協会共同訳)と記されています。
このような事例が1サムエル14章に次のように記されています。
24 同じ日、イスラエルの兵士は苦しんでいた。というのは、サウルが兵に、「私が敵に報復する夕方まで、食べ物を口にする者は呪われる」と誓わせていたので、誰も食べ物を口にしなかったのである。〔サウル王による、戦いの勝利のための断食の誓願(筆者挿入)〕
25
 この地方一帯では、森に入れば、地面に蜂蜜があった。
26
 兵が森に入って行くと、蜂蜜が滴っていた。だが、手を伸べて口に運ぼうとする者は一人もいなかった。兵が誓いを恐れたからである。
27
 しかしヨナタンは、父が兵に誓わせたことを聞いていなかった。それで手に持っていた杖の先端を伸ばして蜜蜂の巣の中に浸し、それを手に取って口に入れた。すると、彼の目は輝いた。〔ヨナタンは王サウルのたてた誓願を知らなかったとはいえ、破ってしまったのです。申命記2321.23参照。知らずに犯した罪にも贖いが必要でした。民数記1522-31、特に27-29節、参照(筆者挿入)〕
28
 その時、兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は厳しい誓いを兵に誓わせ、『今日、食べ物を口にする者は呪われる』と言われました。それで、兵は疲れているのです。」
29
 ヨナタンは言った。「私の父は皆を悩ましている。見よ、この蜜をほんの少し味わっただけで、私の目は輝きだした。
30
 もし今日、兵が敵から奪った戦利品を自由に食べていたなら、今頃は、ペリシテ人の損害はもっと大きなものになっていたであろう。」
31
 この日、ペリシテ人をミクマスからアヤロンまで追撃したので、兵は非常に疲れていた。
32
 兵は戦利品に飛びかかり、羊、牛、子牛を捕らえて地面で屠り、血の付いたままで食べた。〔律法違反{申命記1221-25、特に23.24節参照}(筆者挿入)〕
33
 サウルにこのように告げる者がいた。「御覧ください。兵は血の付いたままで食べて、主に罪を犯しています。」サウルは言った。「お前たちは裏切っている。今私のところへ大きな石を転がして来い。」
34
 サウルはさらに言った。「兵の間に散って行き、彼らに言え。『めいめい自分の雄牛でも羊でも、私のもとに引いて来て、ここで屠って食べよ。血の付いたまま食べて、主に罪を犯してはならない。』」兵は皆、その夜、手に入れた自分の牛を引いて行って、そこで屠った。
35
 こうして、サウルは主のために祭壇を築いた。これは、彼が主のために築いた最初の祭壇であった。
36
 さて、サウルは言った。「夜の間もペリシテ人を追って下り、明け方まで略奪を続けよう。一人も生かしておいてはならない。」兵は言った。「あなたの目に良いと映ることは何でもなさってください。」だが祭司が、「ここで、神に伺いを立てましょう」と言ったので、37 サウルは神に尋ねた。
「私がペリシテ人の後を追って下って行くならば、あなたはイスラエルの手に彼らを渡してくださるでしょうか。」この日、主は彼にお答えにならなかった。
38
 サウルは言った。「兵の長たちは皆、ここに近寄りなさい。今日、この罪は何によって引き起こされたのか、調べてはっきりさせなければならない。
39
 イスラエルを救われる主は生きておられる。これを引き起こした者は、たとえ息子ヨナタンであろうとも、必ず死ななければならない。」これに答えようとする者は、兵の中に一人もいなかった。
40
 サウルはイスラエル全体に向かって言った。「あなたがたはそちら側にいなさい。私とヨナタンはこちら側にいよう。」兵はサウルに言った。「あなたの目に良いと映ることをなさってください。」
41
 サウルはイスラエルの神、主に向かって言った。「くじによってお示しください。」すると、くじはヨナタンとサウルに当たり、兵は免れた。
42
 サウルは言った。「私か、息子ヨナタンか、くじを引け。」すると、くじはヨナタンに当たった。〔知らずに犯した誓願破りの罪。贖いをしておけば赦されました。余談になりますが、主イエス様は私たちが知らずに犯した罪の贖いをも十字架上ですべて成し遂げてくださいました。そして「完了した」と言われたのです。(筆者挿入)〕
43
 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、言いなさい。」
ヨナタンは言った。「私は手持ちの杖の先で蜜を少しばかり味わいました。死ななけ ればなりません。」
44
 サウルは言った。「ヨナタン、お前は必ず死ななければならない。そうでなければ、神が私を幾重にも罰してくださるように。」〔サウルは誓願を破った者は呪われる、という旨のことを言ったのです。ヨナタンのために贖いが為されたらよかったのに、と思います。神は義の御性質をも持っておられますが愛の神です。(筆者挿入)〕
45
 兵はサウルに言った。「イスラエルにこの大勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないというのですか。とんでもないことです。主は生きておられます。彼の髪の毛一本なりとも地に落ちてはなりません。神が共におられたからこそ、ヨナタンは今日これを成し遂げたのです。」こうして、兵がヨナタンをかばったので、彼は死を免れた。
46
 サウルはペリシテ人をそれ以上追うのをやめた。ペリシテ人は自分たちのところへ戻って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従い続ける歩みができますよう祝福してください。
物事の識別に関して、この世の見方を取ることなく、あなたの見方によって見ていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月27日 (土)

詩篇109:1-5 主のみ旨の内を歩んでも敵対されるとき私は祈るばかりです

詩篇1091-5には次のように記されています。
1 指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。私の賛美する神よ。押し黙らないでください。
2
 悪しき者の口が、欺きの口が、私に向かって開き、偽りの舌が私に語りかけます。
3
 憎しみの言葉が私を取り囲み、理由もなく戦いを挑んで来ます。
4
 私の愛に反して、彼らは私を訴えます。私は祈るばかりです。
5
 彼らは善には悪をもって、私の愛に憎しみをもって報います。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節の「私は祈るばかりです」と訳されている語のヘブライ語原語は2語で「アニー・テフィラー」です。「アニー」は、私は、「テフィラー」は、祈る、(とりなしの)祈り、・・等の意があります。
この個所をフランシスコ会訳は「わたしは祈りました」と訳しています。

 主の御前に正しく歩んでいるダビデに対して、ダビデの敵は、欺きや偽りをもって語りかけ、憎しみのことばを発し、大儀なく戦いを挑んでくるのです。
敵対者たちはダビデが彼らに善(愛の言葉や行為)を行うと、それにたいして憎しみをもって対応するというのです。
それに対してダビデのとった行動は嘆願の祈り、とりなしの祈りでした。

 その一例を1サムエル24章から下記します。
1 ダビデはそこから上って行き、エン・ゲディの要害にとどまった。
2
 サウルがペリシテ人を打ち払って戻って来ると、「ダビデがエン・ゲディの荒れ野にいる」と告げる者がいた。
3
 そこでサウルはイスラエルから三千の精鋭をえりすぐり、ダビデとその部下を追って、「野山羊の岩」の付近に向かった。
4
 途中、羊の石囲いの辺りにさしかかると、そこに洞穴があった。サウルは用を足すためにそこに入った。洞穴の奥にはダビデとその部下が座っていた。
5
 ダビデの部下たちは彼に言った。「主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、この時のことではありませんか。」それでダビデは立って行き、サウルの上着の端を気付かれないように切り取った。
6
 だがその後でダビデはサウルの上着の端を切り取ったことを後悔し、7 部下の者たちに言った。
「私はしてはならないことを、主にしてしまった。主が油を注がれた、わが主君に対し、手を上げてしまった。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
8
 ダビデはこう言って部下をたしなめ、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞穴を出て、道を進んだ。
9
 その後で、ダビデも身を起こし、洞穴を出て、サウルの背後から「王様」と声をかけた。サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をした。
10
 そしてサウルに言った。
「なぜあなたは、ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などという人の噂に耳を貸されるのですか。11 今日、主が洞穴であなたを私の手に渡されたのを、ご自分の目で御覧になっています。あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『私は自分の主君に手をかけることはしない。彼は主が油を注がれた方なのだ』と言い聞かせました。12 わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端が私の手にあります。私は上着の端を切り取りながらも、あなたを殺そうとはしませんでした。どうか分かってください。私には悪意も、背く意志もありません。あなたに対して罪を犯しておりません。それなのに、あなたは私の命を奪おうと付け狙うのです。13 主が私とあなたの間を裁き、私のためにあなたに報復されるでしょう。私は自分では手を下しません。14 古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。私は手を下しません。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5442017)と言われました。
また主イエス様は「あなたがたは自分の敵を愛しなさい。」(ルカ6352017)とも言われました。
「愛する」と訳されている語のギリシア語原語は「アガパオ―」です。
これらは神の王国の民に対する教えとして語られたのでしょう。

 「アガペー」と「アガパオ―」、「フィレオ―」について聖書辞典は次のように述べています。
“新約聖書における愛。(1)〈ギ〉アガペー。動詞は〈ギ〉アガパオー。「神は愛です」(Ⅰヨハ4:8,16)とは、神の本質が愛であることを示している。アガペーは、このほかに「父は御子を愛し」(ヨハネ3:35)、「神の愛が私たちに示された」(Ⅰヨハ4:9)、「私たちが神を愛したのではなく」(Ⅰヨハ4:10)、「自分の隣人を愛し」(マタ5:43)など、神の愛、イエスの愛、人間の愛などに用いられる。アガペーは新約以前には単なる「気に入る」や親愛の情を示す程度の意味であったが、新約聖書で用いられるようになって、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味を持つようになった。(2)〈ギ〉フィレオー。「わたしよりも父や母を愛する者……わたしよりも息子や娘を愛する者」(マタ10:37)、「宴会の上座や会堂の上席が大好き」(マタ23:6)など、兄弟愛、両親への愛、友情、好みなどを示す(マタ6:5,ヨハネ15:19,21:15‐17,Ⅰコリ16:22,黙22:15)。性的愛を示すギリシヤ語エロースは聖書の中では用いられていない。”とあります。

 ダビデのこの詩は、主イエス様の十字架上での御言葉を思い起こさせてくださいます。ルカ23章には次のように記されています。
33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34
 その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。
35
 民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36
 兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38
 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。
39
 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
40
 すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。
41
 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42
 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
43
 するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園〔よみの良い方の所(筆者挿入)〕にいる」と言われた。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様が「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じられたように歩める恵みを与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月26日 (金)

使徒1:12-15 主に命じられた待ちのぞみの実行・・祈り

 使徒112-15には次のように記されています。
12 それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
13
 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。
14
 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ルカ2444-53には次のような主イエス様の御言葉が記されています。
44 イエスは言われた。「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。」
45
 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 言われた。
「次のように書いてある。
『メシア〔キリスト(筆者挿入)〕は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』
48
 あなたがたは、これらのことの証人である。49 私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 49節の「父が約束されたもの」とは聖霊です。
聖霊は弟子たちに力を着せるというのです。

 使徒14.5には次のような主イエス様の御言葉が記されています。
4 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。
「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 「あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである」という個所を直訳すると、「あなたがたはまもなく聖霊の中に浸されるであろう」となります。
聖霊の中に浸されることは聖霊を着ることです。

 このことが起こる前に、弟子たちは御復活された主キリスト・イエス様から聖霊を受けていました(ヨハネ2022)。それは聖霊の内住でした。
ヨハネ2019-23には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 弟子たちは、主イエス様から、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ2449)と言われたからといって、ただエルサレムにいただけというのではありません。

 皆で祈っていたのです。祈祷会です。
使徒114には“彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。”と記されています。

 この節の「イエスの兄弟たち」とは、ヨセフとマリアの子どもたちです。主イエス様の受肉は聖霊によったのです(マタイ120)。
ヨセフとマリアの子どもたちは、主イエス様が宣教活動をしている間は、主イエス様をメシア(キリスト)とは考えていませんでした(ヨハネ75)。
 ヨハネ71-5には次のように記されています。
1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった。
2
 時に、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
3
 イエスの兄弟たちが言った。
「ここをたってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に現しなさい。」
5
 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 しかし、主の御復活後、ヨセフとマリアの子どもたちもイエスがメシア(キリスト)であることを悟ったのです。
ヨセフとマリアの子どもたちの名前がマタイ1355には“ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ”と記されています。
また主の御復活後、ヤコブには復活の体で現れています(1コリント157)。ヤコブは、彼が書いた手紙の冒頭に次のように記しました。
“神と主イエス・キリストの僕(しもべ)であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。”(ヤコブ11・新共同訳)とあります。

 弟子たちはどのくらいの人数で祈っていたのでしょう。
使徒113-15には“13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。14 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。5 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていた、・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主が弟子たちの見ている前で昇天した後、弟子たちはともに集まり10日の間祈っていました。そして五旬節(ペンテコステ)になりました。その日に約束の聖霊が下ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
何時でも主に祈ることの大切さを覚えます。
祈らずに、あるいは祈りを伴わないで行動してしまうことがありませんようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月25日 (木)

フィリピ1:27.28 御霊により心を一つにして福音のために労する教会は幸いです

 フィリピ127.28には次のように記されています。
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、28 どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神によることです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
27 しかし、たとい私の身にどんなことが降りかかろうと、あなたがたは、いつもキリストの福音にふさわしく生活するよう心がけてください。そうすれば、もう一度会えるにしても、会えないにしても、あなたがたについて、いつでもうれしい報告を聞けるでしょうから。つまり、あなたがたが、キリストの福音を宣べ伝えるという一つの目標に向かって、しっかり一つとなり、28 敵対する者たちのどんなしわざにもたじろぐことがないと。そのことは、彼らの滅びを暗示するのですが、あなたがたにとっては、神が共にいて永遠のいのちを与えてくださることの確かな証拠となります。”と記しています。

 岩波訳は次のように訳しています。〔 〕内は訳者の挿入です。
27ただあなたがたは、キリストの福音にふさわしい〔市民として〕生活をしなさい。それは、私が行ってあなたがたに会っているにしても、〔あなたがたから〕離れているにしても、あなたがたに関する〔次のような〕ことがらを私が聞くことになるためである。すなわち、あなたがたが一つの霊において堅く立っているということ、〔その際〕一つ心において福音の信仰のために共に闘いながら、28なにごとにおいても反対者たちによって脅かされないでいるということを、である。そのことは彼らにとっては滅びの表示であるが、他方、〔あなたがたにとっては〕あなたがたの救いの〔表示〕であり、そしてそのことは神から〔出た〕ものなのである。”と記しています。

 27節に関して、BIBLE navi は、適用注解で次のように述べています。
“一部の教会で、一致して本当の反対者に対抗する代わりに互いに戦うことによって多くの時間と努力が浪費されるのは、何と悲しいことだろう。内部抗争に屈せず、キリストに仕えるという共通の目的を持ち続けるには、勇気のある教会を必要とする。”と記しています。

 内部抗争に陥る理由にはいくつかの原因があるでしょう。
その中には、肉の思いが対処されていない、という場合があります。
ガラテヤ5章に次のような聖句があります。
19 肉の行いは明白です。・・・、20 ・・・、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、・・・・、その他このたぐいのものです。”(抜粋・聖書協会共同訳)と記されています。

 これへの対処として、ガラテヤ524-26には次のように記されています。
24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。
25
 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。
26
 思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 御霊による一致に歩むためには、その前にガラテヤ524の経験が必要なのです。
その後に、御霊のご支配の下に(別の表現では「御霊に満たされて」)生きることができるのです。すなわち25節にあるように「私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進む」ということが可能になるのです。

 霊(御霊)によらない一致というものもあります。
肉による一致です。
その場合には、肉における利害が一致する場合です。
霊肉混淆(こんこう)ではなく、肉は十字架につけられたという信仰に立ち、御霊の支配の下に一つになることが要求されているのです。
パウロが、ここでこのように記した理由は、フィリピ教会内に主に喜ばれない生き方があったからなのです。
それをフィリピ3-4章の一部から見ていきます。そこには次のように記されています。
317 きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18
 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。
19
 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹〔欲望(新改訳)〕を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。
・・・・略・・・・
4
2 私はエボディア〔ユーオディア(2017)〕に勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。〔二人は意見が合わず、主に在る一致を持つことができなかったのです(筆者挿入)〕
3
 なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと 力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
また、パウロは次の様にも述べています。
19 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。
20
 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。
21
 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
自分のことは主に委ねて、主のみ旨の内を歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月24日 (水)

箴言28:19.20 富を第一に求めるのではなく、神を第一に求めよう

 箴言2819.20を、
リビングバイブルは“19 こつこつ働けば生活は楽になり、遊んでばかりいると貧しくなります。20 正しいことをしようとする人は必ず報われ、金をもうけようとあせる者はすぐ失敗します。”と意訳し、
 新共同訳は“19 自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる。空(くう)を追う者は乏しさに飽き足りる。20 忠実な人は多くの祝福を受ける。富むことにはやる者は罰せられずには済まない。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“19 自分の土地を耕す人はパンに満ち足り、空(むな)しいことを追求する者は貧しさに満ち足りる。20 真実の人は多くの祝福を受け、富むことにはやる者は罰を免れない。”と訳し、
 2017は“19 自分の土地を耕す者は食糧に満ち足り、空しいものを追い求める者は貧しさに満ち足りる。20 忠実な人は多くの祝福を得る。しかし、富を得ようと急ぐ者は罰を免れない。”と訳しています。

 これからの時代、AIが様々な仕事をこなすようになりますから、自分の仕事は大丈夫だろうか、と不安になる人が出て来ていますが、将来の不安を持つ人がこれからは更に多く出てくるでしょう。

 キリスト者は幸いな者たちです。
決まった仕事に固執するのではなく、主が与えてくださった仕事に一日一日主に祈りつつ、主から力を与えていただきながら歩んでいけば良いからです。
 主イエス様は、「まず神の国〔国と訳されているギリシア語原語は「バシレイア」で支配、王国、統治、ルール、・・等の意があります(筆者挿入)〕と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの〔生きていくのに必要な物(筆者挿入)〕はすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ633.342017)と語られました。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要な物は、神が与えてくださいます。明日のことを心配するのはやめなさい。神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生きなさい。」と記しています。

 「明日を守られるイェス様」という讃美歌があります。
いくつかの翻訳があるようですが、その内の一つに次のようなものがあります。
“1 明日はどんな日か私は知らない 晴れか、嵐か、曇りになるか 私は明日を心配しない イェスが私を守られるから
(くり返し)=* 明日は私にはわからないけど 明日を守られるイェスがおられる
2 日々の歩みは日々に明るく 肩の重荷は次第に軽い 輝く太陽 涙渇(かわ)かし  仰(あお)ぐ空には虹の架け橋  *
3 明日はどんな日か私は知らない どんな道筋が先にあるかも だけど私は心配しないイェスがおられる私のそばに *”とあります。
メロディーをご存知ない方はユーチューブで聞いてみてください。異なる歌詞の場合もあります。

 上記の内容は、今日の箴言の個所でいうと、19節前半部分と20節前半部分に相当するでしょう。
リビングバイブル訳は“19 こつこつ働けば生活は楽になり20 正しいことをしようとする人は必ず報われ・・ます”と記しています。

 主に信頼して、主に祈りつつ、主から力を戴いて一日一日を過ごすのです。
そのようなことを教えてくれていると思います。
詩篇349.10には次のような聖句が記されています。
9 主を恐(畏)れよ。主の聖徒たちよ。主を恐(畏)れる者には乏しいことがないからだ〔必要なものがいっさい与えられます(リビングバイブル)〕。
10
若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない。”{(2017)新共同訳、聖書協会共同訳は10.11節です}とあります。

 箴言2819.20の後半部分には、
19 空しいものを追い求める者は貧しさに満ち足りる。20 富を得ようと急ぐ者は罰を免れない。”(2017)と記されています。
 この個所をリビングバイブルは、
19 遊んでばかりいると貧しくなります。20 金をもうけようとあせる者はすぐ失敗します。”と意訳しています。

 主イエス様は次のようにも語られました。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6242017)と記されています。
神に仕えれば、必要な富は与えられるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつもあなたを第一として歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月23日 (火)

詩篇108:7-14 勝利を与えてくださるのは主/力は人にではなく主にある

 詩篇1087-14には次のように記されています。
7 あなたの愛する人々が助け出されるように。右の手で救い、私に答えてください。
8
 神はその聖所で宣言された。
「私は喜び勇んでシェケムを分配し、スコトの谷を測量しよう。9 ギルアドは私のもの。マナセも私のもの。エフライムは私の頭の兜。ユダは私の王笏。10 モアブは私の足を洗うたらい。エドムには私の履物を投げ、ペリシテ中に勝ち鬨(どき)の声を響かせよう。」
11
 誰が私を城壁に囲まれた町に連れて行くのか。誰が私をエドムに導くのか。
12
 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。神よ、あなたは私たちの軍勢と共に出陣しようともされない。
13
 私たちを敵から助け出してください。人の与える救いは空しい。
14
 神によって私たちは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 聖書協会共同訳、新共同訳の7-14節を口語訳、新改訳、リビングバイブルは6-13節としています。

 7-14節は詩篇605-12とほぼ同じです。
詩篇1087-14をよりよく理解するためには詩篇60篇を読む必要があるのだろうと思います。詩編60篇は次のように記されています。
1 指揮者によって。「百合」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教えのため。
2
 ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。
3
 神よ、あなたは私たちを拒み、打ち倒し、怒っておられます。私たちを回復させてください。
4
 あなたは地を震わせ、引き裂かれました。どうかその裂け目を癒やしてください。地が揺らいでいるのです。〔あなたはこの国を恐怖で震撼させ、引き裂きました。主よ、深みまで揺るがされたこの地を今、回復してください。(リビングバイブル)〕
5
 あなたはご自分の民に辛酸をなめさせ、よろめかせる酒を私たちに飲ませました。
〔さんざんに打ちのめされて、私たちの足はよろめいています。(リビングバイブル)〕
6
 あなたを畏れる人には、一つの旗をお与えになりました。弓矢から逃れた者を再び集めるために。〔セラ
7
 あなたの愛する人々が助け出されるように。右の手〔力に満ちた右の手(リビングバイブル)〕で救い、私たちに答えてください。
8
 神はその聖所で宣言された。〔神は、ご自分の名誉にかけて、救援を約束してくださいました。(リビングバイブル)〕
「私は喜び勇んでシェケムを分配し、スコトの谷を測量しよう。9 ギルアドは私のもの。マナセも私のもの。エフライムは私の頭の兜。ユダは私の王笏。10 モアブは私の足を洗うたらい。エドムには私の履物を投げ、ペリシテ中に勝ち鬨の声を響かせよ。」〔8-10節のカッコ内をリビングバイブルは次の様に意訳しています。「シェケム、スコテ、ギルアデ、マナセは、依然としてわたしのものだ。ユダからは継続して王が出、エフライムからは勇士が誕生する。モアブはわたしの召使となり、エドムは奴隷となる。わたしはまた、ペリシテを攻め取って、勝利の声を上げよう。」と記しています。(筆者挿入)〕
11
 誰が私を堅固な町に連れて行くのか。誰が私をエドムに導くのか。
12
 神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。神よ、あなたは私たちの軍勢と共に出陣しようともされない。
13
 私たちを敵から助け出してください。人の与える救いは空しい〔人の助けなど、あてになりません(リビングバイブル)〕。
14
 神によって私たちは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。〔神の助けがあれば、私たちは力強く働きを進めることができます。神が敵を踏みつけてくださるからです。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇60篇の表題は、「指揮者のために。『さとしは、ゆりの花』の調べに合わせて。教えのためのダビデのミクタム。ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに」(新改訳)と記されています。

詩篇1086節に「あなたの愛される者が助けを得るために、右のみ手をもって救をほどこし、わたしに答えてください。」とあり、また12節に「われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいからです。」とあります。

詩篇108篇を記した詩人は、神様からの助けを必要としていた人であったと思います。バビロンへ捕囚として連れていかれた人かもしれません。それは定かではありませんが、私達キリスト者も同じように困難な状況に置かれることはあります。そしてダビデやこの詩人と同じように「主よ、助けてください。」と懇願するのです。主に助けを呼び求めるのは、主が力強い御方であり、愛に満ちている御方であり、私達を助けてくださる御方だからです。

12節で詩聖は「神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。」と祈っていますが、私達も、主に祈り求めているのに、すぐには助け出してもらえない時、主はこの祈りには応えて下さらないのか、私を見捨てられたのか、愛してくれていないのか、等と考えてしまう場合もあるかもしれません。

詩篇60篇の1.2節(表題)には、“1 指揮者によって。「百合」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教えのため。2 ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。”と記されていますし、サムエル記でも勝利したことのみが記されていますが、実際は勝利する前に、ダビデ軍は劣勢にあり、あたかも万軍の主が一緒に戦いに出て下さっておられないのではないかというところを通っていたのです。
それ故詩篇108篇の聖句を見ると、「あなたの愛する人々が助け出されるように。右の手で救い、私に答えてください。」(7)とか、「誰が私を堅固な町に連れて行くのか。誰が私をエドムに導くのか。神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。神よ、あなたは私たちの軍勢と共に出陣しようともされない。私たちを敵から助け出してください。人の与える救いは空しい〔人の助けなど、あてになりません(リビングバイブル)〕。」(11-13)というような祈りをしていたのだと思います。そして終わってみれば、主は勝利させてくださったということになったのです。

詩篇108篇の詩聖は、困難からの救助の嘆願の祈りの前に、すなわち詩篇108篇の前半部分において、神様の恵みと神様の偉大さへの賛美と感謝の祈りをささげています。
すなわち、既に記されているダビデの詩を用いて自分の祈りとしているのだろうと思います。
 詩篇108篇の前半部分には次のように記されています。
1 歌。賛歌。ダビデの詩。
2
 神よ、私の心は確かです。私は歌い、ほめたたえよう。私の栄光よ。
3
 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。私は暁を目覚めさせよう。
4
 主よ、もろもろの民の中であなたに感謝し、国々の中であなたをほめ歌おう。
5
 あなたの慈しみ〔恵み(新改訳)〕は天を超えて大きく、あなたのまこと〔ヘブライ語原語は「エメツ」で、まこと、真実、誠実、偽りのないこと、・・等の意です(筆者挿入)〕は雲にまで及ぶ。
6
 神よ、天の上に高くいませ。あなたの栄光が全地にありますように。”(聖書協会共同訳)とあります。

私達にとっても、詩篇に記されている祈り、その他様々な聖書記者の祈りを用いて祈ることは、私たちにとって大きな助けとなります。聖書は聖霊の息吹によって書かれているからです。パウロの祈りの中にも聖霊によるのでなくてはこうは祈れないと思わされる箇所がたくさんあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ520には“いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。”(2017)とあり、またローマ828には“神は、神を愛する者たち、すなわち、〔神の(筆者挿入)〕ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる”(抜粋・口語訳)と記されていますから、困難の中にあるときでも、主が与えてくださる最善を信じて、また主の働かれる時を主に委ねて、まずは主に感謝の祈りを献げることから始めることができますように。
この詩篇108篇を通して、そのように教えてくださっておられますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月22日 (月)

使徒1:9-11 キリストの昇天とキリストの昇天を目撃した人々及びキリストの再臨に関する天使の預言

 使徒19-11には次のように記されています。
9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。
10
 イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、11 言った。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主の弟子たちは、主が捕縛された時から、とても臆病な者たちになりました。
主が捕縛される直前の弟子たちの言葉は次のようでした。
マタイ2635には“ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。”(2017)と記されています。
十字架の近くにいたのはヨハネだけでした(ヨハネ1925-27)。
ペテロ(ペトロ)は、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ2635)と言ったにもかかわらず、自分が嘘をついているのなら呪われても良いと言って、主と一緒にいたことを否定したのです。
 マルコ1466-72には次のように記されています。
66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司の召し使いの女の一人が来て、67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、まじまじと見て言った。
「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68
 ペトロは打ち消して、「何を言っているのか、分からない。見当もつかない」と言った。そして、庭口の方に出て行くと、鶏が鳴いた。
69
 召し使いの女はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70
 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。
「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71
 しかし、ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。〔ペテロは、「そんな男{イエス(筆者挿入)}のことなど知らない。これがうそたったら、どんな罰(ばち)があたってもかまわない」と叫びました。(リビングバイブル)〕
72
 するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉〔マルコ1426-31参照(筆者挿入)〕を思い出して、泣き崩れた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 弟子たちは、主が復活されたという言葉を聞いてからも、しばらくの間は臆病でした(ヨハネ201-29、特に19.26節、参照)。

 使徒13.4には“3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話され
た。4 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。・・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 いよいよ40日目となりました。そして、弟子たちが見ている前で天に戻っていかれたのです。弟子たちは、主の昇天の姿を目撃していたのです。
 9.10aには“9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。10 イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 使徒16には“さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 弟子たちの質問に対して主は次のように語られました。続く7節には、
“イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 弟子たちは、イスラエルの独立がすぐに起こることを期待していたのです。
イスラエルが独立したのは、なんと1948年でした。
主の昇天から約40年後、ローマの統治下にあるユダヤは滅ぼされ、神殿は焼け落ち、人々は世界に散らされたのです。

 主が天に昇っていかれる時、弟子たちのそばに天使が二人遣わされていました。
その時の天使の言葉が続く11節に次のように記されています。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 この一連の出来事はオリーブ山でのことでした。
12
節には“それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主は大患難時代の終わりにオリーブ山に立ちます。その時、どのようなことが起こるのでしょう。ゼカリヤ14章には次のように記されています。
1 主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕の日〔主キリスト・イエス様の地上再臨の日(筆者挿入)〕が来る。略奪されたあなた〔イスラエル(筆者挿入)〕のものが、あなたのただ中で分けられる。
2
 私は〔大患難時代の終わりに(筆者挿入)〕諸国民をすべて集め、エルサレムに戦いを挑ませる。町は占領され、家は略奪され、女たちは犯される。町の半分は捕囚とされて連れて行かれる。しかし、残りの民〔主を信じているイスラエルの民(筆者挿入)〕は、町から絶たれることはない。
3
 主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」。再臨のキリスト(筆者挿入)〕は出て来られ、決戦の日に、自ら戦われた日のように〔一例をあげると、主は軍勢の長(主の軍の将)として戦われた{ヨシュア513-15参照}(筆者挿入)〕、それらの諸国民と戦われる。
4
 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、他の半分は南へ移る。
5
 山間の谷がアツァルに達するので、あなたがたは私の山間の谷を通って逃げる。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたようにあなたがたは逃げる。わが神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が来られる。すべての聖なる者たち〔天で結婚式を挙げる携挙される私たちも含まれるのでしょう。黙示録195-911-16参照(筆者挿入)〕も主と共に来る。
6
 その日になると、光がなく、寒さも霜もない。
7
 それはただ一日であり、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に知られている。昼もなければ、夜もない。夕暮れ時になっても、光がある。
8
 その日になると〔キリストの千年王国が始まると(筆者挿入)〕、エルサレムから命の水が流れ出て、その半分は東の海〔死海(筆者挿入)〕に、他の半分は西の海〔地中海(筆者挿入)〕に流れ、夏も冬も流れ続ける。〔エゼキエル471-12参照。死海にも魚が住めるようになる。(筆者挿入)〕
9
 主はすべての地の王となられる。その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる。
10
 全地はゲバ〔エルサレムの北方約9㎞(筆者挿入)〕からエルサレムの南のリモン〔エルサレムの南西約60km(筆者挿入)〕まで、平野のように変わる。しかしエルサレムはそこに高くとどまり、ベニヤミンの門から第一の門のところまで、さらに角の門まで、またハナンエルの塔から王の搾り場にまで及ぶ。
11
 そこには人々が住み、もはや再び滅ぼし尽くされることはなく、エルサレムは安らかにとどまる。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは「終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』(イザヤ4610・口語訳)と言われるお方ですから御名を崇めます。
あなたとのかかわりの中で、日々あなたの素晴らしさを体験させていただきつつ歩ませていただけますことを感謝します。
あなたの聖なる御名が崇められますように。
あなたのご計画に基づいて全地が御国とされますように。
マラナ・タ
御名を賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月21日 (日)

フィリピ1:27a キリストの福音にふさわしく歩むように心がける

 フィリピ127aには、
 
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2017は“ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい〔別訳「市民として生活しなさい」(欄外注)〕。”と記しています。

 リビングバイブルは“いつもキリストの福音にふさわしく生活するよう心がけてください。”と訳しています。

 福音について聖書辞典は次のように記しています。
“ふくいん 福音 〈ギ〉ユーアンゲリオン。古典ギリシヤ語では、このことばは良い知らせに対する報いであったり、それを伝えた人への報酬を意味すると共に、その知らせ自体をも指した。元来は勝利の知らせであったが、後には、喜びをもたらす知らせを意味するようになった。

福音は、神がイエス・キリストによってイスラエルへの御自身の約束を成就される良い知らせであり、すべての人に救いの道が開かれたことを伝えるものである。福音は、神が人類への導き方を変更されたかのように、旧約聖書と対立するものではない。むしろ神は旧約聖書の約束を成就し(マタ11:2‐5)、イエス自身もイザヤの預言の中に自分のなすべき働きの内容を読み取られた(ルカ4:16‐21)。

福音は
時にイエス・キリストの生涯の記録を意味したり(マコ1:1)、
キリストのすべての教えを含んだりした(使20:24)。
しかし今は福音という語は、特有の意味を表す語として使用され、基本的にはキリスト教が伝える使信を意味している
福音とは「良い知らせ」という意味であるが、それは神からの賜物である。
それは罪の赦しと、イエス・キリストを通して買い戻されて神の子としての身分にあずかる救いである。すなわち罪の赦しと神との和解の知らせである。この意味で新約聖書に75回以上この語が使われている。

イエスや使徒たちは福音についてさまざまな表現をしている。
すなわち、「神の福音」(ロマ1:1,Ⅰテサ2:2,9)、
キリストの福音」(マコ1:1,ロマ15:19,Ⅰコリ9:12,ガラ1:7)、
神の恵みの福音」(使20:24)、
平和の福音」(エペ6:15)、
救いの福音」(エペ1:13)、
キリストの栄光にかかわる福音」(コリ4:4)などである。
福音とはキリストそのものである。キリストが主であり、キリストが目的であり、キリストがそのいのちである。そのようにこの福音を主御自身が語り(マタ4:23,11:5,マコ1:14,ルカ4:18)、使徒たちも語り(使16:10,ロマ1:15,Ⅰコリ9:16)、そして伝道者たちも語った(使8:5)。

福音は力強く伝えられるだけでなく(Ⅰテサ1:5)、
福音は(筆者挿入)〕神の力そのものである(ロマ1:16)。
それ〔福音(筆者挿入)〕は神の義をあかしし、信じる者すべてを救いに導く(ロマ1:16‐17)。
 パウロは福音を神からゆだねられたものとして受け止めている(テモ1:11)。
こうして彼は福音の宣教をするように神から力強く迫られ(コリ9:16)、大胆にこの務め〔福音宣教の務め(筆者挿入)〕が果せるように神に祈り求めた(エペ6:19)。
猛烈な反対にあい(テサ2:2)、苦難を受けながらも(テモ1:12)、パウロは福音を伝えた。
 福音は「真理のことば」であるが(エペ1:13)、
福音を(筆者挿入)〕信じない者はこの世の神に目をくらまされてそれが分らず(Ⅱコリ4:3‐4)、知ることができないのも、神の知恵にかなっているのである(コリ1:21‐23)。
 パウロはイエス・キリストの啓示によって福音を受けたが(ガラ1:11‐12)、
他方、たとい〔人々が(筆者挿入)〕福音を知らされても信仰の応答をもって信じなければ、それは救いの力を表さない(ヘブ4:2)。

福音には救いに関するすべての使信と教理が含まれている
それは〔福音は(筆者挿入)〕罪の赦し、信仰、義認、新生、聖化に導くものであり、啓示と体験の事実に関するものである。
この福音は全世界に伝えられなければならないが、それには人間的な変更や(Ⅱコリ4:2)、人間の知恵を用いずに(コリ1:17)、主の力を受けて(使1:8)伝えられなければならない(使8:25,11:20‐21,Ⅰコリ9:16)。(中村敬宇)”と述べています。

 キリストの福音にふさわしい生活、それは、罪を赦された者として、いつも主に感謝と賛美を献げ、罪を赦された者の喜びをもって生活し、神の御言葉に従って御霊によって歩む生活をすることでしょう。
そのとき、キリストの香りが周囲に充満していくことでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
常に主を愛し、主と主の御言葉に信頼し、御霊によって御言葉に生きる生活を送ることができますよう祝福してください。
そうすれば、主キリスト・イエス様の香りを周囲に香らせることができることでしょう。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月20日 (土)

箴言28:17.18 主の御言葉に聞き従い主に信頼して歩む

 箴言2817.18を、
リビングバイブルは“17 殺人者は良心に責められ、地獄へ落ちます。だれもその人を止められません。
18
正しい人は災いに会っても助け出されますが、人をだますような者は滅ぼされます。”と意訳し、
 新共同訳は“17 流血の罪の重荷を負う者は、逃れて墓穴に至る。だれも彼を援助してはならない。
18
完全な道を歩む人は救われる。二筋の曲がった道を歩む者は直ちに倒れる。”と訳し、
 口語訳は“17 人を殺してその血を身に負う者は死ぬまで、のがれびとである、だれもこれを助けてはならない。
18
正しく歩む者は救を得、曲った道に歩む者は穴に陥る。”と訳し、
 2017は“17 流血の咎に苦しむ者は、墓まで逃げる。だれも彼を助けてはならない。
18
誠実に歩む者は救われ、その道が曲がっている者はただちに倒れる〔別訳「墓穴に陥る」(欄外注)〕。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“17 流血の罪を負う者が、墓穴まで逃れたとしても、彼を助けてはならない。
18
 完全な道を歩む人は救われ、曲げられた道を歩む者は直ちに倒れる〔直訳「一つに落ちる」(欄外注)〕。”と訳しています。

 罪を犯した人に対して、罪の対処をしないで、見逃してあげることの善し悪しを考えさせられます。
罪を犯した人には、イエス・キリストの福音が必要です。とはいうものの、イエス・キリスト様以外の人で、神に対して罪を犯さなかった人は一人もいません。
ローマ310には“義人はいない。一人もいない。”(2017)と記されています。
イエス・キリストによる救い無しに、神の裁きの前に、平安をもって立つことの出来る人はいません。

 18節に「正しい人」(リビングバイブル)、「完全な道を歩む人」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「正しく歩む者」(口語訳)、「誠実に歩む者」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は、2単語からなる「ハーラク ターミーム」で、「ハーラク」は「歩く」の意です。
「ターミーム」には、完全、正直、誠実、高潔、真実、・・・等の意があります。
創世記171に“さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。”(2017)という聖句が記されています。
「全き者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターミーム」です。

 神様は、アブラム(アブラハム)に、主に信頼して(主を信じて)歩み続けなさい、と言われたのです。

 18節前半の“完全な道を歩む人は救われ”(聖書協会共同訳)という聖句は、新約的に言うと、主イエス様を信じ、主イエス様に信頼して歩む者は救われます、ということになるでしょう。
罪や死からの救いという本質的なことと共に、地上生涯で出会う様々な苦難からも、主イエス様に信頼し続ければ救われるのです(救われかたは、その人が願ったようなあり方での救いの場合もありますし、そうでない場合もあります)。

 17.18節に関して、Bible navi の適用注解は、
“罪人の良心は、悔い改めをもたらす罪悪感を持つに至らせるか、悔い改めを拒むゆえに死に至らせる。
その人の気分をよくしてあげようとするのは、親切な行動ではない。
その人が罪悪感を持てば持つほど、神に立ち返り、悔い改める可能性が高くなるのだ。
もし、その人の行動の自然の結果を妨げるなら、罪を犯しやすくさせているだけだ。”と述べています。

 上記の文章を読みながら次の聖句を思い浮かべました。
エレミヤ811-13に、
11彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。12 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。13 ・・・・。わたしはそれらをそのままにしておく。”(2017)という聖句があり、
 ローマ1章には、
18 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19
 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20
 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
21
 なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22
 自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、23 不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24
 そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。
25
 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン。
26
 それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。28 彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ローマ124.28の聖句は、人が主に聞き従わないでいると、良心の弱体化から良心の欠如へ、また行動としては放縦へと進んで行くことを教えてくれているように思います。

 エレミヤ811を読むと、キリスト者に対して行われるカウンセリングの場合、この世的なキリスト抜きのカウンセリングではなく、主に立ち返ることによって、すなわち主の御言葉に信頼することによって、主に解決していただくことによって、問題の解決に至ることが必要なのだ、と思わされます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリスト者からの相談を受けたときには、必ず主とのかかわりの中で主に解決していただく方向へと向かうことができますように。
主イエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713.142017)と語られました。
生涯、主に信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月19日 (金)

詩篇108:1-6 苦難の中でも主を愛し主に信頼し、勝利を与えてくださる主を賛美する

 詩篇1081-6には次のように記されています。
1 歌。賛歌。ダビデの詩。
2
 神よ、私の心は確かです。私は歌い、ほめたたえよう。私の栄光よ。
3
 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。私は暁を目覚めさせよう。
4
 主よ、もろもろの民の中であなたに感謝し、国々の中であなたをほめ歌おう。
5
 あなたの慈しみは天を超えて大きく、あなたのまことは雲にまで及ぶ。
6
 神よ、天の上に高くいませ。あなたの栄光が全地にありますように。”(聖書協会共同訳)とあります。

 聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳は、表題を1節としていますが、新改訳、口語訳、リビングバイブルは、表題を1節としていないので、両者間には1節ずつのずれがあります。

聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳ですと、詩篇1082-6は、詩篇578-12の引用になります。新改訳、口語訳、リビングバイブルですと詩篇577-11の引用になります。

 今日の聖書個所は賛美の詩篇のように思われますが、もとになっている詩篇57篇の表題(聖書協会共同訳等では1節)には次のような記述があります。
“指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき。”(1節・聖書協会共同訳)と記されています。

 ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたという記述は、聖書の中では、1サムエル221のアドラムの洞穴と1サムエル241‐8のエン・ゲディの洞穴の箇所が記されています。

更に、“「滅ぼさないでください」に合わせて”、とありますから、ダビデは、サウルの手によって滅ぼされそうだ、という思いを持っていたのだろうと思われます。

しかしダビデは、いのちの危険があったとき、主に信頼し、自分の救いのためにすべてを成し遂げてくださる神に祈りました。 
 その祈りの内容が詩篇57篇の2-7aに次のように記されています。
2 私を憐れんでください。神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまであなたの翼の陰に私は逃れます。
3
 私はいと高き神に、私のために成し遂げてくださる神に〔私のために、すべてを成し遂げてくださる神に(新改訳初版~第三版)〕呼びかけます。
4
 神が天より使いを送り、私をお救いくださいますように。私を踏みにじる者が嘲(あざけ)っています。〔セラ
神が慈しみとまことを送ってくださいますように。
5
 私の魂は雌獅子の群れのただ中に、人の子らを貪り食らう者たちの間に伏しています。その歯は槍、矢。舌は鋭い剣。
6
 神よ、天の上に高くいませ。あなたの栄光が全地にありますように。
7a
 彼らは私の足元に網を仕掛け、私の魂は打ち沈みます〔私は言いようのない恐怖にとらわれています(リビングバイブル)〕。(聖書協会共同訳)とあります。

 ダビデはヤハウェ(主)による救いを見ました。主が御業を行ってくださったのです。
詩篇57篇の7bには、彼らは私の前に落とし穴を掘りましたが、彼ら自身がその中に落ち込みました。〔セラ(聖書協会共同訳)と記されています。

 今日の聖書個所は、主に助けて頂いた後の主への賛美の詩です。
聖書協会共同訳の2-6節の個所をリビングバイブルは1-5節で次の様に意訳しています。
1 ああ神よ。賛美が私の口からあふれてきます。心から喜んで、あなたへの歌をささげましょう。
2
十弦の琴と竪琴よ、目覚めなさい。共々に歌って、夜明けを迎えようではありませんか。
3
私は世界のどこででも、主をたたえます。
4
あなたの恵みは測り知れず、その真実は天にまで達します。
5
ご栄光は、大空を突き抜けるようにそびえています。”と記しています。

 私たちキリスト者も、地上生涯の間にはいくたびも危機的状況に置かれることでしょう。
危機的状況に置かれることは幸いなことです。
それによって主の恵みとまことを体験し、また主の御力を味わい、主に感謝し、主を賛美しながら生活することができるのですから。 

 詩篇5015には、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(新改訳初版~第三版)と記され、
 また詩篇3210には“悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。”(新改訳初版~第三版)と記され、
 詩篇572には“私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。”(新改訳初版~第三版;聖書協会共同訳、新共同訳は3節)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちがいかなる場合に置かれても、測り知れない愛をもって愛してくださっておられる主なる神様を、私たちも愛し、信頼して歩み続け、主を賛美する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月18日 (木)

使徒1:5-8 キリストの証人/新生した人なら誰でも証しはできます

 使徒1:5-8には次のように記されています。
5 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」
6
 さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
7
 イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 5節には“ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”と記されています。
「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受ける」と訳されている個所のギリシア語聖書を直訳すると「聖霊の中に浸されるでしょう」となります(βαπτισθησεσθε εν πνευματι αγιω)。

 
使徒たちはすでに聖霊を主イエス様から受けていました。
ヨハネ20章には次のように記されています。
1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。/
11
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。/
18
 マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
19
 その日、すなわち週の初めの日の夕方〔Then the same day at evening(KJV)。主の御復活の日の夕方(筆者挿入)〕、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい〔アオリスト時制が使われているので、聖霊を受けたのです。(筆者挿入)〕。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 弟子たちは、主の御復活の日の夕方、主イエス様から「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられたのです。 そして弟子たちは聖霊を受けたのでした。

 8節には「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」と、使徒たち(6節参照)に語られた主イエス様の御言葉が記されています。
使徒たちはヨーロッパからアフリカ、インドまで、福音を伝えたのです。

 「証人」と訳されている語のギリシア語聖書原語は「マルトゥス」で、証人、殉教者、・・等の意があります。
使徒たちは、ヨハネを除いて殉教したのです。ヨハネは釜茹での刑にされましたがそれでも死なずパトモス島に流され(伝承)、そこで黙示録を記したのです。

 新生したキリスト者には聖霊が与えられています。聖霊は神です。
しかし、勇敢なキリスト者もいれば、勇敢ではないキリスト者もいます。
聖霊は同じでも、与えてくださる聖霊の賜物は異なるのです。
 1コリント12章には次のように記されています。
3 そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また〔「また」と訳されている語のギリシア語原語は「カイ」でほとんどはand, also,と訳されますが、even, so, then, too, thereforeと訳されることもあります。(筆者挿入)〕、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。
4
 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊〔聖霊(筆者挿入)〕です。
5
 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6
 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神〔聖霊は神です(筆者挿入)〕です。
7
 一人一人に霊〔聖霊(筆者挿入)〕の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
 ある人には、霊〔聖霊(筆者挿入)〕によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、9 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 またローマ12章には次のように記されています。
3 私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。
4
 一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、5 私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。
6
 私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物〔聖霊の賜物(筆者挿入)〕を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、8 勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新生したキリスト者に与えられる聖霊の賜物は、一人ひとり異なるのです。
自分に与えられた賜物によって主に仕えれば、お仕えし易いだろうと私は思います。
キリスト者は、全員がキリストの証人ですが、そのあり方は、個々人で異なって良いのだと私は思います。

 とはいえ、新生したキリスト者ならば、誰でも自分の救いの証しをすることはできるでしょう。証しの後に、「イエス・キリストは罪{創造主なる神から離れて生きてきたことは罪です(創世記1章、出エジプト203、ヨハネ169、コロサイ116)}と死(ローマ623aからの救い主です(ヨハネ1125.261コリント1554-57)。十字架につけられ死んで葬られ3日目に復活されたイエス・キリストを信じる者は救われるのですよ。(ローマ109.10)」という内容を伝えることができたら、それは伝道しているのです(1コリント151-4)。
相手の人が信じるのか、信じないのか、それは福音を聞いた人に選択の主権があるのです。

 福音を伝えることは難しい、と考えるキリスト者もいますが、そのような人は、自分の証しをして、「私はイエス様を信じたら救われたんだ」と言うだけでも良いと思うのです。そのあとのことは神様にお任せして(1コリント123)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者が、それぞれ証しをすることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月17日 (水)

フィリピ1:21-26 地上に置かれている意味

 フィリピ121-26には次のように記されています。
21 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
22
 けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23
 この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。
24
 しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。
25
 こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。
26
 そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。〔リビングバイブルは「私が生き延びて、もう一度そちらに行った時、あなたがたのうちに喜びがわき上がり、私を無事に守ってくださったイエス・キリストを心から賛美するようになることでしょう。」と意訳しています。(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 21節には“私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。”とあります。
 パウロは、キリストの内に生き、内住のキリストに従って生きていました(ガラテヤ220)。
1
コリント130には“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちに〔「うちに」と訳された語のギリシア語原語は「エン」で英語ではin(筆者挿入)〕あるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳初版~第三版)と記され、
 ガラテヤ220(抜粋)には“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”(新改訳初版~第三版)と記されています。

 しかし、パウロは言います。「死ぬことは益なのです」と。
絶えずキリストと共に生きているのならば、それでよさそうですが、主と共にある豊かさが異なるのでしょう。パウロは天の豊かさを知っていたと思われますから(2コリント122-7)、パウロは、「死ぬことは益なのです」と言ったのでしょう。
私などは、苦しいことがあると、早く天国に行きたい、と思いますが、パウロに比して甚だ低次元であることを覚えます。

 続く22-25節をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
22 しかし、生きているからこそ、人々をキリストに導く機会に恵まれるとすれば、生と死のどちらがよいのか、私には分かりません。
23
ある時は生きていたいと思い、また、ある時には反対の気持ちになります。というのも、この世を去ってキリストのそばにいることほど願わしいことはないからです。そのほうが、地上にとどまっているより、どれだけ幸せかわかりません。
24
しかし、地上では、もっとあなたがたの役に立てることも事実です。
25
私にはまだ、この世で生きる使命があるのです。あなたがたの信仰の成長を助け、あなたがたがもっと喜びにあふれるために、もうしばらくの間、地上に長らえることになるでしょう。”と記しています。

 パウロは、福音宣教の使命と個々のキリスト者の霊的成長のための働きという使命のために、もうしばらくの間、地上に長らえることになるでしょうと語りました。

 天国に入れて頂けたら、地上にとどまっているより、どれだけ幸せかわかりませんが、私達も、私たちが地上に置かれている以上、主が私たちに何かの使命を託しているからなのでしょう。
主の御意志に基づいた歩みをしていきたいな、と思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
この地上にあっては、あなたが与えてくださっておられます使命を主に在って全うさせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月16日 (火)

箴言28:15.16 良き統治者と悪しき統治者

 箴言2815.16を、
聖書協会共同訳は“15 うなる獅子、襲う熊、それは弱い民を支配する悪しき者。16 英知の欠けた指導者は虐げを加え、搾取を憎む人は長寿を得る。”と訳し、
 2017は“15 貧しい民を治める悪しき支配者は、うなる雄獅子、襲いかかる熊のようだ。16英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、齢を延ばす。 ”と訳し、
 リビングバイブルは“15 貧しい人にとって、悪い支配者は、襲いかかるライオンや熊のように恐ろしいものです。16 力にものを言わせるのは、愚かな支配者です。金に動かされない正直な王が、長く国を治めるのです。”と意訳しています。

 世界に知恵に満ちた支配者がどのくらいいるのでしょう。
主に在って知恵に満ちている支配者に支配されている民は幸いですね。

 キリストの千年王国では、神のひとり子の御子であり、王の王、主の主であるキリスト・イエス様が全世界を統治なさいます。
その時、アダムが堕罪する前のエデンの園以上の地上が出現するのです。
その時代は、悪魔(サタン)・悪霊は地上に存在しません。

 その時代の初めをイザヤ書は次の様に預言しています。
351 荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は歓喜の声を上げ、野ばらのように花開く。
2
 花は咲き溢れ、大いに喜びの歌声を上げる。レバノンの栄光とカルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。/
5
 その時、見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。
6
 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が、砂漠にも流れが湧き出る。
7
 熱した砂地は池となり、干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は葦やパピルスが茂る所となる。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 またイザヤは次の様にも預言しています。
65:16 この地で祝福を求める人は真実の神によって祝福を求め、この地で誓う人は真実の神によって誓う。先にあった苦しみは忘れられ、私の目から隠されるからだ。/
19
 私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。
20
 そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者〔若かった(2017)〕とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる〔リビングバイブルは「百歳まで長生きしても、まだ老人とは呼ばれない。その若さで死ぬのは罪人だけだ。」と意訳しています。(筆者挿入)〕。
21
 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
22
 彼らが建てて別の人が住むことはなく、彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。
23
 彼らは無駄に労することもなく、産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり、その末裔も彼らと共にいる。
24
 彼らが呼ぶより先に、私は応え、彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。
25
 狼と小羊は共に草を食(は)み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても、これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない。――主は言われる。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 イザヤの別の預言には次のようなものもあります。
21 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。
2
 終わりの日に主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこ〔エルサレム(筆者挿入)〕に向かい、3 多くの民〔大患難時代をくぐりぬけ、更にキリストの千年王国に入れて頂けた人達(筆者挿入)〕は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。
教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。4 主は国々の間を裁き、多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。5 ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 上記のイザヤの預言は、肉体の命を持ったままキリストの千年王国に入ることを許された人たちの祝福です。

 新生したキリスト者は、この時代(キリストの千年王国時代)、すでに、力(ギリシア語原語は「デュナミス」)を持つ、栄光ある朽ちることの無い霊の体を与えられています(1コリント1542-44のギリシア語聖書、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、2017欄外注、参照)。霊の体が与えられる時はキリストの空中再臨に伴う携挙の時です(1コリント15521テサロニケ4116.17)。
キリストの千年王国より前に、天においてキリスト者の総体である教会(花嫁)と花婿キリストとの結婚式が天国で終了しています(黙示録195-8参照)。
新生したキリスト者は何という大いなる恵みを与えられていることでしょう。
主を賛美せずにはおれません。ハレルヤ!ハレルヤ!

 この世の現実に目を向けると、自分の利得よりも民の幸いを常に第一にした支配者が現れたことがどのくらいあるでしょうか。
それを期待しても無理な話です。
いかなる支配者も罪をもって生まれてきたのですから(詩篇51篇、ローマ512参照)。
しかし、罪の程度がひどくなると、今日の箴言の聖句のようになります。
このような支配者を現代の国々の中に見ることができます。
箴言2815.16aには次のように記されています。
“貧しい民を治める悪しき支配者は、うなる雄獅子、襲いかかる熊のようだ。英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。”(2017)と記されています。
日本の民も税金等で強奪されています(主に在って健全に使われていれば強奪ではありません)が、諸国の支配者に目を留めるともっとひどい支配や強奪(命の強奪)を行っている国々の支配者もおり、それらの国の民はそのような人に支配されているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主が全世界を統治なさることを待ち望みます。
あなたは私達に希望を与えてくださっておられ、また現在でもあなたに在って霊的に歩むとき、そこには喜び、祈り、感謝があることを覚えます。
日々、あなたをほめたたえつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月15日 (月)

詩篇107:33-43 万物の創造者であり主権者である主なる神様を第一とする者の幸い

 詩篇10733-43には次のように記されています。
33 主は河を荒れ野とし、水の湧く所を干からびた地とし、34 実り豊かな地を塩の地とした。そこに住む者らの悪事のために。
 35 主は荒れ野を池とし、乾いた地を水の湧く所とし、36 飢えた者をそこに住まわせたので、彼らは人の住む町を築いた。37 畑には種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得た。38 主が祝福したので、彼らは大いに増えた。主は家畜も減らさなかった。
 39 しかし、虐げと災いと苦悩により、彼らは数を減らし、衰えた。
40
 貴族らに蔑みを浴びせ、道もない不毛の地に迷い込ませた方は、41 貧しい人を苦しみから高く上げ、氏族〔その一族を(2017)〕を羊の群れのようにした。
 42 正しい人はこれを見て喜び、すべての不正はその口を閉ざす。
43
 知恵ある人は皆、これらのことを心に留め、主の慈しみを悟るがよい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 33節には“主は河を荒れ野とし、水の湧く所を干からびた地とし、”とあります。
主が呪いとして雨を降らさないと、このようなことが起こります。
 1列王記16.17章には次のような話が記されています。
1630 オムリの子アハブは、彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行った。
31
 アハブにとって、ネバトの子ヤロブアムと同じ罪を犯すのはささいなことだったため、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルをめとり、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。
32
 アハブはサマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのための祭壇を築いた。
33
 彼はまた、アシェラ像を造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのどの王にも増して、イスラエルの神、主を怒らせることをしたのである。/
17
1 ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 2 主の言葉がエリヤに臨んだ。
3
 「ここを去って東へ向かい、ヨルダンの東にあるケリトの渓谷に身を隠し、4 その渓谷の水を飲みなさい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
 5 そこでエリヤはすぐに行って主が言われたようにした。すなわち、ヨルダンの東にあるケリトの渓谷に行ってそこに身を寄せた。
6
 すると烏が、朝にパンと肉を、夕方にもパンと肉を彼のもとに運んで来た。水は渓谷で飲んだ。
7
 だがしばらくすると、渓谷は干上がってしまった。その地方に雨が降らなかったからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 34節には“実り豊かな地を塩の地とした。”とあります。
主がそのようにされた場所で有名なところは、現在の死海の地方です。
 創世記1310.11aには、
10 ロトがヨルダンの低地一帯を見回してみると、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その辺り一面は、主の園のように、またエジプトの地のように、ツォアルに至るまであまねく潤っていた。11 そこでロトは、ヨルダンの低地一帯を選び取った。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 更に創世記1820には、
“そして主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは実に大きく、その罪は極めて重い。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 創世記1924-29には、ソドムとゴモラへの審判が次のように記されています。
24 主は、ソドムとゴモラの上に、主のもとから、すなわち天から硫黄と火を降らせ、25 これらの町と低地一帯、町の住民すべてと、土地に芽生えるものを滅ぼされた。
26
 ロトの妻は振り向いたので、塩の柱になった。
27
 アブラハムは翌朝早く起きて、かつて主の前に立った場所に行った。
28
 彼がソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろしてみると、地の煙が、まるでかまどの煙のように立ち上っていた。
29
 神は、低地の町を滅ぼされたとき、すなわちロトが住んでいた町を滅ぼされた際、アブラハムのことを忘れず、ロトをその滅亡のただ中から救い出された。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主が下される呪いには原因があります。
主の呪いは、主への不従順に原因があります。また主の呪いは、主からの警告でもあります。
 申命記28章には、
“15 しかし、もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従わず、私があなたに今日命じる戒めと掟のすべてを守り行わないならば、これらのすべての呪いがあなたに臨み、あなたに及ぶ。
16
 あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。
17
 あなたの籠もこね鉢も呪われる。
18
 あなたの胎から生まれる子も、土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。
19
 あなたは入るときも呪われ、出るときも呪われる。
20
 主はあなたが行う手の業すべてに対し、呪いと混乱と懲らしめを送り、あなたを速やかに滅ぼし、消し去る。これは、あなたが私を捨てて悪を行ったからである。
21
 主はあなたに疫病をまといつかせ、あなたが入って所有しようとする土地から、あなたを絶ち滅ぼす。
22
 主が肺病、熱病、炎症、高熱、剣、立ち枯れ、赤さび病をもって打つと、それらはあなたを追いかけて、あなたを滅ぼす。
23
 頭上の天は銅となり、あなたの下の地は鉄となる。〔天は青銅のように堅く閉じて雨を降らせず、地は鉄のように堅くしまり、作物を実らせません。(リビングバイブル)〕
24
 主は地の雨を埃や塵に変えて天から降らせ、あなたを滅ぼす。〔国中が干上がり、ほこりと化し、もうれつな砂嵐が荒れ狂って、生き残る者は一人もありません。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)と記されています。

 詩篇10735-38には、
35 主は荒れ野を池とし、乾いた地を水の湧く所とし、36 飢えた者をそこに住まわせたので、彼らは人の住む町を築いた。37 畑には種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得た。38 主が祝福したので、彼らは大いに増えた。主は家畜も減らさなかった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主を畏れ敬い主に従う者を主は祝福されます。
申命記28章には次のように記されています。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。
5
 あなたの籠もこね鉢も祝福される。
6
 あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。
7
 主はあなたに立ち向かう敵をあなたの前で打ち負かされる。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前から七つの道へ逃げて行く。
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。9 あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むとき、主はあなたに誓われたとおり、あなたを聖なる民として立てられる。
10
 地のすべての民は、あなたが主の名で呼ばれるのを見て、あなたを恐れる。
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはい。
13
 私が今日守り行うように命じる、あなたの神、主の戒めに聞き従うとき、主はあなたを頭として、尾とすることはない。あなたは常に上にあって、下になることはない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 イスラエルは地の民ですから地上の見えるところでの祝福と呪いを受けます(レビ記26章、申命記28章)。
新生したキリスト者は天の民です(ヨハネ17161836、ピリピ320)から霊的な祝福を受ける者です{エペソ(エフェソ)13}。キリスト者の場合の地における豊かさは本質的なものではありません。
主は、キリスト者に、地において豊かさを与える場合もあれば、そうでない場合もあります。地上生活における主の約束は必要を満たしてくださるということです{ピリピ(フィリピ)419、マタイ631-34}。
エフェソ13bには“神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。”(新共同訳)と記されています。
「キリストにおいて」と訳されている語のギリシア語原語は「エン クリスト―」で、英訳ではin Christ になり、キリストの中で、の意になります。
 コロサイ23には“知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。”(新共同訳)と記され、
 コロサイ29.10には“キリストの内には、満ちあふれる神性〔神の満ち満ちたご性質(新改訳)〕が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて〔in ChristNIV訳)〕満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭(かしら)です。”(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつもあなたの内にあって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月14日 (日)

使徒1:3-5 福音と約束のことがらへの待ち望み

 使徒13-5には次のように記されています。
3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
4
 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5
 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここに記されている内容は福音書や使徒言行録、手紙にその概要が記されています。そのいくつかを下記することにします。

 マグダラのマリアは、主イエス様が納められた墓に近くで、復活された主イエス様から、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(ヨハネ20172017)と言われました。これは主イエス様の御復活の日の朝のことでした。

 主イエス様の御復活の日の午後(おそらく夕方に近い頃)のこと、エルサレムからエマオへの道の途上で、主イエス様は、二人の弟子に現れました。そのうちの一人の名前はクレオパという名でした。
 ルカ2413-35には次のように記されています。
13 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン〔約11㎞(筆者挿入)〕離れたエマオという村に向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。
15
 話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
16
 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17
 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18
 その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」  
19
 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。21 私たちは、この方こそイスラエルを解放〔ローマの支配から解放(筆者挿入)〕してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから〔主イエス様が十字架につけられてから(筆者挿入)〕、もう今日で三日目になります。
 22 ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たち〔マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアと他の女性たち(筆者挿入)〕が朝早く墓へ行きますと、23 遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです〔ルカ2355-2410参照(筆者挿入)〕。
24
 それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」〔ルカ2411.12、ヨハネ203-8参照(筆者挿入)〕
 25 そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入る〔「enter into his gloryKJV訳)。直訳すると、彼の栄光の中へ入る」。主の霊が主の復活の体の中へと入る、ということだろうと思います。intoと訳されているギリシア語は「エイス」で第一義はintoです。(筆者挿入)〕はずではなかったか。」
27
 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。〔聞いてみたかったですね(筆者挿入)〕
 28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29
 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
30
 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
31
 すると、二人の目が開け、イエスだと分かった〔霊の体は肉の体とは異なっていたからではないかと思います。(筆者挿入)〕が、その姿は見えなくなった。
32
 二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
 33 すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の御復活の日の夕方にはトマスを除く弟子たちに現れました。ヨハネ2019-23には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の御復活の8日後のこと、トマスも含めた使徒たちが家にこもっていたときに、主イエス様は現れました。ヨハネ2025-29には次のように記されています。
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25
 そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
 26 八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28
 トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
29
 イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ211-23にはガリラヤで弟子(この時にいた弟子たちは、シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子)たちに現れ、食事も共にしたことが記されています。

 主イエス様の宣教命令は、マタイ2816-20、マルコ1615-18に記されています。

 1コリント15章には次のように記されています。
1 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、2 これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
 3 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
 5 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。6 その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新約聖書と旧約聖書を私たちに与えてくださいましたことを感謝します。
聖書に記されている内容を真理の霊である聖霊様が私たちに解き明かしてくださいますように。
私たちは、主の十字架と復活を直接見たわけではないのに、それを信じる信仰を与えて頂いていますから感謝します。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月13日 (土)

フィリピ1:19-21 生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの

 フィリピ119-21には次のように記されています。
19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。
20
 そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
21
 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 19節(抜粋)には“あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなる”と記されています。

 「イエス・キリストの霊の支え」という個所の「支え」と訳されている語のギリシア語原語は「エピコレーギア」という語で、寄付、出資、助力、供給、支給、・・・等の意があります。
「エピコレーギア」を聖書協会共同訳、2017は「支え」と訳し、口語訳、塚本訳、新改訳初版~第三版、新共同訳、リビングバイブルは「助け」と訳し、文語訳は「賜物」と訳しています。

 「私の救い」という個所の「救い」と訳されている語のギリシア語原語は「ソーテーリア」で、救い、救済、救出、保護、・・・等の意があります。

 パウロは、罪からの救いをすでにいただいていますから、この個所の救いは、主に在る兄姉方の祈りとイエス・キリストの霊の供給&支え&助けによって日々の心の助けにもなるし、牢からの救出にもなると考えていたのではないかと思います。

 この個所に関連した注解として、Bible navi は“結局のところ、パウロはこの投獄から釈放されたが、23年後に再び逮捕された。キリストへの信仰だけが、そのような逆境においてパウロを元気づけることができた。”と述べています。

 主がともにおられれば逆境に勝利できるのです(創世記392.3.21.234138参照)。

 20.21節(抜粋)には“私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。”と、パウロの心境が記されています。

 パウロは“私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”(ローマ1482017)とも述べました。

 このようなパウロですから、パウロは「そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。」(フィリピ120)と語ることができたのでしょうし、その根底には、主なる神への大いなる愛があった故なのでしょう。

 ファニー・クロスビーの詩に「われ贖われて」というものがあります(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264)。その中の1-4節を下記します。
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストにありて やす(平安)き身なり
(折り返し)=* 贖い 贖い われは歌わん ハレルヤ ときわに われは歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて ハレルヤを叫ぶ 身とはなりぬ *
3.負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる *
4.われはイエスのもの 主はわがもの 御霊の証しは 心にあり *”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ファニー・クロスビーの書いた詩に「アーメン」と言えるようにしてくださいましたことを感謝します。
日々、あなたに感謝しつつ、主に支えられ、主の助けを戴いて、主を賛美しながら歩んでいけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月12日 (金)

箴言28:14 主を愛し主に従う幸いな歩み

 箴言2814を、
2017
は“幸いなことよ、いつも恐れる心を持つ人は。しかし、心を頑なにする者はわざわいに陥る。”と訳し、
リビングバイブルは“神を大切にする人は幸せになり、神のことなど気にもかけない者は面倒に巻き込まれます。”と訳し、
聖書協会共同訳は“幸いな者とは常に主を畏れる人。心のかたくなな者〔直訳「心を硬くする者」(欄外注)〕は災いへと落ちる。”と訳しています。

 リビングバイブルは“神を大切にする人は幸せになり、神のことなど気にもかけない者は面倒に巻き込まれます。”と訳していますが、この世の国々においては、まことの神様を大切にしてor愛して、従うゆえに、面倒に巻き込まれることもありますね。

 新生しているキリスト者の国は、この世のものではありませんからね。
主イエス様は、ピラトに「わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18362017)と語りました。

 主イエス様は、「義のために迫害されている者は幸いです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」(マタイ510-12抜粋・2017)とも語られました。

 「あなたがたの報いは大きい」(マタイ512)と記されていることが明らかになるのは、2コリント510に「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(2017)と記されている時なのでしょう。

 箴言2814には「幸いなるかな。いつも(まことの神を)畏れる人は。しかし、心を頑なにする人はわざわいに陥る。」(私訳)とあります。

 まことの神を畏れ敬い、愛し、従う人は、この世において多くの困難に遭遇したとしても、肉体においてはシビア―なこともあるでしょうが、霊においてはいつも幸いですし、魂には喜びがあることでしょう。

 霊は主との交わりが常にあるので幸いなのです。(1コリント6171ヨハネ13後半部分;参照)
また、魂は救われ、主を信じ、愛しているゆえに喜びがあるのです。(1ペテロ18.9参照)
しかし、肉体はそうとは限りません。
パウロは、外なる人(肉体)は衰える(2コリント416)し{若いときではなく年を重ねたパウロの言葉}、肉の内には罪が住んでいる(ローマ718-20.23)と語りました。

 肉の人としてではなく、霊の人として歩みたいですね。

 この箴言の聖句の後半部分には「(まことの神に対して)心を頑なにする人はわざわいに陥る。」と記されています。

 この世においては、まことの神様に対して敵対している人でも成功しているように見える人たちはいます。

 アサフは次のような詩を書きました。
3 神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。
4
死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。
5
だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。
6
傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む。
7
目は脂肪の中から見まわし、心には悪だくみが溢れる。
8
彼らは侮り、災いをもたらそうと定め、高く構え、暴力を振るおうと定める。
9
口を天に置き、舌は地を行く。
11
そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
12
見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。”(詩篇73篇・新共同訳)と記されています。

 しかしアサフは主から次のように教えられたのです。
17 ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。
18
あなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを。
19
彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを。”(詩篇73篇・新共同訳)と記されています。

 まことの神様信じない人は、死んだ後、よみ{(へ)シェオール、(ギ)ハデース}に行きます。
主イエス様は、その一例としてルカ16章で、金持ちの例を述べています。
23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、アブラハムとその懐にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
24
 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。』
25
 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26
 そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない。』”(聖書協会共同訳)と記されています。

 この金持ちが、イエス様の時代の人であったとしたら、最後の審判(白い御座の裁き)まで、最低でも3000年以上あるかもしれないのです。

 新生したキリスト者は、霊の人として歩めば、他人にはどのように思われたとしても、霊と魂には幸せがあり、肉体を脱ぎ捨てた後は、天にある神の王国へと直行させていただけるのです。
また、キリストの空中再臨時に肉体をもって地上に生きている人は、一瞬のうちに霊の体に変えられ、強制的に引き上げられて、空中で主とお会いし、更に天国に連れて行っていただけるのです。
天には住まいも用意されています。
 ヨハネ14章には、主イエス様の御言葉が次のように記されています。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(1-4節・聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも主なる神様を畏れ敬い、主を愛し、主に信頼し、主に従う歩みをし続けていくことができますよう祝福して下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月11日 (木)

詩篇107:23-32 神は我らの避け処また力

 詩篇10723-32には次のように記されています。
23 船で海に出た人々は大海を渡って商いをした。
24
 この人々が深い底で、主の業、その奇しき業を見た。
25
 主が言葉を発して暴風を起こすと、波が高くなった。
26
 彼らは天に上り、深淵に下り、魂は苦難におののき、27 酔いどれのようによろめき、ふらつき、その知恵もことごとく錯乱した。
28
 苦難の中で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出した。
29
 嵐を沈黙させたので、波は収まった。
30
 彼らは波が静まったので喜び、主は彼らを目指す港に導いた。
31
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業のゆえに。
32
 民の集会で主を崇めよ。長老の集いで主を賛美せよ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 すべての気象現象は自然のなすところであり、そして現代の異常気象は、人の生活とも密接にかかわっている、と考えているのではないかと思います。
しかし、今日の聖書個所は、主なる神様が、暴風を起こされ、また鎮めるお方でもあるということを教えてくれています。

 もし暴風が一瞬のうちに静まったならば、それは驚きです。
しかし、主イエス様は、弟子たちにそれを見せたのです。
 マルコ435-41には次のように記されています。
35 さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36
 そこで、彼らは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった〔「ほかの船{複数形}も一緒」ということが記されているのはマルコだけです(筆者挿入)〕。
37
 すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。
38
 しかし、イエス自身は、艫〔「とも」。「船尾」(2017)〕の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。
39
 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信仰〔ギリシア語原語は「ピスティス」で、信仰の他、信頼、確信、・・etc.の意もあります。(筆者挿入)〕がないのか。」
41
 弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った”(聖書協会共同訳)とあります。

 39節には“イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。”とありますから、この体験で、イエス様が神であると悟った弟子たちもいたことでしょう。

 ヨナ1章にもヤハウェ(主)が暴風を起こされ、また鎮められた例が次の様に記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
2
 「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」
3
 しかし、ヨナは立ち上がると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御顔を避け、タルシシュに向けて逃亡を図った。彼がヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかったので、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御顔を避けてタルシシュへ行こうと、船賃を払って人々と共に船に乗り込んだ。
4
 だが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が海に向かって大風を起こされたので海は大しけとなり、船は今にも砕けそうになった。
5
 船乗りたちは恐怖のあまりそれぞれの神に向かって叫び、海に積み荷を投げ捨て、船を軽くしようとした。一方ヨナは、船底に降りて横たわり、寝入っていた。〔船員が祈りをささげた神々すなわち偶像神は暴風を鎮めることができませんでした(筆者挿入)〕
6
 やがて、船長がヨナのところに来て言った。「なぜ寝ているのか。さあ起きて、あなたの神に呼びかけなさい。そうすれば、神は我々のことを顧み、滅ぼさずにおかれるかもしれない。」
7
 人々は互いに言った。「さあ、この災いが我々に降りかかって来たのは誰のせいなのか、くじを引いて確かめよう。」そこで彼らがくじを引くと、ヨナに当たった。
8
 彼らはヨナに言った。「さあ、我々に話してほしい。この災難が我々に降りかかったのは、誰のせいか。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。国はどこで、どの民の出身か。」
9
 ヨナは彼らに言った。「私はヘブライ人です。海と陸とを造られた天の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる者です。」
10
 人々は非常に恐れ、ヨナに「あなたは何をしたのか」と言った。ヨナが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御顔を避けて逃亡したことを伝えたので、人々はその経緯を知った。
11
 彼らはヨナに言った。「あなたをどうすれば、海は静まるだろうか。」海は依然として荒れ狂ったままであった。
12
 ヨナは言った。「私を担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう。この大しけがあなたがたを襲ったのは、私のせいだと分かっています。」
13
 人々は船を漕ぎ、陸に戻そうとしたが、できなかった。海は彼らに逆らって荒れ狂ったままであった。
14
 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください。あなたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、思いのままになさるお方です。」
15
 こうして、彼らがヨナを捕らえ、海に投げ込むと、海は荒れるのをやめた。
16
 人々は非常に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れ、いけにえを献げて誓いを立てた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨナ書でもヤハウェ(主)の働きは顕著です。
神ヤハウェ(主)は、地震も起こしますし、火山の爆発も起こします。
何しろ神ヤハウェ(主)は万物の創造者なのですから。
ヤハウェ(主)の動機が義なる裁きのためなのか、愛の故なのか、その両方なのか、折々に異なることでしょうが、私たちはその全能の神ヤハウェ(主)に信頼することの出来る特権を与えられています。

 詩篇46篇には次のように記されています。
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
2
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。/
11
万軍の主はわれらとともにおられる。”(抜粋・新改訳初版~第三版)とあります。
地震のたびに「神は我らの避けどころ、また力。苦しむとき、そこにある助け。万軍の主はわれらとともにおられる。」と祈りつつ、落ち着きをもって事を処したいですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
驚くようなことが起きたときにも、直ちにあなたに信頼し、祈りつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月10日 (水)

使徒1:1.2 はしがき/御霊によって

 使徒11-2には次のように記されています。
“テオフィロ様、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 テオフィロという名前は、テオス(神)とフィロス(友)からできている名で、「神の友」という意味になります。

 「私は先に第一巻を著し」とあります。
第一巻というのは「ルカによる福音書」のことです。ですから「私」というのは「ルカ」ということになります。

 「私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」とありますから、ルカによる福音書に記されている内容の概略がどのようなものであるかがわかります。

 「聖霊を通して指示を与え」とあります。
主イエス様が肉体をまとっていた間は、神のありようを捨てて、人の模範となるように聖霊によってことを行ってきたということを強調しているのだろうと思います。

 フィリピ(ピリピ)2章には次のように記されています。
6 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 同じ個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
6 キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。
7
かえって、その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。
8
そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。”と記しています。

 ペテロは、コルネリウス(コルネリオ)とその親族、及びコルネリウスの親しい友人に向かって次の様に語りました。
36 神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。
37
 あなたがたは、ヨハネが洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事をご存じでしょう。
38
 つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれましたイエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです。」(使徒10章・聖書協会共同訳)と記されています。

 私たちの主イエス様は、主イエス様が肉体をまとっている間は、神である聖霊(聖なる神の霊)によって御業を行ってきたことがわかります。

 ヨハネは、ヨハネによる福音書3章に次のように記しています。
31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32
 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。
33
 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである。
34
 神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる神が霊〔「聖霊」(口語訳)「御霊」(新改訳)、ギリシア語聖書は、「定冠詞+霊」となっています。英訳ではthe Spiritです。(筆者挿入)〕を限りなくお与えになるからである
35
 御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、御父のみ旨にかなうことであるならば、御子としての神御自身の能力でどんなことでもできたのですが、聖霊によって、言動をなさったということがわかります。
それは、キリスト者のお手本となるためでもあったのでしょう。

 主イエス・キリスト様は、最後の晩餐の席で、次のように語られました。
12 よくよく〔アーメン アーメン(筆者挿入)〕言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろうそればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。〔→ヨハネ1415-17参照。下記します。(筆者挿入)〕
13
 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14
 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者も、神のみ旨にかなうことならば、聖霊によって様々なことを行うことができると主イエス様は明らかにしてくださいました。
ヨハネ1415-17には、主イエス様の御言葉が、次のように記されています。
15 あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊である。世は、この霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕を見ようとも知ろうともしない〔肉眼では霊は見えませんが、霊を知ることはできます。(筆者挿入)〕ので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり〔あなたがたとともにおられ(2017)。あなたがたと共に住み(リビングバイブル)〕、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者も聖霊によって歩んでいくのです。主イエス様は、その模範を示してくださいました。
パウロは主キリスト様に見倣って歩もうと心がけていました。
2
コリント111には「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御霊に満たされて日々歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 9日 (火)

フィリピ1:15-18 福音宣教の動機

 フィリピ115-18には次のように記されています。
15 キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。
16
 一方は、私が福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、利己心により、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
18
 だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 福音宣教を、肉の思い・感情・意志によって行う場合のあることが、15節に「キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいます。」と記されています。

 パウロは、自分に敵対してくる自称使徒たち(2コリント1113)のことを言っていたのか、それ以上に広い意味で言っていたのか、その両方であったのかは、文章からは分かりませんが、私は両方の観点で捉えたいと思います。

 も〇み〇と△の人たちは、自分が救われるために伝道しています。その上、伝道する内容の核心部分は、間違っているのです。彼らは、キリストを「神」ではないと言っています。

 ペテロの最初の信仰告白の個所を下記します。
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14
 弟子たちは言った。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます。」
15
 イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
16
 シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
17
 すると、イエスはお答えになった。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ペトロが、「イェシュア(イエス)は、メシア(キリスト)であり、生きておられる神様の御子である」と告白できたのは、主イェシュア・ハメシアハ(主イエス・キリスト)の父からの啓示によって答えることができたのですよ、と主イエス様は言われたのです。

 話しを元に戻します。
明確な救いにあずかる前に宣教師になった人もいます。
その人は、後に、明確な救いを体験しました。
しかし主は、その人が明確な救いの確信を持つ前に語った神のことばを用いて、福音を聞いた人々を救われたのです。

 パウロは「だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。」(18)と、福音が宣教され、語られた神のことばに御聖霊が働かれて、滅びから救われる人が起こされることを喜んでいます。

 そのようなこともありますが、肉からではなく主の霊に導かれてor主の霊に満たされて福音を語ることが出来たら良いですね。
肉によって行っていると、分裂や分派を生じる場合がありますから。
分裂、分派というときには、宗教・宗派上の議論から考えるのではなく、聖書全体から、聖書は何を語っているのか、何を語っていないのか、聖書全体との整合性が取れているのかいないのか等を考える必要があります。

 肉の行いの項目の中には、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、・・・etc.があります。(ガラテヤ519.20参照)

 主なる神を愛するゆえに、神様が望まれる福音を宣教し、隣人を愛するがゆえに、聖霊に満たされ、御霊の実を豊につけさせていただいて福音を宣教することができたら本当に幸いですね。
 
 ガラテヤ522.23 には“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(self-control)です。”(2017)と記されています。 

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖霊に満たされて神様の御言葉を宣教する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 8日 (月)

箴言28:13 主に対して真実に生きる者の幸い

 箴言2813を、
2017
は“自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。”と訳し、
新共同訳は“罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。”と訳し、
聖書協会共同訳は“背きを隠す者が栄えることはなく、告白して罪から離れる者は憐れみを受ける。”と訳し、
リビングバイブルは“自分の誤りを認めない者は成功しませんが、素直に認め、直そうとする人には、別のチャンスが転がり込みます。”と意訳しています。

 「背き」(2017、聖書協会共同訳)、「罪」(新共同訳)、「誤り」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ペシャ」で、反乱、反抗、不快、違反、犯罪、(宗教・道徳上の)罪、・・・等の意があります。

 「隠す」(2017、新共同訳、聖書協会共同訳)、「認めない」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「カーサー」で、丸々とした、ふっくらした、たくさんの、満たす、覆う、覆いをかける、隠す、秘密にする、・・・等の意があります。

 「成功する」(2017、リビングバイブル)、「栄える」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァーラフ」で、勇猛邁進、成功する、繁栄する、すくすくと育つ、・・・・等の意があります。

 「告白する」(2017、新共同訳、聖書協会共同訳)、「認める」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーダー」で、〈 罪 ・ 隠し事 などを〉 告白する , 白状する , 打ち明ける、等の意があり、その他、礼拝する、感謝する、賛美する、・・・・等の意があります。

 「捨てる」(2017、新共同訳)、「離れる」(聖書協会共同訳)、「認める」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーザブ」で、ゆるめる、解く、離す、放つ、捨てる,やめる、・・・等の意があります。

 「憐れみ(を受ける)」(2017、新共同訳、聖書協会共同訳)、「チャンスが転がり込む」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーハム」で、慈悲、憐れみ、恵み、愛する、愛撫する、・・・等の意があります。

 ヘブライ語聖書のこの聖句を直訳すると2017訳のような「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」という訳になります。
それを日本人に分かりやすく意訳すると新共同訳や聖書協会共同訳のようになります。更に意訳を発展させるとリビングバイブル訳のようになります。

 主なる神様に背いていること、すなわち主なる神様の方に心が向いていないこと、主なる神様を信じていないことは、罪です。
御子キリスト・イエス様は、人となられた神です。
イエス様は「罪とは、わたしを信じないことです。」と語られました。(ヨハネ169・リビングバイブル)

 「イエス」のヘブライ語は「イェシュア」です。
ヤハウェ(主)は救う、の意で、主イエス様が救い主であることをお名前で表しています。
 主の使いは神からの伝言を、マリアの夫ヨセフに次のように語りました。
「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ120.21・聖書協会共同訳)と記されています。

 旧約時代の終わりの頃にシメオンという聖徒がいました。
シメオンの人となりとシメオンの祈りが、ルカ225-32は次のように記されています。
25 その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
26
 また、主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。
27
 この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして、両親が幼子イエスを連れて来て、その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき、28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29
 「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。
30
 私はこの目であなたの救い〔イェシュア(筆者挿入)〕を見たからです。
31
 これは万民の前に備えられた救いで、32 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様に心を向け、主イエス様を信じることは、罪から離れることです。
主イエス様に信頼する人は恵みによって救われるのです。

 主イエス・キリスト様の救いにあずかった後でも、主のみ旨から、すなわち主の御意志から外れた歩みをしてしまうことがあります。
これが背きであり、罪です。
 主なる神様は、キリスト者に「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」(1テサロニケ432017)とパウロを通して語られ、
 またペテロを通しては、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(1ペテロ115・新改訳初版~第三版)と語られ、
 ヨハネを通しては「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。神にこの望みを抱く人は皆、御子が清いように自分を清くするのです。」(1ヨハネ31-3・聖書協会共同訳)と語られました。

 罪を告白する者はきよめていただけます。
1
ヨハネ19には“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(2017)と記されています。

 きよくされることは、神様の御性質にあずかる者とされることです。
なんと幸いなことでしょう。
その様であれば、いつも三一の主なる神様と豊かな交わりを持たせていただきつつ地上生涯を送ることができるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日もあなたのみ旨の内を歩ませていただけますよう祝福してください。
三一の主なる神様との交わりを持たせていただきつつ歩ませていただけます恵みをこの上なく感謝します。
あなたの御名を賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 7日 (日)

詩篇107:17-22 主から離れ、主の道から外れ、罪責感にさいなまされている人でも、主に立ち返れば、主は癒してくださる/ダビデ王の事例から

 詩篇10717-22には次のように記されています。
17 彼らは背きの歩みのゆえに愚か者となり、過ちのゆえに苦しむことになった。
18
 彼らの喉はどの食べ物も忌み嫌い、彼らは死の門に近づいた。
19
苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。
20
 主は言葉を送って人々を癒やし、破滅から解き放ってくださった。
21
 主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業のゆえに。
22
 感謝のいけにえを献げ、喜び歌いつつ、御業を語り伝えよ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 17節には“彼らは背きの歩みのゆえに愚か者となり、過ちのゆえに苦しむことになった。”(聖書協会共同訳)と記されています。
この個所を2017は“愚か者は自分の背きの道のため、また咎のために苦しみを受けた。”と訳し、
リビングバイブルは“愚かな人々は、罪深い行いのために、病気にかかりました。”と意訳しています。
口語訳は“ある者はその罪に汚れた行いによって病み、その不義のゆえに悩んだ。”と訳しています。

 ダビデはウリヤの妻バト・シェバの水浴を見たときに主の御旨に背く姦淫の罪を犯しました(マタイ528参照)。
それまでのダビデは、おおむね主のみ旨に従い、主に信頼して良き歩みをしていました。

 ダビデが犯した背きの罪は、バト・シェバ事件で言えば、姦淫と殺人の罪(現代社会では殺人教唆の罪)です。

 2サムエル11章に次のように記されています。
1 年が改まり、王たちが出陣する季節になった。ダビデは、ヨアブに自分の家臣を付けて、イスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を皆殺しにし、ラバを包囲した。この時ダビデはエルサレムにとどまっていた。
2
 ある夕暮れ時、ダビデは寝床から起き上がり、王宮の屋上を散歩していたところ、屋上から一人の女が水を浴びているのを見た。女は大層美しかった。
3
 ダビデは人をやってその女のことを調べさせると、「あれはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻です」との知らせを受けた。
4
 ダビデは使いの者をやって彼女を召し出し、彼女がダビデのもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたばかりであった。そして彼女は 自分の家に帰って行った。
5
 やがて女は身ごもり、人をやってダビデに告げた。「私は子を宿しました。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この後ダビデは、バト・シェバが宿した子をヘト人ウリヤの子であるように策略を練り、それを実行しました。しかしうまくいきませんでした。うまくいかなかった理由は、ヘト人ウリヤが立派な軍人であったからです。(2サムエル116-13参照)

 バト・シェバの胎児が、ヘト人ウリヤの子であるというというごまかしに失敗したダビデは、次に殺人教唆の罪を犯すのです。これは事実上の殺人です。
 2サムエル1114-17には次のように記されています。
14 翌朝、ダビデはヨアブに宛てて書簡をしたため、ウリヤに託して送った。
15
 その書簡にはこう書いてあった。
「ウリヤを戦いが熾烈な最前線に出し、彼を残したまま退却して、討ち死にさせよ。」
16
 町を見張っていたヨアブは、武勇に優れた者がいると判断した辺りにウリヤを配置した。
17
 町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、兵からもダビデの家臣からも倒れる者が出て、ヘト人ウリヤも死んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ダビデのような姦淫や殺人を犯した人はあまりいないでしょう。
しかし主なる神様は次の様にご覧になるのです。
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28
 しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。
29
 右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。
30
 右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」/
 21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22
 しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。
23
 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」”(マタイ5章・聖書協会共同訳)とあります。

 話しを元に戻します。
バト・シェバの心はどのようであったのでしょう。
2
サムエル1126には“ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆き悲しんだ。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 この後、ダビデは詩篇10717.18の聖句のような状態に陥りました。
口語訳はこの個所を次のように訳しています。
17 ある者はその罪に汚れた行いによって病み、その不義のゆえに悩んだ。
18
彼らはすべての食物をきらって、死の門に近づいた。”と記されています。

 詩篇323.4には、この時のダビデの状態が、ダビデ自身によって次のように記されています。
「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす〔一日中(筆者挿入)〕苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。」(口語訳)とあります。

 ダビデのこのような状態に対して、主なる神様は、ダビデに助けの手を伸ばされたのです。主なる神様は、ダビデに預言者ナタンを遣わされ、罪を指摘なさいました。
ダビデはナタンの話を聞き、主に自分の罪を告白したのです。
主はダビデの罪を赦してくださいましたが、罪の刈り取りもせねばならないと言われました。またバト・シェバが産んだ子は七日目に死にました。(2サムエル121-18a

 詩篇325には“私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。
「私の背きを主に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。”(2017)と記されています。

 詩篇10719.20には“19 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。20 主は言葉を送って人々を癒やし、破滅から解き放ってくださった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 続く21.22節には次のように記されています。
21 主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業のゆえに。
22
 感謝のいけにえを献げ、喜び歌いつつ、御業を語り伝えよ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇32篇は次のように記されています。
1 ダビデの詩。マスキール。
いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2
いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3
わたしは黙し続けて絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4
御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
5
わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。
「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。〔セラ
6
あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも、その人に及ぶことは決してありません。
7
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方。〔セラ
8
わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
9
分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
10
神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。”(新共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖なるあなたは、義なる神であられると共に、愛なる神であられますから御名を賛美します。
罪を犯してしまったときにも、1ヨハネ19の“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(2017)という聖句に基づいてお取り扱いくださいますからありがとうございます。
1
ペテロ115に“あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。”(新改訳初版~第三版)という聖句がありますが、願わくは、その如くにさせて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 6日 (土)

黙示録22:6-21 黙示録最終章の主のことばとヨハネの言葉/聖なる者はさらに聖なる者となれ

 黙示録226.7には次のように記されています。
6 天使はまた、私にこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちに霊感を授ける神、主が、その天使を送って、すぐに起こるべきことを、ご自分の僕たちに示されたのである。7 見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録の2.3章は、当時の教会にとって、主の忠告はすぐに起こる可能性のあることであったでしょう。(教会時代の歴史を通しての預言という観点から見たときには、それぞれの時代に、書いてあるような状態になったならば、やはり神様の視点からすればすぐに起こる、ということなのでしょう)
また、4章以降は、御父の定めの時が来たならば、それぞれが、これもまたすぐに起こることでしょう。

 主は天使を遣わして、黙示録に記されている内容が、信頼でき、真実なものであると告げ、また、黙示録の預言のことばを守る者は幸いであると告げたのです。

 黙示録228.9には、礼拝すべきお方は主なる神様だけであると次のように記されています。
8 これらのことを聞き、また見た者は、私ヨハネである。聞き、また見終わったとき、私は、これらのことを示してくれた天使の足元にひれ伏して、拝もうとした。
9
 すると、天使は私に言った。
「やめよ。私は、あなたや、あなたのきょうだいである預言者たちや、この書の言葉を守っている人たちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネは天使礼拝をしそうになりました。その気持ちは分かります。あまりにも素晴らしいことを教えてくれたのですから。しかし、天使は、神様のお使いを果たしただけであり、栄光を取られるのは神様でなければならないのです。
礼拝の対象は、御父と御子のみであることが聖書から分かります。
被造物(天使も人間も含まれます)は主なる神様に仕える者です。

 主イエス様の忠告と主イエス様の自己紹介が、黙示録2210-16に次のように記されています。
10 また、わたしにこう言った。
「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
11
不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
12
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
13
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
14
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
15
犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
16
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ〔ダビデの根(2017)〕、その一族〔また子孫(2017)〕、輝く明けの明星である。」”(新共同訳)とあります。

 16節には“わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ〔ダビデの根(2017)。神である御子はダビデを創造者したお方です{創世記126.27、詩篇13913、コロサイ116}(筆者挿入)〕、その一族〔また子孫(2017)。キリストは肉においては、一見すると、ダビデの血統です{マタイ11-16、ルカ323-38}が、実際は聖霊によるのでした{マタイ118}。それ故、肉においても罪を持たずに生まれたのです。(筆者挿入)〕、輝く明けの明星である。」(新共同訳)”と記されています。

 黙示録2216を読みましたが、黙示録11の“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。”(2017)という聖句にも、一部、同じような内容が再掲されています。

 また10節の“この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。”という聖句についても、黙示録13の“この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。”(2017)と記されている内容と近似した警告です。

 12節には“・・・。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。”と記されていますが、キリスト者に関していえば、2コリント510の“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)という聖句の内容と近似しています。

 13節の“わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。”という聖句も、黙示録18の“神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」”(2017)という内容の範疇にあります。
「わたしはアルファであり、オメガである。」と聞くと、初めがあって終わりもある、とも思えてしまいますが、この表現は、永遠であることを表しているのだろうと思います。
黙示録117.18(抜粋)には“恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。”(2017)と記されていますから。

 15節は“犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。”と記されています。
これは黙示録218の“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。”(2017)という内容の範疇にあります。

 14節の“命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。”という聖句がありますが、黙示録714(抜粋)の“この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。”(2017)という聖句によって、どのように洗い清めたらよいのかをすでに見せてもらっています。

 11節には“不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者は、主イエス・キリストのゆえに、「正しい者、聖なる者」です。
“正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。”(新共同訳)と記されています「正しいことを行わせ」、「聖なる者とならせよ」という個所のTRバージョンのギリシア語聖書の個所を見ると、アオリスト時制の受動態です。
正しい者とは主に信頼している者です。聖なる者とは主の血潮によって聖とされた者です。主に信頼している者を、主なる神様は、益々正しい者として整えてくださり、聖なる者{(聖別された者)へブル1010}を、主なる神様は、益々、あらゆる行いにおいて聖なる者(1ペテロ115.16)としてくださるのです。主はその様にしてくださいます。アオリスト時制で書かれているからです。また1テサロニケ523.24やピリピ16からも明らかです。2コリント318も心強い聖句です。

 この世は、どんどん悪くなります。それは、「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者〔倫理的に汚れた者(筆者挿入)〕は、なお汚れるままにしておけ。」と記されているからです。
「不正を行わせ」、「汚れるままにしておけ」と訳されている個所のTRバージョンギリシア語聖書は、アオリスト時制で能動態で記されています。生まれながらの人は罪の性質を持って誕生しており、かつ世の終わりの時代には悪魔(サタン)悪霊は暴れまわります。汚れた者は、益々汚れ、不正を行う者は益々不正を行うようになるのでしょう。
 2テモテ31-5には次のように記されています。
1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
2
その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。”(口語訳)とあります。

 黙示録2217には“御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。”(2017)と記されています。

 花嫁(1テサロニケ413-17に該当する人たちの総体)は、主よ、迎えに来てください、「マラナ・タ」{(1コリント122)アラム語}というのです。また同時に、その人たちは、まだ救われていない人たちに向かって、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と主の霊と共に福音を伝えるのです(絶対に救いなさいとは書いてありません。主の羊は主に従うでしょう)。

 黙示録2218.19には、
18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる”(新共同訳)と記されています。

 神のことばは神聖です。神のことばを神のことばとして信頼する者は幸いですし、神のことばをいい加減に捉える者は災いです。

 主の約束と花嫁の応答と祝祷が黙示録2220.21に、
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21
主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
一日一日、あなたと歩み続けているうちに、携挙の時が来ることを体験することでしょう。その日は何と素晴らしいことでしょうか。
感謝します。
日々、あなたに導かれ、あなたに支えられ、あなたの御力によって、あなたの愛の中で歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 5日 (金)

黙示録22:1-5 新エルサレムにおける御父と御子と贖われた者たち

黙示録221-5には次のように記されています。
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。
2
 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。
3
 もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
5
 もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新エルサレムには呪われるべきものが一つもなく(3)、夜もありません(5)。光は神であるヤハウェ(主)です(5)。
1
ヨハネ15には“神は光であり、神には闇が全くないということです。”(抜粋・2017)と記され、
ヨハネ14.5には“この〔主イエス・キリストの(筆者挿入)〕いのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。”(抜粋・2017)と記されています。

 ペトロ(ペテロ)、ヤコブ、ヨハネは光り輝く主イエス・キリスト様を見ました。
マタイ171.2に、
“六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1.2節には“天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。”と記されています。

 エゼキエル471-12には次のように記されています。
1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると、水が神殿の敷居の下から湧き出て、東の方に流れていた。神殿の正面が東に向いていたからである。水は祭壇の南、神殿の南側の下から流れ下っていた。
2
 彼は北の門を通って私を連れ出し、外の道を回って東に向いた外門に連れて行った。すると、水は南側から流れ出ていた。
3
 その人は、手に測り縄を持って東に出て行き、一千アンマを測り、私に水の中を渡らせた。すると水はくるぶしまであった。
4
 彼はさらに一千アンマを測って、私に水の中を渡らせると、水は膝に達した。さらに彼は一千アンマを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5
 彼がさらに一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川となった。
6
 彼は私に、「人の子よ、見たか」と言って、私を川岸へ連れ戻した。
7
 私が戻って来て見ると、川の両岸には、非常に多くの木があった。
8
 彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海〔「死海」のこと(筆者挿入)〕、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。
9
 川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるすべての生き物は生き、魚が非常に多くなる。この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川が流れる所では、すべてのものが生きるからである。
10
 漁師たちがそのほとりに立ち、エン・ゲディからエン・エグライムまで、引き網を広げる所となる。そこの魚は大海の魚のように種類が増え、非常に多くなる。
11
 しかし、沢と沼は癒やされず、塩を取ることができる。
12
 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉は枯れず、絶えず月ごとに新しい実をつける。水が聖所から流れ出ているからである。 実は食用となり、葉は薬用となる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
この記述は、キリストの千年王国の預言ではないかと思いますが、新天新地の新エルサレムにおいてもその中心的な事柄は移行されるのではないかと想像します。

 黙示録221-5には、キリストの花嫁(妻)については記されていないと思います。
2
節の「諸国の民」については、黙示録2124-26に次のように記されています。
24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。25 都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。26 人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 携挙されたキリスト者すなわちキリストの花嫁についての記述は1テサロニケ417に“私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記され、
エペソ26には“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(口語訳)と記されています。

 キリストの花嫁はどうしてこのような祝福を得たのでしょう。
それはキリストの花嫁に何かの功績があったというのではなく、ただただ御父の愛に基づく御旨の故なのではないかと私は思うのです。御父とみ子をほめたたえるのみです。
 エフェソ13.4には、
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ2029抜粋・2017)と言われましたが、教会時代すなわち恵みの時代の私たちは、主イエス様を肉眼で見ることをしなかったのに、主イエス様を信じたのです。それは、主イエス様を信じる信仰を与えられたからではないかと思います{エフェソ(エペソ)28参照}。

 黙示録711の「長老たち」とは、花嫁を代表している表現と理解することができるのではないかと思います。長老たちはキリストとともにいるのです。
黙示録79-17には次のように記されています。
9 この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。10 彼らは声高らかに言った。
「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある。」
11
 また、天使たちは皆、玉座と長老たちと四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12 こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が、世々限りなく私たちの神にありますように。アーメン。」
13
 すると、長老の一人が私に問いかけた。
「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14
 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。
「この人たちは大きな苦難〔大患難(筆者挿入)〕をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。15 それゆえ、彼ら〔艱難時代の聖徒たち(筆者挿入)〕は神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 長老たちは、御父と御子と四つの生き物と共におり、天使たちに囲まれ、また、御父と御子の御前には艱難時代の聖徒たちが礼拝している、という構図になっています。
エペソ26に“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(口語訳)と記されていることが頷けます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちは、ただただあなたの恵みによって祝福されていることを覚えます。
あなたを賛美し、あなたのすばらしさを証ししつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 4日 (木)

フィリピ1:12-14 証しをし御言葉をのべ伝えなさい

 フィリピ112-14には次のように記されています。
12 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。
13
 つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、14 主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 投獄されたら、恐怖と絶望に襲われてもおかしくありません。
パウロの場合は、主のために労していて、すなわち主に喜ばれる善を行っているにもかかわらず投獄されたのですから、主に対して「どうしてですか」と少し恨み言を言ってもおかしくないような状態です。

 かつてパウロはフィリピにおいて投獄されたことがありました。
この時もパウロは善を行って投獄され、鞭で打たれ、足かせをはめられたのです。

 使徒16章には次のように記されています。
16 私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
17
 彼女は、パウロや私たちの後ろに付いて来てこう叫ぶのであった。
「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
18
 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。
「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」
すると、霊は即座に彼女から出て行った。
 19 ところが、この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて行った。
20
 そして、二人を高官の前に引き出してこう言った。
「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。21 ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです。」
22
 群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。
23
 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
24
 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロとシラスは何度も鞭で打たれてから牢に入れられたのです(23)。
そして足かせをはめられたのです(24)。
鞭で打たれたところは出血し、痛みがあり、この当時の牢獄ですから、床は土のままであったでしょう。虫も這っていたことでしょう。今の刑務所とはまるで違うのです。

 パウロとシラスは牢の中で、主に対する恨み言で盛り上がっていたでしょうか。
そうではなく、神を賛美していたのです。
かつて主イエス様は、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ510-122017)と語られました。

 おそらくパウロとシラスは、主イエス様のこのような御言葉を直接的には聞かったでしょうが、使徒たちやほかの弟子たちから、主イエス様がこのように語られたということを聞いていたことでしょう。

 使徒1625には“真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主はこの時、御業をなされたのです。続く26節には次のように記されています。
“突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 更に主は、パウロを用いて、救いの御業をなされていきます。続く27-34節には次のように記されています。
27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
28
 パウロは大声で叫んだ。
「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」
29
 看守は、明かりを持って来させ、駆け込んで来て、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、30 二人を外へ連れ出して言った。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
31
 二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
32
 そして、看守とその家族一同に主の言葉を語った。
33
 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼(バプテスマ)を受けた。
34
 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日のフィリピの個所は、使徒16章の個所とは時間的にも場所的にも異なる場所における投獄ですが、パウロの主に在る生き方と主の働きを教えていただけます。

 今日の聖書個所におけるパウロの投獄は、フィリピではありませんが、パウロはここでも宣教活動をしていました。
自分と触れ合う人たちに証しをし、福音を語っていたのです。
その福音宣教の結果は、フィリピ113.14に次の様に記されています。
13 つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、14 主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 このような状態を見るとパウロの次の聖句が重みをもって迫ってきます。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ41.22017)という聖句です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
現代の日本の空気感では、様々な宗教界のトラブルのゆえに宗教的な話をすると、それだけで心のシャッターを下ろす人が多いですが、主が私たちキリスト者の一人一人に語るべき相手を与えてくださって、その人たちに証しをし、福音を語ることができるようにさせてください。
御父が主キリスト様に与えられた羊を宣教対象者として与えてくださいましたら最高ですが、そうでなくても福音に耳を傾ける人を与えてください。
そのようにして、キリスト者の一人一人が、福音を語ることの喜びを体験しながら生活していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・
27 私〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
28
 私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。
29
 私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。
30
 私と父とは一つである。」(ヨハネ10章・聖書協会共同訳)

2024年4月 3日 (水)

箴言28:12 主なる神を信じる者は主キリスト・イエス様の王権を喜びます

 箴言2812を、
2017
は“正しい人が喜ぶと、大いなる栄えがあり、悪しき者が立ち上がると、人は身を潜める。”と訳し、
リビングバイブルは“神を恐れる人が成功するとだれもが喜び、悪者が成功するとがっかりします。”と訳し、
聖書協会共同訳は“正しき者が喜び祝うと栄誉は増し、悪しき者が立ち上がると人は身を隠す。”と訳し、
フランシスコ会訳は“正しい者が支配する時には、大きな喜びがある、悪い者が権力をふるうと、人々は身を隠す。”と訳し、
新共同訳は“神に従う人々が喜び勇むと輝きは増し、神に逆らう者が興ると人は身を隠す。”と訳し、
口語訳は“正しい者が勝つときは、大いなる栄えがある、悪しき者が起るときは、民は身をかくす。”と訳しています。

 「正しい人(者)」(2017、聖書協会共同訳、口語訳)は、主なる神にあっては「神を畏れる人」(リビングバイブル)or「神に従う人」(新共同訳)です。ヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、法を守る、義人、・・・等の意があります。この文では「ツァディーク」の複数形になっています。新共同訳は「神に従う人々」と訳しています。

 「喜ぶ」(2017)、「成功する」(リビングバイブル)、「喜び祝う」(聖書協会共同訳)、「支配する」(フランシスコ会訳)、「喜び勇む」(新共同訳)、「勝つ」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーラツ」で、喜びのためにジャンプすること、大喜びする、勝ち誇る、勝利(する)、大成功、喜ぶ、嬉しがる、成功の喜び、・・等の意があります。

 「大いなるor大きな」(2017、口語訳、フランシスコ会訳)、「だれもが」(リビングバイブル)、「増し」(聖書協会共同訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラブ」で、豊富な、有り余る、偉大な、すばらしい、重要な、増える、十分な、・・・等の意があります。

 「栄え」(2017、口語訳)、「栄誉」(聖書協会共同訳)、「輝き」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ティファ―ラー」で、飾り、光彩を添えるもの、栄光、誉れ、敬意、威厳、名誉、尊敬、・・・・等の意があります。

 後半部分の、
「悪しき者or悪者」(2017、リビングバイブル、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、口語訳)とは、対神的には、「神に逆らう者」(新共同訳)です。ヘブライ語原語は「ラーシャー」で、(倫理、道徳的に)正しくない(人)、悪人、(活動的に)悪い人・・・・等の意があります。この文ではラーシャーの複数形が使われています。

「立ち上がる」(2017、聖書協会共同訳)、「成功する」(リビングバイブル)、「権力を振るう」(フランシスコ会訳)、「起こるor興る」(口語訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「クーム」で、上がる、立ち上がる、増加する、起こる、滞在する、・・・等の意があります。

 「身を潜める」(2017)、「身を隠す」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、新共同訳、口語訳)、「がっかりする」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーファス」で、探し求める、隠す、隠れる、偽装する、変化する、変装する・・・等の意があります。

 この聖句を私は、「主なる神を畏れ敬う人たちは、神に従う人たちが勝利し、支配すると、大喜びします。しかし、主なる神に敵する人たちが興ると人は身を隠しますor変装します。」と捉えました。

 悪しき人たちが興ったら、主に在って戦う義人たちが多く起こされると良いですね。

 日本では、日本を覆う「空気」(思想、考え、感情、歴史観、倫理観、・・・・)に支配されている人が多いです。キリスト者は少数です。

 主はパウロを通して、「どのような時にも、”霊”〔神の霊(筆者挿入)〕に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エペソ618・新共同訳)と語られました。

 1ヨハネ519には“わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。”(新共同訳)と記され、
主イエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713-142017)と語られました。

 主イエス様を信じている者同士は、お互いの間に違いがあっても、祈り合い、支え合う必要があることを覚えます。何しろ少数なのですから。

 主イエス様は、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られ、
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14232017)とも語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
互いに愛し合う歩みをし続けていくことができますよう祝福してください。
愛の内を歩めば、三一の主なる神様が、霊の内に住んでくださいますから感謝します。
常に主と共に歩ませていただけますようにと祈りつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 2日 (火)

詩篇107:10-16 主は憐れみ深く慈しみ深いお方

詩篇10710-16には次のように記されています。
10 闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人は、11 神の仰せに逆らい、いと高き方の計らいを侮った。
12
 主は労苦を通してその心を挫いた。彼らはつまずいたが、助ける者はいなかった。
13
 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。
14
 闇と死の陰から導き出し、彼らの枷(かせ)を壊してくださった。
15
 主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業(わざ)のゆえに。
16
 まことに、主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕いてくださった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 10節の「死の陰」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァールマーヴェト」で、死の陰、墓、等の意があります。

 11節の「仰せ」(聖書協会共同訳)、「ことば」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エーメル」で、言われた(こと)、答え、話、言葉、等の意があります。
「計らい」(聖書協会共同訳)、「さとし」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エーツァー」で。助言、忠告、勧告、計画、予定、意向、考え・・等の意があります。

 10.11節を、
聖書協会共同訳は、“闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人は、神の仰せに逆らい、いと高き方の計らいを侮った。”と訳し、
2017
は“闇と死の陰に座す者。苦しみの鉄のかせに縛られている者。彼らは神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを退けた。”と訳し、
リビングバイブルは“みじめな奴隷になり下がり、暗闇に座り込んでいる人はだれですか。それは、主に逆らった人々、他の神々にまさる神をさげすんだ人々です。”と意訳しています。

 11.12節は、詩聖が、捕囚民のことを述べて書いたのではないかと推測します。
私がここから教えられることは、たとえ主の救いにあずかったとしても、主の教えに逆らって、あるいは主の教えを無視して生きていると、結局は、サタンの支配の下に組み込まれてしまうということです。
この個所は、救われる以前にサタンの支配にあったということが書かれているのではありません。
主に救われる以前は、だれでもサタンの支配の下にありました。
 エペソ21-3に次のように記されているとおりです。
1 以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。
2
この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。
3
私たちもみな、以前はほかの人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。”(リビングバイブル)とあります。

 1110節のような読み方をすると、
“彼らは神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを退けた〔ので(筆者挿入)〕、闇と死の陰に座す者、苦しみの鉄のかせに縛られている者〔となったのです(筆者挿入)〕”(2017)ということになります。

 この状態から助け出すために、主は、捕囚民に対して、“苦役〔重労働(リビングバイブル)〕によって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたがだれも助けなかった。”(12節・2017)という状態に置かれたのです。

 主から離れた人たちは、苦しみを味わい、耐えられなくなっていきました。
その結果、主を思い起こし、主に助けてくれ、と叫んだのです。
13
節には“この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。”(2017)と記されています。
 余談になりますが、私たちの主イエス様の「イエス」のヘブライ語は「イェシュア」で、「主は救う」という意味です。キリスト者にとっては当たり前のことですが、主イエス様は「救い主」なのです。
イエス様に叫べばイエス様は救ってくださるのです。
“「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。”(ローマ1013・新共同訳)と記されています。
 1ペテロ26cには「彼〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(新改訳初版~第三版)と記されています。

 13.14.16節には、
13 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。
14
 闇と死の陰から導き出し、彼らの枷(かせ)を壊してくださった。/
16
 まことに、主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕いてくださった。(聖書協会共同訳)と記されています。

 この個所は、ユダヤの歴史についていえば、バビロンからの解放です。
ユダヤの民を開放するために主は異邦人キュロスを立てられました。
 イザヤ451-3には次のように記されています。
1 主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。
私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼〔キュロス(筆者挿入)〕の右手を取り、彼の前に諸国民を従わせ、王たちを丸腰にする。彼の前に扉は開かれ、どの門も閉ざされることはない。2 私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕あなた〔キュロス(筆者挿入)〕の前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕く
3
 私は暗闇に置かれた宝と隠された財宝をあなたに与える。それは、私が主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この結果何が起こったのでしょうか。
エズラ12-11には次のように記されています。
2 「ペルシアの王キュロスはこのように言う。
天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。
3
 あなたがた〔ユダヤの民たち(筆者挿入)〕の中で主の民に属する者は誰でも、神がその人と共におられるように。その者は誰であれ、ユダのエルサレムに上り、イスラエルの神、主の神殿を建てなさい。その方はエルサレムにある神である。
4
 残る者は皆、どこに寄留している者であっても、自分のいる所で、エルサレムにある神の宮への自発の献げ物を用意し、また銀や金、財産や家畜をもって彼らを援助しなさい。」
5
 ユダとベニヤミンの親族の頭、祭司やレビ人など、神に霊を奮い起こされた人々は皆、エルサレムにおられる主の神殿を建てるために帰還しようと立ち上がった。
6
 周囲の人たちは、自発の献げ物のほかに、銀の器、金、財産や家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。
7
 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して自分の神々の神殿に納めていた、主の神殿の祭具類を取り出させた。
8
 ペルシアの王キュロスは財務官ミトレダトに命じてそれらを取り出し、数を数え、ユダの首長シェシュバツァルに渡した。
9
 その数は次のとおりであった。金の容器三十、銀の容器一千、小刀二十九、10 金の杯三十、第二の銀の杯四百十、その他の祭具一千、11 金銀の祭具が全部で五千四百。
シェシュバツァルはこれらすべてを携え、バビロンからエルサレムに帰還する捕囚の民と共に上って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 話を変えます。
キリスト者が主なる神の教えを離れ、自分勝手な道に行き、困窮してしまったとしても、主は、憐れみ深く、恵み深いお方です。
“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(1ヨハネ192017)という聖句に信頼して、罪を主に告白すれば、主はきよめてくださるのです。
ルカ15章の放蕩息子の話にあるように、たとえ霊の父である神に背を向けて離れて行っても、回心して主の元に戻ってくれば、大歓迎してくださるお方、それが霊の父です。
主イエス様は、天の御父はそのようなお方ですよ、と教えてくださいました。
なお、主イエス様と御父とはその本質において一つです。主イエス様の御性質を見れば御父の御性質がわかるのです。

 15節には“主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業(わざ)のゆえに。”と記されていますが、自然に感謝が湧き出ることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、慈しみ深く、憐れみ深いお方ですから御名を崇めます。
あなたの慈しみをあてにして放蕩するのではなく、あなたの御教えに従ってあなたに在って歩む者であらせてください。
あなたを賛美し、あなたに感謝をささげながら。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 1日 (月)

黙示録21:9-27 新エルサレム/キリストの花嫁

 黙示録219-11には次のように記されています。
:9 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけてこう言った。
「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁をあなたに見せよう。」
10
 天使は、霊に満たされた私を大きな高い山へ連れて行った。そして、聖なる都エルサレムが神のもとを出て、神の栄光のうちに天から降って来るのを私に見せた。
11
 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新エルサレムは素晴らしい都でしたが、新エルサレムがどのように見えるのか、ということを表現するにあたり、ヨハネは、~です。~でした。とは言えず、~のようであり、~のようであった。と語る以外には表現できなかったのです。
実際に見た人がそのようなのですから、私たちがキリストの千年王国の後の新天新地について正しく把握できるわけもありません、
この個所について私は、私の推測or想像を述べることしかできませんので、その程度に捉えておいてください。
トミーさんは、今現在においては、このように捉えたのかな、という程度に読んでください。

 天使はヨハネに、「小羊の妻である花嫁」を見せてあげる、と語られたのに、ヨハネが見たのは天から下りてきた新エルサレムでした(10.11)。
そして新エルサレムの外観は、神の栄光に輝き、最も高価な宝石すなわち透き通った碧玉のように見えたのです(11)。

 22.23節には“22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
〔それにしても、都には、どこにも神殿が見あたらないのです。というのも、全能の神である主と小羊とを、都のどこででも、自由に礼拝できるからです。(リビングバイブル)〕
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 新エルサレムに神殿はないのです。主イエス様の十字架上の贖いが成し遂げられた時、至聖所と聖所を隔てていた神殿の幕が上から下までまっ二つに裂けたことを思い出します(マタイ2751)。
キリスト者は祭司です(1ペテロ29)。キリストの贖いの成就前は、当番の祭司は聖所には入れても至聖所には入れず、至聖所には大祭司が1年に1回入れるだけであったのですが、祭司には至聖所も開かれたのです。それどころか新天新地においては建物としての神殿さえもないのです(22)。神殿は、聖であられ永遠に存在しておられる万物の創造者である全能の主なる神と子羊すなわち神の御子なのです(22)。
このような表現なのですから、花嫁も動くことの出来ない建造物であるはずがありません。
 子羊、すなわち神の御子の花嫁は教会です(エペソ522-32)。花婿キリストと花嫁教会(キリスト者の総体)はすでに天において結婚式を挙げています(黙示録196-8)。
それらのことを考えると、花嫁(キリスト者の総体)が新エルサレムという建物に変化したのではなく、新エルサレムの中に、御父なる神と御子である花婿と花婿の妻である教会が新エルサレムの中にいるということが推測されます。
その都を外から見ると、その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった(11)、と見えたというのでしょう。
1
コリント15章によると、花嫁は「栄光あるもの」(43)、「キリストに似たもの」(48.49)とされているのです。ただただ主の恵みによって。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」とパウロは述べています(ローマ818)。

 次にヨハネが見た都の大きさと構造について、ヨハネは黙示録2112-21に次の様に記しています。
12 都〔新エルサレム(筆者挿入)〕には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
15
 私に語りかけた天使は、都と門と城壁を測るために、金の物差しを持っていた。
16
 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
〔かつての幕屋や神殿の至聖所は立方体でした。新エルサレムも立方体です。/大きさやその他の参考記述:スタディオンは185mなので、12000スタディオンは2220kmとなり、新エルサレムの大きさは縦、横、長さが各2220㎞のキューブ(立方体)でできているというのです。現地球の対流圏は約10㎞の高さ、成層圏の高さは約10-50㎞、国際宇宙ステーションの高度は約400㎞、人工衛星は約150-400㎞に存在しています、大気圏は約800㎞、大気圏の外は宇宙空間に属します。新エルサレムは底辺の縦横の長さが約2200㎞立方体ですから、新天新地の地面は平らなのかもしれません。そうすると新天新地の地は球体ではないのかもしれません。あくまでも想像です。新天新地ですから現在の宇宙のありようと異なっても良いわけです。主なる神様はどのように創造なさるのでしょうか。楽しみです。(筆者挿入)〕
17
 また、城壁〔城壁の厚さ(リビングバイブル)〕を測ると、百四十四ペキス〔1ペキスは44㎝、144ペキスは約63.4m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2122-26には新エルサレムの内容と、新エルサレムの外には諸国の民が住む場所があることが記され、諸国の民も主なる神と子羊の光によって光を得、かつ諸国民の王たちは諸国民の栄光と誉を都に携えて礼拝に訪れることが次のように記されています。
22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
24
 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。
〔その光は全世界に及ぶのです。世界中の支配者たちが、それぞれの栄光を携えてやって来ます。(リビングバイブル)〕
25
 都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。
26
 人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2127には次のように記されています。
27 しかし、汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は誰一人、都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入ることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。
“汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は誰一人、都に入れない。”とありますが、この範疇の人たちは、黙示録218に“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。”(聖書協会共同訳)と記されている人たちのことでしょう。この人たちは子羊の命の書に名が記されていないのです(黙示録2012.15)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新天新地において、私たち新生したキリスト者、その総体である花嫁は、とこしえに花婿キリストと御父と共に愛の交わりの中にいることを教えてくださり感謝します。
そのような未来が待ち受けていることを望みとしておきながら今日も主に在って歩む一日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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